小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

「ことばの闘い」自選ベスト20

2015年10月26日 16時40分34秒 | お知らせ
 いつも小浜ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
 当ブログを開いてからちょうど2年たちました。それ以前の半年間に別のブログに投稿していたのですが、そのブログが閉鎖されたために、そこでの記事を連れてこちらに引っ越してきたわけです。その間、投稿記事が187本になりましたので、この際、画面上に呼び出しにくい記事を含めて、自薦できるものをベスト20として、以下に掲げることにいたしました。読者のみなさまの便宜に役立てていただければ幸いです。

1位 倫理の起源32
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/f0038b4349e6d4f60cc0f9dd8d2dc973

2位 EU崩壊の足音聞こゆ
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/3249423496d0112f3d568fc9b6fda158

3位 ユネスコ記憶遺産というグローバリズムを廃止せよ
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/43c3841d8da216eaf70895b25d6936ba

4位 抽象化する「あなた」
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/35fe09cea162ed11b2d76ef611d9362d

5位 倫理の起源17
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/8a46da98297b1b7b909f6b70c6ff83b6

6位 「自由・平等・人権・民主主義」とハサミは使いよう その1・その2
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/66516b1d3d65305aaf7b087400743e0b
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/543f2970f03d8f95fab18cc551860dcc

7位 日本語を哲学する6
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/60f815ddfa8330df51696debd8ed6700

8位 これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアーガイド18
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/66754f534ef61613013deb1c33ea9243

9位 私の憲法草案その1・その2
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/f923629999fb811556b5f43b44cdd155
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/2aff34e653f463326a618d7e7376983f

10位 倫理の起源60
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/6eb4932d6946cc538ef47c78b7a0b1a7

11位 母親就業率のランキングに見る欺瞞
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/6fd741b410e321baaef92ce805928cd3

12位 倫理の起源53
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/76d56535d628db5c7fb0cf8a79603917

13位 自然の喪失は文学も壊す
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/0b87302f564bff07070c52d1a7db1e23

14位 パリ銃撃事件の背景をよく考えてみよう
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/9b41f69650ef0ef5018dab8b5e325872

15位 「一票の格差」是正のまやかし論議に騙されるな
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/130814b7041b2847b8be69d676d9d488

16位 倫理の起源41
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/435b283928964a12f8ba90677fbbeea8

17位 「ほんとうの父親」って何?
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/3ac9c705f5e7adb58cd96199c9266f2f

18位 日本語を哲学する24
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/53cdc56d6f23b627d49e89b252291099

19位 倫理の起源62
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/1a36fdab9aff97f71e41cf30b45c8d83

20位 倫理の起源6
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/14d25d3ab4a60ec9eb927d958a344744


 今後とも、「ことばの闘い」をよろしくお願いいたします。

*なお11月29日(日)、午後2時より6時まで、四谷ルノアール・マイスペース3階にて、「語りだけが真実である――太宰・落語・物語」というタイトルで小浜が講演をいたします。入場料は1,000円+飲み物代です。ご関心のある方は、ふるってご参加ください。事前のお申し込み、お問い合わせはご無用です。、

ユネスコ記憶遺産というグローバリズムを廃止せよ

2015年10月15日 13時10分50秒 | 政治


南京城内にて子どもたちと遊ぶ
日本兵(1937年12月20日)

