倫理の起源41
さてこのあたりから、「父性」的な人倫と、「母性」的な人倫との違いについて説いていくべきだろう。
ユング派の心理学者・林道義氏が『父性の復権』(中公新書)ですでに書いていることだが、「父性」とは、その言葉が示すように、実際の具体的な父親を指しているのではなく、多くの父親が父親としてこうあるべきと感じてふるまってきた態度の集成を抽象的にとらえた概念である。「母性」の場合も同じ。したがって、現実には母親が父性を体現している場合もあるし、逆もある。
しかしではいったい、父性、母性とは何かということになる。この問いに答えるには、、男性性、女性性とは何かというところから話を始めなくてはならない。
そういう概念は作られたもので根拠がないという思想もありうる。だがこの問題は、それだけでゆうに一冊の本を書くに値するので、ここでは、親の人倫性というテーマに触れるかぎりで取り上げよう。ちなみに、この大きな問題に関心を持たれた方は、拙著『男はどこにいるのか』(ちくま文庫)、『男という不安』(PHP新書)などを参照していただければ幸いである。
男と女は何が違うか。もちろん体の構造や、それに即した生理現象の相違(たとえば女は子を孕むが男は孕まない)、性行動の様式の相違(たとえば男は性器を挿入するが女は挿入される)、性的欲望の表現の相違(たとえば、男は若い女の肉体一般に発情するが、女は慎重に性目標を選ぶ)などを指摘することができる。つまり一般にいわゆるオス、メスとして区分される違いがあるわけだが、ここではそうした自然的な相違だけが問題なのではない。
そうした自然的な相違に対して、人類が太古からどのような観念を賦与してきたか、その観念の在り方がどれだけの普遍性を持つかということが重要なのである。つまり、ジェンダー(社会的・文化的性差)と呼ばれる概念のうちに、私たち自身が生活のなかでどれだけの重要性を認めているかが問題なのだ。
ちなみにジェンダーは歴史的に作られたものだから変わりうる、というのがフェミニズムの基本命題である。この基本命題は、女性は男性に比べて差別され抑圧されてきたという認識が通用する言論の土俵では、「変えなくてはならない」という政治的要求に理論的な根拠を与えることになる。もともとジェンダーという概念そのものが、こうした政治的要求から作られてきた概念である。なぜならば、男と女の違いを「自然性」として固定する立場に反対して、それは変わりうるという理論を根拠に置くことが、フェミニズムにとって「差別、抑圧」をはねのけるための強力な武器となるからである。
しかし私は、人間における男と女の違いは、単なる自然的・生物学的な違いに還元されるものでもなければ、逆に、それは歴史的・社会的に(ある「政治的悪意」にもとづいて)形成されてきたのだから、社会思想の変換や意識的な変革行動によってなくすことができる(あるいは覆すことができる)というようなものでもない、と考える。
問題を次のように整理すべきである。
①歴史的・社会的に作られてきた性差が現に存在するとしたら(存在するのだが)、なぜそのような現象がみられることになったのかを考えなくてはならない。それは巨大な悪意がはたらいたからではない。どこまでが自然的な差異であり、どこからが非自然的な差異であるかを明瞭に区分する試みは水掛け論を呼ぶだけなので意味がない。しかし、ある社会的な性差が根を下ろすにあたっては、そのための基礎条件として、自然的な性差があるからこそだと考えなければ論理が通らない。社会的・文化的な性差は、自然的な性差を根拠としつつ、人間自身が(男女共同で)積み上げてきた観念様式の累積の結果なのである。
②その観念様式が、ある社会、ある時代においては、政治的、権力的に見て歪んだ非対称性(差別、抑圧)をとることがありうるし、現にあった。しかしこの非対称性は、反面、生活上の役割分担と考えることも可能であって、私的な領域(たとえば家庭)では、はっきりとは明示されない形で男性に対する女性の「実権」の存在をいくらでも確認することができる(女房の尻に敷かれる、財布はかあちゃんが握っている、惚れた女を女神のように崇める、彼女が支えたからこそ彼は出世した、アリストファネスの喜劇『女の平和』における男の屈服等々)。
