小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

安倍政権20の愚策(その2)

2018年06月30日 14時14分15秒 | 政治


(11)農協法改革
2015年8月、政府は農業分野に外国資本の参入も可能となる農協法改革を行いました。
例によって調子いいことを謳っていましたが、この改革の趣旨を露骨に示せば、

①農家保護団体「全中」を解体し、個別農家、単位農協をバラバラに市場に向き合わせる。
②農業委員会の委員を首長専任制とし、農業以外の大企業もそこに参加させる。
③農協の要件を緩和し、株式保有者の利益、外資の参入に資するように「自由化」する。

明らかに竹中式構造改革・規制緩和路線の強力なパンチです。
日本の農業は亡びに向かうでしょう。

(12)種子法廃止
これも(11)と同じく、ただでさえ食料自給率の低い日本で農業に壊滅的な打撃を与える政策です。
2016年9月に規制改革推進会議で提起され、都道府県や農家への説明もなく、2017年3月に唐突に国会を通過してしまいました。
すでに今年の4月1日から施行されています。
種子法とは正確には主要農作物種子法と呼ばれ、稲、麦、大豆の種子の開発や生産・普及を都道府県に義務づけたものです。
この制度の下で都道府県は試験研究の体制整備、地域に合う品種の開発と「奨励品種」の指定、原原種や原種の生産圃場の指定、種子の審査、遺伝資源の保存などを行ってきたのです。
政府は「すでに役割を終えた」「国際競争力を持つために民間との連携が必要」などの理屈をつけていますが、とんでもない話です。
民間とはどこか。
言うまでもなく大いに問題な遺伝子組み換え作物を大量生産しているアメリカのモンサント社、デュポン社などの外資です。
以下に世界の種子生産企業のシェアを記します。

1位 モンサント(アメリカ) シェア23%
2位 デュポン(アメリカ) 15%
3位 シンジェンタ(スイス) 9%
4位 リマグレイングループ(フランス) 6%
5位 ランド・オ・レールズ(アメリカ) 4%
6位 KWS AG(ドイツ) 3%
7位 ハイエルクロップサイエンス(ドイツ) 2%
8位 サカタ(日本) 2%以下
9位 DLF(デンマーク)
10位 タキイ(日本)
出典主要農作物種子法廃止について(2007年)

これでどうして「役割を終えた」とか、「国際競争力をつける」などと言えるのか。
有力外資系に独占されるに決まっています。
頭がおかしいとしか言いようがありません。
73年後もアメリカの奴隷国家、日本。

(13)電力自由化
電力自由化の歴史は長く、90年代に始まっていますが、家庭用電力も含めた全面自由化に踏み切ったのは、2016年4月です。
この場合も、なぜ自由化がいいのか、政府は明確な根拠を示し得ていません。電力料金の低減と効率化を理由として挙げていますが、効率化とは自由化論者が必ず使う抽象語で、意味不明なゴマカシです。
料金については、次の指摘がなされています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%8A%9B%E8%87%AA%E7%94%B1%E5%8C%96#%E6%97%A5%E6%9C%AC
 自由化により電気料金の低減に成功した国は今のところない。むしろ、自由化で先行する英国や
 ドイツでは電気料金が急激に上昇しており、自由化されていない日本の電気料金を上回るなど、
 期待されていた電気料金の低下は全く起きていない。




また発送電分離などの自由化が進んでいたアメリカでは、災害時の修復に時間がかかり、大規模停電も起き、価格も乱高下したので、現在では15の州とワシントンだけに限られています。

電力供給の主体は東電などの地域独占ですが、これは総括原価方式を取っています。
この方式には次のようなメリットがあります。

①電力会社が中長期的な計画を立てやすい。
②消費者が過大な料金負担を負わなくて済む。
③企業経営者が長期的な設備投資をしやすい。

そもそも電力はそれがなければ一日も文明生活が送れない最重要な公共財です。
各事業所や家庭に毎日滞りなく安定供給されるためには、発電所から消費者までの全プロセスを総括的に管理する体制が不可欠なのです。
ちなみに以下の図は、自由化施行後、8か月を経た時点での調査結果です。



切り替えなかった最大の理由は、「思ったほど料金が安くならなかった」で、約3割でした。

(14)固定価格買い取り制度(FIT)
この制度は2011年の東日本大震災の1年後、当時の菅直人内閣の下、鳴物入りで始められました。
原発をゼロにして、再生可能エネルギー電力を供給した企業から電力会社が高額で電気を買い取るという制度ですが、これが欠陥だらけであることは既に露呈しています。
再エネの中心である太陽光発電は、安定供給を確保するのに致命的な欠陥を持っています。
夜は発電できないこと、日本の不安定な気候や風雪に弱いこと、など。
それで稼働率はわずか15%程度です。
また広大な用地を確保するのが難しい。
原発一基分の電力を供給するのに山手線内部ほどの面積が必要です。
しかもこの制度は建設計画もないのに書類申請だけで認可されるというずさんなものでした。
そこでこのおいしい話に、電力事業の専門でもない企業の申し出が殺到しました。
電力量は、多すぎても少なすぎても困ります。
そういうわけで、九州、北海道、沖縄、四国、東北の各電力会社は、買取を拒否しました。
加えて消費者には再エネ賦課金が課されます。
賦課金は次第に安くなってきてはいるものの、将来あまり発展する見込みのない電源のために税金のように金を取られるのは腑に落ちません。
これはそのままレントシーカーたちの懐に収まるのです。
ちなみに以下の図によれば、2015年時点で、「新エネルギー」が全電力量に占める割合は4.7%となっていますが、太陽光はその四分の三
ほどですから、3.5%程度ということになります。



