小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源19

2014年01月20日 01時08分21秒 | 哲学
倫理の起源19



 さて、「自由」の概念の使い方についても「意志」と同じことが言える。
 よく知られているように、カントは「自由」を道徳の存在根拠(人間社会で道徳が成り立つための必須条件)と考えた。しかし、ふつう自由という言葉はそういう含意で使われることはめったにない。むしろ身体の拘束や義務が強いてくる強制感や社会規範の息苦しさや生活のしがらみから解放されたときの何とも言えない実感を指すことが圧倒的に多い。
 ところでこのカントの逆説的な用法は、彼の倫理学を理解するうえで非常に重要な意味を持っているので、あっさり「そんな使い方はおかしい」と否定する前に、彼自身の言い分をじっくり聞いてみることにしよう。
『実践』のなかでカントは、「始めにわれわれに自由の概念を見つけてくれるものが道徳であ」る(道徳は自由の認識根拠)と述べたあとで、人間実践の領域では、「自由」が自然法則(人間の心理的な機制も含む)よりも必ず優位に位置すること、しかもそれが道徳的な理性に直接結びついていることを、次のように具体例を挙げて説明している。

 しかし後者(自然機制――引用者注)は少なくとも現象の説明に役立つのであるから、もし道徳的法則と実践理性とが加わり来って自由なる概念をわれわれに強いなかったならば、自由を学問に導入するという冒険を決して企てなかったであろうということである。しかしながら経験もまたわれわれのうちに前に述べた概念のこのような順序を確証するのである。或る人が自己の情欲に関して、もし愛好の対象とそれをうる機会とが出現するならば、彼はこれに対してまったく抵抗できないという場合を仮定しよう。そこでもし彼がこのような機会をうるところの家の前に、彼がその快楽を満足せしめたのちはただちに吊るされなければならない絞首台が立てられているとするならば、彼は果してその時に情欲を抑制しないであろうかどうかを彼に問え。彼がいかなる答えをなすであろうかは、長く憶測するを要しない。しかし彼の主君が、虚偽の口実をもって殺そうとする正しき人に対して不利な偽証を挙げることを、即刻の死刑の威嚇のもとに彼に命ずるとしたならば、彼は自己の生命に対する愛がいかに大きなものにしても、この愛に打ち勝ちうると思うかどうかを彼に問え。彼が実際にこのことをなすかなさないかは、おそらく確言をあえてしないであろう。しかしこれをなすことが彼に可能なことは、躊躇なく認容するに違いない。すなわち彼は、或る事をなすべしということを意識するがゆえにそれをなしうると判断し、また道徳的法則がなければ決して知られなかった自由を自己のうちに認識するのである。(『実践』第一篇・第一章・第六節)


 ごく普通の人の心理に援軍を求めた、なかなか説得力のある二つの事例である。はじめの例は、いま情欲を抑えないと殺されてしまうという経験を通して、人は、自分には情欲を抑えるだけの道徳性が備わっていることを認識できるというのである。またあとの例は、従わなければ殺すと脅迫されて偽証させられそうになったとき、それを実際に拒否できるかどうかは別として、少なくとも拒否という選択の「自由」があることだけは認識できるというのである。
 ごく普通の人でも、せっぱつまった状態であれば必ず道徳的な振る舞いとはなんであるかが呼び起されるので、その喚起を通して「自由」の認識に到達できるとされている。どんな凡庸な人でも、限界状況に接すれば、最も高邁な精神の自由を自覚する可能性をもっているということであろう。よくできた論理で、反論は不可能であるように見える。しかし、現実感覚を取り込みながら、もっと突っ込んで考えてみよう。
 結論から先に言うと、「自由」という概念全体と道徳との間には、必然的な関係はない。自由が道徳の存在根拠なのでもなければ、逆に道徳が自由の認識根拠なのでもない。
 前者について言えば、道徳律が存在するために必要なのは個人の自由ではなく、共同体の長きにわたる慣習なのである。「人を殺してはいけない」とか「他人の物を盗んではいけない」とか「嘘をつくべきではない」などの具体的な道徳律は、人間が自由であるから発生してきたのではなく、共同体がおのれの存続維持のために必要とするところから発生してきたのである。
 また、なるほど個人がせっぱつまった状況で凛として道徳的にふるまうことのうちに、「精神の自由」を実感することはたしかである。だがそれとても、なぜある選択がより道徳にかなうものであるという判断が成立するのかといえば、それは共同体が最もよしとする精神をおのれの身に引き受けるからこそであって、そのことが可能であるためには、彼はすでに共同体の精神を身体的・情緒的に学習していなければならない。
 先にカント自身が出した二つの例に即して言えば、こうなる。
 初めの例では、情欲の虜になることの先に必ず絞首台が待ち構えているというようなきわめて特殊な想定があれば、なるほどどんな人も情欲を抑えるという「道徳的」選択をするだろう。しかしそのことは別に「自由」が道徳の存在根拠であることを証明しているのではなく、単に命が惜しいという自己保存本能にもとづく知恵に根差すものに他ならない。この知恵も、それまで共同性の中で生きてきた経験から、過度を避け均衡を重んじる生き方のほうが自分の生命を維持する賢いやり方だということを学習した結果得られたものである。
 このことは、文脈からして、カント自身も理解していたようである。二つの例を出すに先立って、道徳の存在を自覚してゆく「順序」ということを言い、単なる命惜しさから情欲を抑えるはじめの例を出したのちに、「しかし」と続けているからである。初めの道徳的態度の実現は、カント流に言えば「功利的な動機」であるということになる。これはまだ真の「自由」による道徳性の自覚には至っていない。つまり、殺されることを覚悟しつつ偽証をしない選択をなしうると認識できるあとの例こそ、「自由」が道徳の存在根拠である事実が、凡庸な人にも理解されている証拠であるというのである。
 しかし、この場合も、凡庸な人がなぜ、どこからそのような理解を得て来るのかと問うならば、次のように答えるほかはなかろう。すなわち彼は、何が名誉ある気高い精神として称揚されるかということを、共同性のなかを生きる経験から学んできたのである。その名誉ある気高い精神とは、多くの同胞のために進んで自らの命を犠牲にするという行動への意志である。
 この意志は、経験から遊離したア・プリオリな「自由」のうちに存するのではなく、まさに「たとえ強いられた場合でも卑怯な真似をしてはならない」という公共体が要求する最高の精神を彼が生の経験史を通して学習し、その片鱗を内在化したところに初めて成り立つものである。そうしてこの公共体の精神はまた、永い人類史の中ではぐくまれてきたものに他ならない。
 彼は確かにこの限界状況的な設定を突き付けられて、可能性としての「選択の自由」を認識するだろうが、それは単に学習された道徳規範の存在を主観的になぞっているに過ぎない。
 このように、カントには(一般に「哲学者」には)、物事をとらえるにあたって、歴史的・経験論的・発達論的な観点が欠落しているのである。

