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日本の将来---5.展望(18):日本の食品、戦後イナゴも食べた

2015-05-25 | 日本の将来
5.展望(17)から続く。

3.日本の食品・サービス
今回は、世界における日本の「食品・サービス」の強みを考える。(前回の「もの造りのプロセス」参照)

(1)食との関わり
人はみな「食」に関わる。その関わり方は人によりさまざまである。そこで、まず筆者の「食」への関わりに触れておきたい。

一言でいうと、筆者は「食」には無関心である。若いころは、食事は車のガソリン補給のようなもの、中身はともかく、手っ取り早く済ませるのがいいと考えていた。しかし、なぜか食べ物の「味」はよく分かった。したがって、怪しい味のものは反射的に受け付けないので、食あたりの記憶はない。

「食」には無関心だが、いろいろな場所で食事をしてきた。船のサロン、中北米、欧州、中近東、太平洋、東南アジアの屋台からグランド・ピアノを備えた個室レストランやアラビアン・ナイトの話に出てくるようなレストランも経験した。

長い人生で人はいろいろなものを食べる。たとえば東南アジアでは昆虫や蛙や鳩、筆者は小学校で若い女性の先生に連れられ皆でイナゴ取りに出かけた。戦後の食糧難、もちろん、食べるためだった。あの頃は児童も先生も空腹だったと思うが、首飾りのように糸に通した多量のイナゴ、黄色い卵持ちの煎りイナゴ、これらの記憶は懐かしい。

東南アジアの夜店や市場などでよく見る昆虫の蒸し焼きにいやな顔をすると食べる人に失礼である。バッタやイナゴやサソリその他いろいろ、筆者にとってはどれも似たり寄ったりの味だが、現地の人びとにとってはそれぞれ特別の味と思いがあると思う。蛙の姿焼きは敬遠するが、鶏の手羽元ほどの蛙の太ももは柔らかくカニの風味がある。

Tボーン・ステーキとドイツのパンはおいしいと思うが、その他は似たり寄ったりである。また、祭りの思い出が重なる京都の鯖寿司や鱧(ハモ)寿司はいつでも頭の中に生きている。しかし、やみつきになるような味ではない。カナダの個室レストランではピアノ演奏付きエスカルゴ料理、金網から一瞬立ち上るオレンジ色の炎とエスカルゴ・トングは今も思い出すが、味の記憶はない。
◇納豆とパクチー(香菜)以外は何でも食べる。
 タイの食堂や屋台では「マイ・サイ・パクチー(パクチーを入れないで下さい)」といえば問題はない。
◇自炊派でなく現地調達主義である。米、味噌汁、梅干し、日本茶などには執着しない。
 テキサスに留学中は勉強に専念、自炊なし、大学卒業とともに日本食からも卒業、雑食性になった。
◇果物は別として、海外ではサラダと生ものや汁ものはできるだけ避ける。食あたりの自衛である。

食べ物の好き嫌いは別として、その食べ方、特に「ナイフとフォークの使い方」「箸使い」「食べる姿勢」は人の品位にかかわるので大切である。大学卒業直前、遠洋航海実習の帰途に横浜の磯子プリンス・ホテルで洋食のマナーを教わった。船乗りが世界で恥をかかないようにとの実習だった。帆船の航海実習、洋食マナー、社交ダンス、この三つが船乗りの要件といわれたが、ダンスは性に合わないので途中であきらめた。

余談だが、当時の磯子プリンスは、海が見える丘のひなびたホテルだった。そこで学んだ洋食のマナーは今も世界のどこでも通用する。食のマナーにかかわるとき、いつもあの整然としたレストランが年老いた先生のように筆者の脳裏に現れる。容貌と肌の色に関係なく、食事のスタイルや両手の位置でその人が大陸系(欧州系)かアメリカ系かが分かるのでおもしろい。

