小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

誤解された思想家たち・日本編シリーズ13――石田梅岩(1685~1744)

2017年12月29日 17時54分43秒 | 思想




 石田梅岩は晩熟の思想家として己れを立てています。
 農民の子として生まれ、十一歳で京都の商家に奉公に出されます。
 十五歳で奉公先が傾いたためいったん郷里に帰り、二十三歳の時、再び京都の商家に奉公します。
 三十五歳ごろ人性についての懐疑に深く囚われ、以後四十代前半に至るまで諸家を訪ねて精神的な彷徨を重ねています。
 四十三歳で奉公先を辞する決断をし、四十五歳に至って突然悟達の境地に至り、無束脩、聴講自由の公開講義を始めます。
 処女作にして主著『都鄙問答』を刊行したのはじつに五十五歳であり、その五年後にはこの世を去っています。
 死の直前に『斉家倹約論』が刊行されていますが、そのほかにはこれといった著作はありません。もともと書物をたくさん書いて広く人に知られようという気がなかったものと思われます。
 この事実は、彼の思想の性格をよく表しています。その思想は後に「心学」の名で呼ばれますが、後述するように、ここで言う「心」とは、現代人が考える「こころ」ではなく、むしろ、「芯」とか「信」とか「真」という字のもつイメージと重なるものです。つまり、枝葉末節を取り去った、ものごとの本質という意味合いで用いられています。
 人倫と実践に関わる「ほんとうのこと」さえ得心できればそれで十分なのだというのが、梅岩が長年の彷徨の末にたどり着いた確信でした。そのための物質的精神的苦労の四十五年間だったと考えれば、晩熟は当然と言えるでしょう。



 思想家としての梅岩の特徴はいろいろありますが、まずその方法の独自性に現れています。加藤周一によれば、これには次の四つがあるとされています。

①講釈
②問答
③瞑想工夫
④実践

 それぞれについて簡単に注釈を加えると――
 ①普通の町人を部屋に集め、商家の日常生活の具体例を引きながら、それに孔孟の言葉を適宜当てはめてゆきます。これは、たいへん人気を集めたようです。
 ②いろいろな立場(門人や商人や学者や僧)の人の考えと自分のそれとを対置させて、互いに切磋琢磨していくやり方です。この実例は、『都鄙問答』や、門弟が遺稿をまとめた『石田先生語録』にふんだんに見られます。
 ③梅岩は、教えられたことの逐語的な理解よりも、言葉にならない自らの悟りを重要視しました。これはそれまで悩み考えてきたことの積み重ねとして訪れる一種の「啓示」に近いと言えましょう。
性を知りたしと修行する者は得ざる所を苦み、是はいかにこれは如何にと、日夜朝暮に困うちに忽然として開たる、其時の嬉さを他と喩へていはゞ、死たる親の蘇生、再び来り玉ふとも其楽にも劣まじ。》(『都鄙問答』巻之三)
まさに自己の経験をそのまま語っているといってもよい一節です。
 ④《身に行ざれば賢人にあらず》(同巻之一)。

 ただし柴田実氏によれば、①と②に関しては、現実の「塾会」の場面では混然として分かちがたく、時には門人の質問に師が答え、時にはあらかじめ師が禅の公案のように出題して参加メンバーに答えさせ、最後に師がまとめる形を取るような場合もあったということです。
 いずれにしてもここからは、教養のない一般庶民を相手に懇切丁寧に、対等かつ気さくに応じた雰囲気が伝わってきます。こういう方法は他の儒家が取らなかった新しいやり方で、自分もまた苦労を重ねてきた町人だったからこそ可能となったのでしょう。
 さて梅岩は、学問の体裁としてもっぱら儒学を用いましたが、儒学者としての彼に特別の際立ったところがあったわけではありません。彼は儒の道(五倫五常、孝悌、知仁勇など)を素朴といってもよいほどに、何の疑いもなく受け入れています。仁斎や徂徠が疑い、切り捨てるに至った宋儒(朱子学)についても、特に批判のまなざしを向けているわけではありません。
「理」が先か「気」が先か、陰陽のダイナミズムの奧にその変化を生じさせている本体があるのかないのか、天の道と人の道とには自然と作為のような区別があるのかないのか――こうした世界認識上の差異は、じつのところ梅岩にとってはどうでもよいことでした。
 彼の問題意識の核心は、自分たち(主として商人)がこの生をどのようによく生きていくべきかにあったのです。彼が、それまでの儒教哲学の「理」や「気」がいかにあるかといった形而上学的な問題にさほど注意を払わず、「性」、つまりそれぞれの人間の身分、属性、資質、行動様式といったことに関心を集中させた点に、そのことがよくあらわれています。
 言い換えると彼にとっては、性(個々の人間や自然の表れ方)と心(身につけるべき人間本質)と行(外に表出された働き)との関係がどうあるべきかということだけが問題だったのです。彼はもちろん聖人や君子についても論じてはいますが、それはむしろ付録みたいなもので、熱意を込めて説いたのは、自分たち(主として商人)にとっての生きる指針をどこに求めたらよいのかということでした。
 いわば梅岩は、現実社会の有力勢力として定着しつつあった江戸中期の商人階級に対して、その精神的よりどころを提供してみせたのです。彼は超一級のカウンセラーではありましたが、一級の儒学者ではなかったし、自らそうであるべき必要も認めてはいませんでした。

