小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

福沢諭吉は日本の「周回遅れ」を憂えていた

2017年10月24日 21時19分05秒 | 思想



福沢諭吉について本を書いています。
彼は真正のナショナリストでした。
その心は、当時列強の脅威に取り巻かれる中で、日本の独立を
真に成し遂げるには何が必要かを一心に考え抜いた人

という意味です。
いまの言葉で言えば、グローバリズムと真剣勝負をした人なのです。

しかし彼はしばしば欧化主義者とか平等主義者とか
単純な開化主義者といった誤解を受けてきました。
そういう理解は、彼の言葉の断片だけを、自分に都合のよいように
切り取ってきて解釈するところから生じたものです。

いまここに、明治12年(1879年)に書かれた
「民情一新」という福沢の論考があります。
この論考は、西洋で蒸気機関、電信、印刷、郵便が
発明されたことによって、人民の生活や意識に
どんな変化が生じたかを論じ、日本もそれをよく参考にして、
これからの進むべき道を説いたものです。

その「緒言」に、次のような一節があります。
(わかりやすくするために、一部の漢字は平仮名に、
仮名遣いと送り仮名は現代風にし、難読漢字には
カッコ書きで読みを付します。)


「しかるにここに怪しむべきは、わが日本普通の学者論客が、
西洋を盲信するの一事なり。十年以来、世論の赴(おもむ)く
ところを察するに、ひたすら彼の事物を称賛し、これを欽慕
(きんぼ)し、これに心酔し、はなはだしきはこれに恐怖して、
毫(ごう)も疑いの念を起こさず、一も西洋、二も西洋とて、
ただ西洋の筆法をもって模本(もほん)に供し、小なるは衣食
住居のことより、大なるは政令法制のことに至るまでも、その
疑わしきものは、西洋を標準に立てて、得失を評論するものの
如し。奇もまたはなはだしというべし。今日の西洋諸国は、
まさに狼狽(ろうばい)して方向に迷う者なり。他の狼狽する
者を将(とっ)て以てわが方向の標準に供するは、狼狽の最も
はなはだしき者に非ずや。」


これを読んだ方、「これっていまの安倍政権のことじゃないの」
と思いませんでしたか?
筆者はすぐに移民政策、規制緩和、国家戦略特区、派遣法改悪
のことなどを連想しました。
そうして「わが日本普通の学者論客」という言葉からは、
竹中平蔵氏の顔が思い浮かびました。

この引用文の中で、「今日の西洋諸国は、まさに狼狽して方向に
迷う者
なり」という指摘があります。
1870年代当時、ヨーロッパ大陸では普仏戦争後の混乱が続き、
特にフランスではパリ・コミューンが成立、すぐ鎮圧されたものの、
その後もヨーロッパ中で労働運動が大きな社会勢力となっていきます。

マルクス=エンゲルスによる「共産党宣言」が1848年、
第一インターナショナルの結成が1864年、
アメリカ南北戦争が1861年から65年ですから、
福沢が「狼狽」という言葉で表現しているのは、
この19世紀後半の欧米における階層社会の大きな流動化
意味していると見て間違いないでしょう。

じっさい福沢は、この少し前のところで、「人民への教育が広まる
ことはけっこうなことだけれども、それによって身分の低い労働者の
不平不満はかえって高まり、金持ちの権力や財産を犯して、遂には
国の秩序を害することになるだろう」というウォークフィールドの
論を引いて、ヨーロッパにおける当時のブルジョアジーの不安と懸念を
紹介しています。

文明の発達による人間交際の活発化は、よいことばかりではなく、
新たな社会問題の種ともなります。
そこで福沢は、発明が引き起こす「民情一新」に対しては、
その変化の「実況」に応じて事に処することを心得た者だけが
文明を語る資格がある、と結論づけています。

まことにそのとおりで、これを現在に引き寄せて言えば、
経済的自由主義、つまりグローバリズムの進展が国家の秩序や国民の
安寧を脅かすような「実況」が出現すれば、そのつどその事態を
正確に見抜いて、適切なコントロールを加えることのできる人材や
方法論
が必要とされるわけです。

いまの日本の政治は、残念ながらそのようになっていません。
欧米の移民・難民問題が深刻化して、すでにどの国も「狼狽」の
状態にあり、規制に乗り出しているにもかかわらず、安倍政権は
これから移民政策を積極的に取ろうとしています。
また自由貿易主義の建前が、じつは強国や一部の富裕層の欲望を
満たすにすぎないという事実に、安倍政権は少しも気づかず、
せっせとその受け皿づくりに励んでいる始末です。

