小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

鬼才ファジル・サイの魅力

2016年11月19日 00時43分02秒 | 音楽
      




 久々にクラシックコンサートに行ってきました。ファジル・サイ ピアノ・リサイタル。 なんとオール・モーツァルト・プログラムです。

11月17日(木) 19時開演 紀尾井ホール
【プログラム】
ピアノ・ソナタ第10番 ハ長調 K.330
ピアノ・ソナタ第11番 イ長調 K.331「トルコ行進曲付き」
 休憩をはさんで
ピアノ・ソナタ第12番 ヘ長調 K.332
ピアノ・ソナタ第13番 変ロ長調 K.333
幻想曲 ハ短調 K.475

 数年前、私の実家の近くの神奈川県立音楽堂で、音楽に詳しい友人のOさんと一緒に初めてファジル・サイの音楽に触れました。曲名は忘れましたが、最後に彼自身が作曲した曲が演奏されました。これがじつに独創的で面白く、しかもそこに出身国トルコのトルコらしさといったものが感じられたので、とても楽しい演奏会でした。私も含めて、観客は興奮し、万雷の拍手とともにスタンディングオベーションで終わりました。
 トルコらしさと書きましたが、別にトルコ文化に詳しいわけではありませんし、行ったこともありません。ただ思うのは、この国が古来、ヨーロッパ、アラビア、中央アジア、ロシアなどが出会う地点に位置していて、民族的にも宗教的にも政治的にもさまざまな要素が混淆した複雑な歴史を閲してきたという事情についてです。この事情からして、そこに独特の文化的特性があるに違いないと想像するわけです。それはひとことでまとめるなら、フュージョンそのものが国民性の根底をなしていると言ったらよいでしょうか。
 じっさい、あの時の自作自演の曲は、何とも言えない不思議な世界を開いていて、西洋的とかオリエンタルとかアラビア風とか、一定の様式やジャンルといったものに分類できないところが印象的だったのです。これには彼が現代人としてグローバル世界に住んでいて、さまざまな音楽のスタイルからインスピレーションを得ているといったことも関係しているでしょう。
 あのファジル・サイが、彼自身尊敬してやまないモーツァルトを弾くという。どんなふうに弾くか、とても興味深かったのです。
 今回のリサイタルですが、私の席は2階バルコニーの右側、つまり彼の顔を真正面から見下ろせる位置でした。チケットを取った時にはあまりいい席ではないなと思ったのですが、座席につくやいなや、こんなにいい席はないと気づきました。何しろ表情や手ぶり身振りがすぐ近くで見られるのです。
 さて演奏が始まりました。その演奏ぶりは期待に違わず、いや、期待以上に独創的で迫力に満ちたものでした。緩急、強弱、曲想の変わり目での変幻自在さ、低音部の力強さ、カデンツァの即興性、激しい音の奔流。聴いていて、これは本当にモーツァルトか? と疑いたくなるほど、それはファジル・サイの音楽になりきっているのです。言い換えると、モーツァルトという素材を借りて、ファジル・サイがいま、ここで自らの表現を心ゆくまでほとばしらせているのでした。ところどころミスタッチかな? と思える時がありましたが、そんなことは全然問題ではありません。
 しかも、表情、身振り手振りを見ていると、彼がいかに自分の音楽に没入しているかが如実にわかります。右手だけのパートでは、自分に向かって指揮するように左手を振ります。緩徐楽章では自ら酔うように体を鍵盤から引き離して瞑目します。その時々の曲想に合わせて顔をゆがめたり、上下左右に体をゆすったり、うっとりとした恍惚感を表情に出したりします。そうして何人かのジャズメンたちのように、弾きながらたえずかすかに口ずさんでいます。それがまったく邪魔にならない。つまり彼の音楽は、全身で表現し、その場で創造する音楽なのです。それは「唄」そのものであり「舞踏」であると言ってもよいでしょう。
 一方彼は聴衆に対しては笑顔などのサービス心をあまり表さず、挨拶も簡単でその態度はそっけないといってもよい。また概して楽章と楽章との間にほとんど間を空けません。あの「コホン、コホン」という咳払いの暇がないのです。いわば自分自身の「ノリ」にあくまでも忠実に弾くのです。
 これは好き好きというもので、感情過多であるとか、ひとりよがりだといった批判の余地があるかもしれません。型にはまった謹厳実直な演奏を好むクラシックファンからは、「不良」の烙印を押されるかもしれません。しかし私自身は、彼の「ノリ」にすっかり惹きつけられ、小さなライブハウスでジャズを聴いているときのような一体感を味わいました。興奮し、感動しました。その「不良」性を丸ごと肯定したいと思いました。
「これは本当にモーツァルトか?」と書きましたが、演奏後に余韻を反芻するうち、逆に、やはりこれこそが本当に「モーツァルト」なのだと思うようになりました。というのは、モーツァルトは、古典派後期に属するために、その記された楽譜の面ではたしかに古典的な秩序を大きく逸脱してはいませんが、おそらく実演の場では、即興性の妙味が大きな価値を持っていたと考えられるからです。当時は一回的な生演奏が記録されて後世に残ることを誰も予想していませんから、それだけ、はかなく消えてゆく「このいまの素晴らしいひととき」が限りなく尊重されたと思うのです。
 事実、ファジル・サイ自身が次のように語っています。
http://globe.asahi.com/meetsjapan/090608/01_01.html

