ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

『広重ー雨、雪、夜』展を見るーその1-

2019年07月12日 17時01分22秒 | 美術 アート
八戸に所用があり、その帰り岩手県立美術館に立ち寄ってみました。そこでは現在、表題の美術展が行われているのです。歌川広重は葛飾北斎と並ぶ錦絵の代表作家なのは言うまでもありません。この美術展では彼の代表作である「東海道五十三次」のすべての版画をはじめ同時代の他の作家の版画も数多く展示されていました。
広重は本名の姓は安藤なので、かっては安藤広重と言われていた時期もありました。歌川門下に属していたので「歌川広重」と言う雅号で作家活動をしていたのである。余談ながら歌川広重を名乗る浮世絵作家は他に二人がいる。二代目、三代目の歌川広重がいるのである。歌舞伎などで名跡を継ぐのと同様だと思えばよいであろう。
秋田県立美術館で広重の「東海道五十三次」展(2019年1月12日 から 2019年3月21日 )が行われたことがあった。そのときは2軒の版元の作品を同時に展示すると言うユニークな美術展であった。ちなみにその二つの版元の名をとって各々は「保永堂版」と「丸清版」と呼ばれていた。
今回の岩手県立美術館での広重の「東海道五十三次」は「保永堂版」の版画の展示であった。

さて、この絵画展には<雨、雪、夜>の副題が添えられている。
木版画で雨が落ちてくる様子などの細かい線がどのように表現されているかにわたくしは興味があったのである。
西洋の銅板エッチングでは版は一つしか作られなく、多くの場合はその版にインクをのせ単色で印刷されていたそうである。色付けが必要なときだけ彩色家が摺りあっがた単色の印刷物に色を施しました。色付けされた作品には彩色者の名が画家の名前と共に記されているのが普通です。
このような西洋の方法とは違い日本の木版画は下絵作者である絵師と木版を彫る彫師と印刷する摺師との分業とで成り立っていました。
日本の場合の木版画では絵師以外の作者の名前が作品に記されることはありませんでした。絵師である歌川広重の名前だけが作者としてあったのです。絵師以外の人たちはどんなに難しい作品を彫ったり摺ったりしてもその作業は職人の仕事と考えられ作品には名前が残ることはなかったのです。
このたびの錦絵の出来栄えを見ると、絵師よりも彫師と摺師の仕事の方が実は大変だったのではないかと感じました。江戸の錦絵は多色摺り版画ですので、使用される色に応じた木版が必要になります。彫られた版の位置がずれると摺ったときに絵柄が重なったりして作品を台無しにしてしまいます。またそれを摺る時も原作の絵に忠実に色を再現されなければなりません。特に空の色や海の色のグラデーションなどの色付けには高い技量が求められます。
なぜならグラデーション用の版は作られないからです。インクの載せ具合によりグラデーションの程度が決まってしまうからです。出来上がったものがどの版画でも同じ色合いになるにはそれこそ職人芸が要求されたのだと想像できます。
また、雨の落ちてくる情景などの無数の雨筋を彫る彫師の作業も大変な根気の要ることと想像します。雨筋の線の太さは同じものでした。
このようにして出来上がった日本の錦絵が、西洋の印象派の画家たちに感嘆を持って受け入れられたのにはその製作に携わった職人の高い技量があったのだと、今回改めて感じた次第です。
この美術展で気になった作品の印象などはまた別の機会ということにして本日はおしまい。
最後に美術館でいただいたチラシの裏面も見ていただきましょう。



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