小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

「自由」は価値ではない

2019年02月21日 00時00分48秒 | 思想


『表現者クライテリオン』2019年3月号の特集「移民政策で日本はさらに衰退する」の座談会(出席者 施光恒氏、黒宮一太氏、柴山桂太氏、川端祐一郎氏)を読んで、触発されました。
「自由」という言葉について、少しきちんと考えてみようと思ったのです。

ドイツが先頭に立ったEUの「移民受け入れ政策」が、2015年に至ってどれほどヨーロッパ各地を荒れ回ったかは、よくご存じのとおりです。
昨年出版・翻訳されたダグラス・マレーの『西洋の自死』が、その惨状を余すところなく描いています。

イタリアはサハラ以南のアフリカ難民・移民たちであふれ、それ以前に、地中海を渡ろうとする多くの難民・移民が海の藻屑と消えました。
リビアのカダフィが暗殺された後、民主的な国家建設は少しも根付かず、かえって渡船ブローカーの暗躍する無秩序が支配したのです。

フランスのパリではテロ防止の非常事態宣言が出され、カレーの街にはドーバー海峡を渡ろうとする人々がキャンプを作ってひしめきました。

ロンドンはいまや45%が移民を占め、スウェーデンは世界第三位の犯罪国家になってしまったそうです。
そしてドイツは、ケルンで大晦日の日に大規模な女性暴行事件が起きて、500件を超す被害届が出されました。

オーストリアをはじめ、東欧諸国は、もはや移民受け入れを拒む姿勢に出ており、域内移動の自由を保障するEUのシェンゲン協定や、難民が最初に入国した国が難民を受け入れるダブリン規約は、実質上機能していません。

イギリスは、ブレグジットを強行せざるを得なくなり、アメリカでは、トランプ大統領がメキシコ国境の壁建設を強行しようと、非常事態宣言を出して、国論を分裂させています。

欧米におけるヒトの移動の「自由」は、理念の麗しさと現実とが乖離して、ほとんど全く生かされなくなったと言えるでしょう。

言うまでもなく、日本は、愚かにも、そういう現実を見ているはずなのに、何週か遅れで今年の4月から、何の準備態勢も整わないままに、移民を大幅に増加しようとしています。

関税の壁を削減・撤廃する貿易の「自由」は、ある産業に強い国にとってのみの「自由」であり、それはそのまま弱い国にとっては「不自由」を意味します。

アメリカ抜きTPP11は一部発効、日欧EPAはすでに発効しました。
日米FTA(Free Trade Agreement)は昨年12月にアメリカのほうから目標ペーパーが出ています。
これから恐ろしい交渉になりそうです。

日本はこれまた愚かなことに、自国の弱い産業について平気で関税障壁を下げています。
たとえば、ヨーロッパ、オーストラリア、ニュージーランドなど、酪農の強い国によって、日本の酪農家は壊滅的打撃を受けるでしょう。
さらに愚かなことに、テレビ・マスコミは、消費者ばかり連れてきて、「これからおいしいチーズが安く食べられるなんて嬉しいわ!」などとやっています。
こうして「自由」貿易が北海道その他の酪農家を殺しているのです。

さて、欧米やわが国などいわゆる「自由主義諸国」では、「自由」という言葉は、何よりも守らなくてはならない「価値」であるかのように信じられています。
言論の自由、職業選択の自由、居住移転の自由、経済の自由、学問の自由、宗教の自由エトセトラ。

しかし、こうした固形化した言葉よりももっと前に、自由という言葉が日常どのように使われるかを考えてみると、それは、私たちの身体が、いまある状態から別の状態に「移ることができる」という意味であることがわかります。
たとえば、「ここは自由に散歩してよい」とか、「今日はこれから自由な時間だ」というように。
つまり、自由というのはもともと、「身体が運動できる」という状態の形容としてあったのです。

その場合、大事なことは、一人の人間が何にも存在しない状態へ移ることをあらわすのではなく、必ず、ある制約条件から別の制約条件への運動の感覚を表すものにすぎなかったということです。
ある制約条件から解放されて「自由になる」ということは、別の制約条件を引き受けることでもあります。
何にもしないでぼーっと過ごすというのも、ある制約条件に他なりません。
とても退屈してしまうかもしれないのですから。

つまり、自由とは、そもそも単に運動を可能にするための意思の発動手段であって、けっしてそれ自体が目的でもなければ価値なのでもありません。
それは、本来、形容詞的、副詞的な使われ方をする言葉なのです。

ところがこれがいったん固形化して、名詞として扱われるようになると、だんだん事態が変わってきます。

プラトンは、2という数には2という「イデア」、3という数には3という「イデア」がある、と考えました。
こんな考え方は、リンゴを二つ、三つと数えている時は思い浮かびませんね。
ところが、「数」という概念が、数えられていた「もの=リンゴ」から自立して成立すると、こういう考えが浮かんでくるのです。

これと同じように、「自由に(気楽に)」遊んでいた子ども、「自由な(くつろいだ)」気分で手足を伸ばしていた人、などから自立して、「自由」という概念が、名詞として成立すると、そういう「実体」が、まるで遊ぶことや手足を伸ばすことからまったく独立に存在するかのような気がしてくるのです。
これがプラトンの言う「イデア」です。
つまり「自由」とは、言葉が固形化して出来上がった「理念(観念、アイデア)」なのです。

一旦この固形化の方向が定まると、それはどんどん人々の間で広がります。
そして、まるで、「自由」という実体が確固としてあり、しかもそれが、他の拘束された状態よりも一段優れた神様であるかのような「価値」として現れてくるのです。

つまり、「自由」というのは、それが抽象的で、しかも実体であるかのような様相を示すので、どこに当てはめても使えるという錯覚を呼び起こします。
実際、この言葉ほど便利な概念はないので、先に挙げた言論、学問、職業、居住、宗教など、近代の法では、至る所に使われ、国民の言動をきわめて寛容に受け入れているかのように見えます。
そもそも近代というのが、「自由」というイデア=イデオロギーが支配した時代なのです。

しかしこの「自由」イデオロギーがかたくなに守っているただ一つの非寛容があります。
それは、「非寛容な信念や行動を許さない」という非寛容です。
でもそのことに、「自由」イデオロギー信者たちは気づきませんでした。

