小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

消費増税問答(その1)

2016年09月30日 01時04分10秒 | 経済

      




 さる9月19日、政治経済ジャーナルChannel Ajerに出演しました。テーマは「消費増税の真実」です。
 消費増税は3年後に延期されたので、とりあえず国民の関心から遠のいているように見えます。しかしなお、なぜ増税の必要があるのか、増税には根拠があるのかについて、ふつうの人々に理解が行き渡っているとはとうてい言えません。財務省やマスコミ、一部の経済学者やエコノミストたちは、いまだにその必要を説き、国民をまんまと騙しています。このインチキをしっかり暴いておくことは、たいへん重要です。なぜならば、三年後には必ず増税が実施されるものとほとんどの人がいま思い込んでいることそのものが、直近の経済活動の大きな抑制効果として現れているからです。増税は延期ではなく、少なくとも凍結、本来は増税ではなく元の5%に戻すべきなのです。根拠のない増税論がまかり通ることによって、現在の人々の消費行動や投資意欲を縛っています。人は将来の予想によって現在の経済行動を決めるからです。

 動画は全体で40分ほどですが、初めの15分は、you tubeで無料でご覧になれます。
https://www.youtube.com/watch?v=O4sbDuq7Dok

 
 さてこれを見た私の親しい知人から長い質問メールをいただいたので、それに応答しました。以下、2回にわたってその質疑応答を掲載します。なお質問は、より一般的なものにするために私が勝手に整理し、また応答のほうも若干修正したところがあります。

Q1貴兄は動画のなかで、増え続ける社会保障費の財源のためにも増税は必要だという論理に対して、「お金に色はない。歳入で税収が増えたとしても歳出を決めるのは財務省と各省庁との折衝で決まる。特別会計で使い道を決める法律でも通すなら別だが、そんな議論はなされていないのだから、国民だましのトリックにすぎない」と言っていますが、「でも、財布全体の支出増に対して収入を増やさなきゃ、ということ自体は考え方として間違っていないのでは?」という反論があったらどうなのでしょうか。この反論が正しければ、社会保障を抑えるか税収を増やすかどちらかは結局しなくてはならないのではないでしょうか
 あるいは、この動画の趣旨は、家計を「喩え」に用いて、何とか収入を増やすかそれとも我慢して節約するかと考えるのと、政府の歳入歳出とは本質的に違う、ということなのでしょうか


A1:収入を増やさなければならないというのはその通りです。社会保障費を抑えるわけにはいかないし、抑えるべきでもありません。しかし税収を増やすだけがその方法ではありません。
 社会保障費のためには、特例国債(赤字国債)を発行すればよいのです。特に長期国債の利子がマイナスにまで落ち込んでいる現在、特例国債によって賄うのは絶好のチャンスであり、理にかなったことです。もちろんその償還は将来の税収からということになるのですが、後に述べるように、「国の借金1000兆円」というのはデタラメですから、新規国債発行を政府が(まして国民が)恐れる必要はもともとないのです。
 また、社会保障費でなく、現在ぜひ必要な高速道路網、劣化した橋などのインフラ整備のためには、赤字国債とはまったく異なる建設国債を発行することができます。これによって公共投資を行った場合には、建設された公共施設が将来も国の資産として長く残るため、いま増税分で償還しなければならないということはありません。

 おっしゃる通り、家計と国家財政とは根本的に違います
 家計は決まった収入によって制約されますが、国家財政は、
①政府が通貨発行権を持つので、新たに通貨を発行することで、(すべてではないにしても)ある程度まで負債をチャラにできます。
②日銀は広い意味で政府の一部門なので、日銀が買い取った国債を、新規発行の国債(無利子、返済期間無期限)と交換できます。
③アベノミクス第二の矢であった「積極的な財政出動」によって公共投資を拡大し、民間経済を活性化させることができます。
④政府の負債が拡大しても、それはそのまま債権者である国民の財産ですから、普通の借金のように法的に返済義務があるわけではなく、また罪悪視する必要は何らありません。国民生活に役立つなら(デフレの時は特に民間を刺激する必要があるので)、むしろ積極的に拡大すべきなのです。
⑤日本国債は、100%円建てなので、①②で述べたように、政府・日銀レベルでいくらでも処理できますから、破綻の危険はゼロです。そこがユーロで借金しなければならないギリシャなどとまったく違うところです。
⑥そもそも国家財政の破綻とは、借金が返せなくなることではなく、誰も新たに貸してくれなくなること、つまり日本政府が国民や金融機関の信用を失って国債を発行しても誰も買わなくなることです。しかしそういうことはこれまで起きたことがありません。日本の国民と国家との信認の関係を考えれば、これからも起こりえないでしょう。
⑦日本は対外純資産(外国に貸している金―外国から借りている金)250兆円を保有しており、世界一の金持ち国です。これを処理することもできます。

