小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

シンポジウム 「2015年の安倍政権を占う」 開催!

2014年09月27日 14時10分15秒 | お知らせ
シンポジウム 「2015年の安倍政権を占う」 開催!


   三橋貴明氏         藤井聡氏           柴山桂太氏

Voice特別シンポジウム『2015年の安倍政権を占う』

●日時:11月4日(火)19:30~21:30

●会場:PHP研究所東京本部
 アクセス:http://www.php.co.jp/company/map.php

 
●パネリスト:三橋貴明(経済評論家)
         藤井聡(京都大学教授)
         柴山桂太(滋賀大学准教授)

●司会:小浜逸郎(評論家)

●入場無料

●詳細は、PHP研究所「Voice」編集部 03-3239-6220まで 

倫理の起源47

2014年09月25日 19時13分09秒 | 哲学
倫理の起源47


 デイヴィッド・ヒューム

5. 個体生命

 一九七七年に起きたダッカ日航機ハイジャック事件では、当時の総理大臣・福田赳夫が「一人の生命は地球より重い」という名言(迷言)を吐いて、犯人の要求をすべて呑んだことで有名になった。個体生命にかかわる倫理は、「いのちの大切さ」などと呼ばれて、他の何よりも優先されるという観念が一般的である。個体生命倫理は、この世に身体を持つ誰にも適用される抽象的性格を持っているので、この正当性自体に疑いが持たれることはあまりなく、この倫理に反する意志や言動、たとえば大量殺戮などは、ただちに非難されるのがふつうである。
 しかし、この論考で繰り返し言及しているように、人間生活の現実は、しばしばある倫理が他の倫理と解決困難な形で矛盾しあう局面を示すことがある。また、実際に個体生命の喪失にかかわる事態ではなくても、自己や他者の生命を衰弱させたり心身に危害を加えたりする人間の意志や言動はいくらでもあり得る。しかもそれらは、必ずしも明確な悪意に基いているわけではない。
 したがって、個体生命尊重の倫理は、それだけとして無傷で成り立たせることが容易ではない。そうした解決困難な問題について考察するために、まず、この個体生命の尊重という倫理が、私たちの生活のなかでどのように具体化しているかを、身近なところから追いかけてみよう。
 まず、意外に思われるかもしれないが、私たちは日常的な人間づきあいを通して、「よい性格」とか「いやな性格」とかいった区別の感覚を施しつつ生きている。じつはこの区別の感覚のなかに、個体生命倫理がすでに織り込まれているのである。
 ある人を「よい性格」と評価する場合に筆頭に挙げられるのは、「やさしい」ということであろう。恋愛や結婚の相手を選ぶ場合に、どういう条件を重んじるかというアンケート調査では、いつの時代にも、この「性格がやさしい」がトップを占める。
「やさしい」とは何か。人の気持ちをよく理解し、思いやりが深く、自分をゴリ押しせず、柔和で寛容であり、必要な時にその人のために力になってあげるということであろう。これは、せんじ詰めれば、他者一般の心や身体や人格、そして生命を大切にしているというところに行き着く。つまり「よい性格」という時の「よい」とは、個体生命倫理を身につけているということなのである。反対に「悪い性格」としてトップを占めるのは、冷たい奴、残酷な奴、自分勝手で人を人とも思わない奴、などであろう。
 次に、私たちは、親しい人々、知人友人の安否や健康を気遣うことが多い。この気遣いは、「気をつけて」「お元気で」「大丈夫?」「お体大切に」「どうぞご自愛ください」「ご多幸をお祈りしています」など、挨拶や儀礼のかたちで習慣化しており、それほど本気で気遣っていない場合でも、表現として頻繁に用いられる。
 これはつまり、それぞれの生命を尊重するという人倫精神が、人間生活のなかに根付いている一つの証拠である。たとえただの形式であってもその力は生きている。いやむしろ、そのような形式こそが人間関係を円滑に運ぶ有力な手立てであることを私たちがわきまえているという事実が大切なのである。
 実際に困っている人に親切にしてあげたりする場合には、なおさらである。自分を犠牲にしても人を救った時には、美談として大いに語り継がれる。
 また、命や健康にかかわる職業、医師、看護師、介護士、消防士などが、その社会的待遇に関してはさまざまであるにしても、一般的に言って尊敬に値する職業とみなされていることは疑いないだろう。逆に言えば、医療従事者に対しては、それだけ社会の倫理的なまなざしが厳しいわけで、少しの失敗も許されないという了解が成り立っている。医療過誤は発覚すれば大きなニュースとして取り上げられる。
 また私たちは、死者に対して哀悼、哀惜、鎮魂の念を抱くのがふつうである。憎んでいた人が死んだので心の中で「ざまあみろ」と思っていたり、あまりにも厄介をかけた人が死んだので「やっとすっきりした」と思ったとしても、それを、死の直後にあからさまに口に出す人はあまりいず、厳かな顔をして告別の儀に参加するものだ。極悪人が死刑に処せられたときにも、読経がなされ線香があげられ、み霊よ安らかに眠れと祈りがささげられる。
 死者を弔うのは人間だけだが、この弔いをするという行為のうちには、人間である限りひとしなみにその個体生命が尊重されなくてはならないという人倫感覚が生きているのである。
 さらに私たちは、自殺、殺害死、事故死、夭折、突然死などをその人にとっての特別の不幸とみなす習慣を身につけている。たとえ、もっと生きていてもよいことはなかったかもしれないという合理的な想定が成り立つような場合でも、そういう理屈は、まず感情が受け付けないだろう。その人が「急にいなくなってしまった」ことに対する私たちの驚き、織り成されている共同性からの個体の脱落に直面した時の私たちの寂寥感、虚脱感は、ほとんど身体的なものである。それは、私たちのそばにだれかれが生きてあるという単純な事実そのものについての尊重の思いを、裏側から証明するものに他ならない。
 またこういう例を挙げることもできる。私たちは、多く未来を持つ者、すなわち赤子や子どもや年少者、また未来の生を生み出す者、すなわち女性の生命の存続を優先させる習慣を持っている。
 これは、必ずしも子どもや女性がか弱い存在だからではない。弱いか強いかという尺度をヒト種族のあれこれに単純に当てはめることはできない。「いざとなると女は強い」とは、よく聞かれるセリフである。また、死が近づいている弱り切った老人よりも、壮健な若者や元気いっぱいの子どものほうが優先的に生き残るべきだという判断が健全だと感じるのは私だけではあるまい。
 だから、弱い存在ほどその命が尊重されるべきだというのは、理屈としては正しいように思えるが、必ずしも私たちの倫理感覚に適合しているわけではないのである。若者が特攻隊などで死んでいった事実にことさら悲哀の感情が集まるのも、可能であったはずの余命の長さが消滅してしまったこと、送られるべきであった豊かな人生が踏みにじられたことに対する悔しさが残存するからであろう。
 こういう場合には、強い弱いが命の尊重の基準となっているのではなく、前途の可能性が基準となっているのである。子どもの場合にも、単に「弱くいつくしむべき存在」という観念によってその命の尊重の度合いが根拠づけられるのではなく、そのほかに、明らかにこの「前途の可能性」の観念が優先順位を決めるのに与っている。
 戦争時における、戦闘員と民間人との区別、つまり、敵兵を殺すことはやむを得ないがたとえ敵国人でも後者を殺すことはより罪が重いと考える私たちの習慣も、無辜の生命に対する尊重の念の表れである。看護や救済が国境を超えて容認され、むしろ称えられさえするという事実や、捕虜殺害や捕虜虐待が戦争犯罪として弾劾されるという事実は、「人道的見地」なる感覚が普遍的に生きていることを示している。もちろん、こうした感覚が実際に守られるかどうかは、この際問題ではない。戦場ではどんな残虐もあり得るというのは、さんざん見せつけられてきた歴史的な事実である。
 かくして「ヒューマニズム」の倫理は、完全に実現可能な理想や思想のかたちで存在するのではなく、むしろヒト属としての私たちの身体感覚として、すなわち一種の共同性感覚ともいうべきものとして存在する。どんなシニシズム、スケプティシズムと言えども、この感覚としての存在を否定しきることはできない。