誰もが、その生まれ育った土地の文化や伝統を背負っている。
そこから「自由」になることなどできません。
もし完全自由になったとしたら、その人は、故郷と人間関係を亡くした裸の無名者です。
でもヨーロッパ人たちは、自分たちが大きな文化や伝統を背負っていながら、それから「自由」になれると錯覚したのです。

すべてのヨーロッパ人が、といっては、失礼ですね。
特に知識人や政治家と呼ばれるエリートの人たちです。

別に文化や伝統などと大きなものを持ち出さなくとも、日々汗水流して働いている普通の人たちのことを思い浮かべればすぐわかることですが、彼らは、「何ものからも自由な自分」などを実感するところから遠いところにいて、ほとんどの時間を具体的な制約から次の具体的な制約へと体を移しているだけです。

エリートたちは、普通の人に比べて、相対的により広い、さまざまな対象に気を移すことができるので、そのため、普通の人よりはあの抽象的な固形物としての「自由」を実感しやすいだけなのです。

そうして、彼らはその「自由」を用いて失敗しました。
まさか自分たちが寛容であったために、イスラム教徒のような非寛容な信念をもった人々や、自分たちの文化にけっして溶け込まない人々が、どっと押し寄せてくるとは!

気づいた時にはもう遅く、自分たちの周囲にまだら模様を作って異邦人たちが居を占め、そしてけっして「自由な」対話など成立させようとはしないようになっていました。
自分たちの土地の何分の一かを、戦争よりは少しばかり静かに侵略していくことによって。

でもヨーロッパのエリートたちは、まだその深刻な事態に気づかないふりを決め込んでいるようです。
「多文化共生」という、成り立ちようもない美辞麗句にひたすらかじりつくことによって。

何がこのインヴェージョンから自分たちを守るのか。
もちろん、まずは「自由」イデオロギーの呪縛から醒め、その醒めた目をもって、国民国家という枠組みの重要さにいったんは差し戻すことです。
東欧諸国がすでにそれを実行しているように。

「自由」は普遍的価値でも何でもありません。
このイデオロギーには、何々を通して、何を実現させるのか、という具体的な問いが欠けているのです。

以上、ヨーロッパについて述べてきたことは、おせっかいではなく、もちろん、日本自身への警告です。
まだ遅くない、まだ遅くないと言っているうちに、移民国家・日本もたちまち手遅れになります。
その日は近いのです。

最後にまとめとして、自由についての定式を3つ挙げておきましょう。
(1)自由は、状態を変える意思の発動手段であって、目指すべき目的でもなければ価値でもない
(2)自由には、もともと自由を許さない非寛容を受け入れるほどの寛容さはない。
(3)自由は、現実的な拘束や制約を通してしか実現されないし、実感されない。


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https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20181221/
・「日本の自死の心理的背景」
https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20190201/




前記事についてのFさんのコメントに対する返答

2019年02月09日 20時26分56秒 | 思想


F様

2月6日付の拙ブログに対して、真摯なコメント、ありがとうございます。
また2月3日には、有意義な発表をしていただき、感謝しております。
お返事が遅くなり、申し訳ありません。
じつはここ数日、野暮用に追われていたのと、一度出来上がったコメントを、掲載時の操作ミスで飛ばしてしまったので、今頃になってしまいました。
なお、初めはコメント欄にお返事を書こうと思ったのですが、書き込み欄が小さくて書きにくいのと、重要な議論なのでできるだけ多くの人の目に触れた方がよいと考え、ブログのメイン画面に掲載することにいたしました。
諒とされんことを望みます。

さて、刑法適用年齢を18歳以上に下げるべきだという私のブログの文章に対するFさんの反論は多岐にわたっているので、こちらからも一つ一つ反論を試みます。
その前に、Fさんが反論対象としている私の文章の該当部分を再現しておきます。

この現代版通過儀礼としての学校は、成績の良い子、勉強意欲のある子にはそれなりに意味をもちますが、そういうモチベーションをもたない子には、通過儀礼として機能しません。しかし一方、現代日本の社会制度は、高校を通過しなければほとんど社会人として承認してもらえないことになっています。必ずしも違法行為に走らなくても、生き方が定まらずあてどなくさまよう若者は、現代日本には溢れかえっています。
 ですから勉強に向かない子には、早く何らかの制度的、システム的な大人化への道をあてがったほうがよいのです。高校全入などはやめて、勉強嫌いな子には職業訓練を施したり、実際に仕事に就かせて稼ぐことの意味を覚えさせる。
 少年法を改正して法的な「成人」年齢を引き下げるというのも、大人化への道を明確化させる工夫の一つです。君は今日から大人であるという社会的なラベルを貼ることによって、責任意識の芽生えなどの社会的・心理的な大人化は早まるはずです。有り余る力があるのにぶらぶらさせておくのは、国民経済的見地からいってももったいない。
 現在、選挙権年齢を18歳に引き下げるという流れが固まりつつありますが、この流れとの絡みも重要です。これはたんに形式上の統一を図るという意味にとどまりません。大人としての権利や自由を獲得することは、同時にそれに伴う義務や責任を引き受けることでもあります。運転免許取得可能年齢(18歳)のことを考えればわかりやすいでしょう。車を運転する自由の獲得は、同時に道路交通法を遵守する義務と責任を身に負うということです。


さて私からの反論です。

まず、「法律はその制定の目的に沿って個々に適応年齢を決めるべきだ」というFさんの意見についてですが、これには原則的に賛成します。
ですから私は、飲酒喫煙解除年齢が20歳以上になっていることには反対しません。
また原付免許年齢が16歳以上になっていることも諸般の事情から見て妥当だと思います。
私は、これらの形式的な不整合を一致させるべきだと主張しているのではありません。
しかし、本文中にも触れましたが、個人の生命・身体・財産を守るという重大事案の場合には法理として事情が異なります。
以下、釈迦に説法の教科書的な言い方になって申し訳ありません。
近代法治国家の法理は、個人が政治に参加できるなどの様々な権理(この表記は福沢諭吉が用いた表記を踏襲します)を得られると同時に、その権理が他人を侵害してはならず、それを犯した場合には相応の義務と責任を負うというコインの裏表のような不可分の関係として構成されています。
参政権適用年齢と刑法適用年齢とは、このコインの裏表がまさしくそのまま現実への反映として現れたものと解釈できます。