 10月9日、国際連合教育科学文化機構(ユネスコ)の記憶遺産に、中国が申請した「南京大虐殺文書」の登録が認められました。
 中国が主張してきた「南京大虐殺30万人説」が、何の証拠も確実な目撃証言もなく、写真資料なども偽造や他からの借用ばかりであることは、これまで何度も論じられてきました。ちなみに南京は人口百万の大都市でしたが、1937年12月13日の南京陥落当時は、ほとんどが上海その他に逃げ出しており、10万人から20万人ほどだったというのが最も有力な推定です。そうして陥落後の1938年1月には逃げていた人たちが徐々に帰ってきて、25万人と増えました。さらに9月には40万人から50万人に達したと言われています。この一事をもってしても、30万人説がまったくの捏造であることは疑いの余地がないでしょう。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-123.html
 また陥落からわずか10日後の12月23日には、日本軍の管理のもとに南京自治委員会が成立し、治安がほぼ回復しています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89#.E5.92.8C.E5.B9.B3.E4.BA.A4.E6.B8.89.E3.83.BB.E5.8D.97.E4.BA.AC.E6.88.A6
 そんな短期間に30万人もの大虐殺を行うことは物理的に不可能ですし、またどうやってその軍隊の恐ろしい狂騒を鎮め、酸鼻を極めたはずの膨大な遺体を処理したというのでしょうか。
 概して日本軍の南京入城から秩序回復までは平穏裡に行なわれました。南京攻略に先立つ12月7日には、蒋介石以下の中国軍および政府要人・公務員は、防衛司令長官・康生智を残して重慶に向けて脱出しており、そのため市街は無政府状態に陥り、電気・水道が停止しています。これが何と日本軍管理下の12月31日には回復しているのです。「大虐殺」などが存在しえなかったことは、これによってもわかります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E6%94%BB%E7%95%A5%E6%88%A6
 そもそもこの大虐殺説は、当時国民党の宣伝工作にかかわっていた疑いが濃厚なティンパーリとスマイスという二人の外国人ジャーナリストによる『戦争とはなにか』という書物を根拠としています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%91%E7%A8%94
 またあれほど躍起となって情報宣伝工作に精力を注いでいた蒋介石自身が、もしこの事件の実在を重慶で知ったら、さっそくそれを対日宣伝に使わないはずがないのに、そういう痕跡はまったくありません。
 そういえば、先だっての抗日戦争勝利70年記念式典での習近平主席の演説でも、中国軍民死傷者3500万人という数字が飛び出しましたが、これは、1950年の共産党政権樹立当時は1000万人、1985年には2100万人と発表され、1995年、江沢民政権の時に突然3500万人に膨れ上がったそうです。
http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/78e6e791439bc7c1a51bc2cf99789f9a
 まさに中国お得意の「白髪三千丈」というヤツですね。しかも日本軍が上海や南京で戦っていたのは中華民国の国民党軍であり、戦後成立した共産党政権ではない。これは誰でも知っている事実です。
 ちなみに例の式典に際しては、その前からさかんに抗日をテーマとした映画が上映されたのですが、その中にチャーチル、ルーズベルト、蒋介石が出席した1943年のカイロ会談を扱ったものがあって、そこには蒋介石はいず、代わりに毛沢東とスターリンが出席したことになっていたそうです。こうなるともう茶番以外の何ものでもありませんね。
 何はともあれ、中国発のこの種のデタラメのたぐいが、ユネスコ記憶遺産として登録されてしまったのです。もともとユネスコが属する国際連合とは戦勝国の連合であり、当然そこには、アメリカに便乗して戦勝国の一員にしてもらった中国の言い分を受け入れる心理的下地があるのでしょう。敵国であった日本の言い分を聞くよりは、かつての日本はナチス・ドイツと同じような暴虐なファシズム国家であったという戦勝国物語をそのまま継続させることができるので、「連合」にとってはまことに都合がいいわけです。アメリカおよび国際連合は、いまだに大国日本が東アジアにおける覇権を握るのではないかと恐れているのです