福沢が、「その疑わしきものは、西洋を標準に立てて、得失を評論
するものの如し。奇もまたはなはだしというべし。」と嘆いた事態を
いまの日本の政治は相変わらず繰り返していることになります。
彼は、この日本の「周回遅れ」の情けなさを早くから感じ取り、
そのもたらす弊害を予言的に憂慮していたのでした。

福沢が願った「一国の独立」つまり健全なナショナリズムは、
いまだに果たされていないというべきです。


【小浜逸郎からのお知らせ】
●11月12日(日)、14:00より、ルノアール新宿区役所横店で、哲学者・竹田青嗣氏との公開対談を行います。
テーマは、「グローバリズムとナショナリズムのはざまで」
詳しくは、以下。
https://mdsdc568.wixsite.com/nichiyokai
●『表現者』連載「誤解された思想家たち第28回──吉田松陰」
(10月16日発売)
●来年は明治150年です。これを期して、いま、『福沢諭吉の闘い方』(仮)という本を書いています。まだだいぶ時間がかかりそうですが、なるべく早く書き上げます。どうぞご期待ください。


誤解された思想家たち日本編シリーズ(10)――伊藤仁斎(1627~1705)

2017年10月14日 12時40分25秒 | 思想



 このシリーズのもとになっていた論考は、西部邁氏が主宰されている隔月誌『表現者』に連載してきたものです。はじめは西洋の哲学者中心に続けていたのですが、二回目だけは、孔子(孔丘)を論じました。
 その後、計14回まで続け、孔子を除いた13回分を『13人の誤解された思想家』(PHP研究所)として単行本にまとめました。それ以降も連載を続け現在に至っていますが、こちらは、日本の思想家を取り上げてきました。
 しかし、連載原稿の枚数は限られていますので、必ずしも意を尽くさない憾みがのこります。またなるべく多くの人に目を通してほしいという筆者の願いが叶うにはおのずと限界があります。そこで、加筆修正を加えながらこのブログ上に掲載することにしました。


 さて二回目で孔子を取り上げた時、筆者は、『論語』というのは学識豊かで視野の広い人生の苦労人が弟子たちとの親密な交流を通して一種の「世間知」を説いたものだという理解を示しました。だからこそ二千五百年もの間その偉さが伝えられてきたのだと。
 浅学の謗りを覚悟で言うなら、儒者・伊藤仁斎はこのような理解に道を与えてくれることに最も貢献した思想家です。
 彼が中国儒教の哲学体系である朱子学に敢然と、かつ執拗に闘いを挑み、独自の思想的境地を開いたことは有名です。その大胆不敵・不撓不屈の構えは、イエスのパリサイ派に対する、ガリレイのスコラ学に対する、法然の聖道門に対するそれに比すべきものといえましょう。
 仁斎がやったことは、ひとことで言えば、朱子学の頑迷固陋な形而上学性を完膚なきまでに解体したことです。このことによって彼は、中国思想への追随と咀嚼・吸収の過程からの脱却を果たし、日本の学識者が長きにわたって意識下に沈潜させてきた中国コンプレックスからの解放を成し遂げたのです。
 日本で朱子学が学問の中心を占めるに至ったのは、言うまでもなく、林羅山が藤原惺窩の推挙によって家康に仕え、御用学問として権威をふるってからですが、それからわずか数十年後に、早くもその権威に対して、儒者自身による内在的な批判が発生したことになります。
 仁斎の後に登場した荻生徂徠、富永仲基、石田梅岩、本居宣長らは、それぞれ学風を異にしていますが、みな、仁斎のこの脱中国思想という功績の恩恵を直接・間接に被っています。
 もっとも徂徠は仁斎に批判的でしたが、それでも仁斎がいなければ、自由に儒教思想を相対化する言論の地平が開かれることはなかったでしょう(後述)。
 もちろん仁斎は、仲基や宣長と違って儒の教えにどこまでも忠実で、特に孔孟の二人を絶対的に尊敬していました。しかし彼が現実になしたことは、徳川家の御用学問であり知の殿堂としてそびえていた朱子学の権威を、その内部に入り込んで換骨奪胎することだったのです。
 朱子学の頑迷固陋な形而上学性と言いましたが、これには言語の問題が大きく絡んでいると私は見ています。
 中国語は孤立語と呼ばれるように、活用も時制もなく文字に記した時には漢字の羅列として表現されます。これは日本人にとって石のように堅固なものという印象を与えたでしょう。
 ことにそれが抽象的なキーワードである場合、いったいこの字はどういう概念なのかという疑問を強く喚起します。しかもそれらはほとんどの場合、一字で表されます。天、地、道、仁、義、礼、智、信、勇、性、理、情、忠、孝、悌、親、別、誠、直などなどきりがありません。
 日本人はこの事情に対して長い時間をかけて、やまとことばとの間に照応関係を見出そうとしてきました。訓を当てたり、日本語の統辞法に合った読み下し方を考案したり、宣長の言う「緒」の連なりの途中に「玉」に当たる部分として組み入れたりすることによって。

