小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

書き言葉表現の基礎訓練を(SSKシリーズ20)

2015年05月29日 23時43分53秒 | エッセイ
書き言葉表現の基礎訓練を



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

【2015年3月発表】

 日ごろ、いまの日本の初等から中等にかけての国語教育には欠陥があると思っています。それは思考を書き言葉で表現する訓練の不足です。要するに適切な作文教育をやっていないということなのですが、この言い方のなかには、私なりの根本的な注文が含まれています。
 どんな表現行為・制作行為にも、それが他人の目に触れてそれなりの評価を得るためには、一定の基礎訓練過程が必要とされます。たとえばクラシックピアノが弾けるようになるためには、バイエルやツェルニーなどの基礎課程をくぐらなくてはなりません。この課程を克服してようやく、個性的な表現をするための出発点につくわけです。表現における個性など初めから具わっているわけではありません。
 ところがここに一つだけ不思議な例外があります。書き言葉表現です。
 書き言葉をまともに使いこなすためには、ほかの分野と同じような基礎訓練過程がぜひとも必要なはずなのに、そういう訓練を本格的に授けるためのメソッドが確立されているでしょうか。せいぜい、小中高の限られた国語の時間のほんの一部を使って作文指導をするくらいです。その指導なるものも、テーマを与えて、「自分の思った通りに自由に書きなさい」と指示するだけでしょう。おそらく忙しい公教育の教師には、生徒一人一人の表現のつたなさをテニヲハの段階から具体的に指摘して添削指導を繰り返し、まともな日本語に仕上げさせるための指導を行うだけの力と余裕などとてもないでしょう。
 そもそも「思った通りに自由に書いた」文章が人々の厳しい評価に耐えるためには、その前に、ごく基礎的な日本語表現作法が身についていなくてはなりません。その教育と指導をおろそかにして、人にきちんと思想や感情や論理を伝えることなどできるはずがないし、相手の問いが何を要求しているのかを正確に把握できるはずがないのです。
 このおろそかさがはびこってしまったのには、次の二つの理由が考えられます。

①戦後教育が「自由と個性」なる謳い文句を過度に尊重してきた。
②多くの人が、言葉は思想を伝えるための単なるツールであるという思い違いをしている。


 ②の考えがはびこると(現にはびこっているのですが)、人はだれでも思想としては成熟したものを持っているがただツールが未熟なためにそれを表現できないのだという幻想に支配されます。これは倒錯です。
 思考は手を動かさなければけっして生きたものとはなりません。比喩的に言えば、人は頭と手の間で思考するのです。だからこそ評価に耐えるだけの思考力を鍛えるためには、初歩から順に段階を踏んで「書く」という行為を絶えず試みなければならないのです。
 私は何も「よい文章」とか「名文」の書き方を覚える必要があるなどと高級なことを言っているのではありません。できるだけ多くの日本人が普通に通用する文章を書けるようになり、人が書いている文章の趣旨を正確に冷静に受け止めるようになってほしいのです。僭越ながら私は、そういう訓練を行うための年少者対象の塾でも開こうかと妄想している最中です。

日本語を哲学する22

2015年05月13日 21時23分32秒 | 哲学
日本語を哲学する22




 次に、文学表現において、「沈黙」が美学的・芸術的な観点から見てきわめて効果的な役割を演じているケースについて考えてみよう。
 まずわが国の短詩形芸術の代表である短歌や俳句では、それぞれにその質は大きく異なるが、いずれも言葉の贅肉を意識的に削ぎ落として、限られた定型の文字数のうちに「こころ」を歌いこむ(詠みこむ)という点では共通している。「沈黙」あればこそその作品の価値が支えられるのである。
 短歌の場合には、景物や事実のみを歌いつつ、「嬉し、哀し、はかなし、さみし」などの思いを直接に表出せずに伝える類の歌に、ことにその特徴があらわれる。ここでは、そういう歌いぶりの面からのみ、秀歌と思える例をいくつか挙げてみる。たとえば実朝『金槐集』より――

