小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

『八月の鯨』について

2016年06月22日 00時31分40秒 | 映画



 ふた月に一度くらいの割合で、仲間どうし集まって映画鑑賞会をやっています。題して「シネクラブ黄昏」。別に高齢者が多いからこの名をつけているわけではありません。ウィリアム・ワイラーの名作にちなんだのと、黄昏時に上映するという二つの理由からです。特定の一人が持ってきたDVDやVHSをみんなで鑑賞し、終わってからあれこれ語り合います。
 この会には、規則というほどのことはありませんが、一応次のような取り決めがあります。
①上映担当者は事前に何を上映するかを知らせてはいけない。
メンバーは当日まで知らないので、見たことのある映画を見させられるかもしれませんが、昔見た映画をもう一度見ると、また違った感興を味わえるので、けっこういいものです。
②上映者は、なぜこの映画を持ってきたのか、その思いをみんなの前で語る。一分でも三十分でもOK。
③上映者には、次回の上映者を指名する権利が与えられる。

 さて、前回たまたま私が上映者となり、リンゼイ・アンダースン監督、リリアン・ギッシュ、ベティ・デイヴィス主演の『八月の鯨』(1987年)を上映しました。この作品は、日本では昔岩波ホール創立20周年記念の時に公開され、異例のロングランを続けたそうです。私はずいぶん後になってからたまたまテレビで見て、すぐにVHSを買いました。
 これまで何度か見ていますが、このたび改めて鑑賞し、その傑作ぶりを再確認しました。メンバーの中にも昔見て、いま見ると感慨がひとしおだと言ってくれた人がいました。
 二人の主演女優は、ご存じのとおり、往年のハリウッド名女優です。作品ではリリアンが妹サラ、ベティが姉リビーを演じるのですが、ベティはこの時79歳、リリアンはなんと93歳です。14歳も年が違って、しかも姉妹関係が逆なのですね。無声映画時代からのスターだったリリアンの演じるサラは、なんと表情豊かでかわいいこと。そして悪女から女王、愛らしい女、つつましい女まで多彩な役柄でハリウッド女優界を席巻してきたベティが、この映画では、死におびえるいじけた老女を演じます。
 じつはこの会を始めてからもう7、8年になるでしょうか。最初の会にも私が上映者だったのですが、その時、あの恐ろしい『何がジェーンに起こったか』を上映したのです。この映画でジェーンを演じたベティ(54歳)の残酷さに戦慄した人なら、『八月の鯨』でのその変貌ぶりに驚かされるでしょう。大女優というのはすごいものですね。

 見ていない人のためにあらすじを紹介しておきます。この映画は、ネタバレしたからと言って、けっして観る価値が減るわけではありません。

 希望にあふれた娘時代、メイン州の美しい海岸を臨む叔母の別荘に滞在したリビーとサラの姉妹は、友だちのティシャから沖合に鯨がやってきた知らせを受けて急いで近くの断崖にまで走り、夢中になって双眼鏡でそれを見ます。
 ほどなく二人はそれぞれ結婚しますが、サラは第一次大戦で早くに夫を失い、リビー夫妻の下に15年間御厄介になります。やがてリビーの夫も亡くなりますが、彼女は娘とはウマが合わず、結局姉妹は二人で暮らすことになります。冬はフィラデルフィア、夏になると、今ではサラが所有者である別荘で過ごす生活が15年続いています。白内障ですでに失明しているリビーはサラに生活の面倒を見てもらっています。リビーは身辺が不如意なためわがままが高じてきて、このごろは死のことをしきりに口にするようになっており、サラの心にいっそう暗い影を落としています。
 ガサツな音をたてて大きな声を出す修理工のヨシュアが、別荘からじかに美しい海岸が見られるようにと、大きな見晴らし窓を作るようにしきりに勧めるのですが、サラにはその気があるのに、リビーは首を縦に振りません。
 近所の数少ない知り合いの中にロシアからの亡命貴族である高齢男性のミスター・マラノフがいます。彼はアメリカの市民権がないため人の家に居候しながら転々として暮らしています。つい先日、居候先の女性が亡くなったばかりです。サラは彼の釣った魚を料理してもらうことを条件にディナーに招きます。サラはこの紳士に好感を抱いていますが、リビーは、「ドブで釣った魚など食べたくない」と嫌味を言い、ディナーの時間が近づいてくるのになかなか着替えようとしません。
 やがてマラノフが正装して訪れ、料理をしつらえます。サラは入念にお化粧し髪をアップに整え、とっておきのドレスをまとってマラノフの前に現れます。「どうかしら」と可愛いポーズを取るサラに対して、マラノフは「ラヴリー、ラヴリー! とても素敵ですよ」と褒めたたえます。リビーがようやく着替えを終えて部屋から出てきます。きれいな白いテーブルクロスの上に二本の燭台。料理が運ばれて食事が始まります。
 マラノフが、亡命生活の話をいろいろと聞かせるのですが、話がつい先ごろ亡くなった居候先の女性のことに及んだ時、リビーが、自分たちのところに身を寄せようとしているマラノフの魂胆を見抜き、それは断るとはっきり言って、せっかくのディナーの雰囲気をぶち壊してしまいます。月が波間をキラキラと照らしているベランダで、サラとマラノフとがしばしの時を過ごした後、マラノフは寂しそうに去っていきます。
 その日は奇しくもサラの結婚記念日だったのでした。マラノフが去った後、サラは夫の遺影を前にしながら、ワイングラスを二つ置いて、ひとりだけの結婚記念日を祝い、短かった結婚生活を偲びます。でもリビーのことがどうしても気がかりです。
 そのときリビーが悪夢にうなされ、部屋から出てきて「私たちには死神がついている」と言って彼女に縋りつきます。サラはうんざりです。
 翌朝になり、リビーは昨日のことを謝りますが、二人のこじれた仲はほぐれず、別居の話になります。サラは冬もここに残ると言い、リビーは娘のところに身を寄せると。
 しばらくしてティシャが親切のつもりで不動産屋を連れてきます。勝手に別荘の値踏みをさせるのですが、サラはここを売る気はないときっぱりと断ります。ティシャと不動産屋が帰った後、リビーが部屋から出てきて、いまのは誰かと聞くと、サラは一部始終を話します。リビーの心が次第にほぐれてくるのがわかります。修理工のヨシュアが道具を忘れたと言って訪ねてきた時、リビーが突然、見晴らし窓は今からなら二週間後の労働者祭までにできるかと聞きます。びっくりするサラ。ヨシュアがいぶかしそうな顔で「できることはできるけど、作らないと言っていたじゃないですか」と聞くと、リビーは、二人で相談して決めたのだと答えます。サラは黙ってうれしそうに微笑みます。
 やがて二人は、仲良くあの鯨が見えるかもしれない岬まで散歩にでかけます。断崖から海を臨みながら、リビーが「あれは来るかしらね」と聞くと、サラが「もうみんな行ってしまったわよ」と答えます。リビーは「それを言ってはダメよ、わからないわよ(You can never tell it.)」と繰り返します。鯨が姉妹にとってずっと生きる希望のメタファーだったことを観客に悟らせて静かに作品の幕が閉じられます。

