金子翔太が住んでいる二階建てのアパー
トは築四十年。
いかにも古めかしい。
トイレは各階ごとにひとつずつあるもの
の、風呂は共同で、一階にひとつあるだけ
だった。
大した貯金もなしに、この町にやって来
た翔太だったので、格安物件だからと飛び
つくようにして契約を交わした。
ドアを開けて部屋に入るとすぐに、靴を
五足もならべればいっぱいになる広さの厚
いビニルが敷かれた上がり框。
店の先輩連中に、会津の女性のことやら
何やらで、さんざんに叱責されたり、冷や
かされたその日。
翔太は店からアパートの二階の部屋に帰
るとすぐに、履いていた靴を上がり框にぬ
ぎちらかすと、スリッパにはき替えないこ
ともなしに、洗い場にしつらえられた水道
の栓をひねった。
汗が顔面にまでしたたってしまいそうな
るので、頭に巻いたタオルはとらない。
顔を横に向けたまま、ジャーと勢いよく
流れ出る水の柱に、彼の丸めたくちびるを
近づけ、ごくごく、喉を鳴らして飲んだ。
それから、ふうとひと息吐き、食卓下か
ら大きく引き出されたままになっていた椅
子に腰かけた。
お腹は空いていない。
店で、客用の食材のあまりものを適当に
料理して食べてきたからだ。
まずは、食器だなの引き出しに入れてお
いたスマホの着信を調べた。
実家の母がラインのトークにひんぱんに
便りをよこす。
トークの部分に、赤い印が見あたらない。
(おふくろも、とうとうおれのことを忘
れてくれたらしい)
翔太はそう思い、ほっとした。
だが、同時に心配にもなった。
ひょっとして彼女が病気にでもなってし
まったかと気をもんだからである。
やたらと目がしょぼしょぼする。
この日は、普段よりも、先輩に叱られる
ことが多かった。それにいろんなことに気
を遣ってしまうようになったせいかもしれ
ない。
働き始めた頃はただわき目もふらず、皿
洗いだけに専念するだけで良かった。
目と目の間を、翔太は右手の親指と人さ
し指でつまむようにしてもんだ。
足もとに、ドアの外の冷気が、こっそり
しのびこんでくる。季節は秋から冬へと変
わろうとしていた。
トン、トン。
不意に、ドアがたたかれた。
粗野なたたき方ではない。どちらかとい
えば女性がよくするようなノックだ。
そう翔太は思った。
時刻は、すでに、午後四時を過ぎようと
している。
(何かの間違いか、それとも……)
翔太は半信半疑のままで、椅子から身を
起こし、
「はい、どなたさまですか」
と言いながら、ドアを開けた。
だが、だれもドアの前にいなかった。
(子どものいたずら?それとも、すぐに
開けなかったから、階下に降りて行ってし
まったのだろうか。そうなら、階段を下り
る音が……)
翔太はそれ以上、気にしないことにして、
ドアを閉め、部屋の中に入った。
やかんに水を入れ、お湯をわかすことに
する。インスタントコーヒーを飲みたくなっ
たからだった。
しばらくすると、洗い場の前のガラスが
朱色に染まりはじめた。
トは築四十年。
いかにも古めかしい。
トイレは各階ごとにひとつずつあるもの
の、風呂は共同で、一階にひとつあるだけ
だった。
大した貯金もなしに、この町にやって来
た翔太だったので、格安物件だからと飛び
つくようにして契約を交わした。
ドアを開けて部屋に入るとすぐに、靴を
五足もならべればいっぱいになる広さの厚
いビニルが敷かれた上がり框。
店の先輩連中に、会津の女性のことやら
何やらで、さんざんに叱責されたり、冷や
かされたその日。
翔太は店からアパートの二階の部屋に帰
るとすぐに、履いていた靴を上がり框にぬ
ぎちらかすと、スリッパにはき替えないこ
ともなしに、洗い場にしつらえられた水道
の栓をひねった。
汗が顔面にまでしたたってしまいそうな
るので、頭に巻いたタオルはとらない。
顔を横に向けたまま、ジャーと勢いよく
流れ出る水の柱に、彼の丸めたくちびるを
近づけ、ごくごく、喉を鳴らして飲んだ。
それから、ふうとひと息吐き、食卓下か
ら大きく引き出されたままになっていた椅
子に腰かけた。
お腹は空いていない。
店で、客用の食材のあまりものを適当に
料理して食べてきたからだ。
まずは、食器だなの引き出しに入れてお
いたスマホの着信を調べた。
実家の母がラインのトークにひんぱんに
便りをよこす。
トークの部分に、赤い印が見あたらない。
(おふくろも、とうとうおれのことを忘
れてくれたらしい)
翔太はそう思い、ほっとした。
だが、同時に心配にもなった。
ひょっとして彼女が病気にでもなってし
まったかと気をもんだからである。
やたらと目がしょぼしょぼする。
この日は、普段よりも、先輩に叱られる
ことが多かった。それにいろんなことに気
を遣ってしまうようになったせいかもしれ
ない。
働き始めた頃はただわき目もふらず、皿
洗いだけに専念するだけで良かった。
目と目の間を、翔太は右手の親指と人さ
し指でつまむようにしてもんだ。
足もとに、ドアの外の冷気が、こっそり
しのびこんでくる。季節は秋から冬へと変
わろうとしていた。
トン、トン。
不意に、ドアがたたかれた。
粗野なたたき方ではない。どちらかとい
えば女性がよくするようなノックだ。
そう翔太は思った。
時刻は、すでに、午後四時を過ぎようと
している。
(何かの間違いか、それとも……)
翔太は半信半疑のままで、椅子から身を
起こし、
「はい、どなたさまですか」
と言いながら、ドアを開けた。
だが、だれもドアの前にいなかった。
(子どものいたずら?それとも、すぐに
開けなかったから、階下に降りて行ってし
まったのだろうか。そうなら、階段を下り
る音が……)
翔太はそれ以上、気にしないことにして、
ドアを閉め、部屋の中に入った。
やかんに水を入れ、お湯をわかすことに
する。インスタントコーヒーを飲みたくなっ
たからだった。
しばらくすると、洗い場の前のガラスが
朱色に染まりはじめた。