前回から続く。
4)70~80年代の日本
69年の東名高速開通に続き、72年の列島改造論でインフラと交通網の整備に拍車がかかった。
この波に乗って、新宿西口に70年代の10年間で高さ200メートル以上のビルが5棟も建てられた。その後も高層ビルは増え続け、雨後の竹の子のような新宿高層ビル群が出現した。それは、玉石混交のビル群、たとえば、東京都庁(243m)は90年末に総工費1650億円で完成したが、2006年頃から雨漏りに悩みだしたと朝日新聞にある。【参考:朝日新聞 2006年2月21日夕刊:都庁雨漏りに泣く。完成僅か15年、修繕試算1000億円】
80年代後半はバブル景気の最盛期、公共事業は費用対効果を無視した箱物行政に進んでいった。民間でも、大規模な集合住宅や郊外型のスーパーマーケットが次々と誕生した。
他方、昔からの商店街がシャッター街に変り始めた。この頃、製造業の「空洞化」に商店街の「空洞化」が加わった。次に来るのは人口の「空洞化」、しかし、次々と表れる「空洞化」は衰退と同時に脱皮のチャンスでもある。それは「盛者必衰の理(コトワリ)」であり、また日本列島の新陳代謝でもある。冷静に対応すれば、新陳代謝の先には希望もある。
この時代には、東京と京都の路面電車が次々と撤去された。72年の第七次都電撤去で荒川線以外のすべての都電が撤去された、また、琵琶湖疏水の水力発電で1895年に実現した日本最初の路面電車も、利用者の減少との理由で78年にすべての京都市電が撤去された。特に京都の場合は、当時、欧米が試行していたLRT(ライトレール:Light Rail Transit=軽量軌道交通)に新たな可能性があったが、京都市はあっさりと撤去に踏み切った。
5)90年代のアメリカ
この年代には、企業のコンピューターシステムに重要な変革があった。それは80年代頃までに開発された古いシステム(=その時点の現行システム)の統廃合とグローバル化への脱皮だった。
すでに、このブログの「グローバル化への準備---コンピューターの知識(1)、(2)、(3)」で説明したが、60~70年代に飛躍的に進歩したコンピューターは、技術計算だけでなく事務処理にも使われるようになった。さまざまな分野に利用できるコンピューターは、汎用機と呼ばれ、80年代には大型汎用機が全盛期を迎えた。
当時、日進月歩の技術革新は次々と新しい機能を生み、その度に現行システムの修正を繰り返した。結果として、継ぎはぎだらけで効率の悪い事務処理システムが出現した。この状況は、日米欧の国々で同じだった。高価な汎用機と継ぎはぎだらけの古いシステム(現行システム)、このため企業のシステム担当部門は「金食い虫」といわれていた。
ちなみに、汎用機1台の大雑把なレンタル費は3~5000万円/月、大手の製造業では3~5台の汎用機を設置していた。このコストは、国により多少の違いがあったが、似たり寄ったりだった。
技術開発はさらに進み、80年代後半には安価なサーバーが現れた。サーバーは買取りベースで5~7000万円程度、汎用機に比べて非常に安かった。
この頃、汎用機からサーバーへの乗換え、いわゆる「ダウンサイジング(Downsizing)」が流行語になった。しかし、ダウンサイジングには、古いシステムをサーバー用に変更すると同時に継ぎはぎの機能を統廃合することも必要だった。これは現行システムの作り直しであり、時間とコストのかかる作業だった。
この頃アメリカでは、60~80年代の技術で開発した古いシステムをレガシー・システム(Legacy Systems:遺産システム)と呼んでいた。レガシー・システムは、早く切り捨てたいが簡単に切り捨てることができない負の遺産、厄介者だった。ちなみに、先に述べた東京都庁は一種のレガシー・システムであり、1000億円の修繕費は、負の遺産から発生するレガシー・コストである。
もちろん、古いシステムをサーバー用に変換すれば運用コストを削減できる。しかし、多くの企業は、この機会に最新技術による次期システムの構築を選んだ。
小回りが利かない巨大企業は別として、コンピューターに明るい中堅企業の経営者は、次期システムの開発に積極的だった。彼らは、開発に必要な人・物・金の支援、システム仕様への具体的な要求ならびに職権による現状改革の陣頭に立った。【事例紹介:工場管理8月号2012年、PP.113~119、日刊工業新聞社・・・経営者の考え方も紹介した】