2017年4月からこの制度の見直しがなされ、価格の上限設定や入札制度を導入していくらかマシにはなりましたが、太陽光や風力に今後もあまり可能性が見出せないことには変わりありません。
将来性がそんなに見込めない電源のために国民に賦課金を課すような不条理な制度は速やかに廃止し、安全確認がなされた原発から順に再稼働に踏み切ることが望まれます。

(15)混合診療
2016年から混合診療が解禁になりました。
公的保険(健康保険)の利く診療と利かない診療(自由診療)とを組み合わせた診療が受けられるというのです。
一見、診療の範囲が広がって朗報のように聞こえるところがミソです。
混合診療を受けると、わずかな例外を除いて、保険適用分も全額自己負担になってしまうという決まりがあるのです。
おまけに自由診療では、薬代が月700万円もかかるといった場合が出てきます。
お金持ちしか受けられませんね。
それだけではありません。
命や健康は何よりも大切なものですから、そんなにお金がない人でも、この際、混合診療に対応した民間保険に入っておこうと考えるでしょう。
そこをアフラックなどの外資系が狙ってきます。
保険会社は当然、薬会社と提携しています。
患者は健康になれるなら高い薬による治療でも受けたいと思う。
そこで暮らしに困らないようにやむを得ず高い保険料を払って保険に加入する。
こういうからくりになっているのです。
さらにそれだけではありません。
現在の政府の緊縮財政路線では、膨らむ社会福祉関係の支出削減に躍起です。
そこで公的保険の適用範囲を狭めようとしています。
すると逆に自由診療の範囲が広がるでしょう。
つまり政府もこの流れに結託して、国民生活を苦しめようとしているのです。

ところで社会福祉支出が膨らむのは事実だから政府が財源に苦慮するのは仕方がない、とあなたは思っていませんか。
政治家もマスコミも、与党も野党も、ほとんどがマクロ経済をわかっていなくて、財務省の罠に引っかかっています。
財源など国債発行でいくらでも賄えます。
「とんでもない、「国の借金」が1000兆円を超えているのに、これ以上そんなことをしたら財政破綻する!……」
これもまた財務省の仕掛けた罠です。
日本の国債はすべて円建て、政府は通貨発行権を持っていますから、原則としていくらでも国債を発行できます。
また日銀の買いオペは政府との連結決算でチャラになりますからその分負債は減ります。
現にこれまでの量的緩和で、すでに政府の負債は300兆円以上減っているのです。
さらに、たとえ国債が膨らんだとしても、借り換えを繰り返すことで継続して負債を続けてかまいません。
しかも国債発行による政府の消費支出は、その分、市場に流れて国民経済を潤します。
日本に財政問題など存在しないのです。
国民の福祉のために、どんどん財政出動するのが政府の任務です。

(16)水道の自由化
第二次安倍政権成立後間もない2013年4月に麻生財務大臣がワシントンで、「日本のすべての水道を民営化する」と言い放って周囲を驚かせました。
4年後の2017年3月にはその言葉通り、水道民営化に道を開く水道法改正が閣議決定。
このように国民不在のまま、水道民営化路線は着々と進められてきたのです。
水道民営化が、電力自由化、労働者派遣法改正、農協法改正、種子法廃止、混合診療解禁と同じように、規制緩和路線の一環であることは明瞭です。
これにより外資の自由な参入、水道料金の高騰、メンテナンス費用の節約、故障による断水、渇水期における節水要請の困難、従業員の賃金低下、疫病の流行の危険などがかなり高い確率で起きることが予想されます。
先日の大坂地震で明らかになったように、現在の日本の水道管はあちこちで老朽化し、これを全て新しいものと取り換えるには、数十兆円規模の予算がかかるそうです。
しかしいくら金がかかろうと、国民の生命にかかわる飲料水が飲めなくなる状態を改善することこそは政府の責任でしょう。
それを放置してすべて民間に丸投げしようというのです。
正しく公共精神の放棄です。
このような水道民営化は、推進論者がうそぶくように、少しも世界のトレンドなどではありません。
それどころかもうかなり前からその弊害が指摘され、反対運動も高まり、再公営化した自治体が180にも上っています。
パリ、ベルリン、クアラルンプール……。
https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=148552
フランスの大手水道企業・ヴェオリア社は、パリその他で水道が再公営化され干されたのをきっかけとして、免疫のない日本を狙い撃ちしようとしています。
そのことに気づかない安倍政権のこの政策は、愚策中の愚策と言ってもよいものです。
まことに情けない限りという他はありません。


*2回で終える予定でしたが、各項目が長くなってしまったので、もう1回追加します。


安倍政権20の愚策(その1)

2018年06月27日 22時21分07秒 | 政治


首都圏ではまだ梅雨が明けていないのに、真夏日が続いていますね。外を歩いていると、照り付ける太陽で体はほてり、頭はぼーっとなりそうです。皆さんも熱中症にはぜひお気を付けください。

さてこのあたりで頭の整理のために、安倍政権がいかに拙い政策を打ってきたかを、その不作為も含めて列挙し、端的に批判することにしましょう。
これを筆者なりに数え上げてみたところ、何と20項目にも及びました。これではかえって頭を冷やすことができず、熱中症になってしまいそうです。

(1)PB黒字化目標
「骨太の方針」が閣議決定されましたが、25年にまで延ばされはしたものの、PB黒字化目標達成が残ってしまいました。これあるがために根拠なき財政破綻論がこれからものさばり続けるでしょう。

(2)消費増税
同じく「骨太の方針」に、19年10月に消費税10%への引上げが明記されました。
もし実施されればデフレはさらに進み、消費の減退が投資のさらなる縮小を引き起こし、GDPは伸びず、税収も伸びないでしょう。
実質賃金はさらに圧迫されるでしょう。
下請け中小企業は音を上げるでしょう。
格差はさらに開くでしょう。
デフレ期の増税というこの気違いじみた政策を取っているのは日本だけです。

