小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源44

2014年08月29日 22時04分58秒 | 哲学
倫理の起源44



 さてこの項の最後に、家族の共同性と他の共同性における倫理との関係はどうなっているかについて短く答えておこう。
 友情倫理との関係については先に述べた。
 性愛倫理との関係については、あまりこれまで倫理思想として語られてこなかった問題がある。たとえば和辻倫理学の「人倫的組織」論では、「二人関係=夫婦」から「三人関係=両親と子ども」への新しい展開として記述されており、後者は前者と次元を異にするものとしてとらえられている。夫と妻は、父と母になることによって、相互に子どもを媒介とした新しい関係に入り込む。そればかりではなく、母と子の関係も父によって媒介され、父と子の関係も母によって媒介される。和辻はそう言う。
 親子という三人関係のあり方を総体としてつかまえるかぎり、この指摘にまったく異存はない。しかしここには一つだけ抜け落ちている視点がある。それは、家族関係というものが、夫婦の性愛関係を捨て去ったのではなくむしろそれを包摂した構造の下に成り立っているという事実である。
 この構造が安定したものとして維持されるためには、二つの条件が必要である。一つは、すでに述べたように、親子関係のうちに性愛関係を侵入させないこと(インセスト・タブー)、そしてもう一つは、それにもかかわらず、家族全体の安定にとって、夫婦の性愛関係が良好に保たれなくてはならないということである。和辻の記述では、夫婦関係(二人関係)から両親と子どもの関係(三人関係)への展開がより高度な段階への「止揚」であるかのように読める。しかし家族的な人倫の実態としてはそうではない。夫婦の性愛関係と親子の情愛関係とが互いに混交する(あいまいに交錯する)ことなく、しかもその両方が縦横の軸として包摂される構造が成り立つところに、初めて家族の人倫が貫かれるのである。和辻の言う二人関係は、三人関係の成立によって解消されたり希薄化されたりするのではなく、三人関係が二人関係をより強化することもあり(子はかすがい)、逆に不倫などによる二人関係の破綻が三人関係をも壊す力を持つ。

 家族の人倫性と、人倫精神を形づくるの残余の三つの原理(職業、個体生命、公共性)との関係については、それぞれの項で扱うことにする。


*次回は職業倫理について書きます。

裁判長が控訴を勧める!?(SSKシリーズその7)

2014年08月25日 23時53分04秒 | エッセイ
裁判長が控訴を勧める!? (SSKシリーズその7)



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。


【2011年2月発表】
 再び旧聞に属することで恐縮だが、記憶から離れないのでやはり書かずにはすまない。
 私が裁判員制度に真っ向から反対であることは一度この欄にも書いたことがある。なぜ反対なのかは拙著『「死刑」か「無期」かをあなたが決める 「裁判員制度」を拒否せよ!』(大和書房)に詳しく書いたので、ご関心のある方はどうぞ。
 ところで、2010年11月16日、生きている被害者を電動のこぎりで切断し二人を殺害した容疑で逮捕された被告の裁判で、死刑判決が下った。裁判員裁判で死刑が下ったのはこれがはじめてである。この裁判では、裁判長が判決理由を読み上げたあと、口頭で「重大な結論で、裁判所としては控訴を申し立てることを勧めたい」という異例の説諭を行なった。新聞でこれを読んだとき、私は眼を疑った。
 この裁判長は、自分たちで決めた判決を、この説諭によって実質上、価値なきものとして否定しているのである。法の裁きは厳粛で公正でなければならない。ことにこの事件のように、残虐極まりない犯行は情状酌量の余地なく、死刑以外の判決は考えられない。むろん裁判長以下6名の裁判官、裁判員はそう判断して判決を下したのだろう。しかしそのあとでわざわざ控訴を勧めるとは、司法制度の厳粛性、公正性をいちじるしく毀損するものと言える。
 なぜこの裁判長は、自らの職業的誇りを投げ捨ててまで、こんな説諭を行なったのか。
 理由は一目瞭然である。この裁判が裁判員裁判だからだ。シロウトが参加する裁判員制度では、重大犯罪のみが対象とされるが、はじめから死刑が確実視されるような事案では、裁判員は、自分も人の命を奪う決断を下す責任の重さを引き受けなくてはならない。くだんの裁判員たちは、裁判長が判決を下すときに一様にうつむいていたというが、それだけ心理的負荷が大きかったのだろう。その裁判員たちの苦しい気持ちを思いやった結果が控訴勧誘の説諭となったわけだ。
 いうまでもなく、これが裁判員裁判でなければ、こんなばかげた自己否定的説諭はまったく必要ない。控訴審には裁判員制度は適用されない。だから、もし控訴審でも同じ死刑判決が出れば(当然出ると思うが)、裁判員たちは、この被告人を最終的に裁いたのは、上級審であって、自分たち裁判員の決断ではないという自己慰安の機会に恵まれることになる。裁判長はそれを見越してくだんの説諭を行なったのである。被告人のためを思ったわけでは全然ないのだ。
 それぞれの仕事で忙しいシロウトを召喚し、何日も拘束し、自分と何の関係もない人の運命を決めさせる裁判員制度。法廷の尊厳を自ら突き崩すこんな説諭を施さなければ成り立たない裁判員制度。争点をわかりやすくするために密室で法曹三者が公判前整理手続に膨大な日数を費やさなくてはならない裁判員制度。ある信頼の置ける情報によれば、いま刑事訴訟の現場は火事場同然だという。しかし自分たちがOKした制度だから、法曹三者はだれも表立って反旗を翻せない。早急にこの制度を廃止すべきである。

