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日本の将来---5.展望(16):ヒューストンの昨今

2015-03-25 | 日本の将来
5.展望(15)から続く。

ローカルとグローバルを検討する前に、今回は街の発展と景観の変化について最近気づいたことを紹介する。

筆者は、日本や東南アジアの途上国では経済の発展と同時に街や地域の景観が大きく変わると思いこんでいた。経済発展でまず、でこぼこ道が舗装され、新しい道路も開通する。昨年5月に訪れたハノイも、上空から見れば赤土がむき出しの道路や新空港の工事現場だらけだった。

しかし、街の中身が大きく変わっても、外観はほとんど変化しない地域があることに最近気づいた。

前回に図示した駅前広場であるが、その広さは十分かとグーグル・マップでいくつかの駅前広場をチェックした。そのとき、ついでにチェックしたテキサスのヒューストンは、ダウンタウンのビルの林立は別としてここ50年近くほとんど外観が変わっていないことに気づいた。近年、ヒューストンではLRT(路面電車)が走り始めたが、それは既存のメイン・ストリートにレールを敷いただけ、航空写真に写る幹線道路はほとんど変わらない。

そこで今回は、ヒューストンに焦点を合わせて昔と今の状況を比較する。

筆者は、ヒューストン大学に1966年8月から69年2月まで在学した。45年ほど昔の話である。その後もときどき訪れて、この街にかなり詳しくなった。

昔のヒューストンは石油化学工業の街、もっと昔は綿花の積出港だと予備校で教わった。そこに60年代からNASAのアポロ計画、メディカル・センターの臓器移植が加わり、この地域の中身は大きく変化した。また、アポロ計画と臓器移植では新しいコンピューター・ネットワークとデータベース・ソフトが必要になった。

なかでも、研究機関や大学を結ぶコンピューター・ネットワーク、ARPANET(アーパネット)の開発は全米にわたる国家プロジェクトだった。そのARPANETプロジェクトはTCP/IP(Transmission Control Protocol/Internet Protocol)を生み出した。67年の授業では大気圏突入時の有人カプセルの温度変化を解析した。その解析ではARPANETを利用していたが、ネットに接続するソニー・テクトロ社の画面は解像度が優れていると教授が学生たちの前で日本製品を褒めてくれた。

TCP/IPは今日のインターネットの基本技術である。また、DBMS(Database Management System:データベース・ソフト)も60年代後半に大きく進歩し、今日の世界的なIT社会を支えている。今後は、IoTやM2M(Machine to Machine)から生じるメガ・データの処理技術も楽しみである。

筆者が学生だった当時、先生たちは授業が終わると早々にNASAに駆け付けるので、授業後に落ち着いて質問に答えてもらえないと学生から苦情がでた。

その頃の日本は学園闘争にうつつを抜かしていた。その混乱は、なぜか猿山のケンカに見えたが、そのために日本のコンピューター教育が遅れた。その遅れは年ごとに拡大し、2000年代になって、ようやく日本企業もインターネットやe-mailの世界に参加した。その頃、にわかにグローバル化という言葉が流行りだし、その言葉だけが独り歩きを始めた。覆水盆に返らず・・・海外の日系工場のコンサルティングで感じることは、日本企業(本社)のコンピューター・システムへの認識の低さにため息が出た。この意味で、当時の学生を含む教育界の罪は重い。・・・大学のグローバル化は別の機会に検討する。

西海岸や東海岸の人には田舎と映るが、医学と宇宙分野では、ヒューストンは発展の震源地の一つだった。しかし、60年代から今日まで、ヒューストンの景観は大きく変わったとは見えない。2010年の人口は210万人、今も昔も全米第4位の都市だが、実際には人情豊かな小さな地方都市のように感じる。いつ来ても、タクシーや見知らぬ人もフレンドリー、住めば都である。

