「さらば青春、されど青春。」中道真一はなぜ救世主となったのか
2018.06.07(liverty web)
5月12日に全国の映画館で劇場公開された映画「さらば青春、されど青春。」(配給:日活)。公開初週は5位にランクインし、公開4週目に入っても、「アベンジャーズ」「のみとり侍」「友罪」を押さえて8位にランクインしている。
主人公の中道真一は、徳島の小さな町からコツコツ勉強を積み重ね、東京の名門大学に入学する。大学時代、失恋や挫折といったさまざまな青春の葛藤を積み重ねる。そして、司法試験を目指す道から、大手総合商社への就職を決め、卒業間際の三月、突然"天上界"から啓示を受け始める――。
その後も、東京で、ニューヨークで、名古屋で、商社マンとしての激務を続けながら、真一は宗教家として水面下での蓄積を続けていく。そして、人生の決断をする――。
実に謎の多い人生である。なぜ、平凡な家族から生まれた真一に、これほどまでに特殊な運命が待ち受けていたのか。
真一の生き方のどこに、彼が救世主となり得る要素、伏線が隠れていたのだろうか。
以下、個人的な文芸評論になるが、筆者なりに論じてみたい。
(1)中道真一は、徹底的な努力家人間だった
真一の周りに現れては去っていくのは、同じ世代の、普通の人々だ。しかし、真一はどこか、周りの人々とは違う存在だ。
中道真一は、徹底的に努力を続けるタイプの人間だった。大学時代の真一は、ほとんど遊んでいる様子が無い。喫茶店で夜遅くまで本を読み、論文の執筆や試験勉強に励む。
大学生というのは、受験勉強を終えて、遊び人になるのが普通だ。酒や麻雀などのこの世の遊びを、就職まで謳歌する。友人の山下は週刊誌を読みふけり、真一の兄の誠也は大学卒業後も実家でプラプラ「高等遊民」をしている。そんな中、真一は、周りの人間に全くと言っていいほど影響されない。自分の道を歩む姿勢が、揺らがないのだ。
その生き方は、社会人になっても続く。お酒の席に付き合わされるのは嫌で、朝早くから起床して本を読み、原稿を書き溜める日々。
時には、挫折が訪れる。
「努力したって、報われないじゃないか」
人間なのだから、そんなことだらけだ。普通の人間であれば、人を恨み、世を恨み、「心折れる」といったところだ。
しかし、真一は、「何かを求めて、努力し続ける」という姿勢を貫いた。挫折の中から、新たな発見をする。自分が失敗した理由を探究し、新たな自分を作り上げるのだ。
上映後の感想では、真一の大学時代の生き方を"進研ゼミ"などと揶揄する批評もあった。確かに、「人生遊んで楽しく暮らすべきで、自分だけそうしないのはカッコ悪い、損した気分」と思うのが普通の価値観かもしれない。
しかし、どんな芸事やスポーツにでも通ずる法則だが――どこまでも、誰よりも、努力し続けた人は、必ずや、前人未到の境地にたどり着く。
歴史上の偉大な宗教家や哲学者の本を徹底的に読み続け、自分自身の生き方に反映させていく、ということを続けたならば、必ずや、普通の現代人が経験することのないような境地にたどり着くことだろう。
真一は、確かに、他の人が見たことのない世界を見たのではないだろうか。彼自身の、たゆまぬ努力によって。
(2)中道真一は、心清き人間だった
映画の中で、真一が、重要な「回心」をするシーンがある。
これまでの自分を振り返ってみて、「僕は、自分のことばかり考えて生きてきた」と気づき、「生まれ変わりたい。これからは、多くの人たちのために生きていきたい」と決断するのだ。
実は、この「観の転回」が、その後の"霊的覚醒"の大きな布石になっている。
早々と官公庁への就職を決めていく真一の友人たち。「いかにして自分が出世するか」「いかにして自分だけ得をし、既存社会の成功者のルートに滑り込むか」ということに汲々としている。「真一の成績なら、教授の推薦で日銀にも入れるだろうに」と説く友人に対し、真一は、「自分の人柄を買ってくれた常務の心意気に応えたい」と、商社に就職する決断を揺らがせない。
会社に入っても、上司や外国人の同僚は、真一の個性や能力を買い、評価しているにもかかわらず、先輩や同僚は、真一の仕事ぶりに嫉妬し、徹底的にいじめることとなった。「出る杭は打たれる」。日本社会ではよくある光景だ。
けれども、真一は、最後まで、自分が正しいと思ったことを貫く人間だった。他人におもねることなく、他人を蹴落とそうとすることなく、自分の信念に対して忠実だった。
