小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

『万引き家族』を見て(その2)

2018年07月10日 01時29分32秒 | 映画


あらすじを続けます。

翔太は施設に入れられ、そこから学校に通うことに。
ゆりは両親の下へ。母親は相変わらずゆりに冷たく、化粧中にゆりが頬を触ってしまうと、「痛ッ!」と言って「ごめんなさいは!」と強く繰り返します。
ゆりは答えません。
頬の傷は明らかに夫の仕業です。
その後すぐ母親は「お洋服買ってあげようか」と懐柔にかかりますが、ゆりは首を横に振ります。

施設から一日外出してきた翔太は、アパート住まいをしている治を訪ねます。
川べりで、翔太がかつて盗んだ高価な釣り竿二本で「父子」は釣りを楽しみます。
治はこの釣り竿を売るつもりでしたが、釣り好きの翔太の希望を受け入れてそのままになっていたのでした。

そのあと、二人は拘置所の信代と面会します。
信代は死体遺棄と誘拐の罪を一人で背負って明るくたくましい調子で二人に接します。
すまながる治に、「いいって。お釣りがくるくらいだよ。あんた前科があるじゃないの。五年は食らうよ」と突き放します。
信代は誘拐容疑も背負うつもりなのです。
翔太に対しては、「あんたを見つけたのはね、パチンコ屋の駐車場。車はビッツ(?)、番号は習志野。本当の両親、その気で探せば見つかるかも知ないよ」と屈託なく情報を伝えます。
治は少し焦り、「そんなこと言うために翔太を呼んだのか」。
「そうよ。私たちではもう無理よ」と信代。

その夜、治と翔太は治のアパートで食事をします。
治がかつてうまい食い方として教えたカップ麺にコロッケ。
翔太は許されていない外泊をすることになり、食後、二人で雪だるまを作ります。
冒頭の場面でコロッケを買った時も冬でしたから、ほぼ一年経ったことがわかります。
およそ一年間の「家族劇」なのでした。

せんべい布団で背中合わせに寝る二人。
「もう『おじさん』でいいよ」と治。
「うん」と翔太。
「僕と別れるつもりだったの」と翔太。
しばらく沈黙した後、「うん」と治。
これは夜逃げの時の心境とはおそらく違っていたでしょう。
でも治は「そんなつもりじゃなかった」とは抗弁しませんでした。

夜が明けて施設に帰る翔太と見送りの治。
バスがやってくる寸前に翔太がぽつりと「ぼく、わざと逃げたんだ」とつぶやきます。
わかってる、わかってるという表情の治。
バスに乗り込んだ翔太を治は追いかけますが、翔太は気張ってなかなか振り向こうとしません。
しかしとうとう振り向いてじっと後ろを見つめます。

ゆりはアパートの通路で、ひとり数え歌をうたいながら破片のようなものをガラス瓶に入れています。
この歌はおそらく初枝に教わったのでしょう。
それから台の上に載って、外をじっと見つめます……。

このラストシーンは、まるで賽の河原で石を積んでいる子どものようです。
「鬼」はやはり壊しに来るのでしょうか。

翔太は生きる希望を暗示させて去っていきますが、ゆりのこの姿には、何とも救いようのないものを感じさせます。

さて長々と筋を追ってきたのですが、この作品に、現代家族の荒廃に対する批判を読み込んだり、血のつながりよりも愛情といった図式的メッセージを読み込んだりするのは、つまらない鑑賞の仕方です。
まずは作品そのものがテクニカルな意味でいかに優れているかを挙げてみましょう。
それを知っていただくためにも、詳しく筋を追いかける必要があったのです。

まず、小道具を中心とした多くの伏線が張ってあって、それらが見事に生きています。
治が初めてフェンス越しにゆりに差し出すコロッケ。これは最後に翔太と食べる場面にそ
のままつながります。
「仕事」の帰りにコロッケを買う時に治が翔太にする、一発でガラスを割れるハンマーの話。これは車のガラスを割る治に同調しない翔太のためらいにつながっています。
スーパーで水着をあてがわれた時のゆりの恐怖や、お風呂での信代とゆりの傷の見せ合いや、万引きした釣り竿が後に重要な意味を持つことについてはすでに述べました。

また前には述べませんでしたが、翔太は国語の教科書に載っていた「スイミー」の話に強く惹きつけられています。
これは翔太の、広い世界への憧れと、力を合わせて大きな敵を追い払う弱者たちへの共感を表現しているでしょう。

解雇された後の信代の妙にセクシーな下着姿とそれを目のやり場に困るようにちらちら見る治。
この後すぐ信代が半ば強引にセックスを求めるのですが、これは仕事の拘束からの解放感を表しているでしょう。

音だけしか聞こえない隅田川の花火大会を六人揃って縁先から見上げるシーン。
直後にズームがぐっと引かれてこの家がビルに囲まれて孤立している様子が強調されますが、しかし逆にこのとき「家族」の絆が海水浴のシーンと同じように象徴的に表現されます。

また、ゆりが髪を短くして名前をりんと変えさせられたとき、亜紀がりんと一緒に鏡に映りながら、「お姉ちゃんももう一つ名前を持っているんだ」と言い、りんが「なんていうの」と聞くと「さやか」と源氏名を答えます。
するとりんは「りんのがいい」とはっきり言います。
まるで愛情の虚実をわきまえているかのように。

新しい名前が与えられるということは、自分が新しい共同性の中でアイデンティティを得たという重要な意味を持っています。
幼いゆり(りん)はこの時、この「家族」の一員であることをついに自覚したのです。
鏡に映った自分をうれしそうに「柴田家」のメンバーとして自己承認する「りん」でした。
さりげなくその事実を示す是枝監督の演出は心憎いの一言に尽きます。

しかしすでに述べたように、何と言っても伏線として決定的なのは、「やまとや」の親父さんの「妹にはさせるなよ」というひとことでしょう。
ここを起点として、この「疑似家族」は「失楽園」への道を歩み始めるのですから。
じつはこの後しばらくして、翔太とりんがもう一度「やまとや」を訪ねるシーンがあります。
ところが入り口には「忌中」と張り紙があり、扉が閉まっています。
「お休み?」とりんが聞くのですが、翔太は答えません。
何かを悟ったようです。
翔太はきちんとお金を払うつもりだったのかもしれません。
しかしそれはかなわず、この世の掟を優しく暗示してくれた親父さんとの別離が、翔太の倫理観をいっそう育てることになったのだと考えられます。