(3)インフラの未整備
新幹線の整備基本計画は1970年代初めに立てられました。17あるのですが、60年近く経っても営業にこぎつけたのは、東海道、東北、上越、山陽、九州の各線と、北陸、北海道のほんの一部だけ。
図で見るといかに未整備か一目瞭然です。



高速道路網もひどいものです。



インフラの未整備は東京一極集中、地方経済の沈下につながってきただけでなく、災害時の対応の手遅れという深刻な問題を引き起こします。

(4)インフラの劣化
昨年、いくつもの自治体で、財政難のため、老朽化した橋を再建せずに撤去しましたが、橋を撤去したということはそこを通る道路も使えなくなったことを意味します。(3)と同じように、災害対策の手遅れにつながるのです。
下の表は、国土交通省が、建設後50年を経過する社会資本の割合を試算したものですが、今後急速に増加することが予想されます。



しかもこの表は、建設年度不明の橋やトンネルを除いてあります。建設年度不明ということは、50年より古いと考えるのが常識でしょうから、それを含めれば、劣化した橋やトンネルの割合はもっと多くなるはずです。
戦慄すべき数字ですね。
政府や自治体は有効な対策を早急に打つべきなのに、その気配は見られません。
財務省が緊縮路線に固執しているからです。

(5)公共事業費削減
(3)と(4)のような事態になった原因は、ひとえに財務省をはじめ、マスコミの喧伝による長年にわたる公共事業悪玉論です。
下の図で分かるように、現在の公共事業費は、ピーク時のわずか五分の二に減らされています。



このどうしようもない思い込みを何とかして打ち砕かなくては、日本の国土と経済に望みはありません。安倍政権もいまだにこの路線を走っています。

(6)科学技術予算削減
日本からここ数年、ノーベル賞受賞者が多数輩出しましたが、この方たちが研究に専念されていたのは、だいたいが今から二十年以上前、つまり日本がデフレに突っ込む以前のことです。その時期にはまだ基礎研究のためにも長期的な科学技術予算が期待できたのです。
ところが最近は、期限付きでしかお金が与えられず、しかも各国と比べ政府支出に占める割合は、年々減っています。



つい先日もスパコンの速度を争う「TOP500」の結果が発表されましたが、1位と3位がアメリカ、2位と4位が中国で、日本はやっと5位につけたほか、12位、16位、19位といった成績です。昨年4位につけたペジーコンピューティングの「暁光」は期待されていましたが、検察の邪魔が入ってランクから姿を消しました。
https://www.sankei.com/smp/economy/news/180625/ecn1806250014-s1.html
こんな「緊縮病」にかかったままでは、科学技術立国としての日本は、やがて亡びるしかないでしょう。

(7)成果主義
「労働時間でなく成果で評価を」という話は、かなり前から企業サイドで出ていました。
2014年5月にに安倍首相は、「成果で評価される自由な働き方にふさわしい労働時間制度の新たな選択肢を示す必要がある」と、その趣旨を述べています。
「自由な働き方」というと聞こえはいいですが、要するに、終身雇用を壊して人件費を減らそうという企業者側の要求に従ったものです。そしてこの考え方は、欧米の「個人」単位でものを考える思想の敷き写しです。
成果主義は有能な個人の感覚に合うため一見いいことのように思えますが、「仕事は共同作業」という日本人の考え方に基本的にマッチせず、よき労働慣行を壊す働きをします(してきました)。
実際、少し考えてみればわかることですが、組織での仕事というものは、一人で完遂できるものではなく、本質的にチームワークによって成り立つものです。何でも欧米を見習おうというジャパン・グローバリズムの悪しき面をここにも見る思いです。
また、何をもって「成果」と呼ぶのか、抽象的で、その基準がはっきりしません。
「売り上げを伸ばす」ことだけを成果とみなすなら、ブラックな企業にとっては好都合です。というのも、成果主義は雇用形態とも連動しているからです。「成果」が上がらない場合、臨時雇い、派遣、契約社員などによって、次々と歯車を取り換えればよいということになります。まさに労働者は「自由」に入れ替わるので、協力体制も長続きせず、若年労働者の経験知(暗黙知)やスキルも向上ません。世間には40代、50代の働き盛りの人たちの定職難民があふれています。
このことはすでに巷では反省されています。それなのに安倍政権は、次の「働き方改革」の中心部分に、この成果主義思想を盛り込んでいるのです。

(8)働き方改革
今国会で審議中の高度プロフェッショナル制度ですが、この法案の要は、報酬と労働時間との関係を切り離す点にあります。
野党や労組からは、過労死を誘発するとか、残業代ゼロはなし崩し的に他の職種や低所得層にも波及するとして強い反対の声が出ています。野党の言い分はもっともなところがありますが、それとは別に、そもそもこの法案の根底には、「何でもかんでも自由が素晴らしい」といった幼稚な自由主義イデオロギーがあります。
しかし実際に組織で仕事をしている人々というのは、いくら高度な専門職だろうと、人間関係のしがらみを通して働いているので、そんなに自由裁量が利くはずがありません。
また仕事がどっと押し寄せてきて短期間のうちに乗り切らなくてはならないことはごまんとある。過労死に至るかどうかはともかく、仕事の量と質によって大きな制約を受けるのは当たり前です。そんな時、自分はその道のプロだというプライドだけでやる気を維持できるかどうか。仕事を放りだすわけにはいかない、でもこんなに働かされた以上これくらいはもらいたいと感じるのが人情ではないでしょうか。
この制度は、じつは雇用者と労働者との間の「自由」の確保しか考えていません。そこに人件費削減を狙う雇用者(や株主)の、つけ込みどころがあります。成果主義と同じ「自由」の罠です。
彼らは、労働者にとってなぜこの雇用形態が今までに比べていいのか説明できないはずです。安倍首相もまた。

