小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

誤解された思想家たち・日本編シリーズその7

2017年04月27日 19時28分03秒 | 思想

      




北畠親房(1293~1354)


 北畠親房の『神皇正統記』は、その考え方にいくつも屁理屈や矛盾があって、突っ込みどころ満載の書ですね。主なものを挙げておきましょう。

①皇統の正統性の根拠を三種の神器(八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣)の継承に置いているにもかかわらず、三種の神器を具した安徳天皇が海の藻屑と消えて以後、後白河院の「伝国詔宣」のみによる後鳥羽天皇践祚を認めています。
 これについては原文を引用しておきましょう(第八十二代・後鳥羽院の項)。

≪先帝(安徳天皇――引用者注)三種の神器をあひぐさせ給ひし故に践祚の初の違例に侍りしかど、法皇国の本主にて正統の位を伝えまします。皇大神宮・熱田の神明かにまぼり給ことなれば、天位つつがましまさず。≫

 格好さえつければ何でもいいと言っているみたいですね。

②一方、後醍醐天皇が三種の神器を押さえていたために、北朝方の光厳天皇践祚も後伏見天皇の「伝国詔宣」によって行われましたが、親房はこれをまったく認めていません。しかも光厳天皇は、建武の新政までの二年間、正式に在位していたのです。

③武家政権を否定して、天皇親政の昔に還れと呼びかけているにもかかわらず、頼朝の幕政をほめたたえ、かつ北条泰時の秩序維持の政治をひたすら高く評価しています。

④親房の思想によれば、善政を行った家系は天照大神のみそなわしにより必ず長く続くが、悪政を行なった家系は必ず絶えることになるはずです。ところが、善政を敷いたはずの頼朝の家系は頼家・実朝の暗殺によってわずか三代で滅んでいます。しかし親房はこの事態をどう見るかについてきちんと触れておらず、実朝暗殺は鎌倉幕府に背いた者のわざではないとして、素通りしています。

⑤承久の乱における義時の平定を肯定すると同時に後鳥羽上皇を批判しながら、一方で、足利尊氏を暗に「朝敵」と呼んで非難し、同時に後鳥羽上皇と同じようなことをやった後醍醐天皇を擁護しています。

 以上の③④⑤についてはほぼ一続きの文章で確認できるので、これも原文を引用しておきます(「廃帝・仲恭天皇の項)。なおカッコ内は、引用者の補注。

≪頼朝一臂をふるひて其乱をたひらげたり。王室はふるきにかへるまでなかりしかど、九重の塵もおさまり、万民の肩もやすまりぬ。上下堵をやすくし、東より西より其徳に伏せしかば、実朝なくなりてもそむく者ありとは聞えず。(中略)頼朝高官にのぼり、守護の職を給、これみな法皇の勅裁也。わたくしにぬすめりとはさだめがたし。後室その跡をはからひ、義時久しく彼が権をとりて、人望にそむかざりしかば、下にはいまだきず有といふべからず。一往のいはればかりにて(後鳥羽上皇が承久の乱を起こして敗れた後)追討せられんは、上の御とがとや申べき。(尊氏のように)謀反おこしたる朝敵の利を得たるには比量せられがたし。かかれば(後鳥羽上皇が乱を起こしたのは)時のいたらず、天のゆるさぬことは疑ひなし。但(尊氏のように)下の上を剋するはきはめたる非道なり。≫