 夏山に鳴くなる蝉の木がくれて 秋ちかしとやこゑもをしまぬ

 ものゝふの矢なみつくろふこての上に 霰たばしるなすの篠原

 五月やま木のしたやみのくらければ おのれまどひてなく郭公(ほととぎす)


 実朝の歌は「自分だけがこれを感じ取っているのではないか」という孤独感をにじませた歌が多いが、ここに挙げた三首も、そういう繊細な感性を突き詰めたものが感じられる。
 一首目。姿も見せずに「こゑもをしま」ず鳴きしきる蝉たちよ、お前たちは秋(死のメタファー)が近いからこそそうするのかという呼びかけは、それがそのまま自分の心境とシンクロしていることがすぐにわかる。しかしそうはっきりと言わずにむしろ素直に感じたままを表現することで、かえって歌人の「こころ」が見えてくる仕掛けになっている。
 二首目。著名な歌である。戦いを控えて勢ぞろいする「ものゝふ」たちの武装した姿を霰が激しくたたき、これから命をかける厳しい雰囲気がいや増さるという情景だろうか(別の解釈も可能である)。鑑賞する側にまで武者震いが伝わってくるようだ。しかし歌人の歌い方はことさらな情をこめずに淡々と目に映るさまのみを描写している。それでこそこの歌の厳粛な印象が鮮やかに刻み付けられる。
 三首目。「木のしたやみのくら」さと、「郭公」の鳴き声とは直接のかかわりはなかろう。だがそれをあえて有情の「まどひ」として連結させているのは、歌人の独特な感性であって、そのリリシズムには、ただしどけなく情に流れるのではない、抑制された知性がうかがわれる。




 次に、西行『山家集』より――

 かりがねはかへるみちにやまどふらむ こしの中山霞へだてゝ

 ながめつるあしたの雨のにはのおもに 花の雪しく春のゆふ暮


 西行の歌は、景物を歌いつつひそかにそれに心を託すのではなく、むしろそれを強い自意識のもとに心象風景として囲い込んでしまうものが多く、じっさい「心」「わが身」「思ふ」などの句がセンチメンタルと評してよいほどに頻出する。だから、ここでの「沈黙」による美学の例としてはふさわしくないかもしれない。しかし、その西行でさえ、上に挙げたような歌が散見されるので、やはり一見単なる自然詠と見えて、そこに彼自身の心情が黒子のように歌全体を支えているのがわかる。だからこそ、ここに例示する意味があるとも言えるのである。
 一首目。心が曇ってこれからどう人生の帰路を求めてよいのか決めあぐねている歌人自身の「まどひ」が、「かりがね」の渡りの道を塞ぐかに見えるはるかな山の霞という喩によって巧みに表現されている。
 二首目。朝降った雨で濡れている庭のおもてを、「ゆふ暮」には(おそらくはその雨によって)散ってしまった桜の花びらが一面に覆っている。「ながめつる」というからには、歌人は朝から夕までじっとひとところで時を過ごしていたのかもしれない。実際にそうではないにしても、ここには、同じ空間におけるそういう時の移り行きがそのまま歌いこまれている。濡れた庭を散った花びらが覆っているさまは、それだけでもうつくしく情趣が深いが、そこに「あした」から「ゆふ暮」までの時の流れを重ね合わせたところに、歌人の世をはかなむこころがさりげなく映し出されている。

 次に俳句についても一言しておこう。
 言うまでもなく、俳句は情景のワン・ショットのうちに、「声」や「静寂の余韻」や「語られなかったもの、語れば野暮になるもの」を豊かに内蔵している。鑑賞者のほうもそれを感じ取る極意のようなものが要求されるので、一見形だけはすぐに整えられて安直なように見えながら、じつは難解な芸術形式と言えるだろう。




