小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源31

2014年04月28日 19時49分04秒 | 哲学
倫理の起源31




 ここで、ミル自身のカント批判に触れておこう。これは主として、次の二つの点において認められる。
 一つは、カントが、他の心的要素から「意志」だけを特権化し、他の要素(感覚、感情、欲望など)をすべて「傾向性」にもとづくものとした点にかかわる。カントはそのうえで「自由な選択意志」を設定し、それをもって道徳の存在根拠とした。これについては私自身すでに批判を加えておいたが、ミルもまた、欲望と意志との連続性を強調している。
 もう一つは、カントの定言命法(個人の意志の格率と普遍的法則との一致)が、人類全体の利益に役立つという功利主義的な原理をあらかじめ織り込んでいるのでなければ、無意味な命題だという指摘である。
 第一の点については、次のように書かれている。

 以上のように理解された意志と欲望の区別は、確実できわめて重要な心理的事実である。しかしその事実は、もっぱらこういうことを意味する――意志は、われわれの身体を構成する他のあらゆる部分と同じように、習慣になじみやすいこと、さらに、われわれはもはやそれ自体のために求めなくなったものでも習慣にしたがって意志したり、意志するというだけの理由で欲求したりできること、である。だからといって、意志がはじめはまったく欲望から生まれたものだという真理が、少しでも否定されるわけではない。そして欲望ということばには、快楽を吸引する力とともに、苦痛を反発する力が含まれているのである。

 このくだりでは、カントを名指ししてはいないが、明らかに、意志だけを独立で特権的な心的要素として立てることの不当性が説かれている。それはただ習慣にしたがって発動するだけの場合があり、またある目的を果たす意志のために欲求を抱くことがあるという。
 前者の例としては、通勤サラリーマンがちょうど到着した列車に駆け込み乗車をしようと意志する場合などが挙げられる。また後者の例としては、明日は仕事に出かけるために早起きしようと意志するとき、その意志を貫くために早く眠りたいと欲求する場合などが挙げられよう。いずれにしても日常的習慣の中では、ある心的要素が意志なのか欲望なのかはっきり分けられないケースがとても多い。
 さらにミルは、欲望という概念はもともと快楽を求め苦痛を避けるという意味が含まれていて、しかもその欲望からこそ意志が生まれるのだと述べて、欲望から意志への連続性を説いている。すべての意志が欲望(快・不快原則)を源泉としているという考え方には疑問をさしはさむ余地も多い。いやいや強制に従うというような場合も、「意志」が存在したと認めさせられることがけっこうあるからである(前に述べたとおり、「自由意志」なるものの存在は、責任が問われる時に必要とされるフィクションなのだが)。
 だがここでミルが言おうとしていることを、次のような例で解釈することができる。すなわち、幼児が意志の力(自己抑制の力)をしだいに身につけていくのは、養育者の強制にしたがっておかないと、これから先、養育者から見放される苦痛に耐えられないだろうという直感がはたらくからであって、それは結局、快楽原理にもとづいている、と。

 第二の点については次のように書かれている。

 カントが(中略)道徳の基本原理(引用者注――定言命法)として、「汝の行為の準則(引用者注――意志の格率)が、すべての理性的存在によって(引用者注――普遍的な)法則として採用されるように行為せよ」と提案したとき、実は、次のことを認めていたのである。それは、行為の善悪を良心的に決定するには、行為者は人類全体のためを、少なくともだれかれの区別なく人類のためを考えていなければならない、ということである。そうでないと、カントは無意味な言葉を並べたてたにすぎないことになる。なぜなら、理性的存在が全員そろって、極端な利己的準則を採用することはありえない――事物の本性の中にはこの採用をどこまでも妨げるものがある――などとは、どうこじつけても主張できないからである。カントの原理に意味を持たせるには、こう言わなければならない。われわれは、理性的存在が全員採用すれば、彼ら全体の利益に役立つような準則によって、行為を指導しなければならぬ、と。

 この指摘は、まことに鮮やかでスリリングである。もし「理性的存在」のすべてが、自愛の原理にもとづく利己的な法則を採用したらどうするのか。「理性的存在」ならそんなことを絶対しないはずだということをカントはどのように論理的に証明するのか。単なる「普遍的な法則」と言っただけでは、その可能性を排除できないではないか――このように批判することでミルは、結局はこの定言命法といえども、はじめから人類全体の幸福、福利という功利主義的な目的を織り込んでいたのだと喝破しているわけである。「普遍的法則」とはすなわち、人類全体の福利にかなうような規則のことなのである。

 またミルは、徳というものは、はじめは苦痛から逃れるための手段であったが、ちょうどお金が物を手にいれるための手段であったのにいつしか金儲けが目的そのものに変化するのと同じように、やがて手段から自立してその追求そのものが目的の一部になるとも説いている。これもたいへん現実的なものの見方で、私がこれまで述べてきたことと重なるところが多いと思う。
 それにかかわって、正義の感情ももとをただせば復讐の本能であると、次のような的確な指摘をしている。

 正義の心情は、その一要素である処罰の欲求から視ると、以上のように、人間に本来そなわる仕返しまたは復讐の感情だと私は思う。知性と共感によって、この復讐感情は次のような被害、つまり社会全体を通じ、また社会全体とともに、われわれを傷つける損害に適用されるようになるのである。この心情そのものは、道徳的でもなんでもない。道徳的なのは、この心情が社会的共感に全面的に服従してその要求につきしたがう場合である。
 そこで正義の心情とは、自分または自分が共感をもつ人に対する損害または損傷に反撃し仕返ししようとする動物的欲望が、人類の共感能力の拡大と人間の賢明な利己心の考え方によって、すべての人間を包括するようにひろがったものと、私には思われる。この感情は、賢明な利己心によって道徳的となり、共感能力によって人を感動させ、自己主張を貫く力をもつようになる。

 こうして、直接の害であろうと、自分の善を追求する自由を妨げられる形の害であろうと、とにかく他人から害を受けないように各人を保護する道徳は、だれもがいちばん心にかけ、最大の関心をもって、言行を通じて公表し励行しようとする。この道徳を守るかどうかで、ある人が人類の一員としてふさわしいかどうかがためされ、決定される。なぜなら、これによって彼が、接触する人々の厄介者となるかどうかがきまるからである。


 正義の感情とはもと復讐の感情であり、それが共感の拡大によって多くの人たちの受け容れるところとなり、そこに「賢明な利己心」――この表現はいかにも真正の功利主義精神をあらわすものとしてふさわしい――が作用することで道徳としての位置を獲得する。
 ミルは、道徳もまたその形成過程では、復讐や利己心が不可欠の要因としてはたらいていることを堂々と認めている。以上のような「道徳の系譜」についての分析は、事実それ自体の記述としては、ニーチェとそれほど変わっていないように見える。それなのに、ニーチェはなにゆえ「イギリスの功利主義者ども」をあれほど軽蔑したのだろうか。
 おそらくこの違いは、それぞれの体質の違いであり、既成道徳に対する感情の違いである。ニーチェにとっては、右の最後の引用における「だれもがいちばん心にかけ」というところが、たまらなく気に入らない箇所だろう。彼なら、「接触する人々の厄介者となる」ことなど先刻覚悟のうえで、「畜群」の厄介者(孤独者)になることを私はあえて選ぶと応じたに違いない。だがそれなら、なぜツァラトゥストラは、繰り返し自分の教えを縷説(るせつ)するためにみずから「没落」の道を繰り返し選ぼうとしたのか。「厄介者」として十字架にかけられることにマゾヒスティックな喜びを見出していたのではないとすれば。