 なお、動画でも言っていますが、税率を高くしさえすれば税収が確保できると考えるのは、端的に誤りです。なぜなら、税収はGDPの関数なので、消費税率を高めれば高めるほど、消費や投資が減り、つまりGDPが下がり、結果的にその分だけ税収も減ってしまうのです。これは97年橋本内閣の時に実際に起きたことです。

Q2いまよく世間で言われているのは、「国債の債務が膨張すると日本経済の信用や格付けが低下し、さらに予算膨張も続く。すると円の信用が低下し、国際発言力の低下やら対外経済の状況悪化を招く。だからそれを避けるために国民全体で国家予算を健全化しましょう。そのためには増税やむなしですね」といった文脈ではないのですか。貨幣価値が「信用」をベースにしている以上、海外の経済格付け会社の評価が下がったり、グローバル経済界を行き来している人々の間に蔓延しているトレンド(つまり、はやりの「気分」)とか、そういったもので信用低下という流れが定着してしまうと、それがどれだけ本質と離れていようと、貴兄の言われる怖ろしい「デタラメな世界」が実現してしまう。それに対する危機感、には一定の根拠があるのではないですか。

A2:まず国際経済の「気分」が円の信用失墜に結びつくことはあるのではないかという懸念ですが、現下の状況では、国際通貨の中で、円は、ドル不安やユーロ危機などが高まった時(実際高まっているのですが)に、必ず避難場所として買われる(両替される)ので、まず信用失墜ということはあり得ません(ただし再び円高に振れ過ぎて輸出がふるわなくなるということはあり得ますが)。
 また格付け会社などは、頼まれもしないのに、勝手に他国の国債の格付けをやっているので、こんな外国人投機筋の思惑を過度に気にするには及びません。それよりも真っ先に大事なことは、日本がデフレから脱却するにはどうすればよいかということであって、それは国家主権を握っている日本政府の決断しだいでいかようにも対策を打てます。それをやらないで、財務省、御用経済学者、エコノミストたちが「国の借金が~」とか「国際的な信認が~」などと根拠のないことを言って国民を騙し続けてきたので、いつまでも景気が良くならないのです。
 デフレとは国内の総需要の不足ですから、政府が内需拡大のために、率先して財政出動を行い、民間のデフレマインドを一刻も早く打払うべきです。ここさえ突破できれば、円高による輸出不振が多少あったとしても、それほど問題ではなくなります。
 なお、国際的な経済の減速はすでに十分認識されていて、先日のG7やG20でも、各先進国が緊縮財政から積極財政へと方向転換すべきだという点で一致しました(頭の硬いドイツ以外は)。このへんは、公式的には言いませんが、安倍首相も2014年の増税による大失敗で痛い目に遭って、ようやく理解したようで、財務省の圧力を何とかはねのけようと努力しています。
 しかし財務省、経済学者、エコノミスト、マスコミのマインドコントロールの力はものすごく、自民党議員もいまだに緊縮財政派が主流で、積極財政派は少数派です。政治家はじつに不勉強なのです。

 また、動画の無料公開部分では言及されていませんが、私は、いわゆる1000兆円の国の借金というのが完全なデマだということを、具体的な数字を挙げて細かく説いています。
 いろいろな算出の仕方が考えられますが、あの放送では(ここがあの放送の一番大事な部分なのですが)、最終的に政府の負債は100兆円足らずだという試算を試みています。
①政府の資産650兆円のうち、流用可能な額が約250兆円。
②財政投融資による特殊法人の借金が160兆円であり、これは税収から返済することが禁止されており、法人が政府に返済すべき。
③建設国債250兆円は、政府の資産に変貌するので、借金と見なす必要なし。
④3年間にわたる日銀の年間80兆円の国債買い取りによって240兆円の負債はすでに消えている。
 よって、1000兆円―250兆円―160兆円―250兆円―240兆円=100兆円
 なお拙著『デタラメが世界を動かしている』P59~P61でも、この試算をやっていますが、こちらは、①の650兆円を全て算入してしまっているので、やや乱暴であるのは否めません。