 この映画では、カメラはほとんどが別荘のリビングに固定され、上で述べた二人の数十年のいきさつは、すべて語りの中で行われます。話はわずか一夜をはさんだ二日間の淡々とした流れを追いかけているだけなのですが、非常に緻密で繊細な心のドラマが展開されていることがわかります。英語も大変わかりやすく、一つ一つのセリフが詩句のように綴られています。最後のリビーの決めゼリフによって、全体が締めくくられ、観たものの心に文学的・哲学的感動が深く沁みとおってくる仕組みになっています。死におびえていたリビーは、サラとの仲直りによって心穏やかとなり、二人でこれからも生きつづけていくことにかすかな希望を見いだすのですね。短い映画ですが、ここには平凡な人生のすべてが折りたたまれているという感じがしみじみと伝わってきます。
 筆者がこの映画を見て印象に残るーンはいくつもあるのですが、一つだけここで紹介します。それは、あの三人で食事を始める場面です。白いテーブルクロスとろうそくの光。正面にミスター・マラノフ、右にリビー、左にサラ。同じ日の朝、サラはマラノフに会っており、気安く会話したにもかかわらず、ディナーの時間には三人はきちんと正装して食事に臨むのですね。これを見て、古き良き欧米社会には、フォーマルなパーティーを通して男女が出会う機会を作る文化伝統があったのだなあと強く思いました。華やかな舞踏会から、小人数の社交パーティまで。
『八月の鯨』に描かれたような、こんなささやかなディナーでもその伝統が活かされていることが読み取れます。筆者は「ではのかみ」が嫌いですが、こういう所にはとても羨ましさを感じました。
 これに対して、日本では、男文化と女文化が分断されているように思えます。居酒屋でおだを挙げて日ごろの憂さを晴らす男たちと、レストランでランチしながら子どもの教育談議に花を咲かせる女たち。お互いに元気なうちはそれでもかまいませんが、居酒屋仲間がいなくなり、子どもが育ってしまえば、この分断文化の弱点が露出するのではないでしょうか。日本では、男女の何かの集まりには、読書会だの歴史散歩だの山登りだのといった何らかの口実が必要ですね。合コンがあるじゃないかという反論があるかもしれませんが、あれは若い人たち専用で、お見合い文化が廃れた代償として発生したものです。歴史も浅く、文化とはとても言えません。
 もし男と女をつなぐ(ほとんどそれだけを目的とした)文化が命脈を保っていれば、たとえどんなに老いても、そういう機会を自然に設けることができます。そうすればいま日本ではやりの孤独死(ほとんどが高齢独身男性で大都市に多い)も、少しは避けられるのではないでしょうか。高齢者の経済の安定や健康維持も大切な課題ですが、この高齢社会では、日常にときおり華やぎをもたらすような「男女縁結び文化」を新たに創り上げることがぜひ必要に思えるのです。


八月の鯨



*「シネクラブ黄昏」に興味を抱かれた方は、kohamaitsuo@gmail.comまでご連絡ください。ご案内を差し上げます。



トランプ=サンダース現象の意味するもの

2016年06月19日 09時33分24秒 | 政治
      






 米大統領選挙では、トランプ氏が共和党の正式候補に決まり、民主党では予定通りクリントン氏が確定しました。11月の本戦では、両者の一騎打ちということになったわけですが、この間の予備選挙期間を通じて際立ったのは、なんといってもトランプ現象でしょう。それに加えてクリントン氏の対抗馬であり社会民主主義者のサンダース氏の大健闘ぶりも見逃せません。
 わが国でははじめ、トランプ氏の数々のいわゆる「暴言」を対岸の火事のように考える向きが多かったようです。しかし、正式候補と認められるや、もし彼が本当に大統領になったら核保有までも含めた自主防衛を強いられることになりそうなので、にわかにうろたえる雰囲気が出てきました。自主防衛の覚悟と準備はできているのかといった論調が目立ちます。
 もちろんこういうシミュレーションは大事ですが、ここでは少し日本への影響という視点を離れて、このたびの大統領選が持つ意味を、アメリカの内政問題として考えてみましょう。

 まずトランプ氏の「暴言」は、初めからけっして暴言ではなく、アメリカの国内事情を考えるかぎり、多くの米国民の本音を代表するものです。
 たとえばメキシコからの不法移民の大量の流入に対して「万里の長城を築く」と言ったのは、実際にそう言っておかしくないほど国境を接する州での治安の乱れがひどく、麻薬の売買や強盗の頻発は半端ではないようです。しかも侵入する新たなヒスパニックは、ホワイトをターゲットにするよりも、むしろすでに米国籍を持っているヒスパニックに狙いを定めているそうです。ですからトランプ氏は、プア・ホワイトに支持されているだけではなく、在米ヒスパニックにも支持されています。
 またイスラム教徒に対する非寛容な態度も、人種差別撤廃という理想からすれば、一見忌むべき排他主義のように感じられます。しかし、ISに共感したホームグロウンによる相次ぐテロ事件などの実態が米国民にもたらしている衝撃のことを考えれば、その発言の出どころには十分な根拠があると言えます。もちろん、民族や宗教に対して一括して非寛容な態度を取るのは、理性的とは言えませんが。
 しかしテロは戦争の一種であって、戦争がそうであるように、テロ遂行者を道徳的に非難すれば片づく問題ではありません。少なくとも、ヨーロッパ(特にドイツやフランス)のように、域内にイスラム教徒との深刻な摩擦を抱えながら明確な解決策も打ち出せないままにきれいごとを言い続ける欺瞞性に比べれば、トランプ氏の主張は、ずっと正直だとも言えます。
 さらに韓国や日本に対して安全保障上の対等な関係を求め、同盟関係の見直しを迫る発言にしても、損得勘定を最も重んじるビジネスマン的な感覚からすれば、ごく自然なものと言ってよいでしょう。トランプ氏はたしかに国家運営を企業経営と混同しているきらいがあります。それにしても、彼の発言は、「アメリカは世界の警察官ではない」というオバマ大統領の発言を現実面で受け継ごうとしているという見方も成り立つわけです。
 アメリカは、覇権後退を自ら認め、シェールガス革命のおかげで、もはや中東の石油にも必要性を感じなくなりました。好戦的である理由が消滅したのです。人的資源や物的資源の浪費をできるだけ避けようとするのは当然です。トランプ発言は、内政問題を重視するモンロー主義に引きこもろうとしている現在のアメリカ全体のムードをよく象徴しています。
 以上のように、トランプ旋風には、それなりの必然性があるのです。

 さて一方、社会民主主義者のサンダース氏は、アメリカ国内の超格差の実態、ごく一部の富裕層に富が集中し、中間層が貧困化して一般国民に医療や福祉がほとんど行き渡らない社会構造そのものを問題にしています。これは株主資本主義や金融資本主義を野放しにしてきたアメリカの経済政策の根幹に触れる問題であって、きわめてまっとうな主張と言えましょう(日本もアメリカの規制改革要求を受け入れていく限り。その二の舞になることは目にみえています)。
 トランプ氏が現在のアメリカが抱える政治面(心理面)を突き、サンダース氏が同じくその経済面(生活面)を突いていると考えれば、両者は、同じ現実を違った仕方で告発しているだけのことで、そのねらい目には大きな共通点があるのです。これを、右左の両極端は相接するなどという聞いた風なレトリックで言い括ってみても、両者の人気が表している本当の意味を押し隠すだけで、ただ空しいばかりです。