ちなみに私は、参政権年齢の18歳引き下げの議論が起きた時、公的な場で考えを述べたことはありませんが、いろいろな理由でこれに反対でした。
いまそれについてはここで言及しません。
しかしそう決まってしまった以上、上に書いた理由からして、刑法適用年齢もそれに合わせるべきだということになります。

次に、Fさんは、「国民全員に国政参加の権利を与える選挙法の場合」と、「恵まれない環境で一般の少年よりも精神的成長が遅れてしまった」ために「ごく一部でしかない非行を犯した少年を対象として健全育成をはかる少年法とではその目的が異なる」と述べています。
これについて反論します。
「恵まれない環境で精神的成長が遅れたために非行を犯したごく一部の少年を対象とする」ということが少年法のどこに書かれているのですか。
たとえ実態の大部分がそうであったとしても、少年法の目的はあくまで「非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行う」(第1条)ところにあります。
この目的に照らせば、この法には、たとえば金持ちのドラ息子が凶悪犯罪を犯すケースも包含されています。
現に酒鬼薔薇事件の犯人や佐世保の女子中学生殺人事件の犯人の家庭は、どちらかと言えば裕福な家庭の子女でした。
また、有名大学の売春あっせんグループや「スーパーフリー」のようなチームの事件も、当事者が18歳か19歳なら、本来この法律の対象になるはずですね。
それに、現在「恵まれない少年たち」が少年院の中核を占めるからと言って、今後もそうだとは言い切れません。
たとえば、移民の大量受け入れを決めてしまった日本では、今後の情勢次第で治安の悪化が進むということも大いにあり得ます。
ヨーロッパでは現にそうなっていますね。
ちなみに、かつて高福祉国家として日本人の憧れの的だったスウェーデンは、あっという間に世界第三位の犯罪大国になってしまいました。

さらに、もともと私の当該部分の記述は、少年法に引っかかってしまった少年たちの「実態」がどうかについて述べたものではありません。
文脈からわかる通り、これは、学校で勉強する意欲を持てない中高生(大ざっぱに言って意欲を持ているのは3割に満たないでしょう)、「悪友」とつきあうことにしか学校に通う意味を見出せなくなった少年たち、親が敷いた生活規範に素直に従わなくなった少年たち(これはこの年齢であれば当然ですが)、街に出てあまり感心できない遊びに集団で熱中する少年たち、学校から社会へ、という具体的な連続性を喪失している少年たち、家出少年たち、そして引きこもりなど、こうした若者の大量発生に、社会としてどのように対処すべきかについて述べたものです。
ですから前段で、高校全入の廃止と、それに代えて勉強意欲のない者たちには、むしろ早くから手に職をつける道を用意すべきではないかと述べています。
つまりここの部分は、文明社会全般の爛熟に伴って起きた学校幻想の崩壊による、「だらしない若者群」問題一般を論じているので、その一環として、刑法適用年齢の引き下げも、「工夫の一つ」として挙げているにすぎません。
いわば法に触れて検挙された「非行少年」を的にしているというよりは、あえて言えば、大量の「非行予備軍」への対処について考えたもので、Fさんが的を絞っている「少年院での実態」とは、その問題意識のありどころがまるで違います。

次に、Fさんは、「君は今日から大人であるという社会的なラベルを貼ることによって、責任意識の芽生えなどの社会的・心理的な大人化は早まるはずです」という私の言葉を引いて、これを、非現実的な願望だとしています。
しかしここでもFさんは、現に「非行に嵌ってしまう」少年だけを拙論の対象として考えているようです。
ここでの「非行少年」という概念は、文脈からして、やはり違法行為を犯して検挙された少年という意味に受け取れるからです。
しかし、そもそも扱っている対象に大きなずれがあるのですから、私の提案の有効性如何に関しても食い違いが生ずるのは当然ですね。
そのことを踏まえた上で、「非現実的な願望」に過ぎないかどうかを検討してみましょう。
もとより、おっしゃる通り、「非行に嵌ってしまう少年」に対して、「君は今日から大人である」と言うことで責任意識が芽生えるなんてことはありえないでしょう。
しかし、私の提案は、若者一般に対する一種の象徴効果を狙ったもので、それは成人式と似たようなものです。
成人式は形骸化が叫ばれて久しいですが、一部の狼藉者は別として、大多数の当人たちにしてみると、そうでもないようですよ。
ですから、この「工夫の一つ」も、ある程度の効果はあるのではないか。
ただしその場合には、参政権が広く認知されたのと同じ程度に、大々的に認知させる必要があるでしょう。
また、これだけではたいして意味がないので、学校制度の根本的な見直しやこれに接続する社会組織のあり方、少年の逸脱行為をなるべく少なくするような環境の整備などと連動させるのでなくてはならないでしょう。
もちろんこの提案に効果があるかどうかは、死刑に犯罪抑止効果があるかどうか実証できないのと同じように、実証できません。
刑法適用年齢を現行のままにした場合と下げた場合との比較ができませんからね。
ただし、やってみるだけの値打ちはあると私は思っています。
というのも、学校を中心とする現行の社会制度は、その設計思想があまりに時代遅れとなっていて、制度疲労を起こしているからです。

次に、Fさんは、成人の事件の場合、起訴されて実刑判決を受ける容疑者・被告の割合の少なさについて具体的な数字を挙げて、これを18歳、19歳の「少年」に適用すれば、少年院での適切な教育(更生プログラム)を受けられないままに放任されてしまうと警告されています。
ここの部分は、一見とても説得力があって、最も強力な反論に思えます。
しかし私の疑問は払拭されません。