Q3「空気」によるデタラメが通ってしまう結果として、誰も望んでないのにグローバル化せざるをえず、誰も望んでいなくても、「日本経済ちゃんとやってます」的な花火を打ち上げないといけなくなる、ということはあるのではありませんか。だからと言って、消費増税がこれらの漠然とした国際的な信認失墜の不安に対する有効な対応策だとは思いませんが、上記のデタラメな危機感への対策として、「少なくとも何か手を打ってます感」を出さなくてはならない、ということはあるのかな、と思うのですが。

A3:一国のデフレ対策をどうするかということと、一定程度の已むをえぬグローバル化(ヒト、モノ、カネの国境を超えた移動)の必要とは話が別です。
 たしかに、IMFなどはバカの一つ憶えのように、何かといえば構造改革せよ、財政均衡を保てなどと偉そうに忠告してきます。IMFはもともと国情もわきまえずに、とにかくある国の財政破綻を過剰に恐れる体質を持っているので、それももっともといえばもっともですが、それに加えて、IMFの中に、財務省べったりで構造改革派の日本人メンバーが入り込んでいて、いかにも国際的権威の衣を着て、それが正論であるかのように押し付けてくるのです。
 しかし、体面を保つためにそうした言い分に従い続けているうちに、デフレからの脱却はますます困難になり、日本の実質賃金はこの三年間で、6%も下がってしまったのです。国民の生活をこれだけ犠牲にしてまで「何か手を打ってます」感などを示す必要があるでしょうか。しかもその「手」なるものが何の解決にも導かれないのです。根拠のない「危機感」のために、大げさではなく、亡国の憂き目に遭いかねません。まさしく「日本経済ちゃんとやってます」的なことを示すためには、デフレを解消して実体経済の活気を取り戻して見せなくてはならないのです。国民経済の全体と、政府の間違った経済政策とを混同してはなりません。

つい熱くなって長々と書きました。お許しください。



9.21日銀の総括的な検証とそのNHK報道について

2016年09月22日 16時14分42秒 | 経済

      



 9月21日、日銀は政策決定会合で、「金融緩和強化のための新しい枠組み」と称して、量的・質的金融緩和導入以降の経済動向と政策効果についての「総括的な検証」を行い、その見解を発表しました。
 その要旨を見ますと(産経新聞2016年9月22日付)、例によって、事実と異なることが平然と書かれていたり、物価上昇が目標どおりにいかなかったことを「外的な要因」のせいにしています。
 たとえば――
 まず、「大規模な金融緩和の結果、物価の持続的な下落という意味でのデフレはなくなった」と書かれています。「物価の持続的な下落という意味での」と但し書きをつけているところがいかにも苦しいですが、事実は、4~6月の消費者物価指数はすでに発表されているとおり、0.5%下がっています。2%目標には程遠いのに、これを「デフレはなくなった」とは何事でしょうか。
 次にこの目標達成ができなかった原因を、原油価格の下落、消費増税後の需要の弱さ、新興国経済の減速といった「外的な要因」に帰しています。しかし、日銀は、そうした金融政策以外の要因とかかわりなく、リフレ派理論に従って、金融緩和だけで目標を達成できるとコミットメント(責任履行を伴う約束)したのですから、こういう言い訳は通用しないはずです。さまざまな外的要因をいつでも考慮のうちに入れておかなければ、そもそも目標設定の意味がありません。
 さらに、マネタリーベース(法定準備預金+現金通貨)の拡大が「予想物価上昇率の押し上げに寄与した」と書かれていますが、「予想」(=期待)と付け加えているところがミソで(誰が予想しているのか?)、現実の物価上昇率とのかかわりについては何も言及されていません。手の込んだ言い逃れです。当局が勝手に2%と予想すれば、それで「寄与」したことになるというわけです。予想して量的緩和を行い、その予想が全然当たらなくても、予想自体はもとのままなのだからその予想に「寄与」したのだ、というめちゃくちゃな論理です!
 最後に、マイナス金利の導入が長期金利の低下までもたらしたので、国債の買い入れとマイナス金利との組み合わせが有効であることが明らかとなったと書かれています。マイナス金利の導入は、市中銀行の経営を圧迫するという大きな副作用をもたらしていますが、それについては何も触れられていません。おまけに、長期金利まで低下したからといって、融資は一向に促進されず、投資も消費もほとんど伸びず、実体経済には何の有効な結果ももたらしていません。
 要するに今回の「総括的な検証」なるものは、全編、この間の日銀の政策が(2013年当初を除き)効果がなかった事実をあったかのようにごまかして正当化するための「検証」だったということになります。
 経済評論家の島倉原(はじめ)氏は、日銀が「これまでのコミットメントに加え、安定的に2%を『超える(オーバーシュート)』ことを現行のマネタリーベース拡大政策の新たなターゲットとする」と述べているのに対して、次のように書かれています。まったくこの通りというほかはありません。