倫理の起源43

2014年08月22日 09時11分40秒 | 哲学
倫理の起源43




 次に、子どもの立場から親に向っての人倫性という概念が成り立つとしたら、それはどんな特性をもつのかを論じよう。
 このテーマは、現代家族のなかでは、一見あまり重要な問題を提起しないように思える。それは、現代の先進文明社会では、子どもの生活が保護と教育というイデオロギーや社会制度にあまりに囲い込まれているために、子どもを責任ある存在として見なさない無意識の感覚に私たちが捉えられているからである。子どもは未熟な存在であり、大人が最大限の力を注いで守り育ててやらなくてはならない存在である。よって彼はその保護と教育に助けられて自由に個性を伸ばしていくべきである――こういう子ども観が支配的となっている。
 しかし、ほんの少し歴史をさかのぼってみれば、子どもは親に孝を尽くさなくてはならないというのは、子どもに第一に叩き込まれた道徳命題だったことが確認できる。かつては孝を尽くしたことを示す「美談」には事欠かなかったし、逆に「親の恩」を忘却した振る舞いが最高度の非難に値したというのが一般的だった。刑法では、数十年前まで尊属殺人が最も重い刑とみなされていた。
 ここでは、もちろんそうした道徳の荒廃を嘆いたり、その復活を提唱したりしようというのではない。社会体制が大きく変化したことにはそれなりの必然があるので、そんなことにはほとんど意味がない。
 考えるべきなのは、そのように親子の身分関係が明瞭だった伝統社会から、子どもであっても個人としてその自由をできるかぎり尊重する現代社会へというように時代が移っても、親子関係というモードのうちに、親に対する子どもの人倫性が共通普遍の精神として存在しているのではないかどうかを確認することである。そしてもし存在しているとすれば、それはこの関係のモードのどのような特性によっているのかを説くことである。
 ふつう、この問題は、育ててくれた親に対する恩返しという観念で語られがちである。しかしこの観念のうちには、いくつもの無理がはたらいている。
 第一に、幼い子どもは自分が育てられている事実について、恩恵を被っているという自覚を持つことができない。両親は彼にとってけっして「恩」をもたらしてくれる存在ではなく、むしろ自分の存在条件そのものである。彼は自分で選んだわけではない家族環境を自然的な宿命として生きざるを得ない。したがってこの養育された経験を「恩」として対象化するためには、彼が親から自立して親の養育の苦労を自分自身の経験や想像力によって捉えなおすだけの時間が必要である――「子を持って知る親の恩」。要するに未熟な子どもであるままで、親に「恩」を感じろというのは、不条理な要求なのである。
 また第二に、家族生活は裸の人格が交錯する世界であるから、たとえ親が自分の子どもを熱意と善意で養育したとしても、そのやり方次第で、当の子どもはそれを「ありがたいこと、うれしいこと」として受け取らない可能性がいくらでもある。まして子どもをぞんざいに扱う親、スポイルする親はたくさんいる。親子関係はまさに「恩讐」の世界なのであって、子どもは自分の親を多かれ少なかれ、そのようなアンビヴァレントな相の下に捉えざるを得ない。そういう複雑な感情を親に対していささかも持たない子どもというのはまず存在しないだろう。
 さらに第三に、この世に生を受け、養育されることによって避けようもなく生の過程を歩んでしまうという事実が、それ自体として「感謝」に値するなどという論理はもともと成り立たない。なぜならば、生の反対は「未生」あるいは「死」であり、「未生」や「死」と生とを比較考量しようと思っても判断する基準がないからである。ある人やある環境に感謝するという時、それはどこまでも生きている実感の範囲内で、他のありえたかもしれない生との比較の上に成り立つ感情である。
 もちろん、ある人が自分の生の枠内で幸福感や達成感を感じ、自分の今日あるは親のおかげというように、その原因を親の良き養育に帰することはありうる。しかしそれはあくまで個別的な事例に即して言えることであって、親であること一般が生まれてきた子どもの感謝に値するなどということは、論理として成り立たないのである。
 するとどういうことになるだろうか。

 親に対する子どもの人倫感覚の内実を考えるにあたっては、大ざっぱに言って、子どもが未熟である(親を頼りにしている)段階にある場合と、大人になってから、育てられた過程を振り返って来し方を位置づけなおす場合とに分ける必要があるだろう。
 前者について。
 落語に「子別れ」という有名な演目がある。飲んだくれて仕事もしなくなった大工の熊公。これに愛想をつかして子連れで家を出たおかみさん。熊公はこれ幸いと花魁を女房にするがたちまち破綻し、それを機に心を入れ替えて酒を断ち、仕事に打ち込んで三年。立派に蘇生した熊は、別れた子どもに偶然出会う。その縁から翌日、うなぎ屋の二階でおかみさんとの復縁がたちまち成るという人情話だが、この復縁の実現になくてはならない「かすがい」の役割を果たすのが、九歳(満年齢)になった子どもである。貧しい母子家庭で苦労したために年よりもませていて大人の感情をよく見抜くほどに成長しているが、しかし、やっぱり未熟な可愛いところを残している。

