小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

東部戦線、異常だらけ

2017年08月30日 00時59分49秒 | 政治



今年に入って14回目。
儀式のようになった北朝鮮のミサイル発射ですが、8月29日の発射では、襟裳岬上空を通過し、太平洋上に落下。迎撃措置は取りませんでした。本土上空を通過したのは、2007年以来とのこと(当時は人工衛星と発表されていました)。
安倍総理大臣は、「我が国の安全保障にとって、これまでにない深刻かつ重大な脅威」と発表し、「断固たる抗議を北朝鮮に対して行」うとともに、「国連安保理に対して、緊急会合の開催を要請し」、「さらなる圧力の強化を国連の場において求め」、「いかなる状況にも対応できるよう、緊張感をもって国民の安全・安心の確保に万全を期して」いくと発表しました。
http://www.yomiuri.co.jp/matome/20170416-OYT8T50000.html

毎度の決まり文句で、何とも空しく響きますね。「断固たる抗議」なんて効くわけないのに。万全を期するとは、いったい何をやるというのでしょうか。
次の措置も空しいとしか言いようがありません。

政府は発射直後、全国瞬時警報システム「Jアラート」を通じて、北海道・東北などの住民に避難を促した。(同記事)

Jアラートを発令した地域は、北海道、東北各県、北関東、新潟など、12の地域にまたがっています。こんな広い地域に警報を発令して、そこに住む膨大な住民の人たちはどうすればいいというのでしょうか。できること、やるべきこと、何にもありませんよね。
いくつかの自治体で避難訓練をやっている映像をテレビで見たことがありますが、滑稽そのものです。駆り出されている人たちも緊張感はまったくなく、笑ってさえいました。

北朝鮮のミサイル発射については、さまざまな事情により、日本独自の抑止策はほとんど不可能です。それを裏づけるため、信頼のおける情報を並べてみましょう。

1.北朝鮮の貿易は、カギを握っているはずの中国に9割依存している。仮に(ほとんど考えられませんが)、中国が北への石油輸出を止めたとしても、ロシアからの輸入を倍増させることが可能である(現在ロシアからの輸入は中国の六分の一)
http://news.livedoor.com/article/detail/12980205/

2.国連安保理の制裁決議があっても、中国やロシアが守るかどうかきわめて怪しい。

3.北朝鮮の存在は、中露にとって、米国およびその同盟国の圧力に対する緩衝地帯の役割を果たしている。金正恩体制が崩壊することは、中露が米と直接対峙する事態を招き、彼らにとって思わしくない。

4.北朝鮮に実質的な影響を与えている中国の北部軍区は、江沢民派が支配しているので、習近平主席は、たとえトランプ大統領からの協力要請に応じる気があったとしても、何もできない。
https://38news.jp/politics/10321

5.今年4月初めに北朝鮮が発射したミサイルは、中国製の弾道弾である。中国製の弾道弾には暗証チップが組み込まれており、暗証コードがなければ発射出来ないそうである。推測だが、このほかにも、これまで発射されたミサイルが中国製であることが十分考えられる。そうして、この中国製ミサイルを管理しているのはおそらく北部軍区である。ことほどさように、北部軍区と北との結びつきは強いのである。実質的には中国は、北のミサイル発射を強力にサポートしているわけだ。

6.日本の現在の防衛力、防衛体制では、どこに飛んでくるかわからないミサイルを迎撃することはきわめて困難である。PAC3は沖縄を含め全国に16基しか配備されておらず、また海上からの迎撃が可能なイージス艦も3隻にすぎないので、予告なしの攻撃にはとても対処できない。また、核基地やミサイル基地に対する先制攻撃も、理論上は可能だが、諸般の事情によりまず無理。

7.北朝鮮は、米国との直接対話を通して核兵器保有を認めさせるために武力行使をしているので、米国がそれを認めない限り(認めるはずがありませんが)、対話は不成立である。ティラーソン国務長官の先の対話ほのめかしは、ポーズのみ。したがって北朝鮮は、いつまでも、ボカボカと日本近海あるいは西太平洋にミサイルを撃ち続けることをやめない。これは、米の同盟国・日本の弱点を知悉した北の、いわば武力による「瀬戸際外交」である。先になされたグァム近海への発射予告の実行を引き延ばしているのも、その一つの手である。今回の発射は飛行距離がグァムに近いところから見て、グァムにだってこの通り撃てるぞというアッピールの意味があるだろう。

8.日本は北朝鮮と国交がないので、政府にとって有効な情報の直接入手や、外交交渉による圧力のかけようがない。たとえこれらができたとしても、いまの外務省の体たらくでは、その限界は推して知るべし。

9、日本人一般に危機意識が不足している。たとえあったとしても、それを活かすための新たな実践的方策がとられていない。財務省が防衛予算倍増を阻止しているからである。

というわけで、結局は、いつも通り、アメリカ親分の意向に全面的に依存するしかない、というのがいつわらざる実情なのです。
しかし覇権崩壊と内政危機を抱えるいまの親分に依存しても、それが役に立つかどうかは、はなはだ心もとない。なので、核武装の可能性も含めた自主独立・自主防衛の必要を訴え続けることはぜひとも必要ですが、情けないことに、政府がそれを積極的に進めようという気配はまったく感じられません。

本来なら、わが国にとっての緊急事態なのですから(それはもうずっと前から続いてきたのですから)、政府は直ちに特別予算を組んで、国防のためのあらゆる手段を速やかに講ずるべき「だった」のです。普通の国なら、とっくにそうしているでしょう。

北朝鮮問題に関して唯一、理想的で、かつ実現可能な方策として考えられるのは、次のシナリオです。これもアメリカ親分にやってもらうほかないのですが。

アメリカが戦後行なった戦争で唯一成功したのは、湾岸戦争でした。この時のスピーディーな処理に学ぶべきです。
つまり、当時よりもはるかに進歩しているハイテク軍事技術を駆使して、北朝鮮の核基地、ミサイル基地をピンポイント攻撃で一挙に破壊します。金正恩体制を崩壊させるための斬首作戦も同時並行的に遂行すべきでしょう。韓国や日本を巻き込んだドンパチは、犠牲が大きすぎるので禁じ手。

さてこれが成功したとして、代替政権の樹立に当たって、中露が黙っているはずはなく、世界大戦の危機はいっそう高まるかもしれません。しかし、北と話し合うよりは、中露相手のほうがまだ対話の可能性があります。大国同士のプライドがそれを許すのです。


誤解された思想家たち・日本編その9――鈴木正三(1579~1655)

2017年08月22日 14時02分31秒 | 思想
        







 鈴木正三(しょうさん)と聞いて、知っている人がどれくらいいるでしょうか。うかつなことに、かくいう私も友人から教えてもらうまで知りませんでした。友人に感謝。以下、手元にある「大辞林」の記述をそのまま写しましょう。

《鈴木正三:江戸時代前期の禅僧。号、石平道人など。三河松平家の家臣として武勲があったが、仏道に入り勇猛で武士的な仁王禅を説いた。仏教布教を目的とした著作が多く、一部は仮名草子として評価される。著『驢鞍橋(ろあんきょう)』『盲安杖』『二人比丘尼』『破切支丹』など。》

 正三は関ヶ原の戦いに徳川方として参じ、大阪冬の陣、夏の陣にも参戦した後、五年たってようやく出家しています。なんと四十二歳という遅咲き(?)ぶりです。

 もっとも四歳の時に同生児の死に接し、死とは何ぞやという疑いに深くとらえられ、十七歳の時には、羅刹が示した偈の後半を聞くために身を捨てた雪山童子(修行時代の釈迦)の故事に触れていたく感動し、仏道への帰依を志したといいますから、若い時から生死を離れることを理想とする仏の教えに強く惹きつけられていたことがわかります。
 しかし忠君が当たり前の戦乱時代の武士として、その職務をおろそかにはできなかったのでしょう。平和な時代の訪れとともに、仏道に邁進する気持ちが急速に高まったものと思われます。