 ミルの『功利主義論』の魅力は、次の二つの点に集約される。
 一つは、道徳という公的な文化形式を、超越的な高みから無条件に私たちの頭上に下ったものと考えずに、あくまでも人間の普通の感情や欲望を肯定しつつ、それを調整するために歴史的に形成されてきた機能としてとらえている点である。ここにはカントのような理論めかした「狂信」もなければ、プラトンのような転倒の「詐欺」もない。道徳の起源についての認識としてはニーチェと共通する部分をもちながら、彼のような「孤立貴族」の矯激さもない。
 もう一つは、だからといってミルは、いわゆる自由な欲望や俗情の放恣な交錯に任せればよいと言っているのでもない。この世で道徳がうまく機能しているその価値を積極的に認め、それがどうして価値に値するのかをていねいに解きほぐしているのである。
 こういうバランスある立場は、長きにわたる私たちの生活感覚や慣習にきわめてよく適合するし、殊に日本人の現実主義的な倫理観にマッチするのではないかと思う。私は、功利主義という概念を利己主義や効率主義と誤解して受け取っているすべての人々に、もう一度ミルの主張を詳しく検討してほしいと切に願う。

これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(16)

2014年04月24日 23時04分46秒 | ジャズ
これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(16)



 ジャズの最盛期は60年代に終わってしまった――そういう意味のことをこの前書きました。これについて共感するコメントを寄せてくれた人もいました。しかしそのオーソドックスな流れが途絶えてしまったわけではありません。
 日本では、この正統派ジャズはけっこう人気が高く、ちょっとそのへんの飲み屋などに入ると、BGMとしてジャズを流している店が圧倒的に多いのに気付きます。ジャズをバックに友人と静かに語らいながら日本酒を傾ける――これってとてもいい雰囲気ですね。一つの定着した文化といってもいいくらいです。若者にも受けがいいようです。
 またお茶の水に「NARU」というライブバーがあり、ここでは連日、ジャズメンが出演して真剣な演奏に力を注いでいます。若手もどんどん輩出していますが、往年活躍した大野雄二(p)、辛島文雄(p)、峰厚介(ts,ss)といった人たちもベテランの味を披露してくれます。私は残念ながら聴き逃したのですが、いまは亡き迫力ある個性派ピアニスト、本田竹広もかつてはここで演奏していました。息子さんはドラマーの本田珠也で、彼もこの店によく出ているようです。
 ちょっと長くなりますが、この親子のライブ版を聴いていただきましょうか。特に二曲目は、はじめの部分、日本唱歌の「浜辺の歌」のように聴こえますが、たいへん情緒豊かな曲で、まさに「ジャズ・バカ」というニックネームを本田に進呈したくなるような情熱のこもった演奏です。



 さて、アメリカで生まれたジャズは、その精神がヨーロッパに受け継がれ、この伝統的な文化風土にふさわしい、独特な開花の仕方をします。それについて語りましょう。
 このシリーズの初めのほうで、MJQ(モダン・ジャズ・カルテット)をご紹介しましたが、たたずまいが端正で、とても長続きしたこのグループは、早い時期からジャズとクラシックとの橋渡しに大きく貢献しました。リーダーのジョン・ルイス(p)がもともとクラシックへの憧れが強く、ヨーロッパ風の典雅な曲をいくつも作曲しています。しかもメインプレイヤーのミルト・ジャクソンのビブラフォンの調べがブルース調でありながらとても気品ある音色を奏でるという点も手伝って、クラシックファンにも大いに人気を博しました。
 その代表作、ユニークなギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトを偲んで作られた「ジャンゴ」をお聴きください。パーソネルは、二人のほかに、パーシー・ヒース(b)、コニー・ケイ(ds)。



 MJQはアメリカの黒人グループですが、ジャズとクラシックの融合という役割を果たしたヨーロッパのミュージシャンといえば、ドイツ人のオイゲン・キケロ(p)と、フランス人のジャック・ルーシエ(p)の二人を挙げなくてはならないでしょう。
 二人とも、バッハやショパンなどクラシックの名曲をテーマにしながら、それをジャズの感覚やリズムで処理していくところに共通の特徴があります。
 まずキケロから。ショパンの「24の前奏曲 作品28の4 ホ短調



 ソロパートで彼はボサノバ調の8ビートを採用しています。なかなか心地よい演奏ですが、ショパンのあの小曲の消え入りそうな雰囲気をうまく活かしたのかというと、少し疑問が残ります。なぜなのだろうと考えたのですが、彼の演奏には、クラシックの名曲なら必ず持っている「翳り」というものがあまり感じられないのですね。これは、バッハの有名な「トッカータとフーガ ニ短調」を冒頭に使った「ソフトリー サンライズ」では、さらにはっきり言えることで、生真面目に鍵盤をたたいている印象があり、いまいち深みに欠ける憾みが残ります。興味のある方は聴いてみてください。
http://www.youtube.com/watch?v=uKYEg2t0dxA

 いっぽうのジャック・ルーシエですが、彼は59年にバッハをジャズで演奏して一躍名を馳せました。「プレイ・バッハ」シリーズを立て続けに3枚、5年後にまた2枚出して一世を風靡します。これは、ジャズファンにとってまさに新鮮な驚きでした。じつに画期的な試みだったと思います。そもそもバッハとジャズとがこれほど相性がいいということ自体、大きな発見であり、「コロンブスの卵」ともいうべき快挙でした。
 しかし、いま聴きなおしてみると、やはり何というか、実験的な試みに伴いがちな一種の硬さが取れていず、本当に融合に成功しているとは言い難い部分もあります。
 ところがそれから約20年後、彼は第二期トリオを組み、もう一度バッハの多くの曲のアレンジメントに挑み、「デジタル・プレイ・バッハ」2枚組(「ザ・プレイ・バッハ」とも銘打たれています)その他を出します。これは成熟を物語る素晴らしい出来栄えで、メンバーとの呼吸の合い方もよく、録音もとても優れています。私は何度このCDを聴いたかわからず、友人にも勧めたり貸したりしました。
 ではその中から続けて2曲。パーソネルは、ヴァンサン・シャルボニエ(b)、アンドレ・アルピノ(ds)。
 1曲目。平均律クラヴィーアから「前奏曲第1番 ハ長調」。
 原曲からは一見飛躍したようなジャズのノリになりながら、随所に原曲のあの、人をかぎりなく和ませるモチーフが織り込まれているのが感じられます。後半、急速調で展開しますが、それがそのまま、最後に至ってちゃんと座るべきところに落ち着くという流れになっています。



 2曲目。例の「トッカータとフーガ ニ短調」。



 この曲でルーシエは、さまざまにテンポを変えたり、多様な奏法を繰り広げたりと、起伏のある構成の妙を楽しませてくれます。それでいてそこにはある種の統一性が流れており、原曲の気高い雰囲気を失ってはいません。ルーシエは相当工夫したのだろうなあ、と想像されます。
 ご存知のように、原曲はパイプオルガンによって演奏される教会音楽です。もちろん原曲にも様々な変化の工夫がなされてはいますが、残念ながら、オルガンという楽器はもともと細やかな表情を表現するには適していない楽器です。肉声からははるかに遠く、天上から降りて来る響きのようで、生身の人が弾いているという感じがしないのですね。
 それもそのはず、もともと教会音楽というものは、神が創りたもうたこの宇宙の偉大さをいかに表現するかというモチーフに裏付けられています。オルガンはこのモチーフにとってはまことにふさわしい楽器であり、その荘厳な響きは、教会のなかでこれを聴く信者にとっては、天空の広大さや創造神の崇高さを身に沁みてわからせてくれる絶大な効果を持っているのでしょう。
 ところでこのことは、現代人である私たちから見ると、あまり人間味ののない、ただ理性と秩序のみが支配する冷たい世界の表れのように感じられてしまう要因にもなっているようです。試みに原曲を掲げておきましょうか。演奏は吉田美貴子。