そのヒューストンのダウンタウンと大学のキャンパスをグーグルで覗いてみると次のような状況である。

下の写真は現在のヒューストンの航空写真、ダウンタウンは小さく、その右下方向約2~3Kmにヒューストン大学のキャンパスがある。地図にはないが、ダウンタウンの左上方向には広大な落葉森林が広がっている。その中に高級住宅が立ち並び、秋の紅葉は美しい。そこに住むホスト・ファミリーとのハロウィーン、クリスマス、メキシコ旅行、ボランティア―活動などの思い出が蘇える。

  現在のヒューストンのダウンタウンの航空写真
  
  出典:Google Map(as of 2015/03/21)

80年代にダウンタウン西方約10kmに新しいショッピング・モール、ギャレリアができ、ダウンタウンの商店街は急激にさびれた。そこで、市は人出を取り戻すため、LRT(ライトレール:写真の赤い破線)を導入した。

下の写真はダウンタウンの現在の姿である。画面右上から左下方向にメイン・ストリートが走っている。66年には一番高いビルは104mだったが、年と共に高層ビルが建ち並んだ。高層ビルが林立するにつれて、人々はビルからビルへと移動し、街路に出なくなった。真夏には電光掲示板に華氏104度(40℃)とでる暑さのせいかも知れない。
【参考:ダウンタウンのライバルであるギャレリアは全館空調⇒68年頃のマーケティングの授業で将来構想として街全体を空調するという話があった。他に、宇宙の真空工場など数々の面白い話を今も覚えている。ギャレリアではモール全体を空調しているので、アイス・スケート場もオープン・スペースにある。】

  ダウンタウンの様子
  
  出典:Google Map(as of 2015/03/21)

2003年の秋には、LRTのレールをメイン・ストリートに敷いていた。現在は下の写真のようにLRT(路面電車)が走っている。ダウンタウンの中心から5~600mも離れると、メイン・ストリートも写真のとおり昔の景色になる。

  
  出典:Google Map(as of 2015/03/21)

LRTがない60年代には、このメイン・ストリートには人と車が多かった。筆者がメーシー(Main St.の百貨店)前にうっかり駐車したら、10分ほどのうちにレッカー車で車を持って行かれた。バスで保管庫に車を引きとりに行ったのを覚えている。

66年にこのメイン・ストリートで、黒っぽい小さな不格好な車を見た。あれは何の車?と問うと“日本車”とのことだった。ハイウエーの高速・長時間運転はできない車とのことだった。もの好きがちょい乗りで使っているのだろうとのことだった。66~69年の間に日本車を見たのは、あの1台だけだった。

下の黄色い枠内はヒューストン大学である。66年の学生数は2万人程度、現在は3~3万6千人に増加した。校舎や会館が増えたが、270万平方メートルのキャンパスは昔と変わらない。自転車はなく、80年頃からマイクロバスが循環し始めた。

  ヒューストン大学のキャンパス
  
  出典:Google Map(as of 2015/03/21)

上の写真右上を左から右に斜めに横切るのはR45(45号線)である。ガルベストンの港(ヒューストン港)と海水浴場に直結している。ヒューストン港に日本船が入ると、テンプラ、とんかつ、味噌汁などをご馳走になった。明日はテンプラにするといわれて、嬉しくて眠れなかったのを思い出す。(台所付きの部屋だったが、自炊は一切しなかった。)

下の写真は、工学部の一角である。美術館は90年代の建物、「工学部Annex(付属棟)」の丸印に筆者の部屋があった。今もAnnexが存在するのには驚いた。あの部屋で、大学院で学ぶ傍らコンピューター・プログラミングを学生に指導していた。

  工学部の一角
  
  出典:Google Map(as of 2015/03/21)

2003年秋、ふたたび学びたくなり、聴講を申し込んだ。経済とシステム設計の講座を聴講した。【聴講については、グローバル工場---機能の階層(3)2012-01-24の「余談」を参照】

2003年のキャンパスを歩くとき、駐車中の車を“日本車?”“否”と一台ずつメーカーを確かめた。思い出すたびに確かめると、トヨタ、ホンダ、マツダなどの日本車が全体の6割以上を占めるのには驚いた。市内でも、筆者が乗る路線バスを追い抜く車も3割近くが日本車だった。日本がアメリカと貿易摩擦を起こしたのはよく理解できた。