 徳川の世は人も知るとおり、中世以前と異なり、統治のための規範として現世倫理を説く色彩の濃い儒教(朱子学)を採用し、仏教にはあまり手厚い処遇をしませんでした。
 正三にはこれに対する不満が相当あったことが著作からうかがわれますが、彼自身は二代将軍秀忠のおぼえめでたく、その庇護もあって出家を許され住持の地位を得ています。
 島原の乱の折、弟の重成が鉄砲奉行として鎮圧にあたりましたが、その後もキリシタンの教えは残りましたから、天草の初代代官に任ぜられた重成を思想面で支援すべく天草に滞在し、「邪教」とされたキリスト教に代わって「正法」としての仏教の布教に務めました。『破切支丹』はこの時書かれたものと思われます。

 正三の名が現代の人々の人口に膾炙していないのには、いくつか理由がありそうです。
 まず、すでにこの時代、仏教は支配層にとっての権威思想としては衰退局面にありました(一般庶民にはむしろ広く拡散していましたが)。彼は不幸にして、この大きな流れのなかに置かれたということが考えられます。
 また乱世が収まった徳川時代になってから、旗本として正式に伺候している武士がわざわざ出家するということにあまり必然性が感じられないということもあります。
 さらに彼は学問的著作を多くなして後世に名を遺すことにはほとんど関心を示さず、むしろ当時の四民一般を対象としてじかにその信ずるところを説くことに大きなエネルギーを注いだので、時代が過ぎるとその名が忘れられがちだったという事情もあるでしょう。
 ちなみに彼の主著とされる『驢鞍橋』は、著作ではなく弟子の恵中がまとめた語録です。

 しかしこれらにもまして重要なのは、同じ禅宗の系統の中でも彼の思想がかなり特異な側面を持つために、栄西や道元以来の正統的な流れの中に位置づけられにくかったという点でしょう。
 つまり彼は禅宗導師としては一種の異端者だったのです。ここでは、その異端者的側面に焦点を当てることによって、彼の思想家としての個性を取り出してみましょう。合わせてその異端的性格が歴史的に見て何を意味するかについても考えてみたいと思います。

 禅と聞くと私たちは、じっと静かに座り瞑想することで煩悩や迷いを断ち切る(止修行)とか、この世の実在を空なるものとみなす一方で、空もまた実在と対立するものではないと観ずることで自在の境地に達するとか、難解な公案に解を与えることを積み上げてしだいにそのステージを上げ、ついに生死を離れて悟りに達する(看話禅)とかいったイメージを思い浮かべます。
 正三の禅思想がこれらとまったく無縁というわけではありませんが、その関心のありどころと悟達のための構えがずいぶんと違っています。
 先にも少し触れたように、彼の生涯の関心は、どのように死と付き合うか、いかに死ぬかというところに集中していました。くどいほど繰り返し出てくる独特な言葉遣いもほとんどこの関心の周りをめぐっているといっても過言ではありません。
その言おうとしたところを、現代語ふうに整理してしまうと、次のような命題になるでしょう。

①生身の身体は汚いものばかりが詰まった「糞袋」であるという事実をよくよく肝に銘じるべきである。これを離れない限り成仏は決してできない。
②心は善にも悪にもなりうるので、四六時中油断なく自分の心と闘っていなければならない。夢の中でも同じ。それが自己を守るということである。
③瞑想にふけるような禅の方法(止修行)は、かえって要らぬ妄想を起こさせる元である。むしろ「念」から離れよ。
④いくら学問・知識を積んでも肝心の「死に習い」の志が具わっていなければ何にもならない。修行とは文言を学ぶことではなく、この志を保ち続けることである。今すぐにも死がやってくるという切迫感を絶えず身につけることである。
⑤そのためには、あの仁王像のようにキッと睨みつけ、歯を食いしばり、いつでも「自分の中の敵」に立ち向かう構えが必要である。敵陣の中に身を擲って飛び込むだけの緊張感を具えていなくてはならない。これを勇猛精進と呼ぶ。
⑥現代の坊主でこれらのことをわきまえている者はほとんどいない。昔の高僧たちもそれほどわかっていなかったのではないか。仏(釈迦)だけがこれを理解していた。
⑦現代では、たやすく悟りを得たと言ったり、ちょっと修行を積んだ弟子に印可を与える僧がいるが、とんでもない。

 以上のようなことが、異様な強度と頻度で繰り返されるわけです。この特色には当代の仏教の堕落を嘆くというモチーフが込められていることはもちろんですが、それだけではありません。ある已むに已まれぬ思想的要請がそこにはあったと思われるのですが、それについては後述しましょう。

 このほか正三の特徴として挙げられる重要な点を三つ。

 一つは、禅宗ならぬ浄土宗のキーワードである「南無阿弥陀仏」を唱えることをさかんに勧めていることです。
 これはいろいろなことを想像させます。
 まず、この時代になると、少なくとも在家レベルでは、宗派間の対立とか正統争いとかはすでに消滅していて、禅宗の寺でも民衆の称名念仏を抵抗なく受け入れていたこと(これは間違っているかもしれません。有識の方のご指摘を俟ちたいと思います)。
 この宗派間の寛容さの傾向はすでに鎌倉時代後期には見られたようですが、南北朝、室町の混乱期を経ていっそう進み、江戸時代初期にはその区別が無意味化していたのではないか。
 つまり「南無阿弥陀仏」は民衆の間では仏教の代名詞と呼べるほどに浸透していたので、他宗がこれを排斥することはもはや不可能になっていたのではないかということです。時代劇、時代小説などに登場する仏語もほとんどが南無阿弥陀仏ですね。法然や蓮如、一向宗徒たちの影響力のすごさが偲ばれます。
 しかしもしそうでないとすれば、これは正三の独自性ということになります。いずれにしても正三は、一応禅宗の住職でありながらとても熱心に念仏を進めているので、そこには彼自身の宗派へのこだわりのなさが幾分かは反映しているでしょう。要するに、彼にとって宗派の違いなどどうでもよかったので、肝心なのは、死に対する構えを固めておけと呼びかけることでした。

 二つ目に、正三は往生というのは後世を願うことではなく今日ただ今の成就を目指すことであると考えていました。

仏法と云は、只今の我心をよう用ひて、今用に立る事なり。》(『驢鞍橋』上巻七七)

総而、後世を願ふと云は、死して後のことに非ず。現に今苦を離て、大安楽に至ること也》(同下巻七一)

 ここには、仏教の彼岸主義が現世主義に転倒されているさまが見て取れます。こういうところに、精神の一種の近代化の兆候を読み取ることができるでしょう。

 三つ目に、武士や農民、職人や商人にとっての仏法修行とは、出家を目指したり経文を学んだりすることではなく、それぞれの職分にひたすら打ち込むことであると説いていることです。武士は主君に奉公を尽くし、農民は世の中に糧を提供する大事な役割を自覚し、鍬の一振り一振りに心を込めて南無阿弥陀仏と唱えること、職人や商人も同じように、それぞれの役割に邁進することがすなわち仏法を行うことだ、つまらぬ説教などに惑わされるなと。
 また彼は能楽に親しんでいたので(『驢鞍橋』中巻には、自作の謡曲が載っています)、舞いながら歌いながらの活発な修行も推奨しています。ただ一心に身体の活動に集中すれば、余計な「念」にとらわれずに生きた真実を実感できるということでしょう。
 これはなかなか痛快な実践的思想というべきです。超越的な形而上学などに信を置かず、それぞれの分際に即した日常性の中に倫理道徳の発生場所を見極める。日本の思想の優れたところで、後の町人思想家・石田梅岩にも通じるものが感じられます。

