小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

日本語を哲学する27

2015年09月24日 22時45分09秒 | 哲学




 また、言語主体の存在状態を、身体行動から論理的言語の表出までをも含む最広義の意味での個人の「行為=ふるまい」のあり方という角度からとらえ直せば、以下のような段階の違いとして整理することができる。あくまで便宜的な整理ではあるが。


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|行為の段階 | 1   | 2     | 3      | 4     |
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|原理    | 身体  | 情緒    |感情言語    |論理言語   |
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|現実的表現 | 行動  | 情動・表情 |直接表出的発語 |対象化的発語 |
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|例     |乳幼児のふ|泣く・怒る・小|やあ! えっ? | 命題・陳述 |
|      |るまい・暴|踊り・満面の笑|すてき! やだ!| 文章記述  |
|      |力・握手 |み      |いいね!    |       |
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 この整理にしたがって「沈黙」がどの行為(ふるまい)の段階をどのようにフォローするかについて重ね合わせを行ってみると――
 1の場合は、文字通り言葉はまったくか、ほとんど発せられない。言語表現としての沈黙が行動に置き換わっている状態ととらえられる。
 2の場合は、一般的には、感情の昂揚が言語の構成を困難にしている場合と考えられる。しかし単純にそう決めつけることもできない。これらの情動表現の結果として、沈黙が破られる場合もあれば、逆に饒舌な言葉を表出しているうちに、その流れの延長上で激しい情動の表現に移り行く場合もあるからである。
 3の場合は、とりあえず間投詞的な表現ばかりを例示した。これらの場合には、余計なことを言っていない、言う必要がないという発語主体の心境がまさに多くの「沈黙」を現出させているのだが、じつはこの範疇には、前に掲げた豊饒な文学的言語のほとんどが含まれることになる。そこではしたがって、実際に発語された言葉とその陰に当たる部分とがひっきりなしのせめぎ合いを演じているのである。
 4の場合は、一見「沈黙」の役割は後景に退いてしまっているように思える。しかし論理言語の場合でも、「沈黙」の効果というのはおおいに発揮されているのである
 それはまず、ある抽象レベルがどうしても必要とされるという意味においてそうである。論理的命題を述べるためには、そこで使われる語彙があらかじめ多くの外延(その語彙の概念に含まれる個々の物事)を含むので、その外延のひとつひとつにいちいち言及しているわけにはいかず、それらははじめから捨象されざるを得ない。またそれぞれの語彙の定義について、必ず一致した共通了解のもとに使われるとは限らない(むしろ人によって受け取り方が違うことの方が多い)ので、厳密に考えれば、一つ一つの語彙の定義から始めなくてはならないはずだが、論述が長くなれば、そんなことは事実上不可能である。つまり定義は、議論が混乱して袋小路に入った時にようやく呼び出されるが、ふだんはだいたい見捨てられている。それでも漠然たる理解が共有されていれば、語彙の連結のさせ方、文脈の構成の仕方によって、ほぼ誰にとっても納得のいくような論理命題に収斂させることは可能なのである。
 たとえば、三段論法の例として有名な次の論述を取り上げてみよう。

 すべての人間は死ぬ。ソクラテスは人間である。ゆえにソクラテスは死ぬ。

 まずこの論述では、使われている言葉について、少なくとも四つの語彙の概念が自明の前提とされている。すなわち、「すべて」、「人間」、「死」、「ソクラテス」がそれである。
 しかし「すべて」という概念は果たして自明だろうか。その対象となっているものが含まれるある範囲や境界を想定しなければ、「すべて」という概念は使えないのではないか。「この箱の中にあるすべてのモノ」「人間社会で起きるすべてのコト」というように。
 また、「人間」とはどういう存在を指しているのか。ごくありていに言って、この言葉は、生物としてのヒト、社会的政治的存在としての人間、ひとりひとりの個人というように、いくつにも使い分けられる。そうした使い分けはここでは意識的に捨象されている。そもそも人間とは何かというのは、私たちにとっての最大の謎である。
 また、「死」という言葉も、生物的な個体としての解体を意味するのか、共同存在としての人間の崩壊を意味するのか、もっと一般的に、諸物の解体・滅亡を指しているのか、必ずしも明らかでない。そもそも人間の死に限ったとしても、それをどう解釈すべきかには、いくつもの考え方があるだろう。
 さらに、「ソクラテス」とは誰のことか。その人は存在しているのか、したのか。歴史の知識を信じるのでない限り、その存在は保証されない。保証されなければ、論理言語の道具として使うことは出来ないだろう。あるいは、ある人にとっては、それは固有名を持った生身の個人を指すかもしれないし、別のある人にとっては、人間の一サンプルを指すだけかもしれない。また別のある人にとっては、「こういうことを言ったりしたりした人」を指すかもしれないし、またまた別のある人にとっては、特定の「思想」を指すかもしれないのである。
 こうした理屈を述べ立てているかぎり、上記の論理命題は成り立たなくなってしまう。という意味は、いくらでも疑義を申し立ててその言い分を混乱させる余地が残されているということである。
 だがそれではもちろん、論理言語は有効に作用しない。その中で使われている語彙の概念が、それを流通させる人々の間ですべて自明であるという前提が必要なのだ。しかしその事実はいちいち語られない。ある言葉についての知の一般性と、それぞれの言葉のもつ抽象の水準と、それらが一定の文脈のなかでどういうニュアンスや強意を込めて使われているかということについての共通了解がなければ、論理言語ははたらかないのである。そこには暗黙の了解が生き生きと動いている。つまりは「沈黙」が作用しているのである。
 加えて、もっと大事なことは、この論理の要をなす「ゆえに(だから)」という結合辞自体が、一つの大きな飛躍を含んでいるという事実である。
「ゆえに」という言葉はもともと、「水をまいたのでもないのに庭が濡れている。ゆえに雨が降ったに違いない」とか、「信号が青になった。ゆえに進んでよろしい」というように、過去の経験則から導き出された認識と判断であって、それ以上のものではない。「三角形の内角の和は二直角である。ゆえに直角三角形の直角以外の二角は鋭角である」というような数学的な論理の場合でも、これを聴いた人が、典型的な図形を思い描きつつ観念の中でその言明の進行をなぞる(行動する)のでなければ、けっして納得されないだろう。
 本来この言葉は、行動指針のために使われるようになった結合辞で、多くの人の共通の行動に役立つなら、時と場合に応じていくらでも呼び出されるし、またその結合される二つの材料はいくらでも恣意的に選択されうるのである。だからヒュームのような懐疑論者が皮肉たっぷりに「あれの後にこれが起きた。ゆえにあれがこれの原因である」という言葉を持ち出すこともできたのである。
 ソクラテスの例の場合も、もしかしたら死なないソクラテス(なる人物)がいるかもしれないという論理的可能性は、あらかじめ排除されている。ソクラテスが死ぬという結論を導くために、二つの前提が必要だったのだが、「ゆえに」がそれらを選び出して結合しなかったら、両者はそれぞれバラバラな命題として投げ出されていただけで、そもそも「前提」とはなりえず、論理的筋道の構成要件となることはなかった。したがって、ここには、二つのものの因果的総合という飛躍的な「言語行為」が沈黙のうちにひそんでいるのだ。
 以上のようにして、論理言語もまた「沈黙」によって大きく支えられていることがわかる。

 また、感情言語と論理言語という区分は、明瞭には成り立たない。感情が何もこもらない論理表現というのはないし、一定の形式さえ具えていれば逆もまた真で、論理が何もない感情表現というのもない。
 たとえばあなたは、「一足す一は二である」という論理命題には何の感情もこもっていないではないか、というかもしれない。
 しかし第Ⅰ章の「言語の本質」のところで述べたように、そもそも言語とは、関係の創造や維持や破壊を目指した自己投企なのであるから、「一足す一は二である」という発語そのもののうちに、それを知らない人を、その知を共有する人々の世界へといざなう意味、話の参加者をして次の論理へ進ませるための共通確認の意味、論理の自己確認を通して共同世界への参入が保証され、それによって自らを安心させる意味、等々が含まれているのである。これはじゅうぶん感情的なことである。感情が沈黙の様態を取って論理を支えているのである
 あるいはあなたは、「悲しくて悲しくてやりきれない」という感情表現にはどんな論理が含まれているのだと問うかもしれない。
 しかしここには、「私」の状態を対象化して、なるべく正確に把握しようという論理志向が立派にはたらいている。それは、「この生物は、モリアオガエルによく似ているが、赤い斑が入っているので新種かもしれない」という陳述と構造的に何ら変わるものではない。「悲しみ」という自己措定において「私」は客観的に照らし出され染め上げられているのだし、「やりきれない」という表現によって、さらにその様態が、未来への展望(のなさ)という行動(不)可能性を持つことが精確につかまえられているのである。だからこの場合には、先の場合とは逆に、論理が沈黙の様態を取って感情を支えているのである
 
(第Ⅱ章・了)


*今回で、「日本語を哲学する」の「第一部 総論」を終わります。この後、「第二部 各論」に進み、そこでいよいよ日本語の具体的なあり方を哲学的に論じていく予定ですが、現在まだ準備不足のため、しばらくこのシリーズは休載いたします。どうぞご容赦ください。

なかなかやるやないか、又吉さん

2015年09月19日 18時58分46秒 | 文学




 今夏、芥川賞を受賞した又吉直樹さんについて、ちょっとミーハー的な自慢をさせてください。
 受賞作『火花』は受賞前の三月にすでに出版されてますが、私は新聞広告が出てすぐに買いました。何となくこれは面白そうだというカンがはたらいたんですね。もちろん、ピース又吉ってお笑い芸人のことなど何も知りませんでした。そしたら七月になって見事に受賞したじゃないですか。そうしてみるみるうちに二百万部突破。
 どうだ、俺って先見の明があるだろう、と、これだけの自慢で終われば、ほんとのミーハーですね。別に芥川賞もらったからとか、ミリオンセラーになったからとかで自慢してるわけじゃないんですよ。そんなこと、どうでもいいです。芥川賞って文藝春秋の賞で、この作品も文芸春秋刊。まあ、ほとんど初めから授賞は決まってたんでしょうな。
 それはともかく、じつは私、この作品、半年間「つんどく」にしてました。少し暇ができたので、どんなもんかいなと思って今度読んでみたんです。そうしたら、これ、なかなかの優れものですよ。どういうところが優れてるか、あとで言います。
 純文学系の小説作品をここ何年もほとんど読んでないので、全然大きなことは言えませんが、この作品は、近年の純文学界におけるかなりの収穫と言っていいんじゃないんでしょうか。とにかく、私のカンは間違ってなかったんです。買っておいて損しなかった(本体1200円)。
 ちょっと小声で悪口。以前、いまや純文学界の重鎮とも目されている赤坂真理さんの『東京プリズン』(河出書房新社)を読んだんですが、紫式部文学賞、毎日出版文化賞、司馬遼太郎賞と、三つも賞もらってながら、ひとりよがりそのもので、神がどうのこうのと観念があっちこっち勝手に飛んで、おまけに純文系作家がよせばいいのに、戦後日米関係の歴史認識を持ち出し、いまや誰でも知ってる東京裁判についての誤解なんかをもったいぶって講釈したりして、ちっとも面白くなかった。いまの純文学界の権威主義を象徴しています。読み終えるのがとにかく苦痛でした。これは損しました(本体1800円)。
 閑話休題。又吉作品についてもう一つ自慢。
 読み始めてじきに、これって太宰治に似とるなあ、そうとう太宰の影響受けとるんちゃうか(なぜか関西弁)と感じたんですよ。そうしたらあるロングインタビューで、彼は太宰に心酔してきた経験を語ってるんですね。これもアタリ!

ゴロウ・デラックス 2015年8月13日 150813 芥川賞作家・又吉直樹SP!

(この動画は、一部音声が途切れます)

 ちなみに何を隠そう、批評家としての私の処女作は太宰治論なんです(『太宰治の場所』弓立社)。私はおくてなくせに生意気で、高校時代に太宰を読んでも感心しなかったんですが、大学出てから、あるきっかけで読み返して、これ読み過ごしてた俺は文学がわかっちゃいなかったぞって痛感したんですね。それで、よし、批評で挑戦してやろうと思って書いたんです。で、これはとても生硬で読みづらい文章ではあるんですが、上の動画で又吉さんが太宰について言ってることとけっこう重なり合うんですよ。
 この自慢もややミーハー的ですね。ここから先は自粛してもっぱら又吉さんを褒めることにします。

 彼は『人間失格』を100回くらい読んだそうですが、さすがにその甲斐あって、まことに的確なことを言ってます。大意は次の通り。

 この作品はふつう、こんなかわいそうな自分がこんなにつらい思いして生きてきたことが書かれていると受け取られるが、じつはそうではない。純粋で可愛くてまともな少女の歯痛ならだれもが同情するが、悪人の歯痛には自業自得だとして誰も同情しない。しかしその痛みそのものはどちらも同じだ。それと同じように、ある人が悩んでいると、多くの人は、世の中にはもっと苦しんでいて悩むことすらできないかわいそうな人がいるんだという比較を持ち出してきてその悩みを相手にしない。それは確かにその通りなんだけど、でもだからといってその人の悩みをないことにしなきゃいけないのか。そういうことが書かれている。

 これじつに、福田恒存の言う「一匹と九十九匹と」と同じです。
 私自身は、『人間失格』という作品はメッセージ性が強く出過ぎていて、太宰作品全体の中ではやや点数が低いと思ってるんですが、又吉さんの言ってることは、文学の本質を分かりやすい言葉で見事に突いていると思います。文学には文学固有の存在意義があって、それを道徳的価値や政治的価値で推し量ってはいけないということですね。
 また又吉さんは、太宰文学の魅力を問われて次のようなことも言ってます。


、深刻なものもあるけれど、面白いものもたくさんある。彼の作風はナルシスティックと言われるけれども、たとえば『富岳百景』の一節のようにナルシスティックなことを書いた後に必ず失敗したことなどを書いて、そのナルシシズムを見直す目を描き込んでいる。


 これも太宰批評としてとても的確で、太宰はいつも自己自身を戯画化することで、自分を見てる他者の目をきっちり取り込んでるんですね。この二重化された自意識のあり方が、まさに「面白いもの」を「たくさん」創作できる独特の構えにつながってると思うんです。例として挙げると、『春の盗賊』『お伽草子』『親友交歓』『男女同権』『トカトントン』『女神』『新郎』『十二月八日』など。
 なお最後の二作は、パッケージとして太宰の本領発揮です。余計な老婆心かもしれませんが、『新郎』だけ読んで、日米開戦の報に接して厳粛な思いに浸る男性主人公にクソまじめに同化してしまわないように。あれもホント、これもホント。

 さてここからようやく『火花』を批評してみたいと思うんですが、話は前段からつながってます。漫才や落語の話芸というのは、自己戯画化をどこまでできるかが勝負みたいなところがありますね。非常に知的センスが要求されると言ってもいい。ですから太宰文学と似てるんです。
 私は又吉さんがどういう縁からお笑い芸人の道を選んだのか、その個人的事情については知りませんが、少なくとも内面的には、彼のこれまでの職業と、こういう太宰的な作品を書くことになった事態との必然的な関係があるように思います。
 ちなみに彼の漫才、You Tubeで探しましたが、あまりいいのが見つかりませんでした。どなたか決定版でも教えてくれたら幸いです。初期のものは、ごくオーソドックスみたいだけど、相方が綾部に代わってからは、適応系と不適応系のコントラストでもたせてるようですね。これって、「地を演技へ向かって成熟させる」っていう彼の戦略なんでしょう。
 とにかく、彼がシャイで、言葉少なで、非モテ・コンプレックスいっぱいで、ゆっくり口調で(つまりたいへん内面的で)、それを意識的にボケの条件にしてることは確かなようです。顔だけ見てるとけっこうイケメンだけど、身長が相当低いようで、そのアンバランスも売りなのかな?
『火花』は、四つ年上の漫才師・神谷さんに天才性を感じた「僕」が師弟関係を交わしてから、どっちもほとんど売れない何年間かの交流を描いたもの。神谷さんは、酔っ払って自己流の笑いの哲学をさかんに「僕」に説いたり、日常行動でもちょっと常軌を逸した漫才的振る舞いをやったり、生活力全然なくて優しく鷹揚な女性に依存しきってたり、とまあ、ありていに言って破滅型というヤツですね。小池重明という天才的なアマチュア棋士の伝記を団鬼六が書いたのを読んだことがありましたが、あれを連想しました。
「僕」は時々、彼の漫才哲学に違和感を感じることもあって議論を吹っ掛けたりもするんですが、究極のところで、この人こそ笑いの何たるかを知ってると何度も再確認して、どうしてもその魅力から離れられない。と同時に、自分は神谷さんにはやはりなれないという自覚がしだいに深まっていって、少しずつ違う道を行くしかないなと思うようになります。長くなるけど、そのギャップを感じ始める発端あたりの部分を引用してみましょう。合コンみたいな不慣れなことをしたときに神谷さんから、女の子たちの面前で、こいつは「盗聴が趣味や」と言われて傷つき(といっても心底傷ついてるわけでもない)、帰りの電車の中で神谷さん相手にそのことを問題にした後――

 僕は周囲の人達から斜に構えていると捉えられることが多かった。緊張で顔が強張っているだけであっても、それは他者に興味を持っていないことの意思表示、もしくは好戦的な敵意と受け取られた。周りから「奴は朱に交わらず独自の道を進もうとしている」と半ば嘲りながら言われると、そんなことは露程も思っていなかったのに、いつの間にか自分でもそうしなければならないような気になり、少しずつ自分主義の言動が増えた。すると、その言動を証拠として周りがそれを信じ始める。ただし才能の部分は一切認めていないので残酷な評価になる。確固たる立脚点を持たぬまま芸人としての自分が形成されていく。そのように自分でも戸惑いつつも、あるいは、これこそが本当の自分なのではないかなどと右往左往するのである。つまり、僕は凄まじく面倒な奴だと認識されていた。
 僕のような退屈で面倒な男と遊ぶことによって、周囲から色眼鏡で見られ、偽善者と呼ばれる可能性があるということを、この時まで現実的に考えたことがなかった。僕は神谷さんを、どこかで人におもねることの出来ない、自分と同種の人間だと思っていたが、そうではなかった。僕は永遠に誰にもおもねることの出来ない人間で、神谷さんは、おもねる器量はあるが、それを選択しない人だったのだ。両者には絶対的な差があった。


 どうです。しっかり「純文学」してますね。前半の繊細な自己分析、これは自意識の強い不適応系の人が集団関係を生きなくてはならない場面に何度も直面してきた経験を踏まえて、そのときの自我の動きというものを緻密に追いかけてる部分です。そうして後半は、それを受けて、不器用どうしの「同病相憐れむ」感覚をよりどころにして神谷さんへの同化感情を自分に納得させていた今までのあり方にかすかに亀裂が入り始める描写です。
 で、これってじつは、自分はけっこうまともな部分も捨てられない人間で、神谷さんのように意志的に(あるいは天性として)人々から逸(はぐ)れることを徹底できる人間じゃないんだということを覚っていく場面でもあると思うんです。
 ここからは、又吉さんにこの作品を書かせた二つのモチーフが浮かんできます。一つは――こういう厄介な規定はあまりしたくないんですが、ほかに適切な言葉がないので――、彼はお笑い芸人としての経験を記述しつつ、その中に自分なりのビルドゥングス・ロマンの要素を込めようとしたのだということ、あの『魔の山』のハンス・カストルプのように。そしてもう一つは、神谷さんというキャラは、作者の投影としての「僕」にとって「笑い」の本質、つまり規範からの逸脱と超越を究めた理想像であって、そこには永遠にたどり着けない自分を知ったということ。
 まあ、二つは同じことで、つまりは青年らしい理想の挫折が、この作品のメインテーマだと言ってもよいでしょう。私は初め、神谷さんにはモデルがいるのかな、と思ってましたが、読み終えてから、いや、これは又吉さんの純粋な造形に違いないと信じるようになりました。イメージがあまりにくっきりし過ぎているからです。

 ちょっと結論を急ぎ過ぎました。
 神谷さんは同棲していた女性に恋人ができたため、すでにその男がいる彼女のアパートから荷物を引き払わなきゃならなくなります。神谷さんは、「僕」に同行を頼むんですが、それだけじゃなくて、別れ際に哀しくなったり惨めになったりするのがいやだからなんか笑う材料がほしい、だから「僕」に勃起してくれと頼みます。おまえの股間を見たら笑えるだろう、と。僕はいやいやながら、ともかくエロ動画を携帯に取り込んでおきます。さてその現場。

 真樹さん(神谷さんのこれまでの同居人――引用者注)は少し髪が伸びたように感じたが、下ろしているだけかもしれない。
 神谷さんの方を恐る恐る見た。神谷さんが、僕の股間を見ていた。この人は本当にあほんだらである(「あほんだら」は神谷さんのグループ名でもある――引用者注)。僕は携帯電話をポケットから取り出し、あらかじめ保存していた粗い裸の画像を選択し、精一杯興奮しようと試みた。だが、それは僕にとっては単なる匿名の裸に過ぎなかった。人間たちが交錯し各々の人生を燃焼する、この風景には到底及ばない。神谷さんは、まだ僕の股間を見ていた。あの男の覚悟を、真樹さんの想いを、神谷さんなりの下手糞な優しさを、この美しい世界を僕は台無しにしなければならない。どのような情熱からか微かに僕の股間は反応した。それを見た神谷さんが、思わず吹き出した。
「ほな行くわ」
 神谷さんは、そう言って立ったまま白のオールスターを履いた。「お邪魔しました」と言って僕が先にドアから出た。


 文中、「あの男」というのはもちろん真樹さんの新しい恋人ですが、この男は風俗で真樹さんを見染めてから通い詰め、ついに真樹さんを口説き落とした肉体労働者風の男です。モトカレが来るというので、手ぐすね引いて待っていたようです。「あの男の覚悟を、真樹さんの想いを、神谷さんなりの下手糞な優しさを、この美しい世界を僕は台無しにしなければならない。」――いい文章ですね。古典的です

 やがて「僕」は、自分なりのスタイルを見つけて、けっこう有名になります。テレビにもたびたび出るようになる。一方神谷さんは奈落へと突っ走り、借金がかさみ、姿を隠したりするんですが、一年ほどしてからまた出てきて、「僕」と旧交を温めます。私は、神谷さんは死ぬんじゃないかと思ってたんですが、そうじゃありませんでした。ネタバレするので結末は言いませんが、やっぱりありきたりの悲劇にしないで、最後までこういうふうに笑いのノリで「To be continued」の雰囲気を余韻として残したほうがいいのかな、と今では思います。
「笑い」は続くんですよね。日常が続くのだから、どんな哀しい時間帯でも、首を絞められている苦しさから首を斜め横にひねるように、それは続かなくてはならない。

 そう言えば、これを書いてる最中に、深夜テレビをつけてみたら、折よく、若いお笑い三人が以前書いた本(小説)を古参タレントの二人が取り上げて、いろんな賞を与えるという番組をやってました。もちろん又吉さんの受賞にあやかろうというギャグです。賞には五つあったんですけど、四つまでしか憶えてません。
①作中、自薦の一文を朗読して、名文に賞を与える――受賞したのは名文ではなく最もマンガ的な文章でした。
②ディスカウント賞――今、古本ネットで定価よりいくら下がっているか、一番差額が大きい人がもらえる。三人のうち二人までが1円でした。
③捨てるのもったいないで賞――自分の本を使って卓球の勝負をする――サイズの大きい本の勝ち、文庫本の負け。
④芥川賞――フラダンスのおばさん先生に読んでもらって真面目に判定してもらう。先生の名前は、芥川。
 けっこう笑えました。こうして、小説は形の上だけでは終わりますが、やっぱり現実世界は、ネタが新しいネタを生んで続いていくんですね。

 最後に、『火花』について、難点、というか気になるところを一つ。
 風景描写などで、少し凝った重々しい名文調を使いすぎるように思います。出だしの部分などは、横光利一ばりの文体なんですが、全体にそれが貫かれているわけではないし、特に会話の部分が大阪弁の軽いノリで進むので、そこにちぐはぐさを感じました。この不統一感は、彫琢不足のなせるわざか、意識的か。意識的なら逆効果なので、たぶん前者なんでしょう。というのも、軽く、優しく、滑るような語り口のうちに深い課題を提出して見せる、というのが文学としてほんとにかっこいいことだと思うからです。太宰作品がそうであるように。

この記事を読んだ読者のみなさんが、じゃあ『火花』を読んでみようかと思ってくださることを祈ります。そして何よりも、私の言葉が又吉さんご本人に届きますことを











アルゲリッチ母子の奇妙な結合

2015年09月07日 23時28分26秒 | 政治



 皆さんは、以下のような問題についてどう考えますか。

 数日前、深夜たまたまつけたEテレで、8月17日に行われたサントリーホールのコンサートの模様を放映していました。演奏者はいまや巨匠とも呼ぶべき世界的ピアニスト、マルタ・アルゲリッチと広島交響楽団。曲は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲1番。
 もう第三楽章も終盤に近い部分だったし、個人的にはアルゲリッチをあまりいいとは思っていないのですが、でもあの軽快で楽しい調子に思わず引き込まれ、貫録を増した彼女の演奏をほんの少し楽しむことができました。曲が終わって会場はやんやの喝采です。
 画面が変わり、会場からではなく、局からの説明が入りました。それはアルゲリッチの次の曲とか彼女の演奏実績とかについての説明ではなく、彼女のお嬢さんについての詳しい紹介でした。お嬢さんは、平和活動(NPOでしょうか)をやっているそうです。その彼女がアウシュヴィッツとヒロシマについての詩を作ったので、それを会場で朗読するというのです。
 再び画面が変わり、若い男性に続いて可憐な雰囲気のお嬢さんがステージに出てきました。お嬢さんが詩を朗読し始めました。若い男性は通訳でしょうか。聴衆は水を打ったように聞いています。とっさに私はいいようもない不快感を感じ、スイッチを切ってしまいました。もちろん意味を聞きとる以前のことです。
 これはひねくれ者の個人的な性分にすぎないかもしれませんが、私は、文化と中途半端な政治的メッセージとを混合したこの種の「あいまいな」イベントが大嫌いです。
 たとえばチャリティーコンサートとして売り上げを被災者や難民など、困っている人に寄付するというなら一向にかまいません。しかしこの催しはそれとは違います。一流のホールに世界的ピアニストを招いて一流の演奏を聴かせるという触れ込みで観客を集め、集まったその現場を巧みに利用して「平和活動家」のメッセージを発信する――この企画の中にはずいぶん不純でいいかげんで安っぽい思想がありはしないでしょうか。
 アルゲリッチといえば、S席だったらまず二万円は下らないでしょう。それだけの入場料を払って会場に来たお客さんは、95%までは彼女の演奏が聞きたくて集まってきたので、「平和活動」のメッセージなどほんの刺身のつま以下のものとしてしか感じないはずです。
 もっとも後で知ったことですが、このコンサートは、初めから「平和の夕べ」と題されていたそうです。演奏会の時期、広島交響楽団との組み合わせという点などと考え合わせると、お客さんの方もそのあたりはもともと織り込み済みではあったのでしょう。ちなみに広島交響楽団は、年一回、広島のフェニックスホールで「平和の夕べ」コンサートを催しているそうですが、楽団の設立趣旨や通常の演奏活動自体は、広島の原爆投下とは何の関係もありません。
 いわばこのイベントは、演奏者も観客も善男善女であることを当て込んで仕組まれたもので、ほとんど誰も、アルゲリッチの演奏とそのお嬢さんの詩の朗読行為との間にあるギャップに対して違和感など抱かないのでしょう。
 しかし繰り返しますが、私は「善男」ではないので、ここにいくつものおかしな連想ゲームによって成り立っている歪んだ意図を読んでしまいます。私のこの批判的な読みは、けっしてアルゲリッチやそのお嬢さんや、広島交響楽団に対して向けられたものではなく、もっぱらこういう企画を立案して平然としている人、またそれを公共放送の電波を使って全国に平然と流すNHKのプロデューサーに対して向けられたものです。
 まず、この企画がどういう順序で進んだのか知りませんが、企画者は、アルゲリッチと親子関係にある人が「平和活動家」であるという「縁」に飛びついたことでしょう。でもこの縁なるもの、じつはクラシックの巨匠の芸術的価値とは何の関係もありません。
 それはちょうど、フルトヴェングラーやカラヤンがたまたまナチス・ドイツの体制下で、一見その体制に「協力」しているかのような演奏活動を行なったからといって、彼らを非難するには当たらないのと表裏の関係にあります。音楽に政治的な思想性を求めるのは原理的に無理な話で、アルゲリッチおばさんが別にすぐれた平和思想の持ち主であるわけではありません。企画者は、芸術家の名声と、その子どもの「平和活動」とを安易に結びつけて利用しているのです。
、次に、企画者は、今年は戦後七十年という大きな節目だから、この際、毎年行われている広島交響楽団の「平和の夕べ」に世界的大物を結びつけて、人の集まる首都圏で大々的に平和思想のアッピールをやろうじゃないかと考えたに違いありません。安っぽい興行師精神の見本です。後述しますが、そもそもこの「平和思想」なるものが、現実的な思考回路や歴史への視線を欠落させた陳腐で浅薄きわまるものです。
 もっと大事なことを言います。
 このお嬢さんの詩は「アウシュヴィッツ」と「ヒロシマ」とを同時に歌い込んだものだということです。その出来栄えがどの程度のものか、聞くのをやめてしまった私に評価する資格はありません。
 しかしごく一般的に言って、アウシュヴィッツとは、ナチス・ドイツが初めから抱いていたユダヤ人に対する激しい憎悪・蔑視感情を、一民族絶滅の実践にまで高めていった、その思想を象徴するものです。しかもこの憎悪・蔑視感情は、非ユダヤ系のヨーロッパ人の間にはるか昔から広く(いまもなお)潜在していたものです。それは、第二次大戦におけるドイツの軍事行動とは直接のかかわりをもたないのです(第三帝国完成というプログラムの範囲内には収まるかもしれませんが)。
 これに対して、「ヒロシマの原爆投下」は、明白にアメリカの対日軍事行動であって、両者をその非人道性や悲惨さという共通点だけをよりどころに同一視するような情緒的な把握は避けなくてはなりません。この区別をきちんとしないと、思想として残るのは、単なる戦争や殺戮一般という抽象的なものへの忌避を根拠とした抽象的な平和主義・ヒューマニズムだけになってしまいます。
 こうした同一視は単純でわかりやすいので、物事を深く考えようとしない多くの人に広まるわけですが、その結果、たとえば「ドイツはあの戦争を反省したが日本は反省していない」といった得手勝手な言い分や、最近の反安保法制の運動に見られる「安保法制は戦争への道」などというバカげた思考停止の感情的な心理基盤が作られるのです。
 誤解のないように断っておきますが、アウシュヴィッツとヒロシマを区別せよといっても、アメリカの非人道的行為がナチス・ドイツのそれに比べて軽いとか、かつての連合国の理念のほうが枢軸国のそれに比べればまだましだとか言いたいのではありません。むしろ逆です。個々の歴史事象の質的な相違をしっかり見極めるところから、何に対してどう憤るべきかという正しい指針が生まれてくるのです。情緒的な同一視は、これこれの事態を引き起こしたのは誰かという具体的な問いを封殺してしまいます。
 ナチス・ドイツがしたことはもちろんとんでもないことですが、連合国が、これだけを悪魔に仕立て上げることによって、自分たちのしたことを巧妙に正当化し、免罪してきたことも忘れてはなりません。このトリックは、旧ソビエト連邦のユダヤ人虐殺やシベリア抑留者に対する過酷な扱いから最近の中共政府の驚くべき歴史捏造にいたるまで、その隠蔽の構造を連綿と保存し続けているのです。
 事実、日本で毎年行われるヒロシマ・ナガサキの追悼・祈念儀式には、「この恐るべき非人道的な行為の直接の下手人は誰か、われわれは誰に対して憤りを向けることが正当なのか」という問いが生まれてくる余地のまったくない欺瞞に満ちたものです。もちろん下手人はアメリカであって、そのことがうやむやにされてきたのは、アメリカが中心となって作り上げた東京裁判史観と、日本の左派が作り上げた自虐史観との合作によるものです。
 いろいろと小うるさいことを申しましたが、要するに私が言いたいのは、アウシュヴィッツとヒロシマとをその悲惨さによって同一視するような粗雑なものの見方による限り、何億回平和を祈念してみても、戦争や虐殺はけっしてこの世からなくならないということです。両者を一緒くたに歌い込んだ詩を聞かされたコンサート会場の聴衆のほとんどは、おそらく善意に満ちた素朴な共感を示して拍手の一つもしたのでしょうが、それがいったい何だというのでしょうか。私はむしろ、「今日はアルゲリッチのピアノを聴きに来たので、余計なことはやらないでくれ」と感じた聴衆が少しでも会場にいたことを信じたい。
 この企画の担当者およびこれを何の疑いもなく放映したNHKの担当者は、お願いですから、この種の文化と政治をあいまいに混同させる企画が、理性的にものを考えようとする頭脳の働きを麻痺させる作用しかもたらさないということに気づいてほしいと思います。


<追記>その後の調べや読者の方たちからの情報により、この記事には、いくつか訂正すべき点があることがわかりましたので、以下にそれを掲げ、合わせて調査不足であった点についてお詫び申し上げます。しかしこの訂正によって、この記事の主旨そのものを変更する必要はないものと確信しています。
①アルゲリッチ氏のお嬢さんが朗読したのは、自作の詩ではなく、チャールズ・レズニコフの詩であったこと。
②このコンサートのS席のチケット代は、「2万円を下らない」のではなく、1万5千円であったこと。
③コンサートの行われた日付は、8月17日ではなく、8月11日であったこと。
④文中、「若い男性」が通訳ではないかと推測していますが、これは作家の平野啓一郎氏であり、彼が原民喜の「鎮魂歌」を朗読したこと。
最後の点は、筆者にとって別の意味で重要な批判に値する問題を含んでいるのですが、それについては、他の機会に譲ります。

なお、この記事は、ブログ「美津島明編集・『直言の宴』」にも転載されていて、そこでもコメントやりとりがなされています。また美津島明氏のFBでも興味深いやり取りが行われています。ご関心のある方はどうぞ。
ブログ:http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/0fa7f7fa539ab5fe1bbac1d07c4a6513
FB:https://www.facebook.com/akira.mitsushima.5






日本語を哲学する26

2015年09月03日 22時12分50秒 | 哲学

 以上のような例のほかにも、黙っていることが言語的な意味を表わすケースというのは、数限りなく想定することができる。
 たとえば――
・相手を軽蔑しているので、相手が何を言っても冷ややかに無視している場合
・相手が何を言っているのかよくわからないので、ボーっとしている場合
・ヘマなことを言ったり、つまらないオヤジギャグを飛ばしたりした後に座がシーンと白けてしまう場合
・相手の勢いに気おされて黙ってしまう場合
・突然の不幸に見舞われた友人のもとに駆けつけたが、あまりのことに友人に言葉をかけることができない場合
・他の人に累が及ぶことを配慮して、その人にかかわるあることを口にしない場合
・一座の和を乱すことを考えて出しゃばらないようにしている場合
・黙っていた方が態度として美しく立派であると感じられる場合
・メール交換を続けていたが、このへんで断ち切らないとお互いの感情がもつれてしまうと判断して、相手を傷つけないかを忖度しつつ、途中でやめる場合……等々。

 もはやいちいちこれらの意義を例証する煩に堪えないが、いずれの場合にも、そこにそれぞれの沈黙の「言語的意味」がせり出していることは明瞭である。
 一般的に言って、沈黙の言語的意味について考えるには、言語活動の資格を持つ者のうち、聞き手、読み手の側にとっての意味についても押さえておかなくてはならない。つまりこちらの発信に対する相手の沈黙は、こちらにとっての了解または誤解、共感または猜疑などの生みの親でもある。
 相手の沈黙によって、自分の言いたいことや思いを相手が理解してくれたとわかる場合もあれば、黙っているその表情次第では、相手がこちらの発言に対していやな感情を抱いたのではないかと疑りたくなる場合もある。
 相手の沈黙が何かを雄弁に語っている(ように思える)ことがあるという意味において、ここでも沈黙が言語的意味を持つことが証せられるのである。
 要するに、あらゆる言語的コミュニケーションにおいて、沈黙は常に発語と隣り合わせているのであって、言葉の選択行為そのもののうちに、選ばれないで捨てられた「まぼろしの言葉」が同時存在するのである。ある場においてある言葉を発したということは、すなわち、別のある言葉を発しなかったということである。発語された言葉は、沈黙に取り囲まれて、あるいは沈黙に引きずられて初めて成立する、と言い換えてもよい。

 さてこの発語が沈黙に取り囲まれて、あるいは沈黙に引きずられて成立するという一般的事情のうち、両者が言語主体の存在状態そのものとどのように対応しているかという点に着目してみよう。
 ごく簡単に言えば、発語は、主体どうしの「距離」が近すぎても遠すぎても成立しない。適切な距離において、その距離に適応した発語がなされるのである。
 この「距離」という概念は、物理的距離と精神的距離とに分けて考える必要がある。
 前者は、文字通り、身体間の距離であって、原始的な状態では、目の前にいないで離れている人、遠くにいる人には発信できないし、身体をぴたりと接触させている時というのは、抱擁や暴力沙汰や格闘技や性行動のような場合であるから、発語は事実上不要であるか、または最小限度に抑えられる。
 後者の精神的距離については、次のようなことが考えられる。
 発達した文明状態では、物理的な意味での身体間距離はさほど問題にならず、原理的には宇宙空間にいる人物とも交信が可能である。したがって、ここでの「距離」とは、①それぞれの個人主体の心理的距離、②言語共同体間の文化的距離、③その両方、のいずれかを指している。
 これらの場合において、距離が近すぎても遠すぎても発語が成立しないということの意味は、近すぎる場合には、あまりに分かり合えているために余計な言葉が必要ないということであり、遠すぎる場合には、言葉が通じないことが骨身にしみてわかっているために、はじめから発語を断念するということである。



                /\
               /  \
              /    \
       ←―――――――  発語  ―――――――→
        ←沈黙   \    /  沈黙→
 言葉以前の通い合いがある \  /  通じないので断念する
                \/



 さらにこれを上記①②に即して整理すると、以下の表のようになる。


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|              |  近すぎる      |   遠すぎる   |
|―――――――――――――――――――――――――――――――――――-――――――――――――-――――
|①個人主体の心理的距離   |例:愛し合っている二人 |例:見知らぬ人どうし|
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|②言語共同体間の文化的距離 |例:同じ村の住人    |例:異国人どうし  |
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