これまで筆者は、治と翔太が万引きを常習としていたり、初枝が金目当てに毎月亡夫の息子の家に金をせびりに行っていたり、夫婦が初枝の遺体を埋めることに大してためらいを感じていなかったり、初枝の死後、信代が年金を平気で引き出していたりすることに、何らかの判断を示してきませんでした。
それには理由があります。
この作品は、たくましく明るく生きようとする庶民の生活を描いてはいますが、貧困の惨めさのようなものはまったく感じられません。
やっていることは反社会的なのですが、そのどれもが、家族の絆をむしろ強める方向に作用しています。
破綻をきたすまでは、だんだんみんなの幸福感が増していくと書いた所以です。

家族とはエロス(情緒)によって結びついて日常生活を共有する集団です。
その共同性の内部では、法社会の約束に反することでも、情緒を支える物語が成立していさえすれば、維持することが可能なのです。
家族は個別的な宗教集団と言ってもいいかもしれません。
この家族の場合、その教義の中心は「万引き」でした。
また治と信代を強く結びつけてきたのが「殺人」であったという事実も付け加える必要があるでしょう。

現代日本を舞台にした映画という枠組みの中ではなかなか気づかないかもしれませんが、法的なルールに反することで家族的な共同性の絆を維持するというあり方は、歴史に思いをはせればさほど珍しいことではありません。
山賊一家、マフィア、現代でもロマ(ジプシー)などいくらでも見つかります。
あるいは昔の遊牧民などは、土地所有や私的所有の観念が希薄ですから、今でなら犯罪と見なされることも平気で行っていたでしょうし、仲間が死ねば彼ら固有のやり方で埋葬していたでしょう。
つまり、エロス(情緒)を絆として結びついた集団は、近代法の支配する社会などよりもはるかに時間性をはらんでいるのです。
『万引き家族』の成員たちは、家族の持つそうした原始性を保存していたのであり、しかも情緒が醸し出す限りでの「人倫性」はしっかりと確保しています。
だれもが互いに対して温かく、特に幼い新参者のゆりには限りなく愛情を注いでいるのですから。

しかし近代社会のルールが自分自身と接触する限りで、そういう人倫性を認めないのは当然です。
存在に気づくことすらないでしょう。
筆者はこの映画を見て、四十年近く前に起きた千石剛賢をリーダーとする「イエスの方舟」を思い出しました。
マスコミの誤解と激しいバッシングによって漂流を余儀なくされたこの教団は、主に家庭的悩みを抱えた若い女性たちを信徒とする小さな情緒的共同体でした。
彼らはじつに真面目な人たちであり、反社会的な行動すら何一つ起こしていません。

マスコミを中心に法社会の「正義」を振りかざす風潮が強まっていますが、もちろん是枝監督は、それを告発する意図などをもってこの映画を作ったのではないでしょう。
監督の意図を忖度することはできませんし、またその必要もありませんが、筆者自身は、この作品は、擬似家族解体の物語であるよりもむしろ、逆説的な家族創造の物語であると考えます。
しかしあらゆる家族は歴史的社会的条件を背負う中で生まれ、その営みを続けますから、ゼロから家族を創造することはできません。
そうかといってありきたりの血縁家族をもってきたのでは創造は果たせない。
そこで一般社会の原理(理性)とは根本的に異なる原理を持つ家族の共同性を際立たせるために、法的には軽犯罪である万引きという絆=教義を出発点に置いたのではないでしょうか。
しかしこの一種の「実験」を長期間にわたって続けるのが不可能であることは、監督の中ではもちろん織り込み済みでした。

渡辺京二氏はかつて「人は必ず共同性に飢える存在である」と述べました。
その飢えが表出される源は、エロスであり情緒なのです。

初めにこの作品を傑作と評しましたが、あえて難を言えば、限られた時間の中にカットを詰め込み過ぎている点でしょうか。
シーンが次々に移りゆくので、一つ一つのカットにはすべて背景があることが一見したところではわかりにくいかもしれません。
しかし逆にこのことは、作品の文学性の高さを示すものともなっています。
説明的部分を極力省いて映像と切り詰められたセリフの展開だけで見せる手法は、この監督の得意とするところでしょうが、おそらく二度、三度と見るうちにその味わい深さがしみとおってくると確信します。

映画が終わって出口に向かった時、二人のお年寄り(私と同年齢くらいか)が、「なんだかよくわかんねえな」とつぶやいているのを耳にしました。映画というものは一般大衆向けに劇場で上映されるということを制約条件としているので、その意味では、劇場向きではなく、DVDなどで一人じっくりと鑑賞するのに適した作品かと思います。



(映画を一度しか見ていないため、セリフその他細かい点で誤りを犯している可能性があります。平にご容赦ください。)

『万引き家族』を見て(その1)

2018年07月08日 12時29分47秒 | 映画




数日前、カンヌ国際映画祭で栄誉あるパルムドールを獲得した是枝裕和監督の『万引き家族』を見てきました。
じつに緻密に組み立てられた傑作です。
ミステリー仕立てにもなっているので、そういう楽しみかたもあり。

是枝監督の映画は、これまで『歩いても歩いても』と『そして父になる』の二本しか見たことがありませんでしたが、三作見た限りでは、本作が群を抜いていると思います。
というか、彼が追求してきたテーマ――「不全を抱えた家族」とでも言っておきましょうか――が今回ほどくっきりと打ち出された作品はなかったのではないかと考えられます。
その意味で、一つの頂点を極めたような気がします。
ここまで同一テーマを突き詰めると、この先が難しいかもしれない、と余計な心配をしてしまいました。
もっとも他の作品を見ていないので、あまり大きなことは言えないのですが。

この作品を本気で批評してみたいと思うので、その関係で、ネタバレと非難されるのを覚悟の上、あらすじを詳しく述べます。

ビルの谷間に取り残された狭く汚いおんぼろ屋に住む五人家族の柴田家。

祖母・初枝:樹木希林
父・治:リリー・フランキー
母・信代:安藤サクラ
父の妹・亜紀:松岡茉優
息子・祥太:城桧吏


治は日雇いの建設労働者、信代はクリーニング会社のパートタイマー、亜紀は(時々?)風俗嬢。
これだけでは暮らしが成り立たないので、みな祖母の年金を当てにしています。
翔太は11歳ですが学校に通っていません。
治は日用品や食材を万引きで得ていて、翔太にそれを指南中。翔太もかなりの腕前に達しています。
ある夜「仕事」を終えた二人はコロッケを買って帰宅途中、マンションから締め出されてしゃがみ込んでいる幼女(ゆり:佐々木みゆ)を見つけます。
これが初めてではありません。
治は哀れに思ってコロッケを差し出したのち、家に連れ帰ります。
夜更けに夫婦で返しに行きますが、親が大喧嘩の真っ最中。
窓越しに事情を知った二人は、返すに返せず戻ってきてしまいます。
誘拐ではないかとの詮議もしますが、監禁も身代金要求もしていないのだから誘拐ではないという話になり、養う結果に。
虐待の環境に慣れ切っていたゆりは、初めはなかなか打ち解けませんが、初枝に優しくしてもらったり、信代とお風呂に入ったり、翔太と遊んだりしているうちに、しだいに溶け込んでいきます。

