小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

落語の魅力(中間報告)

2013年11月10日 14時05分54秒 | 芸能
落語の魅力(中間報告)

 去年の秋以来、あるきっかけがあって、ほんの少しばかり、落語にハマっています。手帳の記録を調べてみたら、11月から6月まで、ホール落語に計16回通っていました。一回平均三席として、約50席聴いたことになります。こんな程度でハマっているとはおこがましいのですが。
 中野翠さんの『この世は落語』(筑摩書房)によれば、コラムニストの堀井憲一郎さんは、七年間になんと一万席聴いたそうです。毎日平均四席聴いた勘定。こいつ、半端じゃねえな。どこで稼いでいつ食ってやがったんだ。さしづめ吉原に通いづめる若旦那だな。
 まあ、そういうわけで、私など、まだ現段階で落語について語る資格はないのですが、それでも、「ひいき」にしたくなる師匠が出てまいります。
 中堅どころでは、柳家喜多八と古今亭志ん輔。若手では、柳家三三と春風亭一之輔。
 志ん生、円生、小さん、志ん朝など、いまや古典的な名人として知られる人々の噺をYouTubeやCDで少しばかり聴いてみましたが、私はやっぱりライブがいいですね。なぜって、何しろ師匠たちが目の前で語りかけてくれます。ひとつひとつのしぐさも目が離せません。そうして、一人語りで立ち上がる「はなし」空間の中へ、身も心もすっぽり包まれていくような気分にさせられるからです。
 落語というと、ジャンルとしては古典芸能ということになるのかもしれませんが、むしろ「いまここで」行なわれている現代芸、という要素が強いように思われます。と、これはある人からの受け売りなんですが。
 じっさい、噺家たちも、基本のネタを古典からとりながらも、そのつど客席の雰囲気との交流を通してアドリブを多用しているようで、それが会場を生き生きとさせるのですね。いまの話題を枕にしながら、スーッと本題に入っていく。その間合いと呼吸が聴きどころの一つです。また本題に入っても、いまの芸能人ネタや世間の話題、楽屋話、客の反応を即座に話に取り込むなどということが頻出します。
 こないだも、橘屋文左衛門師匠が「猫の災難」をやっている最中に、客席でガタン、と音がしました。すると師匠、すかさず「今なんかヘンな音がしたな。ホントに猫が来やがったんじゃねえか」と。

 少し風向きの違う話をします。
 私は昔からジャズが好きで、高校時代に時々授業サボって渋谷のジャズ喫茶に入り浸ってたなんてことがありましたっけ。
 ご承知のとおり、ジャズは即興演奏がいのちです。だれが作った何という曲を演奏しているかは、極端に言えばどうでもよくて、誰が弾いているか、吹いているか、どんなふうにプレイしているか、だけが問題です。
 クラシックはこれと違って、まずだれが作った何という曲かが問題ですね。そりゃクラシックファンは、1944年のフルトヴェングラーがどうだとか、グレン・グールドのゴールドベルク変奏曲がどうだとか、いろいろおっしゃいますが、それは初級を卒業して中級以上のファンになった人にとって初めて重要になってくること。まずはバッハの何、ベートーヴェンの何、ということが問題です。感動の基本が原曲に宿っているからです。
 それが証拠に、あなた、クラシックのコレクションは作曲家によって分類されますが、ジャズのコレクションは、はじめからプレイヤーによって分類されているでしょう(ポップスや演歌もそうですけどね)。
「枯葉」と言えば世界中の人が歌ったり演奏したりしていますが、ジャズでもたくさんの人がやっています。でもまず思い浮かぶのは、「サムシン・エルス」でのマイルス、コルトレーン、キャノンボール・アダレイのあれですね。違うプレイヤーの「枯葉」は、それはそれでまったく違った曲です。
 私が何を言いたいか、もうお分かりと思いますが、そう、落語ってジャズに似ているんですよ。原曲や古典をネタにしながら、どうそれを「いまここで」処理するか。そのことが決定的です。だから、ビギナーにも、ごく自然に「ひいき」ができてしまうんですね。
 落語のもう一つの魅力は、ことに人情話について言えることですが、笑わせながら同時に泣かせるという点です。あんまりおかしいので涙が出てくる、というのとも違う。大げさな話を通じて、私たちがふだんは示さないような、また出すのをはばかるような深いところにある「情」を引き出して見せるんですね。だからウソ話のくせに、「そうだね、人間てこういう風だよね。変わらないね」と納得させられてしまいます。浅ましさと意地と見栄と、そして最終的には相手のために一肌脱ぐ心意気。これが泣かせどころなんですね。
 バカ正直者同士の意地の張り合いからくる思わぬくいちがい。どうしようもない道楽者がふとしたきっかけで命をかけて人助けに手を出してしまう。いけ好かない野郎をみんなでとっちめてやろうと計画して失敗する。女の手に触れたこともないような堅物がまわりの助けによって人もうらやむような幸せをつかむ。まあ、どれをとってもありえないような話ばかり。それでも、というべきか、だからこそ、というべきか、人生の哀歓をこもごも味わってきた私たちの共感を誘うツボを心得ていることは確かです。
 楽しいとき笑い、悲しいとき泣く、なんて嘘じゃねえのかな。そんなふうに思っている間はまだガキで、笑いと泣きは、反対の情動じゃなく、意外と重なっているのかも。これを言い換えるに、しみじみとした人情に触れない笑いはつまらないし、ただ泣き叫ぶ悲しみの表現は白ける。私の偏見と食わず嫌いですが、吉本系のお笑い(たとえばDT)って、ちっとも面白いと思わないんですけど。
 大旦那と若旦那と番頭、貧乏長屋の大家と店子、武士と町人、ご隠居さんと熊さん八っあん、兄ぃと弟分、道楽おやじとけなげな子ども、花魁と客と若衆、弱気亭主と強気女房――落語のキャラってだいたいパターンがきまっていますね。これって一種のマンネリズムですが、だからこそ永続性をもっているんじゃないだろうか。
 ちょいと、あなた、自分の身の回りを考えてみてください。こういうパターンて、現代の人間関係にも応用可能で、だいたい直接的な人のつながりの世界を網羅できているんじゃないでしょうか。身分制社会の何とか、なんて野暮なことおっしゃっちゃ困ります。