 ところで宋学(朱子学)が大成されたのは、孔子や孟子の時代からすでに千五百年後のことです。その間にはいくつもの王朝の交代があり乱世もありました。こうなると同じ中国とはいっても、はるか昔の聖人の言を巡って、この字の本当の義は何かといった整理をする必要が出てきます。
 もともと表意文字である漢字にはそういう神秘性が具わっています。だから宋代には、孔孟がどういう生活文脈でこの文字を使ったのかわからなくなっていたと想像されます。
 いやはや、ああでもない、こうでもないといったにぎやかな議論が長年にわたって湧きたったことでしょう。
 やがて程子、朱子のような大家が登場して、孔孟が唱えた真意とは一応独立に、字と字との連関を、宋の時代に使われていた概念にもとづいて体系化してみせます。
 この試みによって、一字一字はそれだけでかえって、何やら深遠な重みを増すことになります。つまりは形而上学の誕生です。だから事情は本国においてもそんなに変わらない。これが日本の知識界にも襲いかかったのです。
 朱子学の形而上性と仁斎によるその批判とは、具体的には次のようなことです。
 朱子学的考えによれば、天道は気すなわち陰陽の動きとして現象しているが、その現象を現象たらしめている「本体」がありそれは理である云々。これに対して仁斎は次のように批判します。

考亭(朱子のこと――引用者注)以謂らく、陰陽は道に非ず。陰陽する所以の者、是れ道と。非なり。陰陽は固に道に非ず。一陰一陽、往来已まざる者、便ち是れ道。考亭本太極を以て極至とし、一陰一陽を以て太極の動静とす。繋辞(『易』繋辞伝――引用者注)の旨と相悖ること太甚しき所以なり。》(『語孟字義』上、天道1)

 確かに陰陽は天の道ではないが、一陰一陽が絶えず行き来している「こと」そのものが「天の道」なのであって、太極なる「実体」がそれを動かしているわけではない――この批判は、西洋哲学で言えば、プラトニズムにおけるイデアの設定に対する批判と同型をなしています。
 イデアなどという「もの」はない。知覚現象があるというその「こと」だけが疑い得ない与件である――これは、たとえばバークリーや現象学の立場です。
 仁斎は現象の「ありのまま」を現象として認めよと説いて、哲学言語の陥りがちな「概念の実体化」とは逆の見方を提出しているわけです。
 漢字は一字で重要な概念を表すのでそれを実体と見なしやすく、そのため知識人は経験を踏まえない形而上学的遊戯に陥る危険がある旨を述べました。
 漢学の素養によって思考する他なかった仁斎もまた本来の字義を糺すという方法でこの危険な世界に入って行きました。主著『語孟字義』『童子問』はまさにその方法によっています。しかし成果として出てきたのはかえってこの危険な傾向を突き崩すものでした。

 また朱子学のいわゆる理気二元論では、万物の質や材料は気によるがその内在的原理は理であるとされます。論理的に理が気に先立つわけで「初めに理ありき」ということになります(理が先か気が先かという議論もあったようですが)。
 するとすぐ連想されるのが、ヨハネ伝の第一句「はじめに言葉(ロゴス)ありき」です。両者は酷似してはいないでしょうか。
 ヨハネ伝は四福音書の中でも際立って思弁的で、イエスの言行録に論理的な基礎づけを割り込ませている強引な意図があらわです。
 ところで両者が酷似している事実は、その由来はともかくとして、中国大陸とヨーロッパ大陸とが意外なほど同じ発想を取っていることを象徴しています。つまり経験的事物を超越した抽象観念(その窮極は善のイデアや唯一神や太極などの観念表象)をより高いものとして仰ぐのです。
 これはもちろん、自然や人との直接的・現在的な交わりに深い自己同一性を見出す日本人古来の思考様式に合いません。仁斎が朱子学の宇宙論的発想を受け入れず、天地は「いま」生き生きと動いているという活物的世界観を唱えたのもむべなるかなです。彼はすぐれて日本人だったのです。