 なるほど、カントが道徳とか道徳法則というとき、彼はこの言葉をけっして個々具体的な道徳律の意味では用いず、必ずただ形式的な「道徳性」、最高度に抽象的な「道徳的理性」一般の意味で用いている(つまり彼の言うア・プリオリな概念)。それは見事に一貫している。だからこそ、道徳法則の定言命法では「あなたの意志の格率(マキシム)が常に同時に普遍的法則に一致するように行為しなさい」「理性的存在である他人や自分を単に手段としてのみでなく、常に同時に目的として扱いなさい」とだけ言って、「これこれの道徳律を必ず守りなさい」とは絶対に言わないのである。そして何が普遍的法則(至上命令)であるかは、それぞれの人の行為のそれぞれの局面で、必ず内的に(ア・プリオリに)理解できるという考えに立っている。
 これは別にカントが具体的に指示することから逃避しているわけではない。道徳法則というものは、そういうかたちでしか絶対的な法則として成り立たないのだという、彼なりの形而上学的な思考にきちんと沿った考え方である。
 しかし、そうであればこそ、この思考様式からは、「なぜある局面では、かくかくの道徳律や義務に従うことが正しいのか」という問いに応える用意が原理的に生まれてこないことになる。
 彼の言う「自由」は、道徳法則への服従行為としての「義務」を必ず含む。しかし、いったいに普遍的法則が具体的になんであるかを規定せずに、「これは私の義務である」という感覚を抱けるであろうか。そんなことは論理的にも実態的にも不可能であろう。だが、なぜそういうことになるのか。
 これは、個人の選択の「自由」という意志のあり方を道徳の絶対の存在根拠としたところから必然的に導き出される帰結なのである。しかし理性的存在としての人間はいつも自然の傾向性から自由に、普遍的な道徳法則にかなうように行為を選択できる可能性をもっていると言っただけでは、判断の基準がいっさい与えられず、どう行為することが普遍法則にかなうことなのかいくらでも議論が可能になってしまう。
 カントは『原論』のなかで、四つの「義務」についての格率の例を挙げて、それらがいずれも普遍的法則には当てはまらないことを証明しているが、では何が普遍的法則に当てはまるのかについては、頑固に口を閉ざしている。あらゆる自然法則からの「自由」に道徳の根拠を見出そうとするカントの採っている形式論的な方法原理からすれば、当然そうなるのである。
 これに対して、共同体が歴史的に培ってきた精神的な慣習こそが具体的な選択を可能にすると言えば、一見、多様で特殊な共同体のありようのうちの一つを絶対化するか、そうでなければ多様性のすべてをそのまま認めて価値判断を停止する相対主義に落ち込んでしまうように見える。しかしじつは、その共同体の精神のもつ視野が広くなれば広くなるほど、人間の普遍への道は、地に足をつけて具体的に開かれてゆくのである。カントを批判したヘーゲルは、そのことをよく心得ていた。
 カントはあたかも「普遍的な道徳法則」なるものが具体的な規定抜きに、経験を超越した場所ではじめから存在するかのように想定している。だがそうではなく、反省や後悔やとらえ直しを繰り返す私たちの歴史の歩みのひとつひとつが、ほんの少しずつでもたがいにより良い関係を築いていこうとする志向性に針路を与えるのである。「自由」が道徳の存在根拠なのではなく、ある「慣習」によってこれまでよい(互いに好ましいと実感できる)関係が築けたが、ある「慣習」ではよい関係が築けなかったという経験と記憶と知恵こそが道徳の存在根拠なのである。
 しかもこうした歴史的・関係論的な人間認識にもとづいて道徳の存在根拠をおさえることによって、では、何がお互いに好ましいと実感できる関係の原理なのか、という次なる問いが生まれてくる。私は、正しく理解された功利主義の原理がそれに相当すると考えているが、功利主義(たぶんベンサムに代表されるような)を最も嫌って攻撃した当のカントの前にそれをぶつけても、彼が私の議論をまともに受けつけるとは思えない。なぜかと言えば、そもそもカントは「幸福」の概念を個人の自愛と結びつけてしか考えることができなかったので、そういう自己と他者との単純な二元論にもとづく痩せた人間認識に固執するような人がこの議論に耳を傾けるはずがないからである。そういうわけだから、功利主義とは何かについてはのちに論ずることにしよう。

 次に、後者の「道徳は自由の認識根拠である」という命題について述べよう。
これについては、ある限界状況のような局面に立たされて選択を余儀なくされるような場合には、たしかに道徳的態度を選択することを通して、自分が自由な存在であることを自覚できるであろう。しかし、それは、自由を認識するための一つの特殊な場合にすぎない。カントの持ち出している例は、そういう場合だけを想定しているが、このことから件の定式を導き出すことは、二つの意味で間違っている。
 一つはすでに述べたように、私たちが「自由」という概念を用いるとき(この言葉を実感するとき)、それはほとんどの場合、窮屈な法則や規範やしがらみや奴隷的拘束からの解放を味わう場合である。ところが、カントのように、そうした通常の使用にあえて逆らって、道徳や義務への服従を自律的に選択するという意味でのみこの言葉を用いるなら、それは同時に、ある至上の法則、神、最高善といった絶対的な理念の奴隷になることを意味する。これはまさにルターが『キリスト者の自由』で説いた「神の奴隷」の境地とまったく同じである。それは、人性をわきまえない童貞牧師の教条主義であろう。こういう原理主義が、人類史の中でかえって悲惨な闘争や殺戮の繰り返しに大きく加担してきたのではなかったか? 
 もう一つは、これもすでに述べたことであるが、道徳というものを、何か特別な状況において選ばれた人間によって発揮される「崇高な」「美談になるような」「理想的な」現象とみなすことがそもそもおかしい。私たちは、普通の日常生活において、勤勉に仕事をこなし、家族と共に寝食し、人を傷つけず、大過なく一日を過ごすならば、それだけでじゅうぶんに「道徳」的なのである。なぜなら、その場合私たちは、何も禁止を破らなかったし、平和を守ったし、秩序を尊重したし、他人をも自分をも不幸に陥れなかったからである。このような平和で幸せな生活を許すものは、その当人の「崇高な」道徳的理想などではありえない。それは、社会のよき慣習であり、そのような慣習を支え持続させるに足る社会や文化の安定した構造である。
 この安定した構造のただなかを生きることにおいて、人々はいちいち自覚的に「道徳法則にかなう自由な選択」などをしていない。「すべきことをした」「本当にしたいことをしている」「したくないことをさせられている」などと感じるのは、行為(ふるまい)を反省した時の自己意識の証言にほかならず、日常的な行為(ふるまい)は、もっと何気なく行われており、それでいて、ちゃんと道徳にかなっているのである。
 このように道徳というものを考えるとき、道徳は「自由」を認識(自覚)させる根拠としてあるのではなく、むしろ平穏でしあわせな毎日を存続させる根拠としてあるのである。道徳が「自由」の認識根拠となるのは、まさにあれかこれかを自覚的に選択すべき岐路に立たされるようなごく限られた場合だけである。

これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(9)

2014年01月17日 03時37分54秒 | ジャズ
これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(9)

*友人が助けてくれて、動画をアップすることができました。どうぞゆっくりご覧(お聴き)ください。

 だいぶ間があいてしまいましたが、ジョン・コルトレーンについて書きます。
 間があいたのは、サボっていたわけではありません。選曲で悩んでいたのです。このジャズ界の巨人について書く場合、選曲で悩むのには理由があります。一つは、もちろん、たくさん名演があってあれも捨てがたい、これも捨てがたいということがあるからですが、コルトレーンに関しては、次のような理由もあります。

①彼の演奏には10分を超える長いものが多く、ライブ演奏では30分、1時間などというのもあるので、あまりたくさん紹介すると、聴いてもらえないのではないかと心配である。
②テナーサックスの演奏では、どちらかというと、主役になってからよりもマイルス・デイヴィスの楽団でのプレイのほうがいいものが多いように思う。するとコルトレーンを紹介するつもりが、マイルスの音楽を紹介する形になってしまう。マイルスの音楽の素晴らしさについては別途扱いたい気持ちがある。
③コルトレーンの名が世界的になったのは、彼がマイルスから離れてほどなく、ソプラノサックスを吹き始めてからである。こちらを重んじると、ソプラノの演奏ばかり紹介することになり、テナーへの視線がないがしろになるのではないかと恐れる。