③そこで、議論を混乱させないために、次のような押さえが必要となる。すなわち、男と女の関係のあり方を、「対立関係」とか、「権力関係」とかいった概念だけで把握できると考えないこと。
抽象的な「人間」の集合である「一般社会」という概念の領域は、労働(戦争、政治なども含む)とそれによって生ずる富の分配という活動が、その基本的な形成要因となっている。この領域では、明らかに「対立関係」とか「権力関係」とかいった把握が可能である。男女の問題にこの把握をそのまま適用すれば、そこでは、男が長らく女を支配してきた、女は一般社会から排除されて「人間」扱いされてこなかったといった言い方がたしかに成り立つ。
しかし、個別の男女が渡り合う領域、すなわちエロスの領域では、これらの把握は必ずしも成り立たない。それは労働の領域ではなく、個別の男女が身体や情緒を直接に取り交わすことを本質とする領域だからである。あなたは、甘い恋のやりとりが行なわれている現場を、男と女の「対立関係」や「権力関係」とみなすことができるだろうか。
もちろん両領域は、具体的な人間活動においては混じりあう。したがって、エロス的な領域での活動が社会集団としての意味をもつに至った「家族」という共同性においては、当該社会の「ならわし」にもとづいて、労働における役割分担、上下関係、子どもに向かい合う時の精神的な分業などが生じうる。最後のものが、父性、母性という区別である。
④公的な領域を主として男が担い、私的な領域を主として女が担うという「性別役割分業」は、人類史上ほぼ普遍的にみられる。これ自体は別に悪いことではない。また近代社会において公的な職業領域への女性の進出が進んだとしても、それ自体は別に「進歩」を意味しない。みんなが稼がないと食えないという状態を意味すると見ることもできるからである。
この状態は、近代資本主義の発展による社会的な労働需要の増加(同時に欲望の増大と多様化でもある)が必然的にもたらしたものにすぎない。そして多少目を凝らしてみれば、男性向きの職業、女性向きの職業といったものがおのずと存在することが確認されるだろう(もちろん例外はある)。前者の代表として兵士や建設業者やトラック運転手、後者の代表として看護師や洋品店主や保育士などを挙げることができる。
この「ジェンダー」は、いったい男と女のどんな自然的差異に根差しているのか。近代社会の平等理念を性急に絶対正義として主張する前に、この事実を曇りなく見つめ、その理由を問い尋ねるのでなくてはならない。公的な職業領域への女性の進出度の高低、たとえば国会議員に女性が何割いるかによってその社会の優劣度を測るといった欧米由来のイデオロギーは、けっして正しい見方ではない。
こう言ったからといって、私は別に男女平等理念を否定しているわけではない。現に私は労働現場で、高給をとって安定した地位にいながら無能な男性、とても有能で過酷な労働をこなしながら低賃金と不安定な地位に甘んじている女性を何人も見ている。こういう差別は明らかになくすべきである。
だがここで繰り返し言っておきたいのは、平等理念を通用させて価値判断を下すべき人間領域はおのずから限られているということである。それは、一定の抽象レベル、すなわち法的・社会的・道徳的なレベルによって把握される「人間」概念の下で、という条件付きなのである。日本近代最大の思想家・福沢諭吉は、「平等であるべきなのは、権理通義の領域に限られる」と主張してやまなかった。
⑤そこで、先ほどの問いに答えを出す一つの方法は、まず、普通の平均的な男性と女性の興味関心がどのようなところに特化してあらわれるか、職業別の男女の偏差はどうか、学科における得意不得意の男女偏差はどうか、などの現象面を素直に洗い出してみることである。次に、単なる現象面の確認に終わらずに、それはなぜそうなるのかという理由、というよりもこれらの現象面の確認から、どういう総括が導かれるかを探ってみることである。