 仁斎は若い頃朱子学に心酔しますが、ほどなく不安神経症になります。彼が神経症に苦しみながらも朱子学と格闘した末に達した境位とは何でしょうか。
 それは高遠難解な哲学的思考のうちに孔孟思想の真価が宿るのではなく、普通の人々が毎日の交流を通して互いにとって「よきこと」を実践しようと努めているその営みにこそ、仁義礼智、孝悌忠信などの徳が実現されているという確信でした。
 彼はその倫理学的把握を「人倫日用」というキーワードで表します。そうして孔子や孟子もまたそれを求めて止まなかったに違いない、彼らが聖人と呼ばれるのは普通の人の到底及ばない徳の最高の実践者であったからではなく、むしろ「人倫日用」における徳の実践の大切さを教えとして明示し、人々を自覚に至らせようとした点にあるというのです。
 仁斎はまた、『論語』中の「君子の過ちや、日月の食の如し。過つや人皆之を見る。更むるや、人皆之を仰ぐ」(子張21)という語を引いて、聖人も人間だから過つことがあるとはっきり述べています。
 さらに彼は、高遠なところに上った者は必ず卑近なところに還ってくると説いて、卑近のうちにこそ本来の道が顕れるとも言っています。
 また彼が頻用する「学者」という用語は私たちが普通イメージするのとは違って、貴賤賢愚の別なく、徳とは何かをひたすら追究して自らの日々の実践に活かそうと心がける者のことを指します。
 こうして仁斎は道徳の拠って来たる所を、宇宙の原理(天道)のようなどこかの高みに置くのではなく、あくまで直接的な人間どうしの関係に置いていました。私はこの捉え方に一種の感動を覚えます。
 仁斎の生活第一主義的な把握は、単に朱子学の形而上学に対する反措定であるのみならず、近代西洋哲学の雄カントの倫理学説に対する鮮やかな転回にもなっています(拙著『13人の誤解された思想家』参照)。
 仁斎は儒学への関心をもっぱら道徳の実現に差し向けました。これさえしっかり確立されれば世の中は必ずうまく治まると考えていたのです。孟子のいわゆる「性善説」解釈もこの考えに沿ったものです。
 それによれば、人は天性として善であるというのではなく、もともと四肢を持つのと同じように「四端の心」を持ち合わせている(四端とは、善に到達するための惻隠、羞悪、辞譲、是非の「糸口」のこと)。それに適切な教えを施せば、ちょうど山間の水が低きに流れて大海に注ぐように、また小さな芽がやがて大木として成長して雲にまで達するように広がり、万世に徳が行き渡るというのです。人倫日用を孔孟思想の本旨とする限り、このような解釈になるのもそれはそれで当然と言えましょう。