古今亭志ん朝 子別れ


 この例は、所詮「噺」なので多分に誇張されている点は否めないが、しかしこのくらいの年齢の子どもがどういう気持ちで親を見ているかという視点が非常によく保存されている。先に私自身の例を出したように、この年頃の子どもは、親の不和を何とかなだめたいと小さな胸で真剣に悩んでいる。それはもちろん、自分の存在が危うくなることを直感しているからだが、その気持ちは、そのまま幼い子どもの人倫感覚に通ずるものである。親が仲良く楽しくしていてくれること、そうあるべきこと、それが家族全体の幸福への道であること、それを子どもはよくわきまえているし、親に対して無言のうちにそれを要求している。
 次に後者、大人になってから来し方を位置づけなおす場合について。
 この場合の人倫性がどのように成り立つのかを一言で言えば、たまたまこうでしかありえなかったという「縁」の成り行きを、宿命的なものとして引き受ける「気概と胆力と意志」が根拠となっているのである。繰り返すが、恩を感じるとか感謝するとか親を愛しているというような感情がその出発点なのではない。そういう感情の存在を自明視すると、成育史のなかでその種のものを感じることができなかった人々は、自分がおかしいのではないか、悪いのではないかと、不必要に悩むようになる。押しつけがましい親孝行道徳が侵入してくるのである。
 前に述べたように、家族はそれぞれの命を看取りあう運命共同体である。しかし個体の生命はそれぞれ有限で世代差があるから、この「運命」が一つに合致している期間というのは限られている。そこで後続世代(子ども)は、先行世代(親)との生活の共同の経験によって得られた同族意識を梃子として、先行世代の命のゆくたてに対する特別の関心を持たざるを得なくなる。これは何も親の衰えに際して介護するというような場合に限らない。離れて暮らしていても、日常生活の意識の中に、親のことを「気にする」という心情がすでに組み込まれているのである。
 たとえば、結婚に際して、「日本国憲法」に規定されているような「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する」などということは、駆け落ちでもするのでない限り現実的にはありえない。まず双方がそれぞれの親に婚約者を紹介し、そうして家族に列席してもらって結婚式を挙げるのがふつうである。成文法に書かれていないこのようなごく当たり前の習俗のなかに、親に対する子どもの人倫性が生きているのである。
 またたとえば、新しい友人関係や異性関係が生じてかなり親しくなった場合、それぞれの出自や家族関係について情報を交換し合うようになる成り行きもごく自然のことである。相手をよく知るためにその背景である家族関係を気にするというのは、自分がふだんから自分の家族を気にしている証拠である。
 認知症で徘徊した老人や行路で倒れた老人がお巡りさんのご厄介になれば、必ずその身元が探索されるし、それを引き受けるのが子どもである(べきな)のは、当然の社会倫理であろう。
 こうして最終的には親の命を引き受けて、その死の際には正しく葬ることが子どもの人倫性の最後の表現となる。この事実は、ヘーゲルの『精神現象学』のなかで、ソフォクレスの『アンティゴネ―』を媒介にしつつ鋭く指摘されている(もっともこの場合は葬られるのは親ではなく兄だが)。親兄弟の死を正しく葬ることは、遺体が無縁仏となって自然の暴威にさらされることのないように、死者に人間としての尊厳を再び返してやる営みである。それがある親の元に生まれた子どもの「使命」なのであって、この使命は、現世のなかに居合わせている普通の親子のかかわりを通して、子どもの成人前も成人後も、無自覚的な形で不断に実践されているのである

倫理の起源42

2014年08月18日 22時03分52秒 | 哲学
倫理の起源42



 さて父性、母性を考えるにあたっては、もう一つ、最も重要な自然的性差についても語らなくてはならない。それは女性が子を産む性であるという端的な事実である。
 この事実は、古来、男性に一種の驚きと神秘の感覚をもたらしてきた。この感覚は、禁忌と崇拝と怖れと穢れとが複雑に絡み合った意識を構成する。オルフェウス神話でも古事記のイザナキ、イザナミ神話でも、死んで冥府に行くのは女性であり、それを慕って行った男性は、「後ろを振り返ってはならない」という禁を破ったために相方と別れなくてはならない。木下順二の戯曲「夕鶴」の出典として名高い民話「鶴女房」でも、男が、機織りの場面を見てはいけないという禁を破ったために、女人は去ってしまう。
 この「神話・民話」に共通してみられるパターンは、女が死んで穢れてしまっているか、死の瀬戸際にまで追いつめられるような過酷な体験をしていること、その期間から日常に帰るまでの間、男は女の姿を見ることを許されていないこと、そうして、その禁は必ず破られ、そのために男は女を失うこと、である。男の穢れを女が覗いてしまうといった逆のパターンはまず考えられない。
 ここに象徴されているのは、明らかに、出産という、女性にとって命がけの行為(イザナミでは、じっさい火の神を生んだために女陰に火傷を負って死んでしまう)が、男性のエロス感情を致命的に傷つけるほど壮絶な(醜い、見にくい)光景であるために、その光景をお互いに共有してはならないという感覚である。女性は、その苦しくもあられもない姿を男の視線から遮断することによって、子を産んだ後も男に対する「女」としての価値を回復することができる。男もまた、この「畏れ多い」秘事が終わったのちも彼女が「女」として復帰してほしいと願っている。もっとも、女を孕ませて平気で捨ててしまう男もなかにはいるが、私がここで問題にしているのは、男性性一般が女性性一般に対してどういう傾きをもっているかという話である。
 しかし同時に、女性が男にはけっして味わえない過酷さを通して「母」になるという事実は、「自分の子どもを得た」という感動が(妊娠期間も含めて)生々しい身体体験と地続きで発生することを示している。象徴的な言い方をすれば、女性は出産において、自分の生命の何分の一かを失うことによって、新しい生命を得るのである。この「分身性」こそが、母性的人倫の原型的な質を規定する。身一つであったものが二つに分かれたという体験を媒介として、その分身を「包容=抱擁」せずにはいられないという情念が形成される。この情念が母性的人倫の原型となるのである。
 そこに先に述べた女性性の特質が重ね描きされる。
 つまり、母性的人倫は、「誰がなんと言おうと、何が降りかかろうと、私の産んだこの子(たち)だけを、命をかけて守り育てる」という特殊性、個別性において成立する。母親である彼女にとって、客観的な状況への配慮は、あまり視野に入らないし、また入れる必要もない。
 この特質が一般社会(たとえば教育機関)との関係であまりほめられないあらわれ方をすると、「母親のエゴイズム」と呼ばれる。しかし、それはそれぞれの母親の性格や置かれた環境条件などから出てくる形だから、それだけをあげつらって「母親エゴイズム」批判をしてもあまり意味はない。逆にその同じ特性が、逆境にあってもくじけずに、信じられないくらいの力を発揮して、立派に子どもを育て上げるという事例をも生むのである。