 しかしながら、個体生命尊重の倫理が、他の何をおいても無条件で受容できるかといえば、それにはさまざまな疑問符が付くだろう。福田赳夫が言ったように、本当に「一人の生命は地球よりも重い」と、どんな場合にも言い切れるだろうか。
 まず第一に、この倫理には、ただ生き永らえることが素晴らしいのではなく、いかに良く生きるかこそが問題なのだという認識が媒介されていない。これはソクラテス以来の最も重要な哲学問題だった。
 だからたとえば現代では、医学によるいたずらな延命措置に対して批判的な人が多く、安楽死の是非をめぐって倫理的な議論が盛んである。先進国の主流は安楽死肯定のほうに傾きつつあるようだが、それでもリヴィングウィルを自ら書くという人はまだまだ少数派である。これはおそらく、自分はいま生きているという自覚のうちに、将来にわたる継続への無意識的な期待が本質的な条件として入り込んでいるからであろう。自殺しようと思い決めた人ですら、強盗にいきなりナイフを突きつけられたら本能的に殺されることを回避しようとするだろう。どうすれば「よく生きる(死ぬ)」ことができるかを考えるためにも、一定の期間は意識を持って生きていなくてはならないのである。
 また、自分を超えた「何者か」のために命をささげることは、一般に崇高な生き方、すなわち「よく生きること」として称揚されることが多い。「祖国のため」「正義のため」「愛する者たちのため」エトセトラ……。これは、エゴイズムや強欲や生への醜い執着に対する対抗命題として便利だからである。
 しかしじつは私自身は、こういう抽象的な表現が好きではない。「何者か」に殉ずることがなぜ気高いことなのか、その合理的・普遍的・積極的な理由を見出し難く、それゆえに、この観念はしばしば美学的な惑溺を呼び起こすからである。犬死も時には美化され正当化される。それを避けるためには、少なくともどんな具体的状況のもとに、どういう「何者か」に対して命をささげることが尊いと言えるのかが、はっきりと規定されなくてはならない。だがこの問題も倫理学にとってたいへん重要なので、公共性の倫理について論じるときに、再び取り上げることにしよう。

 さて個体生命尊重の倫理が無条件に受容できない第二の理由は、これに最も端的に対立する思想、すなわち優生思想を完全に克服できるかどうかが疑わしいという点にある。 優生思想と聞けば、ただちにナチス・ドイツの所業が連想され、口にするさえ忌まわしいタブーのように考えられている。だがこれは、ある極端な歴史事象だけを取り上げて、それをただ忌まわしいタブーとして囲い込み、自分たちはそれとは無縁だと目を背けておけば済む問題だろうか。私たちは日々の生活において理性と感情との両方を駆使しつつ、じつは多かれ少なかれ「優生思想」を、それと自覚せずに実践しているのではないか。
 たとえば、妊娠期間中に、胎児の障害の有無を調べることができる出生前診断は今日当たり前のように行われているが、これは一種の優生思想とみることはできないだろうか。
 また、仕事や教育において、能力の劣った者は冷遇されたり排除されたりする。これは、劣弱なものはそれだけ社会で生きる資格が少ないと判断していることを意味するから、突き詰めればやはり優生思想であろう。
 ある雑多な集団が共通の災難に遭った時などに、そのなかで「立派な人物」や「優れた人物」や「リーダー格の人物」の生命が周囲から優先視され、特別に救助の手が差し伸べられる行為が容認されるとすれば、それは一種の優生思想である。
 プラトンの『クリトン』において、クリトンが獄中のソクラテスを密かに助け出すべく手はずを整えて、彼にしきりに脱出を勧めたのも、単なる友情から出た仕業ではあるまい。クリトンは「この偉大な人物を死なせてはならない」と固く決意したのであって、相手がただの囚人だったら平気で無視しただろう。
 さらに、さまざまな社会的差別、いじめや集団リンチなどを根絶することはほとんど不可能である。それは、人性のなかにもともと自分の存在を何らかの集団にアイデンティファイせずにはいられない心理が構造的に含まれているからである。ある人が特定の集団に帰属することは、すなわちそれ以外の個人や集団を自分とは違う種族としてカテゴライズすることを意味する。そうして、両集団が生活のなかで接触しつつ、かつその間に強弱や好悪を根拠づけるに足る明確な表徴があれば、それだけで差別やいじめの必要条件はそろったと言えるのである。これも明らかに優生思想に結びつくだろう。
 このように言ったからといって、私は、これらの「日々の実践」をすべてなくすべきだという理想を述べているのではない。これらのなかには、健全とすら言えるもの、仕方がないと承認するしかないもの、などが含まれている。要は程度問題なのである。じつは先に述べた、弱った老人よりも壮健な若者を、男よりも女子どもを、といった選別の意識も、考え方次第では一種の優生思想なのである。

 さらに、個体生命尊重の倫理が無条件に受容できない第三の理由は、この倫理には、「現実の生は辛さや苦しさや煩悩がつきものだ」という認識が媒介されていないという点である。
 誰しも人生の途上で、いったい自分は何のために生きているのだろうという問いに遭遇する。これは、思春期、青春期などに、さしたる現実的な苦痛も伴わずに純粋に哲学的な問いとして訪れてくることもあるが、より多くの場合には、いまの生活そのものの空虚感、周囲に受け入れられないことからくる絶望感、不幸な事態の連続、強制や過労、終わってしまった過去を振り返った時の悔恨、自分の能力に対する自信喪失などの、情緒的な負荷を伴っている。
 こういう情緒的な負荷を背負いながら生の意味や目的を問うている人にとって、ただの抽象的な個体生命尊重の倫理は、ほとんど無力であろう。