 まあ、そんなわけでけっこう悩んでおりました。でも決めました。

 コルトレーンという人は、ひとことで言うと、ジャズの求道者という趣があります。きわめてまじめで努力家、どうしたら自分の音楽を表現できるかということをいつも必死になって考えていたようです。だから彼の演奏には、あまりユーモアとか、余裕とか、天才性とかが感じられません。この点、同じテナー奏者でもソニー・ロリンズとの違いがはっきりしています。ロリンズの場合は、才能に任せて即興で唄いまくるので、聴衆は思わず乗せられてしまうのですが、コルトレーンは、一歩一歩積み上げていくというタイプですから、聴く側にとってはけっこうハードで、きちんと付き合うためにはそれなりの覚悟が必要となります。
 などと余計な能書きを垂れると、当時のジャズシーンのなかで、彼がどんなに力強い、オリジナルな世界を創造したかという事実に水を差しかねませんので、まずは最も有名なアルバム、「マイ・フェイヴァリット・シングズ」から、タイトルテューンの「マイ・フェイヴァリット・シングズ」を聴いてください。パーソネルは、マッコイ・タイナー(p)、スティーヴ・デイヴィス(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)。

マイ・フェイバリット・シングス- ジョン・コルトレーン


 この曲でコルトレーンは、ソプラノサックスを吹き、そのユニークな演奏で一躍名を馳せました。原曲は映画「サウンド・オヴ・ミュージック」のなかでジュリー・アンドリュースが歌っている明るくて健康そのもののような曲ですが、コルトレーンが吹くと、まったく違った音楽のように聴こえます。ジャズの演奏で、よく知られたスタンダードナンバーをテーマに使うということ自体はありふれていますが、彼の演奏は、原曲との融合によってそれまでのジャズでは見られなかった新しい境地を開いたという感じが歴然としています。
 よく考えてみると、原曲の旋律には、もともと西洋音楽風ではない、たとえばアフリカ音楽やインド音楽など、妖しいエキゾチシズムを感じさせる要素が入っているようです。そのことにピンときたのがコルトレーンの発見だったのでしょう。ソプラノを握っている彼の姿、どこか蛇を誘い出す魔術師に似ていませんか。そうして、この「気づき」は、彼自身のその後の音楽の流れを大きく規定していくことになります。

 先に書いたように、コルトレーンは、マイルス・デイヴィスの楽団でいくつものレコーディングをした後、独立しましたが、その大きな一歩を踏み出すきっかけとなったのが、「ジャイアント・ステップス」というアルバムです。あたかもアルバムのタイトルが彼自身を象徴しているようですね。
 ここで彼はシングルトーンしか出せないテナーサックスという楽器から、いかにして複合的な音(和音)を出すかという積年の研究課題の成果を存分に発揮しています。それは要するに、指を目も留まらぬ速さで動かすことによってなのですが、その成果はともかく(というのは、この実験的な取り組みは、あまりきれいな和音を出すというところにまで至っていないように思われるからです)、このアルバムは、全編彼のオリジナル曲であり、むしろその点で彼らしさがとてもよくうかがえるアルバムです。いい曲がいくつもあります。ではその中から、唯一アップテンポの曲「ミスター・P.C.」。パーソネルは、トミー・フラナガン(p)、ポール・チェンバース(b)、アート・テイラー(ds)。

John Coltrane - Mr. P.C.


 いかがですか。この演奏にも彼の生真面目さがよく出ていると思います。このころの彼の演奏には、ほとんど「間」というものがなく、音で敷き詰められているのですね。調子よく唄う、という感じではありません。
 もう一つ、彼のテナーは、ロリンズ、デクスター・ゴードンウェイン・ショーターなどと比べて音域がやや高く(あるいは高音域←→低音域の移動が激しく)、アルトサックスとあまり違わないように聴こえます(スローバラードではそんなことはありませんが)。それで、マイルス・デイヴィスの楽団で、名アルトサックス奏者キャノンボール・アダレイと共演したアルバムでは、不注意に聴いていると、区別がつかないように感じられます。もちろん、キャノンボールのプレイには彼なりの個性があって、それは、当時のコルトレーンよりも前衛的といってもよいくらいのユニークなものです。
 そんなことも味わいながら、マイルス、キャノンボールとの共演を一曲。前にもご紹介した「カインド・オヴ・ブルー」から、「オール・ブルース」。「マイ・フェイヴァリット・シングズ」と同じく、ワルツテンポの名曲です。パーソネルはほかに、ビル・エヴァンス(p)、ポール・チェンバース(b)、ジミー・コブ(ds)。ソロの順は、マイルス、キャノンボール、コルトレーン、エヴァンスです。エヴァンスの短いハーモニアスなソロも聴きものです。

Miles Davis - All Blues


 ちょっと付け加えますと、この曲でマイルスは、テーマ部分をミュート・トランペットで吹き、ソロパートをオープン・トランペットで吹いています。ミュート・トランペットとは、ラッパの口に音を抑制するための弱音器をかぶせる方法で、ビッグバンドではよく使われます。じつはこれを使ったマイルスの演奏こそ、彼の音楽を最高の芸術にまで高めた秘密なのです。ですから、テーマ部分は何とも言えないよい雰囲気を出していますが、マイルスのソロパートは、いまいち精彩を欠くという感じがしないでしょうか。
 この点については、また語るとして、話をコルトレーンに戻しましょう。
 さて、ソプラノを手にしたコルトレーンの演奏には、数々の名演がありますが、私が一押しとしてお勧めするのは、ライヴ版「バードランドのコルトレーン」における「アフロ・ブルー」です。あまり問題にされないようですが、この演奏における彼のソロは、文字通り、情熱を出し切っているという感じ。そうして、メロディーの美しさと完結性も他の演奏に比べて抜群の出来です。パーソネルは、マッコイ・タイナー(p)、ジミー・ギャリスン(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)。なお、このYOU TUBE版では、テナーでの一曲、「アイ・ウォント・トゥ・トーク・アバウト・ユー」も聴けます。これは例の指を素早く動かす奏法の見本です。余裕のある方はどうぞ。

JOHN COLTRANE Org 1963 Live at Birdland Impress A 50 Mono ~ Side 1


 いかがでしたか。
 マッコイ・タイナーについて一言。「マイ・フェイヴァリット・シングズ」でも言えることですが、コルトレーンとの共演におけるマッコイ・タイナーは、比較的単調な演奏に徹していて、一見、個性がなくマンネリのように感じられるかもしれません。かつてそういう悪口を言った人もいました。しかしそれは間違いで、半分くらい黒子役を演じてコルトレーン・ジャズの雰囲気づくりに大きく貢献しているのが、このマッコイの演奏なのです。彼のピアノは、とても音がきれいで格調が高く、テクニックもフレーズも優れています。現にピアノトリオのアルバムでは、そういう個性を十分に楽しめます。
 もう一つ。じつは、前にちょっと書いたのですが、この演奏に対して私は一つだけ不満があります。それは、エルヴィン・ジョーンズのドラムがうるさすぎることです。エルヴィンは、コルトレーンとの共演を通してものすごく自由になり、黒子役をすっかり捨ててしまっています。両手両足を思うざま使い、ホーンやピアノが主役になっているのもお構いなしに叩きまくる。これはこれで複合リズムというドラミングの新しい奏法の開発を意味するので画期的なことではあります。また、こうした奏法のもとでこそ、コルトレーンもインスパイアされて名演が可能になったのでしょう。それは認めますが、もう少し控え目にした方が、さらに芸術性が高まったのではないか。これは、同時期のこのカルテットの多くの演奏、特にライヴ版に共通していえることです。
 あまり長くなるのでここには掲載しませんが、同じころ吹き込まれたアルバム「インプレッションズ」のなかの「ディア・オールド・ストックホルム」では、以前紹介した名手ロイ・ヘインズがドラムを担当しています。彼はリーダーが考えている音楽への適応力がすごく、ここでもコルトレーンのジャズをよく理解しながら、しかも適度につつましやかです。これとエルヴィンとを聞き比べるとその違いがよくわかります。インパルス版CDのボーナストラックですので、You TUBEではちょっとつかまえにくいですが、興味のある方はどうぞ。

