小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

もうすぐ「いざなぎ景気」だとよ!

2017年06月20日 00時55分05秒 | 経済

        





驚くべきことがあるものです。
6月15日、内閣府が、景気の拡大や後退を判断する景気動向指数研究会なるものを、約2年ぶりに開きました。
座長はあの悪名高き吉川洋東大名誉教授です。

その報告によりますと、安倍政権が発足した2012年12月から今年4月までの景気拡大期間が53カ月で、バブル景気の51か月を抜き、このまま9月まで続けば昭和40年代の「いざなぎ景気」を抜いて、戦後2番目の好景気となるそうです! (産経新聞6月16日付)

なかでもビックリなのは、この研究会の記者会見で、消費増税を行った2014年でも景気が後退しなかったと発表していることです。

このいけしゃあしゃあぶりは、かの「大本営発表」も真っ青です。

また、最近の人手不足を反映した有効求人倍率の伸びを、アベノミクスの成果だと嘯いてもいます。
言うまでもなく最近の人手不足の最大の理由は、少子高齢化による生産年齢人口の急激な減少にあります。別に政府が有効な雇用対策を打ったからでも何でもありません。

景気動向指数というのは、多くの領域から多くの経済指標を集めてきてややこしい計算式を用い、先行指数、一致指数、遅行指数の三つに分けて景気一般を判断するためのものです。
しかし内閣府の説明を読んでも、どの項目を重点的に選択し、それらのうちどれを加重的に計算するのか、その中身がよくわかりません。

こういう複雑怪奇な手法を用いて景気動向を占うと、「失われた二十年」が、なんと「いざなぎ景気」に匹敵するような好景気に変身するのだそうです。
開いた口が塞がらないとはこのことです。悪い冗談はやめてほしい。

こんな指標を使わなければ御用学者先生方は、「景気判断」を下せないのか。それも実態と真逆な判断を。
筆者には、景気が好転しているように見せかけるために、その中身の部分をわざと隠しているとしか思えません。
それはそうでしょうね。かれらにとって2019年に予定された10%への消費増税は、至上命題なのでしょうから。そのためならどんな理屈もつけようという固い覚悟を決めているらしい

安倍政権になってからも続いている(さらに悪化している)デフレ不況は、もっと単純な指標を見るだけで明らかです。

第一に実質賃金の推移
以下をごらんください。1997年あたりをピークにどの算定による給与も一貫して下がり続けていることが一目瞭然です。
http://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/timeseries/html/g0401.html

 (出典:労働政策研究・研修機構)

第二に、先ごろ発表された、2017年1~3月期のGDP成長率が上昇したというフェイク・ニュース
これはすでに三橋貴明氏や藤井聡氏によってそのからくりが暴かれていますが、念のためもう一度。

上昇したのは、「実質成長率」であり、それも前期比でわずか0.5%です。しかも実質成長率は、実際には積算できず、「名目成長率マイナス物価上昇率」という式から形式的に導かれるだけです。
さて名目成長率は、じつは前期比で▲0.03%でした。ところが物価上昇率のほうがそれよりはるかにマイナス度が大きく▲0.6%だったのです。そのため計算上、実質成長率がプラスになったにすぎません。
物価が下がり、賃金も下がり続けているのですから、これをデフレ不況と言わずして何といえばいいのでしょうか。
逆立ちしても「好景気」判断など下せるものではありません。

第三に、GDPの約6割を占める民間最終消費支出の2015年までの推移
http://www.chusho.meti.go.jp/pamflet/hakusyo/H28/h28/image/b1_1_05.png


このグラフを見て、14年の消費増税によって景気が後退しなかったと考える人がいたら、その人にはいい眼科医を紹介してあげましょう。

しかし、何もこうした統計資料で確かめなくとも(それは大事なことですが)、世相をつぶさに観察していれば、景気など少しも回復していないことは明らかです。

筆者は、タクシーに乗るたびに、運転手さんに「景気はどうですか」と聞くことにしています。
ここ三、四年、これまで五十回くらいは聞いてきたと思いますが、「よくなってきてますね」と答えた人は、ただの一人もいません。
反対に、「よくないですねえ」と答える人が圧倒的に多い。なかには「アベノミクスなんてデッタラメよお!」と威勢よく応じた女性運転手さんもいました。

