ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

ある天文学者の恋文

2017年01月22日 19時56分07秒 | 映画
この映画に関連して2回にわたって記事を書いたのだが、べつの視点からもう一度見てみたい。

まずはこの映画の特徴の一つは、恋愛映画でありながら恋人同士が一緒の場面がほとんど無いという事に気が付いた。
当人同士が一緒に登場するのは、映画の初めでのホテルでの密会の場面だけなのである。
この場面です。


その後はヒロインが恋人を回想したり、相手からのビデオメールを一方的に見るだけなのである。
ヒロインの目の前に、恋人が実体として存在しない手法でこの映画は作られている。
早い話がこの映画はヒロインのエイミーの「独り芝居」の中に相手の恋人の回想などがおかれているのである。この回想の中でもエドとエイミーが同時に登場する場面は、ほとんどありません。


映画の初盤にこんな場面がある。
エイミーが受けている天文学の講義の最初に、恋人のエドの死が告知される。
すぐにはエドの死を受け入れられないエイミーは、次から次へと送られてくるエドからのメールやビデオメールが何故届くのかを確かめるために、追及の旅へと向かうのである。
エイミーが旅の分岐点に差し掛かるとエドからの新しいメッセージが届き、その指令に基づきまた旅を続けることが出来る仕掛けになっている。
旅の途中でエイミーは死んでいる恋人と巡り合う、という筋建てになっている。何とも不思議な物語の構成なのである。

さて、現実問題としてこの映画を撮るときにエイミー役のオルガ・キュリレンコは苦労したことと思います。
相手役が目の前にいない状況で恋人に思慕の情を感じなければならないことになりますので、演技の上から言っても役造りは大変だったでしょう。
舞台の芝居や映画でほとんどの場合には、相手役が現実にいてその相手俳優と一緒に(またはその人に向って)演技をするのが普通です。
何度も言うようですが、独り芝居の恋愛映画(映画でなくても芝居でも)はめったにない設定です。

この点から言ってもエイミー役のオルガ・キュリレンコの自然な演技には光るものがあります。




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