 いっぽう男性は、女性の妊娠・出産の期間、多かれ少なかれ、相手との同一化の欲求から隔てられなくてはならない。そうして、彼が「父親」と呼ばれる存在となるのは、彼が自分との共同生活の延長上で相手が子を孕んだことを彼自身が承認する限りでのことである(くどいようだが、生物学的にそうであるかどうかは問題ではない)。また、女性は妊娠期間中からすでに自分が「母」であることを体感することができるが、男性はその同じ期間に「父」であることを体感することはできない。そこには、「父」であることの身体的実感が欠落している。また子どもができてからの接触体験のなかで初めて父親としての自覚が訪れるという、女性とのタイムラグが存在する。この二つの差異は、母性、父性を考えるにあたって決定的である。
 しかしそれでは、父性は母性に比べて、何か強度の点で弱いものだとか、作り物めいていて、本当はそんなものはないのだと決めつけられるかといえば、それもまた間違いである。逆に、人倫としての父性は、この体感の欠落と時間的な遅れを否定的な媒介としてこそ、その固有の特質を獲得するのである。
 手短に言えば、もともと人間の社会とは約束事の体系であって、この約束事の体系は、それぞれの人間がいつも同時に一つの心、一つの振る舞いをなすわけにはいかないという事実を繰り込んだところに初めて成立する。人倫の場合もそれは同じで、私たちは、互いの身体の不一致や生きる時間のずれをよく自覚しているからこそ、「こうした方がよい」とか「こうすべきだ」とか「こうしなくてはならない」といった観念を育てることができるのである。
 父性的人倫について言えば、母親よりもより遅れて、しかも体感できない形で父親となった彼は、まさにそのことを繰り込むことによって、「ならば俺はこういう仕方で責任を担おう」という自覚を育てるのである。
 その時、父性的人倫の特質は、先に述べた男性性の特質と重ね描きされて、次のような形をとるであろう。
 彼は、人間どうしが対立するもの、容易には融和しえないものであるという理解を前提として社会意識を構成しているので、養育を通してその社会観を子どもに植え付けていくことになる。ルール感覚、人生の厳しさの認識、状況をよく読み取り、バラバラなものを総合する力、重要な課題に対する意志力などを養うのが父性の特質である。いわばエロス的関係の陥りがちな自閉性を、社会的関係に向って開いていく役割といえるだろう
 この特質もまた、場合によって、人情をわきまえない一種の教条主義的な態度や、不必要な厳格主義として、あまりほめられない形で現れることがある。家族は別に、単なる道徳共同体や一般社会構成の単位なのではなく、エロス的共同体(情緒を共有する運命共同体)の側面を持っているので、そこでは、一緒に戯れて遊ぶ空間、メンバーにとっての息つぎ、憩い、和らぎの場所といった生活要素が忘れられてはならない。しかしまた、それに対立する部分だけを取り出して、「父性」概念そのものの意義を否定してしまうのも行き過ぎである。社会的な自立という課題は、すべての未熟な人間存在にとって不可欠なものだからである。
 以上で母性的人倫と父性的人倫の違い、その違いのよって来る根拠について説明したが、家族倫理がまともな形で機能するためには、これら両性の人倫性がバランスよくかみ合うことが必要であるという点については、あまり多言を要さないであろう。

NHKのバカ放送(SSKシリーズその6プラス1)

2014年08月17日 08時48分27秒 | エッセイ
NHKのバカ放送(SSKシリーズその6プラス1)