 クラシック音楽の演奏から個性がなくなっている。最近では、本来、即興的に独奏される協奏曲のカデンツァも、演奏全体の解釈も、他人まかせになっている。これは間違っている。クラシックのピアニストがいくら技巧的に演奏しても、それだけではまったく興味を感じない。

 ベートーベンやモーツァルトでさえも、即興的な作曲家だった。シューマンは、毎日のように即興演奏を自分の生徒に聴かせていた。彼らは当時(自分の曲を)キース・ジャレットのように演奏したはずだ。

 ピアノに向かって、5歳のときから作曲してきた自分にとって、作曲するとは「構想すること」であるとともに「即興演奏の延長」でもある。いい曲は書き残さなくても、演奏すれば、覚えてしまうものだ。

 かなり挑発的で過激な発言のように見えます。しかしこの発言は、彼の演奏そのものの的確な自己批評になっています。発言と演奏との間に浮ついた隙がないのです。同時に、これこそが、もしかすると「音を楽しむ」ことの原点を表わしているのかもしれないと思いました。特に若いころからジャズ(モダンジャズ)に親しんできた私にはよく納得のいく発言です。そしておそらく、モーツァルトがこの発言を聞き、ファジル・サイの演奏を聴いたら、「そうだ、そうだ!」と共感を示すのではないでしょうか。
 歯医者などでBGMとして小さな音量で流れるいわゆる「モーツァルト」は、人の心を和らげる優しい優雅な音楽としてだけ機能しています。もちろんその機能を否定はしません。でも一日、「ナマなモーツァルト」に接した瞬間を私は決して忘れないでしょう。それはあのいわゆる「モーツァルト」とはまったく別の何かでした。
 アンコールでは彼の変奏によるトルコ行進曲をあっさり弾いて、さっさと引き上げていきました。演奏してほしかった「《キラキラ星》の主題による変奏曲 ハ長調 K.265」をここに掲げておきましょう。
Fazıl Say -Mozart- Ah vous dirai-je maman (Twinkle twinkle little star)


 蛇足を一つ。最初の曲、K.330の第一楽章は、私の娘が小学校5年の頃、ピアノ発表会で弾いたことがあり、それをレコードにしてもらったのですが、いつの間にかどこかに消え失せてしまいました。ファジル・サイの最初の音を聴いた途端、当時を思い出して懐かしい気持ちが込み上げてきました。言うも愚かなことですが、ファジル・サイの演奏と娘のそれとはそもそも比較するにも及びません。でも今回のリサイタルの始まりが、私的なあの思い出と重なったことによって、これだけ記録技術、複製技術が発達した今日でさえ、「音楽とは消え失せていくもの。だからこそそれに永遠の憧れを抱く値打ちがある」という真実の再認識につながったこともまた偽らざる事実なのです。私の好きなジャズマンの一人、エリック・ドルフィーが、あるアルバムの中で、こうつぶやいています。
"When you hear music, it's gone in the air. You can never capture it again."