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終戦の日に幸福実現党が式典 戦没者の慰霊と未来への誓い

2018年08月16日 06時33分41秒 | 日記

終戦の日に幸福実現党が式典 戦没者の慰霊と未来への誓い

終戦の日に幸福実現党が式典 戦没者の慰霊と未来への誓い

 
東京都内の幸福実現党本部で講演する、元特攻隊員の上田氏。

 

73回目の終戦の日を迎えた15日、幸福実現党の釈量子党首をはじめとする役員たちは、東京・千代田区の靖国神社に昇殿参拝。その後、港区赤坂の党本部で、終戦の日式典「先人への感謝と供養、そして未来へ」を開催した。

 

式典には、党員ら約300人が参加。特別企画として、「元特攻隊員が見た、戦後日本と あるべき姿」と題し、元水上特攻隊員の上田忠氏の講演が行われた。

 

上田氏は志願兵として1945年5月に水上特攻艇「震洋」で沖縄に向けて出撃し、グラマンの襲撃を受け負傷するも奇跡的に一命をとりとめた。それらの経験から、戦時中の悲惨さばかりを伝える現状に対して、戦争の原因までを明らかにする必要性などを語った。

 

また、上田氏は「先の大戦はアジアを解放するための戦争だった」と力説。いまだ日本は本当の独立ができていないとして、「日本を取り戻さないと、アジアや世界の平和も実現できない。そのことを一番、真面目に考えているのは幸福実現党。皆さんが国民に信頼の根を下ろし、日本の独立を実現する核になってほしい」とエールを送った。

 

参加者に語りかける釈党首。

続いて、釈量子党首が講話を行い、2020年東京オリンピック以降の未来が見えない日本の現状を憂い、幸福実現党は日本の未来ビジョンを明確に描いており、世界をけん引する力になると訴えた。

 

その後、大川隆法党名誉総裁が2013年に発表した「大川談話」(文末に全文)を奉納。レクイエム演奏、祈願や献花を通じて、戦没者への感謝と慰霊を行った。

 

釈党首の講演を熱心に聞き入る参加者。

 

 

「大川談話 ─私案─」

 

わが国は、かつて「河野談話」(一九九三年)「村山談話」(一九九五年)を日本国政府の見解として発表したが、これは歴史的事実として証拠のない風評を公式見解としたものである。その結果、先の大東亜戦争で亡くなられた約三百万人の英霊とその遺族に対し、由々しき罪悪感と戦後に生きたわが国、国民に対して、いわれなき自虐史観を押しつけ、この国の歴史認識を大きく誤らせたことを、政府としてここに公式に反省する。

 

先の大東亜戦争は、欧米列強から、アジアの植民地を解放し、白人優位の人種差別政策を打ち砕くとともに、わが国の正当な自衛権の行使としてなされたものである。政府として今一歩力及ばず、原爆を使用したアメリカ合衆国に敗れはしたものの、アジアの同胞を解放するための聖戦として、日本の神々の熱き思いの一部を実現せしものと考える。

 

日本は今後、いかなる国であれ、不当な侵略主義により、他国を侵略・植民地化させないための平和と正義の守護神となることをここに誓う。国防軍を創設して、ひとり自国の平和のみならず、世界の恒久平和のために尽くすことを希望する。なお、本談話により、先の「河野談話」「村山談話」は、遡って無効であることを宣言する。

 

平成二十五年 八月十五日

 

【関連書籍】

幸福の科学出版 『正義と繁栄』 大川隆法著

https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=1684

 

幸福実現党刊 『公開霊言 東條英機、「大東亜戦争の真実」を語る』 大川隆法著

https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=955

 

【関連記事】

2018年8月13日付本欄 「原爆投下は正しかった」という米世論 次なる核戦争を防ぐために

https://the-liberty.com/article.php?item_id=14756

 

【終戦の日に読む英霊列伝】インドネシアを解放した聖将・今村均(2015年9月号より)

2018年08月16日 06時31分14秒 | 日記

【終戦の日に読む英霊列伝】インドネシアを解放した聖将・今村均(2015年9月号より)

【終戦の日に読む英霊列伝】インドネシアを解放した聖将・今村均(2015年9月号より)

 
今村中将の長男・和男さん。左上の額には、今村中将による直筆の揮毫が飾られている。

 

平成最後の「終戦の日」となった。本欄では英霊に感謝を捧げるべく、過去に掲載した「英霊列伝」を再掲する。

 

◆             ◆            ◆

 

1942年、インドネシアの子供たちに歓迎される今村中将(中央)。

 大勢のインドネシア人の子供に囲まれ、笑顔を見せる日本人の写真がある(右)。まるでスポーツ選手や俳優が熱狂的なファンに迎えられているかのようだ。しかしこれは、大東亜戦争の最中、日本軍がオランダの植民地だったインドネシアを解放した後に撮られたもの。この日本人こそ、インドネシアを解放した聖将・今村均・陸軍中将だ(最終階級は大将)。

「聖将」と呼ばれる所以について、長男の和男さん(97歳、東京都在住)はこう語る。

「親父は子供好きでした。インドネシアの子供を日本に招いて教育したり、日本の戦災孤児の施設を作ろうと各自治体に掛け合っていました。宗教の素養がありまして、戦争中もキリスト教の聖書と歎異抄(注1)をズボンのポケットに入れていたほどです」

