太陽の賛歌から続く。
この地球には、先祖代々、今日まで大昔の姿で存在する生き物がいる。たとえば、約5億年前からの古代魚シーラカンス、約3億年前からのゴキブリ、恐竜が絶滅した6500万年前頃からのカモノハシなど、生きた化石といわれる動物たちである。シーラカンスとカモノハシは見たことはないが、コキブリは世界各地で見られる。しかし、その姿はただの虫、数億年も続く「種」とは思えない。
彼らの共通点は、テクノロジー(科学技術)に依存しない生活である。石器、火、電気などのテクノロジーには依存せず、ただ営々と環境の変化に順応しながら生きている。テクノロジーまみれの人類とは対照的である。
自然界の原理・原則を人類が意図的に活用して、発展させたのがテクノロジーである。人間の意図を前提にするが故に、テクノロジーに自身の存亡を左右されることにもなる。それどころか、たとえばゴキブリにとっては、テクノロジーの産物たる殺虫剤は迷惑千万、そのひと吹きで命が吹っ飛んでしまう。このように物騒なテクノロジーだが、人類の自滅だけは回避しなければならないと誰もが思うものの、これがなかなか難しい。「平和」「平和」と叫ぶことと「平和」は別物で、「平和」を求めるつもりで「自滅」への道を歩むこともある。「冷静によく考えろ」と言いたくなる。
今回の話は、筆者が目撃した生き物のイメージと想像と空想が入り混じった話である。目撃したのは十数年前だが空想は遠い昔に遡る。それは、一つの時間軸に二つの異質の“時間”が流れているような話。時間の一つは“平均太陽時=24時間/日”、もう一つは“時間感覚がない遠い記憶”、この二つが混在するような変な話である。
1)オレンジ色の屋根のプラザ
バンコクの西方、数時間のところに数千人の人が働くかなり大きな工場があった。工場の向かいには、幹線道路を隔てて小さなプラザとアパートや住宅が並んでいた。プラザには、広場を中心にコの字型の建物があり、一階は食堂、食料品や雑貨、コンビニなどの店舗、二階は居住区になっていた。植民地時代の名残か、建物の屋根はオレンジ色、東南アジアでよく見る地中海風の街だった(ただし、タイは植民地経験なし)。
昼時になると、工場作業者は構内の大きな食堂を利用するが、事務職員たちの中にはプラザの食堂に出かける人もいた。筆者も工場前の道路を渡ってプラザの食堂に通った。
通ううちに気に入ったメニューが決まり、毎回オーダーするうちに、店に着くとすぐに料理が出るようになった。なぜかと尋ねると、筆者の注文が決まりきっているから予め用意しているとのことだった。店は、おじさんおばさんと娘さんの家族経営だった。テーブルにはラーメン用のコショウ、唐辛子、砂糖のガラス瓶が並んでいるが、ときどき砂糖に小さな蟻が這っていた。
砂糖ビンの中のアリ、ホテルの部屋のヤモリ、電灯に集まるガの大群などはタイの田舎らしい光景である。壁に張り付くヤモリは蚊を退治するので追い出さない。この辺りでは、未開と触れ合う場も多いが、その内「未開」に慣れ、すべてが当たり前になる。
2)小さな池
幹線道路と食堂街の間に直径4、50メートルほどの池があった。ところどころに木立がある何の変哲もない小さな池、プラザの脇に取り残されたよう池だった。「忘れられた池」と云った方がいいかも知れない。
昼食を終えて、しばしば池の木陰に腰を下ろして水中の小魚などを眺めた。水は、わずかに茶色がかっているが透明、水草の中を泳ぐ小さなエビも良く見えた。なぜか、子供のころに小川でメダカやザリガニを追ったことや瀬田川の清流に揺れる水草と小魚などを思い出した。
ある日、いつものように水辺に腰を下ろして透明な水中を眺めていた・・・とその時、突然、蛇でもない奇妙な生き物が首をもたげた。2、3メートル先の水面から1メートルたらずの高さまで首を伸ばし、静かに水中に消えていった。わずかな時間だったが、あれは幻覚でなく現実に見たもの、事務所に帰ってメモ帳に怪物の首を書き留めた。