 これらは、よく読めば子どもでも分かる撞着や偏向であって、すでに早くから指摘されています。しかしこの書の成立事情や親房の動機を考える時、共感できるとは言わないまでも、なるほどそういうわけか、と納得することはできるのです。
 まず、よく知られているように、北畠親房は、鎌倉幕府が滅んだ後、短い建武の新政が終わり、やがて南北朝時代に移って行くときに、後醍醐天皇とその子孫を皇統の正系として擁した南朝方の有力リーダーです。ですから、南朝に有利な記述に偏するのは当然と言えば当然でしょう。
 また、親房は、庶流とはいえ、村上天皇の血筋を引くプライドの高い貴族の末裔です。しかもその才能によって早くから後醍醐天皇のおぼえめでたく、若くして正二位、大納言にまで昇りつめています。
 彼は、心情的には明らかに武家を下品で賎しい身分として軽蔑していました。そうして当世をその賎しい身分によって乱された末法の時代と考えていました。それなのに、頼朝治世の称賛や、泰時に対する異常なほどの高い評価は、いったいどこから来ているのか。
 それは、ひとことで言えば身びいき感情です。というのは、まず親房は、村上源氏(より詳しくは久我源氏)の流れを汲んでいます。頼朝は清和源氏の流れなので、だいぶ系統が異なりますが、それにしても天皇家の皇子が賜った臣籍として同じ源姓を戴いていることのうちには、おのずからな共感ともいうべきものがはたらいていたとみるのが自然です。
 次に持明院統(第八十九代・後深草天皇)と大覚寺統(第九十代・亀山天皇)との間に皇位継承争いが発生する前、皇統は廻り持ちでそれなりに安定していました。その中に、第八十三代・土御門天皇とその嫡子である第八十八代・後嵯峨天皇がいます。この二人の天皇の母はそれぞれ村上源氏(より詳しくは久我源氏)の通親、通宗の娘であり、共に親房の先祖に当たります。つまり彼は、単に遠く村上天皇の末裔であったばかりでなく、この二人の天皇とたいへんゆかりの深い外戚だったのです。
 ところで、後嵯峨天皇の践祚に大きな力を及ぼしたのが、なんと泰時でした。親房は、自分の家系である村上源氏が天皇家と深く結びつくことに貢献してくれた泰時に、感謝の情を強く抱いていたわけです。
『神皇正統記』の土御門院、後嵯峨院の項を読むと、土御門院が承久の乱に関して父の後鳥羽院や弟の順徳院を時期尚早と諌める英明ぶりや、その温和で思いやりの深さが強調されており、また、泰時をべたほめしている調子が露骨に出ているのがわかります。

 さて『神皇正統記』の史実としてのいかがわしさや記述の矛盾について長々と述べてきましたが、私は、親房の記述のこうした傾向を、偏った見方をしているからよくないとか、自分勝手な歪曲があるから客観的視点から見て価値が低い、などと言いたいのではありません。歴史とはもとより、それを記述する者が創り出す物語の集積と絶えざる改編(改竄)の過程にほかなりません。
 このブログの他の記事でも書きましたが、フランス語では、「歴史」も「物語」も同じhistoire、英語のhistoryにもドイツ語のGeschichteにも両様の意味合いが含まれています。
 また私たち日本人にとっては、きわめて不快なことではありますが、東京裁判史観なるものがアメリカが創り出したインチキに他ならないことは、今日心ある日本人の間では常識となっています。中国の「南京大虐殺」説がでっち上げであることは明らかなのに、ユネスコ記憶遺産に登録されてしまいました。さらに韓国の「従軍慰安婦強制連行」説が欧米でまかり通ってしまっていて、改められる気配もありません。こうした光景を見ていると、そもそも歴史とは捏造の歴史であると言いたくなってきます。
 その場合、歴史改編(改竄)の成否のカギを握っているのは何かといえば、それはさまざまな意味での「力」にほかなりません。より具体的に言えば、軍事力、政治力、外交力、経済力、情報発信力、知力、創造力、演出力、勝者特権や被害者特権を利用した説得力、などです。戦後日本が、これらのうち、経済力以外のすべてにおいて負け続けてきたことは言うまでもありません。
 こういうと、それはあきらめのニヒリズムだと評されそうです。しかしそうではなく、私は、歴史とは本来そうしたものなのだと開き直ることこそが大事なのではないかと言いたいのです。
 この覚悟を固めることがまず歴史戦において「負けないこと」「勝つこと」の第一歩なのです。粘り強く誠実さを貫いてゆけば、いつかは相手もわかってくれる、などという日本人好みの倫理観は、国際社会では通用しません。私たちも彼らを見習って大いにでっち上げをやれとまでは言いませんが、少なくともマキャヴェッリが言うように、「誠実らしく見せること」「見くびられないようにすること」が何よりも大切です。歴史とはそれを紡ぐ共同体自身を利するための不断の闘いにほかならないのですから。