 さて、最後に、以前問題にした「至上の愛」。パーソネルは、同じ四人です。このアルバムは、①受け入れ ②決意 ③追い求め ④賛歌という四つの部分で構成された組曲です。おわかりのように、宗教的コンセプトを前面に押し出したアルバムです。ここでは、はじめの一曲だけご紹介しましょう。

John Coltrane - A Love Supreme Pt. 1 Acknowledgement


 このアルバムは有名ではありますが、私の感想を一言で言うと、モチーフもソロパートも単純で、繰り返しが多く、音楽的な意味でとても評価できません。しかも一曲目の終わり近くで、よせばいいのに、演奏者たちがヘンな声で「ア・ラヴ・スュープリーム」と肉声で唱えます。下手な念仏を音楽に持ち込まないでほしいものです。音楽は自己満足のためにあるのではなく、人に聴いてもらうためにあるのですから。
 コルトレーン、どうしてこんな神がかりになっちゃったの、とこれを初めて聞いた当時から思ったものですが、その気持ちは今はもっと強くなっています。洒脱さの持ち合わせがないからこういうことになるのではないでしょうか。
 これ以降、彼は当時起こりつつあったフリー・ジャズの流れの中に身を投じていきますが、私の独断によれば、評価できる作品はありません。やがて2年半あまり後、肝臓癌のため、40歳の若さでこの世を去ります。あたかも「至上の愛」が、自ら神に召される時を予感したことによる祈りの曲であったかのように。

倫理の起源18

2014年01月11日 02時01分50秒 | 哲学
倫理の起源18



 プラトンのイデア論的な倒錯を、「理性」(キリスト教の神の近代ヴァージョン)というキーワードのもとに、さらに純化された倫理学へと組み上げたのが、『道徳形而上学原論』(公刊時著者六一歳)、『実践理性批判』(同六四歳)におけるカントである。
 カントの倫理学をより深く理解するためには、右の二著を、それらに先立つ『純粋理性批判』(同五七歳)からの連続的な流れとしてとらえることが必要である。
『純粋理性批判』(以下、『純粋』と略記)で扱われているテーマは、簡単に言えば、人間が事物を認識する仕方はどのようになっており、その能力はどのような限界を持つかということに尽きる。この著作で彼は、「理性」という言葉を、もっぱら人間が事物を客観的に認識し、もって経験が可能になるための能力という意味で用いており、そこには倫理的・道徳的な意味合いはいっさい込められていない。
 人間はまず「感性」によって、現象の多様(混沌)としてあらわれるこの世界を時間と空間という直観の形式を通して受け止め、次にそれを「悟性」によって概念化して把握し、そうして最後に「理性」(狭義の理性、純粋理性)によって、「あるものはかくかくである」という総合的な命題にまとめ上げる。ここでの「理性」は、数学に代表されるような推論の能力とみなせばわかりやすい。
 しかし、この能力にはもともと限界があり、その能力を正当なプロセスによって駆使して、たとえば「世界には始まりがあるか、ないか」というような問題を追究しても、どちらの答も可能であるような矛盾に逢着してしまう(純粋理性の二律背反)。またたとえば、「神=最高存在」が存在することを理性によって証明しようとしても原理的に不可能であり、それはただ純粋理性の「理念」として考えられるだけである。しかしまたそういう理念は理性の使用にとって必要不可欠のものであるともされる。
 ここで使われている「理性」という言葉は、以上のような意味合いに限定されているが、これが『実践理性批判』(以下、『実践』と略記)になると、『純粋』で使われていた「理性」という用語は「理論理性」と名づけられて、『実践』において使われる「実践理性」と明白に区別されるようになる。『道徳形而上学原論』(以下、『原論』と略記)では、この区別はまだそれほどはっきりなされていない。
 簡単に整理すると、「理論理性」とは、事物が何であるか、どのようにあるかを推論によって認識する能力、「実践理性」とは、人間の行為とそれを規定する意志に対する良し悪しの判断能力のことである。前者は「万有引力の法則」のような自然法則にかかわり、後者は、「人のためになることをするのはよいことである」というような道徳規則にかかわる。つまり、カントは『原論』と『実践』の二著を通して、「理性」という言葉を倫理的なテーマにまで拡張し、さらにそれを二つに分けたのである。ちなみにこの二著では「理性的存在」という言葉が頻出するが、これはほぼ「人間」を意味すると考えておいて大過ない。
 そこで彼は、「理論理性」では解決が不可能であった「神は存在するか」「人間は自由か」「魂は不死か」といった問題はいずれも実践理性がそれらを肯定することを必然的に要請していると考え、そこに理論理性に対する実践理性の優位という関係を打ち立てる。これも簡単に言えば、理論理性が自らの能力の限界を自覚することは、じつは実践理性のほうからあらかじめ規定されていたことなのだ、という筋書きが展開されたことになる。
 この成り行きは、プラトンが『パイドン』で、あの、アナクサゴラスに対するソクラテスの失望を仲立ちとして、哲学のメインテーマを「何が善であるか」という倫理問題に引き絞っていったプロセスとよく似ている。カントもまた時至って、世界の根源が何であるか、この世はどんな構造をしているか、「ある」とは何かといった認識論的な問題や存在論的な問題よりも、人間はいかに生きるべきかといった倫理問題に哲学の根本的なテーマを見るようになったのである。
 プラトンを論じた折に述べたように、私自身は哲学のこの方向づけ自体を諒とする者であるが、しかし、その基本方向を出発点として、カントがどのような手つきでどんな結論に導いているかという道筋に関しては、まったく承服できない。しかもプラトンに比べると、カントは何とも愚直で真っ正直であり、プラトンのような巧みな「詐術」を用いるほどの文学的な表現力を持ち合わせていない。これはおそらく、近代になって学問としての哲学言語が他の表現様式から分化し、より専門化してしまったことに関係するだろう。しかしいずれにしても、その説に見られる基本的な精神構造がプラトン的な倒錯をそのまま引きずっている点に変わりはない。いや、キリスト教道徳の介在によって、その倒錯の構造はいっそう強化されたとさえ言いうる。それはまさに西洋式倫理学に特有の倒錯を最もよく象徴している。

 これからそのことを、『原論』と『実践』の二著に即して詳しく論じていくが、まず手始めに、次のような問題を考えてみよう。
 カントは、『純粋』において、理性一般を、経験から導き出される能力ではなくいっさいの経験に先立って与えられた能力であると考えた。この経験に先立つことを「先天的(ア・プリオリ)」、経験から導き出されることを「ア・ポステリオリ」と呼ぶ。彼は、実践理性(行為や意志の良し悪しを判断する能力)もまた、当然のごとく先天的(ア・プリオリ)なものとみなしているが、果たして私たちが道徳的判断力と呼ぶ能力が先天的(ア・プリオリ)であると断定できるのかどうか、そう断定できないとしたら、それにもかかわらず、カントがなにゆえそのことに固執したのか、これは問うてみるに値する疑問である。

 しかし先天的認識根源から演繹せずに、経験的証明を引用するこのようなまに合せの手段は、純粋実践理性能力に関しては、われわれに拒まれている。その現実の証明根拠を経験に仰ぐことを要するものは、その可能の根拠からいえば経験的原理に依存しなければならないが、しかし純粋にしてしかも実践的な理性は、すでにその概念の故にこのようなものとは決して考えられないからである。その上、道徳的法則はいわば純粋理性の事実として与えられている。そしてこの事実は先天的にわれわれに意識されるものでありかつ必然的に確実である。(『実践』第一篇・第一章・一「純粋実践理性の原則の演繹について」)