 しかしここではこのデタラメ自体を取り上げて憤りを表明しようというのではありません(もちろん私は憤っていますが)。記憶遺産という試みそのものをやめるべきだと主張したいのです。
 記憶遺産は、1997年から2年ごとに登録事業が始められ、世界遺産、無形文化遺産とともにユネスコの三大遺産事業と呼ばれていますが、そもそもこれは、自然や建造物や芸術作品のように今もなお目に見え、手で触れられる物的な対象とは違って、すでに過ぎ去った「歴史事実」そのものを確定しようという試みです。日本語流に言えば、この試みは、「もの」と「こと」の区別を無視しているのです。「もの」はいまここにあれば万人がその存在を認めることができますが、「こと」は複雑で、見地によっていくらでも異なり、たくさんの証言者が必要であり、また刻々とその様相が変化するので、どんな小さなものでも確定のためには詮議が必要です。ちなみに欧米語にはこの区別がありません。
 もちろんその事実の確定の手続きのために、残されたさまざまな資料が提出されて検証にかけられるわけですが、この「資料」なるものは、このたびの「南京大虐殺文書」のように、いくらでもあとからの改竄や捏造が可能です。また政治的利用の意図や悪意がなくても、伝聞や推定が無数に入り込み、無意識の改変が行われてしまいます。
 現に西洋思想の根幹をなす「新約聖書」にしても、イエスの言行録(四福音書)については、その成立時点ですでに多くの異聞、偽書の疑い、それぞれの編者の意図に添ったフィクション仕立て、失われた資料の混入などが存在したことは、今日周知の事実です。
 いわゆる「客観的歴史事実」なるものは、もともと時の権威者が集合して大騒ぎで詮議しながら、あれこれ取捨選択して定めていくものなのであって、何か初めから「これこそ真実である」と決まっているわけではありません。「事実」の確定には、それを「事実」と認める現場立会人と利害関係者と権威ある審判者とが絶対に必要だからです。特に政治的な意図がない場合でも、歴史実証主義者の間で論争が絶えず、権威の移ろいによって旧説がひっくり返ってしまう例はごまんとあります。芥川龍之介の『藪の中』は、人の世のこのようなありさまをシニカルにとらえた作品ですね。
 さて中共政府や韓国政府のような反日組織が、この無理な試みを自国の国益のために利用するのは当然と言えば当然です。「利用するな」というほうが無理筋でしょう。では、出遅れた日本が、これに対抗してこれから情報戦を旺盛に繰り広げれば、登録が抹消される可能性があるでしょうか。私の判断では、今となっては、それはまず無理です。
 なぜなら、まず第一に、先述のとおり、国連とは戦勝国連合であり、戦勝国にとって都合のよい「物語」はたやすく受け入れるけれども、都合の悪い事実はなかったことにしようとするからです。
 これはたとえば、ニュルンベルク裁判や東京裁判をやった主役であるアメリカが、「人道に対する罪(C級戦犯)」を設定しておきながら、自らが犯した民間人の大量殺戮である東京大空襲や原爆投下に対しては、この罪に該当するか否かを一顧だにしていないこと(ちなみに東京裁判では日本人にはこの罪が適用されませんでしたが、適用するとただちに自分たちに跳ね返るからです)、またいわゆる「従軍慰安婦問題」に関して、あの朝日新聞ですら不十分ながら誤報を認めたのに、クマラスワミ報告やマグロウヒル社の歴史教科書が一向に変更されないことなどを見てもわかります。
 第二に、ユネスコの主要幹部ポストには中国人と韓国人がいますが、日本人はゼロ。記憶遺産事業では、中韓はアジア太平洋地域委員会レベルで活発に活動しているのに、日本の存在は確認できないそうです。(産経新聞10月14日付)
 第三に、記憶遺産の登録の可否を事実上決定する国際諮問委員会は、わずか14名しかいません。バイアスのかかった特定の地域委員会がここに上程すれば、世界史の重要事項が確定されてしまうわけです。たったこれだけの人数で、資料の完全性、真正性を厳密かつ客観的に判断することなどできるでしょうか。その14名の人がみずから動いて徹底的な裏取りや検証活動をするとでもいうのでしょうか。ある地域で起きた一犯罪事実ですら、警察の容疑確定、逮捕、書類送検、検察の起訴決定、三審制による法廷での審議という長い長いプロセスを経なければ確定されないのに。