(9)労働者派遣法改正
これは2015年10月に施行されました。
この「改正」のポイントは三つです。

①同じ派遣先で三年以上働けない。
②三年を超えた雇用を派遣元が依頼できる。
③専門26業務とその他の業務の区別をなくす。

①は労働者の入れ替えを容易にします。
②は「できる」と言っているだけで、派遣先が断ればそれで終わり。
③は正規雇用への道を一層閉ざします。
専門26業務では、派遣先で新規求人する時、派遣労働者に雇用契約を申し込むことが義務付けられていましたが、それが取り払われたのです。
非正規雇用は現在4割に達しており、所得や結婚の面で大きな不利を背負っていることは、よく知られているところです。
安倍政権の規制緩和路線の意図が丸見えです。

(10)移民受け入れ
個別企業にとって人手不足が深刻です。
単純労働者の場合、即戦力を外国人に頼るのは安易とはいえ、わからないではありません。
しかし政府が率先して受け入れ制度を緩和するとは、あきれてものが言えません。
まず2012年5月に「高度人材」の名目でこの制度は拡張されました。
それ以前にも留学生、技能実習生などの形で外国人労働者はたくさんいましたが、今年の「骨太の方針」で新たな在留資格を設けることが明記され、ついに50万人超の受け入れ増を見込むことになりました。すでに在留外国人は約250万人、3割は中国人です。



移民難民問題でヨーロッパがいまどんな惨状を呈しているか、安倍首相は知らないのでしょうか。賃金低下競争、文化摩擦、国論分裂、国民の不満の増大、治安の悪化、教育問題など、そのデメリットは量り知れません。
多少時間はかかるかもしれませんが、人手不足は、技術開発投資や設備投資による生産性の向上と、医療看護、介護、建設など、低所得できつい分野における日本人の賃金の大幅アップによって解消できます。これは同時に経済を活性化させる意味で、一石二鳥なのです。
しかしそれを阻んでいるのは、財界の人件費削減圧力と、財務省の緊縮路線と、グローバリズム・イデオロギーです。だれがこれらの亡国路線を生み出しているのか、それぞれについてその真犯人を見抜きましょう。



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●ブログ「小浜逸郎・ことばの闘い」
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo


オノマトペアの謎

2018年06月18日 15時20分44秒 | 文学


みなさんは、オノマトペアに興味を持ったことはありませんか。
ワイワイとかガタガタとかウキウキとかいったあれですね。
今度出版する『日本語は哲学する言語である』(徳間書店・7月刊)という本の中で、これについてちょっと考えてみたのです。
本では、それほど掘り下げることができなかったのですが、ゲラ校正がすんでからも気にかかっていたので、もう少し掘り下げてみました。

日本語が豊富なオノマトペアを抱えていることは、たいへん特徴的で、外国人もこれをおもしろがります。
私の知人のアメリカ人が、日本に来て間もないころ、日本人同士が話すのを聞いていて、オノマトペアが出てくると、とても面白がって復唱していました。
でもどんな感じを表しているのか、きっとつかめなかっただろうと思います。
また、これは時代とともに次々に新語が作り出されていますね。
私の若い頃は、キャピキャピとかルンルンなんて言いませんでした。
誰かが即席で言ったのを初めて聞いても、日本人なら何となくその感じがわかってしまうのではないでしょうか。
たとえば「口に含むと、なんかモギョモギョした感じだね」なんて、いかがでしょうか。
宮沢賢治などは、自分でいくつも作っていますね。
「山がうるうると盛り上がった」とか「虹がもかもか集まった」とか。

オノマトペアは、一応、擬音語・擬声語・擬態語に分かれます。

擬音語:ヒューヒュー、ゴトゴト、サクサク、ザワザワ
擬声語:ワンワン、キャアキャア、シクシク、ワアワア、
擬態語:ピョンピョン、ホイホイ、ビクビク、ユラユラ

ちなみに本当は、「じっと」「しんと」とか「すっきり」「さっぱり」なども広い意味でオノマトペアのたぐいに入るのですが、ここでは上のような、二回反復型に限ることにします。

さて上記のように分けてはみたものの、擬音語と擬声語をはっきり分けられるかというと、疑問が残ります。
たとえば「キンキン響く」は擬音語でしょうが、「キンキン声」といえば擬声語ということになるでしょう。
擬音語・擬声語と擬態語も区別がつきにくいところがあります。
ゴシゴシとかガミガミなんて、どっちでしょうね。
また同じオノマトペアでも、文脈次第で、擬声語として使っている場合と、擬態語として使っている場合とがあります。
たとえば、「ペラペラ」は、「英語をペラペラしゃべる」といえば擬声語的ですが、「ペラペラの紙でできている」といえば、明らかに擬態語でしょう。
こういう区別のつきにくさには、オノマトペア特有の謎が秘められているようです。

これらはふつう、自然現象を生き生きと言葉に写し取ったものとされています。
そして、こういう語群が豊富にある言語は、人々が自然と長く親しんできた歴史を持つことを証していると理解されています。
しかしどうかな? 上記のように、区別が明瞭にできないという事実は、オノマトペアが自然をそのまま写したものだという理解が必ずしも正しくないという理解への入り口を示しているのではないでしょうか。

また、擬音語や擬声語の場合は、かなり自然音に近いとは言えますが、それでも、必ずしも自然音そのままとは言えないものがあります。
たとえば「鍋がゴトゴト煮立ってきた」とか「小川がサラサラ流れる」などは、自然音からかなり遠ざかっています。
さらに擬態語となると、そういう音がするわけではありませんから、自然状態からはいっそう遠ざかっていると言えるでしょう。
「どんどん進んでいく」「すいすい泳ぐ」「つんつんした態度」「ぶらぶら揺れる」などは、なぜこのような音韻が、その状態にいかにも合っていると感じられるのか、なかなか合理的な理由を見つけるのが難しいでしょう。