しかしながら、もともと効果が乏しいと自らが認めている(この認識自体は正しい!)中央銀行の目標設定を、言葉遊びのレベルで「2%を実現する」から「2%を超える」に強めたところで、どれほどの上乗せ効果が見込めるというのでしょうか。
こうした政策を「新しい枠組み」として掲げていることが、むしろ現行の金融政策の迷走ぶりを示していると言えるでしょう。
(「金融政策の迷走」三橋経済新聞9月22日付)
https://mail.google.com/mail/u/0/#inbox/1574f72adf60f6a9

 もっとも島倉氏も私も、黒田バズーカが無意味だったと言っているのではありません。それはそれで一時的に円安、株高を導き輸出産業はいっとき息を吹き返しました。しかし3年にわたる「大胆な金融緩和」は、デフレ脱却にとって一番必要な内需の拡大にはまったく結びつきませんでした。これは金融政策だけではデフレ脱却には限界があるということを図らずも証明しているわけです。日銀としては、デフレ脱却のための政府の無策ぶりを公然と批判するわけにもいかず、苦し紛れの弁解に終始したということなのでしょう。
 このブログでも繰り返してきましたが、消費や投資が冷え込んでいるときに政府は消費増税という最愚策を断行して、日本経済にさらに致命的な打撃を与えました。また内需拡大のためには緊縮財政路線を即刻改めて、本来アベノミクス第二の矢であった「積極的な財政出動」を継続し続けなければならなかったのに、それも1年だけしかやりませんでした(ようやくその方向に舵を切ろうとはしていますが、財務省のプライマリーバランス回復論がいまだに大きく壁として立ちはだかっています)。
 
 さて9月21日の18時、NHKラジオ夕方ニュースでこの日銀の「新しい枠組み」問題を取り上げていました。ここに解説者の一人として登場した第一生命チーフエコノミストの熊野英生氏は、この件に関して、日銀の政策には限界があるので政府の財政運営に期待するという趣旨のことを語っていました。ここまでは一応同意できます。もっともこれは今回の日銀のペーパーにもすでに書かれていることですが。
 熊野氏はもともと日銀出身のエコノミストなので、日銀の政策に異を唱えないのはわからないではありません。問題なのは、彼が、この「新しい枠組み」によってデフレ脱却が可能なのかという最も聴取者の関心を呼ぶ疑問に対して、政府の財政運営への期待に言及しながら、脱却を困難にしてしまった2014年の消費増税の失敗や、いまようやくシフトしつつある積極的な財政出動政策についてまったく触れようとしなかったことです。
 熊野氏が、期待されるべき政府の財政運営として言及したのは、規制緩和による成長戦略(つまりアベノミクス第三の矢)であって、これは小泉改革以来の構造改革路線なので、百害あって一利なしです(拙著『デタラメが世界を動かしている』第三章参照)。
 熊野氏ばかりではありません。同席していたNHK解説委員の関口博之氏の解説や、アナウンサーのかなりしつこい質問の中にも、消費増税の「しょ」の字も財政出動の「ざ」の字も出てきませんでした。
 今日の番組のテーマは日銀の「新しい枠組み」と「総括的な検証」についてなので、それはまた別問題だ、という弁解があるかもしれません。しかし、すでに番組中で政府の財政運営について触れているのですから、デフレ脱却を遅れさせた過去の致命的な失敗事例に一言も触れないというのはおかしいですし、これから進むべき積極的な財政政策の前に財務省の緊縮財政路線が大きな壁として立ちはだかっている事情について何も語らないというのもはなはだ客観性に欠ける。マクロ経済問題を語るには、常に総合的な視野を手放さないようにしなければなりません。
 私の印象を付け加えるなら、ここにはそこに話をもっていかないような何らかの圧力がはたらいているか、そうでなければ、NHK番組構成陣の狭量な頭がそこまで及ばないかのどちらかとしか考えられません。一般の聴取者にとってただでさえ難しい経済問題です。公共放送NHKがこういう偏頗なレポートを続けているようでは、デフレ脱却へ向かっての国民の気運は、いつまでたっても高まらないでしょう。




法然について(誤解された思想家・日本編シリーズ)

2016年09月16日 15時00分14秒 | 思想

      




以下にお届けするのは、雑誌『表現者』に「誤解された思想家たち」と題して連載してきた原稿に、多少の手を加えたものです。『表現者』でお目に触れなかった方のために、何回かにわたってこの画面に掲載していくことにいたします。よろしくお願いいたします。

第一回 法然房源空(1133~1212)

