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日本の将来---4.変化への対応例(1)

2013-11-25 | 日本の将来

(1)変化への対応
人口が少なくなり、若者も少なくなる。半数近くが高齢者という社会ではいったい何が起こるのか?これは、だれもが抱く疑問である。しかし、これは疑問ではなく、少子高齢化の社会をどのような姿にもっていくかがわれわれの課題と考えるべきである。

この問題に取り組む方法は、かいもく見当がつかないわけではない・・・という訳で、このブログでこの課題を少しずつ考えていく。

まず、筆者の経験から始める。それは、コンピューターにまつわる1970年代の話、古く小さな事例だが、一つの参考としてここに紹介する。

この事例のように、コンピューターが絡む話には“近くて遠い田舎の道”が当てはまる。目前の明確な目標もなかなか達成できないことも多い。少子高齢化への対策も早いに越したことはないとの思いで、あえてこの事例を持ち出した。

(2)コンピューターの足跡
1960年~70年代にアメリカに広まったコンピューターを日本の産業界も次第に利用するようになった。

この頃すでに研究所レベルで分かっていたことは、60年代のアメリカで試験的に稼働し始めたアーパーネット(Arpanet)は世界規模のインターネットに発展すること、大型コンピューターは現在のパソコン程度の大きさになること、コンピューターのオペレーティングシステムはハードに依存しなくなること、パソコンはビジネスマンのノート替わりになることなどだった。【注:Arpanetが開発したTCP/IP(Transmission Protocol/Internet Protocol)はインターネットの通信規約、今も使われている。】

他方、70年代初頭の日本では、オンラインシステムは専用回線を利用していた。しかし、71年に公衆電気通信法の改正があり、74年頃から公衆電話回線網によるデータ通信が可能になった。この法改正は公衆電話回線網のデータ通信への開放、略して、「電話網の開放」として知られている。

専用回線と公衆回線では、料金制度に明確な違いがあった。専用回線によるデータ通信は通信時間に関係なく定額制(月額)、他方の公衆電話回線網によるデータ通信は、公衆電話の通話と同様、通信時間で課金する従量制だった。

「電話網の開放」は音声だけなくデータも任意の2点間で通信できることを意味し、このことでインターネットへの道が開けた。残る課題は、日本語(漢字・仮名)のコード化だけになった。このコード問題は90年代初頭に解決、ようやく欧米のe-mailソフトと日本語の相性も良くなった。これで日本人は、原稿用紙のマス目を基本とする日本語処理ソフトから卒業、新たな世界に進学した。

日本企業も世界共通の土俵=インターネットの世界に仲間入り、90年代後半から日本企業にもe-mailとインターネットの時代がやってきた。やがて、2000年代のオフィスの電子化時代に入り、オフィスワークの生産性が大きく向上したが、社内失業者もでた。これまでの日本のオフィスワークは、能率が悪いと世界のあちこちで耳にした。

余談になるが、北海道から九州に点在する営業所の製品入出荷データから在庫と売上額を計算できる。本社のコンピューターが、当日のデータを公衆電話回線で収集すれば、全国の販売と在庫状況を毎日把握できる。具体的には、本社のコンピューターが、夜間割引(夜8時から)の時間帯に北海道から九州の営業所に次々と電話を掛け(自動接続)、当日のデータを取集する。全営業所のデータ取集が終われば、計算結果を北海道から九州の営業所に次々と自動配信する。もちろん、夜の営業所は無人、オフコン(Office Computer)は電話のデータ通信の自動受信/切断ができる簡単な機能を備えていた。

このシステムは公衆電話回線を利用したので、電話代は毎晩1000円前後、月額2~3万円だった。もし専用回線を利用すれば専用回線料は月額1000~1200万円と見積書がでた。ちなみに、75年ころの日本製のオフコンは公衆電話回線によるデータ通信に対応できなかった。日本のメーカーに断られたので、頭を下げて実績のあるアメリカ製のオフコンを導入した。法整備の遅れと技術の遅れは「鶏が先か卵が先か」の関係だった。

(3)70年代のシステム部門の姿
話は70年代初頭に戻るが、筆者は日本の製造会社に就職、電算室を担当することになった。その電算室は、大型コンピューター2台でシステム開発、運用、オペレーション、データ入力(女性キーパンチャー)、24時間運転、全員自社社員、これは当時の典型的なシステム部門の姿だった。

日本は右肩上がりの時代、電算室も次々と新しい業務システムを開発した。北海道から九州にいたる営業データ収集システムも一つの産物だった。当然、開発担当者はプログラミング作業に追われていた。仕様書などの文書化よりプログラム作成を最優先、結果として雨後の竹の子のように大小のシステムが乱立した。プログラムの詳細は開発担当者の頭の中という属人的なシステムだった。

この頃、経営陣にオンライン生産管理システムの構想が持ち上がった。最新の生産管理の理論を最新のコンピューター技術で構築するシステムは、本社工場と関連会社の工場群をネットワークで結ぶ広域ネットワークシステムだった。【参考:工場管理8月号2012年、PP.116~1179、日刊工業新聞社】

世界最新のテクノロジーで次世代の工場システムを開発するという動きは先進的だった。それは、ビジネスでアメリカを良く知る経営陣の発想だった。しかし、電算室の実力とこの構想には大きなギャップがあった。また、日本のコンピューターメーカーのハードとソフトには実績上の不安要素もあった。

日本のコンピューターメーカーに対する技術的な改善/開発の要望はここでは省略するが、まず、我が身を振り返ると1年や2年で片付かない課題が山積していた。

次期工場システムの成功には、電算室の整理整頓と地固めが最優先事項と考えた。そこで、次期システム開発の準備として1年間の「クリーン・コンピューター作戦」を役員会に提案、承認を得た。

(4)クリーン・コンピューター作戦
簡単に言えば、1年間はシステム修正や新規開発を凍結、その間に身辺を整理して将来に備えるという作戦だった。新しい時代に挑戦するときは、まず身軽になる。これは鉄則である。その内容は次のとおりだった。
1)最小限のオペレーション
2)現行システムの棚卸と文書化
3)深夜の自動オペレーション
4)次期システム開発の体制つくり
5)社内外との人事交流

次回に続く。

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