治は現場で足の骨にひびが入るケガをし、労災も出ず自宅療養。
やがて翔太はゆりに万引きを教えるようになります。

あるときテレビでゆりの失踪事件が報道されます。
ブラウン管からは二か月も捜索願が出ていなかったことをいぶかる声も。
柴田家では、髪を切り名前も「りん」と変えることにします。
りんの洋服や水着を買うために(実は盗むために)初枝と信代はりんを連れてスーパーに出かけます。
更衣室でバッグにしこたま衣服を詰め込む初枝。
洋服を買ってもらった後には叱られるという観念連合に縛られていて、「ぶたない?」と聞くりん。

その後、信代はゆり(りん)が以前に着ていた洋服を、「いい、燃やすわよ」といいながら庭で火にくべます。
めらめらと炎が揺らめきます。

りんは、夜になっても帰宅しない翔太を慕って寒い玄関で待ち続けます。
治が廃車にこもっている翔太を見つけ、りんが妹であることを認めさせます。
ついでに「俺はお前にとって……」と言いかけ、口形を作って「とうちゃん」と言わせようとしますが、翔太は「まだ」と拒否。
しかし「いつかは」という合図を交わして夜更けの駐車場でふざけ合います。

あるとき信代ともう一人の同僚が上司から呼ばれ、ベテラン二人のうちどちらかが解雇の対象とされます。
遠慮なく冗談を言い合う仲だった二人の関係はこわばり、相手にりんを隠していることを指摘された信代は、しゃべったら殺すと言いつつ、解雇を受け入れます。

かく話が進むうち、以上六人は、一人も法的に認められた「家族」ではないことがしだいにわかってきます。
初枝は亡夫に不倫されて離婚、一人残され、どこで治夫婦(彼らも籍を入れていません)と出会ったか、同居することになったのですが、亜紀も治の妹ではなく、初枝の亡夫が新しく結んだ家庭から生まれた孫世代に当たるので、初枝とは血がつながっていません。
亜紀は二人姉妹の姉ですが、裕福な家の子だったにもかかわらず、妹ばかり可愛がる親に反発して家出し、初枝と知り合って同居するようになったのです。
初枝は亡夫の命日にひそかに亜紀の実家を訪ね、いくばくかの金をせびることを続けています。
翔太も治夫婦の子ではなく、ゆり(りん)と同じように家族からはじき出されて車の中にいたのを、治に拾い出されてメンバーに加わったのでした。じつは後でわかることですが、翔太という名前は、治の本名だったのです。

この「疑似家族」は時間を追うごとにしだいにその絆と幸福感が高まっていく様子が観る者の目にはっきり映るように描かれています。
亜紀は風俗店で言葉に障害を持つ若者と出会って、気脈を通じさせることができ、少しうきうきした気分で帰宅。
激しい雨の降る真昼、治と信代は久しくなかった性行為に及ぶことができます。
その絆と幸福感の頂点を感じさせるのが、一家六人で海水浴に出かけるシーンです。
全員が楽しんでいることがとてもよくわかります。

この後、初枝はあっさりと死んでしまいますが、「家族」でないため死亡届も出せす葬式代も出せません。
治が中心となりみんなで庭に穴を掘って埋めてしまいます。
死亡届を出さないままにしておくので、年金を引き出すことができます。
信代がATMからこれを引き出したとき、翔太もついてきて「いくら?」と聞きます。
「十一万六千円」と淡々と答える信代。
二人で歩いていると物売りが「買ってかない、お母さん」と呼びかけるので信代は思わず笑い崩れますが、その瞬間をとらえて翔太が「お母さんて呼ばれたい?」と聞きます。
信代は複雑な表情を浮かべます。
治よりはクールです。

さてこれよりも前に重要な伏線があります。

翔太がりんと共謀で駄菓子屋で万引きをはたらきますが、駄菓子屋(やまとや)の親父さん(柄本明)はこれをとうに見抜いており、おまけをつけてくれながら「妹にはさせるなよ」とぶっきらぼうに言います。
このひとことが翔太の中でずっと尾を引き、店のものは誰のものでもないから取っていいんだと治から教えられてきたこととの間に心の葛藤を呼び起こすのです。
治が翔太を連れて駐車中の車のガラスを割って盗みをはたらこうとした時、翔太は、「これは人のものじゃないの」と抵抗の気持ちを吐露しますが、治はこれを無視します。

葛藤を抱えながらも、翔太はりんを外に待たせた上で、「仕事」に入りかけます。
するとりんが勝手に店に入ってきて万引きをしようとします。
翔太は狼狽します。
店員の目をこちらに惹きつけてようと店の品を音を立てて崩し、オレンジを抱えて店から逃げ出します。
二人の店員に追い詰められ、高架のフェンスを飛び超えて下の道路に落下し、重傷を負って病院に運ばれます。

りんは慌てて家に戻ります。何があったのかを告げたのでしょう。
このことがきっかけで一家は夜逃げを企てます。その時、「お兄ちゃんは?」と聞かれた治は、「後で迎えに行く」と答えます。
そこに警察の手入れが入り、「柴田一家」は全員取り調べを受けることになります。
もちろん「死体遺棄」も発覚します。

この死体遺棄は信代が治に代わって罪を着ることになります。
ここには、二人の過去の事情が絡んでいます。
信代には前夫がおり、DVを受けていたらしく、それを助けようとした治に前夫が切りかかってきたのを、治が逆に殺してしまったのです。
法廷では正当防衛として無罪判決が出ました。
これは、りんと信代がお風呂に入った時、腕の傷痕を見せ合うシーンからも想像されます。
りんにとっては、「おんなじだね」という共感を呼び起こすだけですが、信代にとっては、この場面で、ゆりの両親の殺伐たる関係に、自分の経験の記憶を重ね合わせる思いだったことでしょう。
要するに信代は治に恩返ししたわけです。

また取り調べの過程で、亜紀は初めて初枝が亜紀の実家から金をせびっていた事実を知らされます。
その時の亜紀の「じゃ、私に近づいたのはお金のためで私のためじゃなかったんだ」というセリフは印象的です。
愛情か金か、どちらかに分けられるものでしょうか。
たとええ初めは金のためだったにしろ、現に同居してからは初枝との交情は甘やかなものになっていたのですから。