この方法によって浮かび上がってくる例には、じつに事欠かない。私は、いま挙げた職業適性のほかに、先に示した拙著『男はどこにいるのか』のなかで、凶悪犯罪者、哲学者、収集マニア、吃音者などが圧倒的に男に多いこと、また、私生活ゴシップや占いや美容など、女性週刊誌記事のマンネリズムのなかに、絶えず自分にとっての「物語」を求めようとする女性の無意識が如実に表れていること、などを例示しておいた。詳細はこの書に譲るとして、このほかにも、次のような事実を付け加えることができる。もちろんこれらはあくまで蓋然的に言えることにすぎない。しかし一方、これらの事実はみな、自由平等が保障された社会における現象なので、特定の社会の偏った制度的バイアスが作用した結果とみなすことはできない。
・幼児期に、男の子は自動車などのように「モノ」として操作できる玩具に関心を示す傾向が強いが、女の子は人形やお料理セットなどのように生き生きと一緒に付き合える玩具に関心を示す傾向が強い。これについては、またしてもフェミニズム系のジェンダー論者から、それは親がそうなるように育てたからだという反論が出そうだが、この反論はほとんど当てはまらない。いま手元に信頼度の高い研究資料がなくて残念だが、私が年子の男女を育てた経験から言わせてもらうと、両方の玩具が均等に並べて置いてあっても、どちらに興味を示すかは、男女で明らかに差が認められた。別に誘導したわけではない。
・男の子は理科に興味を示し語学が苦手だが、女の子はその反対。
・自殺者の8割は男性である。
・女性は身の回りのこまごまとしたこと、たとえば対面している相手の身体や服装の特徴を直ちにつかむし、清潔好きであるし、もちろん、化粧したり着飾ったりに大きな関心を寄せるが、男性はえてしてそういうことにはあまり関心を寄せない。
・アキバ系はほとんど男性である。
・女性は一度歩いた道は男性よりもよく覚えていて確実にたどるが、頭の中にマップを描くことは苦手である。
・男性は車の運転などに顕著にみられるように、周囲の状況を把握するのが得意だが、相手の心を直感的に読むことは苦手である。女性はこの逆。
・男性は概して、自分の部屋を「寝食する場所」くらいにしか考えていないが、女性は、自分の身体の拡張としてとらえる傾向が強いので、家具調度、部屋の装飾などにたいへん気を遣う。
・歌手や演奏家は男女の間で差がないのに、作曲家は圧倒的に男が多い。
・私自身が最近体験している顕著な事実も付け加えておこう。
私はいくつかの読書会に参加しており、また映画鑑賞会も主宰しているが、読書会で扱うテキストは、哲学、社会学、政治経済学、歴史などの系統のものが多い。これには女性参加者がほとんどゼロに近いが、映画鑑賞会のほうにはかろうじて女性が何人かやってくる。
委細は省くが、これらの現象を性差として意味のあるものと認めるかぎり、次のように総括できそうである。すなわち――
男性は一般に、身の周りの世界を「対象」として突き放すことによって自己を立てようとする。この傾向は、男性が「自然」からより強く追放(疎外)された性であることをあらわしている。彼はその疎外の事実を観念の過程によって補償しようとする。したがってそれは、客観主義的、構成主義的特性に通じることになる。
同じ特性が、他者とのかかわりにおいては、「対立」の相の下に現れることになり、対人関係での孤立傾向が強い。異族のメンバーは、彼にとって常にいくぶんかは「敵」である。同時に彼はいつも「母なる大地」「母なる自然」を憧憬している。
これに対して女性は一般に、身の周りの世界を「自分の身体にとってのもの」として引き寄せることによって自己を立てようとする。彼女にとって「自然」(これは人工物であってもよい)は常に親しい。この傾向は、日常生活において超越的な観念をさほど必要としないことを意味する。したがってそれは、主観主義的、現実主義的特性に通じることになる。
同じ特性が、他者とのかかわりにおいては、「融和・包容」の相の下に現れることになる。彼女は、「異族」のメンバーであっても自分にとって魅力的な個体であれば抵抗なく接触を許容しようとする。だが同時にそれは。嫉妬などの感情的要因によるトラブルを生みやすい。
以上は、両性の特性をあえてシンボリックに際立たせて表現したもので、もちろん、個々の個体はさまざまな偏差をもっている。しかし男性性とは何か、女性性とは何か、という問題について、それぞれのメンタリティを一応このように定義することによって、本題である父性的人倫と母性的人倫の問題に一歩近づくことができるだろう。