 これは、「実践理性」の概念や道徳律がア・プリオリに与えられているからア・プリオリなのだという同義反復を繰り返しているのみで、何ら「なぜ実践理性や道徳律はア・プリオリだと断定できるのか」という問いに答えていない。続く部分をいくら読んでも同じである。要するにカントは、自分の根拠なき確信(信仰)を語っているだけなのだ。
 この点に関して、カントを「道徳の狂信者」と決めつけたニーチェは、次のように述べている。この場合やり玉に挙げられている概念は、「実践理性」や「道徳的法則」の代わりに、「必然性と普遍妥当性」であるが、批判の文脈は同じであり、右の引用にもそのまま当てはまる。

 そうした信仰がすでに前提しているのは、「ア・ポステリオーリな与件」のみならず、ア・プリオーリな、「経験に先立つ」与件もまたあるということである。必然性と普遍妥当性はけっして経験によっては与えられないかもしれないが、ところでこのことでもって、この両者がそもそも経験なしで現存しているということが、いったい明らかとなるのであろうか?(『権力への意志』五三〇)

 ア・プリオリへのカントの固執は、「信仰」という心理学的問題であった、それがニーチェの答である。この種の「証明になっていない証明」は、『パイドン』における不死の証明がどれ一つとして証明になっていなかったのと同じように、『実践』にはいたるところに出てくる。

 ところで、『原論』に描かれている道徳形而上学の概念枠組みをわかりやすく整理すると、次のようになる。カントが『純粋』からの延長上で道徳問題をどうとらえていたかがよくわかるはずである。

(認識論的レベル)    (原因性)       (法則性)        (原理)
 感性(感覚界)    欲求・傾向・衝動    自然の他律        幸福
 悟性(可想界)      意志        意志の自律(自由)     道徳

 これは要するに、感覚界は他律的な自然法則に満たされた世界であり、私たちがそこにいるときにはもっぱら欲求や傾向性や衝動に支配されており、同時に、それは(個人の)幸福を原理としているが、反対に悟性界、つまり思惟の世界にいるときは自由な意志にもとづく道徳原理を認識するというのである。
 ところが、ここに常識的な言語感覚からみて、どう考えても不自然に思える言葉の用法にふたつ出会う。ひとつは、「意志」(Wille)一般をなぜもっぱら道徳を基礎づけるポジティヴな概念として扱い、「欲求・傾向・衝動」と二元論的に峻別するのか、そしてもう一つは、「自由」(Freiheit)という概念をなぜ自然の他律(自然法則)からの独立という意味にのみ限定するのかという不審である。
 初めの疑問がどうして起きてくるのかといえば、私たちはふつう、「意志」という言葉を、それだけでは道徳的に見て別に善でも悪でもないような、行為をうながす内的な(心的な)力一般として使っているからである。たとえば「今日は彼女とデートしたいので、彼女に電話しよう」と決意するとき、「デートしたい」というエロス的な欲求と「電話しよう」という意志とは、明らかに連続している。またたとえば、「本当はもっと飲みたいのだが、酔っ払って遅く帰宅すると女房がうるさいので、このへんでやめておこう」と決意するとき、飲みたいという欲求をあえて抑える意志の動機は、別に道徳的なものではなく、恐妻家のいじましい習慣的感覚にもとづいている。
 このように、「意志」という言葉は、それを自覚するに至る条件が道徳的なもの以外のなんであってもその使用を許されている。それはもともと、行為の決定条件としてはまだ自覚化されない現実の与件と、じっさいに行為に踏み出すスタートラインとの中間地点における、行為への傾斜の意識一般をさしているからである。それなのにカントは、この言葉を、ことさら道徳的な行為が可能になる理性的な動機という意味にのみ用いている。次の引用を見よう。

 しかるにまたはは常に理性法則によってあるものを意志の対象とするように規定されるところの、意志に関係している。この意志は、対象や対象の表象によって決して直接には規定されないで、理性の規則を行為の動因(中略)とするところの能力である。((『実践』「実践理性の分析論」第二章)

 ここでは「意志」という言葉が、別に道徳的な意志に限らず、行為一般をうながす力を指しているように読める。つまりカントはここで、意志一般の定義を試みていることになる。もしそうであるならば、そこには欲望や衝動や傾向性や、思わずこみ上げる感情や、やむを得ない事情などのさまざまな与件がその前提として含まれてこなくてはならないはずである。ところが、カントは、その意志一般を「理性の規則を行為の動因とするところの能力」であると断定してしまっている。
 しかしまた、読み方によっては、この場合の「意志」が、純粋実践理性にもとづく道徳的な意志のみを指しているようにも読める。もしそうだとすると、意志という言葉で私たちが普通想定するさまざまな他のケース(行動一般を促す意識)は、はじめから排除されていることになる。
 どちらを目指しているのかがあいまいであり、そのあいまいさは、「理性法則」「理性の規則」という形容における「理性」という言葉のあいまいな使い方に起因している。
 なるほど「デートがしたいので彼女に電話しよう」という意志は、自分の欲望を実現するための手続きをきちんと踏むという意味で、理性的な判断だと言えなくもない。また、「女房がうるさいのでこのへんで切り上げよう」という意志は、夫婦関係をこれからも健全に保っておいたほうが身のためだという理性的な判断であるかもしれない。しかし、カントの本来の意図からすれば、そういう「理性」はここでの「理性」とは異なるはずだ。『実践』においてカントが用いている「理性」という言葉は、いつもこうした、いわゆる功利的な理性とは真っ向から対立する「純粋実践理性」(道徳的意志の原因)という意味を担っているからである。もしその線を貫くなら、欲望や功利にもとづく意志はここには含まれないと断るべきであろう。だがそういう形跡はまったく見られない。したがって彼は結局、意志一般をすべて道徳的な原因によるものとみなしていると言われても仕方がない。こうして彼は、「理性」という言葉のあいまいな使い方を媒介として、ふつうの使用法とは著しくかけ離れたすり替えを行っていることになるのである。
 たとえばスーパーの棚においしそうな巨峰が並んでいる。「買いたい──買おう──買う」という、欲望から意志を経て行為に至る一連の過程において、何ら道徳的な(理性的な)要因などははたらいていないし、そもそも意志という言葉を用いるときには、こうしたケースのほうが圧倒的に多いはずである。にもかかわらず、カントは意志を強引に「純粋実践理性」、すなわち道徳的意志の原因に結びつける。
 カントがなぜこのようなすり替えを行わなくてはならなかったのかは明らかだ。それは、後にきちんと批判するが、感覚に従い自然法則に隷属してしまう人間の傾向性をすべて「より低い価値」として向こう側に追いやってしまいたいからである。そして、この暴力的なプラトニズムを敢行した後、人間のもっているものの中で何が救い出せるかと彼は考えた。そのとき、かろうじて取り出せるものは、傾向性にいっさい規定されない限りでの「意志」であると言いたかった。
 たしかにこういう条件をあくまでつけたかぎりで「意志」という言葉を用いるならば、論理的一貫性はそれなりに保てることになる。しかし見てきたように、カントは意志一般の原因が理性であるという強引な設定を敷き、そのうえでそれをいつの間にか純粋実践理性にもとづく道徳的意志の意味だけで用いるというペテンを(おそらくは無自覚に)行ってしまったのである。彼の頭のなかでは、人間の意識活動のうちで道徳的な理性との接点をいささかでも持ちうるものは意志以外にないと考えられたからである。
 だが、いま述べたとおり、「意志」という概念は必ずしも道徳的な理性を原因としている概念ではないし、また、人間の意識活動のなかには、逆に義憤や惻隠の情のように、道徳的「感情」と呼べるものも存在する。
 ちなみに、カントの時代には、道徳を規定するア・プリオリ(経験に先立って与えられているもの)は何かという哲学的な議論が相当さかんだったようだ。彼は『実践』のなかで、「感情」はそれには当たらないという論理を必死になって展開している。要するに「意志」のみが問答無用のア・プリオリであると言いたかったのだ。
 この熱のこもった議論には、ヒロイックな、またファナティカルな道徳感情の昂揚がもたらす危険な逸脱と、その狭隘さを極力避けようとするカントらしい抑制の効いた動機もはたらいているようである。この点に関する限り、彼の理性主義は買うべきところがある。たしかに、「感情」を道徳の根源をかたちづくるア・プリオリとして立てるのは間違いであろう。それが後天的な学習によって個人のなかに次第に根づいてゆくものであることは、初めにも述べた。
 しかし、そもそも道徳が立ち上がる根源の場所を、感覚、感情、悟性、意志、欲求、理性など、個人の心を構成する要素のなかに求めて、そのいずれがア・プリオリかというかたちで問題を構成する方法そのものが、当時の哲学あるいは形而上学の決定的な限界なのである。簡単に言っておくと、ここには関係として人間をとらえる観点がまったくない。これこそは長い間キリスト教を思想風土としてきた西洋哲学の重大な欠陥(それは二〇世紀最大の哲学者といわれるハイデガーにまで及んでいる)なのだが、このことについては後述する。