 さてルーシエの演奏は、ピアノという楽器のせいもあり、たいへん表情に富んだものとなっています。あるいは、ジャズでないとこれだけの身近さを演出するのは難しかったかもしれません。
 総じて、彼の演奏には、先に例示したオイゲン・キケロなどとは異なり、とてもオシャレな雰囲気、余裕とヒューマニティと洗練された味わいが感じられます。やっぱりフランス人って、そういう柔軟なところがあるのかなあ、と思います。
 いずれにしても、彼の存在が、クラシックとジャズの融合という課題を果たすのに大きく寄与したことは疑いがないでしょう。ここには、ただの無雑作なフュージョン一般とはちょっと次元が違って、かなり高度な新しい音楽的境地の達成が見られると思うのですが、いかがでしょうか。

 次回、いま少しヨーロッパのジャズについて語りたいと思います。

倫理の起源30

2014年04月15日 23時27分32秒 | 哲学
倫理の起源30




 ミルはまた、人類の長きにわたる経験がよき慣習(道徳律)のかたちで私たちの生活に根付いていることを指摘している。このことを強調することは、倫理学にとって大切な意味を持つ。

 たとえ人類の意見が功利を善悪の基準とすることで一致しても、何が有用であるかについてはなかなか一致が見られまいと考えたり、この問題に関する自分たちの考えを若い人たちに教え、法律や世論によって強制するような手段は使われまいと考えたりするのは、まことにこっけいな空想というほかはない。白痴の寄り集まりがいじくりまわすと仮定したのでは、どんな倫理基準でもうまくはたらくはずがないことを証明するのは、むずかしいことではない。しかし、こんな極端な仮説を立てないかぎり、人類はすでに、行為が幸福におよぼす影響についてはっきりした信念をもっているはずである。このようにして受け継がれてきた信念は、一般民衆にとって道徳律となる。哲学者にとっても、さらによいものを見つけだすまでは、やはりこれが道徳律なのである。

 カントもまた『実践』のなかで、一般民衆が道徳律についての知恵を積み重ねていること、彼らがその判断においておおむね誤ることがないことを説いている。しかし彼は、「哲学者」たるものの沽券と肩ひじ張った自負からして、そこにどうしても超越論的、絶対的な抽象原理が先立ってあるということを「証明」したくて仕方がなかった。だがそれは失敗しており、「信念」の繰り返しに過ぎなかったことは先述したとおりである。
 人はあるいは、行為の幸福への寄与について一般民衆が体得している信念という考え方に、ミルの楽観主義を見るかもしれない。民衆というものは、状況次第でいくらでも残虐なことをしたり始末に負えない放縦に走ったり、愚昧さをさらすことがある存在だからだ。しかし彼は、その信念が一般民衆の生活のどの局面においても必ず自覚的にはたらくと言っているわけではない。普通に平穏に生活秩序が保たれているところでは、道徳律が暗黙知として彼らの幸福(=善)を支えていると言いたいのだと思う。礼節、勤勉、他者の人格の尊重、約束の履行、信頼の情、生活向上の努力などがそれにあたるだろう。その事態を必要に応じて自覚化させたり言語化させたりするのが、すぐれた者の役割なのである。ミルは無原則な民主主義者でもなければ、大衆迎合主義者でもなく、人々の幸福への道を少しでも切り開くためにこそ、より優れた存在、より強い存在が必要だと考えていた。だからこそ「白痴の寄り集まり」では困るのである。
 ではなぜミルの言うように、「人類はすでに、行為が幸福におよぼす影響についてはっきりした信念をも」つことができたのだろうか。私たちは、まさにそこにこそ、功利主義の原理が生きていることを見出すのである。
 すなわち、本書でも再三説いてきたように、ひとりの幸福が、他者とのかかわり抜きにそれだけとして孤立して成立することはあり得ないのである。仮にあったとしてもそれは満腹感のようにほんの断片的な満足にすぎず、時間の持続に耐ええない。ミル自身も、満足と幸福とを区別している。
 もちろんこう言うことで、私は、いつも自分の幸福が自分とかかわる他者のそれと一致していると言いたいのではない。逆にどうしようもない厄介者が死んでくれたり、憎んでいる相手が苦しんだり、物理的・心理的な闘争において相手が敗北すること、つまり他者の「消滅」や「不幸」や「惨めさ」に接することによって自分が幸福感を感じるということはあり得る。私は、こういう場合も含めて、ひとりの幸福はいつも何らかの形で他者とかかわっていると言いたいのである。
 ちなみにこうした場合でも、なぜその人がいっときの解放感・幸福感に浸れるのかといえば、それは、自分がこれまで抱いてきた自分自身に対するネガティヴな感情から解放されるからである。そしてもし厄介視や憎しみの感情や闘争の意義が正当なものとして共同性によって承認されるならば、それらから解放された彼は、自分の存在の本来のふるさとである共同性のうちに復帰できたことになる。だがもし彼の個人感情が共同性から承認されないならば、彼のいっときの解放感・幸福感は、孤独なものにとどまり、それだけはかないものとなり終わるだろう。
 ところで、人類が、どんな脈絡の中でどういう行為をすればより「幸福」になったりより「不幸」になったりするかについてほぼ誤ることのない信念(判断、道徳律)を抱くようになったのは、彼らが長い実践的な相互交流を通して、こういうことをしてはお互いが(共同性それ自体が、と言い換えてもよい)結局みじめになり、滅びの道を歩むだけだ、という知恵をしだいに学んできたからに他ならない。自分の存在のよりどころである共同性全体の共存共栄があってこそ、一個人としての自分の幸福も保障される。そのためにこそ道徳律は必要である。このように人びとは考えるようになったのである。この知恵は、人間存在を孤立した個人の集合としてとらえるのではなく、常に相互に交渉しあう関係存在そのものとして、つまり、個と全体とのダイナミックな運動(和辻)としてとらえる視点にまっすぐつながっている。