言葉というものは、『一般言語学講義』の著者・ソシュールが考えたように、もともと反自然的な、あるいは自然からは自立した文化的本質を持ちます。
オノマトペアも例外ではありません。
これがどのような意味で自然から自立した人間的な意味合いがあるのかを突き止める必要があるでしょう。

オノマトペアの特徴としてまず言えるのは、多くが二音節を二回繰り返すことで成り立っていることです。
これには、日本語という言語特有の文化的(非自然的)特性が絡んでいるでしょう。
その特性とは、
①日本語の音韻は、[a][ka]のように、ほとんどが母音だけか、一子音音素+母音で出来上がっていて、これが音節を作る。
②他の音韻の場合も、このルールに馴致される(たとえば拗音[kya]は一音節、子音+撥音[kan]は二音節として扱われる)。
③日本語は三音節か四音節の句が非常に多く、これが息遣いに一つの区切りをもたらし、調子やリズムを作る。

たとえば「キャピキャピ」というオノマトペアは、[kya-pi-kya-pi]で、四音節語ということになります。
また、「ルンルン」は[ru-n-ru-n]で、やはり四音節語として扱われます。

次に、オノマトペアは、時間のなかでのある「動き」の形容であるということ。
二音節の二回繰り返しというスタイルは、おそらく時間的な継続感を表現しようとする意識にもとづいていると推定されます。
つまり、動きの形容であるということとマッチしているわけです。
幼児がオノマトペアをすぐ覚えるのも、幼児は動きや繰り返しをとても喜ぶからでしょう。

ただしあまり長くなっては言葉の経済学に反しますので、二回にとどめたのでしょう。
それに、二音節を三回繰り返すと、日本語としての調子が悪くなるとも考えられます。
四回繰り返した方がまだいいでしょう。「ぐるぐるぐるぐる」「ざわざわざわざわ」

たとえば地名や人名はだいたいが三音節か四音節ですね。東京、大阪、名古屋、横浜、福岡、山田、佐藤、鈴木、中村、渡辺、高橋……。
  
また、外来語などを省略する場合は、ほとんどが四音節で、三音節にするときは、そうしないと語呂が悪いからです(四音節略語:パソコン、リストラ、セクハラ、パワハラ、エアコン、カーナビ、コンビニ、デパ地下……。三音節略語:テレビ、スマホ……)。

このようにして、オノマトペアの場合は、二音節の二回反復で、動きの感じを表すとともに、四音節語として日本語らしいリズムとまとまり(快適さ)に落ち着かせるという作用がはたらいてできていると考えられます。

さてオノマトペアが必ずしも自然音や自然状態そのままの音声化ではないという事実は、それらを受け取った人間(ここでは日本語話者および聞き手)が、自分たちの感性あるいは情緒をそこに付け足して編成し直していることを意味します。
二回の繰り返しや音節数の限定という形式面にもそれは現れていて、日本語にとって心地よい調子に仕立て上げているのです。

この自分たちの感性あるいは情緒というのは、身体性と言い換えても同じです。
つまり、自然音や自然状態の客観的あり方がどうだというのとは違って、むしろそれらを受け取った私たちの身体による主体的な把握の仕方が元のところにあって、それを音声言語に翻訳しているのです。
この場合の身体による把握の仕方のなかには、外界の知覚だけではなく、私たち自身の行住坐臥にともなうリズム、たとえば歩行とか、身振りとか、躍動とか、手の動きなどが含まれます。

たとえば「どんどん進んでいく」という表現では、「どん」という音韻によって、ものがぶつかったりする激しい衝撃の感じを身体感覚として掬い取っているのだと思われます。
「つんつんした態度」でも、やはり「つん」という音韻に、細く鋭く、何か自分に向かって刺さってくるような感じがありますね。

このように、オノマトペアは、けっして単なるナマの自然対象が出す音や自然状態の模写ではなく、きわめて人間的な情緒あるいは身体性による創造的表現なのです。
初めに擬音語、擬声語、擬態語と分けてみても、その区別がつきにくい、そこのところに謎があると書きましたが、おそらくその謎の答えは、オノマトペアが音声言語として定着するために、話者および聞き手自身の情緒的・身体的な感受と創造のプロセスそのものの媒介を必須としているというところに求められるでしょう。

日本語がこれを豊富に抱えていることは、日本人が周囲の現象にたいへん繊細で鋭敏な感覚を張りめぐらせ、しかもそれを自分のなかで反芻し再構成していることを表しています。

所有者不明の土地対策は、爆買いを誘発する

2018年06月13日 21時50分06秒 | 政治


所有者不明の土地は全国で410万ha、これは九州全域を超える面積です。
2040年には北海道本島に匹敵する720万haに及ぶと推計されています。
政府は、管理できない土地の所有権を所有者が放棄できる制度の検討に入りました。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO31241990R00C18A6MM0000/

一方、参院本会議では、所有者不明の土地を公共目的に限って使える特別措置法を可決しました。
防災や都市計画の妨げになるというのが理由です。
この法律では最大10年、民間業者やNPOなどに土地の利用権を与えるのが柱とされています。
都道府県知事が公益性などを確認した上で利用権を定めることになります。
利用権は延長もできるそうです。
https://www.asahi.com/articles/ASL664HKLL66ULFA00S.html

この二つのニュースでまず驚くのは、所有権のない土地の面積の巨大さでしょう。
次に思うのは、こういう事態を放置していた行政機関の怠慢です。
しかしそれはとりあえず差し置き、所有権放棄の制度創設、所有者不明の土地の有効活用という法律の可決は、一見よい方向への一歩のように思えます。

