小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

ポケモンGOが早く廃れますように

2016年07月26日 19時06分18秒 | 社会評論
      




 ポケモンGOが日本でダウンロード可能になってから数日が経ちました。
 初めメディアは軽いノリでニヤニヤしながらその爆発的な人気について報道していたようですが、予想通りいくつものトラブルを引き起こしつつあります。さすがにメディアの論調も、わずか数日で様変わりしてきたようです。しかし本当は、日本解禁の前にアメリカですでにトラブルが報告されていたのですから、このゲームの問題点についてもっと真剣に報道すべきでした。日本の「カワイイ」文化がまた一つ国際化したというので、メディアは調子に乗っていたのでしょう。
 固いことを言うようですが、この遊び、私は非常によくないと思っています。で、次のような趣旨のことをあるところに投稿しました。

 このゲームは、やってる当人の危険もさることながら、厳粛な場所を汚したり、静謐な領域を荒らしたり、プライバシーを侵害したり、交通事故を起こしたりと、問題だらけである。想定外の犯罪に利用される可能性も大きい。特に子どもに持たせると、誘拐が容易になったりする。
 治安維持や注意喚起や立ち入り禁止区域を設けなくてはならない立場の人たちの苦労もたいへんである。
 まただいたい、ゲームそのものがすこぶる幼稚で、大人が夢中になるような代物ではない。主体的に行きたい場所を選択するのではなく、受動的に移動させられるわけだから、広場や路上に愚民化した群衆が溢れる結果をもたらす。

 すると、実際にやってみた人の立場から次のような反論がありました。

 これはじゅうぶん面白いゲームで、みんなが飛びつくのも無理はない、もちろんTPOを心得る必要はあるが、それは電話をしたり音楽を聴いたりするときと同じこと。また、このゲームでは、接近しないとポケモンは出現しない。ポケモンを求めてさまようわけではなく、目的地に向かって移動している最中に寄り道感覚で捕まえに行くのである。言わばナビに毛の生えたようなもの。おかげさまでわが街の、知らなかったスポットにも気付かされた。また13才以下には配信されない。

 これに対して私は再反論しました。以下に、少し変奏し加筆してそれを掲げます。

 実際にやっている人の立場からは、肯定したくなるお気持ちは十分わかります。私もやりだせばハマってしまうかもしれません。しかし私が上記で主張しているのは、実際に起こりうる危険、迷惑についてです。これらはもう現にあちこちで起こっています。社寺などの静かに情趣を味わうべき場所、店舗その他、多少とも公共性のある空間にポケストップが置かれた場合、そこに群衆が集まれば、それらの場所の本来あるべきたたずまいが乱されるのみならず、付近の住民のプライバシーも侵害されます。マスゴミが芸能人宅に押し寄せるのと似ています。
 たとえばAさんは、皇居や靖国神社にポケストップが置かれることをお望みになりますか?
 以下の記事などもご参考になさってください。ナイアンティックと契約したあの猥雑なマクドナルドでさえ、食事空間を攪乱され、逆効果になりかねないことを指摘した記事です。
http://www.mag2.com/p/news/213217/3
 世の中の人は、Aさんのようにきちんとマナーを守る良識のある方ばかりではありません。本人の仕事に支障をきたす場合も出てくるでしょう。
 また、マナーを守るべきなのは電話をしたり音楽を聞いたりするときと同じであるとおっしゃっていますが、シチュエーションがまったく異なります。電話や音楽の場合は、広場や路上や公共の場所に不特定多数が密集するわけではなく、特定の個人がたかだか周囲の数人に対して迷惑を及ぼすだけであり、しかも事故を起こす気づかいなどありません。
 このゲームが他のゲームと違う点は(だからこそ爆発的人気を博したわけですが)、単なる歩きスマホではなく、目的地への行動とゲーム上での展開が一体化しているという点です。「ナビに生えた毛」は、他人のことなどお構いなしの興奮を呼び起こすのです。
 なおAさんは、「ポケモンを求めてさまようわけではなく、目的地に向かって移動している最中に寄り道感覚で捕まえに行く」とおっしゃっていますが、それは節度ある人の話で、すべての人がそうではない証拠に、これまで人が集まらなかったスポットに異常なほど人が集まっていますね。
 また13歳以下に配信されなくとも、親や年長者のスマホを使うことはいくらでもできるでしょう。親がダウンロードして楽しんでいるゲーム(しかもマージャンや競馬ではなく、本来子ども向けのゲーム)を子どもに禁じるのは不可能に等しいのではありませんか。