一つは、少年院でどのような教育を受けているかについて知らないので、果たしてその効果がどれほどあるのかどうかについて確証が得られないということがあります。
一般に教育と称するものは、そういうものです。
これは、少年院の院長や教官から「こういう教育をしている」というサジェッションを受けたとしても、現場をちょっとばかり見学しても同じです。
だからサジェッションや見学によって、その効果を実感しろと言われても、あまり納得はしないと思います。
というのは、組織の管理者は、どこでも自分の仕事の問題点を赤裸々に暴露するはずがないからです。
そこで、効果を測定するには、少年院を出てからの再犯率がどれくらいかという数字に頼るほかはありません。
ちなみに、次のようなデータはいかがですか。
これは、平成7年(1995年)から平成26年(2014年)までの少年一般刑法犯検挙人員中の再非行率
(茶色の線)です。

検挙人員が激減しているのは、成人の場合も同様(あるいはそれ以上に激減)ですから、少年院での教育の成果と見ることはできません。
しかし再非行少年率(ある年の全体に対する「再犯者」率であり、個人の「再犯」率ではない)が、34.9%と高い数字を見せて漸増しており、検挙人員程には減少していないのを見ると、少年院での教育成果に対して疑問を抱きたくなります。
ただし、これは検挙人員のグラフなので、このうちどれだけが少年院に送致されたのかはわかりません。
そこで少し古いですが、次のようなデータはいかがでしょう。
少年院出身者の25歳までの「再犯」率は約4割
https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0903L_R11C11A1000000/
刑務所出所者の再犯率(たとえば20歳で出所してから5年間)については、正確なデータを見つけられませんでしたが、刑務所に再び戻ってくる率については、次の記事が参考になります。
出所5年以内に刑務所に戻る確率
https://www.news-postseven.com/archives/20180903_751528.html
この記事では、初めの「綾瀬コンクリート詰め殺人事件」についての記述はおくとして、次の記述に注目してください。
『犯罪白書』(平成28年版)によれば、出所から5年以内に刑務所に戻る確率は、覚せい剤49.4%、窃盗45.7%、傷害・暴行36.1%に達する。強姦・強制わいせつ(24.1%)や殺人(10.3%)という凶悪犯罪でも、1~2割は刑務所に戻ってくるのだ。
これを見ると、刑務所出所者の再犯率の高さを強調している文章になってはいますが、数字を追えば、前述「少年院出身者の25歳までの『再犯』率は約4割」と大して変わらない印象を受けるでしょう。
以上、再犯と言っても、それぞれどんな犯罪を犯したのか明らかでなく、また、少年院出身者の再犯者が果たして少年院または刑務所に戻ったのかどうかも明らかではないので、厳密な比較はできません。
しかしFさんが言うように、少年院が「うまく機能していた」とはとても結論づけられないことだけは確かでしょう。
もしFさんが、少年院がうまく機能していることについての厳密なデータをお持ちでしたら、どうぞご教示ください。
ただし、煩雑な図書を提示されても、すっきりとわかることはあまりなく、また初めに結論ありきの本は巷に溢れていますので、数字を用いて簡潔に提示していただければ幸いです。

次です。
Fさんは、ある学者の発言を引きながら、次のように決めつけています。
「君は今日から大人であるという社会的なラベルを貼ることによって、責任意識の芽生えなどの社会的・心理的な大人化は早まる」という主張は、私には上述の「困った問題を個人の責任にして無理やり決着をつけようとする」態度にしか見えません。
どうしてこんな解釈が成り立つのか、理解に苦しみます。
先に述べたように、私は、若者の成熟困難という一般的問題を、特定の個人の問題としてでなく、彼らを取り巻く制度的、社会的なシステムの機能不全としてとらえています。
しかも「ラベル貼り」は、その機能不全を少しでも克服するために、いくらかは効果が見込めるのではないかといった程度のニュアンスで書いたつもりです。
そう受け取っていただけないとすれば、それは4年前の私の筆の至らぬところでしょう。
ですので、改めてこのことを強調しておきます。

最後です。
Fさんは、次のように述べています。
私は小浜さんがその著書『13人の誤解された思想家』の中で、カントを「痩せた人間認識に基づく道徳主義者」と評している箇所を読んでなるほどと思いましたが、小浜さんの「君は今日から大人であるという社会的なラベルを貼ることによって、責任意識の芽生えなどの社会的・心理的な大人化は早まる」という主張の背景には、どのような人間認識、さらに現状分析があるのでしょうか?
カントと比較していただいて光栄ですが、カントの道徳論の根本的欠陥は、彼が人間の傾向を「自愛」に与する者と「他愛」に与する者とに単純に二分割して、前者を否定し、もっぱら後者を称揚している点にあります。
これに対して私は、人間を徹底的に関係存在としてとらえます。
純粋な「自愛」も純粋な「他愛」もこの世には存在しません。
ある自愛が、彼自身を形成している周囲の関係性に他愛として波及することもあれば、逆もまた真です。
社会的なラベルは、日々、お互いに貼られています。それがこの社会の中で生きる関係存在としての人間の宿命です。
だからこそ、一般の未熟な若者に自立心と責任意識を芽生えさせるためには、年長者が若者に適切な関与をするしかないのではありませんか。
もしこの年長者から若者に対する関与の仕方の一つが、若者に対してうまく働く場合には、社会にとって好都合であるばかりでなく、彼ら自身の人生にとっても生きやすさにつながるのではないでしょうか。
もっとも言うは易く行うは難しで、私の「ラベル貼り」提案がどこまでも正しいと固執するつもりはありません。
また、現状分析については、これまで述べたところで十分だと思います。

なお、これ以上、このサイト上で議論を続けると、あまりにしつこくなり、ローカルな話題と化し、読者の方をうんざりさせてしまう危険が無きにしも非ずです。
申し訳ありませんが、もし再反論のご意思がある場合には、別の場所、別の機会に譲ることを提案したいと思います。
悪しからずご了承ください。


四年前の川崎中一殺人事件について考える(その2)

2019年02月06日 00時02分07秒 | 思想


 また、平均寿命が延び、そのぶんだけ大人になるのに時間がかかるようになったということがよくいわれます。もしこれが事実なら、法的な「成年」年齢を下げることは、一見時代の流れに逆行するように思われます。

 たしかに大人になるのに時間がかかるようになったというのは、ある意味で本当ですが、それは、平均寿命が延びたからではありません。そもそも何をもって大人になったというのか、あるいは何が人を大人にするのかというように考えていくと、これは社会的動物である人間の場合、単純ではないことがわかります。