さらに信代が、「義母」を棄てたことについて問い詰められたとき、「捨てたんじゃない、拾ったのよ。捨てたのは他の誰か……」と答える場面は、この作品全体の意味を解き明かすキーワードの意味を持っていて、強烈な印象を与えます。

ともかくこの取り調べ尋問のシーンは、大人三人が殺風景な壁をバックに正面大写しで観客の方を見つめながらしゃべるので、その迫力が圧巻です。特に安藤サクラ演じる信代のセリフ回しと表情には何とも言えない凄みが感じられます。

今回は、ほとんどあらすじだけを追いかける格好になってしまいました。
これでもまだ、筆者の言いたいことを展開するために必要な部分を記述しきれていません。
あらすじの残りと本格的な批評は次回に回したいと思います。
どうぞご期待ください。
(一回見たきりの記憶に頼っていますので、セリフなど細かい点で誤りがある可能性があります。その節は平にご容赦ください。)

「シン・ゴジラ」の恣意的解釈

2016年09月07日 01時20分06秒 | 映画




 遅ればせながら、「シン・ゴジラ」を見てきました。この危機管理映画がこれだけ受けるのは、いまの日本人の多くが内外に抱える問題(災害、外交、安全保障、原発問題その他)に対してかなり危機意識を抱えていることの証左でしょう。
 ゴジラに何の寓意を見るかは人々の自由ですが、私は個人的には、初めに出てくる幼生ゴジラの首がどこかの国の象徴であるドラゴンによく似ていることと、外からやってきた危機を最終的には米国や国際機関に頼らず、ついに自国の力で守り抜くというストーリー展開に、どうしても例の国の脅威に立ち向かうためのあるべき姿を連想してしまいました。
 この映画では日本政府の実際の体たらくとは違って、かなりスピーディに中央政府のエリート事務官、技官たちが危機に対する対応態勢を固めてゆきます。現場への指揮命令系統の動きもきわめて迅速です。昔のこの種の映画では、権力の腐敗と無策ぶりを描いて国民のルサンチマンをガス抜きさせることが多かったようですが、その点が昔と違う点です。ここに私は、健全なナショナリズムの成長をみて、いささか希望を感じた次第です。
 エンタメをすぐに現実の安全保障問題に結びつけるのは鑑賞の仕方としては邪道ですが、以下に掲げるのは、折しも産経新聞9月6日付に載った「ミグ25事件40年 現代の脅威は中国の領空侵犯 元空将・織田邦男氏に聞く」という記事です。これを読むと、40年間、いかに立法府が怠慢を決め込んできたかがわかります。「シン・ゴジラ」をこういう怠慢ぶりに対する警鐘として観ることもあってよいのではないでしょうか。

************************

 航空自衛隊の対領空侵犯措置(対領侵)の主対象は冷戦期のソ連から中国に移った。ソ連軍の領空接近の目的が偵察と訓練だったのに対し、中国軍の目的は尖閣諸島(沖縄県石垣市)の実効支配とみられる。だが威嚇や挑発がエスカレートする中、空自が対処する上で重大な欠陥がある。元空将の織田(おりた)邦男氏に聞いた。
 --対領侵の問題点は
 「自衛隊法には防衛出動などと並び対領侵の行動が規定されている。ほかの行動は自衛官が武器を使用できる権限が規定されているが、対領侵だけ権限規定がないことが問題だ」
 「権限規定がないため自然権である正当防衛、緊急避難以外は武器を使えず、対領侵の任務を遂行するための武器使用はできない」
 --自分がやられるまで武器を使えない
 「そうだ。『領空侵犯機が実力をもって抵抗する』場合に武器を使用できるという政府答弁があるが、実力をもった抵抗ですでに空自は犠牲者が出ている」
 「『相手が照準を合わせて射撃しようとしている』場合には攻撃される前でも危害射撃を行えるとの答弁もあるが、机上の空論だ。相手が照準を…と悠長に判断していれば、次の瞬間に攻撃されている」
 --権限規定がないことは法的不備では
 「ある元裁判官は『立法不作為』と断じた。権限規定がないことは『武器を使用してまで(侵犯機を)領空から退去あるいは強制着陸させるべき強制的権限を与えないという国家意思と解さざるを得ない』とも指摘している」
「任務は与えるが、権限と手段は与えない。だから対領侵の実効性は担保されなくても構わないというのが国家意思だろうか。そうではなく、『断固として領空を守れ』のはずだ」
 --尖閣の領空が危うい
 「中国は尖閣を力ずくで奪おうとしており、中国軍機が尖閣で領空侵犯をする日は近いかもしれない。尖閣で頻繁に領空侵犯され、厳正に対応できなければ実効支配しているといえなくなるのではないか」
 「領空侵犯されれば直ちに撃墜できるようにすべきだと主張しているのではない。撃墜されるかもしれないと相手に認識させて初めて領空侵犯を防ぎ、強制的に退去・着陸させることも可能になる。対領侵の権限規定を追加する法改正は待ったなしの課題で、立法不作為を放置することは許されない」

『八月の鯨』について

2016年06月22日 00時31分40秒 | 映画



 ふた月に一度くらいの割合で、仲間どうし集まって映画鑑賞会をやっています。題して「シネクラブ黄昏」。別に高齢者が多いからこの名をつけているわけではありません。ウィリアム・ワイラーの名作にちなんだのと、黄昏時に上映するという二つの理由からです。特定の一人が持ってきたDVDやVHSをみんなで鑑賞し、終わってからあれこれ語り合います。
 この会には、規則というほどのことはありませんが、一応次のような取り決めがあります。
①上映担当者は事前に何を上映するかを知らせてはいけない。
メンバーは当日まで知らないので、見たことのある映画を見させられるかもしれませんが、昔見た映画をもう一度見ると、また違った感興を味わえるので、けっこういいものです。
②上映者は、なぜこの映画を持ってきたのか、その思いをみんなの前で語る。一分でも三十分でもOK。
③上映者には、次回の上映者を指名する権利が与えられる。