またこの二年の間に、鶴岡市、京田辺市、白浜町、藤枝市などの地方都市を訪れましたが、どの町も閑散としていて、目抜き通りはシャッター街でした。まことに「いざなぎ景気」とはうら寂しいものであります。

さらに、筆者の住む地区にあるデパ地下のスーパーは、隣のイトーヨーカ堂などより価格が高いので、昼間は閑散としています。ところが、閉店近くになると生鮮食料品が半額になり、客がどっと押し寄せます。特売品には長蛇の列ができます。
この光景は、筆者が子どもの頃開店した「主婦の店、ダイエー」を彷彿とさせます。みんな必死で家計をやりくりしているのですね。

吉川洋氏だけでなく、伊藤元重氏、伊藤隆敏氏、土居丈朗氏など、消費増税推進を目論む御用学者たちは、何か根本的に自らの職業的使命を間違えています。庶民の生活意識や実際の経済実態と、自分たちの主張とがいかに乖離しているかということにすら気づいていない。
いったい何のために「経済学」とやらをやってきたのでしょうか。
緊縮真理教」に骨の髄までやられている財務官僚。そしてそこにゴキブリのように群がるこの人たちを、権力中枢から追放する方法を、何とかみなさんで考えましょう。


誤解された思想家たち・日本編シリーズその8 一休宗純(1394~1481)

2017年06月15日 02時23分46秒 | 思想

        





 今回は一休さんを取り上げてみたいと思います。ところが書く方は一休みどころではなく、短い期間とはいうものの、この難物相手に格闘呻吟すること並大抵ではありませんでした。
 理由は、第一に、私自身に禅思想や漢詩についての素養がまるでないため、彼の主著である漢詩集『狂雲集』(中公クラシックス)にほとんど歯が立たなかったこと。
 第二に、この人物が非常に謎めいていてこれまで多くの揣摩臆測を呼んできたことが災いし、その人物や思想表現の核心になかなか到達しにくいこと。
 そして第三に、それだからこそ、もっと真像に迫りたいという興味関心をかきたてられたこと、以上です。

 第一の問題は、もっぱら柳田聖山氏の現代語訳に依存せざるを得ませんでした。また氏の講演録『一休 「狂雲集」の世界』(人文書院)によって、一休の詩文が唐から南宋に至る中国の禅思想や文学や故事をいかに深く下敷きにしたものであるかを知らされました。普通の人がこれを踏まえることなくして『狂雲集』を理解することはまず不可能です。

 第二の問題は、これも氏の示唆によるものですが、『狂雲集』がただの漢詩の寄せ集めではなく、ある意図のもとに仕組まれ、全体として一つの構成を具えた文学作品、思想作品であるということに関わっています。
 多くの史家、評者、作家はこの事実に対して無自覚で、この作品の中に一休の伝記的事実を直接読み込もうとします。そのため、あれこれと無駄な議論を重ねているのですね。ここには、小説にすぐ作者自身の生(なま)の体験を探したがる日本の文学批評の悪しき伝統が受け継がれています。
 一休は戦乱のあおりで洛中洛外、堺、住吉などの寓居を転々としていますが、七十代くらいから弟子や訪問者も多くなります。八十を過ぎて戦乱で焼失している大徳寺の住持を心ならずも受け継ぎ、世俗的に尊敬される立場に置かれたため、弟子の紹等(しょうとう)による正式な『年譜』が残されています。しかしこれは大先生の足跡ということであまりに簡略で遺漏が多いように見えるため、後世多くの史家や評者や作家の想像や妄想を誘発することになったようです。
 このたび、水上勉氏の評伝『一休』(中央公論社)には大いにお世話になりました。しかし、いかんせん、この評伝も、『狂雲集』における盲女・森(しん)との露骨な情交の記述を事実そのままと受け取っていたり、明治中期に生まれた戯作者・磯上清太夫なる人物が元禄時代の原本を翻案した『一休和尚行実譜』という怪しげな書物の記述に頼りすぎたりしているところがあります。
 それもこれも、一休の行跡に不明な点が多いため、それに乗じて、作家魂をたくましくした結果なのでしょうから、それ自体は非難に値するわけではありません。一つのフィクションとしてはよくできた労作だと思います。ただ、一休という人の思想家としての核心にはどうも迫りえていない憾みが残ります。
 たとえば、水上氏の漢詩解釈には、これまでの通説をそのまま踏襲していて、柳田聖山氏のそれとはまったく異なるものがいくつかあります。一例を挙げるなら、『狂雲集』245の「大灯忌。宿忌以前、美人に対す。」と題された詩では、柳田氏によれば、美人とは女性ではなく、一休が尊敬してやまなかった大徳寺の開山・大灯国師自身であり、彼との一体化の熱い思いを男女の仲に託して詠ったものということになるのですが、水上氏は国師の百年忌の前夜、実際に美女と情交したと解釈しています。
 両氏の著作の前後を読めばわかりますが、これはどう見ても柳田氏のほうが正しい。
 また『年譜』には、一休の出自について、後小松天皇の落胤で母は南朝方であったために正室に讒言されて天皇を離れ、民家で一休を産んだと書かれています。水上氏もこの記述を素朴に信じているようですが、これなどは、マタイ伝の冒頭に、馬小屋で生まれたイエスの先祖はアブラハムでありダビデであるといった系譜づけが置かれているのと同じパターンでしょう。まともに相手にする類ではありません。
 ちなみに『年譜』にもとづくこの「伝説」は定着していて、一休が老年時代を過ごした薪村(現・京田辺)の酬恩庵(一休寺)には、菊の御紋が象嵌されています。
 しかくさように、水上氏の著作は通俗的な把握の域を出ていないのです。