 さらに最後の理由として――これが最も重要なのだが――、一般に人は、個体としての時間的・空間的な限界から逃れられないので、誰しも自分に近しい人の命のほうが、遠い人のそれよりも大切に感じるという傾向を明確に示す。人類愛とか博愛などと理想を述べ立てても、そういう題目は、現実の生のなかでは容易に実現されない。
 もちろん、理想に向かって努力することは可能だし、現にその名に値するような業績を示した偉人も数多くいた。しかし同時に、人は性愛関係や仲間や同志を作り、これらに属さない人々をよそ者として位置づける。そうして条件次第では、自分の仲間以外の者たちに対して敵意をむき出しにし、互いに殺し合いの闘争にまで発展させることがある。多くの場合、闘争するに足る確固たる理由があるのではなく、まさに仲間と非仲間とを区別するからこそ闘争するのである。
 しかもこれもまた、人性として自然なことと考えなくてはならない。そのように人間の現実を見ないで、個体生命尊重の倫理だけで事足りると思いなすことは空疎である。
 空想的な理想を嫌った穏健な懐疑主義者のヒュームは、『人性論』のなかで、次のように述べている。

 まったくの純粋な人類愛、つまり各個人の地位、職務、自分自身との関係といったものとかかわりのない人類愛のような情念は人間の心にはない、ということである。たしかに、どんな人間でも、また実際、どんな感受力のある存在でも、その幸、不幸がわれ われの身近に置かれて、生き生きとした色合いで示されるときには、ある程度われわれ の心を動かすのは事実である。しかしながら、こうしたことはただ共感からのみ起こるのであり、人類へのそういう普遍的な愛情の証拠にはならないのである

 ヒュームもまた、「共感」の存在を認めていた。しかしそれは、「幸、不幸がわれわれの身近に置かれる」ことを条件としていた。ある種の共同体感覚ともいうべきものを私たち人類は確かに身体的にそなえてはいるが、それが現実化するのは、常に具体的な、限定された条件下においてなのである。
 以上のようにして、個体生命尊重の倫理には、本質的な限界があるということが明らかとなった。


*次回も個体生命倫理について論じます。

ちょっと勉強しましょう(SSKシリーズその9)

2014年09月22日 21時54分42秒 | エッセイ
ちょっと勉強しましょう(SSKシリーズその9)



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

【2013年5月発表】
 ここ数カ月、柄にもなく政治問題、経済問題に首を突っ込んでいろいろなところに寄稿しています。TPP交渉参加問題、アベノミクスのゆくえ、エネルギー問題、「一票の格差」違憲判決、国会議員の定数減らしの是非、憲法改正問題、英語公教育のあり方等々。
 世はネット社会で、資料集めには事欠きません。知人からの素早い情報提供もあります。ネット社会には弊害もありますが、この点に関してはまことにありがたいことです。数か月間のにわか勉強で、へえ、そうかと思うことがいくつかありました。そこでさっそく知ったかぶりをして、みなさんにいくつかクイズ。

【第1問】国債の金利が0.6%から1%の間を乱高下していると言われていますが、90年代初頭には何%だったでしょう。

【第2問】TPPの参加国は当初どことどこ。

【第3問】運転停止中の浜岡原発(出力約360万kw)が産みだせる電力を太陽光発電で賄うとすれば、どれくらいの面積が必要でしょう。

【第4問】人体に無害と科学的に保証されている放射線量は年間何シーベルト以下でしょう。

【第5問】国会議員を半分に減らした場合、公費のうち何%節約できるでしょう。

【第6問】日本国憲法の草案作りに最も深くかかわったGHQのケーディス大佐(当時)は、30年後に憲法がそのまま生きている事実を知って、何と言ったでしょう。

【第7問】(これはみなさんの判断を問う問題)1票の格差は与党の0増5減案によって2倍未満になりますが、これについてどう思いますか。

 では解答。
【第1問】8%。
 いま騒いでいる範囲の何と10倍ですね。マスコミの騒ぎに惑わされず、常にズームを引いて大局を見ましょう。

【第2問】チリ、ブルネイ、シンガポール、ニュージーランドの四か国。
 GDP合計は日本一国の15%に及びません。超大国アメリカが突然割り込んできて自国の一部企業に有利な条項をつけ足して引っ掻き回しています。

【第3問】山手線内の総面積の3倍。
 メガソーラーにはそのほかいろいろな問題があります。

【第4問】100ミリシーベルト。
 原発事故当時の政府が決めた避難基準の20ミリシーベルト以上はバカげています。もちろん、今はこれよりはるかに低くなっています。

【第5問】たった0.3%。
 議員数(人口比)は現在でも先進国中でアメリカに次いで低く、これ以上減らすと国民の意思が政治に反映されなくなる危険がきわめて大きい。

【第6問】「えっ、まだ変えていないのか!」
 この言葉で現憲法が占領統治のための暫定措置にすぎなかったことは明瞭です。

 総じて私たちは、少し調べればわかることをサボって感情と印象だけで判断を下しがちですが、今はそういう危険を克服できる時代です。マスコミが作りだす空気に支配されないよう、ぜひ気をつけましょう。なおここに掲げた問題について私自身がどう論じているかについては、本ブログ、美津島明ブログ「直言の宴」、及び以下の雑誌その他にアクセスしてみてください。

美津島明編集「直言の宴」:http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/arcv

月刊『Voice』2013年6月号

人気サイト「ASREAD」の定期投稿者になりました。

2014年09月22日 13時19分52秒 | お知らせ
人気サイト「ASREAD」の定期投稿者になりました。

月2回掲載される予定です。ご期待ください




第1回目は、「いま裁判員制度の是非を問う」です。
http://asread.info/archives/1123

裁判員裁判による「求刑越え」判決は、5年間で43件。率で言って普通の裁判の何と10倍です。
これは近代司法制度の「人民裁判」化につながらないでしょうか。

ご関心のある方はどうぞ。

倫理の起源46

2014年09月17日 16時19分03秒 | 哲学
倫理の起源46



 さてそれでは、こうした職業倫理は、他の原理との間にどんな関係を持つだろうか。それらは互いに矛盾することはないのだろうか。
 これを考えるには、職業共同体と家族共同体との関係、職業共同体と国家共同体との関係の二つに焦点を合わせることが求められるが、ここでは、前者のみについて考察し、後者については、「6.公共性」の項で述べることにする。