独立のために会社を辞める決断をするときにも、最後の葛藤となったのは、会社への「恩」や家族や恋人への「責任感」だった。自分の欲得や、他の人からの評価を気にしている様子は、微塵もない。こうした葛藤を続ける独立間際の真一に対して、隙あらば上司に讒言しようとする浅ましい同僚の姿は、強烈なコントラストだ。
真一は、最後まで、自己保身や自分の欲より、「他の人のために役に立ちたい」という志を優先する人間だったように見える。
そうした人間だったからこそ、真一は、いつの間にか、出世競争に明け暮れる商社の中で、ひときわ浮き上がった存在になっていった。周りから一目置かれる一方で、低俗な世界の中に、真一の居場所がなくなっていく。
そして、偉大なる聖人の世界へと、扉が開き始める。
「心清き人は幸いである。彼らは神を見るであろう。」聖書の言葉である。
(3)中道真一が憧れたタイプの女性は…
真一の惹かれた、大学時代と会社時代の二人の女性は、ただ、偶然、好きになっただけなのだろうか。
否、真一の姿を見て、大学時代には「失恋に苦しむ普通の学生」で、名古屋時代には「相手にプロポーズするかどうかで迷う、普通の青年」だ、と思ってしまったら、実は大間違いだろう。
真一が大学時代に惹かれた南理沙は、抜群に成績が優秀だった。周りの男子学生が畏れ多くて関わりづらいような、高嶺の花だった。その禁欲的に勉学に励む姿には、真一に通じるものがある。
南理沙。
真一が名古屋時代に交際した額田美子は、「難攻不落の額田美子」と呼ばれるような女性だった。将来はジャーナリストとしての独立を目指す、インディペンデント(独立不羈の精神をもつ)な女性であり、会社内の普通の男性たちなど全く眼中にも無いようだった。
額田美子。
二人の女性は、決して、軽々しい付き合いを好む人間ではない。俗物的な世界から遥か離れた存在なのだ。いわば、「聖女」のような存在である。
真一が抱いた思いも、単なる恋愛感情であったというよりは、そうした「理想」に対する愛であったとも言えるだろう。そんな出会いが実るのも、お互いに、そうした「理想」に惹かれ合う感覚があったからなのだろう。
普通の人間であれば、自分の中で、「これは純粋な愛だ」と思い込んでいるものが、実は、欲であったり、執着であったりすることが多いものだ。
この意味においても、真一の愛は、容姿や欲望のために関係を結ぶ世の中の数多くの学生や青年とは、一線を画している。
中道真一は、どこまでも高潔なものに惹かれるのだ。
◆ ◆ ◆
中道真一は、平凡な青年に見えて、実は、大いなる精神を宿している。
真一の友人や同僚たちは、一見、非凡な才能があり、世間を賢く生き渡っていきそうな人たちだ。しかし、そうした人たちは、自分の生きやすい道を選んでいるが、人生の中において大切なことに気づかないままのようだ。それは、人間の常であり、姿を変えた私達でもあるだろう。
そうした世間一般の価値観に、「何かが違う」と感じ、一見平凡な中に、心清く、高潔な理想を求め、努力を続ける人。偉大なる宗教家への道は、すぐそこに迫っている。
現代に生きる私たちが、「何かが正しくない」「何かが欠けた」考え方をしているために、他者とぶつかり、失敗、挫折、転落に遭い、失意に苦しむ時。「何が間違っていたのだろうか」と悩み続けるとき。
「中道真一は、人生の折々で、どういう選択をしていただろうか」
そう思い返せば、人間にとって正しい道とは何なのか、答えを見つけ出せるに違いない。
偶然に救世主に選ばれたのではないだろう。中道真一の生き方そのものが、悩み苦しむ人々を救う光となっているのだ。
書籍『太陽の法』第六章には、映画「さらば青春、されど青春。」の題材となった、大川隆法総裁の若き日の思いがつづられている。
人生に悩み、苦しむ日々に、どうか、御一読いただきたい書である。
(山崎一静)
【関連書籍】
幸福の科学出版 『太陽の法』 大川隆法著
https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=153
【関連情報】
映画「さらば青春、されど青春。」をより深く理解できる、大川隆法総裁の法話
- 「映画『さらば青春、されど青春。』創作のヒント」(2018年5月22日~)
- 「聖クララの霊言」(2018年5月6日~)
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