 本当の意味とは何か。
 リベラルな姿勢を尊重しながらも、どちらかといえば人権や平等の実現のために政府の法的関与を重んじる民主党と、何よりも自由競争の精神を尊び、小さな政府と自己責任を理念とする共和党。この二極構造がバランスを保つことによって支えられてきたアメリカン・スピリッツの伝統が、いま音をたてて崩壊しようとしているのです。
 その理由は、言うまでもなく、ウォール街を中心とした金融資本主義の極度の発展にあります。そのイデオロギー的核心は、グローバリズムを率先して推進してきた新自由主義です。このアメリカン・グローバリズムは、国際的に大きな悪影響を与えてきただけでなく、いまアメリカ国民経済という足元に火をつけつつあります。結果として、「1%対99%」問題に憤りを表明することを通して、大多数のアメリカ国民が既成の二極構造にノンを突き付けました。それが、トランプ=サンダース現象の本質なのです。
 新自由主義をあからさまに支持しているのは、表向きは共和党ですが、それがもたらした超格差社会の現状に対して、民主党も何ら有効な解決策を打ち出すことができませんでした。リーマンショックを受けて立ったオバマ大統領も、福祉政策の目玉であったオバマケアを骨抜きにされてしまいました。レイムダックと化したオバマ氏は、今やあまり実効性のない理想主義を吹いて回り、自分の政策をかろうじて受け継いでくれそうな経験豊かな実力者・クリントン氏を仕方なく応援しているといった按配です。
 今回の大統領選は、最終的には国民の保守感情が勝って、クリントン氏に落ち着くのかもしれません。しかしそれは大した問題ではありません。最近の意識調査によって、クリントン氏とトランプ氏は、歴代大統領選挙を通じて最も人気のない候補であるという結果が明るみに出ました。この事実は、アメリカにとって歴史的に大きな意味を持つでしょう。いまや民主・共和の二大政党制は、根本的な変革を迫られています。
 アメリカはどこへ行くのか。答えは容易には見つかりませんが、たしかなことは、金融資本の過度に自由な移動と富の極端な遍在に何らかの規制を強力にかけるのでなければ、アメリカを中心とした資本主義体制の未来はない、ということです。

 




舛添騒動に見る日本人の愚かさ

2016年06月16日 18時47分48秒 | 経済
      






 昨日(2016年6月15日)、都議会での舛添知事の最後の言明をテレビで観たばかりです。いまさらこういうタイトルの記事を書いても「遅きに失す」かもしれませんが、やはりこの際自分の考えを表明しておこうと思います。あの決着場面を見るずっと前から、私はこの問題について周囲に同じようなことを言っていたので、けっして「炎上」を恐れて表明を控えていたわけではありません。単に他のことにかまけ、タイミングを逸したにすぎないのです。もっとも私などが書いても「炎上」などには至らないでしょうが。
 はっきり言って私は、辞任という決着に至るまで延々と続いた舛添いじめの「逆らい得ない」空気の流れを終始不愉快に感じていました。このいやな空気の流れはいったい何を意味しているのか。私の不愉快感覚は何に由来しているのか。
 誤解のないように断っておきますが、私は個人的に舛添要一という人が好きではありませんし、今回指摘された知事としての振る舞いをいいとも思っていません。この人はもともと自己顕示欲が異様に強く、元国際政治学者の肩書よろしく、海外向けには不必要としか思えない派手な行動が目立ち、権力欲もすこぶる旺盛です。また「都市外交」と称して中央政治の頭越しに朴槿恵大統領と会い、都立高校跡地を韓国学校にすると口約束した件も、日韓の現状を考えるかぎり、どう見ても失政というべきでしょう。
 しかしあらゆる大マスコミがこの間、あたかも日本国の一大問題であるかのように連日このニュースで紙面や画面を埋め尽くし、舛添問題以外に国家としての重要問題がないかのような印象を与え続けたのはいかがなものでしょうか。私は、この現象を民主政が衆愚政治化しつつある典型と見なします。そして大局的に見た場合、そこに日本の民主政が全体主義へと転落してゆくきわめて危険な兆候を見出さざるを得ません。

 告発された舛添氏の「罪状」の主たるものは、要するに公金流用という公私混同問題です。その内容を見ると、海外出張でのファーストクラス使用や一流ホテル宿泊など、通算8回(9回?)で総額3億円(2億円?)の出張費、美術品購入額900万円、湯河原の別荘近くの回転寿司屋や自宅近くの飲食店などでの食事代30万円以上、会議の名目で家族旅行総額37万円、湯河原別荘への公用車使用など、ということになります。
 初めの海外出張費については、たしかに高すぎるし、都政上果たして必要かどうかに疑問が残ります。しかし石原慎太郎元都知事もこれに近い金額で同じようなことをやっていたのに、長年の「オーラ」のおかげか、ほとんど問題にされたことがありません。しかも彼の場合、ろくに都庁に登庁せず、必要な執務をしなかったそうです。サラブレッドは得ですね。
 これに対して舛添氏の場合、あまり裕福とはいえない生家の前に、川を隔てて八幡製鉄所の重役の家がでんと構えていて、少年時代にそれを睨みながら、「よーし、今に見ていろ」と思ったそうです。こういう激しい上昇志向欲と成功へのギラギラした野望があのエネルギッシュな活動と深く結びついているわけですが、そうした「成り上がり者」性を、民衆は鋭敏に嗅ぎ分けて好んで叩きたがるものです。その雰囲気が、活躍期の舛添氏には確かににじみ出ていましたね。自分とたいして変わらない出自なのに成り上がりやがってけしからんというわけでしょう。人は手の届かない高みにあるものにはあこがれ、逆にちょっと自分より優位にあるものを引きずりおろそうとするのです。これは一種の差別感情と言ってもいい。人間の醜い一面ですね。よってたかって私生活のあることないことまでも噂し、書きたて、本人をじわじわと追い込んでいきます。
 美術品購入に関しては、都政運営上必要な部分と、単なる趣味としての私的流用でしかない部分とに分かれるでしょうが、明確な線を引くことは困難です。それ以外の行跡は、金額もきわめて低く、まことにチンケな問題だというほかありません。昔の政治家はこんなこと平気でやっていました。脛に疵を持たない政治家などいるわけがなく、叩けばみなほこりが出るのはこの世界の常識です(だからいいと言っているわけではありません)。
 また、意味が違うとはいえ、どの企業経営者や事業主でも、税金逃れのためにいろんなことをやっています。大規模なレベルで言えば、メガバンクやグローバル企業の巨額の法人税逃れ、タックスヘイヴンへの資金流入が平然と行われていますね。こちらのほうがよっぽど問題です。日本人はほとんどそのことを忘れてしまっています。
 そうした大きな問題を大マスコミは真面目に取り上げもせず、その代わり、聖人君子ぶりを気取ってひとりの公人を徹底的にスケープゴートに仕立てるための世論操作に奔走しました。いつものやり口といえばやり口ですが、「なんぢらの中、罪なき者まづ石を擲て」(ヨハネ伝8章7節)というイエスの言葉でも少しは噛みしめたらどうでしょうか。
 この世論操作に見事に呼応して踊らされたのが愚民化した大衆で、その群衆心理の出どころは言うまでもなく下品なルサンチマンそのものです。ただでさえデフレ不況で欲求不満がたまっているので、公務員が安定した高給取りにみえる。そこへもってきてアクが強く反感を買いやすいキャラが、ザル法と言われる政治資金規正法をいいことに、つい調子に乗って公私混同を犯した。こんないいガス抜きショーはないですね。しつこく、しつこく「人民裁判」が続きました。これは血祭りという見世物以外の何ものでもありません