 さてミルは、功利主義道徳がどこまで強制力(制裁の効果)をもちうるかという問題を立て、それを外的なそれと内的なそれとに分けている。義務に服する意識が何によって発生するかという分析であろう。
 それによれば、外的な強制力とは、同胞や神によく思われたい、嫌われたくないという気持ちであり、同胞への共感と愛情、神への愛と畏敬の念である。また、内的な強制力とは、義務に反した時に感じる強弱さまざまな感情、すなわち良心(の呵責、負い目感情)である。しかしこの良心は、一見、単純な見かけをまとっているが、現実の複雑な生活現象の中では、さまざまな感情的要素の複合によって組み立てられている。共感、愛、恐怖、各種の宗教感情、幼年期からの思い出、自尊心、他人から尊敬されたいという欲求、時には自己卑下(謙遜あるいは謙抑と訳すべきだろう)など。
 この指摘は現実主義者であり人間通であるミルの面目がじつによく出ている。しかし、ここまで言うならば、外的・内的の区別はあまり意味のないものとなろう。比べてみてすぐわかるように、両者は、互いにほとんど重なり合っている。
 いずれにせよ、こういう一種の心理学的な分析をミルにさせている動機は、「良心」や「義務への服従」という概念を、何か超越的なところ、至高の場所からやってくる絶対命令にもとづくものというキリスト教道徳的な軛から解き放ちたいという欲求にあるように思われる。
 カントなどは、「近代理性」を打ち出の小槌のように振り回してはいても、その心情としては、「義務」の観念を、あくまで至高存在の有無を言わせぬ絶対命令としてとらえていた。それは『実践』の随所で確認できるが、とりわけ有名なのは、あの結末部で「輝く星空と内なる道徳律」に対する無条件な崇敬の念を吐露した部分である。しかしおそらく、ミルの時代、彼の生きた最先進国のイギリスという文化圏では、もはやそういう神がかり的な超越性を持ち出すだけでは、良心や義務の観念の由来を説明しえないと感じられたのだ。
 ここで特に興味深いのは、義務の観念が個人に強いる拘束力の要素として、同胞に嫌われたくないという気持ち、同胞への共感と愛情、恐怖、生涯の思い出、自尊心、尊敬されたいという欲求、自己卑下(謙遜、謙抑の感情)などを挙げている点である。
 本稿をここまで読んでこられた読者にはお見通しだろうが、私は本稿のはじめに、道徳心、良心が何をきっかけとして個人のなかに植えつけられるかについて説いた。それは直接には養育者の「愛」の喪失に対する「恐怖」であり、やがてそれがより多くの人々との交渉を重ねることによって、他者一般に対する被承認欲求へと一般化されてゆくというものだった。
 被承認欲求とは、他者の承認によって自分の存在をみずから承認したいということであるから、「自尊心」「尊敬されたいという欲求」を維持することと同じである。「自己卑下」(謙遜、謙抑の徳)についても、内なる他者が自分の過去に対して審判を下すことであるから、この感情の中には、世間一般への配慮を通しての被承認欲求が組み込まれている。
 また人類史の古層においても、共同体からの孤立、離反の「恐怖」こそが良心を形成させる最大の要因であると説かれたのだった。
 さらに私は和辻哲郎を援用しつつ、ハイデガーを批判して、人倫の基礎は、世人への「頽落」から本来的な個に還ることによるのではなくて、まさに世人として、世間の中を互いにあいかかわりながら日常性を生きることそのものの中から立ち上がるという意味のことを述べた。
 ここにおいて、ミルが義務の拘束力を規定する心理的な要因としていささか不用意に書き並べているいくつもの項目は、個人の発達論的な、また人類の発生史的な視点を導入することによって、ひとつの一貫した人間把握の方法との間に整合性を獲得することが確認できるだろう。その人間把握の方法とは、何度も繰り返すように、人間を徹底的に関係存在とみなすことである。ヘーゲル、マルクス、和辻哲郎など、人間をよく見ていたすぐれた思想家たちは、みなこの立場をとっている。
 ミル自身はあまり意識していないようだが(彼もまたキリスト教文化圏の人だったので)、彼は、右の記述で、良心や道徳感情が、超越的な高みから個人のうちにやってくるものではなく、実生活を生きる交渉の経験の中から育まれるものだという経験論を展開しているのである。すぐ続くくだりで「この感情群は、おそらくあとで(強調引用者)良心の呵責というかたちで姿をあらわすにちがいない。良心の本性や起源について何といおうと、この感情群こそ良心の本質を構成するものである」とはっきり述べている。
 さらに、「共感の広がり」を良心や正義の条件として強調している点にも、彼が関係論的な視点を生かしていることが認められる。ミルは、西洋近代の理念である個人の自由を最も重視する個人主義者のように見えるが、次の引用によっても、彼がそう単純ではないことがわかる。なおこの指摘は、ある若い学徒に負っている。

 社会状態は、人間にとってまことに自然で、まことに必要で、またまことに慣習化しているから、普通でない状況下にあったり意識的に抽象を試みたりしない限り、人間は自分を団体の一員としか考えられない。そしてこの連想(引用者注――「連関」とすべきだろう)は、人類が野蛮な孤立状態から遠ざかるにつれて、ますます固く結合される。そこでだれもがますます強く、社会状態に不可欠な条件はどれも、自分がその中に生まれてきた、人間にとって宿命的な事態だと考えるようになる。そうなると明らかに人間の交わりは、主人と奴隷でないかぎり、すべての人の利益が考慮されるような関係のうえにしかなりたたない。

「野蛮な孤立状態」という言葉は、ルソーの「自然人仮説」の影響を受けていると考えられるので――しかしその評価はルソーとは反対だが――、現在の文化人類学的な知見からは多少割り引いて受け取らなくてはならない。むしろ未開社会においても、人間が人間であり得た瞬間から彼は社会的動物だったのである。
 しかしいずれにしても、ここでミルが言いたいことは、「社会的諸関係のアンサンブル」(マルクス)としての本性をもつ人間は、その社会的諸関係を時間的・空間的に拡大して自分の視野の中に収めるようになればなるほど、その全体の「幸福」に配慮せざるを得なくなるということである。できるだけ広範囲の人々の利益や幸福に気配りすることが、結局は身のためでもあることがわかってくる。文明がよりよく発展することは、健全な公共精神が育つための条件の一つである、ということであろう。
 ミルは単に楽天的にそう言っているのではない。そこには一種の力学的な必然のようなものがはたらいていると言いたいのだと思う。これはわが日本近代勃興期の思想家・福澤諭吉(ミルよりも30年ほど遅れて出現している)が、「文明の発展」という言葉に託して語ろうとした思想ときわめてよく似ている。
 もちろん、私たち現代人は、20世紀の悲惨な世界戦争やホロコーストの生々しい記憶から自由になれない。その記憶を情緒的に受け取る地点からすれば、ミルの言っていることは、ただの楽観的な理想主義にしか過ぎないようにも見える。だが20世紀の経験は、グローバルに全世界の民族や国家が深く接触し交渉しあったために起きた、いわば最初の巨大な失敗の経験なのである。そしてこれからもたびたびこの種の失敗の経験は繰り返されるにちがいない。私たちはだれしも当分の間、それぞれの国益や民族的意識を離れた向こう側の人々の「幸福」について、私たちの身近な同胞たちと同じように配慮することなどできはしない。それは人道思想の浸透が不十分であるという問題ではなくて、社会構造的にそうできないのである。
 けれども、非常に長い目で見れば、これらの数多い失敗の経験こそが「相互にうまくやる」交渉の技術と叡智とをゆっくりと培っていくはずである。その技術と叡智は、200もの大小の主権国家がしのぎ合い、人口、食糧、資源、環境、文化、宗教、経済など幾多の複雑な問題を抱えているいまの世界の現実をあくまで直視しながら、世界統治の構造をどのように構想していけばよいのかという方向で用いられるべきだろう。思い切り乱暴な言い方をすれば、そういう構想が多少とも意味を持つのには、1000年単位くらいの時間的スケールでものを考えるのでなくてはならない。ただ世界平和を祈るだけ、人道主義的理想を掲げるだけでは、何の力にもならない。
 このように考えるとき、ミルが提出している「それぞれの幸福を拡大していくことこそが善の実現である」という功利主義の原理は、最終的にそれしかない形で、現実を動かしていく最も基本的な指針の意味を持つだろう。

これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(15)

2014年04月10日 16時52分46秒 | ジャズ
これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(15)