もう一つ。
 落語ではよく、ほとけ、つまり死人が出てきます。話中に死んだり、幽霊として出てきたり。しかし概して、生き死にを突き放して軽く扱うんですね。そこには主人公自身の命の問題も出てくるわけですから、それをも笑い飛ばすということは、話そのものが相当胆の座った根性をもっていることになります。
 いずれくたばる、これだけはどうしようもねえや。次から次へと死んでいって、これといってなすすべもなかった時代。いまだって本質は変わっていないのですが、こういう避けられない人間の運命をそのまま引き受けて、そうしてその地点から人間自身を笑ってやろうという感性が否応なく育ったのでしょう。まあ、これは言ってみれば明るいニヒリズムですな。
 私などは、ここに文化の爛熟から生まれた思想の成熟(笑)を見る思いがします。現代は、妙にしかつめらしく、大した命でもねえのに、やれ「命の尊厳」とか、大して害もねえのに、やれ何ミリシーベルト、とか騒ぐ人たちで溢れているようで、こういう手合いには、てめえら、落語の根性を煎じて飲め、などと、過激なことを時たま口走りたくなります。
「おまぃさん、ずいぶん大きな口きいてるようだけど、うちの金坊にもしものことがあったら、責任とってもらうよ」
 あ、ご勘弁、ほ、ほんの時たまでございます。

しつこくもう一つ。
 落語は一人語りですが、これはだいたい、ちょいと左向き、右向きして対話を繰り返すのと、モノローグに耽るスタイルを基本としていますね。ナレーション部分は極端に切り詰められています。
 で、モノローグの場面では、たいてい登場人物が、一人で勝手に妄想から妄想へと突っ走ります。「小言幸兵衛」「不動坊」など。全部夢だったなんて落ちもよくあります。
 ところでこのスタイル、対話形式の場合も、演者が一人ですから、じつは全部こいつの妄想なんじゃなかろうか、と言いたくなってくるんですね。全然、「客観的」なディスクール(言説)じゃなく、極めて私的な世界です。何しろ話がとんでもない方向に発展していくからです。
 川島雄三監督、フランキー堺主演の『幕末太陽伝』は、いくつかの落語を手本にしていますが、なかでも中心をなすのは、「居残り佐平次」という話。この話は、品川の遊郭を舞台にした、登場人物がおそらく十人を超える、絢爛たる展開になっております。これを一人でこなす噺家の芸もすごいですが、私が興味を覚えるのは、これが絢爛であればあるほど、ファンタジーのとんでもなさを表わしている点です。しかもとんでもなければとんでもないほど、そこに鮮やかな世界が立ち上がってきて、とにかく面白いんですね。

 さてよく考えてみると、言葉の芸術の本質は――なぁんてね。噺家さんたち、芸術などと言われて、照れないでね。でも、ホントの話、小説にしろ,詩歌にしろ、お芝居にしろ、言葉の芸は、みな妄想を豊かにしていって、そこにこれまでの世界とは違った世界を切り開いてみせ、そうして私たち自身の生き方を新しく創造していくのではないでしょうか。
 これはじつは芸に限らず、私たちの日常の言語生活でも同じで、落語はまさに庶民の日常言語に徹して妄想を繰り広げていくので、それは、いちばん身近なところで言葉の本質に忠実な営みをやっているのではないか、というのが、この中間報告の一応の結論であります。
 ただし申し添えますが、一人の妄想が人々の共感を勝ち取るためには、その妄想を紡ぐ人が、単に伝統的な語り芸を磨くだけではなく、妄想の基盤となる豊かな人生修行を積んでいなくてはなりません。ちなみに、冒頭、中堅どころ(今が旬、ですね)としてご紹介した喜多八師匠は当年63歳、志ん輔師匠は当年59歳です。
 つい調子こいて、エラそうなことを申し上げました。へい、おあとがよろしいようで