 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。


2014年7月発表

 あきれた話。大学の行き帰りに車を使うのでその折にラジオを聴くことになります。もっぱらNHK。夕方の時間帯はその日のニュースと、あるテーマを選んでそれについて解説委員や専門家に話してもらう番組です。40分ぐらい聴きます。
 ある日の放送は、まず全原発停止の夏を迎えて電力需要をカバーできるかについての懸念が報じられました。加えてほとんど火力だけで賄われているいまの電力事情の苦しさが簡単に伝えられました。この苦しさは、主として次の三つです。化石燃料資源を外国に依存するため膨大な国富が流出すること、全国の火力発電所は老朽化している部分が多くトラブルが絶えないこと、火力はコストがかかるため電力料金に跳ね返る恐れが大きいこと。これらはその通りですし、国民みんなが考えなくてはならない重要な問題です。ところが番組ではほんのあっさりとニュースとして伝えられただけでした。その間ものの1分。
 さて代わりに多くの時間を割いて何をやったかというと、何とか生活研究所の何とかという人が出てきて、いかに家庭生活で電気を節約するかという話。たとえば冷蔵庫の開け方閉め方、エアコンのタイマーの有効利用、電燈の種類の選び方、電燈をこまめに消す工夫、その他いろいろ言っていましたが、あまりにチマチマした内容なので忘れました。とにかくこれらを全部試みるといくら節約できるかが「厳密に」試算されているらしいのです。ではいくら節約できるかというと、なんと、これから予想される一戸当たり平均年間値上げ高1000円分だというのです。年間1000円だと一か月85円、一日たったの3円。母ちゃんが3円節約するために懸命になっている時に父ちゃんは飲み屋で6000円奮発してきました。この6000円のなかには、もちろん飲み屋の電気代も、お酒を造るのに必要だった電気料金も含まれています。
 個人でできるところから、というこの手の話は昔から絶えません。林産資源節約のために割り箸を使わないことにしているとか、ペットボトルのリサイクルのために細かくゴミを分別するとか。割り箸は材木としては使えない残材から作られます。ペットボトルはほとんどリサイクルされていず、焼却されているのが実態です。その方が燃えにくい生ゴミの助燃材として有効なのです。
 これらは、戦時中の「ほしがりません勝つまでは」という発想とまったく同じで、百害あって一利なしの精神主義です。百害とは何か。まず公共放送たるものが、こんな話を延々とやっていて日本のエネルギーの未来という重要なテーマそのものに踏み込もうとしないこと。そのため視聴者は家計問題に気をそらされ、おバカにさせられてしまうこと。電気料金を値上げされると一番困るのは、大量に電気を使う工場や企業なのに、またその結果、製品の価格に転嫁されたり賃金や雇用がカットされたりするかもしれないのに、そのことが少しも話題にされないこと。ふだん国論的なテーマを政治家が訴えると、議論が国民に十分浸透していないなどとしきりに批判するくせに、浸透させる責任を負った公共放送がこんな体たらくでは、日本の将来が思いやられます。


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 以上は最近発表した原稿ですが、つい先日(8月10日)、台風11号が日本にやってきた折、たまたま午後5時のNHKテレビニュースを見ていたら、またもや「NHKのバカ放送」を感じ、ここにその折の感想を追加したくなりました。しつこい点、お許しください。
 この5時のニュースは、30分間放映されます。ニュースで30分といえばかなり長い。いろいろなことが報道できるはずです。ところがやっていることは台風報道ばかり。時間を計ってみたら、何と28分間を占めていました。残りの2分は、米軍がイラクを空爆したというニュースと、産経新聞ソウル支局長が韓国の地検当局局から、ごく短いコラムが事実を歪曲しているという廉で事情聴取の要請を受けたというニュースだけでした。それもごくおざなりの伝え方しかしません。そりゃそうですよね。2分間で詳しく報道できるわけがない。
 しかもこの時点で、台風は北陸から日本海に抜けつつあり、番組では全国各地域のすでに過ぎ去った時刻での状況を延々と流しているのです。多数の死傷者が出たとか、大量の家屋が洪水やがけ崩れで被害に遭ったとかいうなら話は分かります。ところが実際のその報道内容といったら、ガラスが割れて3人けがをしたとか、ブロック塀の上部が崩れたとか、木の枝が電線に引っかかってほんの一部で停電したとか、そんな話ばかり。
 事実、台風11号は、テレビが大げさに騒いだわりには、ほとんど被害をもたらしませんでしたね。そう言えば、最近のNHKは台風など自然災害をもたらす可能性のある情報が事前に察知されるたびに、何日も前からしつこくしつこく予報を繰り返して警戒を呼び掛け、結果的にほとんど被害もなく大げさに騒いだだけだったという例があまりに多い。見ていて「またかよ」と白けることがよくあります。オオカミ少年放送ですね。
 私はここに二つのことを感じます。
 ひとつは日本は災害大国だから、その危険が少しでもあるときには真っ先に、いくらでも時間を使って全国規模で報道しなくてはならないという「公共放送」の頑固な思い込み。これは震災以降、ことにその過敏性が激しくなったようです。
 そしてもうひとつは、テレビ報道関係者が、世界のあちこちで起きている重大な国際情勢(戦争や紛争や内戦や外交問題など)、また国内の政治問題や経済問題などのもつ意味に対して鈍感で、あたかも日本の民衆のほとんどが、「そんなこたあ、オラの暮らしに関係ねえがな」と平和ボケを決め込んでいるかのような前提に立ってニュースの優先順位を決めているとしか思えないこと。
 もちろん私は、公共放送たるもの、いつも天下国家の出来事を最優先で放送すべきだなどと言っているのではありません。人生上の重大事という観点から言えば、私的な生活問題、局地的な出来事が大きな意味をもつことは当然です。しかし、すでにほとんど被害がなかったことが判明していてその後もまあ大災害が起きる危険はないだろうという予想が成り立っている時点で、30分のうち28分を全国規模の台風報道に費やす必要はないでしょう。気象通報という時間帯もたっぷりあるのだし。
 これは、番組構成を決めている担当部署の怠惰を示す以外の何ものでもありません。
 そもそもNHKは、多様な関心をもったさまざまな国民の関心に十分応えていないと思います。たとえば国会の予算委員会や本会議で重要案件の議論があると、他の番組を中止して長時間その実況中継に切り替えます。これは一見、天下国家問題を優先していて、公共放送の使命を果たしているようですが、じつのところ、あんなだらだらした退屈な議論を初めから終わりまで延々と聴いている人はまずいないでしょう。もともと本会議の質疑は言うに及ばず、予算委員会の質疑も、各会派ごとに質問内容をあらかじめ整理して答弁側に渡しておき、行政もそれを受けて「官僚の作文」的に答弁している「出来レース」の場合がほとんどなのですから。
 矛盾したことを言うようですが、私は相撲観戦が好きなので、国会中継で相撲放送の時間が削られると、とてもつまらない思いをします。もともと限られた時間しかないテレビ放送なのですから、国会中継をだらだらと流すのではなく、「今日の国会」のような番組を短く設けて、そこで議論された内容の重要点を映像ぐるみで簡潔に知らせれば済む話です。そういう番組上の工夫を試みないのもNHKの怠惰をあらわしています。
 もっと言えば、多様化した国民の関心に応えることにとって、いまのNHKは、決定的に時間が足りないのです。地上波2局とBSがあるきりですが、Eテレはもともと視聴率が低いですし、その挽回のためか、主要部分は妙に民放ノリになっていて、しかも民放の後追いですからダサくて新味に欠けます。もちろん世界情勢を報道するようなフレームにはなっていない。総合テレビのごく限られた時間内に、ニュース報道と解説、スポーツや地域の話題、エンターテインメント、バラエティー番組やドラマなど、まるでラッシュアワーのように詰め込んでいますね。
 潤沢な資金があるのだから、どうして国内外のさまざまなニュースやそれについてきちんと考えさせるチャンネルをもう一局作らないのか。努力すれば必ずできるはずですし、心ある視聴者ならきっとNHKの公共性を見直すはずです。それをやらないのが最大の怠惰です。どこかで国民の「愚民性」に依存して甘えているのですね。オピニオンリーダーとしてのマスメディア失格というべきでしょう。