 このように言ったからといって、抗議活動や撤回要求活動をあきらめろと言っているのではありません。この問題については、私自身もある組織を通して、ほんのささやかではありますが抗議に名を連ねたことがあります。記憶遺産という事業がともかくも「権威ある」国際機関の名において行われてしまっている以上、これからも日本は精力的に抗議活動と撤回要求活動を続けていく必要があるでしょう。
 ただここで私が強調したいのは、要するに、ユネスコ記憶遺産なる事業が、その組織体質や手続きにおいて、いかにずさんなものでしかないかということです。問題は、そんなずさんな事業が、ただ国際連合の一機関という一見国家を超越した権威の装いを保つだけで、各国が抱懐するそれぞれの歴史よりも、何やらより普遍的で上位の歴史認識を保証するかのような幻想を与えてしまうという事実なのです。
 私はこのことにこそ、まず抗うべきであると考えます。こんなものに権威など認めてはならないのです。ちょうどノーベル平和賞やそのカリカチュアとしての孔子平和賞などが政治的な意味しか持っていないのと同じように。
 こういう権威をいったん認めてしまうと、そこに受け入れられようとする卑屈で激しい競争が発生します。競争が政治性を帯びることはもとより避けられないでしょう。このたび同時に中国が申請した「従軍慰安婦資料」は却下されましたが、再来年には韓国がさらにこれをしつこく申請するに決まっています。そうしてどの国も認められれば鬼の首でも取ったように喜ぶでしょう。この喜びをもたらすのは、「国際事業」という名の権威性ですが、そんな欺瞞的な権威に尻尾を振る必要などどこにもない。だから、この問題を本当に解決に導くためには、このインチキ事業そのものの廃止を求めていく以外にないのです。

 この事業がインチキ事業であるのは、ただ単に組織体質や選定基準がずさんであるからだけではありません。深く考えていけば、ここには世界秩序のあり方にかかわるもっと根本的な問題が隠されていることがわかります。
 現在の世界史的段階においては、歴史を共有できる範囲は、どんなに大きく見積もっても自生的な一民族、一宗教、一国家を超えることはできません。記憶遺産のような超国家的事業を支える理念は、この事実をけっして理解しようとしないのです。ちょうどヒト、モノ、カネの国境を超えた移動・交流をよいことと考える経済的なグローバリズムが、国家主権をむしばむ結果しかもたらさないのと同じように、国境を超えて歴史を共有することを目論むこの種の空想的な理念は、いわば長きにわたって培われてきた伝統的な共同体のエートスを破壊する「精神のグローバリズム」と言えるでしょう。私たちは、経済的なグローバリズムの成立によって、拡大された国際関係という空間的な観念が、ともすれば国家よりも大きな価値を持つのかもしれないという錯覚に陥っているのです。しかし人類の歩みがそんな地点にまでとうてい達しえていないことは、昨今のEUの惨状、中東の混乱、覇権の消滅による大国関係のにらみ合い、小国独立の運動によるさらなる多極化などの現状を一瞥するだけで明らかです。国際協調機関なるものは、これらをどれ一つとして解決しえていません。

 ある歴史を共有できる範囲は、自生的な共同体の範囲を超えないと書きましたが、そもそも歴史とは何でしょうか。それはそれを聞いた誰もが深い心情的なレベルから納得できる「物語」のことです。英語history、ドイツ語Geschichteにもそういうニュアンスがもともと込められていますし、フランス語histoireに至っては、初めから両方の意味に解せられます。ですから、神話と物語と歴史とは本来別ものではなく、特定地域に根差したひとつながりの連続性を持っているのです。
 かつて小林秀雄はこう書きました。

