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日本の将来---2.日本と欧米との比較(1)

2013-07-25 | 日本の将来
2.日本と先進国

(1)1960年代の日本と先進国

1)1960年代のヨーロッバ
筆者は、1963年にこのブログ冒頭の「ほのるる丸」でヨーロッパに向かった。紅海からスエズ運河を通過して地中海に、次にジブラルタル海峡を通過して北海に入る航海だった。

地中海沿岸のアレクサンドリアは古代図書館(BC300年)とクレオパトラで有名、ジェノバとバルセロナはローマ帝国にルーツを持つ港町、ロンドンはビッグベンやウェストミンスター寺院が立ち並ぶ都会、これらの街並みを行き来する人々に接して、ここは先進国だと実感した。

下の図は、筆者が記念に手に入れたロンドン地下鉄の路線図である。東京にこのような地下鉄ができるのはいつの日かとの思いがあった。

今の東京のように地下鉄の出入り口が通りのあちこちにあり、非常に便利だった。地下鉄の駅では地底深くに延びるエスカレーター、エスカレーターではステップの右側に立ち、左側を歩く人に譲るというルールがあった。当時の日本ではわれがちに電車や窓口に群がる人々、ロンドンのエスカレーターでルールを守るのが先進国の流儀だと理解した。

 1963年のロンドン地下鉄路線図・・・1854年から徐々に発展した。
 

2)1960年代の日本
当時、東京の地下鉄はエスカレーターどころか銀座線(1927年開業)、丸の内線(1959年開業)、日比谷線(1961年開業)など、ようやく地下鉄の建設が本格化した時代だった。1964年の東京オリンピック開催、さらに65年には日本初の高速道路、名神高速が開通した。あちこちの工事でダンプカーが走り回る一方、その頃の京都市内ではリヤカーが当たり前、人々は3C(クーラー、カラーテレビ、カー)を羨望する時代だった。

この頃の家庭では、兄弟姉妹が4~5人が当たり前、小学校から大学のクラスは50人教室、中にはマイクで授業をする大学もあった。20人の受講者で登録を締め切るアメリカの大学とは異なり、日本の教育は卒業生のマスプロダクション・システムだった。そのシステムの受け皿の一つが公団住宅、やがて、日本は70年代の列島改造論に進んでいった。

3)1970年代のヨーロッパ
70年代半ば、筆者はウィーンに住んでいた。ウィーンはローマ帝国の北方の境界でドナウ川に面したローマ人の宿営地だった。13世紀中ごろからハプスブルク家のオーストリア帝国の首都として栄えた。第二次世界大戦に敗戦、1955年に永世中立国として独立、人口800万人足らず、北海道ほどのオーストリア共和国が誕生した。

ハプスブルク時代の馬車道には、1865年に馬車鉄道が導入され、さらに1897年には電化され、今日のウィーン市電に発展した。70年代から盛んになった地下鉄の建設と市電の新しい路線はコンクリート製だったが、昔からの市電通りは石畳だった。この頃の建設認可は厳しく、市内のコンクリートの高層ビルはIBMビルと市民病院だけといわれていた。ウィーン市内に点在する国際機関を高層ビル群に収容するウィーン国際センターの予定地は、郊外のドナウ河畔だった(1980年完成)。

市電の交差点では線路を横切る横断歩道は地表でなく地下式だった。そこにはエスカレーターと7~8軒の商店があり、さすがに歩行者や老人に配慮する街だと感心した。住宅街の庭先や商店街を走る簡素な市電は市民の足、市電と接続して郊外まで延びる地下鉄とバス、これら3つの交通機関の乗車券は共通だった。合理的な乗換えルールを利用すると低額で市内を移動できた。できるだけ車に頼らないという考え方は、アメリカの車社会はと異なるシステムだった。

ウィーンには国連や原子力関係(IAEAなど)や石油関係(オペックなど)の国際機関、金融機関、観光業者は多いが、意外に働き口は少ないとのことだった。そのため、若者や働き盛りの人々は工業が盛んな西ドイツに行き、街の広場や公園のベンチに老人が目立っていた。下界は曇天でも山の上は晴天、このためスキー場のレストハウスではテラスのベンチで日光浴を楽しむ老人たちをよく見かけた。

今流にいえば、オーストリアは老人大国、日本の大先輩だったが暗いイメージはなく、ワインと音楽とオペラの都だった。石造りのバルコニーに囲まれた石畳の中庭、その閉ざされた空間でのミニコンサートは音響の乱反射がなく、直接耳に届く楽器の音色は絶妙だった。

老人大国の反面、働く女性のために、夕方6時までの託児所が充実していた。日本人には馴染みのないヨーロッパ各国の「閉店法(Ladenschlussgesetz)」は働く人(特に家庭を持つ女性)や小規模商店を保護する法律であり、宗教的な背景と同時に人々の生活スタイルにも関係していた。今では大きく緩和されたが、70年代のウィーンの「閉店法」では、デパートと小売店ともに平日は午後6で閉店、土曜日は午後から日曜日は終日閉店だった。

早朝のゴミ回収や公園の手入れなどは、近隣の共産圏からの労働者の仕事だった。しかし、熟練を必要とする石造りの建物や宮殿、教会の尖塔、市電通りの石畳やアーチのメンテナンスは、中世ドイツのギルドの流れを汲む専門家たちの仕事だった。美しい街並みは一朝一夕の作品ではなく、メンテナンス技術の賜物と実感した。この点は日本の伝統文化のメンテナンスと同じである。

73年のオイルショックの後、オランダやドイツでは人手不足が深刻になりっていた。よく訪れたアムステルダムの友人(オランダ人)の話が今も気に掛かっている。その話は次のようなものだった。

オランダでは、人手不足のために旧植民地から移民を受け入れている。移民たちは、失業保険の受給資格を得るまで低賃金の仕事に就く。資格を得ると仕事を辞めて失業保険で生活する。失業保険が切れるとまた働く。この繰り返しでは生活レベルが極めて低くなる。しかし、低いと言っても母国に比べて遥かに良い生活、彼らはその生活レベルに満足する。やがて、身内を呼び込み移民だけの社会が広がっていく。

その友人は、オランダ国民が税金で負担する社会保障の原資が移民に喰われて先細りになり、保障の質が低下することを憂慮していた。社会保障の質の低下は深刻な経済格差を生み、犯罪と抗争が無法地帯を生み、その連鎖が社会に広がることを恐れていた。ウィーンでは移民の他に周辺国からの難民と不法入国者も難問だった。

次回は、4)70~80年代の日本、5)90年代のアメリカ、6)2000年代のタイに続く。

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