高橋洋一VS三橋貴明ヴァージョン2

2014年08月13日 02時05分34秒 | 経済
高橋洋一VS三橋貴明ヴァージョン2――コメンテーター「空き地」さんに応える





 立秋を過ぎて、やや暑さがおさまってきたようですね。けっこうなことです。

 ところで、当ブログの7月27日付記事「高橋洋一VS三橋貴明」
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/94ad439f6c7708f9b4d88c10bb6b3bdd)
に対して、「空き地」さんという方から以下のような批判的コメントをいただきました。対立点は明白で、しかもかなり重要な問題に触れています。「空き地」さん、ありがとうございます。
 直接コメントをお返ししてもいいのですが、どちらの言い分がより妥当か、なるべく多くの方に判定してもらうほうが言論の発展に貢献するだろうと考え、私からのお応えを新たにブログ記事として掲載することにしました。なお、少々他のことにかまけていたためにお返事が遅くなりましたことをお詫びいたします。
 では以下に、「空き地」さんのコメントを全文コピペします。


Unknown (空き地)2014-08-03 09:56:17

私と真逆の見解だったので楽しく拝見させていただきました。

全般的に三橋貴明氏の主張を鵜呑みにしすぎではないかと思いますね。氏は「物価と価格」の区別も付いていないような御仁ですので、そういう人の語る「経済学もどき」の言説が「弱者保護や国民の利益」に適うとは到底思えません。

主さんは大学教員であられるそうですが、そのような一定の社会的影響力を持つ方であれば、「リフレ派が何を主張しているのか」と言った基本的なことは事実を正確に把握された方が宜しいかと思います。少なくともリフレ派は金融政策万能論者でもリバタリアン的な市場原理主義者でもありません。「傲っている、毒されている」などといった情緒的な表現で批判する前に事実関係をご自身の目や耳で確かめられるべきだと考えます。

世の中「善意の強い方が正しい」ということはありません。口先で「弱者に優しい」だのとほざいても、理に適っていない善意はむしろ弱者を弱者のままに押し留めることになりかねません。あなたが「机上の空論」と切って捨てる経済理論の方が実際には「社会全体の幸福」を増進させるということは歴史上明らかなのです。

長々と失礼いたしました。

私の見解はコチラ↓にまとめてありますので、もし興味がおありでしたらお読みいただければと思います。
http://ameblo.jp/akichi-3kan4on/entry-11896627528.html



 それでは上に掲げられているURL掲載の「空き地」さんの見解も参考にさせていただいたうえで、反論いたします。
 
 まず単なる修辞上の問題に過ぎないといえばいえるのですが、私が「傲っている(正しくは『傲慢な』)、毒されている」といった表現を使ったことに対して、「空き地」さんは、事実関係を確かめない「情緒的な表現」と批判されています。しかしそれを言うなら、「空き地」さんご自身も、三橋氏の言説をその中身もじゅうぶん確かめないままに「経済学もどき」と決めつけているようですし、「口先で『弱者に優しい』だのとほざいても」などとずいぶん情緒的な表現を使っているのではありませんか。反論相手に対してきちんと論拠を示しつつ「情緒的表現」を使うことを私はけっして否定しません。はばかりながらそういうことをこれまでもさんざんやってきました。
 ちなみに私はくだんの記事で、高橋氏のどこが「傲慢」であるか、また安倍総理が市場原理主義者(新自由主義者)にいかに「毒されている」か、その論拠をきちんと示しています。安倍政権の経済政策の誤りについて、この記事だけでは説明不足だと思われる向きは、当ブログ、以下のURLへどうぞ。

http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/3249423496d0112f3d568fc9b6fda158
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/55b73e611e35e242be65e08d68f02b94
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/53ad286cccfdf5c42140b2da39762e32

