小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

いまさらなんで「朝貢」するのか――中韓に膝を屈する自民党員

2015年02月28日 01時21分20秒 | 政治
いまさらなんで「朝貢」するのか――中韓に膝を屈する自民党員





 これからお話するのは、左翼批判ではありません。ある自民党有力政治家のあるまじき行動についてです。
 去る2月13日、二階俊博総務会長は、1400人を引き連れて韓国を訪問し、朴槿恵大統領と面会しました。観光誘致を狙う旅行業者が大半だったということですが、それにしてもこの「大名行列」はいったい何のためでしょう。
 産経新聞コラム「産経抄」2月14日付によれば、二階氏は大統領から慰安婦問題の早期解決を求められ、記者団に「まったくその通りだ。日本にも言い分はあるが、理屈を並べるだけで解決しないのはおかしい」と語ったそうです。与党である自民党のなかに、しかもその要職の立場にある人のなかにこういう無知そのもの、無恥そのものの輩がのさばっている限り、日本の政治は改善が望めません。
 周知のように、いわゆる「従軍慰安婦」問題なるものは、そもそも存在しません。これは朝日新聞の捏造であることがとっくに明らかとなっています。韓国の反日勢力は、日本の反権力メディアがやってくれたオウンゴールをもっけの幸いとばかりに、「正しい歴史認識」なるものをでっちあげて、国際社会に発信し続けています。二階氏は、与党政治家でありながら、だれに頼まれもしないのに、そのお先棒担ぎをやっているわけです。
 問題のない所に解決もあるはずがない。日本ではだれも「理屈を並べるだけ」などしていません。ただ朝日のウソとそれに便乗する韓国の反日攻勢とはけっして許されるべきではないという「事実」を主張しているだけです。
 二階氏は、日本に降りかかる数々の災厄を少しでも振り払おうと努力するような公共心のかけらも持ち合わせていない、ただの利権政治屋であることがこれでよくわかります。彼は、朴大統領が自明のこととしている「慰安婦問題」「歴史認識問題」を受け入れたのですから、向う側の「理屈」をそのまま認めたことになります。向うの「理屈」を全部聞き入れておきながら、こちらの「理屈」を否定して解決に導こうとは、何たる反日外交的手法でしょうか。
 こうした、情実だけに頼ってともかく丸く仲良く笑顔で接しておけば何とかなるなどと考え、それが利敵行為以外の何ものでもないことがわからない頭の悪い政治屋は昔からいましたが(例:金丸信、小沢一郎氏、鳩山由紀夫氏)、この間の日韓外交、日中外交の経緯によって、甘い顔をすれば相手がますますつけあがるだけだということが厭というほど知らされた今、もうそんな政治家はさすがにいないだろうと思っていたら、なんと与党の中枢部にいたんですね。
 この調子で行くと、二階さん、今度は中国に嬉々として頭を下げに行くんじゃないかと思っていた矢先、2月26日付産経新聞に次のような小さな記事が載っていました。

 自民党の二階俊博総務会長は25日の記者会見で、5月に予定している中国訪問について、22~24日を軸に調整していることを明らかにした。中国政府要人との会談が設定されるとみられる。冷え込んでいる日中関係改善に向け、政府を側面支援する狙いがある。
 二階氏は日中関係について、昨年11月に安倍晋三首相と中国の習近平国家主席が首脳会談で笑顔なく握手を交わしたことを念頭に「現状でいいわけがない。あんな難しい顔の日中首脳会談なんてあるか」と危機感を表明。「凍り付いたような日中関係を打破していくことが大事だ」と述べ、訪中を「その一助としたい」と意気込みを語った。
 訪中は観光交流が目的で、観光業界関係者ら約3千人が同行する。(以下略)


 さすが大国の中国相手、今度は3千人だそうです。まさに「朝貢」であります。習近平氏の仏頂面だけが気になって、国内向けに意識的にああいうポーズをとっているのだということも見抜けず、習氏の顔を崩す情緒戦略で日中関係が何とかなると思い込んでいるアホらしさ。もっともあの顔は、国際的には大失敗だった(つまり安倍首相の勝ちだった)ようですね。二階氏はそのことも読めないらしい。
 それにしても、中国富裕層の観光客を招致するのに、与党の要職にある政治家が手をすり合わせて、どうぞ日本に来て下さいななどと音頭を取る必要がどこにあるのか。みっともないったらありゃしない。まさに百害あって一利なしです。
 先日たまたまある会合があって、そこで産経新聞の人気記者・阿比留瑠比さんにご質問する機会がありました(熱があるのに来てくださった阿比留さん、ありがとうございます)。のこのこ敵陣に乗り込んで行って、習近平一派の術中にはまることはないのか、安倍総理は、自民党総裁として、こういう愚行を黙視していてよいのか、と。
 阿比留さんのお答えは、「彼(安倍さん)は、勝手にさせておけばよいという考えだ。党の総務会長なんていうのは何にもすることがないのだ。習近平というのは戦略的思考など何もできない人だ」というものでした。なるほど間近で政治家に接している人ならではの見解だなとそれなりに感心し、一応は尊重すべきと思いましたが、私は少し違う感想を持っています。
 これは、二階氏ひとり、習近平氏ひとりの頭の中や人格がどうとだけ言って済ませられる問題ではありません。与党である自民党のなかにこういう愚行を許す「空気」が根強く残存しており、それがせっかくの安倍政権の外交政策や安全保障政策の障害になるのではないか。その隠然たる力を無視することはできないのではないか。
 この空気を醸成している条件は大きく言って二つあります。