 母親の愛情が、何も彼もの元なのだ。死んだ子供を、今もなお愛しているからこそ、子供が死んだという事実が在るのだ、と言えましょう。愛しているからこそ、死んだという事実が、退引きならぬ確実なものとなるのであって、死んだ原因を、精しく数え上げたところで、動かし難い子供の面影が、心中に蘇るわけではない。(『歴史と文学』)

 死なしたくない子供に死なれたからこそ、母親の心に子供の死の必然な事がこたえるのではないですか。僕等の望む自由や偶然が、打ち砕かれる処に、そこの処だけに、僕等は歴史の必然を経験するのである。僕等が抵抗するから、歴史の必然は現われる。僕等は決して抵抗を止めない、だから歴史は必然たる事を止めないのであります。(同前)


 ここには、「事実」とか「歴史」とかいう言葉で私たちが通常理解している概念の、鮮やかな転倒が見られます。客観主義から実存主義へと、歴史観を大きくひっくり返しているのです。
 事実や歴史がまずあるからあなたの愛や思いが生まれるのではない。あなたの愛や思いこそが事実を事実たらしめ、歴史を歴史(物語)として紡ぐのである、そう小林は説いています。歴史が生活の共有を通して得られる共通の思いをけっして超えることができず、したがってそれが成り立つ範囲は、せいぜい自生的な共同体までがぎりぎりであるという命題がここから導かれるでしょう。
 私たちは、歴史認識のグローバルな共有などという安易な理念に跪拝してはならないのです。そのような理念は、むしろ一人の個人の、愛し合い憎しみ合った私たち二人の、そうして心情を共有しあった小さな仲間たちの大切な生の記憶を大きな声によって蹂躙していくのです。でも私たちは「決して抵抗を止めない」。それこそが、中共政府のデタラメやそれを安々と追認してしまうユネスコ事業の(おそらくは作為された)いい加減さに対して反対の声を上げる思想的な根拠と言えましょう。
 最後にもう一度言います。敵は中共政府にだけあるのではなく、その中核はむしろ「記憶遺産」という精神のグローバリズムにこそあるのです

 

江戸散歩その2

2015年10月06日 18時08分54秒 | 文学




 近松門左衛門(1653[承応2]年~1724[享保9]年)は、現代では、心中を扱った浄瑠璃作者として有名です。彼の作品は、時代物と世話物とに大きくわかれますが、当時は『国姓爺合戦』のような時代物の方が人気があり、『曽根崎心中』などの世話物は、同時代を過ぎてからは昭和になるまで上演されなかったと言われています。しかし一方、彼の作品や宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)の作品がもとで情死が流行したために、幕府は情死を厳しく取り締まると同時に上演を禁止したという話もよく知られていますね。ですから、やはり当時の町人社会のなかで、世話物、特に心中物が大きな人気を博したというのも否定できない事実なのでしょう。
 上演禁止が功を奏したためにそれ以降上演されなくなったのかどうかよくわかりませんが、いずれにしても、近松の心中物が、近代以降になって改めて大きく脚光を浴びるようになったといういきさつにはなかなか示唆に富むものがあり、これは文明史的な問題としてよく考えてみるに値することだと思います。後に取り上げましょう。

 さて近松の心中物の中で有名なのは、『曽根崎心中』、『心中天の網島』などで、ほかに心中はしませんが、ほとんど死の道行きに匹敵する逃亡を企てる『冥途の飛脚』があります。まずはこれらに一つひとつ、ささやかな批評の手を加えてみたいと思います。
『曽根崎心中』は、ストーリーだけ追いかけるかぎりは、他の作品に比べると、次のような比較的単純な話です。