 なお、リフレ派「一般」が、金融政策万能主義者でもリバタリアン的な市場原理主義者でもないことは、経済学の素人である私も知っておりました。クルーグマンやスティグリッツはリフレ派ですが、彼らは同時にケインズ的な財政出動の意味を大きく認めていますね。
 その点で、リフレ派「一般」が金融政策しか頭にない「机上の」理論家であるかのような表現を私が取ったことは、たしかに誤解を招きやすい点がありました。そのことを率直に認めたいと思います。そのうえで、改めて私の趣旨を述べます。
 私のこの記事での眼目は、二つあります。
 一つは、アベノミクス第一の矢の推進に大きな功績のあった「日本のリフレ派経済学者の多く」が、積極的な財政出動に対して概して冷淡であり、金融と財政のパッケージとしての意義を深く自覚せず、場合によっては、公共事業派と不毛な論争を続けていることです(例:原田泰氏)。
 もう一つは、この記事はそもそも、高橋洋一氏というひとりのリフレ派「代表」格の一発言を問題としたものであり、その発言が、ある現実的な課題(この場合はタクシー規制緩和の見直し)を突き付けられると、いかにただの市場原理主義の間違った法則をオウムのように反復することしかできないかということを示そうとしたものです。
 その法則とは、規制緩和を徹底させて自由な競争市場に任せ、モノやサービスを提供しさえすれば、需要はいつもそのまま自動的についてきて、需給バランスがとれ、消費者に安価なサービスを提供できるような幸せな社会になるという「机上の」理論です。
 この法則が間違っている点は、二つあります。
 一つは、デフレ期にはこの法則が通用しないという現実があること。まさに消費が冷え込んでいかに供給だけを増やしても需要がついてこない状態がデフレなのですから。状況によって政策を変えなくてはいけないのに、それを「理論」という名の硬直したイデオロギーが阻んでいる事態こそが問題なのです。
 もう一つは、デフレ下では、物価が下がって一見消費者にとってありがたいように見えても、その現象が同時に、生産現場での投資の停滞、企業の倒産、雇用の悪化、賃金の低下、失業の増大などを生み出している事実に目を配ろうとしないこと。少し考えればわかるように、タクシー運転手は、タクシーを運転しているときにはサービスの提供者ですが、その同じ人が、給料をもらって生活するときには、少なくて不安定な生活費で家族を養わなくてはならない消費者でもありますね。「買う人」は同時に他の局面では「働く人=労働力を売る人」でもありますから、その労働力がデフレ不況のために安く買いたたかれれば、当然その人は、生活に必要な消費ができなくなるわけです。
 安いものが買えてよいというのは、収入が安定していてある程度余裕のある人(例えば年金だけで生活できる人)の満足感をあらわしているだけです。デフレ現象は、マクロ経済全体の不活性状態ですから、結局、投資と消費(と輸出)によって構成されるGDPを押し下げ、平均的な国民全体の生活を貧しくするのです。現にここ二十年の日本ではそうなってきたし、安倍政権の経済政策によっても、この事態は少しも解決していません(実質賃金の低下、消費の冷え込み、など)。
 高橋氏は、「タクシー運転手の給料が低いのは当たり前だ」とか「規制緩和して料金が下がれば、それで食べていけない人は自然と他業種に移る」などと言い放つことによって、自身がマクロ経済全体の力学にまったく関心がないことを自己暴露しているのです。低賃金に甘んじている労働者が、この不況下に(「ゆるやかな回復基調」などという政府の公式見解はでたらめです)、他の仕事に移ることがどんなに難しいか、高橋氏は想像したことがあるのでしょうか。ここには物事を総合的に見る目が全く欠落しています。これで経済学者としての公共精神があるなどと言えますか? 
 つまりはそれが「新自由主義」の「理論」という名のイデオロギーなのであって、高橋氏はリフレ派経済学者を気取りながら、このイデオロギーに完全に拘束されています。要するに彼は正しい意味でのリフレ派ではないのですね。日本のリフレ派経済学者と呼ばれる人には、なぜかこの種の人が多いことを改めて問題視しておきます。