 そこで第三の問題ですが、私は一休の伝記的事実を細かく詮索する資格もその気もないので、彼が室町時代中期というとんでもない乱倫、乱脈な時代を生きながら、そこからどういう思想表現をひねり出すに至ったかという点だけに絞って話を進めます。

 一休とはいかなる人物だったか。
 風狂・風流・破戒・奇行の人として名高いですね。火のない所に煙は立たぬ、私はこれらの形容を否定はしませんが、なぜそう受け取られるような多くの作品や行状を残したのかといえば、それは彼がじつは根のところでは、まじめの上に「くそ」がつくほどまじめな人だったからだと思います。
 彼は17歳で、6歳の時から預けられていた安国寺を飛び出し、西金寺の為謙宗為(いけんそうい・謙翁)のもとに走ります。ここにすでに、当時の堕落した禅門の権威主義に対する早熟な反骨の兆しと、禅の本来あるべき姿を求める強い求道の心が見られます。というのは、この謙翁というのがまさに名利を嫌って隠遁の道を歩む札付きの禅僧だったからです。
 謙翁の死後、21歳の一休は石山観音に参籠し、ほどなく入水自殺を企てます。師を失って進む道に行き詰まりを感じたのが主因でしょうが、柳田氏はここに、政治の理想が受け入れられずに汨羅(べきら)の淵に身を沈めた屈原の故事を重ねます。だからこれを一種の狂言自殺とする見方も成り立ちますが、しかし命をかけてまで故事をそのまま演じるというのは、それだけ彼が「ほんとうの生き方」に強い憧れと一途な執着を抱いていたからでしょう。
 やがて彼は近江堅田にある禅興寺の華叟宗曇(かそうそうどん)の門を叩き、25歳の時公案を解いて一休の号を受けますが、師からの印可状は破棄したと言われています。この選択も頑固一徹。というのも華叟もまた栄華名利に関心のない隠遁を貫いた僧ですし、一休はその師匠が与えた後継者としての免許の価値など認めなかったわけですから、若くして筋金入りです。
『狂雲集』の冒頭二首の第一は、六代前の直系の先師である宋の虚堂(きょどう)が法衣をはぎ取られても気にせず、牢屋の窓からの風と月を味わうことを忘れなかったその詩魂に対する賛美です。また二首目では、四代前の大灯国師が高い位についてからは貴族たちが争って説法を聴きに来るが、彼らのうち国師が二十年橋の下で無宿を貫いたことを顧るものは誰もいないという嘆きが詠われています。
 後者を引きましょう。