 わが国で最大の寺数を誇る仏教の宗派は、親鸞を開祖とする浄土真宗ですが、親鸞の師である法然を開祖とする浄土宗は、これに比べるとずいぶん慎ましく見えます。こうした世俗的な意味での勢力分布の格差は、時の移り変わりとともに生じきたったやむを得ない現象というほかはないでしょう。
 しかし現代における親鸞の盛名ぶりによって、両者の思想に画然たる差があると考えられたり、法然の思想の独創性に霞がかかってしまったりするとすれば、それは不当というべきです。後述するように、親鸞の思想は、ごく一部を除いて師・法然のそれをそのままなぞったものと言っても過言ではなく、法然が専修念仏の考え方を徹底的に究めていなければ、親鸞の言行そのものが存在しなかったのです。何よりも親鸞本人がそのことを真っ先に認めるだろうと思います。
 ところが、西田幾多郎、三木清、亀井勝一郎、吉川英治、丹羽文雄、野間宏、吉本隆明、津本陽、五木寛之といったそうそうたる思想家、作家たちが、親鸞について格別の思い入れをこめて語っているのに、同じ人たちが法然について、それに見合うほどの関心を示しているとはとうてい言えません。
 この主たる理由は、倉田百三の『出家とその弟子』をきっかけとした百年間の親鸞ブームによるものですが(西田の着眼は倉田より古い)、それにしても、両者に対するこの熱の違いはいったいなぜなのでしょう。以下その内的な理由をいくつか挙げ、それらが必ずしも根拠のあるものとは言えない所以を語ってみようと思います。

①法然は僧としての戒を守って妻帯しなかったが、親鸞は公然と妻帯した。その自ら破戒に踏み込み非僧非俗を生きた行状が、多くの人の共感を呼び起こした。
 ――この理由ですが、僧が肉食や妻帯を無理に我慢する必要はないと公然と説いたのは法然自身です。これを聴いた法然の帰依者・九条兼実が、ではあなたの弟子のひとりを私の娘(玉日姫)と結婚させてくださいと試練にかけたのを受けて、法然自ら親鸞を指名したのです(佐々木正著『親鸞・封印された三つの真実』洋泉社参照)。この指名がなかったら親鸞は果たして妻帯したかどうか。彼自身この破戒に対してかなり悩んだ形跡があります。
 ちなみに妻帯OKの確信を抱いていた法然はすでにこの時七十歳を超えており、直前にはひそかに慕い合っていた式子内親王を失っています。叶わなかった自らの結婚を愛弟子に託したという推定も成り立つわけです。

②法然はほとんど京都中心に説法し続け、貴族高官との付き合いを絶やさなかったが、親鸞は、越後流罪のあと、東国の武士や庶民のただ中に飛び込んで永年布教を続けた。
――この理由ですが、法然の布教範囲が都中心に限られていたことは、彼が大都会で貴賤の別を問わず絶大な人気を得ていたことの証拠にこそなれ、地方の民衆を相手にしなかったことを意味しません。現に彼のもとには遠国からあらゆる身分の人々が集まってきましたし、土佐流罪の際には、弟子が赦免嘆願を勧めたのに対して、地方の民衆に教えを説くよい機会だと述べてこれを斥け、現に摂津で名もない人たちに布教しています。この時法然、なんと七五歳です。
 他方、親鸞の場合は、流罪先の越後は再婚相手の恵信尼の郷里であり、二人して新しい生活を切り開いていく希望をそこに見出し得たはずです。加えて東国への布教活動は、まさに法然の教えを広めていこうとする彼の使命感にぴったり叶うもので、それは同時に法然の意志をそのまま引き継ぐものであったことになります。その実践活動の地域的広がりの差などに質的な違いを見出すことは出来ません。