①こちらから膝を屈して中国との親善を政治的に図ることに何か意味があると思い込んでいる人がいまだに多い。

②日本は貿易依存国であり、その点で中国とは経済的に切っても切れない関係にあると思い込んでいる人がいまだに多い。


 ①は、言うまでもなく、80年も前の満州事変、日中戦争などの時点における不幸な日中関係をネタに反日宣伝を繰り返す中国の道徳的圧力を、現代の日本人が毅然と跳ね返すことができない自虐史観に基づいています。しかし中国への侵略行為に対する日本国家の政治責任はとうの昔に果されていますし、莫大な経済援助も行い、謝罪も数え切れないほど繰り返されてきました。しかも謝罪すればするほど、中共政府がそこにつけ込んでくるのは、ここ数年の彼らの態度を見れば明らかです。
 何よりも、現在の中共政府は、日中戦争時はおろか、戦後の東京裁判の時点でも存在していなかったのであり、彼らが欧米などの戦勝国の論理に便乗して、「南京大虐殺」宣伝や首相の靖国参拝批判に象徴されるような居丈高な恫喝を日本にかけてきたのは1980年代になってからのことです。ここに、現在の中共政府の狡猾な自己正当化の力学を読めない日本人は、よほどのお人よしです(多くの日本人はお人よしですが)。国民の鬱積した不満と国内の不統一の現実を国民の目からそらすために反日戦略を取るのは、中共政府の常套手段なのです。
 日本国民はそのことをよく見極めて、一丸となってこの不当な事態に(こちらも狡猾にかつ冷静に)対処しなくてはなりません。何も進んで卑屈な「朝貢」などする必要は毛頭なく、ただ「こちらはいつでも窓口を開いている。来たかったらいつでもいらっしゃい」と、泰然と構えていればよいのです(国防態勢だけはしっかり整えておかなくてはなりませんが)。二階氏に代表されるような勢力は、そうした国民の意志を挫く以外の何ものでもありません。

 ②ですが、これは日本がまだ景気が良かったころ、そして中国の人件費が日本よりも格段に安かったころに、広大な市場を当て込んで日本の大企業が対中投資を拡大し、生産拠点を次々に中国に作った時代の話です。しかし、情勢は大きく変わりつつあります。
 経済評論家の三橋貴明氏によれば、2013年の対外直接投資は対前年比で10.4%も増加したにもかかわらず、対中投資はなんと32.5%も減少したそうです。減少分の多くは東南アジアへの拠点の移動などによって補充されています。
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20150226/frn1502261550004-n1.htm
 また今年に入って、パナソニックが家電生産の一部を国内に戻し、2月にはヱスビー食品が中国におけるカレールウなどの生産を中止したのは、耳に新しいところです。最近ではシチズンが中国からの撤退を表明しました。
 中国ではこれらの撤退の動きに対して、「行かないで!」とばかりに、労働者のストライキや無理無体な法的拘束に訴えているようですが、おそらくこの撤退の動きは止まらないでしょう。
 なお対中貿易額は、たしかに輸出入とも世界1、2位を争っていて、全体の2割ほどを占めていますが、日本はもともと貿易依存国ではなく、GDPに占める純輸出(輸出額-輸入額、これだけがGDPにとって意味があります)の割合は、せいぜい2~3%です。ということは、中国との貿易がGDPに与える影響というのは、わずか0.6%ほどでしかないわけです。ですから、仮に中国との貿易をすべて停止してしまっても、日本が経済的に困るということはまずありません。エネルギー資源、食料なども、中国からは魚介類以外ほとんど輸入していないのです。
http://www.customs.go.jp/toukei/suii/html/data/y2.pdf