商船大学の在学期間は4年半だった(うち1年は乗船実習:春夏冬休み期間中の航海実習∔帆船実習150日⇒国家試験に必要な1年間の乗船履歴取得)。特に150日の帆船実習では古代以来の人類の知恵、すなわち風力による帆走、天文航法、真水の節水を学んだ。また、40日間にわたる太平洋帆走横断では真水(freshwater)の補給なし、毎朝のタンツー(Turn to:砂擦り[スナズリ])は総員参加、使用する砂は駿河湾の灰色の砂が定番だった。砂擦りには長期航海による足腰の弱り防止効果があるが、太平洋に出れば一週間ほどでデッキ(甲板:コウハン)は清潔でスベスベになった。大洋には“いろいろな埃”がないことを実感した。

話は変わるが、「ほのるる丸」に乗船する直前まで約1年間、東京本店営業に陸上勤務、大阪商船の大森寮に宿泊した。寮にはいろいろな社員がいたが、なかでもベテランのパーサー(事務長)から聞いた話は今も役に立っている。寮は旧家の大邸宅、暖炉が中央に控える食堂に全員が揃う朝食が楽しみ、先輩たちの話はおもしろかった。

パーサーの話は食事作法の話だった。さる高級ホテルの会食で身なり卑しからぬ和服のご婦人が「持ち箸」でお替りをしたということだった。「箸の禁じ手」のすべてを覚えていないが、京浜東北線が大森駅を通過するとき、今でもときどき懐かしいあのパーサーとこの話を思い出す。高価な服装で身を飾ることはできるが、その人の品位は簡単に変えられない、なんだか人間の切なさを感じるエピソードだった。

会社の上司(営業課長)は分かり易いフランス語を話す東大卒、筆者は課長のフランス語をフランス人並みと思った。彼の会話で香港を(フランス語では)オンコンと発音することを知った。また、係長は京大出でチェスの世界選手権保持者、もの静かで聡明だが気さくな紳士だった。メガネをかけた彼の傍にいると自分も聡明になったような気分になるのが不思議だった。皆、今も忘れない人びと、大阪商船ではいろいろなカルチャー・ショックを受けた。

古今東西を問わず食事マナーは紳士淑女の嗜み、要はナイフとフォークや箸の使い方で周囲に不快感を与えないのが基本である。最近の欧米人は箸使いも慣れたもの、日本の「箸使い」もグローバル・スタンダードに昇格した。

またも余談になるが、船のサロンでの昼食をよく思い出すのでここに付け加える。サロンにはテーブルが5列、中央のテーブルの中央がキャプテンの席だった。キャプテンの左手の列に4人の航海士(見習い士官[apprentice officer]を含む4人)、右手の列は4人の機関士、隣のテーブルは通信士とパーサーとクラーク(事務職)の指定席だった。当時、「ほのるる丸」のクラークは東大卒だった。

他のテーブルは、ドクターやナース*注)、パセンジャーや来船客用である。テーブルには厚手の白いテーブル・クロス、これがサロンのレイアウトだった。航海中は空席が多いが、レセプションやパーティーなどでは満席になる。正月などには、紅白の幕でサロンを飾り豪華な食事がでる。
【*注)船舶設備規定で貨物船でも客室(定員12名以下)を備えている。当時は人員削減で船医・ナースは欠員、航海中の傷病には資格保有者が対応する:筆者は船舶衛生管理適任者(運輸省資格)として航海中の船内医務・薬品を管理した。また、在外公館の要請で送還日本人一家を豪華な客室に乗せたこともあった。】

サロンの左ウイングにはステレオ・セットがあり、陸地に近づくとまず現地のラジオ放送が聞こえてくる。やがて、ランドフォール(Landfall:陸地初見・・・実際はレーダーの映像)、次に空にカモメが現れ、水平線に港の街が見えてくる。陽気なラテン音楽などがスピーカーから流れると、船内がソワソワとする。帆船時代のランドフォールの喚声が想像できる。