 ここでは、絵画的(あるいは写真的)な美の印象を強く焼き付ける蕪村の句を取り上げてみよう。

 菜の花や 月は東に 日は西に

 さみだれや 大河を前に 家二軒

 月天心 貧しき町を 通りけり


 第一句。日が沈むころに出る月は満月か、それに近い月である。薄暮が迫る広野にいっぱいに咲く菜の花。天界と地上とを一気に視野に収めた雄大な句である。この雄大さを絵や写真に収めるのはとても難しい。しかし、一人の人間にとっては、くるりと首を回すだけで一瞬にしてそれを視野に入れることができるのだ。「自然にじかに接している生身の人がいる」という事実の重要さを、この句は「沈黙」によって教えていると言えるだろう。
 第二句。これも作者の視点とその心をよく想像させる作品である。水かさを増した大河の前に心細そうにたたずむ小さな家が二軒。危ないな、大丈夫かなと心配している蕪村の位置は、家々よりも少し高いところにあるだろうか。しかしその心は、あまり豊かではないであろうこの村の家々の住人の生活意識へとまっすぐに通じてもいるのだ。まったくの写生的な句でありながら、そういう人間的な共感を直ちに呼び起こす効果を醸し出している。さらに蕪村の胸には、世間の荒波に直面しながら、か弱くひっそりと、それでもけなげに生き抜こうとする一対の男女の姿が去来していたかもしれない。同じく五月雨を詠んだ芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」よりもはるかに優れた句であると私は思う。
 第三句。「貧しき町」を通っているのは、中天にかかる月だろうか、それともこの風景のさなかをそぞろ歩きしている俳人自身だろうか。私には、その両方であるように思える。
 月明かりに青く照らされることで、町の貧しさがいっそう心に沁みとおってくる。俳人自身が町の路地を通りぬけていなければその感興は胸に強くは響いてこないだろう。だがいっぽうで、先の「さみだれ」の句と同じように、鳥瞰的な視点から「貧しき町」への思いをあれこれと巡らしている蕪村がいるとも考えられる。その場合には、彼は町を優しくゆっくりと見守る月にそのまま同化しているのである。この二重化された視点が短い句のなかに凝縮されているのだが、そのこと自体は句には明示されていず、沈黙のままに鑑賞者の味わいの力にゆだねられているのである。

教育ドラマの風評被害

2015年05月10日 22時26分19秒 | エッセイ
教育ドラマの風評被害(SSKシリーズ19)



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

【2013年9月発表】
 私はほとんどテレビを見ないので知らなかったのですが、少し前に「35歳の高校生」というドラマがあって、けっこう視聴率が高かったそうですね。大学のゼミ学生から聞きました。このドラマの中に、高校教師がビルの屋上から飛び降り自殺し、「現代の高校は教育現場などではない。敗者になった者には人権すら認められない。今の高校は地獄そのものだ」という遺書を残した場面があったとか。前後の文脈がわからないので確実なことは言えませんが、こういうセリフを安易に書き込む脚本家って、「教育現場」なるものをどれくらい調べたのでしょう。
 これと前後した時期に朝日新聞の意識調査があり、「高校生活が楽しい」と答えた生徒が9割近くいたそうです。9割ってほとんど全員ということですよ。しかもこの割合は過去最高とか。
 私はドラマの表現に疑問を感じたので、ゼミ学生たちに、君たち、高校生活どうだった? と聞いてみたところ、大半が楽しかったと答えました。「今の高校は地獄そのもの」という表現となんと乖離していることでしょう。
 ある特定の現場状況の中で、必死で努力したのに報われず、絶望して自殺する熱血教師が出てきたとしても、それ自体は個別現象ですから、別に不思議はないでしょう(まれでしょうが)。まあ、ドラマは誇張しないとドラマにならないのでその点については寛容になるとしても、しかし「地獄そのもの」はあんまりなんじゃないの。皮肉をかませるなら、その教師の教育に対する過剰な思い入れが自ら悲劇を招きよせたのかもしれませんね。大人の対応ができなかったのかも。
 私は、意識調査結果をそのまま鵜呑みにして、今の高校には問題はないなどと言いたいのではありません。「楽しい」と言ったって悩みがなかったことにはならないし、嫌なこともいっぱいあったに決まっているし、「楽しさ」が高校教育の「正しさ」を証明するわけでもありません。また意識調査も個別事情を捨象したメディア表現なのでそんなに信用できないという見方も可能です。
 でもなんでしょうね。この極端な差。一般的に教師の「人権」は他業種に比べて相当保障されているし、生徒は大人社会の厳しさから免除されているので、適当に学校生活を過ごしていれば平均的には「楽しい」はずです。しかも特定の子どもが「敗者」のレッテルを張られることに対して戦後教育は過敏なほどに神経を使ってきました。
 この種のドラマの致命的な欠陥は、その扱う世界がいま大体どんなふうかということをきちんと感性的にとらえずに、初めから学校全体を「社会問題」として頭でとらえて、そこにもっぱら否定的なバイアスをかけて見ている点です。いじめ自殺などが大騒ぎになったので、テレビ局もこれは受けると踏んだのでしょうね。
 メディアが大騒ぎのもとを作り、その大騒ぎをまたメディアが利用して、教育に対する単純な反体制理念をお茶の間に流す。お茶の間の視聴者はドラマ表現を見て「これが教育の現実」と思い込むクセがあります。そこにつけ込む脚本家、テレビ局はたいへん質が悪くレベルが低い。これを風評被害と言います。