 しかし同時にここには、本来国家鎮護を目的として取りいれられた仏教が、数百年を経るうち、「衆生」一人一人の心を安んじさせるためのものへと、著しくその機能の比重を移してきた過程が読み取れます。
 正三自身は、それでも猪突猛進的にお上に仏教によって国を治めるべきことを願い出ようとしたのですが、お上からの御沙汰があるまで待ったほうがよいと弟子に止められる始末でした。彼は弟子を叱りつけました。しかし正三自身がいくらそれを望んでも、彼の思想それ自体が、すべてを一人一人の「心」の問題に還元するものでしたから、これはむしろ弟子のほうが時代のセンスをとらえていたと言えるでしょう。
 ちなみにほぼ同じ時期に西洋では、聖書の精神に帰り、予定された運命を受け入れ、禁欲と勤勉を守り、個人の「心」の信仰を尊重するプロテスタンティズムが盛んに起こりつつありました。不思議な符合と言えましょう。
 このことは、裏を返せば、近代が到来する少し前には、宗教を社会秩序の柱に据える試みに対する深いあきらめが進行しつつあった事実を意味しているともいえます。しかしまた、だからこそこのメンタリティが近代の個人主義、そして政教分離を準備したのだとも考えられます。

 最後に重要な指摘をしたいと思います。
 正三の「糞袋としての身体を厭う心」の異様な執念深さ、「死に習い」への執着の激しさを感じ取るとき、そこにたださまざまな禅思想のなかの特異な一形式を読み取るというのでは片手落ちです。正三は単に変わった禅思想家だったのではありません。
 正三の生涯は、武士として命を賭して闘うことが当たり前だった時代から、徳川の安定した秩序の時代にまたがっています。彼は意識していなかったかもしれませんが、その深層にはおそらく、死に遅れた者の恥の念が強くわだかまっていたに違いありません。
 身を捨てて主君のために尽くすはずの武士が、「平和」を生き抜かなくてはならなくなった。その境涯をどう自分に納得させればよいのか。死の観念に対する彼の異様な執念深さは、この境涯の急激な転換からやってきた一種の痼疾のようなものだと言えましょう。死を忘れることは武士にとって恥さらしではないか。彼の内部にはこういう声が響いて已まなかったものと思われます。
 しかし禅による修行という器の中に彼は一つの活路を見いだしました。それには止修行や看話禅のように必ずしも彼の意に添うものではないスタイルも含まれていましたが、ともかくもそこに、いつも死の近くに住まうことができるという魂のありかを見出したのでしょう。それは不本意な「平和」を生き抜くための切実な「技法」でした。

 正三が関ヶ原の戦いに参じたのは満で二十一歳という青春真っ盛りの頃です。多感な時期に不意に戦乱の世が終わって価値観がひっくり返った――これは何かに似ていないでしょうか。
 私はどうしても、戦中期に青春を過ごして自分の死を極限まで突き詰めて考え、突然敗戦を経験してすかされた思いを味わった作家、思想家、詩人たち、三島由紀夫、吉本隆明、村上一郎、谷川雁といった人たちの戦後の生き方を重ね合わせてみずにはおれません。
 彼らもまた、突然やってきた「平和」を生きることをもて余し、それぞれに激しい表現を発出しました。その深層意識のうちに正三と同じような、「生きることそのものを恥とする心」が根を下ろしていたと考えるのも、あながち牽強付会とは言えないでしょう。
 戦後七十年以上経ち、こうした感性を共有する世代は、ほぼこの世を去りました。代わって現われたのは、「命の大切さ」という、絶対的と言ってもよい戦後イデオロギーです。
 もちろん命は大切ですが、昨今の国際情勢の緊迫に直面しながら厳しい制約の中で命を張っている少数の人たちがいる傍らで太平楽を決め込んでいるほとんどの日本人たちを見ていると、ふと、鈴木正三のような人の心構えを呼び起こすこともまた大切ではないかという思いにかられます。

日経のウソ記事にだまされるな

2017年08月15日 20時50分36秒 | 経済
        





8月14日の日本経済新聞ネット記事で、「雇用改善で内需拡大 4~6月実質GDP4.0%増」という見出しが躍りました。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS14H0F_U7A810C1EAF000/?n_cid=NMAIL001
ほんとかね、と思って記事を読んでみると、やはり肝心のところを見ていない浮かれ記事です。
まず、名目GDP成長率については何も書かれていません(新聞記事には1.1%との記載がありますが、なぜかネット記事では省かれています)。
御存じのとおり、実質GDP成長率は直接積算できず、名目成長率と物価上昇率との関係で決まる概念上の数字ですから、名目成長率が上がらなくても、物価が下落すればそれだけで上昇します。
案の定、物価の変動を示すGDPデフレータは、前年同期比で、0.4%のマイナスになっています。
日経記事には、両者がまったく関連付けられていません。
またこの記事では、景気回復を印象づけるために、消費や投資の伸びを示すさまざまな兆候を挙げていますが、どれも根拠に乏しく、内需拡大を結論づけるには大いに疑問が残ります。
これらについてはすでに三橋貴明氏や藤井聡氏が指摘されています。
三橋氏は、実質賃金、実質消費、GDPデフレータと、三つの指標が全てマイナスになっている以上、再デフレ化と判断せざるを得ない、と。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/day-20170815.html
また藤井氏は、近年の企業の好成績は外需の伸び(つまり輸出)に依存するもので、確実な内需拡大を示してはいず、国際情勢の変化でどうにでもなるたいへん不安定なものである、と。
https://mail.google.com/mail/u/0/#inbox/15de44eef3fcc5c4

一番の問題は、「経済専門紙」を標榜する日本経済新聞のようなマスコミが、日本はすでにデフレから脱却したという、このような超楽観記事を載せることで、国民がそう思い込んでしまうことです。
そうすると、手ぐすねを引いて構えている財務省を中心とする緊縮財政派が勢いづき、財政出動不要論や消費増税の正当化に向かってそれっとばかりに走り出します。これをやられると、日本経済は再生不能です。

日本経済新聞が景気判断についてデタラメを垂れ流すことは今に始まったことではありません。
ここでは、上記記事の詳しい批判は三橋、藤井両氏にお任せするとして、この新聞が、経済に明るくない普通の読者をたぶらかす悪しき体質を、もともと骨がらみで抱えていることについて、別の面から指摘しておきましょう。

筆者はこのブログで、「日本人よ、外国人観光客誘致などに浮かれるな」と題して、2016年の「旅行収支」が1.3兆円の黒字を記録したことなどにそんなに大げさに騒ぐなという趣旨の一文を寄せました。
https://38news.jp/economy/10870
ところが、その矢先、日経新聞が見事にこの大騒ぎをやってくれたのです(8月13日付)
http://www.nikkei.com/article/DGXLZO19940990S7A810C1EA3000/?n_cid=NMAIL003

  訪日消費、主役は欧州客 「爆買い」より体験
 訪日外国人の消費が新しいステージに入ってきた。これまで日本でお金を使う外国人といえば中国人が中心だったが、英国など欧州勢も1人あたりの消費額を伸ばし、存在感を高め始めた。地方での訪日消費も息長く続き、いずれ地方経済のけん引役は公共投資から観光消費にかわるとの期待も出ている。(中略) 観光庁によると、4~6月期の1人あたり旅行消費額は、首位の英国が25万円、2位のイタリアが23万円。近年トップだった中国は22万円で3位。フランスやスペインも20万~21万円台で肉薄する。消費の主役はいまや欧州勢だ。 1~6月期の訪日客消費額は2兆456億円で過去最高。みずほ総合研究所は下期もこの勢いを保つなら、年間の付加価値誘発額は4兆円になると試算。名目国内総生産(GDP)で0.8%の上昇が期待できる。
(以下略)

突っ込みどころ満載ですが、三つにまとめておきます。

①一人当たり消費額が、中国人より英国客のほうが少しばかり多くなっても、絶対人数では中国人が20倍以上。そのことは記事の後略部に書かれているのに、それに対するネガティブな評価は一切書かれていません。
しかも、筆者が前記事で述べたように、観光客は、「外国人訪問客」の6割どまりで、残りはビジネスその他なのです。
日経記事は、「1人あたり旅行消費額は、首位の英国が25万円、2位のイタリアが23万円。近年トップだった中国は22万円で3位」と、グラフまで掲げて麗麗しく書いていますが、英国とイタリアの訪日人数の合計は、中国一国のわずか6%にすぎません。これでどうして「主役は欧州客」なのでしょうか。印象操作もほどほどにしてほしい。
http://www.jnto.go.jp/jpn/statistics/since2003_tourists.pdf