航海中の昼食は全員制服姿**注)、黒服のウエィターたちは細身の黒ネクタイで左手に黒い丸盆とナプキンを腕に掛けてお替りに待機(スタンバイ)している。二等航海士(2nd Officer)、二等機関士(2nd Engineer)、二等通信(2nd Wireless Operator)は当直で空席になる。誰が何回お替りをするかをウエィターたちは心得ていた。さすがに客船を持つ船会社の厨房スタッフ、彼らは帝国ホテルの研修を終えた人たち、洋食ではパン(船内で焼く)とスープの味が決め手になると聞かされた。もちろん「持ち箸」は馬鹿にされる。
【**注):航海中の正午頃、キャプテンと全航海士がブリッジ(船橋)に集まり、各自セキスタント(Sextant:六分儀)を手にウイング(舷側)に出て太陽のトランジット(南中=ナンチュウ:太陽が真南を通過する時刻、太陽高度が最高になる)を観測、各自の観測結果を平均してキャプテンが船内の正午時間を決定する。新しい正午をもとにすべての船内時計を(自動的に)Ahead(進める)またはAback(遅らせる)して、船内放送で時間調整を全乗組員に通知する。その後、航海当直のセカンド・オフィサー(2nd Officer)とクォター・マスター(Quarter Master:操舵手)をブリッジに残し、キャプテン以下全航海士はサロンに降りて昼食をとる。曇天の日は推定船位から南中時刻を計算、船内時計を調整する。】

洋食器は一般に平たく重心も低い。ナイフとフォークも適当な重さがある。タイやベトナムの日系工場のようにペラペラで歪んだフォークとスプーンではない(どこの工場も、シッカリとしたフォークやスプーンを出すと従業員が持ち帰るという)。

食事中に突然、船が揺れ始めることがある。このとき、ウエィターたちはすかさず水差しでテーブル・クロスに水を打つ。厚手のテーブル・クロスが水を含むと多少の揺れでも食器は滑り落ちることなく、何事もなかったように平然と食事は進行する。紳士・淑女は、船が少々揺れてもワーワー、キャーキャーと騒がない。厚手の白いテーブル・クロスを掛けたテーブルと静かな雰囲気が高級レストランの要件だと思っている。

航海中の揺れでは今も思い出す光景が一つある:12月31日の深夜、横浜港で積荷を終えてパナマ運河に向かった。浦賀水道から太平洋に出たときはすでに元日、やや時化(シケ)気味の太平洋を北上、金華山沖ではシケが本格的になった。

元旦の朝7時頃、航海当直(ワッチ=08:00~12;00パーゼロ)前に朝食のためサロンに入ったちょうどその時、ハンマリングが起こった。船体が衝撃を受けた瞬間、テーブルに並べられた正月料理が、乱れることなくそのままの状態で空中1メーターほどの高さに浮上した。

一瞬、魔法のフルコースを見た:空中に並べられた皿と皿の間隔は元のまま、そのままスロー・モーション映画のようにサロン後方に向かって弧を描き、紅白の幕を張った壁に次々と激突した。もちろん、その日からお握りの食事が始まった。今も正月には、紅白の幕と床に散らばったロブスターやタイの姿焼きをリアルに思い出す。

(2)日本の食材
海外の日本食材を思うとき、まずヒューストンの冷凍サンマを思い出す。1966年頃、場所はダウンタウンの小さな台湾食材店だった。その店に切り餅のようなイカの冷凍切り身と冷凍サンマがあった。

貴重なサンマ、さっそく日本人留学生数人でサンマの塩焼きをガス・オーブンで試みた。空き缶の蓋に釘で穴をあけておろし金を即製した。醤油なしの大根おろしとサンマの塩焼きだけ、その味は記憶になく、たぶん期待外れだったと思う。