 しかし利害角逐が当然の複雑多様な世界に住む私たち近代人なら、そんな甘くはないよとすぐ言いたくなるはずです。
 一人一人が身を修める構えとしてはそれでよいし、道徳が行き渡ることも世が丸く治まるための大切な条件の一つかもしれないが、どうしようもない犯罪者に処するには厳しい法も必要だし他国と相渉る時には敵を欺き丸め込む巧智も必要だろう。むしろ韓非子やマキャヴェッリにこそ学べと。
 たしかにその通りで、孔孟=仁斎の徳治主義は現代では当てはまらないとして批判することは簡単です。しかしどちらが正しいかをいま争っても始まりません。むしろここでは、この仁斎が辿った孔孟思想の解釈の道筋とはまた違った解釈を立てて仁斎を批判した荻生徂徠の立場を瞥見し、両者の相違が日本思想史にとって持つ意味を考えるほうが生産的です。
 徂徠は概ね次のように仁斎を批判しました。論語にせよ孟子にせよ、仁や慈愛の必要を説いたその対象は君子集団であって、人民に対してではない。その証拠に彼らはしきりに堯、舜、文王などの聖人や先王を模範として引いて、経世済民、つまりよき統治のために何が必要かを説いている。仁斎先生は誰かれの区別なく慈愛の精神を拡充していけば世が平安になるとの説を弄しているが、この君子集団から外れてしまったら、ただ性を異にする雑多な民衆が残るだけだ。
 この批判はなかなか鋭く的確ですね。
 要するに徂徠は孔孟の道徳思想を統治のための学(帝王学)と見ていたわけです。事実、孟子の場合は特にその傾向が強く、問答に登場するのは王、諸侯がほとんどです。そういう面を強調すれば、たしかにそこで説かれている道徳命題を安易に人民にまで広げることはできません。
 さてこの解釈の違いが日本思想史上何を意味するかといえば、これは丸山眞男の『日本政治思想史研究』の中ですでに克明に説かれています。いわく、江戸時代前期における儒教思想の歩みは朱子学の混沌とした理気二元論を変質させていった。それは自然と作為(人為)とを明瞭に分化させてゆく過程であり、さらに進んではその人為を道徳と政治とに分化させてゆく過程をも意味した。
 この分析によれば、いうまでもなく道徳を代表するのが仁斎であり、政治を代表するのが徂徠です。政治学者・丸山は徂徠による政治学の成立をもって朱子学の解体が完成したと見るわけです。
 異論はありませんが、先述のとおり、その解体の基礎を提供したのは、明らかに仁斎その人です。そうして同時に、人間社会(世の中)の事象をこのような人為によるものと見る視線の獲得は、近世においてようやく宗教的言語(日本の場合は仏教)によって思想を語るメンタリティーが衰え、代わって人間社会をまさに一定の構造を具えた「社会」として見る近代的な合理精神の萌芽が育ちつつあったことを意味します。西洋におけるデカルトに相当します。

 ところで仁斎は、仏老(仏教と道教)を、空理を語るものとして再三批判しています。この場合の仏教とは禅宗ですが、仁斎の批判の要所は、禅宗が単なる一身上の澄み切った心の修養を目指すのみで、何ら君臣父子夫婦兄弟朋友などに相渉る現実的な「関係の倫理」に触れないという点にあります。それでは世の中をよくするような実践にはまったく結びつかないと彼は考えました。
 これはやはり新しいプラグマティックな思考様式の一つの兆候というべきでしょう。
 前回扱った鈴木正三は一応禅宗徒でしたが、その思想は止修行や看話禅に対して批判的で、きわめて行動的な性格のものでした。流派としては対立していても、ここに仁斎思想との連続を見出すことができます。
 さらに前々回扱った一休においては、彼岸における「救い」の約束に対する深い絶望が見られました。このように見てくると、そこに日本思想史のある流れを見出すことができると思います。
 それはひとことで言えば、「来世の救い」から「現世の倫理」への思考様式の大きな転換です。この時から先駆的な日本人は、しだいに伝統宗教の語法を捨ててより近代的な語法にシフトしていきました。
 近代は単に西洋が突然もたらしたものではなく、対外関係が相対的に閉鎖的だった江戸時代において、内在的にその準備過程が進んでいたのです。それにはやはり商工業の発展という下部構造的な要因が大きかったでしょう。一介の町人であった仁斎はまさにその結節点に立っていたのです。

日本からはもうノーベル賞受賞者は出ない?

2017年10月10日 21時28分59秒 | 思想



今年もノーベル賞が決まりました。

巷では、日系イギリス人のカズオ・イシグロ氏が
受賞したというので評判になっています。

それは結構なことですが、
残念ながら自然科学部門では、
日本人受賞者がいませんでした。

この数年、物理学賞、化学賞、医学・生理学賞で
矢継ぎ早に日本人が受賞してきました。
ところが今年はゼロ。

ちなみに自然科学部門以外のノーベル賞は、
受賞した方や団体には失礼ですが、
あまりその価値が信用できません。
人文系は基準があやふやだからです。
特に平和賞はいいかげんですね。
でも自然科学部門では、かなり信用がおけます。

ところで、21世紀に入ってからの日本人受賞者は
自然科学部門で16人もいます。
毎年一人の割合ですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E8%B3%9E%E5%8F%97%E8%B3%9E%E8%80%85