②訪日外国人が増えても、GDPにカウントされるのは「旅行収支」なので、そのぶん日本人の海外渡航での出費が増えれば、GDPは増えません。
記事中に、「年間の付加価値誘発額は4兆円になると試算。名目国内総生産(GDP)で0.8%の上昇が期待できる。」とありますが、この数字は、たとえ予測通りとしても、日本人が海外で消費する金額が差し引かれていないので、明確に誤りです。
海外取引額としてGDPにカウントされるのは「純輸出」、つまり輸出額-輸入額ですが、旅行収支もこの中に含まれます。
結局、0.8%という見込み数字は、「輸出分」だけを計算しているのです。

③ちなみに「旅行収支」のGDP寄与額1.3兆円は、2016年で、わずか0.26%です。
これで、「いずれ地方経済のけん引役は公共投資から観光消費にかわるとの期待も出ている」とは、お臍が茶を沸かします。

地方財政は、わずかな例外を除いて、いまどこも逼迫しています。
ことに、度重なる災害が起きた地域では、対策費捻出に血のにじむ思いをしています。
中央政府は財務省の「緊縮真理教」のために、ろくな財政出動も行わず、公共投資を減らし続けています。地方交付金をケチってきたために、老朽化した橋やトンネルを修繕できずに潰してしまうところも出ています。
橋やトンネルを潰すということは、そこを通過する道を丸ごとなくしてしまうということでもありますよね。
災害大国日本のインフラ整備は、こんな情けないありさまなのです。

これでは、百歩譲って「観光大国」なる目標を景気回復の選択肢の一つとして認めるとしても、そのために不可欠な基盤整備や観光資源の維持・開発もままならないでしょう。

そういう現実をきちんと指摘して、政府に喫緊の課題として突きつけるのがマスコミの役割であるはずなのに、なんと日経は、「政府は20年に訪日客消費を現状2倍の8兆円の目標を掲げる。」などと、もともと何の根拠もない謳い文句を嬉々として掲げ、政府の宣伝係を自ら買って出ているわけです。

日経のこの記事には、悪政のお先棒担ぎをやっているさまがありありと出ています。いまの日本のマスコミの劣化状態を象徴していると言ってよいでしょう。恥を知れと言いたい。


大岡 信 編訳『小倉百人一首』をテキストに語り合う(その3)

2017年08月12日 00時00分53秒 | 文学
        






【概説その2】

 以上のように、百人一首の恋歌には、相手への思いがそのまま自分の命や死に対する自意識と折り重なって表現されるという特徴が強く見られます。恋の情熱に燃え尽きんとすること、秘めたる恋をそのまま墓場まで持ち越すこと、こうしたリズムと振幅の激しさのうちに、宮廷歌人たちの心のあり方をうかがうことができます。平安時代の詩歌を少しでも理解しようと思ったら、まずはその異常なまでの心拍数に寄り添ってみなくてはならないということがこれでわかると思います。「雅(みやび)」というようなのんびりした枠組みだけでは、そこに近づくことはできないでしょう。

 自由恋愛が横行するようになった近代以降では、相手と心や身体を通わせるためのバリアーが低くなっているので、なかなかこうした思いの高まりを経験することが難しくなったようです。
 私は大学の講義で恋愛について語る機会があるのですが、その折、人間の恋愛感情の特徴をいくつか挙げます。その一つに、「壁があるほど盛り上がる」というのがあります。例としては、身分の違い、婚姻関係を決める親の権威、傾城という特殊な世界での恋、片思いの自意識と妄想など。そして、逢瀬の叶わぬこうした事情が少なくなった現代では、濃密な恋愛感情が育ちにくいと説きます。
 現に、契りを結んでもその持続期間がずいぶん短くなっているようですね。いささか寂しい情景ではあります。
 とはいえ、現代でも、不倫、三角関係のもつれ、遠距離恋愛など、恋の情熱や悩み苦しみをかき立てる要素がいくつかないわけではありません。その点では古代と現代で、そんなに変わっていないのかもしれません。
 たとえば俵万智さんの歌では、恋心を詠ったものや不倫の苦しみを詠ったものだけが抜群に優れていて、あとはちっとも面白くない(と私は評価を下しているのですが)のなどは、そういうことの表れとも言えます。「恋は神代の昔から」

 閑話休題、話を平安時代の歌の世界に戻しましょう。
 この世界では、それらの表現が必ずしも真情の素朴な吐露ではなく、あくまでもあるフィクション性を含んだ「言葉」であるということが大切です。歌会の題詠で技を競い合うという形式、当時常套句として共有されていた文句(多くは地名や景物に託されている)がもつ隠語的な含み、気のあるところを飾り立ててみせる相手に対してこちらも気の利いた返歌を返さなくてはならないという一種の約束事――これらは、かなり当時の歌の様式を決定的といってもよいほどに「拘束」するものだったと思われます。
 たとえば、「逢坂山のさねかづら」といえば、「あふ」を「会う」に懸け、「さね」を「寝る」に懸け、それによって、恋人に会って寝るという意味を暗示する(二十五番)というように、また、「高師の浜のあだ波」といえば、言い寄ろうとするプレイボーイの浮気心をうまくかわすための喩の効果を持ち(七十二番)、さらに「陸奥のしのぶもぢずり」といえば、その草の様子がおどろに乱れた恋心を表し(十四番)、「末の松山」を「波が超す」といえば、絶対ありえないことの喩えを意味した(四十二番)というように。

 これらの言葉群は、単なる「枕詞」ではなく、当時の宮廷社会における「教養の共有」の意味を持ちましたし、同時に、そういう自然物に特殊な情趣を託すためのきわめて限定された言葉の運びのスタイルだったということができます。
「袖が濡れる」「名こそ惜しけれ」「物おもふ」「有明の月」「名にし負はば」などの定型的な言い回しも、みな同じような「拘束」を表しています。
 要するにこれらの「拘束」を自ら嵌めて、それらの組み合わせの妙によって、いかに同胞たちを感心させるか、そこにこの時代の言語芸術の目指すところがあったと言えましょう。
 これを、一種の言葉遊び=言語ゲームだったと評しても、けっして歌詠みたちの「いい加減さ」を示すことにはなりません。むしろ、知性を駆使して感情交流の場面を必死で虚構しようとする真剣勝負の場だったのだと思います。
 こうしたところにいやでも宮廷歌人たちの表現意識の位相は置かれていた。そう考えると、逆説的ですが、そのような高度なフィクションであればあるほど、後世にまで訴える力を持ったのだということができます。
 言葉は磨かれた拘束性においてこそ、普遍性を獲得する……。


 もう一つ指摘しておきたいのは、短歌(和歌)とは、もともと個人の芸術表現ではなく、古代の歌垣をその発生の起源とすることからわかるように、集団のお祭りのようなものから生まれてきたということです。
 一年に何度か(ふつう春秋二回)、農民たちが豊饒を祈念して集まり、酒を酌み交わしながら無礼講に興じる。カーニバルのように、さぞかし性の自由な交流もあったことでしょう。
 そういう交流の場で、誰かが上の句を唱える。これはそれ自体としては、さほど意味のない、しかし日常生活で皆が親しんでいるさまざまな自然物、地名、機織りや漁撈の道具、仕事のさまなどを提示したものと思われます。
 すでに数百年を経て、洗練された宮廷歌人たちが歌った歌を多く集めた百人一首でも、その痕跡を示す歌がいくつか見つかります。

 筑波嶺の みねより落つる みなの川(十三番)

 名にし負はば 逢坂山の さねかづら(二十五番)
 