 蜆川新地・天満屋の遊女お初は、田舎者の客に連れられて大阪三十三番観音廻りを終え、生玉神社境内の茶屋で休んでいると、久しく会っていなかった恋仲である醤油屋の手代・徳兵衛にばったり出会う。徳兵衛は、無沙汰の恨みを訴えるお初に迫られて、会えなかった事情を打ち明ける。
 それによれば、主人(実の叔父)から不本意な縁談をもちかけられたが断ると、郷里の継母がすでに内緒で持参金を受け取ってしまったのだという。怒った徳兵衛は叔父と争いになったあげく、叔父から持参金を取り返してくること、大阪から出て行くことを命じられる。郷里に帰って奔走し、やっとのことで持参金を取り返してきたところを、親友の油屋・九平次に出会い、どうしても用立てが必要な事情を打ち明けられ、大事な金を借用証書付きで貸してしまう。
 以上のいきさつをお初に話し終えたところに当の九平次が五人連れでやってくる。徳兵衛が九平次に借金返済を迫ると、九平次は、証書の筆が徳兵衛自身の手になることと、印鑑が何日も前に失くしたものであることを言い立てて、証書が偽物であると主張し逆に徳兵衛を訴えてやると脅す。自分の無実を証明することができないまま公にされては不利と踏んだ徳兵衛は、自ら取り戻そうと九平次に飛びかかり大喧嘩になる。お初が周囲に助けを求めるが、田舎者の客に籠に押し込まれて連れ去られてしまう。徳兵衛は多勢に無勢、さんざん叩きのめされて死にたいほど惨めな気持ちになる。
 徳兵衛についての悪い噂はさっと広まり、天満屋で悶々とするお初の耳にも聞こえてくる。そこへ忍んで訪れた徳兵衛を、お初は哀れさ恋しさのあまりひそかに連れ込んで縁の下に隠す。九平次がやってきて例の噂を吹聴する。お初はひとりごとのようにそれを否定しながら、徳兵衛との心中立ての話をして足で徳兵衛の意を探る。徳兵衛はお初の足を自分の喉に当てて同意を伝える。お初は九平次の誘いを振り切って、徳兵衛と一緒に死ぬと泣きながらささやいて足でつつくと、徳兵衛もその足に縋ってすすり泣く。この秘密のやりとりに九平次は気味悪がって帰って行き、天満屋は店を閉める。皆が寝静まってからお初は二階から吊り提灯の火を消そうとして失敗し梯子から落下し、その拍子に灯りが消えて、あたりは真っ暗。二人はそっと示し合わせて家を出る。
 道行の途中で自分たちの定めを占うかのようによその二階からは「心中は他人事と思っていたが明日は我が身」といった歌も聞こえてくるし、「去るなら私を殺してちょうだい」といった歌も聞こえてくる。どこで死のうかとさまよううち、二つ並んで飛ぶ人魂を見ては自分たちがあの世で一つの魂になることを願う。やがて松と棕櫚が一本の木から分かれているのを見つけて死に場所と定め、二人のからだを帯で木にしっかりと結び付ける。徳兵衛は震える手でお初の喉を突き、すぐさま剃刀で自分の喉を抉り、こうして二人は絶え果てる。


 このようにあらすじだけをたどると、何も心中しなくとも駆け落ちすればいいじゃないかとか、どうせ死ぬなら九平次を殺して逃げればいいじゃないかとか、徳兵衛がお初に必ず戻ってくると約束して一時逐電するやり方もあるだろうとか、いろいろ疑問が浮かんでくるかもしれません。
 たしかに筋立てという面だけから見れば、不自然な点がないわけではありません。たとえばいつも都合よく(悪く)九平次があらわれる偶然はおかしいとか、そんな大切な金をいくら親友に頼まれたからといって気軽に貸したりするものかとか、何も縁の下に隠れなくても空き部屋があるだろうとか、天満屋から忍び出るのに、みんなぐうぐう寝ているのだから、無理をして提灯の火を消そうとしなくてもいいだろうとか。
 しかしこの作品を鑑賞する場合には、次のようないくつかの点に留意する必要があります。これらのことを考えずに、筋の流れにだけ着目して文学作品としての適否や瑕疵を論じる鑑賞態度は、近代文学、特に小説を読みなれた人の先入観に災いされているのではないかと思います。