 私は「大人」概念を、生理的大人、心理的大人、社会的大人の三つに分けています(詳しくは拙著『正しい大人化計画』ちくま新書)。
 これらは相互に絡み合う関係にありますが、文明が進めば進むほど、生理的大人と社会的大人とが乖離していきます。つまり生理的には思春期を通過すればすぐ大人になってしまうのですが、社会の仕組みが複雑になるにしたがって、学習期間が延び、親から経済的・精神的に自立するのに時間がかかるようになるのです。また、職業人や家庭人としての責任を果たせるようになるのにも長い期間が必要とされます。

 この事実は何を意味しているでしょうか。人間の成熟には、社会のシステムや制度のあり方に応じて時間がかかったり、逆に早まったりする可能性があるということです。

 さてこのことを、先の法的な「少年」と「成人」の境をどこに置くかという問題に当てはめてみましょう。くだんの少年は、「札付きのワル」であったことは間違いないようですが、それは生理的には立派な大人になっているのに、社会的な意味で大人として見なされていなかった、または大人になる気がなかった、ということと重なり合うのではないでしょうか。
 よく暴走族のOBなどが、後輩に向かって「いつまでもガキやってんじゃねえよ!」などと説教する例がありますが、この少年も、生理的な大人でありながら、社会的には「ガキ」でしかなかった、そのギャップがあまりに大きかったといえそうです。つまり、学校という間延びした現代版通過儀礼の場所と時間帯にまったくなじめなかったために、社会的な大人になるきっかけを失っていたのです。

 この現代版通過儀礼としての学校は、成績の良い子、勉強意欲のある子にはそれなりに意味をもちますが、そういうモチベーションをもたない子には、通過儀礼として機能しません。しかし一方、現代日本の社会制度は、高校を通過しなければほとんど社会人として承認してもらえないことになっています。必ずしも違法行為に走らなくても、生き方が定まらずあてどなくさまよう若者は、現代日本には溢れかえっています。
 ですから勉強に向かない子には、早く何らかの制度的、システム的な大人化への道をあてがったほうがよいのです。高校全入などはやめて、勉強嫌いな子には職業訓練を施したり、実際に仕事に就かせて稼ぐことの意味を覚えさせる。
 少年法を改正して法的な「成人」年齢を引き下げるというのも、大人化への道を明確化させる工夫の一つです。君は今日から大人であるという社会的なラベルを貼ることによって、責任意識の芽生えなどの社会的・心理的な大人化は早まるはずです。有り余る力があるのにぶらぶらさせておくのは、国民経済的見地からいってももったいない。

 現在、選挙権年齢を18歳に引き下げるという流れが固まりつつありますが、この流れとの絡みも重要です。これはたんに形式上の統一を図るという意味にとどまりません。大人としての権利や自由を獲得することは、同時にそれに伴う義務や責任を引き受けることでもあります。運転免許取得可能年齢(18歳)のことを考えればわかりやすいでしょう。車を運転する自由の獲得は、同時に道路交通法を遵守する義務と責任を身に負うということです。

 以上が、少年法適用年齢を18歳にまで引き下げたほうがいいと考える理由です。


 (2)のネット情報の氾濫の問題についてですが、いまさらこの流れを押し戻すことはできないでしょう。しかもインターネットの普及のおかげで助かることがずいぶんあります。現にいまこの原稿を書いている私は、依頼があるまで今回の事件のディテールやそれがどう語られているかについてほとんど知りませんでしたが、知人が送ってくれたいくつものサイトによってその全貌をほぼ知ることができました。

 「知る権利」などという言葉はあまり使いたくありませんが(この抽象的な言葉をタテにとって悪用する人もいるので)、何かをより深く正確に知る必要がある場合に、紙による情報だけでは限界があり、時間や手間やお金もかかるので、信頼のおけそうなネット情報に頼らざるをえないというのは否定できない事実です。これを強く規制している国がどんな国かを思い浮かべてみれば、その恩恵の面を無視することはできません。

 独裁国家や巨大マスコミが意図的に、または意図的ではなくともその体質上、情報の操作や選択をして、真実が隠されたり捏造されたりするということはいくらでもあることですね。そういう疑いのあるとき、信頼のおけるネット情報はたいへん役に立ちます。

 しかしもちろん、ネットによるこの情報獲得能力の民主化には、よくない面もあります。
 1つは冒頭で述べたように、事件と直接関連のない不必要なプライベート情報がすぐに出回ってしまい、迷惑をこうむる人がたくさん出る可能性があることです。今回の事件でも、容疑者が逮捕される前に、「あいつがやったんじゃないか」という憶測情報が広く出回ったそうです。捜査に協力するという明確な意思をもって、警察に極秘にヒントを知らせるというのならいいですが、まったくそうではないので、たいへん困ったことです。これは一般に、風評被害の可能性が格段に高まったことを意味します。

 もう1つは、誰もが何かについての感想・意見・主張を瞬間的に発信できるので、問題をよく考えもしない感情的な表現がやたらと出回ることです。これは二重の意味でよくありません。
 第一に、発信者自身に冷静に考える習慣や母国語をきちんと使いこなす能力が身に付かず、その結果、精神的成熟が妨げられること。
 第二に、物事に対する単純化された把握がまかり通って、それが一種の「党派性」を形成し、異論に対して聴く耳をもたない非寛容がはびこることです。これが高ずると、全体主義的な権力にまで発展しかねません。歴史上、悪名高い全体主義というのは、皆こうした大衆社会の空気を基盤として生まれています。このほかにも、よくいわれるように、匿名性を利用してある人を集中的に誹謗中傷することができるという点も挙げられます。

 ではどうすれば、こうしたネット環境の悪い面を防ぐことができるか。これはたいへん難しい問題ですが、要するに発信主体、受信主体がそれぞれの立場で公共心を高めていく以外にないでしょう。それはある場合には、自主規制のかたちをとり、ある場合には発信者に対する批判や啓蒙のかたちをとることになります。しかしその場合でも、ネット環境で何が起きているかを知らないで済ませるというわけにはいきません。