 以上ですが、いささか大げさに言えば、私はこのポケモンGO現象を、現代社会の愚民化の象徴であるとみなします。あのオルテガが嫌悪した、自分を懐疑することを知らず、数を恃んで自分たちこそが世界の主人であると厚かましくも思い込む大衆――その光景を目の当たりにする思いです。一人一人になれば賢い人はたくさんいるのに、群集心理によって蝟集した人たちは、その限りにおいてやはり愚民です。その間はずっと真正の「他者」と出会うことを避け、冷静で客観的な配慮を欠いた思考停止期間となるからです。
 ところで、開発元のナイアンティックにも文句を言っておきたい。世界地図の精密化の技術をよいことに、地域主体や建造物所有者に無断でポケストップを措定して、何が起きようと知らんぷり。しかも、以下の記事によると、トラブルや訴訟が起きた時は、合意事項規約で巧妙に責任逃れをしているそうです。
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%EF%BD%A2%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%A2%E3%83%B3go%EF%BD%A3%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%A6%8F%E7%B4%84%E3%81%AB%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%83%AF%E3%83%8A-%E7%94%A8%E6%84%8F%E5%91%A8%E5%88%B0%E3%81%AB%EF%BD%A2%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E5%9B%9E%E9%81%BF%EF%BD%A3%E3%81%8C%E6%BA%96%E5%82%99%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%EF%BC%81/ar-BBuNVO5?ocid=MIE8HMPG#page=2
 まことに自分勝手というほかありません。先にこのブログでマイクロソフトの強引さを指弾した文章を書きましたが、それと同じです。アメリカ式「自由」が無秩序化して歪んだ姿をさらした典型と言えるでしょう。任天堂発の「カワイイ」文化にいい気になってばかりではいけないのです。
 この流行が一刻も早く廃れることを祈ります。

天皇陛下の「生前退位」のご意向について

2016年07月14日 15時01分01秒 | 政治



 天皇陛下が「生前退位」のご意向を示されたというニュースが流れました。報道によれば、五年前から内々にそのご意向を示されていたとのことです。
 私見を述べます。
 このご意向は、陛下のご高齢と、背負いきれないほどの公務の数々とに鑑みて、きわめて賢明なご判断だと思います。しかも、陛下は、宮内庁が提言してきた公務の削減を潔しとしないがゆえに、このご意向を示されたそうです。ここには、公務に対する陛下の責任感の強さと誠実さがはっきりと示されています。崩御しなければ退位は認められないという現行の皇室典範の規定を超えても天皇としての役割を正しく継承したいという強いご意志が感じられるからです。よって、このご意向に国民の側からお答えするために、特別立法措置によって速やかな実現をはかるべきだというのが私の考えです。
 さて政府や知識人の間には、これを実現するためには、皇室典範の改正が必要になってくるという意見が大勢を占めているようですが、私は反対です。
 たしかに皇室典範には、生前退位に関する規定がないので、皇室典範によってそれを定めなくてはならないという前提に立つなら、改正は必定ということになるでしょう。しかし、皇室典範の改正は、たいへんな時間と評定を要しますし、仮に陛下ご在世のうちにそれが成ったとしても、その新しい規定の法的な拘束力が将来にまで及ぶことが考えられるため、将来の天皇が違うご意向をお示しになった時にはまた変更を余儀なくされるだろうからです。
 また、摂政を置くことにすればよいという意見も散見されます。
 しかし皇室典範第16条2項によれば、「天皇が、精神もしくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為を自らすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く」となっています。今上陛下の現在のご状態がこの規定に当てはまるとは思えません。
 問題の要点は、今上陛下がそのようなご意向をお示しになった以上、立憲君主国(法治国家)の原則として、何らかの法的な措置(全国民の合意)が必要であろうということ、そして皇室典範改正も摂政を置くことも時宜を得た措置ではないのだとすれば、特別立法を選ぶほかはないだろうということです。
 この場合、皇室典範にその規定がないことを「欠陥」とか「欠落」とか考える必要は何らなく、この法を一種のネガティブリストによるものと見なせばよいのです。言い換えると、条文に規定がないのだから、そのほかの(想定外の)案件に関しては、簡単に立法措置が可能だと考えればよい。
 今回のご意向が、まさしく公務の大切さを何よりも尊重されるお心から出たものであることは、火を見るより明らかです。それは、これまで幾多の災害や戦没者に対して取ってこられた両陛下の、お心を尽くしたご振舞を拝見しても十分すぎるほど納得のできることです。
 陛下のご意向をできるだけ速やかに叶えさせて差し上げることが、あれだけ国民に愛情を注いでこられた両陛下のお気持ちに対して、今度は国民の側から両陛下への愛情によって報いる最良の手立てなのではないかと愚考する次第です。
 大上段に「すわ一大事」とばかり、これから皇室典範の改正論議を始めなくては、などと騒いでいる政府関係者や知識人は、陛下のご一身に対する温かい愛情が不足しているのです。それでは皇室と日本国民との心情の一体性は望めないでしょう。またいたずらに小田原評定をして大騒ぎすることは、一般庶民の皇室および今上両陛下への思いとの間にギャップを生み出す結果にもつながります。
 陛下は、日本国の神主の長としての職分を見事にまっとうされてきました。もし今回のご意向が速やかに実現した暁には、そのご振舞と重ね合わされることで、将来、美智子皇后とともに、まれなる名君、名妃として称えられることでしょう。