 北畠親房に話を戻しましょう。
彼はなぜ『神皇正統記』を著したか。出家僧でもあった彼は、この書の中で、三種の神器(鏡、玉、剣)のそれぞれに、仏教倫理としての「至誠」、「慈悲」、「智慧=決断力」を対応させて、この三つが具わっていれば、必ず自分の主張する皇統の原理は「正理」として認められると強調しています。本地垂迹をテクニックとして用いているのですね。
 しかし実際の中身は、いま見てきたように、矛盾だらけです。これらを親房自身がまったく自覚していなかったとは考えられませんが、闘いの情熱のあまりの大きさがそれらを小さなこととしてやり過ごさせてしまったのでしょう。
 この山っ気たっぷりの闘争精神がどこから出てきたのか、後醍醐天皇という変人めいた天皇の生き様と照らし合わせてみる時、親房は、天皇の一種の宗教的カリスマのような人格にかなりいかれていたのではないかという推測が成り立ちます。
 ちなみに建武の新政で後醍醐天皇が採用した人事が、自分が気に入った者ならやたらと重用してしまうきわめて衝動的で不公平なものであったことはよく知られています。この点に関しては、さすがの忠臣・親房も『神皇正統記』のなかで、徳も品格も地位も備わっていない人間をむやみに重用すべきではないと、暗に後醍醐天皇を批判しています。
 後醍醐天皇という人は、倒幕計画が事前に発覚した正中の変(一三二四年)では、自分は無関係としらを切り、また、同じく討幕を企んだ元弘の乱(一三三一年)では、捕縛された時、面通しを依頼された西園寺公宗に「魔がさしたので、どうかお許しください」と泣きつき、穏やかで教養豊かな花園院の眉を顰めさせたそうです。
 どうもあまりほめられた君主ではありませんが、親房にとっては若くして抜擢された御恩もあり、最後まで忠誠を尽くすつもりだったのでしょう。

 ところで、『神皇正統記』が書かれたのは、京都や吉野ではなく、常陸国・筑波山麓の小田治久の館においてでした。親房は、建武の新政の破綻後、劣勢明らかな南朝方の起死回生を期すべく、東国の武士たちにテコ入れするために難儀をしながらようやく小田城にたどり着いたのです。
 彼はここに三年近く滞在しますが、その初めの一年にこの書が大急ぎで書かれたようです(一三三九年秋ごろ完成)。じつはこの一年の間に、京都では北朝方についた尊氏が征夷大将軍に任ぜられて幕府を開き(一三三八年八月)、いっぽう吉野では後醍醐天皇が没します(一三三九年八月)。
 この因縁めいた事実を私は重く見たいと思うものです。というのは、草深い東国の閑居で、この二つの重大なニュースを知った親房の胸の内を想像すると、その孤独な執念の由来が見えてくるような気がするからです。
 陸奥白川の結城親朝に七十通を越す勧誘の手紙を書く傍らで、彼はおそらく、はるかに都を臨みながら、また吉野での主君の崩御に涙しながら、宿敵・尊氏の京都制圧に対して、怨念に打ち震え、歯噛みしながらこの書を一気に書き下したものと思われます。参考書として使用したのは、簡略な王代記ただ一冊でした。

『神皇正統記』には、古くから、誰に宛てて書いたものかという論争がありました。それは、最古の写本「白山本」の奥付のなかに「為示或童蒙所馳老筆也」(この書は、ある童蒙に示すために老いたる筆を走らせたものである)とあって、この「童蒙」がだれを指すのかをめぐって諸説が唱えられてきたからです。
 かつては後醍醐天皇の子、義良親王(後の後村上天皇)を指していると考えられていましたが、「童蒙」という言葉は蔑視のイメージが強いため、それは否定され、いまだに説が定まっていません。
 しかし親房自身の生きた乱世のありさまと、それに対する激しい義憤の念、尊氏のような「逆賊」に支配されている現状への怒りと、それをどうすることもできない焦慮、などのことを考えると、さしてその対象を絞る必要もないのではないか。
 つまり「童蒙」とは「正道を知らぬわからずや」といった程度の一般的な意味に解釈しておけばいいのではないでしょうか。親房は、「バカども、よく目を見開いてみよ、この私が正統を示してやる!」と怒れる仁王のように傲然と自ら信ずるところを獅子吼している――そういう姿を思い浮かべたほうが、この反時代的な書物の執筆動機をよく示していると思われるのです。

 親房はやがて吉野に帰り、後村上天皇の践祚を見届けます。そうして一度は入京を果たし、尊氏を後村上天皇に降伏させ、しかも北朝方の光厳・光明・崇光の三院を南朝・賀名生に幽閉するという挙にまで出ています。さらに足利尊氏・直義兄弟の対立につけ込んで交渉を重ねるといった政略家ぶりも見せています。
 これらは結局失敗に終わるのですが、ここに見られるのは、なんとしても権力を奪取しようという、貴族にはふさわしからぬ飽くなき執念です。こうした背景の中に『神皇正統記』を置いてみる時、この書が単なる皇統の通史を綴ったものではなく、時代と強く切り結ばれた「実践の書」であるさまがくっきりと浮かび上がってきます。
 突飛な連想ですが、それは西欧における旧教と新教の争いにも比すべき一種の宗教戦争だったと言ってもよいでしょう。だからそこには、どうにもならない著者(=信徒)の熱い思いが込められています。したがって、論理的な矛盾を突いても、じつはあまり意味がありません。むしろそれらの矛盾のうちに、激しい情念と執着とを読み取るべきなのです。もっとも、そこに盛られた「天皇親政に還る」という理念は、もはやどうみても時代に逆行する性格を免れなかったのですが。