 今回の追及で、完全に抜け落ちているのが、舛添氏の知事としての行政手腕や執務実態、実績などについての評価です。この点についてマスコミはほとんど問題にせず、ただ大したことのない使い込みを非難し続けただけでした。これはいかにも片手落ちです。私は舛添氏の行政手腕や実績がどんなものか知りませんが、それをも取り上げて判断材料にするのでなければ、本当にひとりの政治家を公正に判断したことにはなりません。だれもそういう所に目が及ばず、道徳的・人格的な非難ばかり浴びせる。いかにも日本人的です。
 さらに、こうした追及をしてきた人々は、彼が辞任した場合、だれが後任として適切なのかについての展望をまったく欠落させています。長期戦略が何もなく、ただ目前の「敵」を引きずりおろしさえすれば、「あとはどうにかきゃあなろたい」とばかり、ひたすら感情的に騒ぎ立てるだけなのですね。これもたいへん日本的です。この前の戦争の失敗の底に潜む心性と共通しています。

 さてその後任候補ですが、下馬評でいろいろな名前が取りざたされています。しかしさまざまなメディアが行なったアンケートで、必ず上位にランクされる人に橋下徹元大阪市長がいます。本人はいまのところ出馬を否定しているようですが、この人は「2万%ない」などとウソばかりついてきた前歴があるので、現時点での言辞は全然当てになりません。橋下氏が仮に出馬した場合のことを考えると、それこそは日本が全体主義への道をひた走ることになる、と私は恐れるのです。すでに都民の中には、「やっぱりあの人しかいないんじゃないの」などという声がいくつも聞かれます。
 たかが都知事というなかれ。彼が都知事になれば、次は総理大臣を狙うに決まっています。安全保障で頭をいっぱいにしている安倍首相と妙に相性がいいのも不気味です。また、東京都民は大阪市民と違うというなかれ。彼は一種の天才詐欺師ですから、大阪市民には大坂モード、東京都民には東京モードと使い分けるなどお茶の子さいさいです。現にいまテレビのバラエティー番組で、しきりに好感度を高めていますね。
 彼は「大阪都構想」なるものをぶち上げた時、議会が否決したにもかかわらず、住民投票にかけるというルール違反を平然とやってのけました。そうして、危ういところでこの構想は実現しかけたのです。それをかろうじて防いだのは、藤井聡京都大学院教授を中心とした学識者同盟の必死の努力があったからです。
 ちなみに「大阪都構想」とは、次のようなインチキだらけの構想です。

①大阪市と大阪府が合併しても、国会で法律を通さなければ、「都」にはならないのに、東京と張り合いたい大阪市民の夢をくすぐった。
②二重行政解消という触れ込みで実現するのは、わずか二億円の節約にすぎない(そんな金額よりも、合併手続きのほうがよほどお金がかかります)のに、いかにも市の発展に寄与するような幻想を振りまいた。
③大阪府の財政は危機状態で、借金ができず、法的に「禁治産者」のような位置にあるので、合併すると大阪市から二千億円以上の金が府の借金返済に使われてしまう実態をひた隠しにしていた。
④大阪市は市としての権限を失い、東京都の行政区のようにほとんど何の権力もない区に分割されてしまうだけなのに、そのことをまったく伝えなかった。


 まだまだあったようですが、とにかくこの構想は、大阪市民を騙して市の地盤沈下を一層促進する以外の何ものでもありません。住民投票で敗れた橋下氏は、記者の前に爽やかな顔で出てきて、政治から手を引くと嘯き、その実、大阪維新の会の顧問役に就きました。自らは黒幕にとどまり、市長任期切れを機に同じ大阪維新の会から吉村洋文氏を擁立して、この選挙には勝利したのです。大阪市民は、また騙されました。
 二〇一二年に橋下人気で華々しく立ち上がった日本維新の会は、もともと大阪維新の会をその前身としています。ところでこの年の総選挙の際、日本維新の会がどんな公約を掲げていたか憶えておいででしょうか。いちいち論評すると長くなりますので、手短に行きます。

①首相公選制――代議政治の意義をわきまえないポピュリズムの典型です。直接民主制はイメージや空気で選んでしまう国民の特性を利用したもので、全体主義者にとって一番の早道です。ちなみにアメリカの大統領選挙は、複雑な仕組みによって間接民主制を担保しています。
②参議院の廃止――当時のねじれ状態における決まらない政治へのいらだちから出た提案でしょうが、すぐに決まってしまう政治はもっと危険です。
③衆議院議員定数の半減と議員歳費の三割カット――めちゃくちゃです。日本の議員数の人口比は世界で最も少ない部類に属します。日本人の好きな倹約の美徳を利用して、公務員の身を切らせることで国民のルサンチマンを和らげようというつもりでしょうが、一億三千万の人口を抱える大国の政治をわずか二百四十人の国会議員で取り仕切ることができるでしょうか。つまりは独裁政治への道を開いておこうという魂胆なのです。
④消費税の地方税化と地方交付税の廃止、道州制――地域の自主自立という美名のもとに考えられた政策ですが、これをやると、もともと地域格差のある地方と地方とで競争しなくてはならず、優勝劣敗が露骨にまかり通ってさらに格差が拡大し、地方の過疎化と東京一極集中がいっそうすすみます。税収の公平な配分の観点からも均衡ある経済発展の観点からも防災の観点からも、けっしてとってはならない政策です。

 以上でお分かりのように、橋下氏という人は、大衆の心理を読むのにじつに長けた人で、その「才能」をフルに活用して最高権力を奪取する機会を虎視眈々と狙っているのです。そう、ドイツに登場した「あの人」にとてもよく似ていますね。ちがいは、あの人のように経済復活のための腕力が不足していること、日本にユダヤ人憎悪のような根深い歴史的事情が存在しないこと、くらいでしょうか。
 でも、もしこれからの日本がデフレ脱却できず、国民の不満がいよいよ高まって行った場合、その時こそが、この人の出番です。政治とは、ある意味では、人民の無知をとことん利用して、いかに自分の思い通りに国を動かすかという操作術のことだからです。悪い芽は早く摘まなくてはなりません。橋下氏がもし都知事選に立候補したら、けっして彼に投票しないようにしましょう。彼よりはいくらかだらしない人のほうがまだマシです。
 今回の舛添騒動では、まさに大マスコミが、何の未来展望もないままにつまらない煽動を繰り返し、曲がりなりにも保たれていた既成の秩序を破壊しました。そうして権力の空白を作り出して人々を不安に陥れ、全体主義に向かう道の露払いを見事に果たしてくれたのです