英国のEU離脱決定は正しかったか

2016年07月13日 01時36分59秒 | 政治
      





 英国のEU離脱決定から20日近く経ちました。キャメロン元首相辞任後、ずいぶんと世間が騒がしかったようですが、新首相就任が決まったメイ新保守党党首は、国民投票の結果について「国民は離脱を決めている」として、国内を混乱させる可能性のある2度目の国民投票や、EU離脱後の再加盟の可能性をきっぱり否定しました。これによって国論を二分した激しい対立は、少し落ち着きを取り戻したようです。
 離脱決定騒ぎは、世界中に波及しました。世界の金融経済がいっそう混乱するだの、円高株安に拍車がかかるだの、投票やり直しの訴えに数百万票の書名が集まっただの、進出していた日本企業はさっそく鞍替えを考えなくてはならないだの、英国の凋落は計り知れないだの、後戻りのきかない失敗に踏み込んだだの、感情的なポピュリズムに流されただの、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの独立機運の高まりの結果、連合王国は崩壊するだの、英国の中国依存はいっそう強まるだの・・・・・いやはやにぎやかでした。
 これらの論評のなかには、短期的には当たっているものもありますし、長期的な意味で深刻な懸念に値するものもあります。しかし、概して大げさなものが多い。円高株安など一時的にはその兆候もありましたが、以前からのトレンドをさらに悪化させることにはならず、早くも持ち直しています。
 これらの論評には、そもそもなぜ英国民の多数が離脱を選んだのか、そこにはどんな必然性があったのかという根本問題に触れたものがほとんどなく、なにか英国のEUからの離脱決定が想定外の悪い結果をもたらしたかのような論調が目立ちました。ここには、EU統合の秩序を攪乱することは致命的に拙いことだという根拠のない先入観が支配していたように思われます。この先入観には、EUという組織がもともとどんな無理をはらんだ連合体であるかという認識が欠落しています(このことにきちんと触れた論評は、私の知る限り、佐伯啓思氏の「英EU離脱はアベノミクスへの逆風となるのか」だけでした)。
http://www.sankei.com/world/news/160704/wor1607040007-n1.html

 余談ですが、私はある知人と、残留か離脱かをめぐって小さな賭けをしました。国民投票ですからもちろん結果に確信を持っていたわけではありません。ただ一種の希望的観測も含めて、離脱に動く可能性は十分にあると踏んだにすぎません。結果、私は賭けに勝ち、スコッチの「ホワイト・ホース」を獲得しました。本当はマッカランがほしかったのですが、ちょっと高くて相手に悪いので我慢しました。残留派が多かったスコットランドから一本奪い取った、というのは、まあ冗談です。
 閑話休題。
 この問題について多少とも本質的に論じるには、最低限、次の三つのことに言及する必要があります。