 先に、人間社会においては性愛(エロス)に基づく共同性と、労働に基づく共同性とが互いに相容れず、それぞれの共同性の活動領域(時間と空間)を明確に分けるところに社会秩序が初めて成り立つということを述べた。この性愛に基づく共同性が社会的承認を得て(婚姻)、それが次世代を生みだすだけの時間を孕んで展開したときに家族共同体が成立する。これは一般に「私的領域」としてとらえられ、それ以外の公共的な世界との対比で論じられるのがふつうである。
 たとえば古代ギリシアでは、「家」あるいは単独の集落は「オイコス」と呼ばれ、村々の結合体である「ポリス」とは明確に区別された。そうして前者は夫婦、子ども、奴隷によって構成される領域であり、そこでは一単位ごとの生計が営まれる。オイコスとはエコノミー(経済)の語源でもあり、それぞれの「家政」は、ポリスにおける公共的な政治とはまったく次元を異にするものとして考えられていた。いわば「女子ども」の世界である。この概念区分が「私」と「公」の線引きに重なるものである。
 ちなみにこのわかりやすい二分法には、もともと伝統社会特有の差別感覚が随伴している。すなわち「私」は「公」よりも価値の劣る領域として軽蔑されるのである。たとえば、すでに触れたように、プラトンの『ゴルギアス』では、カリクレスが靴屋や肉屋を例に出すソクラテスに業を煮やして、「自分はそんなくだらないことを言っているのではなくて公共的な問題にかかわる話をしているのだ」と述べる場面が出てくる。
 この差別感覚は、現代で社会について考える人たちの間にも根強く残っていて、「私」=ネガティヴな意味でのエゴイズム、「公」=エゴイズムを超えたより気高い精神の世界というバイアスで論じられることが多い。このバイアスは、しばしば思想から経済問題への関心を奪う作用を果たしてきた。ために、多くの言論人は、経済問題(経済学ではない)を軽視したり、経済がわからないのに経済について誤った一家言を弄したりする弱点をさらす。その結果、おかしな経済学の流れが我が物顔にのさばって、政治によくない影響を及ぼすといった傾向が助長されてきたのである。困ったことである。
 ところが近代社会になると、実際には、公的・私的というこの単純な二分法を用いて人間社会を考察していたのでは不十分だという感覚が一般的になる。古典的な言葉による切り分けが、有効ではなくなってきたのである。
 事実、すでに紹介したように、和辻哲郎は、『倫理学』のなかで幾重にも同心円的に広がる「人倫的組織」を措定しているが、そこで彼は、それらのより隠されたものとより公開的なものとの質の違いに注目するとともに、ある組織が私的であるか公的であるかは比較相対的であるということを示した。たとえば「家族」は「夫婦」に対しては公的であるが、「親族」や「地域」に対しては私的であるというように。
 また彼は、公的=より崇高、私的=より下劣、といった価値審級を無原則に採用してはいない。私もこの点に関しては和辻に賛同するが、これについては倫理思想として非常に重要な問題を含むので、後にまとめることにしよう。
 さて、近代社会はたいへん複雑多様な構成を持つに至ったが、大ざっぱな点で誰もが認めざるを得ないのは、都市と産業社会の発展によって、一部の農業や自営業者を除けば、「オイコス」としての私的領域それ自体が「家」の領域と「職」の領域とに分裂して、後者がしだいに土着性を喪失したという点であろう。大多数の労働する人間は、家から工場や会社まで「通勤」するようになるのである。
 だから、たとえば経済学でも、経済活動をする組織を三分して、家計、企業、政府とするような理解の仕方が一般的に受け入れられている。和辻のひそみに倣って言えば、ある職業組織は、家族共同体に対してはより公的であり、しかし経済社会一般や国家に対してはより私的であるということになる。
 この歴史的観点を踏まえて、職業倫理と家族倫理との関係について考えてみると、両者がなかなか重なり合わず、往々にして対立矛盾するさまがよく見えてくる。同一の人間が二つの質の異なる共同性をまたいで生活するのだから、そのモードの違いに基づく倫理性もまた、時には克服不可能なほどに相対立するのが当然と言えるだろう。
 わかりやすい例を挙げると、男性の企業戦士が仕事に熱中して、妻をないがしろにしたり、家庭や子育ての問題を妻に任せきりにしたり、というケースがある。「仕事、仕事って、私と仕事とどっちが大切なのよ」というのは、昔からよく聞かれる女性のセリフである。昔気質の無口な職人なども、一日中仕事にばかり打ち込んで、家庭生活に関心を払わず、女房に愛想をつかされる(諦められる)というパターンが多い。
 ちなみに、この矛盾葛藤は、恋人どうしでもしばしば悶着の種となる。男性は一般に仕事中毒になりやすく、女性はエロス関係を大切にする。デートの約束をしておきながら「ごめん。いまちょっと手が離せないんだ」と断りを入れるのはたいていの場合男性である。そこには実際にやむを得ない場合が多々あるだろう。しかし以下は私の個人的な信条だが、彼が本当に彼女のことを好きならば、万難を排しても彼女との出会いを優先させるべきである。そうでないと、女性は男性の態度を見慣れたあげく、彼のうちに自分に対する不誠実を見て、「あの人は仕事を口実に使っている」と判断するようになるからである。
 企業戦士は、もちろん職業倫理に忠実に生きているのである。有能な者ほど重用されて、そのことのために責任も重くなり持ち場を離れることが許されないという事態も生じる。こうして職務に忠実であればあるほど、プライベートな時間は奪われるから、夫婦、家族共同体の人倫を全うすることが難しくなる。出稼ぎ労働、単身赴任、海外勤務、命のかかった仕事、などともなればこの問題の深刻さはいっそう際立つだろう。「離れていても心は一つ」などというのは、涙ぐましい言い聞かせというべきで、現実はそう簡単ではない。妻に対する裏切りや家庭放置の機会も増えようというものである。
 また、ことに近年では、育児期の女性も社会に出て働く傾向が顕著となり、保育所の整備や育児休業制度の浸透が課題として提起されている。だが、ここにはあるイデオロギーが、疑われることのない前提として幅を利かせているために、人々の関心が、誤った問題解決の方向に導かれがちである。
 そのイデオロギーとは、女性が社会に出て男性並みに働くことが無条件に良いことなのだという考え方である。フェミニズムと産業界は結託してこのイデオロギーを支えている。しかしこのイデオロギーは、結局のところ育児期の女性に無理を強いる結果となっているのである。
 この種の矛盾、つまり二つの人倫精神の分裂の問題は、近代社会の根本的な構造に根差しているので、私人への頑張りを強いるような精神論によってはけっして解決できない。また保育所の整備といった対処療法的な政策にも限界がある。なぜなら、こうした精神論や政策は、「働け」イデオロギー(この言葉は、ユング心理学者の林道義氏によるもの)の支配から脱却できていないからである。
 そこにこそ経済問題への真剣なまなざしとエネルギーが注がれるべきなのである。つまり、大多数の人がそこそこ裕福に暮らすことができて、毎日ゆとりをもって家庭生活と仕事とを両立させ得るようになるには、どんな経済思想や経済システムが必要とされるのか、どんな経済思想や経済システムは排除すべきなのかといった問題が議論されなくてはならないのである。この議論は、まさに公共性としての人倫精神にかなうものである。

これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(18)

2014年09月13日 02時07分03秒 | ジャズ
これからジャズを聴く人のためのジャズツアーガイド(18)


 前回、ヨーロッパのジャズをご紹介して、あと1回でこのシリーズはいったん締めることにすると予告してから、何と3か月たってしまいました。読んでくださっていた方には深くお詫びいたします。
 いろいろな他事にかまけていたことも事実ですが、一番の理由は、自分なりにこのシリーズを閉じることに未練があって、なかなか手をつけられなかったという点にあります。もちろん趣向を変えて再開するつもりでいることはすでに前回予告してありますが、それとは別に、あのモダンジャズの栄光の時期について一応の総括を試みることそのものが、私自身に独特の感傷を強いてくるのです。それは、思い出のいっぱい詰まったアルバムを見て楽しんでいたのに、閉じなくてはならない時間が来た時の感傷に似ています。
 音楽そのものはちゃんと残っているのですからいつでも再現できるので、これはまったく身勝手な感傷にすぎません。でも、あの何人もの天才ジャズメンの短い活躍期にできるだけ寄り添って書いてきたつもりなので、彼らの演奏活動を追体験していると、ついジャズの歴史のはかなさそのものに同期している自分を見出してしまいます。その自分があえて幕引き役を演じることに何となく躊躇と抵抗を感じるのですね。
 しかし、やはり帰らぬ人々やものごとに対しては、それにふさわしい仕方で手を合わせるのが真っ当なやり方というものでしょう。