大灯を挑(かか)げ起して、一天に輝く、鸞輿(らんよ)、誉(ほまれ)を競う、法堂の前。風飧(ふうさん)水宿、人の記する無し。第五橋辺、二十年。

 彼はまた、十歳以上年上の兄弟子養叟(ようそう)を俗物として終始軽蔑していました。後年養叟が幕命によって大徳寺住持となり、やがて権謀渦巻くこの業界を辛抱強く泳ぎ渡ってついに名実ともに大徳寺の住職の座を勝ち取ると、一休は六年後にこれを戒める『自戒集』を編みます。
『狂雲集』にも、大灯国師の庵が草ぶきの一軒家だったのに比べて、養叟のそれが黄金の御殿のようで、それは正妻の子と妾の子の違いのようだと嘲っている詩が出てきます。この確執の異様さもやはり一休の純粋さと一徹さを表わしていると言えるでしょう。
 さらに彼自身が大徳寺の住持を受けた時は、一日だけ入山してすぐ退院(ついえん)しています。しかしこれは寺に安座などせず現地に出かけてすらいないまったく形式的なものでした。
『狂雲集』の上巻は、入山してから退院するまで寺内の各院で自分が接したものを追うという架空の設定による、八つの法語(偈)で終わっています。この心にくいまでの自己演出ぶりを見ると、天子様の勅を受け入れて住持を引き受けることと、自分が敬愛してきた祖師たちの生き方とが矛盾するので、そのことを照れて恥ずかしがっているさまがよくわかります。俺にはそんな資格はねえよ、という一種の韜晦ですね。
 ここに私は、一休という人の過剰なまでの自意識の強さを読みます。一時代前の西行にもすでに強い自意識が感じられますが、一休の場合はずっと手が込んでいます。退院に寄せたものを一つだけ引いてみましょう。

平生ラ苴(らそ)、小艶の吟、酒に婬し色に婬し、詩も亦婬す。[主杖(しゅじょう)を擲(なげう)って云く]七尺の拄杖(しゅじょう)、常住に還す。[尺八を吹いて云く]一枝の尺八、知音少なり。
【訳】根っからがさつな、小艶の歌でした、酒におぼれ、色におぼれ、詩歌にも、おぼれていました。(拄杖を地上に投げ捨てて)七尺棒は、寺の公用物でありやした、(尺八を吹いて)この一管の尺八の、音色の判る男はなかった。

 唐木順三氏は、『中世の文学』(筑摩書房)のなかで、一休の表現を近代的であると評しています。まさにその通りで、意識を自然などの状況に密着させずに状況から引きはがし、さらにそこに成立した自意識をもう一度突き放して対象化し、照れてみせたり嘲ってみせたり揶揄してみせたり他に託してみせたりする、こういう入り組んだ表現の仕掛けは、太宰治のそれによく似ているとも言えるでしょう。

 さて「酒に婬し色に婬し」という言葉にちなんで、ここで一休の酒色とのかかわりについて考えてみましょう。
 彼の漢詩や短歌には、あたかも自分が酒肆婬坊にさんざん溺れてきたかのような言葉が頻出します。たとえば、「婬坊に題す」という詩では、昔は女の歌を聞いてついにこの誘惑には勝てないことを悟った老師もいたが、自分には悟りなどは無用で、ただ抱いて口づけすることさえ叶えば火あぶりも八つ裂きもいとわないと詠われています。
 室町という時代には、鎌倉時代よりも都市が爛熟し、土倉、酒屋、馬借などを営む庶民の町として活気を帯びた結果、酒色の風潮が夜の世界をいっそう覆うようになったことは否定しがたいところでしょう。まして先述のとおり、室町中期は、公家はおろか将軍家の統制も及ばず、全国的に乱倫、乱脈を極めた時代でした。山中に隠遁するのではなく、ほとんど陋巷に身を寄せていた一休が、そうした空気を日常のように吸っていたことは想像に難くありません。したがって、彼もまた他のおおかたの僧侶と同じく、飲酒や女郎買いをそこそこ経験したかもしれません。
 しかし、ここでもやはり表現と経験的事実を混同してはなりません。一休が実際、どれくらい酒色にふけっていたかなど問題ではないのです。それよりはこれらの頻出する表現を彼が意識的に用いている意図はどこにあるのかを見破ることの方がはるかに大切です。
 これには二つ考えられます。
 一つは、偉そうに善知識を振りかざす禅坊主どもの欺瞞と偽善に対する揶揄と嘲弄のレトリックとして用いたのだということ。
 これは現代風に言えば、権威に安住して何の役にも立たない難解な言辞を弄し、庶民の生活意識を少しもわかろうとしない知識人に対する痛烈な批判と捉えることができます。
 もう一つは、嘘のない宗教的情熱を女への欲情にたとえる形式を取ったこと。
 後者は、柳田氏の強調するところで、実際中国の禅思想にその典拠がいろいろとあるそうです。
 自らを最低の位置にあるように装うことで、批判対象の真の堕落ぶりを撃つという逆説的なテクニック。つまり風狂とは、諸事乱倫無秩序の時代とまともに向き合いつつ、何とか思想や文学の言葉を紡ぐための、きわめて自覚的な精神の一つの型であったと言えるでしょう。
 むろんその根底には、こんな世に生まれてきてしまって、その事実に対して何一つまともなことができないという、強烈な自嘲の念がこもっていました。そこからは、禅宗徒である俺はいったい何のために学問を修め、何の故あって人の上に立つ身として生きているのだという、深く執拗な自問の声が聞こえてきます。