 さて、前回たまたま私が上映者となり、リンゼイ・アンダースン監督、リリアン・ギッシュ、ベティ・デイヴィス主演の『八月の鯨』(1987年)を上映しました。この作品は、日本では昔岩波ホール創立20周年記念の時に公開され、異例のロングランを続けたそうです。私はずいぶん後になってからたまたまテレビで見て、すぐにVHSを買いました。
 これまで何度か見ていますが、このたび改めて鑑賞し、その傑作ぶりを再確認しました。メンバーの中にも昔見て、いま見ると感慨がひとしおだと言ってくれた人がいました。
 二人の主演女優は、ご存じのとおり、往年のハリウッド名女優です。作品ではリリアンが妹サラ、ベティが姉リビーを演じるのですが、ベティはこの時79歳、リリアンはなんと93歳です。14歳も年が違って、しかも姉妹関係が逆なのですね。無声映画時代からのスターだったリリアンの演じるサラは、なんと表情豊かでかわいいこと。そして悪女から女王、愛らしい女、つつましい女まで多彩な役柄でハリウッド女優界を席巻してきたベティが、この映画では、死におびえるいじけた老女を演じます。
 じつはこの会を始めてからもう7、8年になるでしょうか。最初の会にも私が上映者だったのですが、その時、あの恐ろしい『何がジェーンに起こったか』を上映したのです。この映画でジェーンを演じたベティ(54歳)の残酷さに戦慄した人なら、『八月の鯨』でのその変貌ぶりに驚かされるでしょう。大女優というのはすごいものですね。

 見ていない人のためにあらすじを紹介しておきます。この映画は、ネタバレしたからと言って、けっして観る価値が減るわけではありません。

 希望にあふれた娘時代、メイン州の美しい海岸を臨む叔母の別荘に滞在したリビーとサラの姉妹は、友だちのティシャから沖合に鯨がやってきた知らせを受けて急いで近くの断崖にまで走り、夢中になって双眼鏡でそれを見ます。
 ほどなく二人はそれぞれ結婚しますが、サラは第一次大戦で早くに夫を失い、リビー夫妻の下に15年間御厄介になります。やがてリビーの夫も亡くなりますが、彼女は娘とはウマが合わず、結局姉妹は二人で暮らすことになります。冬はフィラデルフィア、夏になると、今ではサラが所有者である別荘で過ごす生活が15年続いています。白内障ですでに失明しているリビーはサラに生活の面倒を見てもらっています。リビーは身辺が不如意なためわがままが高じてきて、このごろは死のことをしきりに口にするようになっており、サラの心にいっそう暗い影を落としています。
 ガサツな音をたてて大きな声を出す修理工のヨシュアが、別荘からじかに美しい海岸が見られるようにと、大きな見晴らし窓を作るようにしきりに勧めるのですが、サラにはその気があるのに、リビーは首を縦に振りません。
 近所の数少ない知り合いの中にロシアからの亡命貴族である高齢男性のミスター・マラノフがいます。彼はアメリカの市民権がないため人の家に居候しながら転々として暮らしています。つい先日、居候先の女性が亡くなったばかりです。サラは彼の釣った魚を料理してもらうことを条件にディナーに招きます。サラはこの紳士に好感を抱いていますが、リビーは、「ドブで釣った魚など食べたくない」と嫌味を言い、ディナーの時間が近づいてくるのになかなか着替えようとしません。
 やがてマラノフが正装して訪れ、料理をしつらえます。サラは入念にお化粧し髪をアップに整え、とっておきのドレスをまとってマラノフの前に現れます。「どうかしら」と可愛いポーズを取るサラに対して、マラノフは「ラヴリー、ラヴリー! とても素敵ですよ」と褒めたたえます。リビーがようやく着替えを終えて部屋から出てきます。きれいな白いテーブルクロスの上に二本の燭台。料理が運ばれて食事が始まります。
 マラノフが、亡命生活の話をいろいろと聞かせるのですが、話がつい先ごろ亡くなった居候先の女性のことに及んだ時、リビーが、自分たちのところに身を寄せようとしているマラノフの魂胆を見抜き、それは断るとはっきり言って、せっかくのディナーの雰囲気をぶち壊してしまいます。月が波間をキラキラと照らしているベランダで、サラとマラノフとがしばしの時を過ごした後、マラノフは寂しそうに去っていきます。
 その日は奇しくもサラの結婚記念日だったのでした。マラノフが去った後、サラは夫の遺影を前にしながら、ワイングラスを二つ置いて、ひとりだけの結婚記念日を祝い、短かった結婚生活を偲びます。でもリビーのことがどうしても気がかりです。
 そのときリビーが悪夢にうなされ、部屋から出てきて「私たちには死神がついている」と言って彼女に縋りつきます。サラはうんざりです。
 翌朝になり、リビーは昨日のことを謝りますが、二人のこじれた仲はほぐれず、別居の話になります。サラは冬もここに残ると言い、リビーは娘のところに身を寄せると。
 しばらくしてティシャが親切のつもりで不動産屋を連れてきます。勝手に別荘の値踏みをさせるのですが、サラはここを売る気はないときっぱりと断ります。ティシャと不動産屋が帰った後、リビーが部屋から出てきて、いまのは誰かと聞くと、サラは一部始終を話します。リビーの心が次第にほぐれてくるのがわかります。修理工のヨシュアが道具を忘れたと言って訪ねてきた時、リビーが突然、見晴らし窓は今からなら二週間後の労働者祭までにできるかと聞きます。びっくりするサラ。ヨシュアがいぶかしそうな顔で「できることはできるけど、作らないと言っていたじゃないですか」と聞くと、リビーは、二人で相談して決めたのだと答えます。サラは黙ってうれしそうに微笑みます。
 やがて二人は、仲良くあの鯨が見えるかもしれない岬まで散歩にでかけます。断崖から海を臨みながら、リビーが「あれは来るかしらね」と聞くと、サラが「もうみんな行ってしまったわよ」と答えます。リビーは「それを言ってはダメよ、わからないわよ(You can never tell it.)」と繰り返します。鯨が姉妹にとってずっと生きる希望のメタファーだったことを観客に悟らせて静かに作品の幕が閉じられます。