さてこのあたりから、「父性」的な人倫と、「母性」的な人倫との違いについて説いていくべきだろう。
ユング派の心理学者・林道義氏が『父性の復権』(中公新書)ですでに書いていることだが、「父性」とは、その言葉が示すように、実際の具体的な父親を指しているのではなく、多くの父親が父親としてこうあるべきと感じてふるまってきた態度の集成を抽象的にとらえた概念である。「母性」の場合も同じ。したがって、現実には母親が父性を体現している場合もあるし、逆もある。
しかしではいったい、父性、母性とは何かということになる。この問いに答えるには、、男性性、女性性とは何かというところから話を始めなくてはならない。
そういう概念は作られたもので根拠がないという思想もありうる。だがこの問題は、それだけでゆうに一冊の本を書くに値するので、ここでは、親の人倫性というテーマに触れるかぎりで取り上げよう。ちなみに、この大きな問題に関心を持たれた方は、拙著『男はどこにいるのか』(ちくま文庫)、『男という不安』(PHP新書)などを参照していただければ幸いである。
男と女は何が違うか。もちろん体の構造や、それに即した生理現象の相違(たとえば女は子を孕むが男は孕まない)、性行動の様式の相違(たとえば男は性器を挿入するが女は挿入される)、性的欲望の表現の相違(たとえば、男は若い女の肉体一般に発情するが、女は慎重に性目標を選ぶ)などを指摘することができる。つまり一般にいわゆるオス、メスとして区分される違いがあるわけだが、ここではそうした自然的な相違だけが問題なのではない。
そうした自然的な相違に対して、人類が太古からどのような観念を賦与してきたか、その観念の在り方がどれだけの普遍性を持つかということが重要なのである。つまり、ジェンダー(社会的・文化的性差)と呼ばれる概念のうちに、私たち自身が生活のなかでどれだけの重要性を認めているかが問題なのだ。
ちなみにジェンダーは歴史的に作られたものだから変わりうる、というのがフェミニズムの基本命題である。この基本命題は、女性は男性に比べて差別され抑圧されてきたという認識が通用する言論の土俵では、「変えなくてはならない」という政治的要求に理論的な根拠を与えることになる。もともとジェンダーという概念そのものが、こうした政治的要求から作られてきた概念である。なぜならば、男と女の違いを「自然性」として固定する立場に反対して、それは変わりうるという理論を根拠に置くことが、フェミニズムにとって「差別、抑圧」をはねのけるための強力な武器となるからである。
しかし私は、人間における男と女の違いは、単なる自然的・生物学的な違いに還元されるものでもなければ、逆に、それは歴史的・社会的に(ある「政治的悪意」にもとづいて)形成されてきたのだから、社会思想の変換や意識的な変革行動によってなくすことができる(あるいは覆すことができる)というようなものでもない、と考える。
問題を次のように整理すべきである。
①歴史的・社会的に作られてきた性差が現に存在するとしたら(存在するのだが)、なぜそのような現象がみられることになったのかを考えなくてはならない。それは巨大な悪意がはたらいたからではない。どこまでが自然的な差異であり、どこからが非自然的な差異であるかを明瞭に区分する試みは水掛け論を呼ぶだけなので意味がない。しかし、ある社会的な性差が根を下ろすにあたっては、そのための基礎条件として、自然的な性差があるからこそだと考えなければ論理が通らない。社会的・文化的な性差は、自然的な性差を根拠としつつ、人間自身が(男女共同で)積み上げてきた観念様式の累積の結果なのである。
②その観念様式が、ある社会、ある時代においては、政治的、権力的に見て歪んだ非対称性(差別、抑圧)をとることがありうるし、現にあった。しかしこの非対称性は、反面、生活上の役割分担と考えることも可能であって、私的な領域(たとえば家庭)では、はっきりとは明示されない形で男性に対する女性の「実権」の存在をいくらでも確認することができる(女房の尻に敷かれる、財布はかあちゃんが握っている、惚れた女を女神のように崇める、彼女が支えたからこそ彼は出世した、アリストファネスの喜劇『女の平和』における男の屈服等々)。