 私たちはいま、情報倫理学ともいうべき分野を構築する必要に迫られているのですが、そのためにはやはりネットを大いに活用して現実感覚を高めなくてはなりません。これは、交通事故を減らす有効な手立てを考案するためには車の運転に慣れる必要があるのと同じです。
 今回の事件でもネット空間にずいぶん感情的・衝動的な表現が乱舞しましたが、あくまでもこれらの「敵」の姿をよく知ることを通して、ネット環境に対する成熟した理性的な態度を養うべきだと思います。

四年前の川崎中一殺人事件について考える(その1)

2019年02月04日 14時37分56秒 | 思想


以下に掲げるのは、ちょうど4年前に起きた川崎中一殺人事件について、筆者が雑誌『Voice』に寄せた論考です。
たまたま先日、由紀草一氏が主催する「しょ~と・ぴ~すの会」で、家庭裁判所調査官を長年務めてこられたF氏の、「秋葉原殺人事件」についての発表があり、筆者も参加しました。
しかし時間の関係で議論が十分できなかった事情もあり、少年法や死刑などにかかわる筆者の考え方をこの際、自身のブログの場で発表しておく必要があると感じました。
古い話で恐縮ですが、ここに書かれていることは、いまも有効だと思っています。

ちなみに「しょ~と・ぴ~すの会」は、由紀氏と筆者が主催する「思想塾・日曜会」の一環として行われているイベントです。
https://kohamaitsuo.wixsite.com/mysite-3

なお、以下の論考の文中、「私は死刑存置論者です」とありますが、筆者の死刑存置論の詳しい根拠を知りたい方は、当ブログの以下のURLにアクセスしてみてください。
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/5a9abcb8cf4635ba313d2009fd1c33f7
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/d68796636f3cdc1ab4767b404206075e

また、こうした事件をマスコミが報道するたびに、厳罰化の声が高まりますが、少年(20歳未満)の犯罪はここ数年、明らかな減少傾向にあります。
本文でも触れていますが、減少しているからこそ、凶悪犯罪が「ニュース」として大々的に報じられるのであり、そのことを普遍化することで、厳罰化を正当化することはできません。
しかし、筆者は、刑法適用年齢を18歳以上に引き下げることについては賛成です。
これは厳罰化とは矛盾しません。
賛成の理由は、本文に書かれていること以外に、参政権年齢が18歳以上に引き下げられたことと対の関係で考えるべきだと思うからです(本稿が書かれた時点では、まだ18歳参政権は与えられていませんでした)。
つまり、大人としての権利の獲得は、同時に大人としての責任を引き受ける義務を伴わなくてはなりません。
政治に参加する権利を得た者は、その裏側で、他人の生命や財産を毀損した場合、大人が服するのと同じ法に従う義務を課されるべきでしょう。


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 2月に起きた川崎市の中学1年生殺害事件で、世論が沸き返りました。さんざん報道されてきたので、事件の概要については、ここであらためて述べるまでもありますまい。主犯格の少年(18)は、まったく高校に通っていず、どうやら札付きの非行少年だったようです。新聞やテレビでは少年法61条遵守の観点から実名、顔写真などを報道していませんが、週刊誌やネットでは、虚実取り混ぜて過熱した情報が思うさま飛び交っています。しかしこうした情報公開をめぐる媒体間のギャップは、べつにいまに始まったことではありません。

 18年前に起きたいわゆる「酒鬼薔薇事件」では、残虐極まる犯行手口だけでなく、警察やマスコミを手の込んだかたちで嘲弄した犯人が14歳であった事実に世間が驚愕し、逮捕後、某出版社の2つの週刊誌がいち早く実名と写真を公開しました。この出版社は当時、法務省の回収勧告にも頑として応じませんでした。

 もちろん売らんかなの週刊誌のことですから、私たち誰もがいくらかはもっている下卑た野次馬根性や好奇心を当て込んでの目論見であったのは事実です。しかし公平に見てこのときは、この出版社の編集方針に、加害者の人権には過剰なほど配慮するのに被害者遺族の心情を考慮しない当時の空気に対する義憤のようなものが働いていたことも確かだと思われます。一種の確信犯的な試みで、支持者もけっこう多かったようです。

 今回の場合は、18年前に比べてインターネットの飛躍的な普及という情報環境の変化があり、そのため、SNSやブログなどを通して、やたらとプライベートな情報が全国、いや全世界に露出し、物事を慎重に考えないコメントや画像が氾濫する結果となっています。しかも、もうそんなことは当たり前だという雰囲気が共有されており、マスコミの自粛などほとんど何の意味ももたないといってもいい。これはまたこれで行き過ぎの感が否めません。かの「イスラム国」も、こうした情報環境を巧みに利用したといえるでしょう。

 本稿では、これらの情報洪水のなかから聞こえてくる声のうち、次の二つの問題点をあぶり出し、それについて少し掘り下げてみようと思います。この問題点は、じつはいま述べた某出版社の「決断」の意思のうちに孕まれていたものと同じです。

 (1)未成年(少年法で規定された20歳未満)だからといって、残虐な犯行を犯した者をかばうような扱いはおかしいのではないか、実名や顔写真を公表することによって、加害者に社会的な制裁を受けさせるべきではないかという議論。

 (2)何か大きな事件があったときに、そのディテールを知りたいという好奇心は人間の本能的な感情であり欲望であって、それを抑えることは不可能だから、技術的に可能な限りでやってしまえばよいという感覚。

 (1)の議論は、推し進めていくと、いまの少年法の年齢規定を18歳未満にまで下げるべきだという主張に連続していきます。この主張の是非について考えてみましょう。

 結論からいうと、私は、この主張にほぼ賛成です。ただしそれは、被害者への同情心とか、被害者になり代わって応報や復讐や制裁をしてやりたいといった感情的な理由からではありません。また、札付きのワルには厳罰を科してやらなくては更生できっこないのだ、といった単純な厳罰主義から出た考えでもありません。

 まず国家の法というものは、被害者の報復感情の代行をするためにあるのではありません。それは、いかにして社会の公正な秩序を維持し、すべての国民に安寧を保障するかというところに眼目が置かれています。だからそれぞれの法律には独自の趣旨というものがあり、それらが組み合わされて、総体としてその眼目を満たしうるような体系性を具えていなければなりません(実態はそううまくできてはいませんが)。