 以上でお分かりのように、日本は、政治経済ともに、隣国・中国の対日姿勢を過大に見積もる必要など全然ありません。そういう事実を知らない人が、中央政治の一角を担って、勝手な振る舞いをしているというのは、やはり困ったことではないでしょうか。
 ここでは二階氏をやり玉に挙げましたが、自民党のなかには、おそらくこの種の古いタイプの政治家がまだたくさんいると思われます。わが国が自主独立・自主外交・自主防衛を目指そうとするなら、こうした「獅子身中の虫」をまず何とかしなくてはならないと考えるのですが、いかがでしょうか。

幸福の科学大学不認可問題(SSKシリーズ18)

2015年02月11日 18時38分15秒 | エッセイ
幸福の科学大学不認可問題



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

2015年1月発表
 私のもとに「ザ・リバティ」という月刊誌が送り届けられます。版元は幸福の科学出版。以前一度だけインタビューに応じたことがあるからでしょう。この雑誌、言うまでもなく宗教団体が発行しているものですが、「霊言」とか「誰それの守護霊」といったキーワードにウサン臭さを感じなければ、けっこう知的水準が高く、現代の国際情勢、政治経済問題などに関してなかなか的確な分析と判断が書かれていることが確認されます。
 ところで2014年10月、文部科学省は2015年4月開学を目指して設置申請していた幸福の科学大学に対して不認可の決定を下しました。校舎も8割以上出来上がっており、入学希望者も相当数いたそうです。
 不認可の理由は二つ。一つは大川隆法氏の著作に霊言を科学的根拠のあるものとして扱う記述があり、これを「創立者の精神」として必修科目で扱うことは、科学的方法の基本である実証可能性や反証可能性に抵触する疑いがある。もう一つは、認可の判断に当たって幸福の科学学園側が下村文科相の守護霊の霊言の要約を送付するなど、心的な圧力をかけた事実がある。
 後者については、事実関係がわからないので、ここでは述べません。前者ですが、この理由付けは憲法で保障された信教の自由、学問の自由に抵触します。もちろん公共性を毀損する活動の自由は許されていませんが、これまで幸福の科学が特段そのような活動を行なった形跡はなく、またこれから大学設置基準に則って宗教教育を穏やかに行うことがそれに値するとも思えません。
 私はけっして特定の宗教団体を擁護する意図からこんなことを言っているのではありません。ただ一般的に、法治国家のルールを遵守して宗教教育を行おうとする試みを国家が阻止するという行為は許されないと思うのです。
 また、実証可能性は自然科学に要求される条件であって、反証可能性のほうは、自然科学の必要条件としては疑問の余地が大きい。逆に人文系の学問では反証可能性こそが学問の自由を保障するといってもよく、幸福の科学大学内で教えられた「霊言」などの教義は、自由主義国家では、やろうと思えばいくらでも反証できるはずです。文科省の不認可理由は、自然科学と科学一般とを混同する誤りに陥っています。ましてや宗教がもともと非合理な本質を持つことを、文科省がまさか知らないわけではありますまい。
 新興宗教である天理教も創価学会も大学経営を公認されています。私は詳しく知りませんが、これらの学内では、それぞれの教義が、単に実証科学的に相対化されて捉えられるのではなく、信仰を深めさせるために「無条件に正しいもの」として教えられていることでしょう。より新しい宗教という点を除けば、幸福の科学だけを特別視する理由は見当たりません。
思うに、オウム事件以来、新宗教を新宗教であるというだけの理由で忌避・排斥する空気が濃厚なために、文科省は、もし当大学の教育が社会秩序を脅かす事態を起こしたら、という恐れと責任逃れの意識に支配されているのでしょう。気持ちはわかりますが、やはり法治国家の原則を曲げるべきではないでしょう。