③そこで、議論を混乱させないために、次のような押さえが必要となる。すなわち、男と女の関係のあり方を、「対立関係」とか、「権力関係」とかいった概念だけで把握できると考えないこと。
抽象的な「人間」の集合である「一般社会」という概念の領域は、労働(戦争、政治なども含む)とそれによって生ずる富の分配という活動が、その基本的な形成要因となっている。この領域では、明らかに「対立関係」とか「権力関係」とかいった把握が可能である。男女の問題にこの把握をそのまま適用すれば、そこでは、男が長らく女を支配してきた、女は一般社会から排除されて「人間」扱いされてこなかったといった言い方がたしかに成り立つ。
しかし、個別の男女が渡り合う領域、すなわちエロスの領域では、これらの把握は必ずしも成り立たない。それは労働の領域ではなく、個別の男女が身体や情緒を直接に取り交わすことを本質とする領域だからである。あなたは、甘い恋のやりとりが行なわれている現場を、男と女の「対立関係」や「権力関係」とみなすことができるだろうか。
もちろん両領域は、具体的な人間活動においては混じりあう。したがって、エロス的な領域での活動が社会集団としての意味をもつに至った「家族」という共同性においては、当該社会の「ならわし」にもとづいて、労働における役割分担、上下関係、子どもに向かい合う時の精神的な分業などが生じうる。最後のものが、父性、母性という区別である。
④公的な領域を主として男が担い、私的な領域を主として女が担うという「性別役割分業」は、人類史上ほぼ普遍的にみられる。これ自体は別に悪いことではない。また近代社会において公的な職業領域への女性の進出が進んだとしても、それ自体は別に「進歩」を意味しない。みんなが稼がないと食えないという状態を意味すると見ることもできるからである。
この状態は、近代資本主義の発展による社会的な労働需要の増加(同時に欲望の増大と多様化でもある)が必然的にもたらしたものにすぎない。そして多少目を凝らしてみれば、男性向きの職業、女性向きの職業といったものがおのずと存在することが確認されるだろう(もちろん例外はある)。前者の代表として兵士や建設業者やトラック運転手、後者の代表として看護師や洋品店主や保育士などを挙げることができる。
この「ジェンダー」は、いったい男と女のどんな自然的差異に根差しているのか。近代社会の平等理念を性急に絶対正義として主張する前に、この事実を曇りなく見つめ、その理由を問い尋ねるのでなくてはならない。公的な職業領域への女性の進出度の高低、たとえば国会議員に女性が何割いるかによってその社会の優劣度を測るといった欧米由来のイデオロギーは、けっして正しい見方ではない。
こう言ったからといって、私は別に男女平等理念を否定しているわけではない。現に私は労働現場で、高給をとって安定した地位にいながら無能な男性、とても有能で過酷な労働をこなしながら低賃金と不安定な地位に甘んじている女性を何人も見ている。こういう差別は明らかになくすべきである。
だがここで繰り返し言っておきたいのは、平等理念を通用させて価値判断を下すべき人間領域はおのずから限られているということである。それは、一定の抽象レベル、すなわち法的・社会的・道徳的なレベルによって把握される「人間」概念の下で、という条件付きなのである。日本近代最大の思想家・福沢諭吉は、「平等であるべきなのは、権理通義の領域に限られる」と主張してやまなかった。
⑤そこで、先ほどの問いに答えを出す一つの方法は、まず、普通の平均的な男性と女性の興味関心がどのようなところに特化してあらわれるか、職業別の男女の偏差はどうか、学科における得意不得意の男女偏差はどうか、などの現象面を素直に洗い出してみることである。次に、単なる現象面の確認に終わらずに、それはなぜそうなるのかという理由、というよりもこれらの現象面の確認から、どういう総括が導かれるかを探ってみることである。