追悼 柳家喜多八

2016年06月14日 23時29分40秒 | 経済
      





 落語好きです。といってもハマりだしたのはわずか四年ほど前のあるきっかけからです。そのころたまたま柳家喜多八師匠を聴いたのですが、いっぺんで気に入ってしまいました。この人の芸風は、初めやる気のないような調子で話し始め、徐々に盛り上げていき、後半に至ってその熱演ぶりで聴衆を一気に魅了するタイプです。滑舌はあんまりよくないが、それはテンポのいいべらんめえ調と表裏一体。渋い、という言葉はこの人のためにあるようなものです。
 その喜多八師匠が、今年5月17日に66歳の若さで亡くなりました。落語界で60代といえば、旬と言ってもいい年齢です。まだまだこれからという時に惜しい人をなくし、残念でなりません。
 師匠の噺を最後に聴いたのは、2月23日でした。幕が開くと最初から高座に座っています。もともと小柄な人ですが、この時は痩せてずいぶん小さく見えました。すでにがんに深く侵されていたのでしょう。もはや立って歩くことができず、車椅子を使って、弟子に助けてもらって高座に上ったものと思われます。しかしそんな 姿をお客さんに見せちゃあ、噺家の名が廃るってもんだ、てなことをよくよく周りにふくめたんでしょうな。
それでもトリで演じたのは、あのたいへんな精力を要する「らくだ」でした。半次が大家を脅す場面、屑屋が半次に勧められた酒を重ねるうちに豹変していき、ついに立場を逆転させる場面など、病気とは思えない味と迫力でした。まさか死の3か月前とは知る由もありませんが、痛々しい印象はぬぐえなかったので、一流芸人の筋金入りのすごさに舌を巻いたものです。
 今となってみると、あれを見ておいてよかったと思っています。記録によりますと、死の8日前、5月9日まで演じていたそうですから、その芸人根性にはただただ頭が下がります。舞台や高座の上で死ぬのが一生を芸に託した者の本望だとはよく言われることですが、そういう意味では、師匠の死も限りなく本望に近いものだったと断じて、けっして誤りではないでしょう。
 じつは昨年(2015年)八月の暑いさかりに、新宿のRyu's Bar(道楽亭)という所で四十人余りの観客を相手に「喜多八連続六夜」というのがあり、それに一夜だけ出かけました。隣席の客と話が通じて聞いてみると、全夜通しで来ているとのこと。まあ、よくもと思ったので、あんたの人生、もうおしまいなんじゃないのとからかってやりたくなりました(言いませんでしたが)。贔屓というのは恐ろしいものですね。師匠はこうした玄人筋にすこぶる人気があったようです。
 その時のこと、会場前に立ち並んでいると、やがて普段着の小さなおじさんが出てきて私たちを招き入れてくれます。はじめ気づかなかったのですが、師匠自らドアボーイをやってくれていたのですね。思わず声をかけたくなり、「連日の出演で疲れませんか」と聞くと、師匠、淡々と「いや、演じていて疲れるということはないです」。
 もちろんまだこの時は、彼が重い病にかかっていることは知りませんでしたから、なるほどそういうものかと単純に感心してしまったのですが、あとから考えてみると、「演じていて疲れることはない」という言い方の中には、病気が進行しているから衰えは感じるが、というニュアンスが暗に込められていたのですね。この短い会話が、師匠と交わした最初で最後の会話でした。
 さて開演間際になると、身動きもできないような狭い片隅にいて、羽織袴に着替えていきます。さえないドアボーイのおじさんが、一流の師匠に忽然と変身してゆく。その見事な早業がとても印象に残りました。
 私は昔から職人芸にあこがれてきました。ドアボーイをやったそのままの延長上で高座に上って脱力気味に話し始めながら、最後は聴衆を笑いと興奮の世界に連れて行ってしまう喜多八師匠。私も死が間近に迫ってきてなお書くことを続けていられたら、さりげなく言ってみたいものです――「いや、書いていて疲れるということはないです。」
 遅ればせながら、合掌。











マイクロソフト君、アップグレードの押しつけは犯罪行為ですよ(追記)

2016年06月04日 20時58分02秒 | 社会評論
      





先に表題の記事を書きましたが、私の知人で、いきなりシャットダウン時と同じ画面になり、「アップグレードしています。何%終了」と告知され、手の施しようがなく、あわてて電源を切った人がいました。その後怖くて再起動することができず、当方に相談してきましたので、こちらのPCを立ち上げて、「ウィンドウズ10 勝手にアップグレード開始 対策」と打ち込んで検索したところ、以下のURLを見つけ、防止策を知ることができました。
http://www.lowlowlow.link/entry/2016/03/17/123508

お困りの方、このサイトに行ってみてください。とてもわかりやすく防止方法が書かれています。

しかし、ここには、防止策だけではなく、次のような恐るべきことが書かれていました。

Win10にはバックドアが仕掛けられていて・・・全ての情報はマイクロソフトとアメリカ政府に筒抜けになることも明らかになっています。(テロ対策という意味もある)
中国やソ連ではWindows10は使うなという命令が出ているほどなのですね。日本でも官公庁や大手企業では情報が流出する可能性が高いことからWindows10へのアップグレードは禁止するお達しが出ています。


サイバー攻撃戦争が熾烈を極めていることはニュースで知っていましたが、公的なやりとりに限定されているのだろうと思っていました。ところが上に書かれていることがもし本当だとすると、一般の民間人の情報交換もアメリカ政府に筒抜けであることになります。これは単にマイクロソフトという私企業の悪徳商法であるだけではなく、明らかにアメリカ政府による言論統制です。そういう目論見があるからこそ、あんなにしつこく、強引に10に更新させてしまうのかと思うと、得心がいきます。
「言論の自由」を謳い続けてきたあのアメリカがこんなことをしているとしたら、聞いてあきれます。テロ対策のためにやっているという建前があるからと言って、これを黙って受け入れることはけっしてできません。なぜなら、この強制的なアップグレードの背景には、情報戦争のために、なりふりかまわずプライバシーの侵害を行っている国家対国家の焦りの姿が彷彿と見えてくるからです。その点ではアメリカも中共と変わりません。いえ、反政府的な情報を露骨に遮断する中共よりも、アメリカのほうがより巧妙なのだと言えます。これは「テロ対策」という名のサイバー・テロなのだ考えたほうがよい。
もちろん、筒抜けになっても大して困らないという人が圧倒的多数なのかもしれません。しかし問題はそういうことではなく、「より進化したシステムに無料でアップしてあげます」という民間企業の誘い文句(しかもじつは大して進化していず、トラブルを起こすことの方が多い)を通して、じつはアメリカ政府が民間人のプライバシーを平気で侵害するという、その形式一般なのです。それを自由や人権を最も尊重すると標榜しているはずの国家がやっているということ、その驚くべき欺瞞性こそが問題なのです。
グローバリゼーションの嵐に見舞われている国家が国家としての体裁を保つためには、どんな血迷ったことでもする。ことほどさようにグローバリズムは人倫を蝕んでいるということなのでしょう。私たちは、10へのアップグレードを拒絶して、この流れにどこまでも抵抗しなくてはなりません。その抵抗を、マイクロソフトを通じて行うというのも皮肉な話ですが。
それにつけても、日本のマスコミの情けなさがここでも際立ちます。先の引用が事実とすれば、堂々と報道すべきではないでしょうか。NHKはユーザーの不満の声についてしか報じていませんでしたね。ノーテンキで気づいていないのか、それとも知っていながらいつもの属国根性でわざと隠しているのか。



タックスヘイヴンとグローバル資本主義のゆくえ(その1)