日本語を哲学する21

2015年05月07日 18時10分01秒 | 哲学
日本語を哲学する21




「沈黙」という概念を、会話の中で実際に黙っていることに限定しなくともよい。それは、ある言い回し、特に慣用的な表現の周辺を黒子のような役回りで漂っていることがあるし、また、文字表出で埋め尽くされている文章表現、特に文学において、美学的・芸術的な観点から見てきわめて効果的な役割を演じていることがある

 たとえば、これはすでに第Ⅱ部で予定している日本語論の領域に踏み込むことになるが、「しょうがない」という言葉は、日常生活でいろいろなニュアンスを込めてごく頻繁に使われる。

「しまった、財布、忘れてきちゃった!」
「なんだ、買えないじゃないか。しょうがないな」


 この場合は、困惑と非難・叱責の意味合いが色濃く出ているだろう。

「彼女に振られちゃってさ」
「しょうがない。あきらめるしかないな」


 この場合は、この先打つ手がないことがかなりはっきりしているので、断念を勧めつつ、そこに慰めの意味も込めている。

「大事な仕事が入っちゃったんで、そっちを優先させないと」
「しょうがない。ぐずぐずせずに連絡すれば」


 この場合は、他に道がないので早く選択の決断をすべきだと促している。

「あそこは道路がまだ通っていないからしょうがないんだよ」

 この場合は、抵抗の存在による行動の不能を表現している。

「今度入社してきたA、使えねえよ。まったくしょうがないやつだ」

 この場合は、その対象とされている人物やモノに価値がないことに対して、憤りや突き放しの気持ちが込められている。

「あの時、もう少し私にお金があったらね」
「そんなこと言ったってしょうがないだろ。君には君の事情があったんだし、それにもう過ぎたことだ」


 この場合は、「後悔先に立たず」の教訓を説いている。

 こうしてこの「しょうがない」という言葉は、日本的な諦念の思想を中核に据えながら、時と場合に応じて、過去を振り返らず未来の行動へいち早く気持ちを切り替える促しを表現するかと思えば、抵抗があるために克服不能であるという意味合いも持つし、また未練や憤りなどの感情表現として姿を現すこともある。つまりこういう使用実態をいろいろと検討してみると、「しょうがない」という慣用表現は、そう発語されない陰翳の部分、つまり「沈黙」によって全体の適用範囲が支えられていることがわかる。その場合、どの意味合いに確定されるかは、文脈と発語の調子に依存していると言えるだろう。