    チック・コリア

 少し私自身の昔の生活の話をさせてください。

 私は1972年、25歳で結婚し、翌年とその次の年、続けて子どもが生まれました。小さな塾経営で暮らしを立てていたのですが、あまり儲ける才覚がないのと、物書きになる夢が捨てきれないのとで、経営に全力を注ぐこともせず、収入はおっつかっつ、生活に追われて精一杯の何年かを過ごしました。
 それにしても年子というのはたいへんですね。下の子が夜泣きが激しいので、夫婦でキャッチボールみたいにかわるがわるあやすのですが、一向に泣き止まず、疲れ果ててしまうこともたびたびでした。
 寝室で妻と子ども二人が寝入ったらしいのを幸い、束の間を見てヘッドホンでジャズをちょっと聴いていたら、突然、「なに、自分だけ勝手なことをしてるのよ!」と怒鳴られたこともありました。寝入ったと思いきや、じつはまた夜泣きを始めたらしく、ヘッドホンのせいでそのことに気づかなかったのです。
 塾の仕事は夕方から夜ですから、昼間は家にいます。子どもが3、4歳になると、とても可愛くて、毎日、遊び相手として接することができました。公園で鬼ごっこをしたり、レコードをかけて童謡を歌ったり、紙粘土でいろんなものを作ったり、日曜大工で子ども用の本箱を作ったり、夜は絵本を読んであげたり、と。普通のサラリーマンとは違って、よい意味でも悪い意味でもかなり濃密な父子関係だったと思います。
 なぜこんなことを書くのかと言いますと、この時期からしばらく、大部分の人生時間が仕事と家庭生活(と、合間を縫っての勉強)で占められていたので、ひとりジャズを楽しむという時間帯をほとんどキープできなかったのです。幼い子どもがいるところで、まさか大音量でジャズをかけるわけにもいきません(クラシックはかけていましたし、子どもにはピアノを早くから習わせたりもしましたが)。私はジャズを楽しむのにふさわしい「孤独な青年」を早く卒業してしまったわけですが、それはそれで、充実した日々でした。
 そんなわけで、ある時期以降のジャズの発展の仕方をあまり知らないのです。チック・コリアキース・ジャレットがもてはやされているころ、むしろクラシックのレコードやCDを買いあさっていました。
 ただ、手前味噌な言い方になりますが、私がジャズ鑑賞からリタイアしていたころ、ポップスの世界の表舞台はほとんどロックに乗っ取られており、古典的なモダンジャズの生命はもう衰えていたようです。そのロックもじきに分化と複雑化の過程をたどり、世界のさまざまな音楽が混淆し、何が主流なのかがはっきりつかめないようになりました。世はフュージョン花盛りを迎えたということでしょうか。
 ジャズメンもサンバやロックのリズムを取り入れたり、エレクトリックピアノやシンセサイザーを使ったり、インド音楽に近寄ったり、ストリングスと共演したり、というわけで、私自身が青春時代につかんだ音楽的感受性のふるさとと思える世界が、どんどん遠くなっていくような気がしたのも事実です。ですから、自分のリタイアは、正解だったのかもしれません。私はたまたまモダンジャズの最盛期の数年後に鑑賞者となりましたが、これは日本にいれば、ちょうどよいタイムラグであり、そのことはとても運が良かったのではないか、と今では思っています。
 たとえば、60年代末以降のマイルス・デイヴィスの変貌にはがっかりしましたし、ジョン・コルトレーンをはじめとするフリージャズの行きづまりも当然だという気がしました。また、このシリーズの初めに紹介したチック・コリアの「ナウ・ヒ―・シングズ・ナウ・ヒ―・ソブズ」は、初期の傑作ですが、その後、エレクトリックピアノやヴォーカルを取り入れた「リターン・トゥ・フォーエバー」などは、多少オシャレなBGMの域を出ていず、ちっともいいと思えません。これは、彼の名前をポピュラーにしたようですが、もうジャズとは言えないでしょう。
 もしよろしければ、もう一度、「ナウ・ヒ―・シングズ……」から、「ステップス――ホワット・ワズ」を聴いてみてください。リズム感覚といい、斬新なリリシズムといい、内面性の深さといい、文句ない出来栄えです。パーソネルは、ミロスラフ・ヴィトス(b)、ロイ・ヘインズ(ds)。なおベースのミロスラフ・ヴィトスは、チェコ出身の異才で、ヨーロッパ出身者にふさわしい美しい音を響かせています。



 ついでに、同じアルバムから、タイトルテューンの「ナウ・ヒ―・シングズ・ナウ・ヒ―・ソブズ」。ここでチック・コリアは、コルトレーンと共演していたマッコイ・タイナーによく似た、格調が高くありながらしかもスウィンギーなソロを聴かせてくれます。



 なおつまらない話ですが、チック・コリアについては、おやじジャズファンとして、ひとこと言いたいことがあります。「スペイン」という有名な曲がありますね。これはいま、彼の「作曲」ということになっています。YouTubeにもそう書かれています。しかし、暖簾にこだわるようですが、この曲の最初に出てくるテーマは、スペインの作曲家ロドリーゴのギター曲「アランフェス協奏曲」であって、チック・コリアの作曲ではありません。チック・コリアは、はじめのテーマをロドリーゴの曲のとおりに弾いており、突然、テンポを変えて自分の作曲部分へと進んでいきます。これはいかにも唐突であり、ロドリーゴの曲との連続性が感じられません。
 なぜこんなうるさいことを言うのか、その理由は2つあります。
 一つは、アランフェス協奏曲が早くからジャズメンたちの敬愛の的となっており、マイルスの「スケッチズ・オブ・スペイン」や、MJQの演奏ですでにとっくに取り入れられているからです。
 もう一つは、この曲は、マドリード近郊の静かで落ち着いた古城の町アランフェスに材料を採ったもので、原曲にはその哀愁に満ちた雰囲気がとてもよく出ています(私もこの町を訪れたことがあります)。マイルスやMJQは、いずれもそれを尊重していますが、チック・コリアはその雰囲気をまったく変えています。フラメンコ調の激しい乗りになってしまっているのですね。両者は、「スペイン」という言い括りではつながらない。
 もちろん、ジャズに限らず、音楽の世界ではそういうことをやるのは当たり前で、だからこそチック・コリアのオリジナリティが出ているとも言えます。それ自体はいいのですが、ロドリーゴの曲を導入に用いていながら、「チック・コリア作曲『スペイン』」という言い方がまかり通るのが気に入らない。せめて「ロドリーゴの主題から」といった断り書きくらいはつけるべきでしょう。ちなみに私自身は、原曲のほうがずっと好きです。
 たとえば、グノーの「アヴェマリア」が、バッハの平均律クラヴィーアの前奏曲1番をベースにしていることはよく知られていますが、これには見事な調和が感じられます。また、マイルスやビル・エヴァンスの「枯葉」は、これぞジャズともいうべきとても魅力的で新鮮なイメージを生み出すことに成功しています。しかし、チック・コリアの「スペイン」は、曲自体はそんなに悪くありませんが、ロドリーゴを導入部に用いる必然性が感じられないのです。それかあらぬか、後のライブなどでは、「スペイン」を演奏するとき、彼はこの導入部を削除しているようです。
 みなさんはどうお感じでしょうか。ひとつ、名ギタリスト、ナルシソ・イエペスの演奏する「アランフェス協奏曲」と、チック・コリアの「スペイン」とを聴き比べてみてください。





 フュージョンが当たり前になってしまった現在の音楽シーンでは、誰もが知らず知らずのうちに、さまざまな民族性を持つ音楽の影響を多面的に受けざるを得ず、シンプルな独創性を示すのがかえって難しくなったと思います。今回、以上のような小うるさいことを書いてきたのも、あのすでに古典と化したモダンジャズ最盛期の精神をきちんと引き継ぎながら、しかも高度で斬新なな感動を与えてくれるような可能性の展開はもう望めないのかもしれない、と考えたからです。じつはそれは(これは私の貧しい鑑賞体験から言えるに過ぎませんが)、かろうじてヨーロッパ人の手になる、クラシックとジャズを融合させた音楽のなかに見出すことができます。次回はそれについて書きましょう。

倫理の起源29

2014年04月06日 01時31分19秒 | 哲学
倫理の起源29




 これまで書いてきたことから容易に想像されるように、私自身は、道徳の原理としての功利主義を高く評価したいと思っている。すでに述べたように、カントもニーチェもこのイギリス産の思想に対してひどく偏見と軽蔑心を抱いていた。しかし私たちはむしろここに、大英帝国の伸長期と最盛期に発達した現実主義的思想に対する、当時のヨーロッパ後進国・ドイツのコンプレックスを嗅ぎつける。世俗性に対する嫌悪、超越性や絶対性への固執、禁止と自己抑圧と犠牲的精神あってこその道徳的高邁さ、ドイツ観念主義のこれらの傾向には、多分にこのコンプレックスが作用していると思わざるを得ない(ただし同じドイツ観念論でも、ヘーゲルのそれは、功利主義思潮のよいところをきちんと取り込んでいる)。
 そこで次に、J・S・ミルの『功利主義論』がもつ可能性についてやや詳しく検討してみよう。
 言うまでもなく、功利主義は、人類の幸福を道徳の第一原理とする。その究極目的も、幸福の追求という一点におかれる。もちろん、幸福というとき、不快(不幸)や苦痛をできるだけ避けるというエピクロス的な原理がその重要部分として含まれている。
 ところが、まさにこの理由から、哲学上の主義主張の中で、「功利主義」という言葉ほど誤解にさらされてきた概念も少ないであろう。それはあるときには、利己主義と同じだとみなされ、またあるときには、効率だけを追求して人間性に反する冷たい考え方だとみなされた。ミルは、この両方に対してそれらを明らかな誤解として退け、この主義の世界観を画定しようと試みる。彼はこう述べている。