 ところで、「空き地」さんは、三橋氏を「『物価と価格』の区別も付いていないような御仁」と決めつけていますが、察するにこれは、タクシー料金という「価格」の一事例を材料にしてその格安性を問題にすることと、デフレ現象の指標である「物価」の下落を問題にすることとの混同であるという趣旨と受け取れます。それ以外に、三橋氏がこの「区別をつけていない」ような議論をしている他の例を寡聞にして知りませんので。
 でもね、「空き地」さん。私たちが問題にしている新聞記事は、もともと、個別具体事例を通して、二人の経済論客がどういう見識を示すかという枠組みによって編まれたものです。言うなれば、「タクシー料金」というのは、この場合、現在の国民経済の状態をどう見るかという問題に関する象徴的な材料の意味をもっています。
 その意味で、生鮮食料品や原油など、毎日変動する品目ではなく、ある程度恒常性をもったタクシー料金という個別一事例について語ることは、「物価」一般について語ること(たとえばCPIを問題にすること)とそんなに大きな隔たりはないと思いますよ。現に高橋氏だって、これを材料として、「規制緩和」一般の正当性を強く主張しているではありませんか。
「空き地」さんが、三橋氏を「物価と価格の区別も付いていないような経済学もどきの言説を語る御仁」と決めつけるからには、そういう証拠を彼の発言のなかから集めてきて示してほしいものです。ご自身のブログの文章も読ませていただきましたが、そこにも他の証拠らしいものは見当たりませんでした。また、三橋氏が果たして「口先で『弱者に優しい』だのとほざいて」いるだけの人かどうか、これも論証の必要がありそうですね。「情緒的な表現で批判する前に事実関係をご自身の目や耳で確かめられるべきだと考えます。」

 さらに「空き地」さんは、「あなたが『机上の空論』と切って捨てる経済理論の方が実際には『社会全体の幸福』を増進させるということは歴史上明らかなのです。」と、すごい(スケールがバカでかいという意味です)認識を示しておられます。
 私が「机上の空論」としているのは、新古典派に発し、いまもなおグローバリズムの牽引役を果たしている競争原理主義、新自由主義であって、どんな状況下でも政府の介入を排して個人・民間の「自由な」競争にゆだねるのが「社会全体の幸福」につながるとするような理論傾向のことです(アダム・スミスをその元祖とするのは誤解です)。この理論傾向は、歴史の教えるところによれば、世界恐慌を食い止めることができず、結果的にケインズらの提唱による管理通貨制度への移行や、ニューディール政策などの大規模な公共事業による雇用の創出に頼らざるを得なかったのではありませんか。
 やがて経済学界では、反ケインズ派(シカゴ学派など)が勢力を盛り返し、現在も経済政策の決定に当たってその隠然たる力を示しています。アメリカでは、共和党の「小さな政府」論がその代表です。EUの経済理念もこの立場に立っていますね。日本の代表者は、言うまでもなく構造改革・規制緩和を押し進める竹中平蔵氏一派です。
 さてこの傾向がアメリカ社会やEU社会や日本社会全体の幸福を増進させたことが本当に「歴史上明らか」ですか。これこそ、いくつもの事例の提示と壮大な証明が必要なのではありませんか。
 ちなみに私の貧しい認識によれば、この傾向は、アメリカ社会の貧困層を著しく増大させ、EUの国家間格差を思い切り広げて優勝劣敗を明確化させ(ドイツは国家単位としてはひとり勝ちしていますが、平均的な国民の生活は貧しくなっています)、さらに日本の経済社会のよき慣習を破壊しつつあります。これらの国々において、どのような意味で幸福な社会が実現しているのでしょうか。

 長くなるので引用しませんが、「空き地」さんがご自身のブログで展開しておられる「経済理論」なるものは、まったく素朴なレベルの需要と供給の「均衡理論」以外の何ものでもありません。民間の自由競争に任せれば自然に市場メカニズムが作用して均衡点に落ち着くというだけのものです。この理論では、繰り返しますが、供給さえ整っていれば、需要はそれに応じて自然についてくる(セーの法則)という非現実的な仮定が前提とされており、また、価格が均衡点に達するのが「本来の」姿であり、その場合には完全雇用が実現し、非自発的な失業はあり得ないとされています。
 残念ながらこの古典的な理論だけでは、実際に起きている不況や失業の問題が解決できなかったので、ケインズ理論が見直されつつあるわけです。その日本における代表者の一人が三橋氏であると私は考えています。
 ケインズ理論は、もともと数学のように「絶対的・普遍的正しさ」が要求されるような場で新古典派経済学との間に理論的な決着をつけるような性格のものではありません(そういうことを経済学に要求するのがそもそも間違っているのです)。しかし、資本主義を肯定しつつ、不況や失業や広範囲の貧困をいかにして食い止めるかという公共精神の抱き方、倫理的態度において、新古典派経済学よりもはるかに優っているというのが、私なりの見立てです。
 なお、「空き地」さんのブログにおける三橋批判は、彼が言おうとしていることの誤解と歪曲に満ちており、いちいち論駁する煩に堪えません。まあ、いい年をして代理戦争を買って出るのも大人げないのでやめておきましょう。

 大きなお世話ですが、最後に一言だけ申し上げておきます。「空き地」さんは、どうも「正統派経済学」なるアカデミックな観念に金縛りになっているようですが、豊かな実地経験と驚くべき情報収集能力と自力で考え抜く知性をもった三橋氏のようなすぐれた「経済評論家」や、現代社会が抱えている思想課題に対する真剣な問題意識をもった私のような「素人」をバカにしてはいけませんよ。

 それではまた、お互いにもう少し勉強してから出会うことにいたしましょう。妄言多謝。


*この稿をアップしたのちに、前回の記事にある人から寄せられたコメントに接し、大いに参考になりました。そのコメントで紹介されている記事によれば、そもそもタクシー業界に規制緩和を適用することは、この業種の特殊性からして不適切であるというのです。なぜそう言えるのかがたいへん具体的に、冷静に分析されています。この記事の書き手は、どちらかといえば規制緩和の方向性自体には賛成のようで、それだけによけい説得力があると感じました。
http://www.capital-tribune.com/archives/2758