 その名カウンセラーぶりを少しだけ見ておきましょう。
銭軽しと云べきに非ず。是を重て富をなすは商人の道なり。富の主は天下の人々なり》(『都鄙問答』巻之一)
商人の賣利は士の禄に同じ。賣利なくは士の禄無して事(つかふる)が如し》(同巻之二)
多葉粉入(たばこいれ)一つ、幾世留(きせる)一本買とても、善悪はみゆる物なるに、色々と云ひまわすは宜しからざる者なり。(中略)我より人の實不實をみる如く、他よりも又、我實不實を見ることを知らず。(中略)商人は正直に思はれ打解けたるは互に善者と知るべし。此味は学問の力なくては知れざる所なり。》(同)
士農工商は天下の治る相となる。四民かけては助け無かるべし。(中略)商人の売買するは天下の相なり。(中略)天下萬民産業なくして何を以て立つべきや。》(同)
先方の身上往かぬる筋道あれば貸、ゆくべき理あれば不貸とは、親の子を思ふ心と何ぞ替あらん。》(同巻之四)
 ここで梅岩は、商人の存在意義を力強く肯定していると同時に、その商法はあくまで正直と相手への思いやり(仁)とによって貫かれるべきであると説いているわけです。 
 最後の引用は、「相手がどうしてもこの先やってゆけないようであれば貸してもいいが、やってゆける状態であることが見えるなら貸さないほうがいいですよ。それは子どもにどれくらい自立心が育っているかを推し量るのと同じです」という意味ですが、人間の陥りがちな甘えや依存心を断ち切り、それぞれが自立して生計を立てることこそが理想なのだと、いかにも町人らしい人生訓になっています。

 梅岩の生きた時代は、平和が続き、商人自身が自らの精神的アイデンティティを確立する必要に迫られた時代でした。ですから、彼の説く「倫理学」は、力強い自己承認であると同時に、支配イデオロギーであった儒教道徳との整合性を持つものでなければなりませんでした。
 梅岩は、質素倹約は天命に叶うとも説いていますが、これは、陰りが見え始めた当時の武士階級の中心政策とよく吻合しました。
 商人の前には、自ら生産せずに右から左へ品を流して儲ける奴はずるいという世間の目と、金を稼いで貯めこみ、人に貸して利ざやを取るのは悪いことではないのか、という良心の疚しさとの二つの道徳的課題が横たわっていました。
 梅岩は、金を貸して利息を取ることに対しては否定的でしたが、商業そのものの社会的な意義と、質素倹約によって貯蓄を増やすことに対してははっきりと肯定的でした。
 正直を貫いて奢侈を戒め禁欲的に蓄財に励む商人の正当性の主張は、すぐにマックス・ウェーバーが分析した、あのプロテスタンティズムの倫理を連想させます。
 この禁欲精神が資本主義の発展に結びついたというウェーバー説の真偽はともかく、ほぼ同時代に、洋の東西を問わず、勃興する商人階級が自己の社会的存在意義を確認するために独自の道徳思想を必要としたという点では見事に共通しているのです。
 また梅岩は、「心」は道、実践、知識、言葉などが出てくる源に当たるとし、天地万物と己れ一身との一体性を示すものと説いています。ほぼ同じことはプロテスタントの旗手、ルターも説いています。そう、梅岩は、単にありきたりの町人道徳を説いただけではなく、当時の我が国における商人階級の現実主義的エートスを代表する旗手でもあったのです。