 ところで私たちは室町中期という時代を、それに続くいわゆる「戦国時代」に比べればまだしも平穏だったというイメージを抱いていないでしょうか。
 これはたとえば、NHK大河ドラマなどが強大になった戦国大名たちの合戦ばかりを好んで中心に描き、ことあるごとに乱世、乱世というイメージを植え付けてきたせいではないかと思います。たしかに16世紀に入ると合戦の数が増えますし、天下取りの物語という点では面白いので、人々の関心もそこに集まるのはもっともです。
 しかし出羽・陸奥の伊達、越後の上杉、甲斐の武田、駿府の今川、尾張の織田、美濃の斎藤、中国の毛利、四国の長曾我部など、誰もが知っている強大化した戦国大名はみな堅固な城を築き、その周辺に領民を集めてそれぞれの領国支配を完成させ、それによって城下町も発展していきます。それは一定の秩序が各領国内にできてきたことを表わしており、やがて来る徳川幕藩体制の再編成による封建社会の基礎がこの時期に敷かれたとは言えないでしょうか。
 これに対して、一休の生きた室町中期(15世紀)は、中央では山名、大内、細川ら、管領が勝手放題をやっており、内訌内乱は当たり前、将軍はこれを抑えることができずに恐怖政治に走り、地方でも荘園領主、守護、守護代、地頭、地頭代、国人などが入り乱れてまさに下克上で、土地所有の制度は無きも同然でした。飢饉や圧政のために土一揆、徳政一揆、打ちこわしも頻繁に起こり、都の河原には乞食や瀕死の病人や死体がごろごろ、強盗、夜討ち、強姦、人さらいなどは日常茶飯といってもよい状態だったのです。森鴎外の『山椒大夫』はこのころに材を取った話です。
 このアナーキーな世界こそは「乱世」と呼ぶにふさわしい。歴史を曇りなく見るためには、有名大名の天下取り物語ばかりに注目するのではなく、こういう「面白くない」部分に少しばかり視線を移す必要があります。最近、呉座勇一氏の『応仁の乱』(中公新書)が意外な売れ行きを示しているそうですが、これはよいことです。応仁の乱は、一休が生きた無秩序そのものの世界の必然的な帰結だったと言えるからです。
 いわゆる「戦国時代」とは、新しい秩序が建設されつつある時代、これに対して室町中期は、政治的経済社会的のみならず、文化的にも古代的なものが完全に壊れていく時代とまとめられるでしょう。
 こういう時代に生を受けて禅宗徒となった一休は、まさに神も仏もない社会崩壊を目の当たりにし、実存的な「空虚」を生きていたわけです。この実感が深ければ深いほど、持ち前の「まじめさ」は、来世など当てにせずこの現世をしたたかに生き抜く肯定的ニヒリズムとして現れ、また詩魂の自在な表出へと転化していったと言えるでしょう。

《やきすてゝはいに成なは何物か のこりてくをばうけんとぞ思ふ》

《出るとも入とも月を思はねば 心にかゝる山の端もなし》

《もとの身はもとの所にかへるへし いらぬ佛をたつねばしすな》

        (以上いずれも『一休道歌』[禅文化研究所]より)


 冒頭で多くの史家、作家が一休の思想的文学的表現を伝記的事実と思い違いしていると書きました。たとえば諸家がこぞって関心を示すテーマですが、『狂雲集』の巻末には、晩年の一休と盲女・森との劇的な出会いと結ぼれの強さを詠った詩が集中していて、その露骨な性愛表現が昔から問題とされてきました。
 森という女性が一休に帰依して側に仕えていたことは記録から確実のようです。しかし彼女が盲目であったという証拠はありません。二人の性的耽溺の記述や彼女の恩愛を忘れたら永遠に畜生道に落ちるといった述懐は、柳田氏の指摘するとおり、どうやら巧まれたフィクションのようです。
『狂雲集』の最後にこれが置かれているのは、一つの宗教思想の終着点を表わしています。それは生き生きと眼前にあって手で触れられその美を愛でることができるものこそ信仰を傾けるに値するのだという思想表現なのです。
 盲目の女性との愛の生活という設定は、見捨てられた衆生は現世的なエロスの出会いによってこそ救済(幸福)への道筋を見出すという考え方にいかにもふさわしいではありませんか。だから『狂雲集』の一休は「まじめな」しかし「ひそかな」棄教のためにこれを書いたのだとも言えるでしょう。