③『歎異抄』の有名な言葉「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という鋭い逆説こそは、親鸞の思想を特徴づけるものであり、法然はそこまでは言い切らなかった。罪びとこそ阿弥陀仏の救済の対象としてお眼鏡にかなうという絶対他力の徹底性において、親鸞は法然に優っている。
 ――この理由ですが、これは端的に誤りです。「善人なおもて」は親鸞の独創ではなく、法然自身の言葉にすでにあります。「われ浄土宗を立つる意趣は、凡夫の往生を示さんがためなり。……善人なお生まる。いわんや悪人をや。……この宗は悪人を手本となし、善人まで摂するなり。」(『一期物語』)――これは確固たる「悪人正機」の説というべきでしょう。
 一方ではたしかに法然は、ときに応じて逆の言い回しもしています。たとえば「罪をば十悪・五逆の者なお生ると信じて、小罪をも犯さじと思うべし。罪人なお生る、いかにいわんや善人をや。」(『和語燈録』)――これは、「黒田の聖人」への手紙の一部ですが、しかしこの場合は、前後の文脈から推して、黒田の聖人が、「自分は修行が足りないので往生できないのではないか」という不安を伝えてきたのに対して答えたものです。相手は「聖人」ですから、すでに十分な発心と念仏修行を経た人です。その人になお残る疑念を払拭してあげようという意図から書かれたのでしょう。「あなたならこれからも念仏を続けさえすれば往生できますよ」という優しい励ましの言葉と取るべきです。
 法然は、この種の、相手に応じたモードの使い分けをしばしば行っていますが、それは矛盾とか不整合とか不徹底とか非難されるたぐいのことではありません。むしろ教えを説くのに硬直した原理によらず、常に相手の特定の境遇や資質を丁寧に見抜きながらそのつど言葉を選んでゆく優れた心理家の手法と言えるでしょう。現代風に言えば、彼は人間通の名カウンセラーだったのです。
 ちなみに親鸞の思想をよく「絶対他力」と呼んで法然のそれと区別する向きがありますが、親鸞自身は「絶対他力」という言葉は一度も使ったことがなく、自力を恃む心を捨ててひたすら阿弥陀様の本願(観無量寿経における四十八願の、特に第十八願)を信じて念仏すれば往生は必定と説いただけで、その点では法然とまったく変わりません。
 先に両人の思想について「ごく一部を除いて同じ」と述べましたが、そのごく一部とは、法然が念仏行をあくまで往生の条件と考えていたのに対し、親鸞の場合は、それに阿弥陀様に対する感謝・報恩の念というアイデアを加味している点です。しかしこれは、「往生必定」の確信をより強調しているわけで、その強調は見方を変えれば、末法観がより深まったことによるペシミスティックな原理主義化とも言えるものです。また、法然のように、「念仏は往生の条件」としたほうが、民衆に実践的な指針を与えることによって「往生必定」に対する不安を取り除くことができるので、支持を得られやすいのではないでしょうか。

④法然は、延暦寺に発する念仏停止の動きを憂え、いち早く「七箇条起請文」の制戒を発して保身に走っている。親鸞にはそうした「不純な」世渡り術の持ち合わせはなく、激しい一途な生き方を貫いており、そのことといくつもの鋭い詩的な言葉との見事な一致が彼の魅力を際立たせている。
 ――この理由ですが、念仏さえ唱えれば凡夫も悪人もみな往生できるという浄土門の教えは、それまでの聖道門の教えに対して爆発的な人気を博しました。そのため法然は、「七箇条起請文」をどうしても書かざるを得なくなったのです。これは、たとえば、「あ。念仏一回唱えれば往生できるのね。じゃ、南無阿弥陀仏。はいこれで俺は大丈夫」といったたぐいの軽薄な理解、他宗の修行者への謗りを意図した論争、進んで悪をなすほど成仏できるといったいわゆる「造悪論」など、困った事態の横行に対する対策として書かれたものです。それは、宗を起こした者にとっては、教えが誤り伝えられたり、そのためにいわれなき弾圧や誹謗中傷を受けたりする惧れへの当然の措置であって、宗祖の責任感の大きさを表しているのです。
 一方、弟子の唯円が親鸞の言葉を書き残したものとして有名な『歎異抄』は、たしかに鋭く魅力的な詩的表現に満ちており(拙訳『新訳 歎異抄』PHP新書参照)、また和讃で多くの歌を残している点など、その点で散文的な法然に比べると印象に残りやすい点があるのは否めない事実です。しかしその生き方が特に一途で激しかったという証拠はなく、京都に帰ってからの二十数年間は庵で書写や著作に明け暮れる静かな生活を送っています。

⑤法然の主著『選択本願念仏集』は長くて難解だが、『歎異抄』は、短く簡潔で、誰でも親鸞の思想の神髄に触れられる。
 ――この理由ですが、これはある意味で当たっています。
『選択本願念仏集』はいわば浄土宗の理論書で、法然が阿弥陀仏の化身として崇めた唐の善導の教えを中核に据えて、往生のためには称名念仏がいかに重要な意味を持つかを説いた書物で、やや難解な部分を含むのは事実です。しかしきちんと通読すれば論旨は単純明快であり、その主張がいささかもぶれていないことがわかります。
 これに対して親鸞の主著である『教行信証』は、多くの先人の教えをあまり整理せずに詰め込んで自分の解釈を施したもので、『選択本願念仏集』に比べると、ゴタゴタしていてはるかに読みづらい書物です。『教行信証』を読み切った人はあまりいないと思われます。しかし、もし親鸞ファンの多くが、主著に触れずに弟子が聞きとった言葉の鋭さだけから親鸞のイメージをつくり、それに近代人風のロマンティックな思い入れをしているのだとすれば、それは翻って、法然こそが専修念仏思想を深く説ききった張本人だという事実を忘れさせかねません。思想系譜の正当な理解という観点からすれば、これは少々困ることなのです。