当時、ヒューストンにトーキョー・ガーデンという日本食レストランがただ1店、メニューはスキヤキ、鉄板焼き、トンカツ、うどん程度だった。小さな白い皿に黄色いタクアンが3切れ、それが1ドル(\360)、学業に専念する私費留学生が出入りする場所ではなかった。琴の音とししおどし、和服姿の日本人ウエートレス、それは今も海外でお馴染みの日本レストランの典型的なスタイルである。琴の音に反射的に日本レストランが頭に浮かんでくる。

筆者が知る限りでは、60年代のアメリカではスキヤキとテンプラ=日本食、他の日本食の知名度は零(ゼロ)だった。生魚の刺身やにぎりズシは生卵と同様に、アメリカの食文化になじまない料理にみえた。

ついでながら、タイの人びとは牛肉をほとんど食べない。その食文化は田舎では根強いが、90年代末のバンコクになぜか牛丼チェーンが上陸した。しかし、すぐに失敗、早々と撤退した。タイやベトナムでは、事前の市場調査なしにいきなり上陸してくる日本企業が後を絶たない。大胆というより無謀だが、意外に日本企業は経営層を筆頭に勉強不足である。もし小手調べ(test marketing)ならば、国の選択と方法を熟考すべきだと思った。

バンコクでは、97年のタイを震源とする通貨危機が収まるにつれて、炊飯器やミキサーなどの家電製品と野菜や調味料が外資系スーパーに並び始めた。そのうちに共稼ぎが増えて05年頃から市民の食文化も変化し始めた。中心街にはハンバーグ店も進出した。10年頃から牛丼チェーンも再チャレンジを始めたが、元気はいま一つである。

牛肉を食べない理由をタイ人に聞くと、ニワトリや豚に比べて、牛は大きいからとの答えだった。それ以上の話はなかったが、大きな牛は家庭で捌(サバ)きづらいことを察した。・・・タイに限らないが、東南アジアや北米の市場では近年まで生きたニワトリやウサギを売っていた。しかし、鳥インフルの流行で生きたニワトリはタイの市場から消えて久しい。他方、昨今の日本の主婦は「ニワトリはおろか魚すらも捌けない/捌かない」は単純な話ではない。

60年代のアメリカでは敬遠されていた日本食は、70年代に西海岸で生まれたカリフォルニア・ロール、一種のサラダの海苔巻きが西海岸から東海岸に広がり始めた。74年にはキッコーマンのアメリカ工場(ウィスコンシン州)が稼働、その後83年にシンガポール、97年にオランダで工場が完成、次第にキッコーマンは日本の味として世界に広がっていった。キッコーマンとともに有名な味の素は、1910年から海外に進出したと資料にある。

筆者は、キッコーマンと聞くと条件反射のようにある美人のシステム・コンサルタントを思い出す。彼女はキッコーマン・カリフォルニア工場のシステム開発に参加したことを大きな誇り(自慢ではない)にする親日家、今もキッコーマンを愛用していると思う。

一方、日本食、特ににぎりズシには欠かせないのは米である。幸い、欧米にはパール・ライス(カリフォルニア米=加州米)と呼ばれる日本米のような大粒の短粒米があった。加州米の由来は確かではないが、筆者はカリフォルニア州の日系移民が日本米を改良した米と理解している。アメリカやオーストリア/ドイツの高地でも、圧力釜で炊けば日本米と同じ甘い香りと粘りがあるご飯ができあがる。