 みかの原 わきて流るるいづみ川(二十七番)

 有馬山 猪名のささ原 風吹けば(五十八番) 

 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の(七十七番)

など。
 これらの上の句に、どんな下の句をつけるかで、そこにえもいわれぬ感興が生まれ、「うまい、うまい!」という集団的興奮に沸いたのではないか。
 それが多く、性愛・恋愛・噂話などを喚起させる文句であったことは想像に難くありません。相聞的なやりとりの場合だったら、虚構と現実が交錯して、その興奮は絶頂に達したことと思われます。返歌を投げる女性の言葉の技量は、こうして上達していったのでしょう。
 また下層身分の間では、さぞかし卑猥で露骨なやりとりがもてはやされたことでしょう。囃し立てる周囲の情景が目に浮かぶようです。

 こういう出自とまだ完全に無縁にはなっていない百人一首の世界、つまりほとんどの歌が平安から鎌倉初期までの八代集から採られている世界では、この「集団性」ということをある程度前提に味わう必要があります。個人の芸術作品というよりは、多分に昂揚した「雰囲気」から思わずこぼれ出た、と言った方が近いかもしれない。
 それらの歌が作られた背景、シチュエーション、返歌である場合には、贈歌との関係、歌合の題詠における場の雰囲気、などから切り離して味わおうとすると、鑑賞態度として邪道に迷い込む危険や、勘違いの感動の仕方をしてしまう恐れもなしとしません。その点によく注意を払ってこそ、この平安貴族社会という独特な文化風土に近づけるのではないかと思います。
 事実、この歌には、かくかくの詞書がついているとか、かくかくの歌の返歌であるなどの事情を知ると、まったく理解と趣が変わってくるのを経験します。
 また大岡さんの訳詞と解説を読むと、えっ、そんな意味が隠されていたのかとか、思いもかけぬ惻々とした哀しみが詠いこまれているのだなあとか、そこまでひねりを効かせるか、などの驚きを禁じ得ません(六番、十一番、三十八番、五十七番、六十八番、七十五番など)。
 
 しかし、新古今時代(十三世紀初)のスーパースターであり、百人一首の編纂者とも伝えられる藤原定家は、勅撰を命じた当の後鳥羽院が隠岐に流されて後書いたと言われる「後鳥羽院御口伝」では、「総じてかの卿(定家)が歌存知の趣、いささかも事により折によるといふことなし」と揶揄的に批評されています。
 つまり、定家に至ってはじめて、短歌という形式は、その背景や時や所と関係のない一個独立の完成品として自立したと言えます。つまり、定家は教条主義的なまでに、個人の芸術としての短歌という理念にこだわり、また事実、彼以降、この詩形式は、本当にそのように扱われるようになりました。
 この事情は、松尾芭蕉が連歌の世界から出発しながら、発句だけを独立させて「俳句」の世界を切り開いたのとよく似ています。

 話は飛躍しますが、クラシック音楽の歴史で、ベートーヴェンの登場によって、パトロン付きの「芸」であったそれまでの宮廷音楽の世界から初めて「個人の内面の表現」としての芸術が成立した事情とも。
 さらに美術の世界でも、弟子たちを集めた工房から個人のアトリエへと変化しています。絵画、彫刻などの造型芸術は、元は建築の装飾でした。

 このように、芸術の歴史というものは、おおよそどの世界でも、集団的協業の世界から次第に独創的な「個人」の作品という色合いを濃くしていくような流れになっています。このことはどうやら不可避的、不可逆的のように思われます(もっとも映画芸術、アニメなどは、その反動と言えるかもしれません)。
 どちらを好むかは、鑑賞者次第、作品次第ということができますし、もともとこんな問いには意味がないのかもしれません。
 しかし私個人の現在の考えを言えば、「個性、個性」と騒ぎ立てるのはあまり好きではありません。そんなことを言わなくても、現に感動的で立派な作品はいくらでも生まれているのですから。
 このように考えるなら、平安貴族たちの作り出した言葉の世界は、人間の情緒の世界を極めたものとして、まさにその全体が「集団芸術」の粋であると言えるのではないでしょうか。


*この記事はこれで終わります。

大岡 信 編訳『小倉百人一首』をテキストに語り合う(その2)

2017年08月10日 21時21分50秒 | 文学
        







【各歌感想】

 それでは、私が選んだ十首について、簡単にその感想と批評を述べてみます。とはいっても、この十首に絞るに当たっては、たいへん迷いました。恋歌だけに限定しても、心に響く捨てがたい歌がたくさんあるからです。ここに掲げた歌には、文句なく「入選」するものもありますが、こっちは捨ててやっぱりあっちを拾っておくべきだったかなあ、というのもあります。そういう未練がましい思いがいつまでも残りました。

   ●十九                    伊  勢
 難波潟 みじかき蘆の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや


 「みじかき蘆のふしの間」という表現はきわめてわかりやすく、誰にでもピンとくる。一本の短い蘆にすぎない一生の、そのまた短い節と節との間。この喩は、それだからこそ、下の句に直接つながる切迫感の演出に成功している。「過ぐして」は、今風に「毎日を過ごす」というのとは違って、それだけで生が終わってしまうことを暗示しているので、よけいにその直情的な強い思いが伝わってくる。


   ●四十                    平 兼盛
 しのぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで
   
 これは二重の倒置法が効いている。「わが恋は しのぶれど 物や思ふと 人の問ふまで 色に出にけり」が散文的な順序。また、真情が他人に覚られるところとなったという誰にでも心当たり感のある事情を素直に歌い上げながら、そのことを通して秘密を隠しおおせなくなった恋の苦しさを明快と評すべきほどに表出させている。できそうでできない、コロンブスの卵のような歌。


   ●四十一                   壬生忠見
 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか


 まだ内に秘めたる片恋の思いを初々しく表現している。先の四十番と同工異曲ともいえるが、違いは、こちらがまだ思いを遂げていない点であろう。それなのに、人々がもう噂し始めている。それなら、この恋はあきらめるしかないのだろうかという哀しい気持ちが、最後の係り結びによる「思ひそめしか」という強い詠嘆の表現にとてもよく現われていて、深い共感を呼ぶ。上の句と下の句の転換のさせ方も鮮やか。ちなみに「名」とは浮名のことで、この時代、口さがない噂を恐れる気持ちは尋常ではなかったようだ。女性の歌によく登場する「名こそ惜しけれ」は、世間に顔向けできなくなって死ぬほどにくちおしいという意味である。


   ●四十三                 権中納言敦忠
 逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり


 大岡さんの解説では、一夜を過ごした直後に歌われたとなっているが、ここはどうしても「昔」という言葉に引きずられるので、瞬間の心情であるよりは、恋が成就した後の長い悩みの時間もはらまれていると読みたい。もっとも大岡さんも、「恋の切なさ一般を歌いえている」と的確に評している。現代では、恋愛をただ素晴らしいことのように喧伝する風潮が目立つが(そのくせ、大した恋愛など成立しにくいのだが)、本当の恋というのはこのようなものであろう。


   ●四十六                   曾禰好忠
 由良の門を 渡る舟人 かぢを絶え ゆくへも知らぬ 恋の道かな


 一見関係のない上の句を、「恋の道」に結びつけた技が鮮やかである。それでいて、意味上の不自然さはまったくなく、第三句から第四句へときわめてスムーズにつながっている。海人や船人にことよせた歌は多いが、この歌では、「由良の門」という地名にちなんで、「ゆらゆら」とあてどなくさまようイメージと、「かぢを絶え」で、波の高さに茫然として舵からも手を離してしまった船人の寄る辺なさとを重ねることで、あれこれと心惑う「恋の道」の視覚的な喩を形成し、それを最後の一句に見事に活かしている。


   ●五十                    藤原義孝
 君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな


 思いを遂げた時のこの上ない喜びを何の衒いも凝った技巧もなく一気に歌い上げている。「君がため」に命をかけるのは、いわゆる「男気」というものである。もっともこの場合の「惜しからざりし命」は、君と添えるならという意味で、愛する者を救うために命を捨てるというのとは少し違う。それはともかく、思いを遂げた後は、幸福感のために、これがいつまでも続いてほしいという、一種の未練ともまがう「たおやめぶり」を示している。とかくおおげさに見栄を張りがちな「ますらをぶり」からの転換がここにある。それだけに一層、エロスの真実に迫りえている。


   ●五十四                  儀同三司母
 忘れじの 行く末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな


 今度は女性の側からの喜びを歌った歌である。先の五十番と比較すると面白い。この時代、女性は、たまさか訪れてくれる男のあてにならない約束をいつまでも待たなくてはならなかった。あなたはいま末永く決して忘れないと約束したけれど、それは当てにならない――これは女性にとって自明だった。その習俗が強いる事実が、女性に独特の屈折を与え、それが男のような単純な喜びを歌にするのとは違った複雑な陰影をもつ言葉を紡がせたのである。今日のこの喜びのまま死んでしまったほうがよいと一気に詠まれた下の句が、それを端的に表している。ちなみにこの行き詰まるような心情は、後世、近松が描き出した傾城の女の一途な恋心にそのまま通じている。


   ●五十六                   和泉式部
 あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな


 これは解説不要。ダントツ一位。あえて野暮なことを言えば、迫りくる死の予感の中で、いよいよ高まる男への思慕の気持ちを「一目会いたい、一目会いたい」と祈りのように表現しているが、そうした鬼気迫る切迫感は、一種の宗教性すらおびている。女性は男性と違って、性愛の対象を自分の心に叶う一点に絞り、そこに情熱を集中させる。少なくともそれを理想としている。和泉式部はそのことをよく知りつくしていて、それを言葉にしたのである。彼女が実際に死の床に伏していたかどうかはあまり問題ではない。近代では、与謝野晶子が近いが、近代特有の夾雑物がややそれを妨げているかもしれない。


   ●五十八                   大弐三位
 有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする


 この歌は「猪名」=「否」、「風」=「そよ」、「そよ」=「そうよ(肯定)」と、入り組んだ技巧に満ちている。これは、後に述べるように、地名とそれにちなんだ自然物を言えばすぐにその含みが理解されるような「隠語=共通語」を歌の起点として選んでいる。大岡さんの解説に、「通ってくるのが間遠になった男が自分のことは棚に上げて、『あなたのお気持ちがつかめなくて』などと言ってきたのに対して、上品な皮肉をこめて」返したとある。女性の返歌には、機知を利かせて痛烈な肘鉄を食らわせるものもあるが(たとえば清少納言の六十二番)、この女性のそれは、「否などと言ったことがあって? どうしてあなたのことを忘れたりするでしょうか」とやんわりと、しかも艶っぽく応じている。ある種の成熟した娼婦性と呼んでもいい。男はたまらず会いに行ったのではないか。何よりも風物の流れと、濁音を抑制した音韻の響きが美しい。


   ●八十九                  式子内親王
 玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする


 この歌の作者・式子内親王は、幼い頃から斎宮を務め、病弱でもあり、またその地位からして(後白河天皇の第三皇女)、かなり窮屈な生涯を送らざるを得ない運命に置かれたようだ。高位であること特有の辛さがいつも付きまとっていたであろう。生涯独身で晩年には出家している。おそらく男と契りを交わしたことはなかったと思われる。そのせいか、「忍ぶ恋」を歌にしたとき、まことに心の底から絞り出すような真実味溢れる作品として結晶した。生きつづければ忍ぶ力が尽きて恋心が表に出てしまうだろうという独特のレトリックは、比類がない。ちなみに相手が誰かという下世話な興味がかき立てられるが、定家、法然などの説がある。事実を歌ったものとすれば、定家よりも法然のほうが可能性が高い。ある高位の尼僧の臨終の際に、法然が、お側に参じたいけれども諸般の事情から叶わないという意の長文の手紙を送っているからである。しかし、おそらくは、単なる題詠であるというのが真相に近いだろう。

大岡 信 編訳『小倉百人一首』をテキストに語り合う(その1)

2017年08月10日 01時57分25秒 | 文学
        






 以前このブログで、「大岡 信 編訳の『小倉百人一首』はすごい」というタイトルの記事を載せました。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/2507469c96bd504ccae3a9c6d1e533c8
これをきっかけとして、親しい仲間六人で、「それぞれのメンバーが百人一首から感銘を受けた歌十首を選び、それを発表しながら口頭または文章で感想と批評を述べ、みんなで自由に語り合う」という趣旨の会を開きました。文学研究者はいますが、短歌に関しては素人ばかりです。
 メンバーは三十代男性のHさん、Kさん、五十代男性のUさん、Gさん、六十代女性のMさん、それに私。
四十年近く世代の幅がありながら、話は妙に噛み合い、事前に一切相談しなかったにもかかわらず、選んだ歌が重なる場合もけっこうありました。
 しかしまた、それぞれの趣味嗜好、どこにアングルを定めるか、接触体験の深浅などによって、顕著な違いもあらわとなり、それはそれで、メンバー一人一人の個性、人柄を改めて相互に知る結果となりました。
 百人一首は定家が編集しただけあって、わずかな例外を除いて、いずれ劣らぬ秀歌がそろっています。しかも恋歌、美しい叙景歌、羇旅の歌、孤独の境涯を自ら偲ぶ歌、技巧の面白さを極めた歌など、多様さに溢れていますから、このような結果になるのは、考えてみれば当然だったとも言えるでしょう。

 Hさんは直感派。音声CDを聴きながら、その場でピンとくるのを選んだだけでしたが、けっこういいセンスを示しました。自分にとって縁の深い地名に反応するところに、ナマの現場を尊重する精神が感じられたのと、やはり若い世代にふさわしく、i-phoneなどで絶えず「音」を聴いている日常経験も関係しているのでしょう。
 Kさんは歳に似合わず、出家遁世の境地を歌った歌が多く、老成ぶりを示しました。作者を見ると、やはり僧侶が多い。心労の多いお仕事に就いているので、日ごろのストレスも関係しているかと邪推。しかし、そのよくできた円満な人柄からして、むべなるかなと感じたことも事実です。
 Uさんは、文学に造詣が深く、慎重に吟味した形跡が感じられました。数多い恋歌はなるべく避け、あえて叙景歌を中心に選んだとのこと。誰でもなじんでいる歌がいくつか含まれていましたが、その感想、批評を聞いていると、あまりに有名なので何気なく通り過ぎていた歌にもずいぶん奥深い歌心が込められていることを教えられました。
 Gさんも文学研究者ですが、温和な人柄にふさわしく、清冽な叙景歌や孤独で静謐な心境を歌ったものが多く、あまりに技巧に凝った歌や激しい感情を歌い上げたものは一つも選びませんでした。しかも総じて素直でわかりやすい歌が多い印象がありました。彼は今回の趣向とは別に、詩歌の批評についての発表も自発的に担当しました。持統天皇の「春過ぎて~」の歌における万葉集と新古今集との異同の問題を、昔日流行した「新批評」の旗手が論じた論考を素材とした発表だったので、これをきっかけに大いに議論に花が咲きました。
 Mさんは、いかにも女性らしく、ほとんどが恋歌でした。しかも女性歌人の繊細複雑な、また時には激しく乱れる心模様を歌ったものが多く、どれも秀歌と言わざるを得ないものばかりでした。一位から十位までランクをつけて発表した点、自ら選んだほとんどの歌に、日ごろ傾倒しているシャンソンの曲を対応させ、恋の悩み苦しみは古今東西共通したものである点を印象づけたことなど、新鮮でユニークな視点を提供してくれました。
 最後に私ですが、あらかじめ文章の形でレポートを用意していったので、それにやや修正を加えて以下に分載します。元のレポートは、「概説」と「各歌感想」の二部仕立てになっていましたが、ここでは、「概説」の冒頭部分をまず掲げ、次に「各歌感想」、最後に「概説」の残りの部分を載せることにします。