 功利主義が正しい行為の基準とするのは、行為者個人の幸福ではなく、関係者全部の幸福なのである。自分の幸福か他人の幸福かを選ぶときに功利主義が行為者に要求するのは、利害関係をもたない善意の第三者のように厳正中立であれ、ということである。(中略)この理想に近づく手段として、功利はこう命ずるであろう。
 第一に、法律と社会の仕組みが、各人の幸福や〔もっと実際的にいえば〕利益を、できるだけ全体の利益と調和するように組み立てられていること。
 第二に、教育と世論が人間の性格に対してもつ絶大な力を利用して、各個人に、自分の幸福と社会全体の善とは切っても切れない関係があると思わせるようにすること。とくに、社会全体の幸福を願うならば当然行なうべきだと思われる行動様式(中略)を実行することが、自分の幸福と切りはなせない関係にあることを教えるべきである。


 ちなみに、もともと、この主義に対する誤解のひとつの種は、ミルよりも粗野な形でその道徳原理を提出したベンサムにある。ベンサムはかの有名な「最大多数の最大幸福」というキャッチ・フレーズを打ち出し、人々の幸福は、個々の快楽を積み上げていくことによって、その量の多少を「計算」できると主張した。この主張が批判にさらされやすい理由は三つある。
 一つは、よく言われるように、最大多数という言い方をするなら、その多数者が共通に認める幸福のあり方を幸福と感じなかったり、むしろそれを不幸と感じる少数者の問題をどうしたらよいのか、という批判である。
 たしかにこれにはうまく答えられない。おそらくベンサムがこの言葉を思いついた時、「全員の幸福」などというあり得ない理想を謳うことに現実的な意味を感じなかったのであろう。そのための苦肉の策なのだろうが、ことは「原理」であるから、ただ「道徳が最終的に目指すところは各人の幸福にこそある」とだけ言っておけばよかったのである。
 もう一つは、そもそも「幸福(happiness)」という言葉のニュアンスが、道徳感情と相反するような個人的快楽への惑溺や個人的欲望の追求のイメージを呼び起こしやすいところにある。プラトニズムの悪しき禁欲精神をそのまま受け継いだカントがこういう傾向を体質的に受けつけないであろうことはすでに見た。またニーチェは、その骨がらみの貴族主義からして、低俗な輩の快楽主義や畜群道徳を軽蔑しながら、現世の肯定というテーマにとっては、芸術美への陶酔(最高の境地としての快楽)や力の支配といった観念にもとづく新しい道徳類型が必要であると考えざるを得なかった。その「引き裂かれ」の状態についてもすでに見た。
 しかし、じつは、この二人のドイツ人にしたところで、「あなた方はなぜそんなに倫理道徳問題にこだわって自説を発表しようとするのか」と端的に問われたら、「それは人類がよりよくなるべきだからだ」と答えるほかなかったろう。また進んで、「ではその『よりよい』とはどういう状態か」と問われたら、「人間として気高くなることだ」と答えるほかなかったろう。さらに進んで、「気高いとなぜよいのか」と問われたら、「その方が充実した生を送ることができるからだ」と答えるに違いない。ところで「充実した生」と「幸福な生」とどれほど違いがあるのだろうか。
 哲学の本質問題を「人はいかに生きるべきか」というテーマに視線変更したソクラテス以降のギリシア古典時代においては、プラトン、エピクロス、ストア派のゼノンなど、いずれも「幸福」であることを人間の最高の境地であるとする点では共通していた。ただ、何を「幸福」と考えるかで諸説に分かれただけである。
 ことにプラトンは、『ゴルギアス』でソクラテスにはっきり語らせているとおり、不正を加える方が不正を受けるよりも醜い、つまり不幸である、すなわち幸福とは、死の辱めを受けてもなお正しくあることなのだという、「幸福=正義」原則論を打ち立てている。これがプラトニズム特有の「偉大な」詐欺であり、普通の感覚や感情を転倒させたものであることは、すでに詳しく見たとおりである。
 私たちは、プラトンのように現世でみじめな目に合っても正義を貫くことこそが幸福であると考えるのでもなく、カントのように幸福が正義(善)と和解不可能に対立すると考えるのでもなく、さらにニーチェ(あるいはカリクレス)のように、強者の幸福こそが正義であると考えるのでもなく、むしろミルに倣って、正義の承認は幸福に至るための必要不可欠な手段であると考えるべきなのだ。

 ついでに付け加えると、日本でもこの思想は、きちんと検討されないままに、効率優先主義とか自己利益優先主義というニュアンスをもつものという誤解を受けている。その事情の一つに、「功利主義」という訳語の問題が一枚噛んでいると考えられる。
 原語のutilitarianismは、有用主義、役立ち主義とでも訳すべき言葉である。たしかにこう言っただけでは、だれにとって、何について有用で役立つのか、という疑問に対する答えは浮かび上がってこないかもしれない。そのため、短時間ですぐ使えるとか、個人の利益にだけ資するといった意味に受け取られやすい。しかし、もとよりこれはみんなの幸福にとって有用で役立つという精神だから、ニーチェのような偏屈な貴族主義者を除いては、だれも異論の余地がない考え方のはずである。ヨーロッパ哲学の伝統の中でこの思想が出てきたのには、高邁で崇高に見えてもじつのところ何の役にも立たない哲学者たちの観念論議に対する強力なカウンターの意味が込められていたのであろう。
「功利主義」という訳語は誤解をいっそう助長させる。功利とは、行為の結果得られる名誉や利益のことである。この概念からは結果としての報酬という意味しか浮かび上がらず、人類にとって役立つという本来の意味が消えてしまっている。
 ところがおかしなことに、普通の日本人の伝統的な生活感覚、商習慣、道徳心などのよいところを見ていると、近江商人の「三方よし」の精神のように、相手もしあわせ、自分もしあわせ、そして全体がうまく回っているという、まさに功利主義的な精神に貫かれているのである。「おかげさまで」「お役にたてれば」「少しばかりお手伝いさせていただきます」「お客様に喜んでいただけるのが何より」などのへりくだった言語感覚にもそれはよく現われている。
 べつに私はナショナリズムを昂揚させようとしてこんなことを言っているのではない。事実として日本人は長い間、功利主義的な現実を生き、生活の中でその精神を育ててきたのである。そのことにもっと自信をもつべきだと思う。ただ日本には、この精神をしっかり根付かせるだけの思想言語が不足していた。