 以下、次のように記事を進めます。
 モダンジャズの隆盛期を1950年代半ばから60年代前半までの約10年弱と見立て、もう一度、そこで活躍したジャズメンたちを呼び返してみたいと思います。これまで、名前だけ紹介しながら演奏を紹介しなかった人、また一度紹介したジャズメンのアルバムから拾わなかったけれど、やはりこの演奏を捨てるわけにいかないと感じられる曲、などをここで取り上げることにします。
 次に、この短期間における奇跡としか言いようのない芸術現象のかけがえのない価値について少しばかり語ってみようと思います。
 それから、少し哀しい話をします。私は個々のジャズメンの人生についてはほとんど知らないのですが、この天才たちの多くが、まるでジャズシーンそのものの短命に重なるように早く死んでしまっているという事実について語ろうと思います。主なミュージシャンの生没年と年齢を掲げてみましょう。

 それでは、1952年から2、3年おきに発表された、歴史に残る名曲を紹介します。
 まずモダンジャズの生みの親とされるチャーリー・パーカー(as)の『ナウズ・ザ・タイム』から、「ナウズ・ザ・タイム」。彼のオリジナルです。
 この曲は、1952年から53年にかけて録音されたものと思われます。パーカーの絶頂期は40年代とされていますが、ビバップからより洗練されたモダンジャズへと移行した段階を理解するには晩年の演奏のほうがよいでしょう。この時期の演奏では、彼のソロの湧き出るような奔放さがよくあらわれ、後のジャズメンの演奏につながる要素が直接感じられます。彼のフレーズを聴いていると、コルトレーンエリック・ドルフィーの力強さを連想させ、いささかも古さを感じさせません。

Now's the Time - Charlie Parker


 次に、25歳で夭逝したトランぺッターのクリフォード・ブラウン
クリフォード・ブラウン&マックス・ローチ』から「ジョイ・スプリング」。この曲はクリフォードのオリジナルですが、ミディアムテンポであることによって、ソロの部分に彼の演奏の特徴がじつによく出ています。というのは、彼はアップテンポの曲では、きわめて指と口を早く動かして歯切れの良さを表現するのですが、スローバラードでは、フレーズの節目を息長く伸ばしてヴィブラートを効かせ、とても抒情的な雰囲気を演出します。この曲では、その両方が楽しめるのですね。
 パーソネルは、ハロルド・ランド(ts)、リッチー・パウエル(p)、ジョージ・モロー(b)、マックス・ローチ(ds)。1954年の録音です。クリフォードとリッチーは、この2年後に同乗していた車による交通事故で世を去ります。

05.Clifford Brown & Max Roach - Joy Spring.


 次は、やはりソニー・ロリンズの大ヒットアルバム、『サキソフォン・コロッサス』から「モリタート」を紹介すべきでしょう。『三文オペラ』の主題曲で、「マック・ザ・ナイフ」として有名です。ロリンズはこの演奏で、豪快さとユーモア、親しみやすさと冒険心など、彼の持ち味を存分に発揮しています。トミー・フラナガンの美しいソロも聴きものです。パーソネルはほかに、ダグ・ワトキンス(b)、マックス・ローチ(ds)。1956年の録音です。

Sonny Rollins - Moritat (1956)


 次に、以前紹介したハイヒールをはいた女性の脚のジャケットで評判になった『クールストラッティン』から、「ブルー・マイナー」。これはピアニスト、ソニー・クラークのオリジナル曲で(タイトルテューンの「クールストラッティン」もそうです)、彼のリーダーシップによるアルバムですが、ソニーの明快な演奏もさることながら、ジャッキー・マクリーン(as)のソウルフルな演奏、上品なアート・ファーマー(tp)のソロも聴きもので、リズムセクションのポール・チェンバース(b)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)に支えられて、じつに息の合ったプレイが楽しめます。1958年の録音。

Sonny Clark - Blue Minor


 最後に、再びビル・エヴァンスに登場願いましょう。
 何十年もの間、一、二を争う人気を誇ってきた「ワルツ・フォー・デビィ」、同名のアルバムからです。1961年6月25日、ニューヨーク、ヴィレッジヴァンガードでのライブ録音。すでに紹介した『サンデイ・アット・ザ・ヴィレッジヴァンガード』と同日の演奏で、その姉妹版です。二枚組の完全版も出ています。パーソネルは、もちろんあのスコット・ラファロ(b)、そしてポール・モチアン(ds)。
 このシリーズを閉じるにふさわしい、不朽の名作と言えるでしょう。どうかじっくり聴いてくださいね。