この方法によって浮かび上がってくる例には、じつに事欠かない。私は、いま挙げた職業適性のほかに、先に示した拙著『男はどこにいるのか』のなかで、凶悪犯罪者、哲学者、収集マニア、吃音者などが圧倒的に男に多いこと、また、私生活ゴシップや占いや美容など、女性週刊誌記事のマンネリズムのなかに、絶えず自分にとっての「物語」を求めようとする女性の無意識が如実に表れていること、などを例示しておいた。詳細はこの書に譲るとして、このほかにも、次のような事実を付け加えることができる。もちろんこれらはあくまで蓋然的に言えることにすぎない。しかし一方、これらの事実はみな、自由平等が保障された社会における現象なので、特定の社会の偏った制度的バイアスが作用した結果とみなすことはできない。
・幼児期に、男の子は自動車などのように「モノ」として操作できる玩具に関心を示す傾向が強いが、女の子は人形やお料理セットなどのように生き生きと一緒に付き合える玩具に関心を示す傾向が強い。これについては、またしてもフェミニズム系のジェンダー論者から、それは親がそうなるように育てたからだという反論が出そうだが、この反論はほとんど当てはまらない。いま手元に信頼度の高い研究資料がなくて残念だが、私が年子の男女を育てた経験から言わせてもらうと、両方の玩具が均等に並べて置いてあっても、どちらに興味を示すかは、男女で明らかに差が認められた。別に誘導したわけではない。
・男の子は理科に興味を示し語学が苦手だが、女の子はその反対。
・自殺者の8割は男性である。
・女性は身の回りのこまごまとしたこと、たとえば対面している相手の身体や服装の特徴を直ちにつかむし、清潔好きであるし、もちろん、化粧したり着飾ったりに大きな関心を寄せるが、男性はえてしてそういうことにはあまり関心を寄せない。
・アキバ系はほとんど男性である。
・女性は一度歩いた道は男性よりもよく覚えていて確実にたどるが、頭の中にマップを描くことは苦手である。
・男性は車の運転などに顕著にみられるように、周囲の状況を把握するのが得意だが、相手の心を直感的に読むことは苦手である。女性はこの逆。
・男性は概して、自分の部屋を「寝食する場所」くらいにしか考えていないが、女性は、自分の身体の拡張としてとらえる傾向が強いので、家具調度、部屋の装飾などにたいへん気を遣う。
・歌手や演奏家は男女の間で差がないのに、作曲家は圧倒的に男が多い。
・私自身が最近体験している顕著な事実も付け加えておこう。
私はいくつかの読書会に参加しており、また映画鑑賞会も主宰しているが、読書会で扱うテキストは、哲学、社会学、政治経済学、歴史などの系統のものが多い。これには女性参加者がほとんどゼロに近いが、映画鑑賞会のほうにはかろうじて女性が何人かやってくる。
委細は省くが、これらの現象を性差として意味のあるものと認めるかぎり、次のように総括できそうである。すなわち――
男性は一般に、身の周りの世界を「対象」として突き放すことによって自己を立てようとする。この傾向は、男性が「自然」からより強く追放(疎外)された性であることをあらわしている。彼はその疎外の事実を観念の過程によって補償しようとする。したがってそれは、客観主義的、構成主義的特性に通じることになる。
同じ特性が、他者とのかかわりにおいては、「対立」の相の下に現れることになり、対人関係での孤立傾向が強い。異族のメンバーは、彼にとって常にいくぶんかは「敵」である。同時に彼はいつも「母なる大地」「母なる自然」を憧憬している。
これに対して女性は一般に、身の周りの世界を「自分の身体にとってのもの」として引き寄せることによって自己を立てようとする。彼女にとって「自然」(これは人工物であってもよい)は常に親しい。この傾向は、日常生活において超越的な観念をさほど必要としないことを意味する。したがってそれは、主観主義的、現実主義的特性に通じることになる。
同じ特性が、他者とのかかわりにおいては、「融和・包容」の相の下に現れることになる。彼女は、「異族」のメンバーであっても自分にとって魅力的な個体であれば抵抗なく接触を許容しようとする。だが同時にそれは。嫉妬などの感情的要因によるトラブルを生みやすい。
以上は、両性の特性をあえてシンボリックに際立たせて表現したもので、もちろん、個々の個体はさまざまな偏差をもっている。しかし男性性とは何か、女性性とは何か、という問題について、それぞれのメンタリティを一応このように定義することによって、本題である父性的人倫と母性的人倫の問題に一歩近づくことができるだろう。