日本は世界一の「職人国家」

2014年01月09日 18時58分37秒 | エッセイ
 日本は世界一の「職人国家」



 日本のものつくり技術の水準がいかに高いかは、すでにいろいろな方面で言われていることですが、最近の私自身の体験と見聞から、この問題をとりあげてみたいと思います。
 昨年の12月、借家住まいの自宅の屋根・外壁塗装工事が行なわれました。築10年ほどで、さほど劣化しているとも汚れているとも思えなかったのですが、オーナーさんのご希望で10日余りの工事を施工することになったのです。何度も私のところにていねいな事前確認が届き、やがて工事が始まりました。こういう時、借家住まいというのは気楽なものです。ちゃんとやっているかどうか神経をとがらせる必要もなく、ただまかせておけばよい。で、まあ、面白いので、ときたま外に出ては観察しておりました。
 足場を組む。水洗いをする。シートを張る。窓などを汚さないように養生をする。塗装開始。塗装完了。シートと養生を取り去る。足場を解体する。だいたいこんな工程でしょうか。
 これら一つ一つがじつに配慮が行き届いていて完璧でした。計画どおり終わった後、屋根と外壁は見違えるほどきれいになりました。特に感心したのは、たくさんある窓やベランダの手すり、床その他の部分に一滴もペンキを飛散させまいという徹底した養生ぶりです。また、毎日工程表のどこまで終了したかを示す報告書を入れてくれます。言葉づかいもとても丁寧。私が車で外出する必要のある時は、ただちに障害物をどけてくれます。
 こんなことは職人仕事として当たり前と思われるかもしれません。しかし昔、要らなくなったソファの処理を廃品回収業者に頼んだら、外国人労働者(中東系)が一人でやってきて、ソファの片方を持ち上げて木の床の上をずるずると引きずっていき、床をひどく傷つけたことがあります。高い金をとってこのありさまです。業者主(日本人)に文句をつけると、本人は否定していると言い逃れます。ケンカして何とか半額にまけさせましたが、本当ならこちらが損害料をとってもいいくらいです。ちょっと緊急時だったので我慢しましたが。
 中東系だと床は石やコンクリートだから、そんな気遣いの必要がないのでしょうね。これは人件費の安い外国人労働者を日本で雇っておいて、何も教育しない業者の責任です。
 ちなみに今回の工事中に、たまたまトイレの排水処理に小さな支障をきたしたので、水道業者に連絡したら、すぐ駆け付けて原因について詳しく説明してくれました。「たいへん申し訳ないのですが、ちょっと部品が特殊なので入手までに三、四日いただけますか」と言われ、快諾したところ、二日しかかかりませんでした。車のバッテリーをうっかり切らした時も同じ、コピー機のメンテナンスサービスもとてもきちんとしています。
 私は国際事情に疎いですが、聞いた限りでは、こんなにしっかりした職人仕事やサービスを迅速かつ正確にしてくれる国はほかにないのではないかと思っています。これは単に技術が優れているというだけの問題ではありません。顧客に対するデリケートなケアの心が徹底していて、相手に喜んでもらえるようなモノ・技術・サービスを提供することが自分たちの職業人としての意地になっているのですね。言い換えると伝統的な人倫精神が職業意識の中にそのまま生きているのです。

 ある友人から次のような話を聞きました。
 夏の盛り、中国旅行をして四川省のホテルに泊まりました。一応エアコンが設置されています。しかし、コンクリート壁にドカンと四角い穴があけてあり、そこにただ置かれているだけ、壁と機器との間には2、3センチほどの隙間が空いているというのです。
 最近、テレビと新聞で次のような情報を得ました。
 日本にやってくる中国人観光客(相当の裕福な層でしょう)が、日本製の爪切りやストッキングを大量に買いあさっていく。日本製品は品質がとても優れているので、お土産として配るととても喜ばれるというのです。
 また、紙おむつや生理用品が店頭から消える現象がしばしば見られる。これはやはりその品質の素晴らしさを知った中国人が買い占めているというのです。
 この二つの話は、単に喜んでばかりもいられません。というのは、これに目をつけた一部のブローカーが金と需要の大きさにモノを言わせて買い占めを続ければ、生産が追いつかず、肝心の日本人の手に届かない状態が慢性化する可能性があるからです。価格も高騰するでしょう。何しろ中国は市場がデカいですからね。
 こういう例を挙げたからといって、私は別に最近の嫌中ムードをさらに煽ろうというのではありません。この問題(ものつくり技術と顧客に対する倫理)に関する限り、繰り返すように、むしろ日本が他国に比べて格段に優れているのであって、ことはヨーロッパでもアメリカでも、中国とたいして変わらないように思います。
 90年代にヨーロッパツアーに参加しました。ロンドンのホテルに泊まったとき、ポットが故障していました。慣れない英語でフロントに電話すると、相手はペラペラペラペラ早口でしゃべりまくってなんだかさっぱりわかりません。「OK?」と言ったきりガチャン。日本では考えられないですね。私の英語が外国人のものだということがわかるのだから、そういうときには、ゆっくりしゃべって、そして「申し訳ありません。すぐにお取替えに参ります」と答えるのが筋でしょう。どこの国か忘れましたが、ホテルのシャワーが故障していてほとんど水が出ず。これはよく聞く話ですね。イギリスでは、修理を頼んでからいくらたっても来てくれないとか。
 パリに滞在している友人からの情報。
 街はいまや犬の糞をはじめとしてゴミだらけ。掃除をする公務員がたくさんいるはずなのに、いったい彼らはどうしたのか。私がパリに行ったときは、まだましで、そんなに汚れているとは感じませんでした。清掃作業員の人たちもそこここにいて、道を尋ねるととても親切に答えてくれたのを憶えています。ちなみにフランスの公務員の割合は日本に比べてはるかに高いです。私の勘ぐりによれば、これはEU経済の失敗が関与しています。貧すれば鈍するというヤツですね。
 ATMからお金をおろそうとしても日本円で最高7万円くらいしか下ろせず、困るというと出してやると言わんばかりの横柄な態度。自分の金を引き出すのに何で頭を下げなくちゃならないのかと、彼は怒っていました。店員の態度もとても悪いそうです。
 爪切りもよく切れず、爪先がガリガリになってしまうとか。
 勉強のためにきちんとしたノートが必要なのに、紙の質がザラザラでうまく早く書けない。いい品質のノートを苦労して探したら、10ユーロ(約1400円)以上もするのでびっくり。買ってみてなおびっくり。「MADE IN JAPAN」だったそうです。
 アメリカの製造業はいま、デトロイトの財政破綻に象徴されるように危機的といっても過言ではありません。内需がそこそこ高いのでしょうが、いま日本人でどなたか、アメリカ製の自動車や電化製品を持っている方、いますか? ガソリンスタンドのほとんどはセルフなので、多くが壊れていて使い物にならないというのはよく聞く話です。
 私たちは日本に住んでいて、治安の良さや行き届いたサービスや顧客に対する丁寧な態度、そして素晴らしい職人技術を当然と思いがちですが、これらがいかに優れているかが、外国に行ってみて初めて身にしみてわかるのだと思います。そのありがたさをもっと知るべきではないでしょうか。