 ところでミルは、道徳の第一原理は、科学におけるそれと同じように、証明不可能なのだとはっきり述べている。これはとても納得できることである。幾何学の精神に永く酔ってきた大陸系ヨーロッパ形而上学は、特にデカルトやスピノザに代表されるように、第一原理こそ、経験からの単なる帰納によらずに、純粋な論理そのものの必然的な帰結として「証明」されなければならないと考えてきた。
 だが、ユークリッド幾何学でも、はじめの出発点は証明不可能な「公理」として認められている。たとえば、「一直線上にない一点を通って、その直線に平行な直線はただ一つしか引けない」などがそのたぐいである。
 道徳の問題を考えるにあたって、何が「公理」として認められるかは、私たちが、私たち自身を含む人類史全体を見渡した時に、およそすべての人々の生の最大関心が、どういう概念によって括られるところを目指してきたか、という見通しのいかんにかかっているだろう。
 道徳の場合、もし人々の生の最大関心の目指すところが「幸福」であることを度外視して、それ自身の第一原理を探し求めるとすれば、どういうことになるだろうか。
 言うまでもなく、カントのように「普遍的法則への妥当」といった抽象命題を持ち出さざるを得ないだろう。ではそのうえで、ある法則が普遍的であるか否かをどのように判断するのか、と問われたならば、「歴史の中である法則は常にそうされてきた」とか、「人々は言葉にできなくても、生活上でその識別の目を備えている」といったように、経験の力によって説得するほかはないであろう。
 なお、カントのこの定言命題については、ミル自身がその空虚さを完膚なきまでに批判している。後に触れることにしよう。
 したがって、ベンサムやミルが幸福を道徳の第一原理としたことそれ自体はけっして間違っていず、「幸福」という主題は、依然として倫理学の枠内で最重要な案件なのである。
 ベンサムのキャッチフレーズが批判を受けやすい第三の理由として、「幸福」を「計算可能」な概念としてしまった点が挙げられる。この点は、ミルによって、幸福とは単に量的な大小によって測られるものではなく、質的な相違もあるというかたちで批判されている。
 ただしミルの言う「質的な相違」の概念は、ただちにさまざまな関心や欲望や行為の「価値の高低」という考え方を導きやすく、それはまた同時に、プラトニズム的な精神主義――目に見えない魂にかかわることほど崇高で、感覚で把握できる肉にかかわることほど下劣である――という考え方に取り込まれやすい。ミルは二千年以上ヨーロッパ哲学を支配したプラトニズムの枠内で「幸福」原理一般のために善戦しているが、私たちから見るとどうしても不徹底である。功利主義が反道徳的であるという非難に対する弁明のために、どこかでプラトニズム的な価値観にやや無理をしながらつきあおうとしている。
 この点について彼は、次のような面白いことを述べている。

 それでは快楽の質の差とは何を意味するか。量が多いということでなく、快楽そのものとしてほかの快楽より価値が大きいとされるのは何によるのか。こうたずねられたら、こたえは一つしかない。二つの快楽のうち、両方を経験した人が全部またはほぼ全部、道徳的義務感と関係なく決然と選ぶほうが、より望ましい快楽である。両方をよく知っている人々が二つの快楽の一方をはるかに高く評価して、他方より大きい不満がともなうことを承知のうえで選び、他方の快楽を味わえるかぎりたっぷり与えられてももとの快楽を捨てようとしなければ、選ばれた快楽の享受が質的にすぐれていて量を圧倒しているため、比較するとき量をほとんど問題にしなくてよいと考えてさしつかえない。

 ここで言われていることは、たとえば、十億円やるからお前の愛する人をおれによこせと言われても、けっして譲らなかったというような場合であろう。だが、このように言っただけでは、価値の相対主義を論理的に免れることはできない。
 ここでは、「両方をよく知っている人々」という言い回しがはさまれているのがミソである。この言い回しのなかに、いわゆる精神的な価値といわゆる物質的な価値との序列の意識がひそかに忍び込んでいる。智者、思慮深い人はその価値の上下についてよくわきまえているというわけだ。しかし、たとえばどんなに視野が広く経験豊富で知的に優れた男でも、きっかけ次第で、酒池肉林やひとりのつまらぬ女に溺れこんでしまう、つまりそちらのほうを質的に高い快楽であると判断してしまうことがあり得るのだ。
 たしかにさまざまな関心や欲望や行為による幸福の獲得には質的な相違があり、それらを抽象化して一律に「計算する」などできないことだが、質的な相違があるからといって、そのことは必ずしも、より高い幸福とより低い幸福といった、価値序列の確定には導かれない。
 私は、楽しくおいしい飲食をすること、素敵な異性と出会えて相思相愛の恋に落ちること、美しい芸術に出会って感動を味わうこと、お金を儲けて好きなものが買えること、人々の間で名声を博すること、自分の思ったとおりの品物が産み出せたと実感できること、これら、感覚をとおしてでなければ達成できない「幸福」感情を、それ自体で価値多きものとしてはっきり肯定する。これらを、たとえば、知りたいと思った知識を得ることができたこと、多くの人のためになったと実感できて満足したこと、自分の穢れた魂が信仰によって浄化されたと感じたこと、自分を超えた価値のために自らを犠牲に供して人間としての尊厳を示したこと、などに比べて、「幸福」の価値としてより低い序列に甘んじるべきだとはけっして考えない
 前者の一群が、とかくより低い価値をしかもたないと考えられがちなのには、理由がある。一つは、それらの幸福感が、転変常ないこの世の中で、束の間のものとして消えてしまいがちだということである。もう一つは、それらが利己的な動機にもとづいた自己満足の感情に終わっているように見えることである(実際はそうではないのだが)。そうして最後に、これらが、他者とのかかわりの中で生きる私たちにとって、しばしば人を傷つけ、結果的に自分を傷つける契機になりやすいことである。
 しかしだからといって、それらの価値が後者に比べて道徳的な意味で低いということには論理上ならない。また、後者の一群にしても、ただの思い込みの自己満足であったり、もっと大きな規模で人を傷つけたりすることがあり得ることを心得ていなければならない。
 もし、前者の一群が、現実生活、世俗生活に直接かかわるという理由で、はかなく終わってしまったり他者を傷つけやすかったりするのだとすれば、そうなってしまう社会的な原因をできるだけ取り除くにはどうしたらよいかについて叡智をはたらかせればよいのである。道徳が一役買うことができるのも、この叡智の賜物なのである。
 私がここで言いたいのは、ミルのように、快楽原理にもとづく功利主義道徳を説くために、「快楽」の質的な相違を持ち出して、「両方をよく知っている人」の選択によってより価値のある快楽とそうでない快楽を分けるというふうに、価値序列に結びつける必要はないということである。
 たとえば芸術美を味わうという快楽の内部において、審美的な意味での価値序列を考えることはできるし、それについて議論することもできる。しかし、そのことは、道徳的な価値序列とは関係がない。そういうことをしなくても、功利主義道徳は十分に成り立つ。その快楽の度が過ぎるといかに自分や周りを傷つけるか、人生を長い目で見たときに自分にとっても周りにとってもいかに得にならないかという尺度によって切り分ければよいのである。この尺度にもとづく切り分け方によって、ある快楽の形式(たとえば美食や贅沢や性的欲望や金銭欲や権力欲)は、それ自体はけっして悪いものでも低劣なものでもないにもかかわらず、過度に追求すると自分や周りを傷つけやすい傾向をどうしてももちやすいという判断が成り立つはずである。


*次回もJ・S・ミルを論じます。

小保方問題と佐村河内問題

2014年04月03日 02時16分56秒 | 社会評論
小保方問題と佐村河内問題





 4月1日、理化学研究所の調査委員会が、小保方晴子氏をユニットリーダーとする「新型万能細胞・STAP細胞」研究論文の重要部分に捏造(ねつぞう)と改竄(かいざん)があったと断定しました。
 みなさんご存知の通り、この論文は、1月末に、英国ネイチャー誌に発表され、生命科学の常識を覆す快挙として喧伝されました。その後外部からいろいろな疑義が提出され、一転して理研によって撤回の検討が表明されました。
 ほんの少しさかのぼりますが、「現代のベートーヴェン」とまで言われた「全聾の作曲家」佐村河内守氏が、ゴーストライターの新垣隆氏に「真実」を暴かれ、やむなく謝罪記者会見を行いました。
 私は、ほぼ同時に起きたこの二つの騒動が、いろいろな点でとてもよく似ていると直感しました。といっても、佐村河内氏と小保方氏が、同じインチキ男(女)だと決めつけたいわけではありません。ここにはそうした特定の個人に対する倫理的な非難・譴責(けんせき)の問題を超えた現代社会に特有な共通の問題が横たわっていると指摘したいのです。そうしてこれは、それぞれ個別のスキャンダルとして聞き流すだけでは済まされないきわめて深刻な文明論的問題です。その問題を一言で言うと、現代のマス情報の公開プロセスの構造には、公開した主体の善意・悪意のいかんにかかわらず、もともと根本的にマユツバ性が含まれているのではないかということです。
 結論を急ぐ前に、この二つの騒動の共通点を洗い出してみましょう。