 以上で、親鸞偏重、法然軽視の風潮がどこから来ているかについて批判してきましたが、ここで法然の思想を要約しておきましょう。

 今は末法の世であり仏道が廃れかけているので、我ら凡夫は、厳しい修行や積善や叡智などの自力によってこの生死の世界を離れて往生することは不可能である。しかし幸いにしてはるか昔に阿弥陀が、貴賤、老若男女、智愚、善悪の如何にかかわらずいっさいの衆生を救済するのでなければ自分は真の悟りを得たとはけっして言わないという誓いを立ててくれた。そして阿弥陀は現に悟りを得て仏になっている。したがってその誓いはもうすでに成就しているのだから、我々は阿弥陀に帰依しさえすれば、往生できるに決まっているのである。そのためにぜひ必要な行は、ひたすら心を込めて念仏を唱えることである。それ以外の行は、機(人、資質、与えられた条件)に応じて、念仏行の助けにはなりうるが、絶対に必要というわけではない。また、生涯悪業を重ねた人でも、死に臨んで心から南無阿弥陀仏を唱えるなら、阿弥陀は必ず迎えに来て浄土へ連れて行ってくれる……。

 以上の法然の説の特徴として注意すべき点が二つあります。
一つは、他の行をけっして斥けない寛容さです。この寛容さは、硬直した教義による宗派争いを無意味化し、さらに飲酒や肉食や妻帯なども世の習いなのだからあえて禁欲する必要はないという考えにもつながっています。
 もう一つは、「念仏」の行を、ただ心の内で仏や浄土を観想したり南無阿弥陀仏を思念したりするのではなく、あくまで「声に出して唱える」ことに限定する点です。この後者の点を法然がなぜ重要視したかを考えてみます。
 当時、比叡山では円仁によって取りいれられた音楽的念仏法が盛んに行われたそうです。またのちに一遍が踊り念仏を諸国に広めたことは有名です。これらの流れには、思惟や感情を内部にこもらせずに身体表現として外に表出することの大切さが重んじられるようになった当時の文化的背景が反映しているでしょう。
 法然もその流れの一環にあったというべきですが、称名念仏の重要視には、また法然なりの格別な意図があったと思われます。
 それは、第一に、彼が心の中はみえないということをしきりに強調していることです。
 また第二に、一般の民衆は一つのことを黙って集中的に長く思念することに耐えられず、日常生活のなかで、互いの身体表出(おしゃべり)を通じて思いを交換し唱和しあっているのであり、それこそが彼らの生の実態なのだという事実に、彼が深く気づいたということです。
 また第三に、口に出した言葉は必ず自分もそれを聞くので、その声が意識に照り返してきて、さらに未来の自分のあり方を強く規定する力を持つという心理効果を彼が見破ったことです。
 これらは法然の人間観察の鋭さと明敏さを表しています。

 ところで称名念仏の最重要視は、これと異なる宗派の人たちの批判と反感にさらされたことは言うまでもありません。代表的なものに、法然没後すぐに書かれた明恵『摧邪輪』、約五十年後に日蓮によって書かれた『立正安国論』があります。ここでは前者について述べましょう。
 この書の批判点は、法然が①菩提心を不要と考えた、②聖道門を群賊にたとえた、の二点に絞られます。このうち、②は明恵自身の孤独な修行精神を汚されたという過剰な被害感覚にもとづくもので問題外です。
 また①については、菩提心という言葉に明恵が特別の重みを置いたために生じた誤解の一種と考えられます。というのは、明恵にとってこの言葉は俗界への執着をきっぱり断ち、山に籠ってひたすら修行に励むことと不可分の関係にありますが、法然の場合は、在家の人や無縁のともがらでも、一念発起してから心を込めて念仏するなら、その営みのうちに菩提心はすでに含まれていると考えるからです。
 法然は、念仏行には、三心、すなわち至誠心(まごころ)、深心(深く信じるこころ)、廻向発願心(阿弥陀様にもっぱら思いをさしむけるこころ)が不可欠だとしつこく説いています。これらの総合こそが菩提心であるという考えに、何らおかしなところはないと言えましょう。二人の食い違いは、初めから平行線であって、所詮キャラの違いと見なすより仕方がないようです。
 こうして、あの実力者台頭によって貴族政治が壊れてゆく激動期、高踏的な学識や厳格な修行を蓄積することの無益が強く感じられる時期にあって、法然こそがまさにその時期にふさわしく、救済の対象を民衆一般へと大きく視線変更したのです。それは日本における最も顕著な宗教革命でした。