日本学術会議というアホ集団

2017年04月25日 00時59分10秒 | 思想

      




北朝鮮の核実験やミサイル発射が度重なっています。
アメリカはこれを阻止すべく、「あらゆる選択肢をテーブルに乗せている」として、空母カール・ビンソンを朝鮮半島沖に近づけつつあります。日本の自衛隊もアメリカのこの動きに対して協力体制を固めています。
また日本本土への北朝鮮のミサイル攻撃に対して、政府をはじめとした国民の間に、防衛意識が一気に高まっています。

一方、中国の大連では、国産初の空母「山東」の進水を間近に控えています。「山東」は台湾や日本近海、第二列島線周辺の海域を航行することが確実視されています。
さらに上海でも二番目の空母が建造中であり、これはおそらく南シナ海やその外側を主要な航行海域とするのでしょう。

さて、朝鮮戦争以来、かつてない東アジアの軍事的緊張が高まっている状態をよそに、さる4月14日、日本学術会議が京都内で総会を開き、科学者は軍事的な研究を行わないとする声明を発表しました。
この総会では、ミサイル防衛を否定するかのような発言まで飛び出し、自由討論では研究者9人のうち8人までが声明に対して支持を表明したそうです(産経新聞4月15日付)。
この総会に先立って、2月4日、日本学術会議はシンポジウムを開きました。
これは2016年度からスタートした防衛省の公募制度「安全保障技術研究推進制度」に対してどう対応すべきかを討論したものです。

学術会議は2016年5月、「安全保障と学術に関する検討委員会」なるものを設置し、「軍事的安全保障研究について」という報告書を、総会前日の4月13日に提出しています。
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-23-h170413.pdf#search=%27%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E7%9A%84%E5%AE%89%E5%85%A8%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%27
この報告書では、次のようなことが謳われています。

①防衛省の制度によって学術の本質が損なわれかねない。
②科学者コミュニティが追求すべきは学術の健全な発展である。
③科学者コミュニティによって研究成果の公開性が担保される必要がある。
④防衛省の制度は研究委託の一種である。
⑤軍事的安全保障研究の可能性がある研究には技術的・倫理的に審査する制度を設ける必要がある。


まあ、なんて浮世離れした殿上人の集まりのお話なんでしょう、と失笑を禁じえなかった読者もたくさんいるのではないでしょうか。
「学術の本質」「学術の健全な発展」「研究成果の公開性」――抽象的な用語の羅列ばかりですね。ご本人たちに「学術の本質」って何? と聞いてみたくなります。
特に最後の「公開性」は、国家機密や企業秘密に触れるものでもなんでもグローバルに共有しようという理念であって、リスク管理の意識がまったくないことを証明しています。きわめて危険であり、また技術流出が経済的な意味での国益を毀損する可能性に対してもてんで無頓着です。
こんな組織が大手をふるって存在するんですね。

しかし日本学術会議というのは、内閣府に所属するれっきとした国家機関です。政府への政策提言を行うことを任務の一つとしており、2017年度予算では国庫から10億5千万円が拠出されています。
日本の安全保障がこれだけ脅かされている時に、こういうサロンでの空想的平和主義のお話を、国費を費やして許しておいてよいのでしょうか。

この報告書では、ある研究が軍事目的であるか民生目的であるかの線引きが困難であることを認めています。
素晴らしくよく切れる包丁はよい料理を作るのに役立ちますが、凶器にもなりうることは子どもでも分かります。核物質の研究成果も平和利用が可能だし、インターネットやGPSが軍事利用目的から生まれたことは有名です。ネジ一つだって、どちらにも使えますね。
学術会議は、それを知っていながら、軍事的な研究であるかそうでないかをどうやって審査するのか、その基準については何も述べていません。基準などできるわけがないのに、言葉で逃げているだけです。
目的の如何は、技術研究そのものに存するのではなく、それを運用する人間、もっと言えば個々の局面での政治的な判断のうちにあります。