66年に〝見にくいアヒルの子”のような日本車を見たが、その後35年で日本が自動車の生産大国に成長した。世の移り変わりの早さをひしひしと感じた。

聴講で受講した品質管理の教授に、当時(66年頃)の日本製品は“安かろう、悪かろう”だったが、今(03年)は違う。日本のもの造りには長い歴史があり、製品にはその国の歴史と国民性が表れると先生にいわれた。金がない学生にとっては、中古でも故障が少ない日本車に人気があるはよく分かる。日本車を経験した人が、金回りがよくなれば新しい日本車に乗る可能性もある。それはブランド・ロヤルティーの理論である。

下の写真にある図書館は改装されている。卒業する学期の学生は、申請すれば24時間利用できる机一つの個室を与えられた。世界各国の学会誌や論文やマイクロ・フィルムの蔵書も完備、市民も利用していた。多くの学生がパート・タイマーで働いていた。

日本には講義だけを英語化して「本学はグローバル大学」だということがある。文部科学省も大学のグローバル化を進めている。しかし、もし講義を英語化すれば、参考書籍、学会誌、試験、宿題、論文の英語化も必要である。また、学内図書館だけでなく公立図書館の英語書籍の収集、データベースの英語化、・・・やるべきことが多く、時間もかかる。先生の外国人化ではなく、日本の知的資産の英語化も忘れてはいけない。英語化が進む将来はさておき、過去の資産の英語化は、backlog(積み残し)として切捨てる?・・・さまざまな問題を一つずつ潰さなければならない。

筆者もこの大学で、受講コースごとに3~10冊ほどの副読本を授業初日に先生から指定された(assignment)。教科書と副読本が試験の範囲だった。そのとき先ず、この図書館で指定書籍を探した。中には、持ち込み参考書3冊まで許可のFinal Examinationもあったが、そのときもこの図書館に駆け付けた。この意味で、図書館のグローバル化を忘れてはいけない。さもなければ、洋食器に和食を盛り付けて、これが洋食というに等しい。【参照:グローバル化への準備---英語と他の言語(7)(2013-02-10)の最後のページ】

  大学の中心地
  
  出典:Google Map(as of 2015/03/21)

上の写真の大学本部には扇型の大講堂がある。そこでは年に一度の「International Day」で各国留学生が出し物(演芸会)を披露した。欧州・近東の学生には芸達者が多く、次から次へと出し物が続いた。残念ながら総勢十数人の日本人学生には芸達者がいなかった。

学生センターの中庭はなぜか日本庭園、その周りに郵便局、大レストラン、会議室などが並んでいる。2階の書店は教科書や参考書、衣類から記念品までの万屋(ヨロズヤ)だった。娘を連れていくとダウンタウンより楽しいといった。

上の写真下部のヒルトン・ホテルは「ホテル・レストラン経営学部(College of Hotel and Restaurant Management)」が経営するホテルである。80年ごろに新設された学部である。2003年秋の聴講ではこのホテルに滞在した。65歳以上の聴講は無料だったが、2ヶ月も聴講するとホテル代($100/day)は痛かった。しかし、貴重な体験はお金に替えられないと割り切った。

66年当時は、4年制学部の留学生は強制的にキャンパス内の寮(20階X2棟:Twin Tower)、大学院生は大学周辺に下宿することになっていた。筆者も大学の紹介で近くに下宿した。

下の写真の矢印は下宿先への道筋である。大学から3kmほど、矢印の先にある野球場の近くに下宿した。緑ゆたかな住宅街である。

  筆者の下宿先への道筋
  
  出典:Google Map(as of 2015/03/21)

下の写真に下宿先の家が66年と変わりなく写っている。

  下宿先の家
  
  出典:Google Map(as of 2015/03/21)