①EUと統一通貨ユーロ圏との間にはかなりずれがあります。言うまでもなく英国はユーロ圏ではなく、自国通貨ポンドをキープしています。
 また1990年にはヨーロッパの単一市場成立を表す欧州為替相場メカニズム(ERM)に加入していますが、わずか2年でERMを脱退しています。
 さらにEU創設を謳った92年のマーストリヒト条約(欧州連合条約)には、当時の首相サッチャーはしぶしぶ調印してはいますが、彼女は終始反対の立場を取っており、93年に貴族院で反乱を起こし、マーストリヒト条約を批准するかどうかを国民投票にかけるよう要求しています。彼女は経済には暗かったようですが、グレートブリテン王国の国家主権(尊厳)が脅かされることに敏感だったのです。
 さらに、2010年、保守党が政権に返り咲き、その翌年には、EU離脱を問う国民投票を求める10万名の署名が提出されています。
 また域内移動の自由を保証するシェンゲン協定(1997年発効)には、英国はその一部にしか参加していません。
 このように、英国では、残留・離脱の議論は今に始まったわけではなく、EU発足時からああでもない、こうでもないとやっており、したがって、英国ははじめから独、仏、伊など大陸のEU主要諸国とは一定の距離を保ってきたのです。つまり今回の決定は、国民国家・英国としてのスタンスという観点から見れば、そんなに驚くべきことではないのです。

②次に、すでに触れたように、EUという連合体には、初めから構造的な欠陥があります。これは、大ざっぱに言えば、金融政策と財政政策との分離独立です。前者はEUが握り後者は一応各国の裁量に任されています。するとどうなるか。
 統一通貨ユーロによって資本の移動の自由は完全に認められています(関税、為替障壁などないので)。しかし人や職業の移動はシェンゲン協定が許しているほどには現実には起きません。ドイツ人がいきなりイタリア人になるわけではないのです。当然、国情によって格差が拡大します。その時、負け組の国民は、自国の財政政策を非難するので、結果として政情の不安定を招くでしょう。こうして、自国の責任ではないはずの格差や貧困の問題を、負け組の国は背負い込まなくてはならないことになります。
 この典型的な例がギリシャです。ギリシャ政府は返済不能な借金を抱え、これを自国通貨ならぬユーロで決済しなくてはなりませんでした。EUは、返済期限の延長や新たな融資を承認するために、ギリシャに対して厳しい緊縮財政の条件をつけます。すでに負け組である上に緊縮財政を強いられた国の国民生活はさらなるデフレ不況に苦しむことになります。国民の不満を解消すべく緊縮財政破棄を謳って首相になったツィプラス氏がEUとの長い折衝を続けたものの、結局国民との約束を守れなかったのは、記憶に新しいところです。
 このように、財政政策は各国に任されているとはいっても、不況に突入すると、その財政政策すらも思うままにならず、EUの圧政に甘んじなくてはならないわけで、しかも国政担当者は国民の批判をまともにかぶることになるのです。
 この構造は、かつて帝国主義国が弱小国を植民地化していった関係の構造とそっくりです。そう、EUとはまさしく経済的な帝国主義であり、その主権者は、言うまでもなく、独り勝ちのドイツです。
 英国民の多数がこの仕組みをどこまで理解して離脱に票を投じたのかわかりませんが、結果的にこの構造からの脱却へと一歩を踏み出すことになったのであり、経済的主権を回復する道がさらに開かれたということができます。それができたのも、英国がもともとEUに対して懐疑的な姿勢を崩さなかったからでしょう。