防衛省の制度が研究委託だというのもウソです。きちんと公募という手続きを取って、安全保障に役立つと思われるものを採用しているのです。2年間で153件の応募があり、採択されたのは19件です。必ずしも軍事用というわけではありません。
たとえば現在のガスマスクは有毒物質をフィルターにため込んでしまうため、これを分解・除去する技術の開発を目指した研究があります。これなどは、当然、農薬の被害や自然災害を避けるのに役立つわけですね。
先に述べたように、軍事用から民生用へ〈スピンオフ〉、民生用から軍事用へ(スピンオン)の転用というのは、技術というもののもつ本質的な特性ですから、学術オタクたちが個々の技術研究だけを取り出してそれらを軍事用、民生用と腑分けすることは不可能だし無意味でもあります。彼らに要求したいのは、いま日本がどういう緊迫した状況に置かれているかということについて正しい感度と認識を持ち、それにもとづいて、「何をしないか」ではなく、「何ができるか」を考えてもらうことです。期待しても無理かもしれませんが。

結局のところ学術会議は、防衛省の制度に全面的に反対するほかなくなるわけですが、ではそれを「政策提言」として政府に具申するのか。その働きかけが有効だとでも信じているのでしょうか。
もちろんそんな気はさらさらなく、安全圏にいて自分たちの幼稚な空想が満足させられればいい、ということなのでしょう。これでは話になりません。

また学術会議の考え方に従えば、武器や兵器についても一切研究してはならないということになりますが、これもバカげた考えの極みです。こういう「お花畑」志向はじつはたいへん有害なのです。
第一に、国民を守らなくてはならない時に、それに何ら貢献しなくとも、「学術」の権威の下に国費を費やすことが許されてしまいます。
第二に、それによって現実を見ようとしない幼稚な平和主義が民間の間に存続し、助長されます。いざ自分たちの身を守らなくてはならない時にその用意ができていない事態を招きます。
第三に、敵国が着々と軍事研究を進めている、その技術水準がまったくわからなくなります。まさかその部分だけは、敵国に「研究成果の公開性を担保」してもらうことを期待するのではありますまい。どこかの国の憲法の前文のように。
第四に、軍事研究から手を引くことは、技術全般における退歩をもたらし、民生用の技術においても世界に遅れを取ってしまいます。欧米やアジア諸国には、こんな軍事アレルギーは全然ありません。

こうして学術会議の今回の声明は、国民としての、また専門家としての義務を放棄した、きわめて無責任な振る舞いなのです。
どうせ危機対応など何もできない殿上人の集まりで、現実的な安全保障のことなど考えていないのだから、こんなのは無視してしまえばよい、とも思います。
しかし日本学術会議は「アカデミズムの国会」と見なされており、大学に対して強い影響力を持っています。現に今回の「検討委員会」の流れをよいことに、全国のいくつもの大学(関西大学、関西学院大学など)が、学者たちに防衛省の制度に応募することを禁止しています。
http://www.sankei.com/west/news/170226/wst1702260012-n1.html
これは、憲法で保障された「学問の自由」「思想表現の自由」が侵されていることになります。憲法を守りたい人たちが、その憲法を率先して破っているのです。
それでも象牙の塔にこもりたい方はどうぞ、というほかありません。ただ、こんな百害あって一利なしの組織に政府が予算をつけることだけはやめてほしいものです。

カジノ法案――米中のはざまで亡びの道を歩む日本

2017年04月04日 15時19分14秒 | 政治

      





政府は4日午前、カジノを含む統合型リゾート(IR)導入に向けた推進本部の初会合を首相官邸で開きました。
以下、日経新聞電子版4月4日付より、一部を引用します。

推進本部の本部長を務める安倍晋三首相は「世界最高水準のカジノ規制を導入する」と表明。政府はカジノの運営方法や入場規制について本格的な検討を進め、秋の臨時国会にIR実施法案の提出を目指す。ギャンブル依存症対策なども議論し、詳細なルール作りを急ぐ。
首相はIRについて「大規模な民間投資がおこなわれ、大きな経済効果・雇用創出効果をもたらすことが重要だ」と強調。カジノに関しては「国民の幅広い理解を得られるようクリーンなカジノを実現する」と述べ、法案提出へ向けた作業の加速を全閣僚に指示した。
(中略)
 政府はIRを経済成長の起爆剤としたい考え。カジノ解禁を巡ってはマネーロンダリングなどの犯罪防止策や暴力団対策が重要課題となる。(以下略)