Waltz for Debby


 さて、いささか私事を語ることになります。
 このシリーズの初めにも書きましたが、60年代前半といえば、私の中学時代から高校時代に当たっており、ちょうどジャズを聴きはじめたころでした。渋谷、新宿、横浜などのジャズ喫茶で、しきりとこの隆盛期の曲がかかっていたのです。ですから日本でこのようにモダンジャズを聴きまくることが流行したのは、実際にそれらが演奏された時期とは数年ずれていたことになります。結果的に、私は偶然にも、その隆盛期のジャズのシャワーを浴びる恩恵に浴したのでした。スイング・ジャーナルというジャズ専門誌がよく売れ、毎月買って新譜の情報や批評家たちの座談会と解説、日本のジャズメンの楽器別ランキングなどを読み漁ったものです。
 そのときは、こういう流れがずっと続くのだと思っていました。けれども、そうではありませんでした。多くの天才たちが次々に死に、モダンジャズそのものが運命を衰退させていきます。あの渋谷道玄坂界隈に密集していたジャズ喫茶はしだいに消えてゆき、ラブホ街に様変わりしてしまいました。音楽を聴くためだけの店というのはほとんどなくなり、ジャズを聴かせる店は、いまたいていはお酒や料理のサービスとセットで経営されています。
 これはクラシックも同じで、当時は、「田園」「古城」「白鳥」「ライオン」などというクラシックを聴かせる喫茶店がいくつもありました。カテドラルのような外観に、かび臭い店内。ビロード製のソファに腰かけると、不思議と気分が落ち着いたものです。ある時そこの一軒で、シェイクスピア翻訳家の小田島雄志氏がしきりにペンを走らせているのを見つけました。彼は喫茶店で執筆するので有名です。
 渋谷の「ライオン」は今もあるのかな。ちなみに、以前にも書きましたが、横浜は野毛、日本で一番早く開店したジャズ喫茶「ちぐさ」は、一時閉店しましたが、最近、場所を少し変えて復活しました。またJRお茶の水駅すぐ近くの「NARU」という店は、日本のジャズメンが連日出演する本格的なライブハウスです。
ちぐさ:http://noge-chigusa.com/jazz/
NARU:http://www.jazz-naru.com/
 こういうお店は、いつまでも残ってほしいと思います。とはいえ、残念ながらかつてのジャズ喫茶文化が衰退したことは否定すべくもありません。
 いっぽうでは、往年のジャズメンのかつての名演奏が高度な再生技術を通してCDなどの形で次々に復活するようになります。これは個人生活が豊かになったひとつの証左ではあるでしょう。名演奏をじっくり聴きたければ、安価で高度な音質のCDを買って、個人で聴けばいい。
 ところでこの事実がジャズ史的には何を意味しているのかお分かりですね。
 つまりは、あの短い栄光の時期に表現された一連の音楽が、見事に古典化されたということなのです。その証拠に、いまレストランや料理屋でBGMとして聞こえてくるジャズは、すべてこの時期に確立されたスタイルのものであって、フリージャズなどは絶えてありません。モダンジャズ以前のビッグバンドも衰退してしまったようですね。
 もちろん、街で耳にするジャズこそが古典として残った唯一のモードだと言い張るつもりはありません。耳に心地よい大衆受けする部分が切り取られているのだとみなすことはできます。これは歯医者さんやエステなどでモーツァルトばかりがかかっているのと似ていなくもないですね。
 多少真剣に(あるいはマニアックに)ジャズを聴いている人たちは、個人のレベルで、変貌以後から死の直前までのコルトレーンや、アルバート・アイラーや、オーネット・コールマンや、セシル・テイラーを追求しているのかもしれません。しかし、こうした演奏家の音楽は、一部のファンを除き多くの人の共感を呼び起こすことはできていません。
 これらの傾向は、それに先立つ数年間にモダンジャズが頂点を極めてしまったので、その先に抜け出ようとすると、どうしても人口に膾炙しえない難しい隘路に入り込まざるを得なかったことをあらわしています。それはちょうど、クラシック音楽で、バッハからドビュッシー、ラヴェル、チャイコフスキーくらいまでが、普通のファンに受けるぎりぎりの幅で、それ以後の、バルトーク、コダーイ、マーラーなどがとっつきにくい領域として感じられているのと同じです。
 私は、芸術が広く大衆に受け入れられて定着してゆく事実とかけ離れたところで、何か難解で高尚で、摂取に骨の折れる意味ありげな芸術性のようなものが、それだけで価値が高いとするような考え方を認めません。バルトークその他がかろうじて芸術的意義を持つのは、それ以前の古典派、ロマン派の音楽の膨大な蓄積があり、それが大きな感動を呼んで今なお聴衆の耳になじんでいるという事実を前提とする限りにおいてです。すでにやり尽くされてしまったその蓄積があるからこそ、それを土台として初めて、それだけでは近代人の複雑な感性を表現しきれないのではないかというモチベーションがはたらきます。結果的に現代音楽のような方向性が一つの止むにやまれぬ克服と探求の道として出てくるのだと思います。
 しかしそれらの探求が、クラシック音楽の歴史の中で、かつての古典派、ロマン派(バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ショパン、チャイコフスキーその他)に匹敵するような確実な地歩を確立することは、おそらくもうないでしょう。
 同じことがジャズについても言えます。オーネット・コールマンやアルバート・アイラーが、絶頂期のマイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、ビル・エヴァンス、ソニー・ロリンズ、マックス・ローチ、フィリー・ジョー・ジョーンズ、ウィントン・ケリー、レッド・ガーランド、ポール・チェンバースらがこぞって作り出していたあの雰囲気とスタイルを乗り越えて復活・定着するなどということはあり得ないと私は断言します。そしてその雰囲気とスタイルこそが、いまだに受け継がれて、現代ジャズミュージシャンたちの演奏の基本的なモチベーションを生み出しているのです。それが、モダンジャズが立派に古典化したということの本来の意味です。
 酒場で聴こえてくるジャズがそろいもそろってこの時期のスタイルを踏襲したものになっているのは、それが大衆にとって安直で聴きやすいからではありません。多くの人の美意識に素直に訴えてくる優れた音楽スタイルだったからこそ、大衆の中に浸透し定着していったのです。

 それでは、50年代半ばから60年代前半までの間に活躍したジャズミュージシャンのうち、このシリーズに登場した有力メンバーの生没年、年齢を書き記すことにしましょう。

  プレイヤー             生没年     年齢

  ブッカー・リトル(tp)       1938~1961    23
  クリフォード・ブラウン(tp)    1930~1956   25
  スコット・ラファロ(b)       1936~1961    25
  ソニー・クラーク(p)       1931~1963   31
  リー・モーガン(tp)        1938~1972   33
  ポール・チェンバース(b)    1935~1969   33
  チャーリー・パーカー(as)    1920~1955   34
  エリック・ドルフィー(as,bc,fl)   1928~1964   36
  ウィントン・ケリー(p)       1931~1971   39
  ジョン・コルトレーン(ts,ss)    1926~1967   40
  バド・パウエル(p)         1924~1966   41
  キャノンボール・アダレイ(as) 1928~1975   46
  ビル・エヴァンス(p)       1920~1980   51
  レッド・ガーランド(p)       1923~1984   60
  フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds) 1923~1985   62
  マイルス・デイヴィス(tp)    1926~1991    65
  トミー・フラナガン(p)      1930~2001   71
  ジャッキー・マクリーン(as)   1931~2006   74
  レイ・ブラウン(b)        1926~2002   75
  ミルト・ジャクソン(vb)      1923~1999   76
  エルヴィン・ジョーンズ(ds)   1927~2004   76
  マックス・ローチ(ds)       1924~2007   83
  ソニー・ロリンズ(ts)       1930~      84(存命中)
 ―――――――――――――――――――――――――――――――――  
    平均                       51.4

 以上のとおりです。
 一見してわかるのは、40代までが異様に多く、50代、60代が少ないということです。また、その峠を越えた人は、けっこう長生きしているとも言えます。なお、現在のアメリカ男性の平均寿命が75~76歳で、1940年代生まれの人がそれくらい生きているということになりますから、やはり、かなり若死にが多いと言えるでしょう。
 ジャズミュージシャンの場合、麻薬常習の問題を原因の一つとして重要視しないわけにはいきません。 また、演奏に激しく情熱を傾けることも体に無理を強いる一因でしょう。さらに、不規則で乱脈な生活も関係していると思います。夭逝した人のなかには、事故死が何人かいますが、それも、飲酒や睡眠不足や疲労と無縁ではないように思います。
 芸術のために激しく燃焼し、命を代償にしても自己表現にすべてをかけざるを得なかった人々――ジャズの巨人たちの短い生涯のうちに、そうした哀しい法則のようなものの一端を見る思いがするのは、私だけでしょうか。
 しかし彼らはそのようにして私たちに不滅の音楽を残してくれたのです。いまは、彼らが、あの10年足らずの花火のような期間に、力を合わせて素晴らしい芸術の創造のために尽くしたその心意気に大いなる敬意を表しつつ、彼らの冥福を祈ることにしましょう。