蛇のように見えたが蛇ではない。モスグリーンっぽい直径20センチほどの太さの首、蛇や亀のような鼻孔は見なかった。あの生き物は、小型のネッシーとそっくりだった。もしや亀の首かも知れないと思ったが、亀の首にしては太く長すぎる。そんな巨大な亀は想像することはできなかった。
ここまでは、すべて現実の話であるが、怪物の姿を書き留めた日記帳は今では見当たらない。しかし、あの姿は今も筆者の頭に刻まれている。
3)想像の世界
筆者の想像によれば、あの小さな池は遠い昔には動物たちの水場(ミズバ)だった。今では小さな池に過ぎないが、池の底は古くからの水脈につながっており、ここ数億年は汚染をまぬがれた水が湧きだしているらしい。あのネッシーに似た小さな怪物は、汚染をまぬがれた水と共に数億年の昔からこの池に暮らす恐竜の子孫、世に云う生きた化石かも知れない。
しかし、ここで恐竜だ、ネッシーだ、生きた化石だと詮索するのはよしておく。筆者だけが見たあの怪物は、筆者の頭に生きる未確認生物、それで十分・・・小さな親愛なる恐竜としていつまでも存在して欲しい。テクノロジーと雑学まみれの人類とは別の生命として。
話は変わるが、あのプラザにコンビニを併設するガソリンスタンドがあり、筆者が乗る車は週毎にそのスタンドで給油した。犬好きの筆者、給油のたびにコンビニで菓子パンを買って店にたむろする犬たちに与えた。
タイのコンビニなどにたむろする犬たちは、野犬でもなく首輪をした飼い犬でもない。しかし、飢えていないのは不思議である。昼間はおとなしいが、夜は群れをなし凶暴になるので危険である。夜間は護身用の棒切れを持つ人もいる。もちろん、狂犬病の予防接種は必要である。
あの工場の仕事を終えた後の話だが、筆者が乗っていた車が給油所に着くと犬たちがどこからともなく現れるとドライバーの話を伝え聞いた。特定の犬を可愛がったわけではないが、飼い犬でない名無しの犬たちとの交流は、犬好きの筆者には嬉しかった。
小さな恐竜、給油所の犬たち、正門を出入りする筆者にいつも敬礼してくれたオモチャの兵隊さんのような女性守衛、これらのすべてが一つのお伽話に昇華した。
次回は、コーラル・アイランド(サンゴの島)に続く。
この地球には、先祖代々、今日まで大昔の姿で存在する生き物がいる。たとえば、約5億年前からの古代魚シーラカンス、約3億年前からのゴキブリ、恐竜が絶滅した6500万年前頃からのカモノハシなど、生きた化石といわれる動物たちである。シーラカンスとカモノハシは見たことはないが、コキブリは世界各地で見られる。しかし、その姿はただの虫、数億年も続く「種」とは思えない。
彼らの共通点は、テクノロジー(科学技術)に依存しない生活である。石器、火、電気などのテクノロジーには依存せず、ただ営々と環境の変化に順応しながら生きている。テクノロジーまみれの人類とは対照的である。
自然界の原理・原則を人類が意図的に活用して、発展させたのがテクノロジーである。人間の意図を前提にするが故に、テクノロジーに自身の存亡を左右されることにもなる。それどころか、たとえばゴキブリにとっては、テクノロジーの産物たる殺虫剤は迷惑千万、そのひと吹きで命が吹っ飛んでしまう。このように物騒なテクノロジーだが、人類の自滅だけは回避しなければならないと誰もが思うものの、これがなかなか難しい。「平和」「平和」と叫ぶことと「平和」は別物で、「平和」を求めるつもりで「自滅」への道を歩むこともある。「冷静によく考えろ」と言いたくなる。
今回の話は、筆者が目撃した生き物のイメージと想像と空想が入り混じった話である。目撃したのは十数年前だが空想は遠い昔に遡る。それは、一つの時間軸に二つの異質の“時間”が流れているような話。時間の一つは“平均太陽時=24時間/日”、もう一つは“時間感覚がない遠い記憶”、この二つが混在するような変な話である。
1)オレンジ色の屋根のプラザ
バンコクの西方、数時間のところに数千人の人が働くかなり大きな工場があった。工場の向かいには、幹線道路を隔てて小さなプラザとアパートや住宅が並んでいた。プラザには、広場を中心にコの字型の建物があり、一階は食堂、食料品や雑貨、コンビニなどの店舗、二階は居住区になっていた。植民地時代の名残か、建物の屋根はオレンジ色、東南アジアでよく見る地中海風の街だった(ただし、タイは植民地経験なし)。
