次の日も、またその次の日も、翔太の仕事
は皿洗いだった。
S店の門をたたいてから、もう数か月とい
う時間が経っている。
(いつになったら、麺のこね方や打ち方を
教えてもらえるのだろう。製麺所は通りに面
している。おれのことを気にかけている人が
いるとすればな。すぐ目につくんだが)
翔太は、いくらか、うんざりした気持ちに
なっていた。
グラスの口の部分に縦にひびが入っている
のに気づかず、右手に持ったスポンジに力を
こめた。
その瞬間、人さし指に激痛が走った。
飛び出した血が、翔太の目の前にある洗い
場の壁を、赤く染めた。
あわてて傷口に唇をおっつけ。すすったり
飲み込んだりしたが、口の中に、鉄さびの味
が広がるばかりだ。
顔面蒼白になった翔太の背筋を、ついっと
冷たいものが走る。
(先輩に見つかったりしたらどうしよう)
バンダナ代わりに頭に巻いたタオルをすば
やく左手だけで取りはずし、血のしたたりだ
した人さし指を気にしながら、右手でグウを
作った。
そのこぶしが人目につかないように、タオ
ルでぐるぐると巻いた。
痛みは去るどころか、つのるばかりだ。
(ひょっとして、急いで外科の先生のとこ
ろにかけつけたほうがいいのかも)
そんな思いが、翔太の頭に浮かんだ。
突然、だれかに右肩を叩かれ、翔太ははっ
として、うつむいたまま、振り向いた。
「早く手当しろ。それで切ったら、なかな
か止まらんぞ」
野太い声が、男の正体を教えている。
翔太は礼の代わりに、店長の方を向き、二
度三度と頭を下げた。
「さあさ、早く行け。店の裏手に自転車が
ある。前かごの付いた赤っぽいのがおれのだ
からよ。かみさんのだから気をつけてな。J
R駅のまん前に外科がある。でっかい看板が
かかってるからすぐわかる。優しい先生だか
らな」
「はい、すみません。ほんとにありがとう
ございます」
人は見かけじゃないなと、翔太はペダルを
踏みながら思った。
小田付方面に行くのは、久しぶりだった。
S店に面接に来て以来だなと思い、翔太は
運送トラックが行きかう道を、時折、風にあ
おられ、転びそうになりながら懸命に走った。
立ちならぶ家や工場に見おぼえがある。
白いなまこのような模様が壁に入り組んで
刻まれているのは、確か酒蔵だったよな。
翔太は、自ら問うては、自ら答えた。
左手だけで、しっかりとハンドルをつかん
でいる。タオルを巻いた右手は、ハンドルに
のせているだけだ。タオルできつく結わえて
いるせいだろう。右手の人さし指の感覚がはっ
きりしない。血が止まりかけているのか。そ
れとも痛みに馴染んだだけなのか。
翔太は認識できないでいた。
自転車がときどきふらつく。建物の間から
頂上付近が白くなった山々がのぞく。
翔太にとって北国の冬は初めて。その寒さ
は彼には想像もつかないだろう。
(できることなら、このまま何もかも捨て
てふるさとに帰りたい)
そんな弱気がふと脳裏をよぎったが、翔太
は大げさに頭を振った。
両足に次第に力がこもり、彼の体を、ぐい
ぐいと外科医院に運んだ。
は皿洗いだった。
S店の門をたたいてから、もう数か月とい
う時間が経っている。
(いつになったら、麺のこね方や打ち方を
教えてもらえるのだろう。製麺所は通りに面
している。おれのことを気にかけている人が
いるとすればな。すぐ目につくんだが)
翔太は、いくらか、うんざりした気持ちに
なっていた。
グラスの口の部分に縦にひびが入っている
のに気づかず、右手に持ったスポンジに力を
こめた。
その瞬間、人さし指に激痛が走った。
飛び出した血が、翔太の目の前にある洗い
場の壁を、赤く染めた。
あわてて傷口に唇をおっつけ。すすったり
飲み込んだりしたが、口の中に、鉄さびの味
が広がるばかりだ。
顔面蒼白になった翔太の背筋を、ついっと
冷たいものが走る。
(先輩に見つかったりしたらどうしよう)
バンダナ代わりに頭に巻いたタオルをすば
やく左手だけで取りはずし、血のしたたりだ
した人さし指を気にしながら、右手でグウを
作った。
そのこぶしが人目につかないように、タオ
ルでぐるぐると巻いた。
痛みは去るどころか、つのるばかりだ。
(ひょっとして、急いで外科の先生のとこ
ろにかけつけたほうがいいのかも)
そんな思いが、翔太の頭に浮かんだ。
突然、だれかに右肩を叩かれ、翔太ははっ
として、うつむいたまま、振り向いた。
「早く手当しろ。それで切ったら、なかな
か止まらんぞ」
野太い声が、男の正体を教えている。
翔太は礼の代わりに、店長の方を向き、二
度三度と頭を下げた。
「さあさ、早く行け。店の裏手に自転車が
ある。前かごの付いた赤っぽいのがおれのだ
からよ。かみさんのだから気をつけてな。J
R駅のまん前に外科がある。でっかい看板が
かかってるからすぐわかる。優しい先生だか
らな」
「はい、すみません。ほんとにありがとう
ございます」
人は見かけじゃないなと、翔太はペダルを
踏みながら思った。
小田付方面に行くのは、久しぶりだった。
S店に面接に来て以来だなと思い、翔太は
運送トラックが行きかう道を、時折、風にあ
おられ、転びそうになりながら懸命に走った。
立ちならぶ家や工場に見おぼえがある。
白いなまこのような模様が壁に入り組んで
刻まれているのは、確か酒蔵だったよな。
翔太は、自ら問うては、自ら答えた。
左手だけで、しっかりとハンドルをつかん
でいる。タオルを巻いた右手は、ハンドルに
のせているだけだ。タオルできつく結わえて
いるせいだろう。右手の人さし指の感覚がはっ
きりしない。血が止まりかけているのか。そ
れとも痛みに馴染んだだけなのか。
翔太は認識できないでいた。
自転車がときどきふらつく。建物の間から
頂上付近が白くなった山々がのぞく。
翔太にとって北国の冬は初めて。その寒さ
は彼には想像もつかないだろう。
(できることなら、このまま何もかも捨て
てふるさとに帰りたい)
そんな弱気がふと脳裏をよぎったが、翔太
は大げさに頭を振った。
両足に次第に力がこもり、彼の体を、ぐい
ぐいと外科医院に運んだ。