 後には、なぜこのような信じられないことが可能となったのかという謎が残りますが、大きな背景として、この10年間は、二度の大戦に勝利したアメリカが、覇権国家として精神的にも物質的にも、最も力と自信を持っていた時期に相当するということと関係がありそうです。ヨーロッパに長い間文化的なコンプレックスを抱いてきたこの国は、この時初めて、自国独自の文化がある形で成熟するのを直感したのだと思います。ハリウッド映画の全盛期もこの時期に重なっていることを考え合わせると、ニューヨークを中心としたモダンジャズの成立という「事件」をそうした社会的背景に結びつけるのも、あながち牽強付会とばかりは言えないと思うのですが、いかがでしょうか。

道徳論議にだまされるな(SSKシリーズその8)

2014年09月08日 22時17分26秒 | 政治
道徳論議にだまされるな(SSKシリーズその8)



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

              
2012年9月発表
もう旧聞に属するが、漫才コンビ次長課長の一人が高額所得者にもかかわらず母親の生活保護給付をそのまま受給していて、国会で問題にされたことがあった。生活保護世帯の収入のほうが低賃金で一生懸命働いている人の収入を上回っている現状があるというのである。
 この事実に対する世間の大方の反応は、バラマキ政策に慣れて恥を忘れた日本人の現状を憂えるというものであった。たしかにこういう現状が存在する事実は、不公正であり困ったことである。しかし私は、その事実を上のような精神論的な非難で済ませることは、かえってその背景にあるもっと重要な事実を見えなくさせると思った。問題は、なぜこうした所得の逆転現象が起きるのかである。
 それは、打ち続くデフレ不況のために雇用が不安定となり、低賃金できつい労働に甘んじる人々が増えてしまったからである。だからこの問題を解決するには、政府がデフレ不況を克服する有効な金融政策や財政政策を打つことがぜひとも必要である。議論の焦点をそこに集中させなくてはならないのだ。
 自分の生活にとって有利な制度があれば、誰でもそれを最大限利用しようとする。私も税申告の時に必要経費として落とせると考えられるものはできるだけ算入する。生活保護を受けていたことが非合法でない限り、それを非難する資格は誰にもないと思う。
 こういう物の見方は大切で、たとえば先に消費税増税案が国会を通過したが、それに並行して、しきりに国会議員の定数削減とか、政党助成金の削減とか、国家公務員の強固な身分保障をなくせなどと叫ばれている。財政危機を克服するために国民に痛みを分け持ってもらう以上、為政者である自分たちがまず襟を正すべきだというわけである。
 一見筋が通っていて誰も反対する理由はないように見える。ところがここには巧妙な国民だましのトリックがはたらいている。
 まず、こうした一連の行財政改革で節約できる金額など、国家予算の規模に比べれば微々たるもので、財政危機を救う効果などほとんどないのである。
 次に、この政策は、高給取りの官僚や天下り官僚に対する国民の日ごろのルサンチマンのガス抜き効果を狙ったもので、自分たちと同じレベルに引きずりおろせばとりあえず増税に納得するという心理を利用している。
 だが議員の数が減り、政治活動のための潤沢な資金が与えられず、公務員の給料が落ちれば、当然、重責を担う人々の士気と使命感は衰え、行政サービスは行き届かず、結果的に国民の意志は政治に反映されなくなる。いまでも日本の国会議員数や公務員の数は、人口比で見れば先進国の中で図抜けて少ないのである。
 さらに言えば、そもそも日本の国家財政はマスコミが騒いでいるほど危機的状況などにはなく、またデフレ不況時に増税などしても税収増は全然期待できない。私たちはいま一番大事な問題から目をそらさせられているのである。
 一番大事な問題とは何か。政治家や官僚を多少優遇してもよいから、彼らに重責を自覚してもらって有効な景気対策を実行させることである。そのために責任を果たしていない無能な政治家や官僚の動向のチェックを怠らないことこそ国民のつとめである。
 
 

倫理の起源45

2014年09月01日 21時08分03秒 | 哲学
倫理の起源45



4.職業

 仕事に就くという営みは、誰にとってもその必要性が自明視されている。そうしてその意義が、衣食住の確保や年少者の養育や弱者の庇護という点に求められることも当然とされている。このことに疑いをさしはさむ余地はないが、これらの点だけで勤労の意義が満たされるかといえば、そうではない。
 人が働くことの意義は、人間が社会的動物であることと深く関連している。人と人とをその活動において結びつけるのは、広義のエロスと広義の労働である。繰り返しになるが、この場合、労働という概念のなかには、戦争や政治、それらについての合意形成の試みなども含まれる。
 こうした結びつきの繰り返しの中から言語が発達してくる。言語の発達はさらに労働の共同を促進する。労働の共同は、共同体の中で有形無形の生産物を生み出すための協業の過程についての合意を必ず伴っている。この合意が成立している状態では、時間的な意識の射程と空間的な意識の広がりとが集団のメンバー同士の間でともに一致していなくてはならない。この一致が成立している限り、人々が分業のアイデアを持つようになることは必然的である。そこで職業は分化していく。
 この分化が進んだ状態を、ひとりの主観的な立場からみなすと、特に自営業などの場合、一見、自分は他とは独立した個人として特定の職業に従事しているかのように感じられるが、それは間違いである。彼はある職業人として労働するために、身体の維持、道具や資材の獲得、時間と空間の確保、能力の養成、他者との取引などを必要とする。これらはみな、自分の属する共同体とのかかわりを通して得られるものである。最も独立していると感じられるのは、自分の身体であろうが、それも一定の時間のなかで維持されるために、食料資源その他を他者の労働によって提供されなくてはならない。さらに、ロビンソン・クルーソーのように一人で自給自足する場合でも、食料獲得の知識や技術だけはあらかじめ他者から伝授されていなくてはならない。
 また、職業は社会的分業のネットワークの上に成り立つのであるから、職業人の条件として不可欠なのは、自分の活動が「他者にとってのもの」として機能することである。自分の活動によってもたらされた財やサービスがただ「自分にとってのもの」として消費される場合、彼は職業を持っていないのである。まったく自給自足状態にある孤立した個人(ルソーが想定したような「自然人」)を仮定するとしても、そういう人を職業人とは呼ばない。
 すなわち、ある人がある職業についているということは、社会のなかでのある役割を分担することにおいて、彼が社会全体と関係を持っていることを意味する。彼がある職業人でありうるのは、ちょうど婚姻が日本国憲法の謳うような「両性の合意のみに基いて」成立するのではなく、周囲からの承認によって初めて成り立つのと同じように、社会からその事実を承認されることによってである。この関係は、彼の人格のあり方を深く規定すると同時に、彼の人生に具体的なイメージを与える。
 なお社会からのこの承認の証は、彼の労働に対する報酬(対価)のかたちで表現されるが、資本主義社会(市場社会)では、この大部分が金銭によってなされることは言うまでもない。しかし他の社会では言うに及ばず、資本主義の精神がとことん貫かれている社会でも、報酬がすべて金銭などの計量可能な物的対価によって表現されるのかといえば、必ずしもそうではない。感謝激励、地位の保証や新しい地位の提供、やりがいのある仕事の委託、財やサービスの享受者の数の多少、賞罰などが、彼の職業意識に大きな影響を与えるからである。
 ここに職業倫理というものを考えるための重要なヒントが隠されている。ちなみに生産財やサービスの享受者の数が多いからといって、それが金銭的な利益に直接結びつくとは限らない。たとえば偉大な科学技術の発明は、その恩恵に浴する人間の数が計り知れないが、発明者はそのぶんだけ利益を得られるわけではない。また公務員は、多くの人にサービスを提供しているが、給料は一定額に抑えられている。
 以上を要するに、職業倫理を支えているものは、それぞれの職業人の人格的な価値を相互に承認する社会の共同態的なあり方であり、逆に職業人が社会に投げ込む労働の表現や関心や熱意の総体が、その社会のあり方を動力学的に規定する。そもそも「職業」という概念自体が、自分の労働が自分のためにのみ営まれるものではなく、同時に一般的な他者「にとって」のものでもあるという理解のもとに成立するのである。この理解はまた、人間を共同存在として把握する基本的な理解にまっすぐ通じている。
 こうして、職業が要請する人倫性は、次のような特性を持つだろう。