昼時になると、工場作業者は構内の大きな食堂を利用するが、事務職員たちの中にはプラザの食堂に出かける人もいた。筆者も工場前の道路を渡ってプラザの食堂に通った。
通ううちに気に入ったメニューが決まり、毎回オーダーするうちに、店に着くとすぐに料理が出るようになった。なぜかと尋ねると、筆者の注文が決まりきっているから予め用意しているとのことだった。店は、おじさんおばさんと娘さんの家族経営だった。テーブルにはラーメン用のコショウ、唐辛子、砂糖のガラス瓶が並んでいるが、ときどき砂糖に小さな蟻が這っていた。
砂糖ビンの中のアリ、ホテルの部屋のヤモリ、電灯に集まるガの大群などはタイの田舎らしい光景である。壁に張り付くヤモリは蚊を退治するので追い出さない。この辺りでは、未開と触れ合う場も多いが、その内「未開」に慣れ、すべてが当たり前になる。
2)小さな池
幹線道路と食堂街の間に直径4、50メートルほどの池があった。ところどころに木立がある何の変哲もない小さな池、プラザの脇に取り残されたよう池だった。「忘れられた池」と云った方がいいかも知れない。
昼食を終えて、しばしば池の木陰に腰を下ろして水中の小魚などを眺めた。水は、わずかに茶色がかっているが透明、水草の中を泳ぐ小さなエビも良く見えた。なぜか、子供のころに小川でメダカやザリガニを追ったことや瀬田川の清流に揺れる水草と小魚などを思い出した。
ある日、いつものように水辺に腰を下ろして透明な水中を眺めていた・・・とその時、突然、蛇でもない奇妙な生き物が首をもたげた。2、3メートル先の水面から1メートルたらずの高さまで首を伸ばし、静かに水中に消えていった。わずかな時間だったが、あれは幻覚でなく現実に見たもの、事務所に帰ってメモ帳に怪物の首を書き留めた。
蛇のように見えたが蛇ではない。モスグリーンっぽい直径20センチほどの太さの首、蛇や亀のような鼻孔は見なかった。あの生き物は、小型のネッシーとそっくりだった。もしや亀の首かも知れないと思ったが、亀の首にしては太く長すぎる。そんな巨大な亀は想像することはできなかった。
ここまでは、すべて現実の話であるが、怪物の姿を書き留めた日記帳は今では見当たらない。しかし、あの姿は今も筆者の頭に刻まれている。
3)想像の世界
筆者の想像によれば、あの小さな池は遠い昔には動物たちの水場(ミズバ)だった。今では小さな池に過ぎないが、池の底は古くからの水脈につながっており、ここ数億年は汚染をまぬがれた水が湧きだしているらしい。あのネッシーに似た小さな怪物は、汚染をまぬがれた水と共に数億年の昔からこの池に暮らす恐竜の子孫、世に云う生きた化石かも知れない。
しかし、ここで恐竜だ、ネッシーだ、生きた化石だと詮索するのはよしておく。筆者だけが見たあの怪物は、筆者の頭に生きる未確認生物、それで十分・・・小さな親愛なる恐竜としていつまでも存在して欲しい。テクノロジーと雑学まみれの人類とは別の生命として。
話は変わるが、あのプラザにコンビニを併設するガソリンスタンドがあり、筆者が乗る車は週毎にそのスタンドで給油した。犬好きの筆者、給油のたびにコンビニで菓子パンを買って店にたむろする犬たちに与えた。
タイのコンビニなどにたむろする犬たちは、野犬でもなく首輪をした飼い犬でもない。しかし、飢えていないのは不思議である。昼間はおとなしいが、夜は群れをなし凶暴になるので危険である。夜間は護身用の棒切れを持つ人もいる。もちろん、狂犬病の予防接種は必要である。
あの工場の仕事を終えた後の話だが、筆者が乗っていた車が給油所に着くと犬たちがどこからともなく現れるとドライバーの話を伝え聞いた。特定の犬を可愛がったわけではないが、飼い犬でない名無しの犬たちとの交流は、犬好きの筆者には嬉しかった。
小さな恐竜、給油所の犬たち、正門を出入りする筆者にいつも敬礼してくれたオモチャの兵隊さんのような女性守衛、これらのすべてが一つのお伽話に昇華した。
次回は、コーラル・アイランド(サンゴの島)に続く。