2016年06月02日 18時44分31秒 | 経済
      



2016年4月、ロンドンで行われた、反緊縮財政デモ。10万人が参加したと伝えられる。


以下の文章は、パナマ文書のリークによってにわかに世界的話題となったタックスヘイヴン問題をめぐって、フェイスブック上で美津島明氏との間に交わしたやりとりを転載したものです。まず私が4月25日、パナマ文書に関する新 恭氏の「日本政府がタックスヘイブン対策に消極的な理由」という論考http://www.mag2.com/p/news/181248?utm_medium=email&utm_source=mag_news_9999&utm_campaign=mag_news_0425 をめぐって、次のようなコメントを投稿しました。

タックスヘイヴンについての新恭(あらた・きょう)氏の以下の記事は、実態をよくとらえており、消費増税などによる国民へのしわ寄せを批判している点で、基本的に共感できるものですが、次の引用部分に関しては、抽象的で納得がいきません。タックスヘイヴンにため込まれている資金は単なる内部留保であり、何ら生産活動に寄与していないのですから、これに対して一国の政府が自国企業の所得や資産として課税を強化することが、どうして「世界経済戦争にのぞむ自国の企業の不利」に結びつくのかよく理解できないのです。どなたか経済に明るい方、この人の指摘が正しいかどうか、教えていただけないでしょうか。
【以下、新恭氏の論文からの引用】
「節税でも脱税でもなく、いわばグレーゾーンにある租税回避は、いまやグローバル資本主義になくてはならないものとして組み込まれている。それだけに、各国政府としても、税収奪還を厳しくやれば世界経済戦争にのぞむ自国の企業に不利というジレンマに悩んでいるのが実情だろう。」

それに対して美津島氏から、次のようなコメントをいただきました。その後、氏との間でパナマ文書やタックスヘイヴンをめぐるやり取りが続きました。美津島氏が私にバトンタッチしたところで中断していますが、これは、論題が、行き着くところまで進んだグローバル資本主義のゆくえという大変大きな世界史的テーマに及び、よくよく考えた上でないとヘタなことは言えないという感想を私が抱いたからです。とりあえず、現段階までをここに掲載することにいたします。

●美津島→小浜
別に、経済にそれほど明るいわけではないのですが、小浜さんの疑問に関して自分なりに分かっていることを申し上げます。まず、「内部留保」の解釈について。これは、会計学上のいわば俗称のようなもので、貸借対照表(いわゆるバランスシート)の借方の「資産」から貸方の「負債」を差し引いた「資本」から税金・出資者への配当金・役員賞与など外部に支払われる金額を控除した残高を「内部留保」と言っています。単なる計算上の数値ですから、とても抽象的な概念なのです。別に企業の金庫にそれだけの金額が貯め込まれている、というわけではないのです。それゆえ「内部留保」が、具体的に資産としてどう運用されているかは、特定のしようがないわけです。つまり、現金預金として貯め込まれているのか、有価証券に化けているのか、設備投資に回ったのか、あるいは、タックスヘイヴンでぬくぬくと太っているのか、特定のしようがないわけです。だから、小浜さんがおっしゃるように「何ら生産活動に寄与していない」とは言い切れないというか、もともとそういう言い方となじむ概念ではない、と言えるでしょう。長くなりそうなので、まずここまでよろしいでしょうか。腑に落ちない点があれば、なんでもおっしゃってください。

●小浜→美津島
ご回答ありがとうございます。なるほど、「内部留保」が設備投資などのかたちで生産活動に寄与している可能性があることは理解できました。もしその部分が大きいことが確証されるなら、グローバル競争に直接関与していることも考えられるわけですね。しかし、依然として、一国の政府がタックスヘイヴンにプールされる資金への課税を強化することが、そのまま自国企業の海外での敗北に結びつくという論理がすっきりと理解できません。国際競争に勝つために大切なのは、あくまで世界の需要に応えるべく、良い品やサービスを安く提供するための生産活動そのものだからです。一国だけ突出して課税強化に手を付けると企業の資本が逃げてしまうと「何となく」「みんなが」思っているために、思い込みが常識となって力をふるっているのではないでしょうか。考え方によっては、他国(この場合はタックスヘイヴン)の法人税と自国のそれとに差がないならば、企業は海外展開にそれほどうまみを感じなくなって、国内需要のために生産拠点を自国に移そうとするというシナリオも想定できるように思うのですが、ちがうでしょうか。もっとも、タックスヘイヴンに合わせて自国の法人税を無条件に下げるというのでは、かえって法人税低下競争が起こり、よけい税収を確保できなくなるわけですが。重ねてご教示いただければ幸いです。

●美津島→小浜
ご返事、ありがとうございます。「依然として、一国の政府がタックスヘイヴンにプールされる資金への課税を強化することが、そのまま自国企業の海外での敗北に結びつくという論理がすっきりと理解できません」。小浜さんのこの疑問を意識しつつも、しばし遠回りをすることをご容赦ください。というのは、ここには現代資本主義の行く末を考える上でとても大きな問題が潜んでいるような気がするからです。端的な物言いをして溜飲を下げてみてもしょうがないと思うのですね。さて、内部留保の抽象的な性格については、ご理解いただけたものとして、次に、グローバル企業の内部留保が拡大傾向にあることについて、どう理解すべきかを考えてみたいのです。内部留保の拡大とは、マルクス経済学の用語を使えば、「資本の自己増殖運動」そのものです。マルクス(あるいは、宇野経済学の目を通してみたマルクス)は、資本主義の本質は、労働力の商品化によって剰余価値を獲得する「資本の自己増殖運動」であると述べています。その指摘が正しいとするならば(私は正しいと思っています)、内部留保の拡大は、資本主義の本質がむき出しになったものであると言っていいでしょう。分かりやすく擬人法を使えば、内部留保の拡大は、資本主義の本能の表れである。で、そのような資本主義の本能の露出を許したものは、1980年代からの、デフレの招来を不可避的に伴う規制緩和という名のグローバリズムである。と、ここで生徒が来てしまいました。とりあえずここまでで投稿してしまいます。なにかあれば遠慮なくおしゃってください。

(ここで、一日、間が空きます)

続きです。前回申し上げたことをまとめると、規制緩和という名のグローバリズムは、宇野経済学の用語を借りれば、「資本主義の純粋化」をもたらす。すなわち、資本の自己増殖運動という資本主義の本質を鮮明化する。言い換えれば、資本主義の本能を解き放つ。以上です。ここで、タックスヘイヴンにご登場ねがいましょう。グローバル企業は、タックスヘイヴンの守秘法域という性格と避税機能とを活用することによって、資本の自己増殖過程への国家権力の介入を能う限り遠ざけることができます。そうすることで、グローバル企業は、グローバリズムの「意思」を体現することになる。で、グローバル企業間の競争の本質を、「資本の自己増殖の度合いの競い合い」ととらえるならば、「一国の政府がタックスヘイヴンにプールされる資金への課税を強化すること」は、明らかに、国家権力による資本の増殖過程への介入を意味し、資本の自己増殖の度合いの競い合いというゲームに興じているグローバル企業の足をひっぱることになるのは間違いない、ということになります。一国が、グローバリズムを国是としているかぎり、そういう事態は避けるべきもの、危惧すべきものである。そのような「グローバル国家」が、法人への課税強化を「自国企業の海外での敗北に結びつく」と認識したとして何の不思議もありません。で、国家権力を担う政党は、グローバル企業がタックスヘイヴンを活用して資本の自己増殖ゲームに興じるのを認めるかわりに、巨額の政治献金を受け取ることに甘んじる、というスタンスに落ち着くことになりましょう(日本を含む欧米諸国の有力政党は、左右を問わず、そうなっているようです)。勢い、法人が払わなくなった税金は、消費増税という形で、一般国民からせしめる。本当のことを言ってしまうと国民が暴れだすので、あの手この手でだまくらかして、消費増税をしぶしぶ認めさせる。おおむね、そういうことになっているのではないでしょうか。そうして、行きつく先には、ハイテックなスーパー人頭税国家が待っている。それが、グローバル企業バンザイの新自由主義者が夢に描いている国家の未来像のようです。その場合、国家権力は、グローバル企業のために、一般国民に重税を課す大番頭のようなものに成り下がることになります。マルクス経済学において、労働者は、産業資本と契約を結ぶことで自分の労働力を搾取の対象とされることを余儀なくされます。でも、一応「契約」が介在しているわけです。しかし人頭税国家において、一般国民は「契約」の手続き抜きに、国家権力という大番頭を介して、グローバル企業から税金を搾取されることになるのですね。21世紀の純粋化された資本主義が、19世紀の産業資本主義の退廃形態という一面を有するゆえんです。