しかし、次のような連想と疑念を抱くのは筆者だけでしょうか

現在、中国が日本の土地を爆買いしています。
すでに北海道や沖縄を中心に、全国土の2%が中国人の所有になっています。
https://www.recordchina.co.jp/b190071-s0-c20-d0035.html
2%というと静岡県全県にほぼ匹敵します。
この話題は一年前にも取り上げたのですが、
https://38news.jp/economy/10151
このような事態を招いたのは、外国人が土地を取得することに対して法的な規制がないことが原因です。
WTOのGATSという協定が内国民待遇義務というのを定めているので、それをバカ正直に守っているのですが、インドやフィリピンなどは、GATSに加盟していながら、外国人の土地所有を原則不可としています。
政府各省庁もそれを知っていながら、中国人の土地爆買いに対して何らの法的な措置も講じようとはしません
国会議員も昨年12月に自民党の鬼木議員が問題視した程度で、動きが非常に鈍い。
http://www.buzznews.jp/?p=2113292

また6月10日のTVタックルでも(ようやく)取り上げていましたが、国防の要地であるはずの対馬が韓国人の観光客であふれかえっているだけでなく、韓国人に不動産を爆買いされ、民宿、ホテル、釣り宿など、彼らの思いのままに建設、経営されています
海上自衛隊対馬防備隊本部に隣接する土地に十年前リゾートホテルが建設され、その後、周辺地域に次々と韓国資本によるロッジが建てられました。
いたるところハングル文字だらけ、もはや対馬は日本ではないとぼやく地元の人たちもたくさんいます。
韓国のツアー客が大挙して対馬に来ると、ツアーガイドが開口一番、「対馬はもともと韓国の領土です」と説明するそうです。
こんな事態になっているのに、対馬市当局は何と、どれくらいの土地が韓国人の手にわたっているか、把握していません。
https://www.sankei.com/life/news/171030/lif1710300021-n1.html

こういう危機的状態は、政府がいち早く手を打たない限り、今後ますます加速するでしょう。

初めの二つの記事に書かれていたこと、
つまり、
九州全域に相当する土地が所有者不明という事実、
所有権放棄の制度の創設、
公共目的に限定して、民間業者やNPOに土地の利用権を与えるという趣旨

これらは、中国や韓国の爆買い攻勢を想定しているでしょうか。

不動産の外資規制がまったくない状態で、民間業者やNPOに土地の利用権を与えるのは、
中国人や韓国人にも、どうぞ爆買いを進めてくださいと言うのと同じではないでしょうか。
公共目的など、何とでも名目を作れます。
途中で営利目的に変えちゃったっていいのです。
日本名義のダミー会社に買わせる手もあります。
彼らはきっとそうした巧妙な手を使うでしょう。
まして、外国人が利用を申請してきた時に、いまの都道府県にそれを抑える論理と力があるとは到底思えません。
考え方が根本的に甘いのです。

ここには、いまの日本の行政機関が、それぞれ問題別に解決策を追求するだけで、総合的に危機に対処する力を喪失している状態がいみじくも象徴されています。

やがて北海道本島にまで広がりかねない所有者不明の土地。
すぐにでも公有化を進めるべきです。
国や地方自治体が素晴らしい公共施設を作ればいいではありませんか。
財源をどうするか?
いいかげんに、財源の話はしないでください。
大いに建設国債でも発行すれば済む話です。

またまた日本が自分の首を絞めている事実を痛感しました。


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「西部邁氏の自裁死は独善か」

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「ポピュリズムの再評価」(仮)の座談会に
出席しました。(8月15日発売予定)



今こそ英語教育の大転換を

2018年06月11日 16時10分52秒 | 社会評論


日本人の英語能力が他のアジア諸国に比べて極めて劣っている事実は、しばしば問題になります。
しかしそのこと自体を恥じる必要はありません。
アジア諸国はずっと欧米諸国の植民地でしたから、公の場面で現地語を使うことが許されず、欧米語(特に英語)の使用を強制されたのです。

また、そもそも日本語は、その文法構造が欧米語とまったく異なっています。
ドイツ人やフランス人が英語を習得するのとは、その難易度の差に雲泥の相違があります。
日本はむしろ、その地政学的な好条件も手伝って、長きにわたる文化的・経済的独立性の維持を可能としてきました。
その結果、欧米列強による言葉の侵略から免れ、自国語による近代化に成功したのです。

東南アジアの人たちの中には、この事実を羨ましがり、日本にあこがれを抱く人がたくさんいます。
先ごろ92歳で首相再選を果たしたマレーシアのマハティール氏は、今から37年前に首相に就任した時、日本の高度な近代産業の達成の秘密がその勤勉精神とチームワークの緊密さにあることを見抜き、「Look East」の掛け声の下、日本に学ぶことを提唱したのです。

さて、日本の最近の体たらくを見ていると、そう己惚れてばかりもいられなくなりました。
日本人の英語能力の低さには、それなりの理由があり、それがかえって自国の発展のためには利点としてはたらいたとしても、やはり近年の国際関係の変化に向き合うとき、もっと英語能力の向上が図られるべきだということは否定できないように思われます。
しかし、どのような意味で、またどのような仕方でそれが図られるべきかについては、大いに議論がわかれます。

先ごろ、必要があって言語社会学者・鈴木孝夫氏の『日本人はなぜ英語ができないか』(岩波新書・1999年)を読みました。
20年近く前の本ですが、ここに書かれていることは、今でも深い共感を呼び起こします。
この本の最も重要な主張を要約すると次の通り。

日本は明治期までの弱小国から戦後の高度成長期を経てGDP世界第二位(当時)の超大国になったのだから、英語教育の方法を根本から改めなくてはならない。
幕末から明治にかけて、日本では西洋文明の圧倒的な力の前に、これを吸収・咀嚼することに懸命な努力を注いできた。
そうした状況下では、西洋各国の技術や文化や生活スタイルを自分の身に合わせるという受け身的な方法によって果たされるほかはなかった。
英語教育もその例外ではない。
それはそれで近代化に貢献したのだから当然である。

しかし欧米列強に対して弱小国であった時代に身につけたこの習慣は、大国になってもずっと残り続けた。
今でも中学・高校・大学の英語教育の中身は、単なる国際通用語としての英語を学習させるのではなく、同時にイギリスやアメリカの文化様式を習得させようとしている。
それは教科書の内容によく表れている。
そこには、大国としての矜持は見られず、相変わらず西洋に対する憧れとコンプレックスが拭いがたくまとわりついている。

大国にふさわしい英語教育とは、自国の文化を国際発信できるように、日本の生活や文化や歴史を主題として取り上げて、それを英語で発信できるようにすることである。
これなら、身近な話題、よく知っている話題を英語に直すという自然な形が取れるので、学習者にとっても関心を呼びやすいだろう。
また、日本を知りたいと思う外国人に、それを英語で知らせることができ、「黙っているので何を考えているのかわからない」というよく聞かれる日本人に対する悪評も払拭できる。

そのためには、日本語を各国語に翻訳する作業の体制(たとえば和英辞典の充実)を確立させることがまず必要である。
後進国(文化植民地)として英独仏のトロイカ方式に特化した外国語教育を施す時代はもう終わったのである。


だいたい以上のようなことが書かれているのですが、この主張にはもう一つ副産物があります。
長年にわたる西洋かぶれの結果、日本人は自国の文化や歴史について深く知ろうとしなくなってしまいました。
これまで日本人はその事実を知っていながら、見て見ないふりを決め込んできました。
日本人の生活スタイルや文化や歴史を英語で表現するような教育を浸透させるなら、こうした困った事態を克服するためのきっかけになります
英語で自国のことを表現しなければならないという風に日本の英語教育が変われば、学ぶ意欲のある学生たちなら、日本についての自分たちの無知を乗り越えようとして、自国のことについても必死に勉強するようになるでしょう。
英語に超堪能な鈴木氏ですら、若い頃、トルコの教授に幕末維新のことを聞かれて、よく知っているはずの参勤交代、外様、関所、駕籠などという言葉がうまく説明できずに困ったことがあるそうです。

外国人に自国のことを説明できないのは、実際にそういう場面に直面した立場の人にとっては、やはり恥ずかしいことです。
それだけではなく、世界には、自国の国益や考え方を強引に押し付けて来る国もあれば、一方では、「奇跡の近代化」を成し遂げた日本に学びたいとする国もたくさんあります。
これらに適切に対処するには、まず何よりも、日本人が自国の文化伝統に自信を持ち、認識を深め、その上でそれをきちんと説明する必要があります。
国際舞台で大国にふさわしい主張と責任を果たすためにも、日本人は、「われわれは自国の文化伝統にもとづいて、このようにする、このように考える」と、はっきり表明できなくてはなりません。
そうでないと、強引に膨張を続ける国や反日を叫び続ける国に押しまくられて、政治的にもビジネス的にも負けてしまうでしょう。

この場合の外国人とは、欧米人だけを指すのではありません。
かつてイギリスやアメリカの植民地だったアジア、アフリカ諸国、カナダ、オーストラリアなどは、否応なく英語を公用語としてきました。
こうした国々とのコミュニケーションは、近年ますます重要視されてきています。
その場合、ネイティブスピーカーの英語や異文化理解のための英語ではなく、国際通用語としての英語を用いざるを得ません。
鈴木氏の強調するのも、そうした発信型の英語です。

しかし文科省を初めとした英語教育の基本方針は旧態依然たるもので、鈴木氏の提言が活かされたようには見えません。
現在の義務教育、準義務教育、大学の教養課程における英語教育は、その内容がただネイティブの猿真似をやっているだけで、鈴木氏の説くような、日本人の生活に即した語彙、主題、よく知っている事実(たとえば日本で起きた事件、日本人が成し遂げた偉業)などを取り上げるようなものではありません。
相変わらず、国際理解と称して、とにかく異文化理解を深めようという精神でやっているのです。
これではいつまでたっても、英語に対する関心が刺激されず、結果として日本人の英語能力は上達しないでしょう。

ただし、鈴木氏の提言は、上記のように、実際に英語を使わなければならない立場にある人たち向けのものです。
ここを読み違えてはなりません。
英語と関係のない仕事に就いている人や国内の人間関係に取り巻かれている人にとって、高度な英語の習得は、いままでどおり、別に必要のないものです。

文科省は、「グローバル時代に乗り遅れないように」などと称して、英語教育の低年齢化を実施しつつあります。
しかしこれは、次の点で、まったく見当はずれです。

①ほとんどの日本人は英語を使う職業などに就かないのだから、早期義務教育ですべての子どもに英語教育を強いることには意味がない。
②早い時期から英語教育を義務化すると、語学の苦手な子は、日常生活に関係がないので、かえって英語嫌いになり、得意な子との間に格差や差別関係を生むもとになる。
③現在の公教育における英語教育は、「使える英語」という名目の下に、文法学習をおろそかにして会話中心にシフトしている。しかし日本で生活していて、大勢の生徒を対象とした週数時間程度の授業で会話力が身につくはずがない。基礎学力の習得も阻害されるので、あぶはち取らずである。

鈴木氏が『日本人はなぜ英語ができないか』を書いたのは、まだ日本の経済力が世界に大きな存在感を示している時期でした。
それから20年近く経って、政治、ことに経済政策の拙劣さのために、いまや日本はいろいろな意味で先進国から発展途上国の地位に転落しつつあります。
大方の日本人はこのことに気づかず、見かけの図体のデカさに惑わされて太平楽を決め込んでいるようです。
しかしもう十年もすれば、そのことが誰の目にも歴然とするでしょう。
そうなってからではもう遅い。
日本の生活文化、伝統、歴史の紹介を、国際通用語によって本気で行わなければ、日本は没落を早めるだけです。
危険水域にある今だからこそ、鈴木氏の提言が活かされるべきなのです。

