福ちゃんの散歩道

コロナ禍で関空での遊びも卒業、栂地区ウオーキングコースを中心に近場の日々の散歩で何か見つけよう。🚶‍♂️🚶‍♂️

大阪光の饗宴 2017 中之島 東会場ゾーン No.3

2017-12-25 04:00:46 | ★気儘にぶらりシャッター📷思い出‼️
難波橋を潜り抜けると
スノーマンパーク

通り抜け ばら橋を渡ると
光の実 アートプロジェクトゾーン
昨年より輪が広がった様だ
子供達や来園参加者がその場で参画できるワークショップは300円






阪神高速高架下を潜り抜ける
命の光ゾーン

天神橋方面へ


フイルターに息を吹きかけて







船に乗ってみよう


堂島川を少し下り


左手にばら橋の下を潜り土佐堀川を下る

難波橋を潜る



栴檀木橋でUターンする




中之島東端を回って戻る。噴水は残念ながらダメでした




あまり寒きもないクルーズでした
堂島川沿いを帰っていたら
難波橋の下を観光船が下った。結構波がある




さあ、帰ろう

大阪証券取引所



難波橋のライオン像に別れを告げた。また来年も元気で来れる事を願いながら❣️


2017.12.21

行政も後押し、冬のこのシーズンが盛り上がる。

昨年より人出も多く感じた

シニアの

早足スナップ写真、よくウオーキングしました。

●余談

難波橋について

難波橋辺りの最初の橋は、元をたどると704年ごろに行基によって架けられたといわれている。天神橋、天満橋と共に浪華三大橋と称され、最も西(下流)に位置する。「浪華橋」とも表記され、明治末期まで堺筋の一筋西の難波橋筋に架かっており、橋の長さが108間(約207m)もの大型の反り橋だったという。1661年(寛文元年)天神橋とともに幕府が管理する公儀橋とされた。

1766年(明和3年)、山崎ノ鼻と呼ばれる中之島東端の新地が難波橋の近くまで埋立造成され、難波橋からの眺めは絶景と言われた。1876年(明治9年)に鉄橋に架け替えられたが、このときに中之島が上流へ拡張されたため、以降の難波橋は中之島を跨ぐかたちとなっている。なお、1891年(明治24年)に山崎ノ鼻を含む東端は中之島公園となった。

1912年(明治45年)に大阪市電が天神橋筋六丁目まで延伸される際、市電敷設の反対運動が起こったため、1915年(大正4年)に一筋東の堺筋に新橋が架けられた。パリのセーヌ川に架かるヌフ橋とアレクサンドル3世橋を参考にして製作されたと言われるこの新橋が現在の難波橋である。

当初は難波橋筋に架かる旧橋と区別するため、堺筋に架かる新橋は大川橋とも呼ばれた。新橋は当初中之島を跨いでいなかったが、1921年(大正10年)以降、大川の浚渫で出た土砂埋め立てによりさらに上流へ拡張された中之島公園を跨ぐようになった。中之島通敷設の際に旧橋は撤去され、新橋は名実共に難波橋となった。
老朽化が目立ち始めた1975年(昭和50年)に大阪市によって大改修が施され、現在に至る。

✳️橋の南詰めおよび北詰めには、最上級の黒雲母花崗岩を素材にした獅子像(=ライオンの石像、天岡均一作)が左右両側にあるため、「ライオン橋」とも呼ばれている。このライオンは天王寺動物園の当時非常に珍しかったライオンがモデルと言われている。像は左側が口を開く阿形像、右側が口を閉じる吽形像となっており、狛犬(狛犬はライオンがモデルといわれる)の形式を採った獅子=ライオンであると言える。これについて、江戸時代この地に白玉稲荷神社(豊国神社)が祀られていたためであるとの説もあるが、直接の関係はないとされる。相場師として成功した松井伊助の和歌山の別荘六三園には松井が複製した像があることから、松井の寄付によるとの説もあるが、子孫はこれを否定している。

像は、当時の池上四郎大阪市長が天岡均一に依頼して作られた。

欄干の「みおつくし」
中之島水上公園計画の一環として設計された事により、石橋風の外観、公園と一体となった階段、高欄の獅子像、親柱にはペディメントやメダリオンをあしらい、市章である「みおつくし」をアレンジした意匠が親柱や欄干に模られている。1975年には3年間に及ぶ補修工事により戦時中に金属供出で失われた欄干や橋上灯が復元され、近代大阪を彩った美しい外観を保っている。