●小浜→美津島
恐ろしいシナリオをまことに「生き生きと」描き出していただきました。「資本主義の本能」にそのまま添うかぎり、国民国家としての防壁(民主主義もその重要な要素)は次々に崩され、国家はグローバリズムの奴隷と化していくわけですね。これは、柴山桂太氏が『静かなる大恐慌』(集英社新書)の中で紹介していた、ダニ・ロドリック教授のいう「国家主権、グローバリズム、民主政治」のトリレンマのうち、前二者が最後のものを駆逐してしまう状況を意味しています。タックスヘイヴンについては興味本位の陰謀論が飛び交っているようですが、ことの本質は、国家権力がグローバリズムに全面的に加担し、格差を極大化して中間層、一般庶民を奈落に突き落としてゆく、その過程にどのようにブレーキをかけるかという問題です。これは近著『デタラメが世界を動かしている』(PHP研究所)でも触れたのですが、世界の富裕層80人の資産が世界人口の半分、36億人のそれに匹敵するそうです。さてどうするか。マルクスの剰余労働価値説は私も正しいと思いますし、彼の分析した資本主義の末期症状が今まさに当てはまる状態になってきたと考えられます。しかし彼は私有財産の否定と暴力革命の肯定とを二つの大きな思想理念としていましたから、現在これをそのまま受け入れるわけにはいきません。彼は生まれてくるのが早すぎた思想家だったと言えるでしょう。資本主義と法治主義を守りながら不当な格差の問題をどのように解決するか。私たちの時代の難問はここにあります。トマ・ピケティ氏が提案した富裕層への累進課税率の引き上げも、彼自身が実現困難と認めています。多極化した現在の世界で「せ~の!」でやるわけにはいかないからですね。グローバリズムに対抗するには、まさにグローバリゼーションそのものへの規制ルール、特に資本移動の過度の自由を規制するルールを、問題意識を共有する有力国家群が一致協力して決める以外にはないと思います。ところで、4月30日放送の「チャンネル桜」で、高橋洋一氏が大蔵官僚としてのかつての経験を踏まえて、合法的である租税回避を摘発することはたいへん難しく、訴訟になるとかえって国が負けてしまい、何千億も取られてしまうと語っているのが印象的でした。節税と脱税の間に線を引くのは困難で、しかも大企業や顧問弁護士は自分を守るために何百億もかけて必死で抵抗するからだというのです。これはおそらく正しいでしょうね。感想も含め、お返事いただければ幸い。
http://www.nicovideo.jp/watch/1461917084
1/3【討論!】パナマ文書と世界経済の行方[桜H28/4/30]
◆パナマ文書と世界経済の行方パネリスト: 有本香(ジャーナリスト) 川上高司(拓殖大学海外事情...

●美津島→小浜
上記の討論会を拝見しました。元大蔵官僚の高橋氏の話は、おっしゃるとおり、現場感覚にあふれていて大変参考になりますね。タックスヘイヴンを利用した、大企業や富裕層の避税に関して、金融機関や会計事務所や弁護士が知恵を絞っているので、いくら疑わしくても、裁判で勝訴して税金をぶんどるのは極めてむずかしいというお話など、なかなか説得力がありますね。しかし、討論の全体的な印象としては、パナマ文書をめぐってのアメリカの陰謀説、アメリカによる中共政府叩き、などに話が偏っていて、パースペクティヴがやや狭いという感じがしました。そこで、と言っては何ですが、『アングラマネー』や『世界経済の支配機構が崩壊する』などの著者・藤井厳喜氏の、タックスヘイブンをめぐってのロング・インタビューがあり、それがタックス・ヘイヴン問題をめぐっての見通しの良いパースペクティヴを与えてくれるよう気がしますので、その写しを小浜さんにお送りし、情報の共有を図ったうえで、改めてお話しを続けるというのでいかがでしょうか。

(以上の手続きを経たうえで)

話しを続けましょう。藤井氏によれば、タックスヘイヴンは、米ソ冷戦のはざまで生まれました。石油・天然ガス・金・材木などの一次産品を売った代金としてのドルを(国家間の貿易は通常ドル建てで行われます)、当時のソ連は、アメリカに預けていました。しかし、冷戦が先鋭化するにしたがって、ソ連は、それをアメリカから凍結される危惧を抱くようになりました。それで、そのお金をロンドンのシティに持っていきました。それが当時は、正体不明のユーロ・ダラーと呼ばれました(昔、新聞記事に登場するユーロ・ダラーなるものがよく分からなくて苦慮したのを覚えています)。シティは、もともと歴史的に治外法権の地で、女王陛下でさえも当地区に入る場合、シティの市長の許可を得なければならないほどです。その特権をフル活用して、シティは、ユーロ・ダラーをイギリス国内法の規制を逃れるものにしてしまいました。イングランド銀行もそれを黙認するほかはありませんでした。で、シティは、イギリス王室属領(ジャージー島など)・英国海外領(ケイマン諸島など)・旧英国植民地(香港など)を取り込んで複雑化な蜘蛛の巣状のタックスヘイヴン・ネットワークを構築しました。アメリカは、それを後追いした形なのです。つまり、イギリスは、タックスヘイヴン先進国であり、タックスヘイヴン立国であるといえるでしょう(これは大きなポイントです)。タックスヘイヴン問題の転機が訪れたのは、2001年の9.11事件です。アメリカは、当事件をきっかけにテロ対策に本腰を入れ始めたのです。テロを撲滅するには、その資金源を断たねばなりません。そこでアメリカ政府は、アルカイダなどのテロ組織の資金源としてのアングラマネーを追跡し、それをロンダリングするタックスヘイヴンに着目することになります。ところが、タックスヘイヴンには、テロ組織のみならず、名だたるグローバル企業や大富豪の巨額のマネーが行き来していることが判明したのです。それは、1980年代以来の規制緩和の敢行によって、日本を含む欧米のグローバル企業が「資本主義の本能」を解き放たれ、資本の自己増殖過程を貫いた結果である、と言っても過言ではないでしょう。で、アメリカは、タックスヘイヴンそれ自体を規制の対象にし、その縮小を図ることでテロ資金の撲滅を実現しようとしてきたし、している。その延長上にFATCA(ファトカ)があり、さらには、パナマ文書流出問題がある。これが、一番大きな文脈でパナマ問題をとらえた言い方なのではないかと思われます。その場合、まっさきに追い詰められつつあるのは、テロ組織は当然のこととして、タックスヘイブン立国のイギリスなのではないかと思われます。アメリカ主導でタックスヘイヴンの規制が進めば進むほど、イギリスは行き場を失くし、危険な賭けに出る危険が高まる。その現れが、人民元帝国構想の一環としてのAIIBへの参加であり、ウクライナ紛争への資金供与である。藤井氏の論にしたがえば、そんな風にとらえることができるのではないでしょうか。