 この映画では、カメラはほとんどが別荘のリビングに固定され、上で述べた二人の数十年のいきさつは、すべて語りの中で行われます。話はわずか一夜をはさんだ二日間の淡々とした流れを追いかけているだけなのですが、非常に緻密で繊細な心のドラマが展開されていることがわかります。英語も大変わかりやすく、一つ一つのセリフが詩句のように綴られています。最後のリビーの決めゼリフによって、全体が締めくくられ、観たものの心に文学的・哲学的感動が深く沁みとおってくる仕組みになっています。死におびえていたリビーは、サラとの仲直りによって心穏やかとなり、二人でこれからも生きつづけていくことにかすかな希望を見いだすのですね。短い映画ですが、ここには平凡な人生のすべてが折りたたまれているという感じがしみじみと伝わってきます。
 筆者がこの映画を見て印象に残るーンはいくつもあるのですが、一つだけここで紹介します。それは、あの三人で食事を始める場面です。白いテーブルクロスとろうそくの光。正面にミスター・マラノフ、右にリビー、左にサラ。同じ日の朝、サラはマラノフに会っており、気安く会話したにもかかわらず、ディナーの時間には三人はきちんと正装して食事に臨むのですね。これを見て、古き良き欧米社会には、フォーマルなパーティーを通して男女が出会う機会を作る文化伝統があったのだなあと強く思いました。華やかな舞踏会から、小人数の社交パーティまで。
『八月の鯨』に描かれたような、こんなささやかなディナーでもその伝統が活かされていることが読み取れます。筆者は「ではのかみ」が嫌いですが、こういう所にはとても羨ましさを感じました。
 これに対して、日本では、男文化と女文化が分断されているように思えます。居酒屋でおだを挙げて日ごろの憂さを晴らす男たちと、レストランでランチしながら子どもの教育談議に花を咲かせる女たち。お互いに元気なうちはそれでもかまいませんが、居酒屋仲間がいなくなり、子どもが育ってしまえば、この分断文化の弱点が露出するのではないでしょうか。日本では、男女の何かの集まりには、読書会だの歴史散歩だの山登りだのといった何らかの口実が必要ですね。合コンがあるじゃないかという反論があるかもしれませんが、あれは若い人たち専用で、お見合い文化が廃れた代償として発生したものです。歴史も浅く、文化とはとても言えません。
 もし男と女をつなぐ(ほとんどそれだけを目的とした)文化が命脈を保っていれば、たとえどんなに老いても、そういう機会を自然に設けることができます。そうすればいま日本ではやりの孤独死(ほとんどが高齢独身男性で大都市に多い)も、少しは避けられるのではないでしょうか。高齢者の経済の安定や健康維持も大切な課題ですが、この高齢社会では、日常にときおり華やぎをもたらすような「男女縁結び文化」を新たに創り上げることがぜひ必要に思えるのです。


八月の鯨



*「シネクラブ黄昏」に興味を抱かれた方は、kohamaitsuo@gmail.comまでご連絡ください。ご案内を差し上げます。



倫理の起源57

2014年12月30日 13時54分18秒 | 映画
倫理の起源57



*以下の記述は、当ブログにすでに掲載した「『風立ちぬ』と『永遠のゼロ』について(3)」と一部重複しますが、訂正・加筆してあります。

 さてここまでくれば、近年の大ヒット作、百田尚樹作『永遠のゼロ』(2006年)および山崎貴監督の、同名の映画作品(2013年)に触れないわけにはいかないだろう。
 周知のように、両作品は、大東亜戦争期と2000年代初期との60年以上を隔てた二つの時期を往復する枠組みのもとに作られている。司法試験に何度も落ちて働く気もなく浪人している弟が、ライターの姉から依頼を受けて、特攻隊で死んだ実の祖父(義理の祖父は別にいる)のことを二人で調べ始める。いまや80代前後になった生き残り兵士たちを苦労して探し当てて話を聞くうち、祖父の意外な側面がしだいに明らかになってゆく。ゼロ戦搭乗員の祖父・宮部久蔵は、必ず生きて妻子のもとに帰ることを信条としていたにもかかわらず、なぜ特攻隊に志願したのか。この謎を中心にドラマは進行し、最後近くになって劇的な展開を見せる。その劇的な展開の部分を略述すると次のようになる。

 義理の祖父・大石はじつは教官時代の宮部の生徒であり、宮部を深く尊敬している。ふだんは極度に用心深い宮部が、訓練指導中に珍しく油断して米軍戦闘機の攻撃にさらされた時、大石は機銃の装備もないままに体当たりで宮部を救う。この深い縁で結ばれた二人は、もはや敗戦間近の時期、偶然にも同じ日に鹿屋基地から特攻隊員として飛び立つことになる。出発間際に宮部は飛行機を代ってくれと大石に申し出る。宮部は、自分の機のエンジン不調に気づき、大石が万に一つも助かることを期待してこの申し出をしたのである。というのも、エンジンが順調ならその搭乗員は100%死ぬが、不調で飛行不能となれば不時着することが可能となるからである。こうして大石は救われ、宮部はただ一機、激しい迎撃をくぐり抜けて敵空母に激突する。大石の機には、もし君が運良く生き残り、自分の家族が路頭に迷って苦しんでいるのを見つけたら助けてほしいという宮部のメモが残されていた。大石は四年後ようやくバラック住まいで困窮している宮部の妻子を見つける。その後、何年も彼らのもとに通って援助し続けるうち、やがて親愛の情が深まり、大石と妻・松乃とは結婚する。しかし、あれほど生き残ることを強く主張していた宮部が、なぜ特攻に志願したのか、すべてのいきさつを語ってきた当の大石さえその理由をうまく表現できない。

 私はこの二作を、エンターテインメントとしての面白さもさることながら、重い倫理的・思想的課題を強く喚起する画期的な作品だと思う。その画期性のうち最も重要なものは、戦後から戦前・戦中の歴史を見る時の視線を大きく変えたことである。この場合、戦後の視線というのは、単に戦前・戦中をひたすら軍国主義が支配した悪の時代と見る左翼的な平和主義イデオロギーを意味するだけではない。その左翼イデオロギーの偏向を批判するために、日本の行った戦争のうちにことさら肯定的な部分を探し当てたり、失敗を認めまいとしたりする一部保守派の傾向をも意味している。言い換えると、この両作品は、戦後における二つの対立する戦争史観の矛盾を止揚・克服しているのだ。なぜそう言えるのかは後述する。
 ともあれ、その止揚・克服に成功しているという印象を与えるのに最も大きく寄与しているのが、主人公・宮部のキャラクター造型である。
 原作では、宮部久蔵のキャラクターは概略次のように造型されている。

①海軍の一飛曹(下士官)。のちに少尉に昇進。これは飛行機乗りとして叩き上げられたことを意味する。

②すらりとした青年で、部下にも「ですます」調の丁寧な言葉を使い、優しく、面倒見がよい。少年時代、棋士をめざそうかと思ったほど囲碁が強い。

③パイロットとしての腕は抜群だが、仲間内では「臆病者」とうわさされている。その理由は、機体の整備点検状態に異常なほど過敏に神経を使うこと、飛行中絶えず後ろを気遣うこと、帰ってきた時に、機体にほとんど傷跡が見られないので、本当に闘ったのか疑問の余地があること、など。

④「絶対に生き残らなくてはだめだ」とふだんから平気で口にしており、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」とは正反対の思想の持ち主である。ガダルカナル戦の無謀な作戦が上官から指示された時には、こんな作戦は無理だと思わず異議を唱えたため、こっぴどく殴られる。