たとえば、ある半導体メーカーが開発した戦略的な次期システムは、次のようなものだった。
目標:アメリカ、ヨーロッパ、アジア/太平洋の拠点業務をアメリカ本社で一元管理(集中データ処理)
◇英、独、仏、西、日本語の多言語データベースの構築と一元管理
◇会計・販売・物流・購買・生産業務のグローバル・スタンダード化と多言語・多通貨処理
◇2000年代のEU(欧州連合)への対応
◇各国官庁への現地語決算書とアメリカ本社の連結決算書の同時作成
◇アメリカ本社でのシステム開発と運用の一元管理:各国独自のシステム開発と運用の禁止
この例では、92年に開発を開始、アメリカ本社に5~6台のサーバーを設置、98年ごろに全面的に稼働した。【事例紹介:生産管理の理論と実践】
ここでコンピューターを離れて90年代の市民生活に目を移すと、そこにも変化が表れていた。
郊外の華やかなショッピングモールとは裏腹に、ダウンタウンの過疎化と治安の悪化、かつては整然としていた住宅街の芝生には雑草が目立ち、窓ガラスが割れたままの住宅も見られた。大きな車をご高齢の婦人が独りで運転、田舎の横断歩道を1回の青信号[Walk]で渡りきれない老人、地区のご老人たちをホテルに招いて日常の困り事を支援するNPO、金網で守られた住宅街など、さまざまな光景があった。
このような車社会の弊害を想定して、70年頃から連邦交通省都市大量輸送局(Urban Mass Transit Administration)は、ライトレール車両の研究を始めた。ここで生まれたLRTの概念は、80年にはサンフランシスコのLRTで実現した。
その後、欧米の都市で改良が進み90年代中頃のウィーンの市電は段差18cmの低床車になった。典型的な車社会のヒューストン(テキサス州)でさえも遅ればせながら、2004年に12kmのLRTを開業した。このLRTは、78年の構想から何度も住民投票で否決されたが、99年の住民投票で可決され26年目に実現した。人口が第4位のヒューストン、LRTによるダウンタウンの活性化と高齢化社会への対応には興味がある。
次回、「6)2000年代のタイ」に続く。
4)70~80年代の日本
69年の東名高速開通に続き、72年の列島改造論でインフラと交通網の整備に拍車がかかった。
この波に乗って、新宿西口に70年代の10年間で高さ200メートル以上のビルが5棟も建てられた。その後も高層ビルは増え続け、雨後の竹の子のような新宿高層ビル群が出現した。それは、玉石混交のビル群、たとえば、東京都庁(243m)は90年末に総工費1650億円で完成したが、2006年頃から雨漏りに悩みだしたと朝日新聞にある。【参考:朝日新聞 2006年2月21日夕刊:都庁雨漏りに泣く。完成僅か15年、修繕試算1000億円】
80年代後半はバブル景気の最盛期、公共事業は費用対効果を無視した箱物行政に進んでいった。民間でも、大規模な集合住宅や郊外型のスーパーマーケットが次々と誕生した。
他方、昔からの商店街がシャッター街に変り始めた。この頃、製造業の「空洞化」に商店街の「空洞化」が加わった。次に来るのは人口の「空洞化」、しかし、次々と表れる「空洞化」は衰退と同時に脱皮のチャンスでもある。それは「盛者必衰の理(コトワリ)」であり、また日本列島の新陳代謝でもある。冷静に対応すれば、新陳代謝の先には希望もある。
この時代には、東京と京都の路面電車が次々と撤去された。72年の第七次都電撤去で荒川線以外のすべての都電が撤去された、また、琵琶湖疏水の水力発電で1895年に実現した日本最初の路面電車も、利用者の減少との理由で78年にすべての京都市電が撤去された。特に京都の場合は、当時、欧米が試行していたLRT(ライトレール:Light Rail Transit=軽量軌道交通)に新たな可能性があったが、京都市はあっさりと撤去に踏み切った。
5)90年代のアメリカ
この年代には、企業のコンピューターシステムに重要な変革があった。それは80年代頃までに開発された古いシステム(=その時点の現行システム)の統廃合とグローバル化への脱皮だった。
すでに、このブログの「グローバル化への準備---コンピューターの知識(1)、(2)、(3)」で説明したが、60~70年代に飛躍的に進歩したコンピューターは、技術計算だけでなく事務処理にも使われるようになった。さまざまな分野に利用できるコンピューターは、汎用機と呼ばれ、80年代には大型汎用機が全盛期を迎えた。