ここで60年代から今日に至る世界の日本食を振り返るとき、次のような記憶が頭に浮かんでくる。
◇パール・ライスと味の素とキッコーマンが世界に普及して、日本食の素地が広がった。
◇冷凍技術と運送システムの向上で日本食材が世界各地に流通し始めた。
◇日本企業の海外進出で在留邦人が増加した。また、日本人には日本食を求める人が多い。
 70年代初頭にはロンドンにも日本食材店が開店し、80年代初頭にはロスで吉野家が営業していた。
 日本食材店は高くて近寄り難い(英国人主婦談)、ロスは吉野家の味ではなかった(筆者感想)。
◇立食パーティーなどに出るスモークド・サーモンの延長線上で魚の生食への抵抗感が弱まった。
 日系企業はさまざまな立食パーティーを開催、日本食の高級感と安心感を出席者たちに与えた。
◇カリフォルニア・ロールや日本食はヘルシー、低脂肪、低カロリーとの認識が一般化した。
◇日本の工業製品への信用が高まるにつれて日本へのポジティブ(肯定的)な関心が芽生え始めた。
◇漢字コードが整い、2000年頃から日本にもインターネットが普及、日本と世界の距離を縮めた。
 ゲイシャ、フジヤマ、ハラキリ、カミカゼなどはよく知られた日本語、そこに日本の実像が加わった。
 観光地のカラー映像や音声による情報は言葉以上に強力だった。⇒百聞は一見にしかず
◇世界的な肥満の増加と健康食品への関心は日本食への関心につながった。
◇農薬や飼料添加物、加工食品の防腐剤や発色剤など、食の安全性への関心が世界的に高まった。
 “あの市場の葉物は虫食いがない“などとケータイで噂が飛ぶと、出荷量が減少する。(東南アジア)
◇日本食は素材の味を生かす料理法、味と形と器が一体になって料理の特徴を引き立てる。
 バンコクの富士レストラン、やよい軒、8番らあめん、らあめん亭など、チェーン店の味は100%
 日本、お客は90%以上がタイ人・・・タイ人は日本食の味と価格を受け入れた。【参考:農林水産
  省資料(H26/9)9ページ
◇スキヤキ、鉄板焼き、ラーメン、スシなど、客席から見える調理はお客に清潔感と安心感を与える。
 タイのあるラーメン・チェーン店では、調理担当者の日本での研修証を客席に掲示している。

以上のような背景のもと、日本食とその食文化は本物、代用品、創作品、偽物を交えながら世界に広がった。その本質は“本当の味”より“日本食への好奇心”だと思った。

一般にJapanese Foodと呼ばれる日本食店舗は玉石混交だが、その数は、06年には24,000店舗、13年には55,000店舗と農林水産省は推定している。また、13年12月には和食がユネスコの無形文化遺産に登録されたので、現在は、Japanese Foodはさらに増えたと思う。【参考:日本食・食文化の海外普及について、農林水産省資料(H26/9)、8ページ

話は変わるが、筆者の経験によれば本物の味は、本物の素材と本物の味を知る料理人が作るものと考えている。この考えは、日本食だけでなく、タイ料理などにも当てはまる。また筆者の体験だが、外国発のビジネスクラスでも名前は日本食、中身が酷いものもある。

数年前に、バンコク行きの便でたまたまタイ料理店を営むタイ人の女性と隣り合せになった。彼女の悩みは、日本ではタイの食材を入手することが困難、本場の味を出すことに限界があることだった。この話を聞くまで、東京や横浜のタイ料理は日本人の口に合うようにと手加減し、本場とはかけ離れた中途半端な味になっていると思っていた。しかし、それは誤解だった。

有名な世界3大スープの一つといわれるトム・ヤン・クンは、パクチーと激辛が苦手の筆者には唯の激辛スープに過ぎない。しかし、観光案内書には載らないバンコクや地方の町には、タイ人や日本人が共に認めるおいしい料理がある。バンコクの一軒は裏通りにある小さな店だが、ベンツで乗り付けるお客もいる。店のオヤジさんは筆者を日本人と知り、わざわざまともなナイフとフォーク(ペラペラでない)とキッコーマンの小瓶を用意するが、そこの料理は醤油にも合う。これらは年配のオジサンやオバサンが目の前で作る味、時には材料、たとえばエビがないと断わられる日もある。