「シン・ゴジラ」の恣意的解釈

2016年09月07日 01時20分06秒 | 映画




 遅ればせながら、「シン・ゴジラ」を見てきました。この危機管理映画がこれだけ受けるのは、いまの日本人の多くが内外に抱える問題(災害、外交、安全保障、原発問題その他)に対してかなり危機意識を抱えていることの証左でしょう。
 ゴジラに何の寓意を見るかは人々の自由ですが、私は個人的には、初めに出てくる幼生ゴジラの首がどこかの国の象徴であるドラゴンによく似ていることと、外からやってきた危機を最終的には米国や国際機関に頼らず、ついに自国の力で守り抜くというストーリー展開に、どうしても例の国の脅威に立ち向かうためのあるべき姿を連想してしまいました。
 この映画では日本政府の実際の体たらくとは違って、かなりスピーディに中央政府のエリート事務官、技官たちが危機に対する対応態勢を固めてゆきます。現場への指揮命令系統の動きもきわめて迅速です。昔のこの種の映画では、権力の腐敗と無策ぶりを描いて国民のルサンチマンをガス抜きさせることが多かったようですが、その点が昔と違う点です。ここに私は、健全なナショナリズムの成長をみて、いささか希望を感じた次第です。
 エンタメをすぐに現実の安全保障問題に結びつけるのは鑑賞の仕方としては邪道ですが、以下に掲げるのは、折しも産経新聞9月6日付に載った「ミグ25事件40年 現代の脅威は中国の領空侵犯 元空将・織田邦男氏に聞く」という記事です。これを読むと、40年間、いかに立法府が怠慢を決め込んできたかがわかります。「シン・ゴジラ」をこういう怠慢ぶりに対する警鐘として観ることもあってよいのではないでしょうか。

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 航空自衛隊の対領空侵犯措置(対領侵)の主対象は冷戦期のソ連から中国に移った。ソ連軍の領空接近の目的が偵察と訓練だったのに対し、中国軍の目的は尖閣諸島(沖縄県石垣市)の実効支配とみられる。だが威嚇や挑発がエスカレートする中、空自が対処する上で重大な欠陥がある。元空将の織田(おりた)邦男氏に聞いた。
 --対領侵の問題点は
 「自衛隊法には防衛出動などと並び対領侵の行動が規定されている。ほかの行動は自衛官が武器を使用できる権限が規定されているが、対領侵だけ権限規定がないことが問題だ」
 「権限規定がないため自然権である正当防衛、緊急避難以外は武器を使えず、対領侵の任務を遂行するための武器使用はできない」
 --自分がやられるまで武器を使えない
 「そうだ。『領空侵犯機が実力をもって抵抗する』場合に武器を使用できるという政府答弁があるが、実力をもった抵抗ですでに空自は犠牲者が出ている」
 「『相手が照準を合わせて射撃しようとしている』場合には攻撃される前でも危害射撃を行えるとの答弁もあるが、机上の空論だ。相手が照準を…と悠長に判断していれば、次の瞬間に攻撃されている」
 --権限規定がないことは法的不備では
 「ある元裁判官は『立法不作為』と断じた。権限規定がないことは『武器を使用してまで(侵犯機を)領空から退去あるいは強制着陸させるべき強制的権限を与えないという国家意思と解さざるを得ない』とも指摘している」
「任務は与えるが、権限と手段は与えない。だから対領侵の実効性は担保されなくても構わないというのが国家意思だろうか。そうではなく、『断固として領空を守れ』のはずだ」
 --尖閣の領空が危うい
 「中国は尖閣を力ずくで奪おうとしており、中国軍機が尖閣で領空侵犯をする日は近いかもしれない。尖閣で頻繁に領空侵犯され、厳正に対応できなければ実効支配しているといえなくなるのではないか」
 「領空侵犯されれば直ちに撃墜できるようにすべきだと主張しているのではない。撃墜されるかもしれないと相手に認識させて初めて領空侵犯を防ぎ、強制的に退去・着陸させることも可能になる。対領侵の権限規定を追加する法改正は待ったなしの課題で、立法不作為を放置することは許されない」