経済成長の起爆剤としてIR法とは! 
何と愚かしい正当化とごまかしでしょう。
政府はデフレ脱却のためにやるべき財政政策をなんら打たず、「経済成長」を観光収入やカジノに依存しようとしています。
ちなみに、やるべき財政政策とは、言うまでもなく、まずは交通インフラ整備のための大規模な財政出動です。これによって大きな需要を作り出し、デフレのために疲弊しきっている地方に活力を甦らせること。

カジノについてですが、この法案に対しては、すでに米在日商工会議所が露骨な要求を押しつけてきています。「進出企業の税率を10%以下の低率にせよ、日本人の誰もが利用できるように高額の入場料検討はやめて無料とせよ。東京や大阪にはリゾート施設に複数併設せよ」等々。
http://www.jcp.or.jp/…/aik14/2014-12-21/2014122113_01_1.html
カジノでの収入は当然、米国を中心とした進出企業の手に落ちるので、この要求を呑めば、低い税収以外には、何ら日本の経済成長には寄与しません。また大都市圏に複数のカジノを併設すれば、いろいろな意味で都市と地方の格差はますます開きます。しかしアメリカの属国化している今の日本の状況からして、この米在日商工会議所の要求を、政府は結局は呑むことになるのでしょう。
安倍首相は「最高水準の規制を導入する」などと言っていますが、全然信用が置けない。なぜなら、TPPでは農産品の関税率は死守すると言っておきながら、結果は軒並み大きく下げられてしまった<からです。

これがアメリカ発グローバリズムの恐ろしさなのです。
もちろんアメリカは、TPPから離脱した今でも、個別の通商交渉でさらに厳しい条件を日本に突きつけてくるでしょう。トランプ大統領は、国益を最優先する生え抜きの「ビジネスマン」ですから。
いま日本は、従来のよき慣習を次々に捨て、悪い意味でアメリカ化しつつあります。外国人メイドさんOK、非正規社員増大OK,全農、農林中金潰しOK。国家戦略特区での英語使用、すべてはアメリカの思うツボです。
安全保障のためにアメリカに縋りつきたい安倍政権の気持ちはわからなくはありません。
衰えたとはいえ、アメリカはやはり超大国です。対ロシア外交で中露分断を狙っても、両国の相互依存関係は、容易には断ち切れません。
また、東南アジア諸国は中国と経済的な結びつきが強い上に、その軍事的脅威を恐れているので、対立をできるだけ避けようとします。現にフィリピンのドゥテルテ大統領が、中国に対して事実上の敗北宣言をしたことは記憶に新しいところです。ですからアジアの親日国はあまり当てにならないのです。頼みの綱はアメリカだけということになります。
しかし個別政策課題でアメリカに追従することが、必ずしもわが国の安全保障に貢献するとは限りません。アメリカの通商戦略関係者が日本のそういう意向を読み取って、ちゃっかりつけ込んでいるにすぎないのかもしれないのですから。いや、おそらくこの推測は当たっているしょう。
なるほどアメリカは、日本の完全な自立(たとえば核武装)をけっして許しません。日米同盟とは親分子分の関係ですから、日本の国家としての自立行動は、子分の分際を守る限りで、つまり監視付きで許されているのです。しかし、軍事問題ではなく、個別の経済問題に関してだったら、交渉次第で断固たる抵抗を示すことは可能なはずです。要は、時の政権がどれだけ国民の利益に重きを置いて、毅然として交渉に当たるかなのです。
安倍政権は、この区別をせずに、経済交渉と安全保障とを一括して捉え、とにかくアメリカの意向に逆らうなという姿勢ですから、少しも「戦後レジーム」からの脱却が果たせないのです。

じっさい、トランプ政権の対日姿勢は未知数です。いつ日本という「財布」を、中国と分け合おうという協定を結ばないとも限りません。この場合、「財布」とは、金融や実体経済の面だけを指すのではなく、領土・領海の意味も含みます。
先の安倍・トランプ会談では、安倍首相がワシントン行きの飛行機に乗っている最中に、トランプ・習近平電話会談が行われています。何を取引したやら。
政府は、安倍・トランプ会談で、トランプ氏が100%日本の側に立って尖閣を守ることを保証したような発表をしていました。マスコミは右から左まで、これを聞いて、会談は大成功だったと浮かれていましたが、事実は異なります。
トランプ氏は、「The United States of America stands behind Japan , its great ally, 100%.」と言ったのです。「stands behind Japan」――つまり「日本の後方に立つ」、言い換えれば「後ろから支援する」と言ったにすぎません。(月刊Voice 四月号・中西輝政「米国は100%後方支援だけ」)
要するに、安保条約第五条を守るというこれまで何度も繰り返されてきた既定路線に、多少社交辞令としての粉飾を施して再確認を示しただけのことです。
自ら喜び、日本国民をぬか喜びさせるマスコミは、バカというかなんというか、じつに罪が深い。