①すばらしい価値があると褒め称えられた人や物事がたちまち疑惑の奈落に突き落とされた。
②主人公がセンセーションを巻き起こすにふさわしい社会的「しるし」を濃厚に帯びていた――佐村河内氏は重度の聴覚障害を持つ作曲家、小保方氏はうら若きリケジョ・カワイコちゃん科学者。

③クラシック音楽という高度な芸術性が期待される領域と、再生医療科学という最先端の専門領域で起きた事件のため、どちらも普通の人がそこでの営みの真価を判定しにくい。

④「人に受けたい」「価値を認めてもらいたい」という人間本来の衝動が急速なピッチで露出した。

⑤共同作業と分業と模倣と継承によってしか成り立たない仕事(あらゆる仕事はそうです)が、あたかも特定の個人の仕業であるかのごとくに把握されて、その個人が称揚されたり、貶められたりする。

 繰り返しますが、私はここで、両事件の主役のどちらか一方あるいは両方を、倫理的に非難したり擁護したりする意図を持っていません。ちなみに佐村河内問題の場合は、不十分とはいえ、本人がすでにインチキを認めていますから、このサイトで非難の追い打ちをしてもあまり意味がないでしょう。また小保方問題の場合は、理研の「不正認定」に対して、彼女自身が徹底抗戦の構えを示して近く記者会見をするそうですし、今回の理研の報告にはSTAP細胞そのものの存在可能性について触れられていませんから、現時点では判断を保留せざるを得ません。
 考えてみたいのは、特定の悪者捜しではなく、こういう事態を引き起こす現代社会の条件とは何なのかということです。

 私たちはいま、すごいスピードで流れる大量の情報を、自覚的な取捨選択の余地もなく消化しては排出しています。これが常態として習慣化すると、知覚や情緒や意志の脈拍もその流れに合わせて急テンポとなり、体は動かさなくても頭の中は絶えずあちこち走りまわっているコマネズミのようになるでしょう。知らない間にセンセーショナリズムの影響を受けてしまうのです。
 みなさんは、IT社会という情報洪水の環境の中にどっぷり漬かっていて、こんなことでいいのだろうかと感じたことはありませんか。私などは、もともと世事に疎く、周囲の状況になかなか適応できないたちで、パソコンを始めたのも人よりずいぶん遅れました。おまけに団塊ジジイなので、新しい情報技術や、その技術を支えている発想にすんなりとはついていけません。商売柄必要やむを得ず、こうしてブログなどを運営してはいるものの、若い友人のサポートがあって初めて可能となっているので、じつは相当無理をしています。
 コンピュータは、あれですね、ヒューマン・スケールをはるかに超えたキャパを持ってしまいましたね。先日も必要があって旅行情報を調べたら、画面に出てくる選択肢がまあ、やたらと多くて、何をどういう順序で選んでいいのかほとほと迷ってしまいました。ちょっとうっかりクリックすると後戻りできないヘンな迷路にハマってしまいます。そんなのどっちでもいいからこっちが必要としている情報を早く提供してくれよ!、と画面に向かって怒鳴りたくなりました。相手が人間だったら絶対こんなことないのに。……いや、最近は、人間もけっこうコンピュータに感化されているか。
 閑話休題、現代文明を考えるうえで、もっと大切な点は、産業構造の高次化によって、自然を相手に作物をじっくり作り出すような仕事よりも、人と人との関わりが最も重要視され、いかに他者に向ってうまく表現するかという課題に多大なエネルギーが注がれるようになったということです。プレゼンテーション、うまく言いくるめる説得術、コミュニケーションスキル、相手を傷つけないような(相手に気に入られるような)心づかい――何に従事するにしてもこういうことが不可欠な課題としてのしかかってくるのですね。先進社会の住人は、みな多かれ少なかれ一種の表現中毒にかかっています。この中毒をうまく消化できない人は、表現恐怖症になって、些細なことで適応障害を発症します。
 17世紀イギリスの思想家・フランシス・ベーコンは、人間が抱きやすい先入見、臆断、幻影を「イドラ」と呼んで、種族のイドラ、洞窟のイドラ、市場のイドラ、劇場のイドラの四つを挙げました。ウィキペディアから、あとの二つについて引いてみましょう。

市場のイドラ(伝聞によるイドラ)…ベーコンが「人類相互の接触と交際」から生ずるイドラとしたもので、言葉が思考に及ぼす影響から生じる偏見のことである。社会生活や他者との交わりから生じ、言葉の不正確ないし不適当な規定や使用によって引き起こされる偏見を指し、噂などはこれに含まれる。

劇場のイドラ(権威によるイドラ)…ベーコンが「哲学のさまざまな学説から、そしてまた証明のまちがった法則から人びとの心にはいってきた」イドラとしたもので、思想家たちの思想や学説によって生じた誤り、ないし、権威や伝統を無批判に信じることから生じる偏見のことである。思想家たちの舞台の上のドラマに眩惑され、事実を見誤ってしまうこと。


 現代のマスコミやネット社会に飛び交う情報が、私たちのまともな価値判断力を剥奪する状況は、まさしくこの「市場のイドラ」と「劇場のイドラ」にぴたりと当てはまりますね。
 こうした生き馬の目を抜くように激しく転変する市場型社会、劇場型社会で生活していると、本人が仮にそれほど意識していなくても、いつの間にかウソかマコトかを問う暇もなく、ともかく急いで名優としての演技を演じて見せるように急かされます。
 しかも観客のほうも同じ目まぐるしいマス情報社会の流れの中にありますから、何が信じるに値する価値であるかを判断するだけのゆとりが与えられません。呆然としつつ、ただ面白い見世物を次々に求めるようになります。それを素早く見せることができた者が競争に勝つ。本当に価値があるかどうかは二の次という空気が醸成される。

 話を佐村河内問題と小保方問題に戻しましょう。佐村河内騒動の場合、人々は、「障害」と「ヒロシマ」と「震災」といういかにも情動を揺さぶる現代日本のマジックワードにまんまと乗せられました。彼(じつは新垣氏)の手になる音楽そのものが、そんなに感動に値するものなのか、だれもまともに評価の声を挙げません。付帯条件による先入観(イドラ)のために、多くの人が無自覚に感動したフリをする結果となる。一蓮托生、現代では、観客もまた俳優です。
 小保方問題の場合は、発表論文に数々のずさんさやパクリや間に合わせの跡が指摘されていますが、これもまた、表現中毒の一例です。世はまさにコピペ時代、私の勤務する大学で単位認定のためにレポート課題を出したら、相当多数の学生がネット丸写しでした。罪悪感なんて感じていないらしい。この感じていないというところがいかにも現代的です。感じろと叱りつけても無理でしょう。もちろん全員、落としましたけどね。
 いっぽうで「個の創造の素晴らしさ」がもてはやされながら、実態は俳優も観客もこぞってまがい物に近い見世物を共同制作しています。そういう時代なのです。だれもこの妖怪めいた力から逃れることはできない。ならば、この公開されたマス社会のマユツバ性という事実をひとまず受け入れるほかはない。誤解を恐れずに言えば、演技者はけっしてインチキを見破られないようなテクニックを磨けばよいのです。だれにも(自分自身にも)絶対にインチキを見破られないなら、論理的に言ってそれは「真実」なのです。真実とは、だれもが納得する物語の創造ということです。
 小保方問題に関して、公式の言論は、科学の信頼回復、信頼回復と叫び続けています。しかしこういうことを叫び続けて正義漢ぶっている人たちは、公開された社会表現のなかに、客観的な「事実」とか「真実」とかいったものがあらかじめ絶対に存在するという素朴な前提に立っているのです。この前提を疑わずに「信頼、信頼」とあまり言うと、この言葉自体がなんだかとても安っぽく聞こえてきます。「信頼」という大切な言葉は、秘められた内々の人間関係のためにとっておきましょう。