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ブログ再開のお知らせ・・・脳梗塞とリハビリ(1)

2017-01-25 | 日本の将来
前回から続く。

1.「ブログ休止」変じて「脳梗塞入院」
前回「小諸城址」(2016-09-25)の末尾で、このブログを2~3ヶ月休止するとお知らせしました。その約1週間後の昨年10月3日に脳梗塞を発症、今月5日(2017-01-05)まで治療とリハビリで入院しました。現在は週1回の通院でリハビリを継続中。もしかして、あのブログ休止予告は、我が身に忍び寄る脳梗塞を本能的に察知したためかも知れないと人生の不思議を噛み締めています。

思わぬ不運との出会い、まさに人生の明日にはなにが起こるか分からない。しかし、不思議なことに今回も「途切れない糸」は途切れることなく、筆者は今も生きている。

生と死は紙一重というが、2004年8月9日のバンコクでの心筋梗塞も危なかった。あの時は、数ヶ所の冠動脈閉塞をリアルタイムで映す頭上の画面を見ながら独り静かに死を覚悟した。人間は、いざとなれば意外に冷静になれるものだと思った。しかし、径2.3mmのステントの挿入で生命の減算が加算に変わり、発症後6時間も経過した心臓は奇跡的に持ち直した。

バンコクの退院後、横浜市立大学付属病院(横浜市大病院)で約半年間隔のカテーテル検査とステントの追加、最終カテーテル検査は2006年10月、今も定期的に受診している。治療中も近場(バンコク)の海外活動は継続した。今回は、同じ病院の脳卒中科のお世話になった。

バンコク病院(Bangkok General Hospital)を退院するときに、あと何年(生きるか)?との筆者の問いにベテラン医師(タイ人)の答えは「自分の患者は、12年後に亡くなったが、その死因は心臓病でなくガンだった。しかし、12年後あたりは注意しなさい。」とのアドバイスだった。

あのとき以来「12年」がいつも心に引っかかっていたが、その「12年」が今回は小脳梗塞という形で現実になった。この異変は、こころの奥底に潜む気掛かりな「活断層」が2016年秋という名の「地表」に姿を現したと言える。

この脳梗塞にはもう一つの不思議がある。それは、前々回のブログで紹介したヒューストンへの旅行である。

かつて、国連を目指して入学したヒューストン大学、その入学からちょうど50年後の昨年6月に、国連ハノイ校(UNIS)5年生(10歳)の孫が夏期講座に参加した。その講座は、2015年秋に筆者の娘がインターネットで偶然に見付けた小学生向けゲーム設計コース、その開催地がヒューストン大学だった。

孫の夏期講座参加は筆者にとっては「ヒューストンの呼び声」、その呼び声に応えるように筆者・娘・孫の三世代3人は大学を訪れた。孫の「英語力」と「コンピューター能力」に問題なし、喜々と新しい世界に溶け込む孫の姿に筆者は大いに満足した。その満足感は、任務を終えた第一段目のロケットが大気圏で燃え尽きるのに似たものだった。

ヒューストン空港で娘と孫はNYへ、筆者は成田へそれぞれの旅路に向かった。あの日あの空港で50年にわたる一つの物語は幕、しかし次の世代が展開する新しい物語が楽しみである。

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「ヒューストンへの旅」を終えた筆者の人生は、3ヶ月後の同じ日に暗転、次の幕開けは救急車だった。

人生はどこまで行っても未知の世界、不測の出来事だけでなく、そのタイミングでも明暗が分かれる。人生は、あれこれと興味深い。

今回の脳梗塞も知るよしもなかったが、もし脳梗塞が「ヒューストンへの旅」の前ならば旅行は中止、50年にわたる物語も立ち消えになったはずである。逆に、旅を終えた後の脳梗塞は望ましいタイミング、おかしな話であるが今回は歓迎すべき脳梗塞だった。救急車で始まったが、この“親愛な運命”とは誠実に付き合おうと考えている。当然、やり残しの課題も立ち消えないのでこれも大きい。

このようないきさつで、今回は予定を変更、当分は筆者が体験した脳梗塞とリハビリの世界を紹介する。それは、高齢化社会の傾向と対策にもかかわる話に発展する。

2.脳梗塞と入院
16年10月3日朝6時、PC(パソコン)を立ち上げようと机に座ったとたん、激しい目まいで椅子から転げ落ちた。床に伏してもなお続く目まいで椅子の脚にしがみ付いた。119番で近くの横浜市大病院に搬送された。

レントゲン、MRI、CT、心臓エコーと下肢エコーと首動脈エコーなどで小脳梗塞と診断され、10月11日までの9日間は昼夜の点滴が続いた。症状が落ち着くとベッドの端に腰掛けることができるようになった。しかし、右に振り向くと激しい目まいに襲われた。ベッド真上の天井が壁のように横に見えるのも小脳のダメージが原因と知った。

目まいの改善、看護師と介護士さんたちのサポートで車椅子を利用、次に歩行器、さらに点滴支持器に頼る歩行・・・次々と症状は改善した。どうしても改善したいという強い意志は、海外生活で身に付けた「自分の身は自分で守る」そのものだった。たとえば、1リットルほどのペットボトルを利用して腕や指の衰えを防いだのも一つの工夫だった。

10月17日の入院15日目から始まったリハビリでOT(作業療法)とPT(理学療法)を毎日受けた。しかし、この病院では治療が主、リハビリは副である。したがってリハビリが主の専門病院への転院をソーシャル・ワーカーに相談した。

リハビリでは、まず障害を克服するために、基本的な体の動きを療法士(先生)から教わる。その時、器具を使うこともある。患者は先生の助けを受けて、その動きをまねて習熟する。ときには、自分の症状に絶望感を覚える患者には、先生と周囲の人びとの声援も大きな支えになる。たったの数メートルだったが、補助具なしの自立歩行ができたときは心から感激した。二足歩行の理論は知らなかったことばかり、その奥深さをこの歳になって初めて知った。

横浜市大病院で脳梗塞治療と基本的なOTとPTを受けて、入院から19日目の10月21日に自宅近くの横浜なみきリハビリテーション病院に転院した。

【補足:リハビリテーションの基本用語】
リハビリテーションにはOT、PT、ST、3つの療法がある。これら療法は身体の動きと脳内の神経回路を生成(活性化)させる。療法士(Therapist)は国家資格を持つ先生である。略語とその内容は次のとおりである。
◇OT(Occupational Therapeutics:職業/作業療法)=部品や道具を使って手/指先作業などを改善
◇PT(Physical Therapeutics:理学療法)=マッサージ、平行棒や道具で身体の動きや歩行を改善
◇ST(Speech Therapeutics:言語療法)=計算、記憶、視覚、言語などの能力検査と改善
 STは、転院先のリハビリ専門病院で指導を受けた。

余談だが、転院のため横浜市大病院の玄関で拾ったタクシーは、今どき珍しい神風タクシーだった。病院からリハビリ病院は直線距離で約2km、広々とした道路で急激な左折と右折や不必要な追い越し、途中から筆者は目まいを再発した。妻の支えで下車、リハビリ病院の受付でしばらく動けなくなった。受付の関係者は、運転手を特定できるので苦情を云うべきと憤ったが、60歳代になっても身に染みついた乱暴な運転と接客態度は、今さら治るはずはない。あの種の人間は「死ななきゃ直らない」人である。この体験で、筆者は「今後は車を運転しない」に傾いた。

続く。

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