⑤奥さんと生れたばかりの子どもの写真をいつも携行しており、一部の「猛者」連中からは軟弱者として軽蔑と失笑を買っている。しかしいっぽう彼は、ラバウルの森に深夜ひとりで入り込み、重い銃火器を持ち上げたり枝から逆さにぶら下がったりして、超人的な肉体鍛錬に励んでいる。部下の井崎が歩み寄って鍛錬の辛さを問うと、彼に家族の写真を見せて、「辛い、もう辞めよう、そう思った時、これを見るのです。これを見ると、勇気が湧いてきます」と答える。

⑥撃墜した米機からパラシュートで降下するパイロットを追撃し、武士の情けをわきまえないふるまいとして周囲の顰蹙を買う。これに対して、自分たちは戦争をしているのであり、敵の有能なパイロットを殺すことこそが大事で、それをしなければ自分たちがやられると答える。真珠湾攻撃が成功した時にも、空母と油田を爆撃しなかったことを批判する。

⑦一度だけ宮部は部下を殴ったことがある。それは撃墜されて死んだ米パイロットの胸元から若い女性のヌード写真が出てきたときのこと。部下たちが興奮し、次々に手渡して弄んだ後、宮部がそれを米兵の胸元に戻すと、ひとりの兵が彼の制止も聞かずもう一度取り出そうとしたからである。その写真の裏には、「愛する夫へ」と書かれていた。「できたら、一緒に葬ってやりたい」と彼は言う。

⑧内地で特攻隊要員養成の教官を務めている時期、やたらと「不可」ばかりつける。戦局は敗色濃厚で、厳しい実践教育をくぐり抜けた生徒(学徒動員された士官たち)に合格点を与えれば与えるほど、優秀な人材を死地に送ることに加担せざるを得ないからである。こうして、彼の苦悩と葛藤は深まってゆく。

⑨急降下訓練中に失敗して機を炎上させ自らも命を落とした生徒を、上官が、「訓練で命を落とすような奴は軍人の風上にもおけない。貴重な飛行機をつぶすとは何事か!」と非難したのに対して、ひとり敢然と「彼は立派な男でした」と異議を唱え、上官に叩きのめされる。生徒の名誉を守ったこの発言によって、彼は生徒たちから深く尊敬されるようになる。

⑩大石は体当たりで宮部を助けた時、敵の銃弾を受けて重傷を負う。宮部は命拾いをしたことに感謝しつつも、いっぽうでは大石の無謀さをなじる。

⑪戦後にやくざとなる部下の荒武者・景浦から模擬戦を申し込まれるが、宮部はきっぱりと断る。執着と憤懣を晴らせない景浦は、強引に模擬戦に誘い込み、思わず背後から機銃を発射してしまうが、宮部は難なくすり抜け、逆に信じられないほどの技によって景浦の後ろに至近距離でピタリとつける。もちろん宮部は発射しない。

 映画では、⑥のパラシュート追撃部分と⑦の部分がカットされているが、これは少々残念である。というのは、この両場面には、宮部が、戦場においてあくまでも冷徹な戦士であることが象徴されていると同時に、他方では、死者に等しく畏敬の念を持ち、人情を深く理解する人格の持ち主でもあることが表されているからである。
 代わりに、原作では宮部を知る者の語りという作品の構成上、描くことができなかった私生活的な場面が二つ挿入されている。一つは、宮部が一泊だけの急な休暇で帰宅した時のシーン。わが子と初めて対面し入浴させて微笑ましい役を演じ、あくる日、妻との別れ際に、離れがたくて背面から顔を寄せる妻に対して、「私は必ず帰ってきます。手を失っても、足を失っても……死んでも帰ってきます。」ときっぱりと約束する。
 もう一つは、はじめは大石の援助に拒否的だった松乃、その子・清子と大石との間に、やがて愛情が芽生えて育ち、家族のように睦まじくなっていくプロセスを描いたシーン。 いずれもとても細やかで情緒豊かな映像で表現されていて、観る者の涙を誘わずにはおかない。この二つのシーンは、私の言葉ではエロス的な関係の描写であり、非常に重要な意味を持っている。

倫理の起源56

2014年12月23日 18時02分54秒 | 映画
倫理の起源56




 もうひとつ例を挙げておこう。
 山田太一脚本、篠田正浩監督の『少年時代』という映画がある。
 時は大東亜戦争末期、メインテーマは東京からの疎開児童と田舎の少年との交友関係だが、その主題とは別に、ある少年の姉と青年との恋愛のエピソードが出てくる。
 男たちはみな戦争にとられてゆくが、その運命を自覚している二人はひそかに逢瀬を重ねている。そういうことはこの緊急時に許されないという空気が大人たちの間を支配している。やがて青年にも赤紙が来て、応召しなくてはならない。プラットホームで日の丸と軍歌で見送りする村人たち。汽車のデッキで、複雑な表情を浮かべて直立して敬礼する青年。そこに突然、「行っちゃいやだあ!」と叫びながら姉娘が飛び出して、青年に縋ろうとする。青年は困惑するが、周りの人たちは姉娘を青年から引き離す。ヒステリー状態に陥った姉娘は、戸板に載せられて家まで送り返される。父親が激しく彼女を叱責して押さえこむが、彼女のヒステリー状態は治まらない。
 姉娘の弟・ふとしはあまり頭はよくないが、父親がヒステリーを起こした姉娘を押さえこむ光景をじっと見ていて、そこに込められた、どうしようもなく引き裂かれた事態をよく理解している。
 ほどなくして終戦となり、姉娘が狂喜の声を上げながら弟に近寄り、「帰ってくるだよ、セイジさんが帰ってくるだよ!」と告げる。ふとし君は思わずにっこり笑って「姉ちゃん、よかったな!」と応ずる。その大写しされた笑顔がじつに可愛らしく美しい。
 この「よかったな!」という気持ちは、じつは父親にしても同じなのである。戦時下という状況の中で、以前から父親は、この娘の恋愛に対して家長として禁圧的な態度をとっている。しかし、この父親がただ一方的に共同体の要請を履行しているだけなのかと言えば、必ずしもそうではない。宣長の言うとおり、「父のさまは 誠に男らしくきつとして、さすがにとりみださぬところはいみじけれど、本情にはあらざる也」なのであって、父親には父親なりの葛藤があるのだと思う。戦争が終わったのちに、この姉娘と青年がめでたく結婚すれば、父親もまた心から祝福するに違いない。