①この作品が人形芝居という見世物用の脚本であること
②浄瑠璃という「語り物」音曲の特性
③作品の生まれた時代背景
④心中立てという表現様式のもつ一種の宗教的意義


まず①と②についてですが、ご存じのとおり、人形浄瑠璃(文楽)は、傀儡子が黒子になってぎこちない動きしかできない人形を巧みに操る見世物です。それは小説のように自由に連続的かつ多面的な展開を描けるのとは違って、舞台の上で比較的短い象徴的な場面をいくつか組み合わせて構成しなくてはなりません。時間にも限りがあります。
 加えて、人形浄瑠璃は、能狂言を除けば、歌舞伎と並んで、大衆を相手とした舞台劇芸術というジャンルの鮮やかな登場といっても過言ではなく、これが近世初期に短期間に確立したという事情を考えれば、日本文化史上における画期的な事件だったと言っても過言ではありません。ここには大衆を相手とした我が国の舞台芸術の濫觴期における素朴なおおらかさをうかがい知ることができます。筋立てにおける多少の瑕疵など問題ではありません。
 たとえばこの『曽根崎心中』の場合、大きく分けて四場面の構成になっており、さらに十六場面に細かく分けることができます。そうしてそれぞれの場面で人形の所作に息を吹き込んで見せ場を作らなくてはならないわけです。虚構性がきわめて強く、そのためあちこちに現実生活からは乖離した不自然さが生じてくるのは当然ではないかと思います。いや、逆にそういう不自然さは、むしろ人形劇として観客をワクワクさせるための支えになっているとさえ考えられます。
 ことに、お初が九平次と話しながら縁の下の徳兵衛と足を通して言葉にならない情を交わす場面は、この作品の白眉の一つといってもよく、現実にはいやな奴とコミュニケーションしながら、心のうちでは徳兵衛のことしか考えていないお初の内面を、見事に現前化させているわけです。これを人形の動きで表現するのは、大きな見せ場であるに違いありません。
 また、お初が高いところから無理をして吊り提灯の火を消そうとする場面は、観客をハラハラドキドキさせたでしょう。お芝居の空間というものは、いかに非現実的であろうと、「あわや」的な盛り上がりをどうしても必要とするものです。さらに、二人の先を行く二つの人魂に来世で一つになる思いを託す場面は、ならぬ恋をあきらめることで当時の規範と慣習に馴致して人生を歩んでいた多くの観衆を、さぞかしロマンティックな哀れの想いのうちに誘いこんだのだろうと思います。

文楽「曽根崎心中」(3/4) 天満屋の段


 さてこの作品は、お初の三十三観音廻りという、一見主筋と関係のない場面からスタートします。この出だしはかなり長く、三十三観音の名前がすべて出てくるのと同時に、至る所に調子を取った掛詞が盛られていて、それが語りの「緒」のような役割を担って連綿と展開されるのですが、私たち現代人には、そこに掛詞があるということ自体、解説してもらわないとすぐには気づきません。しかしよく考えると、この長丁場には、当時の観客(特に大阪の観客)にとってかなり大切な意義が込められていたことがわかります。つまりこれは、観客に対するサービス精神が大いに発揮された重要な「枕」であり「序章」だったのです。全部辿っていたのでは切りがありませんので、二つ、三つだけ例を挙げてみましょう。まずは二番目の札所、長福寺。