この人たちの受賞時の年齢を調べてその平均を出してみました。
すると、68歳と出ました。

これから、いささか悲観的な予測を述べます。

どの分野であれ人間が一番活躍するのは、
30代から50代にかけてでしょう。

日本のノーベル賞受賞者の方たちが研究に一心に打ち込んだのも、
おそらくこの年代だったと思われます。
ですからこの方たちがわき目もふらずに、
寝る間も惜しんで研究に没頭したのは、
おおよそ1970年代から2000年代初頭くらいと
いうことになります。

もちろん受賞時の年齢には相当なばらつきがありますので、
若くして受賞し、いまなお活躍されている方もいます。
しかし平均的にはそうだと思うのです。

ところで言うまでもないことですが、
長年研究に没頭するには膨大な研究費が要ります。
企業研究の場合は応用研究ですから、
それが利益につながると経営陣が判断すれば
その費用は企業がもってくれるでしょう。

しかしノーベル賞を受賞するような研究は、
多くの場合、大学や研究所に身を置いた基礎研究です。
すると、研究費を大学の研究資金や政府の補助金に
頼ることになります。

先ほど述べた1970年代から2000年代初頭という時期は、
日本が今日のような深刻な不況に陥っていない時期で、
間には、一億総中流のバブル期もありました。

調べてみますと、それ以後の失われた二十年の間に、
科学技術研究費の総額はそれほど減っているわけではありません。
しかし文科省の「科学技術関係予算等に関する資料」(平成26年)の
主要国等の政府負担研究費割合の推移
および「主要国等の基礎研究費割合の推移
というグラフを見てください。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/034/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2014/04/21/1347062_03.pdf

八十年代初頭から、前者は下がり気味、後者はずっと横ばいです。
しかも他の先進国と比べるとたいへん低いことがわかります(前者では最低)。

このことは、政府が、
国家的な基礎研究にろくに投資してこなかったことを意味します。
それでも好景気の時は、民間や大学の資金がある程度潤沢だったのでしょう。

上の資料は2013年までのものですが、
その後、消費増税などもあり、デフレが深刻化しました。
内閣府が出している「科学技術関係予算」という資料の、
【参考】科学技術関係予算の推移」というグラフを見ますと、
安倍政権成立以降、この予算がさらに削られていることがわかります。
http://www8.cao.go.jp/cstp/budget/h29yosan.pdf#search=%27%E7%A7%91%E5%AD%A6%E6%8A%80%E8%A1%93%E9%96%A2%E4%BF%82%E4%BA%88%E7%AE%97+29%E5%B9%B4%E5%BA%A6+%E5%B9%B4%E6%AC%A1%E6%8E%A8%E7%A7%BB%27

大学でも、すぐ実用に適さない研究はどんどん削られる傾向にあります。
こうした傾向が続く限り、もう今後日本からは、
自然科学部門でのノーベル賞受賞者は出ないのではないか
そう危惧せざるを得ないのです。

筆者は去る9月18日にある情報に触れ、愕然としました。
ノーベル賞受賞者で京都大学iPS細胞研究所所長の山中伸弥さんが、
「ご支援のお願い」として寄付を募っているのです。
それだけならさほど驚きませんが、何と次のように書かれていました。
「iPS細胞実用化までの長い道のりを走る弊所の教職員は、
9割以上が非正規雇用です。
これは、研究所の財源のほとんどが期限付きであることによるものです。」

とっさに「財務省よ! 竹中よ!」と、怒りがこみ上げてきました。
単年度会計、短期決戦での利益最大化。
長期的な見通しや雇用の安定など知ったことではない。
ノーベル賞級の基礎研究までが、この風潮の犠牲となっているのです。

こういう状態がこのまま続くと、日本の科学技術は、
確実に世界に遅れを取ってしまうでしょう。

寄付に頼るというのはやむを得ない手段と言えますが、
そこにばかり依存してしまうようになるとしたら、まことに切ない話です。
国民経済の立場からは、政府の間違った経済政策に対して
もっともっと怒りの声を発するべき
なのです。


「希望」拾遺集

2017年10月05日 10時53分18秒 | 思想



上記のように「希望の党」の公約原案が公表されました。
一見して、支離滅裂というしかありません。
この支離滅裂さは、次の二つの理由に拠っています。

①他党の綱領やこれまで誰かが言ってきたことをそのままパクっていること。
②選挙対応策として、自民に対抗する姿勢を顕著に打ち出すための目玉商品を、見境もなく打ち出していること。