 先に述べたように、「心学」とは、心理学のことではなく、よく生きることにとって最も本質的なことは何かを会得するための学問という意味です。
 一般に日本思想で学問というとき、それはほとんど倫理学を意味していて、科学的な発想は西洋思想の輸入を待つまで遂に訪れませんでしたが、梅岩の場合は、ことにその傾向が強く出ています。
心は身の主なり。且、儒は濡と云てうるほすと云ことなり(中略)。身をうるほすは、心よりうるほすことを知るべし。(中略)心を知る時は志強(つよく)義理照(あきらか)にして以て、上達すべし。此心を知ずは、昏昧(こんまい)とくらく恣(ほしいまま)にして、学問に従と云とも発明する所あるべからず。》(『都鄙問答』巻之一)
文字を知らずしても親の孝も成り、君の忠も成り、友の交りも成り、文字無世なれ共、伏義神農(ふっきしんのう いずれも中国古代伝説の帝王。文字や農業などの文化を人間に与えた)は聖人なり。只心を盡て五輪の道を能すれば、一字不學といふ共是を實の學者と云。》(同)
 このように、梅岩においては、「学者」とか「学問」という言葉の既成・通有の概念が見事にひっくり返されているのがわかります。彼の考えでは、学者とは人倫精神の体現者のことであり、学問とはそれを身につけるためのあらゆる営みのことです。
 いまでこそこれらの指摘が特に新鮮とは言えないかもしれません。しかし実態はどうかと言えば、知的職業人としての使命を果たさずに、言葉のみ喋々しく知ったかぶりを気取って権威を振りかざす手合いは世に溢れています。その点ではまったく変わっていません。こうした手合いへの批判は、痛快至極というべきです。

 しかし梅岩の「心学」には、学識としての価値という観点から見れば、仁斎や徂徠のそれに及ばない粗雑な点があるのは確かでしょう。
 たとえば、いくら天地万物と己れ一身とが一体だと言われても、そのような直観を共有できなければ説得力に乏しく、独りよがりのドグマに転落しかねません。
 また、朱子学の基本原理である「性」「理」「気」などを梅岩は一元論的に還元してしまいます。そこにはこれらの形而上学的概念に対する分析と批判の意識は見られず、そうなると、朱子学の権威を内在的に解体させる方法も生まれてこないでしょう。それでは仁斎以前への後退ということになります。
 さらに、五倫の道を貫くなら字など読めなくとも学者だというのはいささか乱暴です。ここまで言ってしまうと、徂徠のように、君子と小人を峻別し、孔孟の教えはもと前者のためのものであると喝破するところから、聖人の作為のうちに統治の模範を読むという独創的な思想を切り開くこともできなくなります。
 梅岩は、こうして直観の思想家というべく、そこにある種の危うさを感じさせはします。
 たとえば彼は、その思想体質にふさわしく、孟子のいわゆる性善説に対して独特の解釈を施しています。
 曰く、孟子の善は悪に対する善という意味ではなく、人間を活かしている呼吸、それをもたらしている陰陽の本体が善である。天地は無心だが万物は常に生まれており、その生々を継ぐ者こそが善である。天地は死活の二つを兼ね、万物のもとをなしていて、それを理とも性とも善ともいう云々(『都鄙問答』巻之三)。
 概念の区別を無視して一つに溶かし込んでしまうようなこの解釈も乱暴というべきで、孟子が善という言葉でいわゆる道徳的な善を想定していたのは明らかです。仁斎の項でも触れましたが、孟子は、人は天性として善であるのではないが、みな「四端の心」(徳に到達するための四つの糸口。惻隠、羞悪、辞譲、是非)の持ち合わせがあると説いているからです。
 しかし、梅岩にとっては、この生々流転することを決して止めない天地万物のありさまが、たとえどんなに悪や濁りを含んでいたとしても、必ずその生命の復活を約束された秩序ある統一世界と見えたのでしょう。それを彼はひっくるめて「善」と呼びたかった――たいへんポジティブで、明るい、同時にどこかに宗教性を感じさせる思想です。
 それかあらぬか、このおおらかな宗教的境地は、神仏をけっして異端として排除せず寛容な態度に終始するところにも表れています。
 名医が病気によっていろいろな薬を用いるように、仏法も人を助ける一つのよい方法である。しかし使い方を誤れば害をなす。たとえば慈悲の心ばかりあって聖人が模範を示したような統治の精神がなければ、世の中は乱れる。けれども自分の心をみがく道具として仏法に学んで正しい心に達するなら、儒と矛盾するはずがない云々。
 梅岩はまた、日本の神話にもしばしば言及し、その悠久の祖先を大切にする日本人の心を、儒教の孝悌の教えに適合するものとしています。天地開闢などもあまり文字面にこだわらず、その理は我が一身にも具わっていると考えればよい。アマテラスは私たちとともに常にいまここにいる……。