 もうひとつ例を挙げておこう。
おかげさまで」という言葉がある。この言葉は、無事何ごとかが成就した時に何者か(普通は世話になった相手)に向かって感謝の気持ちを表す表現だが、考えてみるとなかなかに玄妙と形容すべき言葉である。その玄妙さは二つの面に現れている。
 まず第一に、いま私は「何ごとかが成就した時」と書いたが、この言葉は必ずしも特定のものごとの成就の際にのみ使われるのではなく、平々凡々たる暮らしがつつがなく送られているときにも「おかげさまで何とかやっています」というような使われ方をする。いわば「おかげさま」は西洋における「神」に匹敵するといってもよい。西洋人もまた、一日の終わりや食事の前などに、神への感謝の祈りを捧げる習慣を続けてきた。「おかげさまで何とかやっています」には、これと共通する心情が認められる。
 もちろんそれは、西洋の「神」のように唯一神信仰としての超越的な強度を保持してはいず、何となく私たちの周囲でいつも見守っていてくださる祖霊であったり、自然や家屋のどこそこ、厨房や便所に宿っていたりする、身近で親しみのある雰囲気を備えた神さまである。しかしじつは西洋の場合も、信仰心の一番素朴な(原始的な)情緒の層まで降りてみれば、これと事情は同じであるに違いないと私は考えている(例:マリア信仰など)。世界共通の素朴で具体的な信仰心(人間に特有の生の不安を自己慰撫しようとする心、周辺世界を自分たちにとっての物語で彩ろうとする心)を基盤として、そこに特定の文化風土に根差した抽象化による統合を施したところに、一神教的な表象が成立したのであろう。わかりやすくたとえれば、世界への人間の水平的なかかわり意識を、垂直的なものに仕立て上げたのである。この仕立て上げは、その文化風土にとって必然的であった。
 ところで、試みにインターネットの「語源由来辞典」でこの「おかげさま」という言葉を引いてみると、次のように書かれている。

 おかげさまは、他人から受ける利益や恩恵を意味する「お陰」に「様」をつけて、丁寧にした言葉である。
 古くから「陰」は神仏などの偉大なものの陰で、その庇護を受ける意味として使われている。
 これは、「御影(みかげ)」が「神霊」や「みたま」「死んだ人の姿や肖像」を意味することにも通じる。
 接頭語に「お」がついて「おかげ」となったのは室町時代末ごろからで、悪い影響をこうむった時にも「おかげさま」が使われるようになったのは江戸時代からである。


 この記述で興味深いのは、真ん中の二つの文である。神仏の名を直接呼ばわってそのご加護を表明するのははばかられるので、その姿の「影」のお裾分けを自分もまた与っているというわけであろう。また、死者の肖像を「みかげ」(現代では「遺影」)と呼ぶのも、柳田国男などが強調した日本の祖霊信仰、死んだ近親者に対する尊重の気持ちの強さに結びつくので、言われてみればたいへん納得がいく話である。
 第二の玄妙さは、同じことだが、この言葉が、必ずしもお世話になった直接の相手をいつも指しているわけではないという点である。

医者「どうですか、調子は?」
患者「はあ、おかげさまでだいぶいいようです」


 この場合、常識的に考えて、患者がおかげをこうむっているのは、診察してもらっている医者ということになる。しかしこうした場合でも、感謝の対象は目の前の医者だけに向けられていると考えると、この言葉の含みや広がりを包摂したことにならない感じが残る。貧しいイスラム教徒に乞われて金を施すと、彼らは金をくれた人に感謝の情を表さずに、何よりもまずアッラーに感謝するという話を昔聞いたことがある。話してくれた知人は苦笑していたが、これはあながち見当違いな態度とは言い切れない。このケースを一つの極点と考えると、もう一方の極点にもっぱら当の個人に礼を述べるという「近代」的な態度があるだろう。「おかげさまで」という言い方は、その中間に属するとみなせるのではないか。つまり、調子がいいのはもちろん医者の施療の「おかげ」なのだが、そういう出会いと仕合せにめぐり合わせてくれた何者か(神さまのようなもの)、そのぼんやりとした運命の連関に対しても「おかげ」をこうむっているという気持ちが、この言葉にはもともと込められていると考えられる。
 もちろんまた、先の「語源由来辞典」にあったように、「おかげさまでひどい目に遭いましたよ」などの皮肉な用法があるから、そこにもこの言葉のもつニュアンスの広さがうかがえるだろう。
 さてこのように考えてくると、「おかげさま」も、「しょうがない」と同じように、それが使用される文脈しだいで、さまざまな意味の広がりを持つことがわかる。そうしてその意味の広がりに力を与えているのは、その発声された言葉や文字面自体ではなく、むしろその言葉が背後に備えている陰翳の部分である。これを発語が沈黙によって支えられている一例と考えても、あながち牽強付会とは言えまい。