先に当ブログに投稿したように、中国は尖閣・沖縄を狙っているのみならず、わが日本列島の後頭部(あまり政治的経済的関心の対象にならない部分)に相当する北海道で、土地買収により着々と「実効支配」を実現しています。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/aaf36ed3b0d0adf5a081f1cc4a8861be
また、安倍政権は、EUの悲惨な状況にもかかわらず、「技能実習生」「留学性」の名目で、率先して移民政策を進めています。この該当者のうち半数以上が中国人です。
グローバリズムをヒト、モノ、カネの自由な移動を積極的に進める考え方と定義するなら、いま日本は、ヒトとモノ(土地)の面において主として中国に、カネの面において主としてアメリカに浸食されつつあるわけです。日本はすでにグローバリズムから国民を守る戦争に巻き込まれているのです。ドンパチだけが戦争ではありません。日本は経済戦、情報戦、歴史戦、領土・領海戦において、じわじわと敗北し続けている。この事実を国民がしっかり自覚しなければなりません。


大岡 信 編訳『小倉百人一首』はすごい

2017年04月01日 00時58分55秒 | 文学

      





季節外れの話題で申し訳ありません。
詩人の大岡信さんが40年近くも前に編んだ『小倉百人一首』(1980年・世界文化社)が書棚にあったので、たまたま読んだのですが、これ、すごくいいですよ。さすがは一流の詩的センスと深い教養の持ち主と感心することしきりでした。
百人一首って、日本人ならかなり耳になじんでいますよね。でもその一つ一つの意味や歌心、背景などをしっかり考えてみた人はあまりいないんじゃないでしょうか。
実際、百人一首の歌は、すぐ意味の通ずる歌もあれば、こちらに教養がないせいか、ちょっと見には何を歌っているのかわからない歌などが混在しています。しかも、指示的な意味が通ずるからと言って、その奥に歌い手の複雑な心の屈折があるということにまではなかなか思い及びません。

ところが今度大岡さんの本を通読して、ああ、そういう歌心が隠されていたのか、とか、えっ、そうだったのかといった発見がいくつもあったのです。
この本を読むと、歌の意味を原典の「注釈」や「大意」に求めて辿るのとはずいぶん違った印象を受けます。詠んだ人の思い、趣向、機知、切実さ、場面、状況などにぐっと近づける感じがしてくるのですね。
これには編集上のちょっとした秘密があります。
1ページに一首を取り上げ、その下に大岡さん自らの手になる現代詩の形での訳。その左に短い解説と批評が載っています。そうして、ところどころに見開きで、小野小町、在原業平、紀貫之、和泉式部ら、有名歌人たちの評伝が綴られているのです。
大岡さん自身の述懐によれば、幼いころから親しんではいたものの、箱入り百人一首などに付属している釈文がみな「……であることよ」式の無味乾燥な散文であることにずっと不満を抱いていたそうです。なるほどそういう執着がこのユニークな試みに彼を誘ったのかと、深く納得するものがありました。

たくさん紹介したいのですが、紙数の都合もありますから、数首に限りましょう。

 わたの原八十島かけてこぎ出ぬと
       人には告げよ海人のつり舟

                     参議篁

(訳)大海原に横たわるあまたの島を経めぐって
   はてに配流の身を横たえるため
   この篁(たかむら)は舟に乗り揺られて去ったと
   告げてくれ海人のつり舟よ
   都に残るあの人にだけは

遣唐使拒否をめぐる争いに敗れて隠岐に配流される時の歌だそうです。
何となく読んでしまうと、旅の別れをさらりと歌っているように聞こえます。少なくとも私自身はそう思っていました。
が、じつは、「八十島」と「人」の二語に歌心の鍵があります。瀬戸内海のいくつもの島を経て、関門海峡を通り、山陰地方西部の沿岸を経てはるばる隠岐までたどり着かなくてはならない。地の果てに追いやられる思いだったことでしょう。いやがうえにも募る心細さを、せめて妻(おそらく)にだけはわかってほしい、この思いを伝えてくれと、途中まで篁を乗せてすぐ帰ってしまうつり舟に向かって、切々と呼びかけているわけです。
ちなみにこの時代、「人」とは、多くの場合特定の親しい人や愛する人、つまり「背」や「妹」と同じ意味を表していました。