下宿した家をさらに拡大すると下の写真になる。大家さんはすでに引っ越したが、家は今(2015年)から47年前と全く同じである。右下の「○」の中に郵便ポストの影が写っている。ポストのタイプと位置も変わりはない。母の手紙が頻繁に届いた懐かしい郵便ポスト、非常に懐かしい。2、3の建替えはあるものの周辺の住宅もほとんど変わりない。この写真で50年近くの歳月が突然消え去り、浦島太郎になったような気がする。

  家の拡大図
  
  出典:Google Map(as of 2015/03/21)

1階の車庫は筆者専用だった。その右に2階への階段が見えるがその位置も昔のままである。階段を上がると正面に姿見、左手のドアーを空けるとキチン、バス・トイレ付き1ルームだった。車庫の上が筆者の部屋だった。

68年8月23日の卒業式には、義兄が参列してくれた。義兄は研究炉の廃棄物を処理するために訪米、その帰りの参列だった。筆者は卒業の翌日から2、3日も眠りこけた。その間に、義兄は筆者の車で散歩にでかけた。(市内を案内できなので自由に車を使って欲しいと事前に義兄に伝えていた。)

義兄は郊外で逆走して道に迷った。ようやく人家の明かりを見付け、助けを求めた。その家の主人は、私の車の後についてくるようにと指示して、無事にこの住所に義兄を誘導してくれた。

昨年10月の食事会で姉と義兄からこの話を聞き皆は驚いた。次回はこの写真を義兄たちに見せようと思っている。親切なアメリカ人にお礼をいうには手遅れである。【参照:道路-R10---アメリカの親切(2010-09-16)】

当時の大家さんの家族はハンガリー系アメリカ人、金髪・碧眼だが日本人と同じ東洋系だといって家族同様に扱ってくれた。おばさんとはリンゴ一つでも分けて食べたのを懐かしく思う。

この大家さんはカラカス(ベネズエラ)にアパートを所有しているとか。ヒューストン大学の卒業を機に、大家さんの家族たちと共にそのアパートに移り住まないかとの誘いがあった。また、工学部の学部長(Dean)からは、大学が身元保証をするからNASAで働かないかという誘いもあった。ありがたく思ったが、もともと国連に応募するための修士号取得、当初の目的とおり、日章旗の下(モト)で国連を目指すとすべての誘いを辞退した。

68年8月の卒業後は、博士課程に在籍しながら、大学の仕事を後任に引き継いだ。トルコ人の後任にあの下宿部屋を紹介、車も譲り、69年2月11日の建国記念日にホノルル経由で母が待つ日本に帰国した。帰国の数年後、大家さんから「このアパートの1室を空けてYouを待っている」と白亜のアパートの写真が届いた。今でも、カラカスやベネズエラと聞くたびにあの白い大きなアパートを思い出す。

この写真に写る郵便ポストを見ると、当時のヒューストンがよみがえり、思い出が尽きない。

なにもない地域や場当たり的に発展してきた街に新しいことが起こると、その地域は大きく変貌する。しかし、ある程度の余裕と計画性をもって成熟した街では、中身が大きく変わってもインフラはほとんど変化しない。今回はヒューストンの航空写真からそんなことを学んだ。

次回は、下の参考書を読んだうえで日本の競争力を考える。その競争力とは何か、日本のローカル製品とグローバル製品の違い、グローバル化の本質も考える。これらの参考書の通読に時間をかけるので、次回は4月25日に投稿する。

【参考文献】
1.成毛眞「巨大技術の現場へ、ゴー メガ!」新潮社、2015年2月
2.V.シュタンツェル「日本が世界で愛される理由」幻冬舎2015年1月
3.前島篤志(編)「文藝春秋SPECIAL2015冬日本最強論」文藝春秋、2015年1月
4.中原圭介「シェール革命後の世界勢力図」ダイヤモンド社、2013年6月
5.竹田恒泰「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」PHP研究所、2013年3月
6.インタービジョン21「図解 世界に誇る日本のすごいチカラ」三笠書房、2012年1月
7.Beretta P-08(ベレッタ ピーゼロハチ)「東京町工場散歩」中経出版、2012年1月
8.平沼光「日本は世界1位の金属資源大国」講談社、2011年5月

続く。

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