 死までの二十五年間の大部分を薪村の酬恩庵で過ごした一休の元には、著名な能楽師、連歌師、茶道家、絵師などが何人も慕い寄ってきました。彼の「風狂」はここにおいてこそ「風流」の華を咲かせたのです。
 このことは同時に、彼こそが、人間の真実の道を追求するものとしての仏教の「彼岸主義」を、この日本において終わらせたことを意味しています。そうしてその必然的な結果として、古代とはまったく違った新しい美意識と快楽の世界が開かれたのです。一休はその結節点に立っていたと言えるでしょう。


憲法改正と「橋下大臣」

2017年06月06日 20時52分25秒 | 政治

        





安倍総理は、2020年までに憲法を改正し、9条1、2項はそのままにして新たに自衛隊の存在を盛り込む考えを今年の憲法記念日に明らかにしました。
あたかもこれに呼応するかのように、5月31日、日本維新の会法律政策顧問の橋下徹氏が現職を辞しました。
両者の間には関係がないといっても、「そりゃ聞こえませぬ」ですね。

憲法改正は自民党の党是であり、悲願と言ってもよいでしょうが、これまで同党では、改正憲法草案の作成、96条(改正条規)の改正や9条2項の削除の可能性模索など、さまざまな試みがなされてきました。しかし時期尚早ということで見送られてきました。
国際環境の激変を思うとき、これはまことに残念なことです。

私事にわたりますが、筆者は改憲論者です。増補版『なぜ人を殺してはいけないのか』(PHP文庫・2014年)という本の中で、自民党草案や産経新聞草案の不徹底性と冗長性を批判しつつ、主として次の二点を主張しました。

1.思想の言葉として憲法について語る場合、「改正」について喋々するのではなく、その目標を断固として自主制定憲法におくべきこと。
2.とはいえ、国内外の政治情勢に配慮せざるを得ないため、実際には9条2項(*)の削除のみで発議に打って出るべきこと。

(*)「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

つまり理想は理想として掲げ、現実には現実的に切り込む二刀流を主張したわけです。
筆者はこの考えで、1の自主制定憲法の草案を作ってみました。
ちなみにこの草案では、国防軍の設置など謳っていません。当たり前のことをいちいち憲法に書き込む必要はないからです。ただ内閣総理大臣は、その職務として「軍の最高指揮権を持つ」ことと「現に軍職であってはならない」こととが謳ってあるだけです。

なお書物にする以前の草稿段階ですが、以上の主張と草案とは、当ブログの以下のURLでご覧になれます。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/f923629999fb811556b5f43b44cdd155
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/2aff34e653f463326a618d7e7376983f

さて今回の動きについては、次の二点について考える必要があります。いちおう両者は切り離しましょう。

1.9条をそのまま残して自衛隊の存在を新たに書き込むという安倍総理のアイデアは適切か。
2.橋下徹氏を、憲法改正を成立させるための要員として起用することは適切か。

まず第1の問題
筆者自身は、安倍第二次政権成立後間もない時点で、2項削除ならぎりぎりのところで国民的コンセンサスを得られるだろうし、アメリカも承認するだろうと踏んでいたのです。しかし、その後現在に至る騒然たる国民感情のうねりなどを見ていると、どうやらそれも怪しく、安倍総理の苦肉の策のような形をとるしかないのではないかと思うようになりました。
理屈を言えば、2項との整合性がどうの、といろいろ議論があるでしょうが、そこは文言次第でうまく切り抜けられるかもしれません。たとえば自然災害、他国侵略などとは一切書かず――
国民の生命、財産の安全を保障するために、自衛隊を置く」

