油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

職人になりたい。  その4

2021-03-22 19:23:30 | 小説
 稲荷どおりを左にまがると、広いパーキン
グの向こうに見おぼえのある駅が見えた。
 春に降り立って以来一度も訪れていない。
 初心にかえりたい、今一度自分が何をやっ
てみたいのか考えてみたい気がするが、今そ
んな余裕はない。
 グラスで切った傷口がずきずき痛む。
 右手に巻いたタオルがはずれかかっている
のに気づき、翔太はちっと舌打ちした。
 スピードが速すぎた。
 両足をアスファルトの路面にむかって、グ
ンとのばし、左右のつま先で路面をトントン
突っつき、自転車の速度をゆるめる。
 駅前からまっすぐ北へむかう道に、教えら
れた看板はなさそうだった。
 焦りが翔太の落ち着きを奪いそうになる。
 電柱に外科医の小さな看板。
 翔太は角をまがろうとして、左手だけで運
転するが、またたく間に大きくバランスをく
ずした。
 直前まで彼が見ていた通行人や子犬、薬
局や衣料品店の看板などが、彼の視界の中で
ぐるっと回転する。
 翔太は転がってしまった。
 右手は大丈夫だった。どうやら無意識にか
ばっていたらしい。背中や左手がやたらと痛
んだ。顔がひりひりするのはどうしてだろう
と、ふさいでいた両目をあけた。
 車体が翔太の上にかぶさっている。
 なんとかして起きなくちゃと思うが、まま
にならない。右手が自由に使えない。
 どれくらいその格好でいたろう。
 通りがかりの人がいく人か、近づいて来て
声をかけてくれた。
 「だいじょうぶかい。どこか痛むかい」
 白髪の目立つ年配の男の人が、眉根にしわ
を寄せ、翔太の顔をのぞきこんだ。
 小犬の散歩の最中だったのだろう。白い毛
だらけの動物が寝ころんでいる翔太の顔をぺ
ろぺろなめた。
 「転んだのは大したことじゃないんですけ
れど、ちょっと前にケガしましてね、指をガ
ラスで切ったものですから……」
 「そりゃ大変だ。どれ、ちょっと見せてご
らん」
 その老人はいくらか医療の経験があるらし
く、手際よく、翔太の右手のタオルをするす
ると巻き戻した。
 ほとんど血は止まっていた。だがすぐにじ
くじくとにじみ出す。
 「外科はこの路地の先じゃ。わしが懇意に
している医者が診ている。どれ、いっしょに
行ってやろう」
 「ありがとうございます。ほんとに助かり
ます」
 店長が言ったように確かに、外科医院の塀
にかかっているトタンの看板は大きかった。
 外科医はいくつだろうか。頭の毛も、鼻の
下にたくわえているひげも、真っ白。
 翔太はちょっとした恐怖を抱いた。
 健康保険証は、すでに受付の女の人に渡し
てあるから、むずかしいことは言われないは
ずだった。
 (この人って、ずいぶん年老いてるみたい
だけど、きちんと治療できるんだろうか)
 そう思うと、翔太の不安がつのる。
 ホルマリンの匂いのただよう診察室の真ん
中で、彼は床を見つめた。
 胸が鼓動が高まる。
 老医師は、うっううんとせき払いしてから、
顔をしかめた。カルテにペンを走らせる。
 「あんた、その言葉づかいからすると、こ
のあたりの人じゃないな」
 「はい。すみません。東京からこの春来ま
した。ラーメンを作りたかったんです」
 翔太は元気よく言った。
 「なるほど。すると喜多方には知り合いは
いないんだ。親戚とか……」
 「はい。そのとおりです」
 ちょっとの間、医師はだまった。
 「まったく近頃の若いもんときたら」
 医師はずぱっと言った。
 「でも大丈夫です。なんとかやってます」
 「わしが言うのはな。これから先のことじゃ。
自分の意志を貫くっていうのはな。わかって
るだろうがな、その年になれば……」
 「はあ……」
 「ラーメンラーメンって、すぐに飛びつく
とひどいめにあう。まあそれも仕方ない。と
なりの部屋に行ってて。処置するから。おい
A子さん、頼むよ」
 看護師付きの老医師の処置は、実にあざや
かだった。
 ほんの少しの時間で傷口を縫い、消毒を済
ませた。
 「ありがとうございました」
 別れぎわ、翔太は頭を下げた。
 「二、三針縫っておいたからな。ラーメン
屋はしばらく休みだ。明日、また来い」
 と真剣な表情で言った。
 
 
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする