小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

冷房装置代ケチって亡国へ

2018年07月25日 00時57分01秒 | 政治


今から三年前の2015年8月27日、安倍首相は、遠藤利明五輪相が新国立競技場の整備計画について説明したところ、
「冷暖房はなくてもいいんじゃないか」
と指摘しました。

https://www.sankei.com/politics/news/150828/plt1508280044-n1.html

2651億円→1640億→1595億円→1550億円。
(中略)
首相自ら新計画の発表前日となる27日、冷暖房設備のカットを指示するなど土壇場まで調整を続けた結果、旧計画から1101億円もの削減が実現した。
「冷暖房はなくてもいいんじゃないか…」
(中略)
これ以上ない削減を行ったと思っていた遠藤氏は驚いた。
首相の手元には、冷暖房を盛り込み『総工費1595億円』などと書かれた新計画案のペーパーがあった。


唖然とする発言です。
こういう発言をする安倍首相の生理を疑います。
もっともこの発言は、3年前のものですので、その点は割り引くべきですが、残暑が厳しい時期であったことには相違ないでしょう。

おまけに、今年はついに40度を超える史上初の酷暑が続いています。
この状態は2年後も変わらない可能性がきわめて濃厚です。
引用の後続部分に、開会式、閉会式は夜行われるとありますが、夜でも熱帯夜が続いていることは日本国民なら誰でも経験しています。
しかも競技は日中の炎天下でも行われるのです。

冷房の効いた官邸の執務室で、想像力の欠落した首相はじめ閣僚たちが、ソロバンばかりこちょこちょはじいて経費削減に血眼になっている姿。
みっともないというか恥ずかしいというか。

新国立競技場はもう着々と工事が進んでいます。
しかし今年の酷暑のことを考えれば、今からでも遅くありません。
さっそく冷房装置を新たに設置するよう、予算を増額すべきです。
技術的には可能なことで、何ら問題ありません。

そもそも東京五輪はどうして真夏に開催することに決まったのか。
これについては、早くから疑問の声が上がっていました。
ここ数年日本の夏は、亜熱帯としか言いようのない酷暑と高い湿度が続いており、屋外競技では選手も観客も参ってしまうことが十分に予想されたはずです。
しかし、次の記事を見てください。

だが、開催時期は招致の時点で決まっており、今後日程が変わることは基本的にはない。
なぜなら、国際オリンピック委員会(IOC)では、立候補都市は夏季五輪開催日を7月15日~8月31日までの間に設定することを大前提としているからだ。
では、IOCが開催時期をこの期間としているのはなぜか。
それは、欧米のテレビで五輪競技の放送時間を多く確保するためである。
IOCは欧米のテレビ局から支払われる巨額の放映権を収入の柱としている。
そのため、欧米で人気プロスポーツが開催されておらず、テレビ番組の編成に余裕のある7~8月に五輪の日程を組み込むことで収入を得るという仕組みを作ったのだ。

https://www.nippon.com/ja/currents/d00104/

要するに、欧米のビジネスによってことが決まっているという話です。
IOCというのもしょうもないひも付き組織ですね。

64年の東京オリンピックは「スポーツの秋」にふさわしく10月に行われました。
その経済効果も、新幹線や首都高、一流ホテルなどの巨大インフラが整備され、莫大なものがありました。
今回はそれも期待できません。

ちなみに公立小中学校の冷房装置設置率は、ようやく5割弱で、都道府県によっては、2割未満のところもあります。
千葉市はゼロだそうです。

https://www.nippon.com/ja/features/h00248/

直接の原因は、自治体の財政難ですが、究極の原因は言うまでもなく財務省の根拠なき緊縮路線です。
特別国債を発行し補助金を計上することなど、決断次第でいくらでもできるはず。
公共設備として資産価値に計上されるだけでなく、大規模発注による経済効果も生じます。

大人たちが冷房の効いたオフィスで仕事をしているのに、子どもたちに毎日こんなかわいそうな目に遭わせてよいのでしょうか。
また今度の水害で明らかになりましたが、避難所である体育館には冷房が全くありません。
避難所には乳幼児もいます。
日頃からのインフラ整備を怠ってきたツケがいまこの国に大きく回ってきています。
未来の日本を担う子どもたちを見殺しにするこういう国は、早晩亡ぶでしょう。


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柄谷行人、中沢新一」
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「ポピュリズム肯定論」の座談会に
出席しました。(8月16日発売予定)


角栄の政治家魂を復権させよう

2018年07月11日 22時04分44秒 | 政治



西日本を襲った豪雨は広域にわたって大被害を及ぼしました。
不幸にして亡くられた方たちに心よりお悔やみを申し上げるとともに、被災者の方たちが一刻も早く立ち直ってくださることをお祈りいたします。

今回の災害では、これまでにも増して、インフラの未整備や経年劣化したインフラのメンテナンスを怠ってきた行政の怠慢が露呈しました。
長年の間、緊縮財政に固執してきた財務省による人災の面が色濃く出たと思います。

ところで、田中角栄と聞くと、みなさんはどんなイメージを思い浮かべますか。
ロッキード事件、田中金脈、日本列島改造論、今太閤、目白の闇将軍などいろいろありますが、概してあまりいいイメージを抱かれていないと思います。

しかしあまり知られていないようですが、総理大臣以前、1950年代から70年代初めにかけての衆議院議員や閣僚時代、角栄の政治家としての活躍には目覚ましいものがありました。

衆議院議員としては、何と100本を超える議員立法を成立させています。

その主なものは、

・建築士法
・公営住宅法(これは日本住宅公団設立のための基本法です)
・道路法全面改正
・道路・港湾・空港の整備のための特別会計法
・二級国道制定による国費投入の範囲の拡大
・道路審議会の設置による民意の反映
・道路整備費の財源等に関する臨時措置法
(これは道路特定財源の獲得を意味します)

また閣僚時代には、社会基盤整備にかかわる通産省、建設省、運輸省、郵政省などに強い影響力を及ぼし、政治主導による官僚統制の原型を作り出したのです。
大蔵大臣時代に豪雪被害に初めて災害救助法を適用させたこともその大きな功績です。
その後、この官僚統制の型はすっかり崩れ、財務省が実権を握ってしまいました。

こうしてみると高度成長の実現を、インフラ整備の面で制度的に支えた角栄の、政治家としての実力がいかに大きかったかがわかろうというものです。

もちろん、こうした大きな力を振るうには、巨大な金脈を作り出し、それを存分に用い、あらゆるコネを利用し、法的には、ずいぶん危ない橋も渡ったことでしょう。
そのことをいいとは言いませんが、そうしなかったら日本の成長と繁栄がなかったことも事実です。

また彼の活躍した時代には、官僚に勝手な真似をさせず、国民の豊かさの実現のために彼らを思い通りに使うことができたのです。
政治家と官僚とはシーソーのようなもの。
本当に国民のためを思う力ある政治家がその気になって官僚を統制すれば、官僚は言うことを聞くのです。

ちなみに安藤裕議員率いる「日本の未来を考える勉強会」が、このたび安倍首相に素晴らしい提言をしましたが、安倍首相がこれをまともに受け取って、財務官僚を抑えることを切に望みます。
この提言が提出された記事は、何と官邸のHPに掲載されているのです。

https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/actions/201807/06moushiire.html

また、提言の詳しい内容は、三橋貴明氏の次の記事で把握することができます。

https://38news.jp/politics/12153


さて一方には、田中金脈問題を執拗に追い、「巨悪」なるものを暴くことに信じられないほど情熱を注いだライターがいました。
ご存知、あの「知の巨人」とうたわれた立花隆氏です。
彼は、この問題について書いた記事を、『田中角栄研究』(講談社)という上下二巻のものすごく分厚い本にまとめました。
ところがこの本は驚いたことに、角栄の政治的手腕をどう評価するのかについてはただの1ページも記されていません。

この本は、戦後の政治権力者の「道徳的な悪」を暴くジャーナリズムの嚆矢と言ってもよいもので、民衆のルサンチマンを煽る悪い風潮を作り出しました。
今でもこの風潮が根強く残っていることは、近年流行の政治家・官僚の引きずりおろしごっこを見ても歴然としています。

政治家や官僚はもちろん公人として高い道徳性を要求されますが、そのことだけで政治家を評価してすませ、国民のためにどんな政治的手腕や才覚や視野の広さを行動によって示したか、という肝心の点に目がいかなくなってしまうのは困ったことです。

「清廉潔白」は政治の理想かもしれませんが、現実の政治とそれを取り巻く世界とは、猥雑さに満ちています。
複雑な社会でものごとを通そうと思ったら、理想通りにはいかないことは、大人なら誰でも知っているはず。
民衆のルサンチマンを満たすために、道徳の名を借りて政治の本質から目をそらすことは、たいへん下品でけち臭いことです。
中国の文化大革命なども、権力闘争のために、「造反有理」などという単純なスローガンの下、民衆のルサンチマンを利用して、多くの政治家や知識人をつるし上げにしたことで有名です。


今回の大災害で、どんな理屈を垂れようが、緊縮などと言っている場合ではなく、インフラ整備、インフラ・メンテのために早急に予算を増額すべきことがはっきりしました。
転ばぬ先の杖(もう転んでいるのですが)が何より大事であることを角栄は「土建屋」の直感で知っていたのです。
いまこそ角栄の政治家魂を復権させましょう。


『万引き家族』を見て(その2)

2018年07月10日 01時29分32秒 | 映画


あらすじを続けます。

翔太は施設に入れられ、そこから学校に通うことに。
ゆりは両親の下へ。母親は相変わらずゆりに冷たく、化粧中にゆりが頬を触ってしまうと、「痛ッ!」と言って「ごめんなさいは!」と強く繰り返します。
ゆりは答えません。
頬の傷は明らかに夫の仕業です。
その後すぐ母親は「お洋服買ってあげようか」と懐柔にかかりますが、ゆりは首を横に振ります。

施設から一日外出してきた翔太は、アパート住まいをしている治を訪ねます。
川べりで、翔太がかつて盗んだ高価な釣り竿二本で「父子」は釣りを楽しみます。
治はこの釣り竿を売るつもりでしたが、釣り好きの翔太の希望を受け入れてそのままになっていたのでした。

そのあと、二人は拘置所の信代と面会します。
信代は死体遺棄と誘拐の罪を一人で背負って明るくたくましい調子で二人に接します。
すまながる治に、「いいって。お釣りがくるくらいだよ。あんた前科があるじゃないの。五年は食らうよ」と突き放します。
信代は誘拐容疑も背負うつもりなのです。
翔太に対しては、「あんたを見つけたのはね、パチンコ屋の駐車場。車はビッツ(?)、番号は習志野。本当の両親、その気で探せば見つかるかも知ないよ」と屈託なく情報を伝えます。
治は少し焦り、「そんなこと言うために翔太を呼んだのか」。
「そうよ。私たちではもう無理よ」と信代。

その夜、治と翔太は治のアパートで食事をします。
治がかつてうまい食い方として教えたカップ麺にコロッケ。
翔太は許されていない外泊をすることになり、食後、二人で雪だるまを作ります。
冒頭の場面でコロッケを買った時も冬でしたから、ほぼ一年経ったことがわかります。
およそ一年間の「家族劇」なのでした。

せんべい布団で背中合わせに寝る二人。
「もう『おじさん』でいいよ」と治。
「うん」と翔太。
「僕と別れるつもりだったの」と翔太。
しばらく沈黙した後、「うん」と治。
これは夜逃げの時の心境とはおそらく違っていたでしょう。
でも治は「そんなつもりじゃなかった」とは抗弁しませんでした。

夜が明けて施設に帰る翔太と見送りの治。
バスがやってくる寸前に翔太がぽつりと「ぼく、わざと逃げたんだ」とつぶやきます。
わかってる、わかってるという表情の治。
バスに乗り込んだ翔太を治は追いかけますが、翔太は気張ってなかなか振り向こうとしません。
しかしとうとう振り向いてじっと後ろを見つめます。

ゆりはアパートの通路で、ひとり数え歌をうたいながら破片のようなものをガラス瓶に入れています。
この歌はおそらく初枝に教わったのでしょう。
それから台の上に載って、外をじっと見つめます……。

このラストシーンは、まるで賽の河原で石を積んでいる子どものようです。
「鬼」はやはり壊しに来るのでしょうか。

翔太は生きる希望を暗示させて去っていきますが、ゆりのこの姿には、何とも救いようのないものを感じさせます。

さて長々と筋を追ってきたのですが、この作品に、現代家族の荒廃に対する批判を読み込んだり、血のつながりよりも愛情といった図式的メッセージを読み込んだりするのは、つまらない鑑賞の仕方です。
まずは作品そのものがテクニカルな意味でいかに優れているかを挙げてみましょう。
それを知っていただくためにも、詳しく筋を追いかける必要があったのです。

まず、小道具を中心とした多くの伏線が張ってあって、それらが見事に生きています。
治が初めてフェンス越しにゆりに差し出すコロッケ。これは最後に翔太と食べる場面にそ
のままつながります。
「仕事」の帰りにコロッケを買う時に治が翔太にする、一発でガラスを割れるハンマーの話。これは車のガラスを割る治に同調しない翔太のためらいにつながっています。
スーパーで水着をあてがわれた時のゆりの恐怖や、お風呂での信代とゆりの傷の見せ合いや、万引きした釣り竿が後に重要な意味を持つことについてはすでに述べました。

また前には述べませんでしたが、翔太は国語の教科書に載っていた「スイミー」の話に強く惹きつけられています。
これは翔太の、広い世界への憧れと、力を合わせて大きな敵を追い払う弱者たちへの共感を表現しているでしょう。

解雇された後の信代の妙にセクシーな下着姿とそれを目のやり場に困るようにちらちら見る治。
この後すぐ信代が半ば強引にセックスを求めるのですが、これは仕事の拘束からの解放感を表しているでしょう。

音だけしか聞こえない隅田川の花火大会を六人揃って縁先から見上げるシーン。
直後にズームがぐっと引かれてこの家がビルに囲まれて孤立している様子が強調されますが、しかし逆にこのとき「家族」の絆が海水浴のシーンと同じように象徴的に表現されます。

また、ゆりが髪を短くして名前をりんと変えさせられたとき、亜紀がりんと一緒に鏡に映りながら、「お姉ちゃんももう一つ名前を持っているんだ」と言い、りんが「なんていうの」と聞くと「さやか」と源氏名を答えます。
するとりんは「りんのがいい」とはっきり言います。
まるで愛情の虚実をわきまえているかのように。

新しい名前が与えられるということは、自分が新しい共同性の中でアイデンティティを得たという重要な意味を持っています。
幼いゆり(りん)はこの時、この「家族」の一員であることをついに自覚したのです。
鏡に映った自分をうれしそうに「柴田家」のメンバーとして自己承認する「りん」でした。
さりげなくその事実を示す是枝監督の演出は心憎いの一言に尽きます。

しかしすでに述べたように、何と言っても伏線として決定的なのは、「やまとや」の親父さんの「妹にはさせるなよ」というひとことでしょう。
ここを起点として、この「疑似家族」は「失楽園」への道を歩み始めるのですから。
じつはこの後しばらくして、翔太とりんがもう一度「やまとや」を訪ねるシーンがあります。
ところが入り口には「忌中」と張り紙があり、扉が閉まっています。
「お休み?」とりんが聞くのですが、翔太は答えません。
何かを悟ったようです。
翔太はきちんとお金を払うつもりだったのかもしれません。
しかしそれはかなわず、この世の掟を優しく暗示してくれた親父さんとの別離が、翔太の倫理観をいっそう育てることになったのだと考えられます。

これまで筆者は、治と翔太が万引きを常習としていたり、初枝が金目当てに毎月亡夫の息子の家に金をせびりに行っていたり、夫婦が初枝の遺体を埋めることに大してためらいを感じていなかったり、初枝の死後、信代が年金を平気で引き出していたりすることに、何らかの判断を示してきませんでした。
それには理由があります。
この作品は、たくましく明るく生きようとする庶民の生活を描いてはいますが、貧困の惨めさのようなものはまったく感じられません。
やっていることは反社会的なのですが、そのどれもが、家族の絆をむしろ強める方向に作用しています。
破綻をきたすまでは、だんだんみんなの幸福感が増していくと書いた所以です。

家族とはエロス(情緒)によって結びついて日常生活を共有する集団です。
その共同性の内部では、法社会の約束に反することでも、情緒を支える物語が成立していさえすれば、維持することが可能なのです。
家族は個別的な宗教集団と言ってもいいかもしれません。
この家族の場合、その教義の中心は「万引き」でした。
また治と信代を強く結びつけてきたのが「殺人」であったという事実も付け加える必要があるでしょう。

現代日本を舞台にした映画という枠組みの中ではなかなか気づかないかもしれませんが、法的なルールに反することで家族的な共同性の絆を維持するというあり方は、歴史に思いをはせればさほど珍しいことではありません。
山賊一家、マフィア、現代でもロマ(ジプシー)などいくらでも見つかります。
あるいは昔の遊牧民などは、土地所有や私的所有の観念が希薄ですから、今でなら犯罪と見なされることも平気で行っていたでしょうし、仲間が死ねば彼ら固有のやり方で埋葬していたでしょう。
つまり、エロス(情緒)を絆として結びついた集団は、近代法の支配する社会などよりもはるかに時間性をはらんでいるのです。
『万引き家族』の成員たちは、家族の持つそうした原始性を保存していたのであり、しかも情緒が醸し出す限りでの「人倫性」はしっかりと確保しています。
だれもが互いに対して温かく、特に幼い新参者のゆりには限りなく愛情を注いでいるのですから。

しかし近代社会のルールが自分自身と接触する限りで、そういう人倫性を認めないのは当然です。
存在に気づくことすらないでしょう。
筆者はこの映画を見て、四十年近く前に起きた千石剛賢をリーダーとする「イエスの方舟」を思い出しました。
マスコミの誤解と激しいバッシングによって漂流を余儀なくされたこの教団は、主に家庭的悩みを抱えた若い女性たちを信徒とする小さな情緒的共同体でした。
彼らはじつに真面目な人たちであり、反社会的な行動すら何一つ起こしていません。

マスコミを中心に法社会の「正義」を振りかざす風潮が強まっていますが、もちろん是枝監督は、それを告発する意図などをもってこの映画を作ったのではないでしょう。
監督の意図を忖度することはできませんし、またその必要もありませんが、筆者自身は、この作品は、擬似家族解体の物語であるよりもむしろ、逆説的な家族創造の物語であると考えます。
しかしあらゆる家族は歴史的社会的条件を背負う中で生まれ、その営みを続けますから、ゼロから家族を創造することはできません。
そうかといってありきたりの血縁家族をもってきたのでは創造は果たせない。
そこで一般社会の原理(理性)とは根本的に異なる原理を持つ家族の共同性を際立たせるために、法的には軽犯罪である万引きという絆=教義を出発点に置いたのではないでしょうか。
しかしこの一種の「実験」を長期間にわたって続けるのが不可能であることは、監督の中ではもちろん織り込み済みでした。

渡辺京二氏はかつて「人は必ず共同性に飢える存在である」と述べました。
その飢えが表出される源は、エロスであり情緒なのです。

初めにこの作品を傑作と評しましたが、あえて難を言えば、限られた時間の中にカットを詰め込み過ぎている点でしょうか。
シーンが次々に移りゆくので、一つ一つのカットにはすべて背景があることが一見したところではわかりにくいかもしれません。
しかし逆にこのことは、作品の文学性の高さを示すものともなっています。
説明的部分を極力省いて映像と切り詰められたセリフの展開だけで見せる手法は、この監督の得意とするところでしょうが、おそらく二度、三度と見るうちにその味わい深さがしみとおってくると確信します。

映画が終わって出口に向かった時、二人のお年寄り(私と同年齢くらいか)が、「なんだかよくわかんねえな」とつぶやいているのを耳にしました。映画というものは一般大衆向けに劇場で上映されるということを制約条件としているので、その意味では、劇場向きではなく、DVDなどで一人じっくりと鑑賞するのに適した作品かと思います。



(映画を一度しか見ていないため、セリフその他細かい点で誤りを犯している可能性があります。平にご容赦ください。)

『万引き家族』を見て(その1)

2018年07月08日 12時29分47秒 | 映画




数日前、カンヌ国際映画祭で栄誉あるパルムドールを獲得した是枝裕和監督の『万引き家族』を見てきました。
じつに緻密に組み立てられた傑作です。
ミステリー仕立てにもなっているので、そういう楽しみかたもあり。

是枝監督の映画は、これまで『歩いても歩いても』と『そして父になる』の二本しか見たことがありませんでしたが、三作見た限りでは、本作が群を抜いていると思います。
というか、彼が追求してきたテーマ――「不全を抱えた家族」とでも言っておきましょうか――が今回ほどくっきりと打ち出された作品はなかったのではないかと考えられます。
その意味で、一つの頂点を極めたような気がします。
ここまで同一テーマを突き詰めると、この先が難しいかもしれない、と余計な心配をしてしまいました。
もっとも他の作品を見ていないので、あまり大きなことは言えないのですが。

この作品を本気で批評してみたいと思うので、その関係で、ネタバレと非難されるのを覚悟の上、あらすじを詳しく述べます。

ビルの谷間に取り残された狭く汚いおんぼろ屋に住む五人家族の柴田家。

祖母・初枝:樹木希林
父・治:リリー・フランキー
母・信代:安藤サクラ
父の妹・亜紀:松岡茉優
息子・祥太:城桧吏


治は日雇いの建設労働者、信代はクリーニング会社のパートタイマー、亜紀は(時々?)風俗嬢。
これだけでは暮らしが成り立たないので、みな祖母の年金を当てにしています。
翔太は11歳ですが学校に通っていません。
治は日用品や食材を万引きで得ていて、翔太にそれを指南中。翔太もかなりの腕前に達しています。
ある夜「仕事」を終えた二人はコロッケを買って帰宅途中、マンションから締め出されてしゃがみ込んでいる幼女(ゆり:佐々木みゆ)を見つけます。
これが初めてではありません。
治は哀れに思ってコロッケを差し出したのち、家に連れ帰ります。
夜更けに夫婦で返しに行きますが、親が大喧嘩の真っ最中。
窓越しに事情を知った二人は、返すに返せず戻ってきてしまいます。
誘拐ではないかとの詮議もしますが、監禁も身代金要求もしていないのだから誘拐ではないという話になり、養う結果に。
虐待の環境に慣れ切っていたゆりは、初めはなかなか打ち解けませんが、初枝に優しくしてもらったり、信代とお風呂に入ったり、翔太と遊んだりしているうちに、しだいに溶け込んでいきます。

治は現場で足の骨にひびが入るケガをし、労災も出ず自宅療養。
やがて翔太はゆりに万引きを教えるようになります。

あるときテレビでゆりの失踪事件が報道されます。
ブラウン管からは二か月も捜索願が出ていなかったことをいぶかる声も。
柴田家では、髪を切り名前も「りん」と変えることにします。
りんの洋服や水着を買うために(実は盗むために)初枝と信代はりんを連れてスーパーに出かけます。
更衣室でバッグにしこたま衣服を詰め込む初枝。
洋服を買ってもらった後には叱られるという観念連合に縛られていて、「ぶたない?」と聞くりん。

その後、信代はゆり(りん)が以前に着ていた洋服を、「いい、燃やすわよ」といいながら庭で火にくべます。
めらめらと炎が揺らめきます。

りんは、夜になっても帰宅しない翔太を慕って寒い玄関で待ち続けます。
治が廃車にこもっている翔太を見つけ、りんが妹であることを認めさせます。
ついでに「俺はお前にとって……」と言いかけ、口形を作って「とうちゃん」と言わせようとしますが、翔太は「まだ」と拒否。
しかし「いつかは」という合図を交わして夜更けの駐車場でふざけ合います。

あるとき信代ともう一人の同僚が上司から呼ばれ、ベテラン二人のうちどちらかが解雇の対象とされます。
遠慮なく冗談を言い合う仲だった二人の関係はこわばり、相手にりんを隠していることを指摘された信代は、しゃべったら殺すと言いつつ、解雇を受け入れます。

かく話が進むうち、以上六人は、一人も法的に認められた「家族」ではないことがしだいにわかってきます。
初枝は亡夫に不倫されて離婚、一人残され、どこで治夫婦(彼らも籍を入れていません)と出会ったか、同居することになったのですが、亜紀も治の妹ではなく、初枝の亡夫が新しく結んだ家庭から生まれた孫世代に当たるので、初枝とは血がつながっていません。
亜紀は二人姉妹の姉ですが、裕福な家の子だったにもかかわらず、妹ばかり可愛がる親に反発して家出し、初枝と知り合って同居するようになったのです。
初枝は亡夫の命日にひそかに亜紀の実家を訪ね、いくばくかの金をせびることを続けています。
翔太も治夫婦の子ではなく、ゆり(りん)と同じように家族からはじき出されて車の中にいたのを、治に拾い出されてメンバーに加わったのでした。じつは後でわかることですが、翔太という名前は、治の本名だったのです。

この「疑似家族」は時間を追うごとにしだいにその絆と幸福感が高まっていく様子が観る者の目にはっきり映るように描かれています。
亜紀は風俗店で言葉に障害を持つ若者と出会って、気脈を通じさせることができ、少しうきうきした気分で帰宅。
激しい雨の降る真昼、治と信代は久しくなかった性行為に及ぶことができます。
その絆と幸福感の頂点を感じさせるのが、一家六人で海水浴に出かけるシーンです。
全員が楽しんでいることがとてもよくわかります。

この後、初枝はあっさりと死んでしまいますが、「家族」でないため死亡届も出せす葬式代も出せません。
治が中心となりみんなで庭に穴を掘って埋めてしまいます。
死亡届を出さないままにしておくので、年金を引き出すことができます。
信代がATMからこれを引き出したとき、翔太もついてきて「いくら?」と聞きます。
「十一万六千円」と淡々と答える信代。
二人で歩いていると物売りが「買ってかない、お母さん」と呼びかけるので信代は思わず笑い崩れますが、その瞬間をとらえて翔太が「お母さんて呼ばれたい?」と聞きます。
信代は複雑な表情を浮かべます。
治よりはクールです。

さてこれよりも前に重要な伏線があります。

翔太がりんと共謀で駄菓子屋で万引きをはたらきますが、駄菓子屋(やまとや)の親父さん(柄本明)はこれをとうに見抜いており、おまけをつけてくれながら「妹にはさせるなよ」とぶっきらぼうに言います。
このひとことが翔太の中でずっと尾を引き、店のものは誰のものでもないから取っていいんだと治から教えられてきたこととの間に心の葛藤を呼び起こすのです。
治が翔太を連れて駐車中の車のガラスを割って盗みをはたらこうとした時、翔太は、「これは人のものじゃないの」と抵抗の気持ちを吐露しますが、治はこれを無視します。

葛藤を抱えながらも、翔太はりんを外に待たせた上で、「仕事」に入りかけます。
するとりんが勝手に店に入ってきて万引きをしようとします。
翔太は狼狽します。
店員の目をこちらに惹きつけてようと店の品を音を立てて崩し、オレンジを抱えて店から逃げ出します。
二人の店員に追い詰められ、高架のフェンスを飛び超えて下の道路に落下し、重傷を負って病院に運ばれます。

りんは慌てて家に戻ります。何があったのかを告げたのでしょう。
このことがきっかけで一家は夜逃げを企てます。その時、「お兄ちゃんは?」と聞かれた治は、「後で迎えに行く」と答えます。
そこに警察の手入れが入り、「柴田一家」は全員取り調べを受けることになります。
もちろん「死体遺棄」も発覚します。

この死体遺棄は信代が治に代わって罪を着ることになります。
ここには、二人の過去の事情が絡んでいます。
信代には前夫がおり、DVを受けていたらしく、それを助けようとした治に前夫が切りかかってきたのを、治が逆に殺してしまったのです。
法廷では正当防衛として無罪判決が出ました。
これは、りんと信代がお風呂に入った時、腕の傷痕を見せ合うシーンからも想像されます。
りんにとっては、「おんなじだね」という共感を呼び起こすだけですが、信代にとっては、この場面で、ゆりの両親の殺伐たる関係に、自分の経験の記憶を重ね合わせる思いだったことでしょう。
要するに信代は治に恩返ししたわけです。

また取り調べの過程で、亜紀は初めて初枝が亜紀の実家から金をせびっていた事実を知らされます。
その時の亜紀の「じゃ、私に近づいたのはお金のためで私のためじゃなかったんだ」というセリフは印象的です。
愛情か金か、どちらかに分けられるものでしょうか。
たとええ初めは金のためだったにしろ、現に同居してからは初枝との交情は甘やかなものになっていたのですから。

さらに信代が、「義母」を棄てたことについて問い詰められたとき、「捨てたんじゃない、拾ったのよ。捨てたのは他の誰か……」と答える場面は、この作品全体の意味を解き明かすキーワードの意味を持っていて、強烈な印象を与えます。

ともかくこの取り調べ尋問のシーンは、大人三人が殺風景な壁をバックに正面大写しで観客の方を見つめながらしゃべるので、その迫力が圧巻です。特に安藤サクラ演じる信代のセリフ回しと表情には何とも言えない凄みが感じられます。

今回は、ほとんどあらすじだけを追いかける格好になってしまいました。
これでもまだ、筆者の言いたいことを展開するために必要な部分を記述しきれていません。
あらすじの残りと本格的な批評は次回に回したいと思います。
どうぞご期待ください。
(一回見たきりの記憶に頼っていますので、セリフなど細かい点で誤りがある可能性があります。その節は平にご容赦ください。)

安倍政権20の愚策(その3)

2018年07月04日 00時38分45秒 | 政治



(17)外国人土地取得にかかわる無規制
中国が日本の土地を爆買いしています。
すでに北海道や沖縄を中心に、全国土の2%が中国人の所有になっています。
https://www.recordchina.co.jp/b190071-s0-c20-d0035.html
2%というと静岡県全県にほぼ匹敵します。
http://www.sankei.com/world/news/170225/wor1702250023-n1.html
http://blog.goo.ne.jp/sakurasakuya7/e/884073e66a98c0319f25170316a099a9
古くは2005年、国交省主催の講演会で、中国人男性が「北海道1000万人計画」というのをぶち上げました。
以下の動画で、産経新聞の宮本雅史氏がその模様を語っています。
https://www.youtube.com/watch?v=P7urvLd18u0
やがては北海道全域を中国の支配下に収めようという魂胆が丸見えです。
このような事態を招いたのは、外国人が土地を取得することに対して法的な規制がないことが原因です。



しかも国交省は、わざわざ外国人不動産取引の手続きを円滑化するための実務マニュアルを作成。
「どんどん買ってください」と言わんばかりの姿勢を示しています。
日本は外国人土地法の第1条で、「その外国人・外国法人が属する国が制限している内容と同様の制限を政令によってかけることができる」
としていますが、政令が制定されたことはありません。
対して中国では外国人の不動産所有は基本的に不可。
なおこの件は以前にも扱いましたので、詳しいことは、以下で。
https://38news.jp/economy/10151

また、国防の要地であるはずの対馬が韓国人に不動産を爆買いされ、民宿、ホテル、釣り宿など、思いのままに建設、経営されています。
韓国のツアー客が大挙して対馬に来るとツアーガイドが開口一番、「対馬はもともと韓国の領土です」と説明するそうです。
対馬市当局は、どれくらいの土地が韓国人の手にわたっているか、把握していません。
こういう危機的状態は、政府がいち早く手を打たない限り、今後ますます加速するでしょう。

(18)中国人の医療タダ乗り

これは最近問題になっていますね。
https://diamond.jp/articles/-/129137
中国のがん患者数は半端ないですが、そのうち一部の人が日本で最先端治療を受けるために来日します。
医療で来日する場合は医療滞在ビザが必要で、これだと費用は1000万円以上かかります。
しかし経営・管理ビザで入国して三か月以上滞在すると、国民健康保険の加入が義務付けられます。
すると前年に日本で営業していなければ(実際しているわけがないのですが)、月4000円の保険料を支払って、三割負担で医療費が安くなるという仕組み。
渡航費、滞在費も含めて300万円程度の負担で済みます。
患者は日本で会社を経営するわけではなく、斡旋業者が資本金の500万円を見せ金として示し、ビザが発給されると次の患者に回す。
これを繰り返して、何人も患者が来日します。
また中国残留孤児が家族を呼び寄せて、生活保護世帯の処遇を受ければ、ゼロ円で医療が受けられます。
もちろんこれらの差額分は、日本国民の税金によって賄われます。

筆者は、こうした巧妙なからくりを利用する外国人たちを特に非難しようとは思いません。
なぜなら、制度の抜け穴がある限り、合法的ならだれでもそれを利用しようというのが人情で、それが生活者というものです。
問題なのは、こうした制度の抜け穴をいち早く塞ごうとしない日本の管轄官庁のだらしなさ、鈍さにあります。

(19)観光立国、カジノ法案
インバウンド、インバウンドと、政府は日本を観光立国にしようと騒いでいます。
しかし内需拡大を目標に自国の生産力の拡大を諮ろうとせず、ガイジンさんに頼るようになった国は必ず衰えます。
ところで訪日外国人の内訳ですが、韓国、中国、台湾、香港の4地域で、全体の73%を占めます。
欧米加豪の合計はわずか14%。
しかも2014年当時、前者は67%、後者は18%でした。
http://www.jnto.go.jp/jpn/statistics/since2003_tourists.pdf
つまり増えているのは、お隣からの訪問者であって、欧米人の割合は減っているのです(絶対数は微増)。
韓国や中国がいまの日本にとって、不安定な関係にあるということを忘れないほうがいいと思います。
しかも訪日外国人の4割は、観光客ではなくビジネスマンです。
これらの人は日本でちゃっかり稼ぐ意図で来日します。
訪日外国人の増加を素直に喜べません。
もう一つ素直に喜べない理由。
じゃんじゃん高級ホテルの建設でも進むなら話は別ですが、実際には、サービスの悪い民泊の増加による料金低下競争が起きています。
老舗旅館などが閉鎖されつつあります。
デフレ不況期にこういうことが起きると、移民による賃金低下競争と同じで、日本の経済全体に悪影響を及ぼすのです。

さらに、次の点が決定的に重要です。
最新の統計では旅行収支1.3兆円の黒字と出ていますが、これってGDPのわずか0.26%です。
この程度の黒字幅をもって、日本経済に好転の兆しがあるかのような幻想をマスコミが振りまいています。
この種の幻想は、政府がやるべきことをやらない口実として利用され、不作為の事実を隠蔽する効果を生むだけです。