 そんな聖将が統治したインドネシアでは、驚くべき光景が見られた。今村中将が司令部に出勤するたびに、地元の子供たちが行進して後を追うのだ。オランダの圧政から解放された喜びだけでなく、今村中将の融和的な統治や人徳が、インドネシア人の心を掴んで離さなかった。

(注1)浄土真宗の開祖・親鸞の教えを弟子の唯円がまとめたもの。

 

 

「東亜の解放を一生懸命やらなければいけない」

 1600年ごろから植民地となったインドネシアでは、オランダ人が現地人に暴行したり、強姦しても罪に問われなかった。行政を握り、インドネシア人に教育の機会すら与えない差別を行った。現地で独立を求める機運が高まると、3人以上の立ち話まで禁じた。現在の中国とチベットの関係にそっくりだ。

 そうした欧米のアジア支配が続く中、大東亜戦争中の日本は「アジア解放」を掲げて戦った。

 今村中将にも、アジア解放に強い信念があった。和男さんはその理由をこう語る。

「親父にはインド駐在の経験があります。その時、イギリスがインドを植民地にするために、ものすごく残酷なことをやっていたと知り、『何としても、植民地の方々を自由にして差し上げたい』と思いを強くしたのです。戦争に行くときも、『東亜の解放が本来の目的であるならば、一生懸命やらなければいけない』と言って、家を出ました」

 今村中将は1942年3月、第十六軍司令官として、インドネシアに上陸。たった9日間でオランダ軍を駆逐し、約350年続いた植民地支配を終わらせた。

 今村中将は、オランダが投獄していた独立運動家のスカルノらを解放し、政治活動の自由を与える。また、オランダ人が独占していた公職をインドネシア人に置き換えていった。

 軍政が落ち着いた42年11月、今村中将は第八方面軍司令官として、アメリカの反攻が迫るパプアニューギニアのラバウルに異動になる。

「親父はラバウルに向かう途中で山本五十六元帥にお会いして、『陸軍は自活して戦ってくれ。海軍は余力がない』と言われたようです。補給が途絶えた南方戦線では、兵士の半分以上が餓死しましたが、ラバウルでは、親父が自給自足のために畑をつくらせていたので、10万人の兵士が飢えずに済んだのです。

 また親父は、敵に備えて塹壕も掘りました。終戦までに掘った長さは、全部で東京から名古屋ぐらいになり、爆撃されてもびくともしないものでした」(和男さん)

 今村中将の指導で要塞化した、ラバウルの陣地を見たアメリカは、同地への上陸を諦めた。

 

 

戦犯裁判で「全ての責任は負う」

 日本の敗戦後、世界各地で多くの日本兵が戦争犯罪人(戦犯)として裁かれた。無実の罪で死刑になるなど、乱暴な判決が横行した。今村中将がいたラバウルでも、オーストラリアが裁判を行った。

「親父はラバウルではほとんど戦っていませんから、最初に進駐した豪州司令官は、『戦争犯罪なし』と報告しました。すると本国が『何百人は有罪』といった指令を出したため、やむなく戦犯を"つくった"のです」(和男さん)

しかし、裁判で今村中将は「全ての責任は自分が負うから、部下は日本に帰せ」と主張。10年の有期刑判決を受けた。

 さらに、オランダも今村中将を裁こうとした。戦時中、日本軍はインドネシア人に軍事訓練を行い、祖国防衛義勇軍(PETA)などを組織させた。戦後、オランダ軍が植民地支配を再開しようと"再侵略"すると、PETAなどが中心となってオランダと戦った。従順だったインドネシア人が、日本の軍政を通じて、独立戦争を起こしたのだ。>

「オランダにとってインドネシアを取られたのは大損害ですから、日本には恨み骨髄です。当然死刑の求刑でしたが、親父としては、インドネシアのために死んでも、何も悔いることはありませんでした」(和男さん)

 裁判の間、独立戦争を指揮するスカルノは、獄中の今村中将を助けようと「あなたを奪回する計画がある」と伝えた。だが今村中将は「厚意には大変感謝はするが、奪回には応じない」と潔く断る。その後の49年に、インドネシアは宿願だった独立を果たし、今村中将は無罪になった。

 

 

「あなたのことは教科書で教わった」

 帰国した今村中将は、戦後もインドネシアに関心を持ち続けた。初代大統領に就任したスカルノは、来日すると必ず今村中将のもとを訪れた。今村中将は、経済に疎いスカルノに、経済に強い副大統領のハッタを重用するよう助言するなど、インドネシアの繁栄を願い続けたのだ。

 和男さんもインドネシアと縁が深く、植林事業などで訪れた時のことを少しうれしそうに振り返る。

「現地の人が私を親父と間違えて、『ジェネラル・イマムラ』と呼び、『あなたのことは教科書で教わった』と言うのです。小学校で親父のことを教わるようです」

 和男さんは今村中将の人柄について、「親父は戦時中、部下を失うたびに『僧侶になりたい』と話していました。本来、非常に宗教的な人だったのです」と語る。

 

 

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終戦記念日に口永良部島に「噴火警報」が出た意味とは?

2018年08月16日 06時30分07秒 | 日記

これだけ知っトクNews(8月15日版) 終戦記念日に口永良部島に「噴火警報」が出た意味とは?

 

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