 少年法の趣旨はといえば、非行少年に対して性格の矯正と環境の調整のために「保護処分」を行なうというところにあります(1条)。これと対になるかたちで、刑法41条の「14歳に満たない者の行為は罰しない」という規定があるので、14歳以上20歳未満の「少年」は、明らかに刑罰の対象になります。しかし同時にその目的は成年と異なり、懲戒よりはむしろ矯正に重きが置かれるというように、バランスがとられているわけです。「少年」は「成年」に比べて未熟だからこそ可塑性を残しているという考えに立つものでしょう。この考え方は基本的には妥当なものですから、「少年法など廃止してしまえ」などと乱暴なことを言ってはいけません。

 しかし一方、この年齢は肉体的には大人顔負けの力をもち、性的にも成熟しており、しかも家族による庇護・管理からの自立途上にあって精神的に不安定な時期に当たります。社会人としての責任意識は十分に身に付いていず、親や教師の目を逃れていくらでも悪いこと(社会規範に反すること)、粗暴なことに手を出す可能性のうちに置かれています。血気にはやるのは昔から若者の常です。まして今回の事件のように、学校という囲いからすっかりはみ出てしまっていて、早くから勉強に興味も抱かず仕事にも就かず、親もその事態にお手上げ状態になっているような「少年」の場合には、そういう可能性がもともと大きかったといえるでしょう。


 さて問題は、「少年」と「成年」との法的な境目をどこに置くかということなのですが、これを考えるには、いくつかの問題を押さえておくポイントがあります。

 まずこうした少年事件が起きるたびに厳罰化の声が上がるのですが、少年の凶悪犯罪(殺人、強盗、強姦、放火)は減り続けているという事実に皆が気付かなくてはなりません。たとえば、平成24年における少年凶悪犯の検挙人数は135人、25年では77人、殺人に至っては、24年8人、25年はわずか3人です(警視庁生活安全部資料 
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/toukei/hikou/hikou25.pdf)。

 最近はだいぶこの事実が気付かれ始めているようですが、たまにマスコミでこの種の事件が大々的に報じられると、これを見た人はすぐに感情的反応を示して、「増えている」と思い込んでしまいます。むしろ事態は逆で、めったにないからニュースとして大きく取り上げられるのです。ですから、ある個別の事件があったからといって、それを根拠に厳罰化しろというのは短絡的思考です。

 次に、厳罰化には犯罪の抑止効果があるという考え方がありますが、これは実証されていません。原田隆之氏の『入門 犯罪心理学』(ちくま新書)にはそのことが詳しく書かれています。また私も以前、『なぜ人を殺してはいけないのか』(PHP文庫)という本の「死刑は廃止すべきか」という章で、その実証不可能性を論じたことがあります。私は死刑存置論者ですが、その立場を取るのは死刑に抑止効果があるからではありません。

(つづく)

日本の自死の心理的背景

2019年02月01日 19時12分45秒 | 思想


昨年九月に、このブログで、稀勢の里と大坂なおみ選手を比べながら、ルーツやアイデンティティの異なる有名人を無理やり日本人にしたがる日本の習性のおかしさについて述べました。
https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20180928/

その後4か月、ほぼ同時期に、稀勢の里は引退、大坂選手は見事に全豪オープンで優勝し、世界ランキング一位を獲得しました。
明暗がくっきり分かれたわけです。
前記事における筆者の論理からすれば、これは極めて情けない事態だということになります。
それ見たことかとまでは言いませんが、稀勢の里の引退には横綱を続けるだけの実力がないことが証明されたのです。
一方、大坂選手は、ルーツもアイデンティティも日本人ではないのに(だからこそ?)、21歳でテニス界の女王に輝いたのです。

ところが、日本のマスメディアは、こぞって強引にも彼女を日本人として遇し、このたびの栄冠を、あたかも日本人の名誉であるかのごとくに扱いました。
NHKなどは、レギュラー番組を中止してまで、全試合を放送したのです(じつは筆者も、ほんの少しは彼女を応援したい気持ちがあったので、一部見たのですが)。

ところで、1月31日付で書かれた窪田順生氏というノンフィクションライターの、次のようなネット記事を見つけました。
https://diamond.jp/articles/-/192484

この人が書いていることの「思想」にはまったく共鳴できませんが(事の困難を見ない単純な多文化共生主義なので)、指摘されている「事実」には信頼がおけます。
ことの発端は、日清食品のCMのイラストです。
このCMは、人気漫画『テニスの王子様』にもとづいており、この漫画に登場する「アメリカ代表候補のC・リデル」が、大坂選手と同じような褐色の肌で描かれているのに、大坂選手のほうは、錦織選手と同じ白色で描かれているというのです。
ニューヨーク・タイムズが「ホワイト・ウォッシュ」ではないかという批判記事を載せて、大騒ぎになりました。
https://www.j-cast.com/2019/01/23348707.html?p=all

いかにもNYタイムズがつつきそうなネタです。
日清食品は、「多様性に配慮が足りなかった」として謝罪し、CMを削除しました。

その後、時事通信が、「なぜ多くの人が騒いでいるのかわからない」という大坂選手のコメントを載せた記事を配信し、朝日新聞もそれに追随するような発言内容を載せたそうです。
ところが窪田氏によると、これは「デマ」だったということです。
時事通信も朝日も、その後訂正記事を載せました。
窪田氏の記事から引用しましょう。

 《例えば、先ほどの「なぜ多くの人が騒いでいるのか分からない」というのは、訂正後は「このことで心を乱される人たちのことも理解はできる」と、180度逆の意味になってしまっているのだ。
  しかも、時事通信とほぼ同じ内容の報道をした朝日新聞の「訂正して、お詫びします」という記事を見ると、先ほどの言葉の後に、「この件についてはあまり気にしてこなかった。答えるのはきちんと調べてからにしたい」と述べている。気にしないどころか、これを契機にホワイトウォッシュや差別という問題について意識をすると述べているのだ。ちなみに当初、朝日ではこのコメントを「この件についてはあまり関心が無いし、悪く言いたく無い」と「誤訳」していた。