 忘らるる身をば思はずちかひてし
       人の命のをしくもあるかな
                      右近


(訳)私はいいのです 忘れられてしまおうと
   わが身のことは いいのです
   でもあなた あれほどに変らぬ愛を
   お誓いになったあなたのおいのち それが
   ひとごとならず心にかかってなりません

この訳はちょっと演歌調で素直に受け取れるようですが、むしろ怨歌というべきかもしれません。きれいごとを並べて皮肉っているとも取れると大岡さんは解説しています。
しかもさらにその先があります。「ちかひてし」までの三句切れとすると、その場合は、「あんなに誓っておきながら破るなんてきっと天罰が下るでしょう、あなたが命を落としてしまわれるのが惜しまれますこと」という意味になるそうな。げに女心の複雑さ恐ろしさよ。

 有馬山猪名(いな)のささ原風吹けば
       いでそよ人を忘れやはする
                    大弐三位


(訳)私があなたに「否」などと申したでしょうか
   有馬山 猪名のささ原 風ふきわたれば
   ささ原はそよぎ それよそれよと頷きます
   そうでしょう この私が
   なんであなたを忘れたりするものでしょうか

作者は紫式部の娘だそうです。男が自分の無沙汰を棚に上げて、私をお忘れかと詠ったのに対して、やはり少しばかり皮肉を込めて、しかし先の歌よりはやんわりと繊細な調子で返した歌です。
「猪名」と「否」、風で笹が「そよ」とささやく音と「そうよ、そうよ、忘れるはずがないわよね」という作者への相槌とをかけたとても技巧的な歌です。けれども、そうした技巧の用い方そのものに、この女性の何とも優しい人柄が現われているように感じられます。これも、そんな複雑なからくりがあるのかと驚きました。返しを受け取った男はたまらなくなって会いに行った、と思いたい。

 夜もすがらもの思ふころは明けやらで
        閨(ねや)のひまさへつれなかりけり
                    俊恵法師


(訳)夜ごとわたしはまんじりともせず
   つれない人を待ちつづける
   物思いに更ける夜の なんという長さ
   早く白んでくれればいいのに
   ああ戸の隙間よ そなただけでも白んで…

この歌の「閨のひま」という言葉ですが、戸の隙間とは気づきませんでした。「がらんとした寝間の空間が寂しさをいっそうかき立てる」と、何となく解釈して済ませていたのです。
ところが、室内より早く明るくなるはずの「戸の隙間」さえ白んでくれようとしない、なんて恨めしい事態だと、その「わび」の心を強調しているのですね。細かい対象をわざわざ取り上げて歌いこむことによって、誰もが詠う「わびしさ」一般から抜きんでたユニークな味を出しているわけです。
作者は男性ですが、人を待っているのですから、女性の立場に立って詠んだ歌です。でも、主情を表出するのではなく、客観的なものにあえて目を馳せた男性的な技巧と言えるかもしれません。

 見せばやな雄島の海人の袖だにも
       濡れにぞ濡れし色はかはらず

                  殷富門院大輔


(訳)見せてあげたいこの袖を あの方に
   雄島の磯で濡れそぼっている漁夫の袖さえ
   どれほど濡れても色まで変りはしないのに
   わたしの袖は濡れに濡れて
   紅に変ってしまった 血の涙いろに

「色は変はらず」の部分、濡れつくして袖の色が褪せたのだと思っていたのですが、じつは逆で、血の涙で赤く染まってしまったのでした。ずいぶん激しい歌いっぷりです。
でも「血の涙」というのは当時の常套句だったそうなので、特にこの歌の独創というわけではありません。
大岡さんはむしろ誇張が目立つと評しています。つまり歌会などで、一つみんなをあっと言わせてやろうというけれんみが強い歌だということなのでしょうね。

 いかがですか。平安時代に作られた歌の多くは歌会の題詠でフィクションなのですが、いずれにしても歌は歌。そこに作者の真情が込められていないはずはありません。もやもやした思いに工夫と装いを凝らしてエイッと突き出す。ちょうど、シェフが腕によりをかけてこしらえた料理のようなものです。つくられて初めてその鮮やかさが目を射る。

古代人が歌文学にこめた深い魂のありかとその精力のすごさを手軽に味わうために、みなさんもぜひ大岡版百人一首を手に取ってみてください。