倫理の起源63

2015年02月02日 23時35分19秒 | 哲学
倫理の起源63


【結語】 

 本稿は、良心と呼ばれる作用がどのようにして発生するのかという問いから出発した。私は、個体発達と人類史のそれぞれの黎明期に視線をめぐらせることによって、その問いに応えようとした。良心は、愛や共同性の喪失に対する不安に根源を置いているというのがここでの回答である。この回答は、人間を孤立した個人としてではなく、徹底的に関係存在としてとらえる立場に基づいている。
 次に、「善」という概念は、哲学者がこれまで考えてきたように、何か形而上学的な原理によって規定されるのではなく、日常生活における秩序と平和が保たれている状態を指すのだという認識が示された。宗教的・哲学的な「善」の規定は、この状態が観念化されたものであって、天上から降ってきたり、ア・プリオリなかたちで経験世界から自立して存在したりするものではない。
 この先験主義は、プラトンのイデア思想やカントの道徳形而上学に典型的に見られるが、それは、西洋の倫理学的思考が長い間陥ってきた倒錯である。そうしてこの倒錯は、論理的な言語というものの特質に必然的に付きまとう倒錯なのである。ニーチェやミルなど、近代の思想家たちは、これと闘って善戦したが、彼らを取り巻く文化環境の制約の中で完全に相対化し克服するまでには至らなかった。そこにはカントと共通の、個体主義的な人間把握が残存している。
 和辻哲郎は、おそらくヘーゲル批判から出発したマルクスの社会哲学の影響を強く受けて、人間存在を「実践的行為的連関」というキーワードのもとに関係論的に把握し、卓抜な倫理学を築き上げた。日ごろの挨拶、礼節、語り合い、愛情交換、経済交渉など、さまざまな人間交通の現場に、彼は人倫が顕現するなまの姿を見た。その功績は世界に誇るべきものである。しかし彼の倫理学には、より小さな人倫組織とより大きな人倫組織との間に介在する矛盾への視点が欠落しており、そのため各組織はそれぞれ固有の自立した倫理的原理を持つようにも、また逆に、すべてが予定調和的な弁証法で連続しているかのようにも印象される。これは人間観察として甘いのではないか。また時間によく堪え得ないのではないか。
 この難点を克服するには、各組織(共同体)という実体的な概念に過剰に人倫性を背負わせないようにすればよいと私は考えた。時空を超えたより普遍的な人間関係のあり方そのものに注目し、それぞれがはらむ倫理性の特質を記述し、かつ互いの相克のありさまからけっして目を背けないこと。第35回目以降の論述は、この方法を具体的に展開した試みである。読者諸氏のご批判を仰ぎたい。
 
 すでに何か所かで触れてきたが、人間が倫理的存在としてこの世を生きなくてはならない根拠は、彼が共同存在としての本質を持ちつつ、しかし、個体としてはたがいに別離せざるを得ない宿命の下に置かれているというところに求められる。
 あなたという人間の存在のふるさとは、関係性であり共同性である。和辻が説いたように、人は生の活動において、常にこのふるさとに還帰しようとする。しかし人はまた、自らの身体が、この存在のふるさとのうちに永遠に抱擁されるのではないことを知っている。人間は死すべき存在であることを意識してやまない唯一の動物だからである。死は日常生活のいたるところに入り込んでいる。それは部分化され、小片化され、希薄化され、拡散しているが、それらのどの局面に出会うときにも、私たちは本体としての死の影に触れることになる。だからどんなに絆を誓い合った存在でも、やがていつかは別離していくという事実をだれもが身に沁みてわきまえているのだ。
 この事実は、人間の孤独や哀しみの感情を基礎づけるが、しかし単にそうした「感情」を基礎づけるだけなのではない。じつに別離という事実の自覚こそが、「人倫」を基礎づける究極の条件でもあるのだ。なぜなら、人は人と共に生き、愛や憎しみを知り、ある時は不幸に打ちひしがれ、ある時は幸福に浸るが、これらの経験を通じて、完全に一体とはなりえなかったという心の負債を必ず抱えるからである。
 この心の負債、言い換えると「相手への心残り」は、それぞれの身体の有限性からして、もともと弁済不可能である。その取り返しのつかなさをだれもが暗黙の裡に知っている。この暗黙の知に支えられてこそ、基本的な人倫精神が涵養されるのである。その基本精神とは、せめて生きている間だけはお互いの日々のかかわり方をかくかくのごとく仕立て上げるべきだという構えのことである。
 別離の事実こそが倫理を根底的に基礎づけるというこの考えは、愛や共同性の喪失に対する不安が良心の発生を説明するという初めに述べた考えと精確に呼応するのである。いっぽうは人間的な生へ向かう入り口の部分で出会う心的な事象であり、他方は人間的な死へ向かう出口の部分を暗示する心的な事象であるという「持ち場」の違いはあるのだが。
 人倫とは、生を成り立たせるための「よそおいの姿」である。そうして、このよそおいの姿は、どこか天上のうちに絶対的な理想として聳えているのではなく、私たちの日常生活感覚のさなかにいつも降りてきており、さりげなく実践されているのである。


*「倫理の起源」は、今回で終了します。こんなにくたびれる論考を長い間読んでくださった方、本当にありがとうございます。
当ブログは、さいわい固定読者の方も少しずつ増えつつあるようです。これからも、長編を中心に時局ネタ、折々感じたことなどを織り交ぜながら続けていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。
次の長編は、長いこと中断していました「日本語を哲学する」を再開する予定です。再開までに少し時間を要しますが、必ずお約束を果たします。ご期待ください。