役割にふさわしい技量を持つこと。それを持っていると評価されること
その技量を一定時間、熱心に集中的に行使して、他者の要求や報酬に見合うだけの財、サービスなどを提供できること
自分の職業に直接かかわる協業者との関係を円滑に運ぶこと。たとえば会社員であれば、同僚、上司、部下などとのかかわりに配慮すること
職分に応じた責任の自覚、責任を果たしえなかった時の身の処し方の自覚を持つこと
同業者とライバル意識を持つと同時に、それが単なる敵対関係ではなく、共感の培養の役割をも果たすこと。これは昔からどこの国にもある職業組合、同業団体などに典型的に表現されており、むき出しの競争だけでは内部崩壊してしまうことが自覚されている(もちろんこれらの団体は、外部との関係では、閉鎖性、排他主義、公共精神の欠如など、弊害をさらすこともある)。
享受者(顧客)の満足を誠実に追求すること。だれが享受するのかわからないような複雑な構造を持つ近代社会でも、この精神が要求される。

 以上列挙したことは、職業倫理として当たり前であると思われるかもしれない。事実当たり前なのだが、実態はこれらがいつも満たされているとはとても言えない。たとえば政治家やマスコミ人のなかにはその職分に応じた責任を果たさない人が多いし(④)、私の同業者である言論人のなかには、その役割の重さを自覚せず、バカなことを吹きまわって高額の報酬を得、しかもその地位を決して脅かされないような例が多い(①、②)。
 このおかしな(不当な)現象は、おそらく「言葉で商売する」という職業の特性に起因するのであろう。大工が床の傾いた家を作ったり、板前がまずくて食えない料理を作ったら、職業人としてたちまち失格の烙印を押されるのに、政治家やマスコミ人や言論人はそういう厳格さが相対的に少なくて済んでいる。ソクラテスはこの事実を、弁論術のいい加減さとして鋭く突いたのだった。
 この問題を追究していくと、なぜ言葉は言葉であるという理由だけで、権威を勝ち取ることができるのか、それは言葉というもののどんな特性に拠っているのかという問いに結びつくのだが、それは他の機会に任せよう。
 とまれ、上記のような職業倫理をきちんと果たしている人は、どちらかというと華々しい有名人よりも、名もない市井の地道な職業人、たとえば鉄道員、郵便配達人、バスの運転手、大工や板前などの職人、看護師、自衛官、消防士、等々に多い。いろいろ理由はあるだろうが、誰に対して何をどうするのかが具体的に限定されていて、役割のはっきりした職能であるという事実が、そうした好ましい社会的人格を生むのだと思われる。
 おそらくこの事実は、古今東西変わりがないだろう。そうして、この事実は、一般社会的な意味での「人倫」とか「善」とかはいったい何であるかという問題に対する一つの回答を提供している。すなわちその回答とは、繰り返し述べてきたように、平和で秩序の保たれた共同体のなかで歴史的に育まれてきた、よき生活慣習の体系こそが、社会的な人倫や善の精神の生みの親なのである。
 ではここで作用している人倫精神の究極的な(哲学的な)原理は何か。それこそは 功利主義原理(万人にとっての快や幸福を目的とする原理)である。
 たとえばここに、お店を持っているひとりのまじめな板前さんがいるとする。彼が職人として誇りを持てる最大の条件は、「いい店だ」という評判によっていつもお客が来てくれることだろう。この誇りを実現するために彼はどんなことに気をめぐらすだろうか。

・よい新鮮な食材を常に確保する
・自分の腕を常に磨く
・よい道具を選び、日ごろからそれを大切にする
・毎日を規則正しく勤勉に過ごす
・客の喜びそうなメニューを考える
・店の雰囲気づくりを心がける
・適切な従業員を雇う
・若手との息の合った協力関係と、彼らに対する適切な指導を忘れない
・客層の特徴をつかむ
・馴染みも新顔も大切にする
・時代の変化に敏感であろうとする
・適正な価格について考える
・他店をリサーチし研究する
・周辺地域との良好な関係を維持する

 まだまだあるかもしれないが、要するにこれら一連の配慮において、彼は自分の店を可能な限り「よい」店にしようとしているわけである。ところで見やすい道理だが、この「よい」とは、単に繁盛して儲かるという自己利益の意味だけに限定されるのではなく、客にとって「よい」と感じてもらうという意味を不可欠のものとして含んでいる。前者と後者とは、どちらを優先させるべきかといった二者択一的な問題ではなく、この店の「よい」が成り立つための一体不可分の条件である。こうした数々の配慮も結局は自分が儲けたいためだといったエゴイズム原理も、逆に、身を犠牲にしても客に奉仕すべきだといった道徳原理も、この「よい」を説明することができない。
 じっさい、あそこの店はうまいぞという評判が立って客が増えれば、彼はそのことに発奮してさらに右のような条件を満たそうと努力するだろうし、その努力が実れば、客はますます喜び、結果として店は繁盛するだろう。私たちは、このような発展の好循環そのもののうちに、彼の職業倫理がうまく実現しているのを見るわけである。
 職種によって、どういう部分に力を入れるかという点では様々な差異があるとしても、ここにはたらいている功利主義的な原理はあらゆる職業に共通であって、普遍的に成り立つ。「徳は得なり」――自己利益追求と職業倫理とは、本来矛盾しないのであり、矛盾する現象があまりに多いのは、自己利益追求者が人倫とのこの統一を忘れてしまうからである。
 しかも重要なことは、その統一の忘却が、単に彼の視野の狭さや幼さや道徳的欠陥といった個人的理由に起因しているというだけではなく(もちろんそうとしか言えない場合もあるが)、そのような忘却を促す社会構造的な原因、つまり共同体全体の政治経済的なあり方が大きく作用しているという事実である。よい職業倫理が生きるためには、ただ精神論をぶつだけではダメで、政治経済的なシステムのどういう特性(たとえば悪政や貧困)が人倫を荒廃させることになるのかという理性的な分析がぜひとも必要である。


*次回も職業倫理について書きます。