 大坂順礼胸に木札の、ふだ落や、大江の岸に打つ波に、白む夜明けの、鳥も二番に長福寺。

「大坂」が昔から「あふさか」として行き交う人々(ことに男女)の出会いを含意しつつ歌に詠みこまれてきたことはよく知られていますね。お初の思いが込められているでしょう。「木札」と「ふだ落」とをかけていることは容易にわかりますが、「ふだ落」とは「補陀落」であり、インドの観音様の住所を表しています。角川ソフィア文庫版注釈によれば、西国巡礼歌の第一番に、「補陀落や岸打つ波は三熊野の那智の御山にひびく瀧津瀬」とあって、これを踏まえているそうです。那智の滝を、河と湾に縁の深い大坂の町に置き換えて「大江」とし、その白波と「白む」をかけながら、二番鳥が鳴くのは夜明けの知らせであるとつなぎ、さらに長福寺が二番目の巡礼場所であることをも表現したというわけです。ちなみに白む夜明けとは、心中が行われる最期の時を暗示していて不気味でもあります。
 もう一つ。十番目の玉造稲荷と十一番目の興徳寺。

 暑き日に、つらぬく汗の玉造稲荷の宮に迷ふとの、闇はことわり御仏も、衆生のための親なれば、是ぞをばせの興徳寺。

「汗の玉」が「玉造」にかかっていることはすぐ見抜けますが、「宮に迷ふとの」に「闇はことわり」が続くのは、現世の闇に迷って煩悩を脱しきれない衆生の定めを暗示しているに違いありません。そうしてそれを受けて「御仏」が私たちの「親」代わりとなって付き添い、一緒に迷ってくださるという意味が込められます。注釈によると、仏を衆生の親とすることは『法華経』に見え、また、後撰集に「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」という歌があるそうです。さらにその「親」からの縁語で「をば」(叔母)を引き出し、「をばせ=小橋」にある興徳寺につなげる、という具合です。

 ざっとこんなふうに、この三十三観音廻りのくだりは、言葉の運びが掛詞や縁語を軸としたたいへん緻密な仕掛けで出来上がっており、そこには観客の情緒を喚起するためのさまざまな工夫が凝らされています。その工夫とは、第一に掛詞や地口の連発をリズムに乗せて面白がらせること、第二に具体的な地名をたくさん出すことで大坂住民の親しみを誘い出すこと、第三に仏教に裏付けられた古代以来の日本人の「無常観」を強調することで当時の庶民の日常生活意識に寄り添うこと、そして第四に、短歌などのパロディで教養の蓄積を匂わせつつ古典からの文化的連続性を実現させていること。
 三味線の艶っぽい音曲に乗せられて、これらが語られるとき、薄暗い芝居小屋の中で、当時の観客はもうすでにうっとりとした気分に浸ったに違いありません。一般庶民のすべてがこの種の語りの複雑な仕組みを正確に理解したかどうかは疑わしいかもしれませんが、少なくとも大方の観客が何となく「気分」としてこの語りに強く引き込まれたことは間違いないと思われます。当時の人たちがこうした「気分」を身体で理解する生活意識の中で生きていたという事実は、私たち近代人にとって十分に驚くべきことではないでしょうか。
 筋立てだけに着目していたのでは、この大きな距離を乗り越えて江戸時代前期の人の心に迫ることは難しいと言えるでしょう。そのことは翻って、近代が得たものと同時に、失ったものの大きさについても自覚を新たにさせられることでもあります。しかしそれは、やはり同じ日本人ですから、文化的想像力のレベルでなら少しの努力を払えば回復することができるはず。さしあたり言葉の問題に限って言えば、当時の人たちは、観念的・抽象的な言葉ではなく、よく知られた地名などの具体的な言葉の姿に古くからの由来を重ね合わせて、そこのところにかぎりなく親しい魂のありかのようなものを見出していたのだ、と言っておきましょうか。

「②浄瑠璃という『語り物』音曲の特性」については、素人ながらにもう少し言ってみたいことがありますし、「③作品の生まれた時代背景」についてもきちんとした考察が必要に思われます。また、「④心中立てという表現様式のもつ一種の宗教的意義」は、私が近松の心中物について論じてみたいと思う一番重要な論点ですので、これは『心中天の網島』や『冥途の飛脚』について話すときまで取っておきましょう。今回はこの辺で。