この後、窪田氏は、こうした現象の背後に、悪意はなくとも、大坂選手のアイデンティティや心情を無視して、勝手にこちらが望むように「日本人化」していく日本人の無意識の意図があると指摘します。
次の記述を見ると、そのことを示す「事実」の指摘にいっそう賛同できます。

 《幼い頃からアメリカで育って日本語に不慣れな大坂さんにとって、自分の気持ちを正確かつストレートに伝えるのには英語がもっとも適していることは言うまでもない。しかし、日本のメディアはこんな質問を繰り返した。
「今の気持ちを日本語で表現するとしたらどんな気持ちですか」
「クビトバ選手、左利きの選手だった。大変だったと思うんですけど対応が。まずは日本語でどれぐらい大変で難しかったかって一言、お気持ちどうでしたか」
 大坂さんに一言でも二言でもポロッと日本語で語ってもらい、それで「出ました!なおみ節」という日本の伝統芸能のような大騒ぎをしたいというメディア側の事情もよくわかるが、どう考えてもやりすぎだ。実際、「大坂さんは英語で言わせていただく」と拒否している。


大坂選手の「拒否」は、複雑なことを日本語で言えない以上、当然のことで、「日本人化」を強いる記者たちのアホぶりが目立ちます。

ところで窪田氏は、同記事の中で、このような「日本人化」を強いることは、「非常に恐ろしいことだ」と述べています。
なぜ「非常に恐ろしいこと」なのかというと、多様性を無視した日本人中心主義がそうさせているからだというのがその理由のようです。
しかし、筆者はこれには全然同意できません
窪田氏に限らず、いま日本の知識人、政治家、マスコミは、「ナショナリスト」とか「人種差別主義者」とかレッテルを張られるのを極度に恐れており、その怖れに目を塞ぐために、「多様性の尊重」という欧州由来の新しいイデオロギーに、あっという間に洗脳されてしまったのです。
しかし「多様性の尊重」という態度が原理主義と化した結果、欧州がどんな惨状を呈しているかは、かの地域の移民・難民問題を見れば一目瞭然です。
日本は、まだ欧州ほど移民・難民問題が深刻化していないので(一部ではしていますが)、「多様性の尊重」とか「多文化共生」といったイデオロギーをのんきに受け入れていられるのです。

先のブログで、筆者(小浜)は、次のように述べています。

筆者が気になるのは、日本で起きている「なおみフィーバー」では、彼女が人種的に中米系の血が濃厚であり、育ちがアメリカであり、母語が英語であり、二重国籍者であり、現在もアメリカ在住者であるという事実をまったく気に留めず、ひたすら日本人としてしか扱っていないという点なのです。
つまり、そこに、はしゃいでいる日本人たちの強引さを感じるわけです。
このフィーバーの背景には、彼女は何が何でも根っからの日本人、と思いたがっている日本人たちの深層心理が作用してはいないか。
(中略)
この傾向は、自国の文化や存在感が世界にあまり認めてもらえないので、無理にでも国際的日本人を作り出そうとする、一種の「弱さのナショナリズム」ではないでしょうか。
またこれは、日本人力士を、その実力のほども正確に見積もらずに、彼がただ日本人であるという「観念」だけで異様なほどに応援する心理と背中合わせではないでしょうか。


引用でわかる通り、筆者は、窪田氏とは違って、日本人が「多様性」や「多文化共生主義」を認めないから、大坂選手に対する日本人の態度に違和感を持つのではありません。
逆に、ちょっとでも日本人にかかわりがあれば、その人を日本人と思いたがってしまう安易な傾向のうちに、対世界コンプレックスと、健全でない、弱さのナショナリズムを見出すからなのです。
これは、その大きな弊害も問わず、管理体制も整わず、ろくな審議もせずに、移民法(出入国管理法案)を安易に国会通過させてしまう集団心理と表裏一体です。
なぜなら、このたびの移民法案の国会通過を許してしまった事態のなかには、「日本に来さえすれば、四分の一か五分の一くらいは日本人になるのだから、とにかくあとは来てから何とかしましょう」といった、何の国家戦略もない、安直極まる空気が感じられるからです。
そんなに甘いものではないことは、いま欧州の例で述べたとおりです。
つまり、国際社会に対峙する時の、ものの見方が根本的に甘いのです。

遅ればせながらダグラス・マレー氏の『西洋の自死』を読みました。
西欧近代のイデオロギーである「人権と自由と平等と寛容さ」が、イスラム系の人たちを中心とした移民・難民の急激な増大を許しました。
この本では、これによって、いかに自分たちの実存とアイデンティティを根底から侵されつつあるか、その恐るべき実態が、これでもかこれでもかと言わんばかりにリアルに表現されています。
つまりそれは、EU委員会やメルケル独首相をはじめとする西欧のエリートたちが、「多文化共生」という麗しい名目に隠れて、真実を隠蔽し、何らの有効策も打たないままに安手の人道主義という欺瞞を続けてきたツケなのです。

日清食品のCMを批判のまな板に乗せたNYタイムズは、西欧ではなく、アメリカの新聞ですが、その批判の思想的な基盤は、西欧の移民・難民の無際限の受け入れを可能にしたものと同じです。
つまり、褐色の肌を白い肌に置き換えて表現することは、たとえ何気なくそうしたことでも、その差別性を糾弾されなくてはならないのであり、ポリティカル・コレクトネスに違反することなのです。
この非妥協的な原理主義が、いま欧米先進諸国を後戻り不可能なほどに荒れ狂っています。
これに異議を唱えることはおろか、疑問を持つことさえ許されていません。
要するに、人権や平等や自由という名の全体主義が支配しているのです。
もちろん、この支配に対する抵抗と逆襲がヨーロッパ各国で起きてはいますが、その行く末は混沌としています。

日本は、こうした恐ろしい事態を「他山の石」として学ぶのではなく、反対に、いつもの「出羽守」によって、見習おうとしています。
なおみフィーバーによって大坂選手を是が非でも「日本人」にしたがる日本人の心理は、裏を返せば、大量移民受け入れが何をもたらすのかについて、何の危機感も抱いていないことの一つの証左なのです。


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