 人々の実存に侵入し、そこに亀裂を入れる理不尽な物事に対して、私たちはとりあえずはそれを受け入れるほかない。たとえそれが死ぬ運命に確実に導かれるのだとしても。しかし、その事態を、ただ受容して美談や美学という精神衛生学に昇華してすましてはならない。なぜなら、小林秀雄が『歴史と文学』その他で力説しているように、哀しみはずっと私たちの中に処理不能な感情として残り続け、この哀しみこそが、国家や社会や歴史へのまなざしの在り方を不可避的に培っていくからである。それが生活者の抵抗のあり方なのである
 近年日本のいわゆる「保守派」の一部は、永らく左翼リベラル派のイデオロギー風潮の「圧政」下にあったために、ややもすれば、国家の要求が、場合によってはいかに人々の実存と生活を引き裂くことがあり得るかという困難な問題を忘れがちで、観念的に考えられた公共的な倫理をひたすら至上のものとみなすことが多い。
 しかし、これは左右イデオロギーのどちらが正しいかという水平的な思想選択の問題ではなく、もともと国家と実存、社会的共同性とエロス的共同性との根源的な矛盾の問題なのである。この矛盾は、単に特定の社会生活の現象面においてあらわれるのではなく、まともな理性と感情を具えたひとりの社会的人格のなかにすでに深く埋め込まれている。そうしてそれは多くの場合、男性的人倫精神と女性的人倫精神との葛藤として象徴的に顕現するのである。
「実存」とは、言い換えれば、身近な関係のみをよりどころとしつつ、普通に、平穏に暮らしている人々の生活実態のことである。では、そうした平穏さを引き裂き、戦争を引き起こす「国家」なるものこそ悪である、と左翼リベラリストのように言えばよいのか。残念ながら、ことはそう単純ではない。
 なぜなら、平穏な秩序の下で暮らしている私たちはふだんあまり意識していないが、そのような平穏さを保証してくれるものもまた、「国家」だからである。国家の存在イコール悪と考える思想は、私たちの日常生活を保証する秩序の維持が、国家という最高統治形態によってこそなされているのだという事実を忘れているのである。国家がまともに機能しなくなった時、私たちの生活がどれほど脅かされるか、それはそうなってみなくてはなかなか実感できないかもしれない。しかし実感はできなくても想像は出来る。たとえば、現在の中東の一部は、国家秩序が実質的に解体状態にあり、三つ巴、四つ巴の紛争が続いているが、この地域で暮らす人々の実態を考えてみればよいだろう。



 女性の生き方に「愛」のエゴイズムのみを見て、そこに人倫精神を認めようとしない男性には、想像力の欠落があると述べたが、この男性にありがちな欠点を克服し、身近な女子どもの生に命をかけて寄り添おうとした男を描いた作品ももちろんある。
 たとえば、橋本忍脚本・小林正樹監督・仲代達也主演の映画『切腹』がそれである。
 関ヶ原の合戦からほどなくして徳川家は口実を設けて外様大名のいくつかを取り潰す。「天下泰平」の世に武士は要らない。江戸には職を失って食い詰めた浪人たちがあふれ、なかには有力な家の門前や庭先を借りて切腹すると称して、仕官させてもらったり、金銭を当て込んだりする連中が頻出するようになる。
 主人公・津雲半四郎も取り潰しにあった大名家の家臣の一人だが、清廉な浪人暮らしをしている。彼は主君の後を追って自害した同僚から息子・求女(もとめ・石濱朗)の行く末を託されている。時が経って一人娘・美保と求女は祝言を挙げ、一粒種の金吾が生まれる。しかし幸せな日々は長く続かず、美保は過労のため労咳で倒れ、金吾は高熱を出して瀕死の状態に陥る。医者に診せる金もない求女はついに思い余って井伊家上屋敷に切腹を申し出る。
 かねて浪人のたかりを苦々しく思っていた家老・斎藤勘解由(かげゆ・三国連太郎))は剣豪の家臣の進言を入れて、申し出どおり切腹の場をしつらえる。思惑が外れた求女は、一両日待ってくれれば逃げも隠れもせず必ず戻ってくると切に訴えるが、まったく聞き入れてもらえず、竹光で凄惨な最期を遂げる。
 金吾も美保も失った半四郎は、数カ月後井伊家を訪れ、自分も切腹を申し出て介添え人を指定し、それを待つ間に事の仔細を静かに語りだす。その目的は、武士の体裁のみを重んじて民の生活の苦しさなど一顧だにしない武家社会の理不尽を暴くことにあった。
 この映画は、決闘シーンと殺陣シーンとが見事ではあるが、それ以上に、半四郎と勘解由との丁々発止の議論対決が見どころであり、思想的にも重要な意味を持っている。
 勘解由は武家の秩序を守る重職という立場上、浪人のたかりをみだりに許すわけにはいかない。求女に申し出どおり切腹をさせたのにはそれなりに筋が通っている。自ら申し出たのではないかというのが、彼の最後の言い分だが、公義に照らす限り、彼のとった処置とその言い分は正しいのである。そこでは公共性の人倫は貫かれている。半四郎の言葉による鋭い攻撃に対する勘解由の迎撃を、単に弱者に対する権力者の弾圧と考えてはならない。最後に近い場面、半四郎と家臣たちとの殺陣が行なわれている最中に、その激しさとは対照的にひとり部屋にこもって黙然と悩み内省し続ける場面も描かれている。
 これに対して半四郎は、あくまで生活者の人倫性、もっと言えばエロス関係の人倫性に固執する。求女が一両日待ってほしいと必死で訴えた時に、なぜせめてその理由を聞いてやろうとしなかったのかというのが、彼の最後の言い分である。権力の理不尽に対する彼の怒りは極限まで凝縮して、面子を優先させる武家社会の掟の全否定にまで達するが、彼はけっして武士道を捨てたわけではない。むしろ武士道の堕落を糾弾し、そうしてそのあるべき具体的な使い道を身をもって示すのである。その使い道とは、女子どもを命をかけて守るということである。いわゆる武士道が特攻隊的な散華の美学に酔いがちなのに対して、半四郎の武士道は、個別の男女や家族によって生み出される日常生活の幸せのためという人生肯定的で明確な理念に貫かれている。
 山本定朝の『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉はあまりにも有名だが、この言葉は多分に独り歩きしているきらいがある。定朝は一方で、日常生活における関係への配慮をこと細かく説いてもいるのだ。その配慮の積み重ねの果てに「死」がある。半四郎の武士道は、それにかなうものだと言えよう。
 こうして、ここにも公共性とエロス関係との、原理を異にする二つの人倫性のせめぎあいが描き出されているのである。