当時、日進月歩の技術革新は次々と新しい機能を生み、その度に現行システムの修正を繰り返した。結果として、継ぎはぎだらけで効率の悪い事務処理システムが出現した。この状況は、日米欧の国々で同じだった。高価な汎用機と継ぎはぎだらけの古いシステム(現行システム)、このため企業のシステム担当部門は「金食い虫」といわれていた。
ちなみに、汎用機1台の大雑把なレンタル費は3~5000万円/月、大手の製造業では3~5台の汎用機を設置していた。このコストは、国により多少の違いがあったが、似たり寄ったりだった。
技術開発はさらに進み、80年代後半には安価なサーバーが現れた。サーバーは買取りベースで5~7000万円程度、汎用機に比べて非常に安かった。
この頃、汎用機からサーバーへの乗換え、いわゆる「ダウンサイジング(Downsizing)」が流行語になった。しかし、ダウンサイジングには、古いシステムをサーバー用に変更すると同時に継ぎはぎの機能を統廃合することも必要だった。これは現行システムの作り直しであり、時間とコストのかかる作業だった。
この頃アメリカでは、60~80年代の技術で開発した古いシステムをレガシー・システム(Legacy Systems:遺産システム)と呼んでいた。レガシー・システムは、早く切り捨てたいが簡単に切り捨てることができない負の遺産、厄介者だった。ちなみに、先に述べた東京都庁は一種のレガシー・システムであり、1000億円の修繕費は、負の遺産から発生するレガシー・コストである。
もちろん、古いシステムをサーバー用に変換すれば運用コストを削減できる。しかし、多くの企業は、この機会に最新技術による次期システムの構築を選んだ。
小回りが利かない巨大企業は別として、コンピューターに明るい中堅企業の経営者は、次期システムの開発に積極的だった。彼らは、開発に必要な人・物・金の支援、システム仕様への具体的な要求ならびに職権による現状改革の陣頭に立った。【事例紹介:工場管理8月号2012年、PP.113~119、日刊工業新聞社・・・経営者の考え方も紹介した】
たとえば、ある半導体メーカーが開発した戦略的な次期システムは、次のようなものだった。
目標:アメリカ、ヨーロッパ、アジア/太平洋の拠点業務をアメリカ本社で一元管理(集中データ処理)
◇英、独、仏、西、日本語の多言語データベースの構築と一元管理
◇会計・販売・物流・購買・生産業務のグローバル・スタンダード化と多言語・多通貨処理
◇2000年代のEU(欧州連合)への対応
◇各国官庁への現地語決算書とアメリカ本社の連結決算書の同時作成
◇アメリカ本社でのシステム開発と運用の一元管理:各国独自のシステム開発と運用の禁止
この例では、92年に開発を開始、アメリカ本社に5~6台のサーバーを設置、98年ごろに全面的に稼働した。【事例紹介:生産管理の理論と実践】
ここでコンピューターを離れて90年代の市民生活に目を移すと、そこにも変化が表れていた。
郊外の華やかなショッピングモールとは裏腹に、ダウンタウンの過疎化と治安の悪化、かつては整然としていた住宅街の芝生には雑草が目立ち、窓ガラスが割れたままの住宅も見られた。大きな車をご高齢の婦人が独りで運転、田舎の横断歩道を1回の青信号[Walk]で渡りきれない老人、地区のご老人たちをホテルに招いて日常の困り事を支援するNPO、金網で守られた住宅街など、さまざまな光景があった。
このような車社会の弊害を想定して、70年頃から連邦交通省都市大量輸送局(Urban Mass Transit Administration)は、ライトレール車両の研究を始めた。ここで生まれたLRTの概念は、80年にはサンフランシスコのLRTで実現した。
その後、欧米の都市で改良が進み90年代中頃のウィーンの市電は段差18cmの低床車になった。典型的な車社会のヒューストン(テキサス州)でさえも遅ればせながら、2004年に12kmのLRTを開業した。このLRTは、78年の構想から何度も住民投票で否決されたが、99年の住民投票で可決され26年目に実現した。人口が第4位のヒューストン、LRTによるダウンタウンの活性化と高齢化社会への対応には興味がある。
次回、「6)2000年代のタイ」に続く。