 私が中学生か高校生のころ、家にちょっとした改修が必要だったので大工さんに入ってもらいました。その人は意志の強いテキパキした男らしい人で、母がそのきっぷのよさに少々惚れていたようです。彼が茶飲み話の折に、当時プレハブ住宅が盛んになり始めていた状況を憂えて、「何という時代だ」とため息を漏らしていました。腕ひとつで叩き上げた職人気質そのもののような人ですから、工場生産によって現場での手仕事のきめ細かさが失われていくと考えて、その風潮に我慢がならなかったのでしょう。
 しかし、それから半世紀たった今日、そうした職人気質が廃れたかというと、前述の経験の通り、そんなことはないようです。この、目に見えない文化的・人倫的慣習をこれからも大切にしたいものです。そのためには、国民性に遭わないヘンなルールを、グローバルスタンダードなどという圧力に屈して安易に取り入れたりしないこと、そうして国を豊かにする適切な経済政策とは何かをよくよく考える必要があります。

日本語を哲学する16

2014年01月04日 23時50分04秒 | 哲学
日本語を哲学する16



第Ⅱ章 沈黙論(3)

⑤吃音障害などによるためらいから習慣化してしまう無口


 吃音とは、言語表出意識(言葉に出したいとする思い)の速度と、じっさいに音声言語を構成し表出できる速度との「ずれ」にもとづく失調状態である。前者が後者を上回るとき、ちょうど早く歩こうと思っているのに足がついていかずつんのめってしまうように、調音器官の活動と呼気との間に有機的でしなやかなつながりが保てずにどもってしまう。〔k〕〔p〕〔t〕などの無声擦過音・破裂音を発話しなくてはならない時にこの現象が多く見られることからも、右の指摘が当てはまると言えるだろう。
 吃音は、いわゆる頭の回転が速く言いたいことが多い人、ものごとに感じやすくあがりやすい人、言葉を普通の子よりも早く使い始めた幼児、驚きや恐怖や怒りなどの感情が激した時、などにしばしばみられる。また成人では男性に圧倒的に多い。
 これらの事態は大変興味深いことを示唆している。言葉を言いたい、言わねばならぬという「思い」は、共同存在としての人間が共同世界に対して持つ「自己投企」への意思の高まりであるから、そこには必ず情緒性のある様態が関与していると考えてよい。その様態とは、主体のそのつどの「思い」を、主体が浴している言語規範体系(ラング)と関係づけようとする瞬間的な過程における「動揺(焦り)」である。
 この動揺は、誰にも多かれ少なかれあるはずで、そのため多くの人は、習得したラングに自分の思いを合わせようとするとき、「えーと」「つまりその」「いわゆる」「あのー」などの、指示作用としてはほとんど無意味な修辞句を多用して時間稼ぎをする。また別の人は、「自己投企」に要する勇気を飲み込んで黙ってしまう。さらに別の人は、話し言葉は不得意という自己了解を、書き言葉への修練に向かって昇華させようとする。書き言葉は、聞き手が不在であるためにじっくりと時間をかけることが可能だからである。だがいずれにしても、人間は、話し言葉の関係世界から完全に逃れるわけにはいかない。
 吃音者と呼ばれる人は、この情緒的な動揺を早くから自覚しすぎてしまったために、その自意識に自意識を上乗せさせることになり、その結果、かえって半ば自動的に「発語という行為におけるつんのめり」を習慣化させてしまった人たちである。言うまでもなく、これまで述べてきたのと同じように、どもらない人と「吃音者」との間に明瞭な境界線があるわけではなく、両者はグラデーションをなしており、だれでも状況次第ではどもる(右、感情が激した場合の例:「た、た、たいへんだ!」)。
 また吃音者が男性に圧倒的に多いという事実は、これと裏腹に話し言葉としての外国語習得は女性のほうが得意であるという事実と相まって、男性という生き物が、エロス的な共同性への参加を苦手とする観念的な生き物であることを象徴的に物語っている。このことは、性差論として問題にすれば、哲学者、計画的な犯罪者、政治家、軍人、作曲家、勝ち負けを気にする者、などには男性が圧倒的に多いこととも関連させて捉えられる事実である。
 男性は一般に、女性に比べて、自分と世界とを連続性の相のもとに捉えず、主体と対象、自己と他者、というように対立的な相のもとに捉える傾向が強い。世界を融和的に取り入れずに、いったん内部で何事かを構成し、そして改めて自分を世界に関係づけるという面倒な性癖をもっている。内在的に言えば、身体表出←→情緒表出←→言語表出という有機的、連続的なプロセスと循環のどこかに余計な分節を打ち込みたがるのである。また比喩的に言えば、彼らはあらかじめ大地から追放されているのである(拙著『「男」という不安』PHP新書、『エロス身体論』平凡社新書参照)。
 吃音障害などが恒常的であるために、その過剰な自意識から無口になってしまうことがあるというのは、別に解説を要する必要のない、とても理解しやすい道理である。足の悪い人が家の中に引きこもりがちであるというのとそんなに変わらない。

 ちなみに、突飛に聞こえるかもしれないが、吃音現象は、詩の言葉の世界と通底している。というのは、言いたいことがうまく話せないので詩の世界に入るという機能的な理由からだけではない。吃音しているという行為それ自体が、一種の詩的行為なのである。
 逆に言えば、詩人たちは、数行の研ぎ澄まされた言葉で、〈私〉と世界との関係や〈私〉の情緒を語りきろうとする。これは、できることなら、吉本隆明の言う「自己表出」の高みだけを純粋に取り出したいという欲求に根ざしており、その欲求は、吃音者が吃音しているまさにその時点での身体的な欲求と見合っている。詩作は、指示行為を主たる目的としていないので、ラングというルールを守ることを最低限に抑え、時にはそれに反逆しても言葉によって自らの個的かつ一回的な世界感受(身体や感覚や情緒)を美的表出として構成しようとする。先に述べたように、一般に、言語の不透明性に「自己投企」を賭けるのが詩人の理想である。そしてこれは吃音状態における発語者の「思い」に意外なほど近いのである。

 
⑥寡黙で事足りる人(話が苦手、あまり必要と感じない、おしゃべりが好きじゃない、など)