 会が終わるころ、流れはしだいに、やはり万葉集をやらなければなあ、というところに落ち着いていきました。次の機会には、古典に造詣の深いよき導き手の書いたものを参考にしつつ、ぜひ万葉集に踏み込もうと約束を交わしたのでした。


【概説その1】

 私は今回、あえて恋の歌ばかりを選びました。もちろん百人一首には、美しい叙景歌、人の世をはかなむ歌、羇旅の歌、ウィットと技巧のかぎりをつくした歌など、捨てがたい作品がたくさんあります。けれども、それらを捨てて恋歌に絞ったのは、一つには、私自身が最も関心を寄せることがらが、人間と人間との交流のあり方、ことに男女のそれであるために、その領域に限定したいと思ったからです。
 もう一つは、百の歌の中で恋歌の占める割合が飛び抜けて多いという事実のうちに、やはりこの時代の関心もそこに集中しているなという確信を得たからです。
 加えて、数ある恋歌が、どれも人の心の機微と奥深さ、人生の哀歓全体を表現して余りある秀歌ばかりだという感触を得ました。やるせない恋心を詠っていても、この時代の恋情には、寿命の短さからくる人生観が反映しているのか、必ずと言ってよいほど、人の世の無常、遠からずやってくる死への思いが、影のように付きまとっています。
 しかし一口に恋歌といっても、その歌心には、じつに複雑で微妙な綾が詠いこまれています。特に平安時代の貴族階級では、一夫多妻と妻問い婚が一般的でしたから、位の高い男性の多くは艶聞華やかなプレイボーイ、女性は孤閨を守りながら、たまさか訪れてくる男を待ち焦がれたり、いつの間にか忘れられたりといったパターンが多かったようです。
 だからこそ、女性の歌には、激しい情熱のほむらの燃え上がりや、胸をちりちりさせる片思い、夜明けまでわびしく空閨をかこつ哀しさ、噂に上ってしまうことを極度に恐れる秘めたる思い、そして時には、相手の言葉のうちに軽薄さを嗅ぎつけたうえでの当てこすりといった繊細な表現が実を結んだのでしょう。

前記記事の訂正とお詫び

2017年08月04日 12時38分39秒 | 思想
        



前記記事「日本よ、外国人観光客誘致などに浮かれるな」において、訪日外国人が日本でモノやサービスを購入してもGDPにカウントされないという趣旨の文章を書きましたが、複数の人からのご指摘があり、これは間違っていたようです。
訂正してお詫びいたします。

なお既出の当該記事はそのまま残し、以下に新たに、削除と訂正を加えた文章を掲載します。



【新記事】




2020年東京五輪を控え、外国人観光客をもっともっと迎えようではないかという機運が高まっています。
実際、ここのところ訪日外国人数はうなぎ上りに増えています。
2014年と2016年とを比較すると、わずか2年間で、1340万人から2400万人、倍率にして1.8倍という目覚ましさです。
http://www.jnto.go.jp/jpn/statistics/since2003_tourists.pdf

また先ごろ、2016年の「旅行収支」が1.3兆円の黒字を記録したことがマスコミによって報じられ、一般国民を喜ばせています。
なかには、日本はこれから観光立国を目指すべきだなどという、いささかおっちょこちょいなことを言いだす人も出てくる始末です。

たしかに、多くの外国人が(移民としてでなく)観光のために日本を訪れ、「おもてなし文化」のような日本のよいところを知ってもらうのは悪いことではありません。
また、外国人がたくさんお金を落として行けば、観光資源の豊富な地域は儲かるでしょうし、新たに外国人誘致のための観光開発に力を入れることで、経済波及効果が望めるかもしれません。

しかし、です。

こういう議論が、果たしてどれだけこれからの日本経済全体や日本文化全体に資するものかどうかは、もっと慎重に考えてみなくてはなりません。

まず、訪日外国人といっても、すべてが観光目的で日本に来るわけではありません。
観光目的は、全体の約6割にとどまります。残りはビジネスその他なのです。
https://www.mlit.go.jp/common/001084273.pdf#search=%27%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E8%A6%B3%E5%85%89%E5%8F%8E%E5%85%A5+%E5%B9%B4%E6%AC%A1%E6%8E%A8%E7%A7%BB%27
ビジネスでは、利にさとい中国商人などが、巧みに利益をかっさらっていかないとも限りません。

次に、外国人の内訳ですが、韓国、中国、台湾、香港の4地域で、全体の73%を占めます。
欧米加豪の合計はわずか14%にすぎません。
しかも、2014年当時、前者は、67%、後者は18%でした。
http://www.jnto.go.jp/jpn/statistics/since2003_tourists.pdf

つまり、増えているのは、東アジアからの訪問者であって、ヨーロッパや英米圏から日本を訪問する人たちの割合は、むしろ減っているのです(絶対数は増えていますが)。
数字を大きく押し上げているのは、近隣諸国だということがこれでわかります。

私たちは、外国人と聞くと、何となく西洋人を思い浮かべてしまう習慣から抜けきっていないのではないでしょうか。
そうして、そういうお客さんがたくさん来てくれることはウェルカムだ、とどこかで感じていないでしょうか。
そこには、近代以降の西洋コンプレックスが微妙に左右していると思いますが、それはともかくとしても、韓国や中国がいまの日本にとって、たいへん不安定で剣呑な関係にあるということを忘れないほうがいいと思います。

筆者は別に、この両国の国民一人一人に対して嫌悪感情や差別感情を抱いているわけではありません。それは、筆者の勤務する大学での留学生に対する対応の仕方を見ていただければわかると思います。

しかし、実際に長野オリンピックの際に来日した中国人は、ああいう乱暴な振る舞いに及んだわけですし、最近は少しおとなしくなったものの、訪日中国人観光客のマナーの悪さは有名です。
さらに中共独裁政権には、国防動員法という法律があって、国外に滞在している中国人はすべて有事の際に政権の命令に従わなくてはならないことになっています。
違反すれば厳罰でしょうから、彼らは「便衣兵」としてゲリラ戦を展開する可能性が大きい。

また慰安婦問題に限らず、韓国の反日感情は尋常ではなく、サッカー大会やフィギュアスケート大会などにおけるヒステリックな反応、仏像の窃盗、靖国神社の放火、落書きなど、数々の狼藉ぶりは私たちの記憶に新しいところです。
日本なら確実に犯罪行為とみなされることも、本国ではとがめられるどころか、「もっとやれ」と言わんばかりの調子です。

こういう人たちが「訪日外国人」としてうなぎ上りに増えているからといって、外国人観光客が増えることはいいことだなどと単純に言えるでしょうか。

訪日外国人が増えることを素直に喜べない理由のもう一つ。
じゃんじゃん高級ホテルの建設でも進むなら話は別ですが、実際には、サービスの悪い民泊の増加による料金低下競争が起きています。老舗旅館などが経営難で閉鎖されていきます。
デフレ不況期にこういうことが起きると、移民による賃金低下競争と同じで、日本の経済全体に悪影響を及ぼすのです。

さらに、次の点が重要です。

「旅行収支」が1.3兆円の黒字と聞くと、それだけで日本経済の復活に大きく貢献するかのように思ってしまいます。
観光のにぎわいというのは目立ちますし、外国からたくさんの人がやってきて日本の土地を踏んでくれることは、日本が国際的に認知されて何となく繁栄につながるかのようなお祭り気分に国民を誘います。

しかし、「旅行収支」とは何でしょうか。
要するに、旅行によって外国人が日本に落とすお金(収入)と、日本人が外国に落とすお金(支出)との単なるバランスを示す数字です。たとえば、日本人がお金がなくて海外旅行にあまり行かなくなったり、海外でのビジネス活動に消極的になれば、それだけで黒字幅は増えます。
つまり外国人が多少の金を日本に落としても、それだけでは、必ずしもGDP全体の増加には貢献しません。一方で、国内需要にもとづく財やサービスの生産が大きく落ち込んでいれば(いるのですが)、「焼け石に水」というわけです。