①と②との間で矛盾をきたしてしまうのは当然ですね。

①は、主として日本維新の会のそれです。
一院制導入、国会議員定数と報酬削減、国会権限強化、道州制などがこれに相当します。
これらはいずれも、緊縮路線であると同時に、地方の過疎・貧困化促進の政策です。
維新の全体主義的性格をそのまま受け継いでいるわけです。
いったい何のために自党の政策として一院制や道州制を導入するのか、小池代表は説明する義務があるでしょう。

また、しばしば説かれてきたベーシックインカムは、じつは、日本のこれまでの社会保障システムを崩壊に導くためのばらまき路線です。
極少額のお金を支給して、その後に、これをアリバイにして、皆保険制度、年金制度、生活保護制度などに手を付ける魂胆、見え見えですね。

原発ゼロは、サヨクに媚びを売るための目玉ですね。
その一方で、「再稼働できる原発は有効活用」とは、なんのこっちゃ。
わが国のエネルギー安全保障など何も考えていない。不真面目極まります。

消費税引き上げ反対は、対自民党対策の目玉ですが、増税を強硬に主張する財務官僚やバカマスコミの壁をどのように突破するのか。

「金融緩和と財政出動に過度に依存しない」というのは、本来のアベノミクスの否定ですが、同時に、財務省が泣いて喜ぶ緊縮路線そのものです。
これにより、デフレはますます進むでしょう。

企業の内部留保課税は、財政出動の回避であるとともに、民間の資産(ストック)に対する財産権の侵害、つまり憲法違反です。

にわかごしらえの「希望の党」、かくもデタラメの公約を披露して、天下に恥じないらしい。

さて、先日来、フェイスブックその他を通じて、「旧」民進党と希望の党をめぐる流れを揶揄する狂歌その他をいくつか発表してきましたが、これに呼応して、何人かのみなさんが、なかなかの傑作を寄せてくださいました。
そのまま消えてしまうのはもったいない気がしますので、以下、拙作も含め、発表順に「拾遺集」としてここに記録させていただきます。
いちいち了解を求める余裕がないため、無断転載となりますが、どうぞ作者のみなさまには、お許しを願う次第です。


                               逸 郎
池のはたに 咲く白百合に 惑わされ 前の原ぐさ みななびくかな      (10月1日)


                              伸 二  
立つよ必ず 都民を捨てて あと白波の ゆりのすけ              (10月1日)

                            
                          よみびと知らず 
安倍がつき 小池がこねし 天下餅 すわりしままに 食うは竹中       (10月1日)


                              逸 郎
《返し》竹中を 打ち割りてみれば こなれたる 安倍川餅や 小池の魚     (10月1日)


                              草 一
ミサイル飛ぶ 日本の空に 雲深し 身捨つるほどの 政策はありや      (10月1日)


                              逸 郎
みんしんと 夜の更けるまに 人は去り 枝の先まで やせ細るかな      (10月2日)


                              逸 郎   
このたびは  知事も捨てきれず  小池山  人集めなど  金のまにまに     (10月4日)


                              重 忠
総理取ろうか 都知事にするか ここが思案の 豊洲駅            (10月4日)


                              逸 郎
希望とは 政治用語か 民進の 身の置き所とは なりにけるかな       (10月4日)


                              重 忠
希望とは 夕立避ける 庇なり 晴れなきゃ母屋 脅し取るまで        (10月4日)


  希望が民進の政治資金を頼みとするを揶揄して詠める    逸 郎
解党と はっきり言わなきゃ OKと 小池前原 アウフヘーベン        (10月4日)


                              草 一
兎も角も 選挙で勝つのが かんじんてーぜ あんちがひなんか 知らん顔しよう(10月4日)


                              重 忠
解凍は うまくないよと 新さんま                     (10月4日)


                              逸 郎    
希望という名の あなたを訪ねて 新しい党へと また方針変える
あなたはいまの 私のあこがれ 権力の夢 叶えてくれそう
けれど私が プロポーズした日に 冷たい踏み絵を 突きつけたあなた
いつかあなたと 妥協するまでは 私の旅は 終わりが見える旅        (10月4日)


                              重 忠
懐かしや 「うそ」口ずさみ 票入れる 中条きよし             (10月4日)


こんなところですが、まだまだできそうですね。

最後に
 
    希望の党の公約わりなきを嘆きて詠める        逸 郎
膏薬を あまた貼りたる 晴れ姿 はしと見ゆれど うつろ隠せず       (10月5日)