ここで日本食に話を戻すが、世界に流通するMade-in-Japanの食材は微々たるものである。日本の食材、特にコメや野菜のような素材は、工業製品のように工場進出で生産できるものではない。これが、筆者が認識する農産物の難点である。タイやベトナムでは日本米を生産するが、それは現地の土壌、水、気候で育ったものである。現地生産でなく、Made-in-Japanの米や野菜が日本食の本命である。

下のグラフは、当ブログの5.展望(3)(2015-04-25)に示したグラフ「25.世界の農産物輸出額」である。ここでは、「25.世界の農産物輸出額」のグラフに2013年の実績と農水省の目標を追加した。

  
  出典:NHKクローズアップ現代(2014/4/14)、FAO資料、農林水産省資料(H26年9月)

上のグラフを説明すると次のようになる。

1)グラフの濃い緑色は2010年の実績である。フランスの数値だけは08年の実績である。
2)イタリアの左隣りはオーストラリアである。
3)日本の農産物輸出額は10年の実績=3,400億円、13年の実績=5,505億円、20年の
  目標=1兆円である。
  地勢と気候の違う他国とは単純に比較できないが、20年の目標は10年のベトナムの実績(1兆
  900万円)以下である。
  テレビで昨年度(2014)の農産物輸出は6,000億円になったと“誇らしげ”なニュースがあったが、
  このグラフ上の6,000億円は他国に比べて微々たる数字、日本食の評判が高い割に拍子抜け
  の数字である。
  なお、メディアの“伝え方”に関する感想を一言・・・数年前の試験捕鯨に関するニュース・・・
  BBC(英国):捕鯨の残虐性を強調、NHK(海外放送):試験捕鯨の正当性を強調・・・BBCと
  NHKの“伝え方”が正反対だと記憶に残っている。同じニュースにもメディアの主観を反映でき
  るので要注意。
  “農産物輸出が6,000億円を達成”は胸を張って伝えるような偉業ではなく、無策と成行きの
  結果の数字かも知れない。
4)参考であるが、10年の日本の総輸出額は63.8兆円、うち農産物は3,400億円、総輸出額の
  約0.5%である。
5)63.8兆円は、海外の日系工場が生産する「日本の製品」は含まないことを忘れてはいけない。
  この63.8兆円の輸出品(日本の製品)は日本のGDPの増加に貢献する。しかし、63.8兆円
  をはるかに超える海外の現地工場が生産する「日本の製品」は日本のGDPに貢献しないが、
  世界に「日本の強み」を大きくアピールしている。
  いわば、日本の工業製品は世界に目を向け、世界に進出し、世界に受け入れられた。
  他方、上のグラフから、日本の農産物は、世界の大きな市場に目を向けているとは見えない。  
  日本農業の実態と政策に関する知識は皆無の筆者であるが、「減反」や「補助金」という言葉を
  聞くたびに、日本の農業界は「鎖国」状態ではないかと思う。
  バンコクの日系スーパーの産地直送品は一例だが、安全な日本農産物への世界の需要は大きい。
6)今から5年先の20年には、世界の食料市場は680兆円、09年の340兆円が倍増する。
  680兆円の市場に対して、日本の輸出目標は1兆円と非常に小さな金額である。

下の図は。目標値 1兆円の内訳である(農林水産省資料(H26/9)6ページを編集した)。

  2020年の目指す姿 ~国別・品目別輸出戦略~(1兆円の内訳)
  

上の図の注意点は次のとおりである。
1)1兆円の目標のうち、水産物=3,500億円、加工食品=5,000億円、合計=8,500億円(85%)、
  残りの1,500億円(15%)がコメ、コメ加工品、林産物、、、牛肉、茶の6分野にわたる産物である。
2)資料(H26/9)ではよく分からないが、筆者が期待する日本産の素材の輸出額は非常に少ない。
  コメなどの素材の輸出入はTPPの交渉ごと。TPPを突破口に負の連鎖を断ち切る可能性もある。

続く。

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