では、訪日外国人(インバウンド)は、どれくらいGDPに貢献しているか。
先に述べたように、訪日外国人訪日観光客とは同じではありません。後者は前者の6割程度です。
次に、旅行収支1.3兆円の黒字というマスコミの報道ですが、これって、GDPのわずか0.26%にすぎませんよね。
この程度の黒字幅をもって、何か日本の経済が好転しているかのような幻想を振りまくマスコミの罪はたいへん重い
こうした報道は、政府が本来やるべきことをやらない口実として利用され、不作為の事実を隠蔽する効果を生むだけなのです。

日本は、「観光立国」などという、できもしない浮かれ騒ぎにうつつを抜かすのではなく、一刻も早くPB黒字化目標を破棄し、政府債務の対GDP比という正しい「財政健全化」概念を採用すべきです。
そのうえで、分母であるGDPを拡大させるために、政府支出を惜しまず、大胆な公共投資に打って出るのでなくてはなりません。



日本よ、外国人観光客誘致などに浮かれるな

2017年08月01日 22時09分07秒 | 経済
        





2020年東京五輪を控え、外国人観光客をもっともっと迎えようではないかという機運が高まっています。
実際、ここのところ訪日外国人数はうなぎ上りに増えています。
2014年と2016年とを比較すると、わずか2年間で、1340万人から2400万人、倍率にして1.8倍という目覚ましさです。
http://www.jnto.go.jp/jpn/statistics/since2003_tourists.pdf

また先ごろ、2016年の「旅行収支」が1.3兆円の黒字を記録したことがマスコミによって報じられ、一般国民を喜ばせています。
なかには、日本はこれから観光立国を目指すべきだなどという、いささかおっちょこちょいなことを言いだす人も出てくる始末です。

たしかに、多くの外国人が(移民としてでなく)観光のために日本を訪れ、「おもてなし文化」のような日本のよいところを知ってもらうのは悪いことではありません。
また、外国人がたくさんお金を落として行けば、観光資源の豊富な地域は儲かるでしょうし、新たに外国人誘致のための観光開発に力を入れることで、経済波及効果が望めるかもしれません。

しかし、です。

こういう議論が、果たしてどれだけこれからの日本経済全体や日本文化全体に資するものかどうかは、もっと慎重に考えてみなくてはなりません。

まず、訪日外国人といっても、すべてが観光目的で日本に来るわけではありません。
観光目的は、全体の約6割にとどまります。残りはビジネスその他なのです。
https://www.mlit.go.jp/common/001084273.pdf#search=%27%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E8%A6%B3%E5%85%89%E5%8F%8E%E5%85%A5+%E5%B9%B4%E6%AC%A1%E6%8E%A8%E7%A7%BB%27
ビジネスでは、利にさとい中国商人などが、巧みに利益をかっさらっていかないとも限りません。

次に、外国人の内訳ですが、韓国、中国、台湾、香港の4地域で、全体の73%を占めます。
欧米加豪の合計はわずか14%にすぎません。
しかも、2014年当時、前者は、67%、後者は18%でした。
http://www.jnto.go.jp/jpn/statistics/since2003_tourists.pdf

つまり、増えているのは、東アジアからの訪問者であって、ヨーロッパや英米圏から日本を訪問する人たちの割合は、むしろ減っているのです(絶対数は増えていますが)。
数字を大きく押し上げているのは、近隣諸国だということがこれでわかります。

私たちは、外国人と聞くと、何となく西洋人を思い浮かべてしまう習慣から抜けきっていないのではないでしょうか。
そうして、そういうお客さんがたくさん来てくれることはウェルカムだ、とどこかで感じていないでしょうか。
そこには、近代以降の西洋コンプレックスが微妙に左右していると思いますが、それはともかくとしても、韓国や中国がいまの日本にとって、たいへん不安定で剣呑な関係にあるということを忘れないほうがいいと思います。

筆者は別に、この両国の国民一人一人に対して嫌悪感情や差別感情を抱いているわけではありません。それは、筆者の勤務する大学での留学生に対する対応の仕方を見ていただければわかると思います。

しかし、実際に長野オリンピックの際に来日した中国人は、ああいう乱暴な振る舞いに及んだわけですし、最近は少しおとなしくなったものの、訪日中国人観光客のマナーの悪さは有名です。
さらに中共独裁政権には、国防動員法という法律があって、国外に滞在している中国人はすべて有事の際に政権の命令に従わなくてはならないことになっています。
違反すれば厳罰でしょうから、彼らは「便衣兵」としてゲリラ戦を展開する可能性が大きい。

また慰安婦問題に限らず、韓国の反日感情は尋常ではなく、サッカー大会やフィギュアスケート大会などにおけるヒステリックな反応、仏像の窃盗、靖国神社の放火、落書きなど、数々の狼藉ぶりは私たちの記憶に新しいところです。
日本なら確実に犯罪行為とみなされることも、本国ではとがめられるどころか、「もっとやれ」と言わんばかりの調子です。

こういう人たちが「訪日外国人」としてうなぎ上りに増えているからといって、外国人観光客が増えることはいいことだなどと単純に言えるでしょうか。

訪日外国人が増えることを素直に喜べない理由のもう一つ。
じゃんじゃん高級ホテルの建設でも進むなら話は別ですが、実際には、サービスの悪い民泊の増加による料金低下競争が起きています。老舗旅館などが経営難で閉鎖されていきます。
デフレ不況期にこういうことが起きると、移民による賃金低下競争と同じで、日本の経済全体に悪影響を及ぼすのです。

さらに、次の点が重要です。

「旅行収支」が1.3兆円の黒字と聞くと、それだけで日本経済の復活に貢献するかのように思ってしまいます。
観光のにぎわいというのは目立ちますし、外国からたくさんの人がやってきて日本の土地を踏んでくれることは、日本が国際的に認知されて何となく繁栄につながるかのようなお祭り気分に国民を誘います。

しかし、「旅行収支」とは何でしょうか。
要するに、旅行によって外国人が日本に落とすお金(収入)と、日本人が外国に落とすお金(支出)との単なるバランスを示す数字です。日本人がお金がなくて海外旅行にあまり行かなくなれば、それだけで黒字幅は増えます。
知っておくべきなのは、旅行収支は、GDPに算入されないという事実です。
旅行収支は経常収支のうちのサービス収支の一種ですが、経常収支でGDPに算入されるのは、純輸出(輸出額-輸入額)だけです。
GDPは、次の恒等式によって算出されます。

Y(GDP)=C(消費)+I(投資)+G(政府支出)+NX(純輸出)

ここで、言うまでもなく、消費や投資や政府支出とは、国内における日本国民による支出(=他の「日本国民」にとっての所得)を指しています。
つまり、外国人がいくら日本にお金を落としても、それだけでは、GDPの増加にはつながらないのです。必ずしも内需(国内生産)が増えるわけではありませんからね。
一方で国内需要にもとづく財やサービスの生産が大きく落ち込んでいれば(いるのですが)、何にもなりません。

ところで、旅行収支1.3兆円の黒字というマスコミの報道ですが、これって、GDPのわずか0.26%にすぎませんよね。
GDPに算入されないうえに、この程度の黒字幅をもって、何か日本の経済が好転しているかのような幻想を振りまくマスコミの罪はたいへん重い
こうした報道は、政府が本来やるべきことをやらない口実として利用され、不作為の事実を隠蔽する効果を生むだけなのです。

日本は、「観光立国」などという、できもしない浮かれ騒ぎにうつつを抜かすのではなく、一刻も早くPB黒字化目標を破棄し、政府債務の対GDP比という正しい「財政健全化」概念を採用すべきです。
そのうえで、分母であるGDPを拡大させるために、政府支出を惜しまず、大胆な公共投資に打って出るのでなくてはなりません。