③最後に、離脱に票を投じた一般庶民の動機を考えてみましょう。
 思惑は社会的立場によっていろいろだったでしょうが、何といっても最大の要因は、移民・難民問題です。英国の場合は、主として東欧からの労働移民を受け入れてきました。この政策が引き起こす第一の問題は、低賃金の単純労働者の受け入れによって、本国人も低賃金競争に巻き込まれ、中間層がしだいに脱落していく現実と、それに対する不安の増大です。
 そこへもってきて、2015年にヨーロッパに怒涛のように押し寄せたシリア、イラク、アフガニスタン、北アフリカなどからの難民です。この「椿事」がヨーロッパの本国人に与えた驚きと恐怖と不安は、日本に住んでいる私たちの想像を絶しています。ドイツのケルンで昨年末に起きた大規模な婦女暴行事件は本国人を震撼させましたし、テロリストが難民の中に紛れ込んでいる危険も盛んに指摘されています。また域内、域外を自由に移動するホームグロウンの過激なムスリムたちが引き起こすテロ事件も後を絶ちません。
 先ほども述べたように、英国はシェンゲン協定にはごく一部しか参加していませんし、島国の利点もあり、難民が大量に押し寄せているわけではありません。また難民はEU域内で最初に入国した国が引き受けるという「ダブリン協定」は、イギリスの場合、かえって有利に働いているという面もあります(ちなみにこれらの協定は、昨年来、事実上無意味化していますが)。
 しかし目と鼻の先で起きた大陸の「椿事」が、英国民に大きな心理的効果を与えないはずがありません。大陸とは一線を画すというのが英国の伝統的な精神で、イギリス人は自分たちをヨーロッパ人とは思っていないと言われています。もともとそういう独立心と自尊心の旺盛な国民性が、危機を意識した時に防衛の感覚に強く囚われたとしても少しも不思議ではありません。英国民の多数が離脱を選んだ大きな理由はここにあるでしょう。

 ところで「椿事」と言いましたが、じつはこれらの事態は、EUというグローバリズムが自ら招きよせたものなのです。先ほど述べたように、ヨーロッパ・グローバリズムは、そのモデルが帝国主義と植民地との関係と同じです。選挙で選ばれたのでもない欧州委員会のエリートたち(選挙による「欧州議会」は事実上機能していません)は、一種の独裁者といってもよい。二度の大戦のトラウマから、空想的な理念――欧州は一つ、ヒト、モノ、カネの移動はすべて自由――を掲げて、少しでもナショナリズムや民族主義を匂わせるような傾向に対しては、極端にタブー視する。バランスと人性をわきまえないこの理想主義が、かえって一般の人々の間に被抑圧感情を鬱積させ、国民意識を覚醒させます。つまり、EUのイデオロギーは、ナチス・ドイツのような極端なショーヴィニズムや民族主義の反転した鏡にほかなりません。
 アメリカのトランプ現象も同じですが、グローバリズムの理念それ自体が、民衆生活のそれぞれの場面で反グローバリズムを育てるのです。現に欧州諸国では、移民に対する規制を訴える政党が次々に力を蓄えています。どのメディアもこれらの政党を「極右」と呼んでいますが、むしろこれはごく自然な成り行きで、自分たちの土地や生活を自分たちで守ろうというバランサーが作用した結果なのです。
 アメリカでは、トランプ氏だけではなく、社会民主主義者のサンダース氏も大健闘を示しました。彼は「左」と位置付けられるはずなのに(だからこそ、というべきかもしれませんが)、グローバリズムが生み出した極端な格差社会に対する民衆の怒りを取り込もうとしている点ではトランプ氏と共通しているのです。つまりいずれも反グローバリズムという意味において。
 なぜなら、民衆の現実生活レベルでは、低賃金への下方圧力や解決困難な文化摩擦が絶え間なく起きているからです。EUエリートたちは、この現実を見て見ないふりをし、あたかもいまだに超国家的な統一理念の実現が可能であるかのように装っています。でも実際には、この試みはとうに破綻しているのです。英国の選択は、多少の痛みを伴うかもしれませんが、長い目で見れば賢明なものだったことがやがてわかるでしょう。
 わが国も周回遅れで移民政策を取ろうとしていますが、じつにバカげています。世界のグローバル化現象自体は、ある程度やむを得ない流れですが、それを積極的に良しとするようなグローバリズム・イデオロギーにけっして踊らされてはなりません。いま政治思想、社会思想、経済思想の対立軸は、右か左かにあるのではなく、グローバリズムか反グローバリズムかに収斂するのです。英国民の多数の選択は、まさにその事実を教えてくれたものとして理解すべきです。