カジノ法案(IR実施法案)が衆議院で可決されました。
これも「観光立国」というまやかしの政策の一部です。
パチンコや競馬・競輪などでギャンブル依存症が多いことは知られていますから、カジノが出来たからといって、急に依存症が増えるとは思いませんが、政府がやるべきことをやらず、デフレ脱却を先延ばしするなら、カジノがあろうとなかろうと、貧困層が増え依存症も増えるでしょう。
さらに、カジノ収入のすべてが国庫に収まるのではなく、7割は賭博事業会社の懐に入るという事実に注目すべきです。
さぞかしラスベガスなどで鳴らした名うての外資に狙われることでしょう。
ここにも米国の大きな圧力を感じますし、農業や電力や水道の自由化と同じように、グローバリズムを無反省に受け入れる日本政府の亡国路線が見えます。
日本は「観光立国」などという浮かれ騒ぎにうつつを抜かすのではなく、一刻も早くデフレ脱却のために、内需拡大を目指すべきなのです。
社会資本が充実し経済活動が繁栄すればその国は魅力を増すので、観光客などはおのずと増えます。

下図は2016年の外国人訪問者数の国際順位。



(20)歴史認識問題の放置
2015年12月に交わされた日韓合意によって、安倍政権は慰安婦問題について、謝罪と責任表明、10億円の資金提供を約束し、事実上、村山談話、河野談話をそのまま引き継ぐ形になってしまいました。
ここにはアメリカの意向が働いていました。
その意向とは、

①東アジアの同盟国間でいざこざを起こさないでほしい。
②敗戦国・日本の「悪」を固定化しておきたい。
③日本の自主独立を阻み、いつまでも属国として服従させておきたい。

朝日新聞がはなはだ不十分ながらせっかく吉田清治の本のウソを認めたのに、安倍政権の所行はそれを裏切るものでした。
その後、事態は予想通りに進みました。
今では中韓のみならず欧米諸国においても、旧日本軍が20万人の若い朝鮮女性を性奴隷として強制連行しひどい目に遭わせたという理解が定着しています。
外務省は、杉山審議官が国連女性差別撤廃委員会で、強制連行の事実を否定した以外には、国際社会の歪曲に対して、何らの積極的行動も起こしていません。
杉山審議官の声明もかき消されています。
しかも朝日新聞はその英語版で、自ら認めたはずの誤りを平然とくつがえし、国際社会の日本たたきの風潮に便乗して、「性奴隷」説を触れ回っているのです。
外務省は、もちろんこれに対しても何もしていません。

一方、2015年10月、ユネスコは、中国が申請してきた「南京大虐殺文書」を記憶遺産として認めました。
この30万人虐殺説は、何の証拠も目撃証言もなく、写真資料も偽造や他からの借用であることが今でははっきりしています。
しかし世界に散らばる中国系の人々は各地で盛んにこの説を定着させつつあります。
その旺盛な活動歴は山ほどあります。
たとえば最近も、カナダで中国系団体が「南京大虐殺犠牲者記念碑」の建立を目指し、中国系国会議員がカナダ政府に12月13日を「南京大虐殺記念日」と制定するよう求める署名を行っていますが、日本政府はこれを「遺憾だ」と述べるのみで、何ら阻止すべき行動に出ていません。
アメリカの意向への過度な気遣い、日中関係への配慮、これらの事なかれ主義が正当な外交交渉の道を阻んでいるのです。
日本は軍事的には米国と同盟関係にあるものの、情報戦において完全に戦勝国包囲網に取り囲まれてしまっているのです。
いまだ敗戦は続いています。


以上、三回にわたって安倍政権の愚策を並べてきました。
本当にひどいものですね。
だからといって今すぐこの政権を倒せばよいというものではありません。
倒した後、たとえ自民党の誰かが引き継ぐとしても、これらの愚策を払拭できる実力と英知を具えた有力政治家が今の自民党にはいません。
それどころか、財務省の緊縮路線や外務省の親中路線にハマっている人たちばかりです。
またありえないことですが、仮に野党が倒閣を実現させたとしても、彼らはただ反権力を自己目的にしているだけなので、何の建設的な政権構想も持っていません。
事態は絶望的に思えます。
しかし絶望してはなりません。
絶望しないための手は三つあります。

①安倍政権のグローバリズム政策を根底から批判できる健全野党を育てるために、言論その他によって世論形成を試みること。
②自民党内の若手議員をはじめとした積極財政派を応援しその勢力の伸長を図ること。
③政権を一枚岩と見て安倍首相個人への感情的批判や憎悪に終始するのではなく(それはほとんど意味のないことです)、政権内部の複雑な権力駆け引き、特に財務省と官邸の対立や、内閣府に属する諮問機関の中で実力を持つ「民間議員」の悪影響の大きさ、などを正確に見積もること。

①と②は今のところかなり迂遠ですが、③をさらに現実的に活かす方法は、いろいろ考えられると思います。
参考までに以下の拙稿を。
https://38news.jp/politics/11893
https://38news.jp/politics/11942


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