安倍総理のアイデアについては、公明党はすでに理解を示しています。自民党内では、何の経済知識もなく政治家としての確たる識見も持たないただの親中派・石破茂氏のような「有力者」が、ポスト安倍を狙うためだけのために、さっそく難癖をつけているようですが。
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20170601/plt1706011100001-n3.htm
この種の人たちを懐柔するために、自民党憲法推進本部は、これまでの幹部会9人体制から一気に役員会21人体制に拡大し、その中に石破氏も含めるそうです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170606-00000041-mai-pol

まあ、筆者なりの理想からはずいぶんかけ離れてしまいますが、国論をいたずらに四分五裂させないためにも、この日本式政治手法は仕方がないでしょう。トランプ方式は危険。

第2の問題(以下の文章には筆者の推定が混じります)。
橋下徹氏という人は、天才的なデマゴーグです。
この人が今回、日本維新の党の顧問役をやめたのは、明らかに憲法改正に関して安倍総理に直接「協力」するためです。
もともと日本維新の会は改憲に賛成の立場ですから、その点では整合性があります。
しかし、彼は人も知るように、かなり前から安倍総理とは蜜月を送ってきました。そこには、橋下氏なりの明白な目算があります。一政党の党首として国政選挙に打って出て、多数の国会議員の一人として仕事をし、そこで力を蓄えるというのはいかにも迂遠な道です。
橋下氏は、どうすれば権力の中枢にいち早くたどり着いて自分のしたいように政治を動かすことができるか、その秘訣を初めからわきまえているのです。
あの竹中平蔵氏などを見ていて、そのやり口を学んだのかもしれません。

安倍政権は、テロ等準備罪の成立を是が非でも今国会中に果たして(それは当然必要なことですが)、9月に内閣改造を行って体制を建て直し、それから憲法改正に力を注ぐつもりでしょう。
永田町周辺では、この内閣改造の際に、橋下氏が「民間大臣」に抜擢されるのではないかともっぱら噂されているそうです。十分ありうることです。まさに橋下氏の狙い通り。
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20170601/plt1706011100001-n1.htm

当の安倍総理はどう考えているのか。
もちろんその心のうちを「忖度」することはできませんが、彼がほとんど外交的軍事的な安全保障のことしか頭にないために、利用できるものは利用してやろうと思って、橋下氏を側近に近づけていることは確かでしょう。
「彼は日本の安全保障政策に関して自分と共鳴できる数少ない一人だし、住民投票の経験者だから、国民投票になった時に人心のつかみ方をよく心得ているだろうし……」
これこそ危険な一歩への踏み出しというべきです。

安倍総理は、橋下氏が大阪都構想(特別区設置構想)の賛否を問う住民投票(2015年5月)の際、どうやって大阪市民を騙したか知っているのでしょうか。
彼はまず、市が特別区群として解消されたからといって、「大坂都」なるものが、現行法規上は成立しないことを正しく伝えませんでした。
また、投票用紙には特別区を設置することの是非を問うのみで、「大阪市を廃止して」とは書かれていませんでした
また、府は2012年に負債が18.4%に達し、起債許可団体(**)に指定されており、橋下氏は、府のこの窮状を、潤沢な市の財政の一部(2000億円超)で肩代わりさせるつもりだったのに、そのことを市民に伝えませんでした。
また、「特別区」なるものが東京都の区と同じように、区民としての独自の権利を奪うものであることを伝えませんでした。
さらに、この都構想(特別区設置構想)なるものは、それを記した協定書が2014年10月に市議会、府議会でいったん否決されているにもかかわらず、その後の公明党の寝返りなどもあり、半ば無理やり住民投票に持ち込まれたものです。これでは代議制民主主義が正しく活かされたとは到底言えません。

(**)総務省の許可を得なければ新たに借金できない団体

こうした手法を平気で用いる橋下氏という人を、安倍総理は、改憲に有利だからという理由だけで重用し、「民間大臣」の座に据えようとしているのでしょうか。
多くの首都圏在住者は、あの「大阪都構想」を、しょせんは関西という一地方のこととして、高みの見物を決め込んでいたようです。しかしもし彼が「民間大臣」などになれば、今度は、国民全体にかかわる問題の帰趨を天才的デマゴーグの手にゆだねることになるのです。
橋下氏はさぞかし辣腕をふるって安倍「お坊ちゃん」総理に「協力」し、彼から称賛を勝ち得ることになるでしょう。さらに枢要な地位を手に入れるかもしれません。
心情保守派もさぞ喜ぶことでしょう。
さてそれからが問題です。
折から財務省の「緊縮真理教」のせいで、デフレからの脱却がままならず、国民の間にはルサンチマンが鬱積しています。ルサンチマンの鬱積は全体主義の土壌です。