 これらの諸傾向をもつ人が多く存在し、しかも普通に生きることができている事実は、言語論的には、表現された言葉というものが、人間関係の形成と維持にとって、唯一絶対の条件とは必ずしも言えないことを示している。
 私たちは、ごく簡単な、限られた語彙のやり取りでしか関係を作ろうとしない人々を、言語の貧困な人々というように、ネガティヴにみなしがちである。しかし、じっさいにやり取りが行われているさまざまな生活文脈をよく想定してみると、むしろ、ごく簡単な語彙で物事が通じているという場合というのは、よい関係である場合が多いのである。
 思想家・村瀬学氏は、「発語するということには、黙っていることに対する断念が含まれている」という逆説的な名言を吐いているし、「沈黙は金、雄弁は銀」ということわざもある。いちいち言葉を出さなくてはならないというのは、面倒くさいものである。できればなるべく言葉少なで済ませたい、と多くの人が思っているのではないだろうか。
 この問題は、次のような国民性の問題にもつながっている。
 日本は島国で、外敵の侵略を受けた歴史がなく、長い間生活様式を共有してきたため、言葉の同質性も強く(方言はあっても、文法構造が同じなので、じきに理解できる)、気脈が通じやすい。だから、親しい関係では言葉をやたら使わなくても済んでしまう。日本語には主語がないとよく言われるが、このことも、主語をはっきりさせなくても言葉が流通してしまうという事実の一例であろう。これは裏を返せば、異文化(たとえば英語圏)に接した時になかなか適応できにくいため、外交や経済交流の必要が生じたときには、意志疎通の困難として現われる。日本人は英語が下手である。生活の根のところで、必死になって異文化に橋をかけようという必要を感じていないからである。
 よく国際的な交流の場で、日本人は自分の考えをはっきり言わず、何を考えているのかわからないということが問題とされる。たしかにこれは異文化との間に橋をかけ渡さなくてはならない場面では、批判されてしかるべき傾向であり、自分たちにとってもデメリットとしてはたらく側面が大きい。しかし、こうした国民性を、ただ克服すべきものとして一概に否定することはできない。というのは、外向きには欠点として映るその同じ傾向が、内向きでは、相互理解の深さや争いの少なさ、我慢強さやマナーのよさとして実現しているからである。
 ところで言葉少なで事が済むのはよい関係である場合がけっこう多いという事実は、言語というものが、まさしく言語としての役割を果たすために、常に必然的に、「表現された形としての言語」の外側(生活文脈)との関係を要請するという本質的な事情を裏側から証拠立てている。
 例を挙げよう。

【例1】「好き……」
    「……僕も」

【例2】「いくら?」
    「五千円」
    「まけない?」
    「……四千八百円」
    「買った」

【例3】「木曜定休日」(看板の文字)
    「あ、残念!」

【例4】「あれもってきて」
    「あいよ」
    「こっち右にして、それをここにした方がいいかな」
    「これをこのへんにする方がいいかも」
    「あ、そうしよう」

 いちいち解説は必要ないと思われるが、すべて簡単にやり取りが通じている場面である。本稿の読者もまた、これらの言語的やり取りが通じている背景に、どんな生活文脈があるか、書き言葉で表記されている部分を読んだだけで、たちどころに想像できるであろう。あるいは、少なくとも発語された言語以外の状況が発語者たちに共有されており、それに支えられてこそ言語行為が成立しているのだということがすぐにわかるだろう。
 その発語された言語以外の共有された状況とは、外的には、複数の身体が織りなす非言語的な諸行為の連関であり、内的には、複数の身体間で暗黙のうちにはたらいている情緒機能なのである。
 たとえば例1では(これだけの表記ではいくらでも多様な想定が可能だが)、二人の男女のつきあいがそれ以前に行為としてあり、同時にそこに必然的に相手に対する性愛的な情緒の深まりが進行している。周りには誰もいない場所で、身体を近接させ、そして女がそれまでの思いを最も端的なことばで表現することを決断し、それに対して男の方も、最も単純な答えで応じる。この後、事態がどのように進行するかは容易に想像できるが、女の端的な決断行為としての「言葉」がこの場面で可能なのは、女の側に、これまでの相互行為の経緯と、そこに付随してきた自分の情緒的な高まりおよびそれに対する相手の情緒的な呼応の仕方とを総括したうえで、いまこそそれをいうタイミングだという「確信」に近いものが訪れてきているからである。
 また、例3では、素っ気ない看板の文字が、その素っ気なさそのものによってこそ、このレストランでうまい飯を食ってやろうと期待してきた客をぐずぐずさせずにあきらめさせることに成功している。看板の文字は、けっして店舗と客側とのこれまでの相互行為の連関と無関係なのでもなく、また、そこに作られてきた情緒的関係と無縁なのでもない。まったく逆に、「あなたを理由なく拒否しているのではありません」という根拠のある弁明によって、「定休日でない日にはぜひまたよろしく」という情緒的なつながりを継続させたい欲求の表現ともなっており、客がその欲求を正しく受け止める効果をも作り出している。何も書かれていずにドアが閉まっているだけだったら、客は「つぶれちゃったのかな」という見当違いの疑惑や不安などの情緒を抱く可能性がある。まただらだらと弁解がましい文章が書かれていれば、客側はかえってそれを時間をかけて読まなくてはならないために、店主の本意は何かという苛立ちをおぼえるに違いない。
 さらに例4では、ただの「こそあど」言葉が多用されているが、相互行為の場が共有されているために、具体的な名詞を一切使わずに事と人間関係とが滞りなく進行している。よくなじまれた共通の情緒的了解があればこそである。
 このように、寡黙でも事足りるというのは、悪いことではない。寡黙な人、ほとんど余計なことを言わない人は、その寡黙さが周囲に醸し出す雰囲気にもよるが、寡黙であることによって、かえって「ああいう人だから、それはそれでよい」として許容されることもあり、その寡黙さの傍らにいる人に安心感を抱かせる場合もあり、また時によっては、尊敬や愛情を勝ち得たりすることもある。というのも、発語行為はあくまでも身体行為が作り出す全生活文脈の特殊な一部にすぎないのであって、ただの純粋形式的な「寡黙」というものはあり得ないのである。どんな寡黙な人も、生活の各場面に応じて、言語以外の身体像をそのつどさらしており、私たちはそこにその人の存在感や、表情や、何を感じ何を考えているかなどを把握できるのだ。

 なお、一般に「文法学」という学問は、整合的な体系性を目指すために、「正しい日本語」とか「文章としての完全性」などの概念に囚われている傾向が強い。その結果、日常生活において、相互に寡黙でも何とかやっていたり、名詞や動詞や形容詞などのごく少ない単語しか使われずにコミュニケーションが成り立っていたりする場面を、「省略」とか「不完全態」として把握しがちである。
 たとえば、「大将、久保田一本!」「へい、久保田一本!」といったケースをあとから分析し、これは、「大将、私は久保田が飲みたいので一本注文します」「へい、私はあなたの注文が久保田一本であることを承知しました」という「整った文章による会話」の省略されたものである、というように。
 しかし私の基本的な考えでは、これは言語というものの本質に対する転倒した理解である。あの言語過程説というすぐれた言語哲学を引っ提げて国語学の構築に向けて格闘した時枝でさえ、この種の転倒した理解から完全には免れていない。
 言語の本質は、関係存在としての人間が、抽象的な記号によって関係を創造、維持、破壊してゆく相互自己投企であるから、ある生活文脈の中で、その場の状況にふさわしいかたちで言葉が流通していれば、それで言語の条件は完璧に満たされていると言ってよいのである。じっさい、右の例で、言葉を交わしている客と大将との主体的な表現意識を想定してみれば、そこには何も「省略」などという心理的な機制ははたらいていないことが容易に読み取れる。気脈、情緒、適切なテンポなど、あるコミュニケーションの相互了解をかたちづくるための基盤はすでに状況のうちに熟しているのだから、そこには「省略されているはずの」言語などを補う必要はまったくないのである
 もちろん、私たちは、必要と感じた時には、さまざまな言語を使うべきであるし、またそのための技術を磨くべきである。しかし豊富な言語を多用しなくてはならないと私たちが感じるのは、言語というものが、その使用によって情緒的な関係の新しいギャップを作り出す可能性を常にはらむという宿命的な矛盾を抱え込んでいるからである。たとえば、現実の会話では、「そういう意味で言ったんじゃないよ!」などの抗議がしょっちゅうなされるのが常である。
 言語の豊かな多用は、この克服不可能な宿命に対するいわば一つの「終わりなき戦い」であり、私たちはやむを得ずそうしているのである。このことは、論理的な言語においても、文学的な言語においても例外なく当てはまる。