●小浜→美津島
藤井厳喜氏のインタビュー記事、ありがとうございます。たいへん参考になりました。ここで言われていることは、おおむねそのとおりと思いますが、FATCAに対する期待感が少し楽観的に過ぎるのではないかと感じました。というのは、FATCAは明らかにアメリカ政府が自分の国益のために設立して他国(スイス、ロンドンのシティなど)の合意を半ば無理やり取り付けたもので、これが真の意味の公共精神に根差しているとは思えないからです。FATCAの場合、アメリカ本土以外のタックスヘイヴンに対しては、たしかに守秘法域と租税回避を解除させるために、企業名や金額を教えないとアメリカに投資させないという脅しをかけ(これは一定程度成功したようですね)、また「教えてくれればウチに投資しているお宅の企業情報も知らせてあげるよ」という交換条件で各国政府に協力を呼びかけたわけですが、これが果たして税の公正な徴収や貧富の格差の是正に結びつくのかどうか。というのは、ご存じのとおり、第一に、パナマ文書は、アメリカの政治家やグローバル企業の名前が今のところ発表されていません。第二に、アメリカ国内には、すでにサウスダコタ州、ワイオミング州、デラウェア州などにタックスヘイヴンが存在すると言われています。以上の事実を素直に受け取るなら、アメリカ政府のFATCA実施の目的は、行き過ぎた資本移動の自由やその結果としての極端な貧富の格差に規制をかける所にあるというよりは、むしろ他国に流れている資本を本国に呼び戻す所にあると考えられます。これはたとえて言えば、横に広がっているものを自分中心の縦軸に集めるということです。そうすることによって経済的覇権を取り戻すわけです。もしそうだとすると、美津島さんがいみじくも「グローバル国家」と呼んだ(私の知るかぎり、グローバリズムと国家とを対立項としてでなく一つに結合して見せたのは美津島さんが初めてではないかと思います)事態がまさにアメリカという超大国において実現しつつあることになるわけで、政府はグローバリズム資本と癒着して国家はグローバリズムの奴隷(つまり「大番頭」)になり下がるわけですね。そこでは官許アングラマネーもさぞかし跋扈することでしょう。OECDの建前上の努力も、しょせん先進国政府と国際金融資本によっていいように操られるのではないでしょうか。国際金融資本は世界に冷戦や紛争などの不安定要素を作り出すことによって利益を生み出すというのは、今日ほぼ常識となっていますから、彼らが金の力にものを言わせるかぎり、当分世界平和の維持や公正な所得の実現などは夢のまた夢。産業資本主義時代に生きたマルクスの、「生産力と生産関係の矛盾が極限に達して桎梏に変じた時、必然的に矛盾の止揚としての革命に発展する」という予言は、この金融資本主義の時代においてこそ不気味なリアリティを持ってきます。アメリカ大統領予備選でトランプ氏が共和党候補として確定し、サンダース氏が大健闘しているのも、この経済的矛盾を最も体現しているのがアメリカだからと言えそうです。どちらもウォール街に反感を持つ貧困層の圧倒的な支持を受けているからです。今後もし革命が起きるとしたら、まずはアメリカか、はたまた中国か。

●美津島→小浜
興味深い論点をたくさん提示していただきながら、すぐに返事ができなかったことをお詫びいたします。さて、一点目。パナマ文書がアメリカの国益を体現する勢力によって漏えいされたと仮定したうえで、その目的は「他国に流れている資本をアメリカ本国に呼び戻す所にある」のかどうか。小浜さんは、そうではないかとおっしゃっていますね。私としても、格別それに異を唱える理由はありません。というより大いにありえることでしょう。なぜか。その理由の核心は、国際関係ジャーナリスト・北野幸伯氏が言うように「いまのアメリカの最大の課題は、いかにして低下しつつある覇権国の地位を維持するかである」ということに深く関わります。覇権を維持するうえでの最大のポイントは、なんでしょうか。世界最強の軍事力を維持することはもちろんでしょうが、そのためにも、ドルは基軸通貨(国際通貨)であり続けなければなりません。ドルが基軸通貨であるかぎり、アメリカは、いくら双子の赤字で苦しもうとも、いくらでもドルを刷って他国から好きなだけ物品を輸入することができます。つまり最強の経済力を維持することができます。で、逆に、ドルが基軸通貨でなくなれば、双子の赤字は、いまのギリシャのように、アメリカ経済の首根っこを締め付けることになり、GDPは激減を続け、アメリカは覇権国家の地位から陥落することになるでしょう。では、いかにしてドル基軸通貨体制を維持するか。それは、世界の金融資本地図においていまだに大きな(隠然たる)力を保有し続けているイギリスはロンドン・シティの世界大のタックスヘイブン網を潰し、そこに滞留している巨額のドルを自国内のタックスヘイヴンに流入させることによってでしょう。つまり、イギリスから金融立国の地位を奪い、ウォール街を世界金融資本の唯一の中枢にすることによって、ドル基軸体制はとりあえず保たれる。アメリカの権力中枢がそう考え、ウォール街がそれに加担したとしてもなんの不思議もありません。それは、中共に傾斜し経済における事実上の同盟関係を築きつつある英国の国力を衰退させ、英中の絆を分断することで、中共をけん制する、という安全保障面からも理にかなった考え方でしょう。米中新冷戦時代において筋道の通った意思決定であるといえるでしょうね。しかし他方で、5月10日の「ヴォイス」にコメンテーターとして出演した藤井厳喜氏によれば、オバマは、デラウェア州・ワイオミング州・サウスダコタ州などの国内タックスヘイヴンに介入すると言明してもいます。https://www.youtube.com/watch?v=MFieATtz5X4&app=desktop タックスヘイブン情報を他国と共有・交換するFATCAの実施に至る、アメリカのタックスヘイヴンとの長い闘いのきっかけが、2001年9.11事件にあることを思い起こせば、それもむべなるかなと思われます。もしも、覇権国維持のためにアメリカが世界で唯一のタックスヘイヴン国家になってしまうと、アメリカは、イスラム原理主義のテロ勢力にタックスヘイヴンを通じて巨額の軍資金を与える最有力・テロ支援国家になってしまうわけです。それは困る、というわけで、オバマは「国内タックスヘイヴンに介入する」と言明するのでしょう。ここには、明らかに矛盾があります。つまり、アメリカは、衰退する覇権国であるがゆえの大きな矛盾を、タックスヘイヴンをめぐって抱えこんでしまっている。この矛盾をどう昇華するか、という問題は、おそらく、今後の世界史に大きな影響を与えてしまうことでしょう。ここをもう少し引き延ばすと、小浜さんの「今後もし革命が起きるとしたら、まずはアメリカか、はたまた中国か」というもうひとつの論点につながるような気もします。しかし、ひとつの論点をめぐって、字数をたくさん費やしてしまいました。とりあえずここまでで、バトンタッチします。