かつて筆者は、維新が国会で勢力を飛躍的に伸ばした時、橋下氏を「プチ・プチ・ヒトラー」と称したことがあります。
維新の基本政策は当時と変わっていません。首相公選制、国会議員削減による小さな政府、道州制の採用、憲法裁判所の新設――当時橋下氏にはまださほどの権力がなかったから見過ごされがちでしたが、社会不安が募ってきたときにこれらの政策を強大な権力者が実行すると、どういうことになるか。
はじめの二つが代議制民主主義の破壊に結びつくことは容易に見て取れます。
「道州制」とは、地方自治の尊重に見せかけて、実際には底力を持たない地方の疲弊をいっそう招き、それに乗じて一気に中央独裁に場を与えてくれるような制度です。
「憲法裁判所」とは、法令などの合憲性を判断する機関で、首相または衆議院、参議院いずれかの総議員の4分の1以上の求めで訴えを提起できるとされています。首相が文句をつけさえすればなしくずしに法令を違憲として捨て去ることも可能です。
要するにこれもまた権力集中を高めるのにたいへん都合のよい制度です。
このように、橋下氏の党綱領は、社会不安で動揺した大衆の心理を利用して、全体主義体制に持っていくのにじつに都合よくできているのです。
条件はそろってきました。「プチ」を一つぐらいとってもいい、と筆者は思っています。

幼稚で空想的な平和主義から少しでも脱するために、初めの一歩としては、安倍総理のアイデアは悪くありません。しかしそのために別に橋下氏という黒幕の力を借りる必要はないでしょう。民主的に選ばれた政権が、堂々と提起して国民に信を問えばよい。姑息な点数稼ぎに走ると後でとんでもない目に遭いかねません。筆者は、橋下氏の勝手な国政参加を断固拒否すべきだと、安倍さんご自身に向かって訴えたいと思います。


紫陽花と生きる

2017年06月03日 13時22分48秒 | エッセイ


2年前に今の家に引っ越してきました。
築年数はだいぶたっていますが、庭がわりと広く、いろいろな木が植わっています。
キンモクセイ、ドウダン、サザンカ、ツツジ、ビワ……。

ずいぶん昔、テラスハウスに住んでいて、そのころガーデニングにちょっと凝ったことがあったのですが、その後はさっぱりでした。
今度の家の庭木も、勝手に花が咲くまま、実がなるままにして、格別何もしませんでした。

1年前、青アジサイと赤アジサイの鉢植えを買いました。
ある人からもう一鉢、青アジサイをいただきました。
アジサイがとても好きなのです。
花がしおれたのをそのまま捨ててしまうのはもったいない気がしたので、ホームセンターで土や肥料を買ってきて、三つを庭に植え替えました。

春が来て、裸の茎から若葉が出始めました。
日、一日、どんどん葉が増えていきます。
成長ぶりが毎日気になるようになりました。花がうまくついてくれるといいが……。
5月の初めころだったでしょうか。どの株にもつぼみが二つずつ付きました。
これも毎日のように大きく膨らんでいくのがわかります。
ますます目が離せなくなりました。

6月に入り、まだ一つだけですが、見事に開花しました。
もうすぐ残りのつぼみも開花します。とても楽しみです。
月並みな感慨ですが、自分が「かくあれ」と思って何かを施し、それが期待通りになった時のうれしさは格別です。

庭のアジサイの成長ぶりを眺めつつ、今年も鉢を二つ、青と白を買ってきました。青い方はそろそろしおれかけていますが、白い方はまだまだ元気いっぱいに咲き誇っています。この二つも植え替えようと思っていますが、これでうまく行けば、来年は青、赤、白と計五株のアジサイに出会えることになります。拙宅を「紫陽花苑」と名付けようか、などと勝手に悦に入っています。

私は今年古希を迎えましたが、まだまだしなくてはならない勉強や仕事が残っています。さいわい体はまあまあ健康です。少なくとも来年のこの季節までは元気で過ごし、少しでも期すべきところを果たそうと思っています。紫陽花の開花からは、達成することの大切さを改めて教わり、さらに元気をもらったような気がしています。

  紫陽花に 励まさるるか 古希の筆