西洋的言語観からの脱却を

2018年06月04日 12時36分47秒 | 思想


 以下は、7月に刊行予定の拙著『日本語は哲学する言語である』(徳間書店)の「あとがき」として書いた文章に若干の訂正を加えたものです。

つい先ごろ、庭に名前のわからないきれいな花が二種類咲いているので、どうしてもその名を知りたくなって、「Green Snap」というアプリに助けを求めました。
花の写真を取って送ると、コンピュータか人間が、「何々かも」という形で答えを送り返してくれるのです。
コンピュータの方は見当はずれでしたが、どなたかが送ってくれた答えは、二つとも「当たり!」でした。
冒頭写真、左側はハクチョウゲ、右側はカンパニュラ。
いやはや便利な世の中になったものです。

人は見慣れないものや状態に出くわした時、それに名前がついていないと、たいへん不安になります。
体に異変を感じた時、医者から「あなたは何々病です」と宣告されると、たとえそれが重篤な病気であったとしても、ある種の安心を覚えたりしますね。

何ものかに名前があるということは、その何ものかがこれまで人々の間で話題となり、言葉として共有されてきたことを意味します。
その名前が日本語であれば、日本人が作る共同体の歴史のなかで問題とされてきたことになります。
おそらく、名前がわからないと不安になるという心理は、けっこう重要な存在論的意義を持っていて、それは、自分自身が共同体のメンバーとして承認されていないという感覚に連続するものなのでしょう。
モノや人や観念の名前は、共同体の内部で普遍的に認められたときにのみ成立するからです。

コンピュータが見当はずれの答えを出し、生身の人が正しい答えを送ってくれたという結果に、筆者はなぜか喜びを感じました。
人と人とがこのようにしてつながっていることが実感できたからでしょう。

いわゆる「真理」に関しても同じことが言えます。
以前書いたことですが、アルキメデスが風呂に入っていて浮力の原理を発見した時、「ユリイカ!」と叫んで素っ裸で風呂から飛び出したというエピソードが意味しているのは、この原理の発見によって、彼を包む共同性との間で「言葉が通じた!」という確信を得た喜びなのです。
あらゆる真理や真実は、このように言葉として表現され、それが通ずる共同性とのかかわりにおいてのみ、その存在を保証されます。

いま日本の政局は、たいして意味も価値もない「真実」追究にいつまでも血道をあげて、国民の生活意識との乖離を募らせています。
この無駄な試みの根底には、過去を探っていけば時々の言葉とは関係のない一つの「真実」に必ずたどり着くはずだという錯覚があります。
結果、何がいま日本共同体にとって「語る」に値する重要な案件であるかという適切さの感覚を喪失しているのです。
本当は、膨大な「語り」の錯綜を前にして、卓越した力ある者(この言い方にはいろいろな意味合いが含まれますが)が、この語りこそ自分の属する共同性にとって適切であるとして選び出すところにしか「真実」は現れ出ません。

しかし考えてみれば、この錯覚は、二千数百年もの間、人類を支配し続けてきました。
プラトンが編み出した「感覚を超えたところにイデア=真実在なるものが存在する」という着想も、言葉というものがもともと具えている「事物の抽象化」と「観念の実体化」という力学に従ったまでのことです。

西欧哲学はそのことに長い間気づかず、このプラトニズムという言葉の操作法に呪縛されてきたのでした。
その呪縛とは、現象の向こう側にそれをそうあらしめている「真理=本体」が存在し、私たちの知覚できるものはその影に過ぎないという「信仰」です。
現実には、さまざまな知覚現象や観念現象に、私たち人間が時々の関心と欲望に従って「言葉」を与え、言葉と言葉との関係を整序し、それがある共同体のなかで普遍的な承認を得た時に、「真理」が創り出されるにすぎないのです。

とまれ、西洋哲学が、すべては言葉の使い方の問題であるという自己認識に到達したのは、ようやく19世紀以降になってからのことです。
それから初めて、言葉そのものを哲学するべきだという分析哲学的発想が生まれたのです(厳密には言語に対する反省自体は論理学や修辞学の形で、はるか以前からありましたが)。

筆者も、この大まかな流れに沿って、日本語について考えてみようと思いました。
しかしその場合、論理的な陳述にその対象を集中させる西洋哲学の方法を採用するわけにはいきませんでした。
日本語についての自己認識は、日本語自身によってなされなくてはならないからです。
そこで、日本語を、その独自の構造に即して理解するために、西洋由来の文法的概念や方法論から極力自由な立場で論ずることに力を注ぎました。
けれども、それは日本語を特殊な言語として他と比較することを目的としたのではありません。
その世界把握の仕方を提示することで、じつはどの国の人も、その国の言語の制約を取り払ってみれば、ある場合には同じようなものの見方、とらえ方をしているに違いないという事実に注意を促すことを目的としたものです。

また、このたび書いたことのうち、日本語の特徴やそこから浮かび上がる日本人のメンタリティーについての記述のいくつかの部分が、すでに先人たちによって論じられてきたことの繰り返しになっているのも否めない事実です。
しかし、それを筆者なりの方法によって再確認しただけでも、本人にとっては意味があったと考えています。
願わくは読者の皆さんが、このような哲学的な方法で日本語全体に目配りしてみたことの意義を読み取ってくださらんことを。

とはいえ、今回の試みは、日本語による日本語の哲学としては、まだまだとば口に立ったばかりです。今後筆者自身も努力を重ねる所存ですが、多くの方が研鑽を積まれて、日本語による日本語理解を深めると同時に、さらに進んで西欧中心の言語理解が持つ偏りから脱却されることを祈って已みません。