 こう見てくると、石田梅岩という思想家がたいへん日本人的な心性の持ち主だということも判然としてくるでしょう。
 梅岩が活躍した時代には、朱子学が徳川統治のイデオロギーとして迎えられてから、すでに百三十年ほどが経過しています。この長い期間に何人もの儒教思想家によって儒が講じられましたが、まさにその営みを通してそれは日本人的なものに変質していったのです。
 梅岩ははるか来た道の末端に位置したわけですが、それは結果的に、インド仏教や中国の儒教を鋭く相対化した富永仲基や、「からごころ」をさかしらとして退け、日本固有の魂のありかを探ろうとした本居宣長を媒介する役割を果たしたと言えるでしょう。
 その一方で、知識のみを積んで活用をおろそかにする学者オタクに痛撃をくらわしている点や、実学・実践を重んじる点、依存を排して独立自存を尊ぶ点、商業経済を決然と肯定している合理性などに、福沢諭吉にも通ずる近代思想の萌芽を見出すこともできます。
 私たちは、こうした梅岩の思想のうちに、江戸中期に育ちつつあった近代的気風をうかがうことができるのです。


誤解された思想家たち・日本編シリーズ12――荻生徂徠(1666~1728)

2017年12月24日 09時58分06秒 | 思想




 荻生徂徠を「誤解された思想家たち」の仲間に入れるのはためらわれるところがあります。というのも、徂徠の思想は特に誤解されて広められているということがなく、その説はまことに明快で一貫しており、生前から将軍家や多くの弟子たちの信任・信望も厚く、後世に良い意味で大きな影響を与えているからです。
 朱子学を虚妄の説としてバッサリ切り、異論には容赦なく批判を加えていますから、反感を買う場面は多々あったでしょうが、彼と真っ向から対決してその欠陥や盲点を突くことができた人はいなかったようです。
 にもかかわらずここで取り上げるのは、伊藤仁斎と並んで、江戸前期の最も重要な思想家の一人として、彼をはずすわけにはいかないからです。

 ここでは徂徠思想がどこにその発生の原点を持つのか、そして彼の思想が現代にどんな意味を投げかけているかについて考えてみることにしましょう。
 徂徠は、後に将軍・綱吉の侍医を務めることになる父・方庵の下に江戸で生まれ育ちましたが、14歳の時、父が当時舘林藩主だった綱吉の怒りに触れて流罪となり、以後13年間、上総に流謫の境涯にあったことになっています。
 一見小さなことのように思われるかもしれませんが、この13年という数字には疑義をはさむ余地があります。
 というのは、第一に徂徠自身が『徂徠集』のなかで、江戸にもどったのは25歳の時だとたびたび語っており、こちらを取れば11年になるからです。
 第二に、方庵が江戸にもどったのはたしかに13年後の元禄五(一六九二)年六月ですが、同じ年に徂徠は芝増上寺付近に住み、塾を開いているからです。 
 江戸にもどったその年に父と同居せずいきなり塾を開くというのはどう見ても不自然です。
 落語で有名な「徂徠豆腐」はこのころを扱った話ですが、落語の真偽はともかく、一人で赤貧の暮らしを送っていたのはたしかでしょう。つまり徂徠は父に先立つ二年前にすでに江戸に出てきており、そこでさらに研鑽を積み開塾の準備を整えたと考えれば辻褄が合うのです。
 25歳といえば当時としてはすでに立派な壮年です。あの血気盛んで向学心旺盛な徂徠が、自立と青雲の志を抑制してうじうじと上総の草深い田舎(いまの茂原市付近)に蟄居していたとは考えにくい。きっと早くからその志を遂げるべく幕府に江戸居住許可を願い出ていたのではないか。
 罪のない息子のことではあるし、学問好きの綱吉も徂徠のずば抜けた才能をすでに聞き知っていたはずですから、その恩典によって許可を与えたものと思われます。勉学に必要な書物を得るためにずっと前から江戸に何度か来ていたかもしれません。

 このような些末なことになぜこだわるかというと、上総滞在中の徂徠の動静が謎だからです。
 彼は独学で朱子学を学んでいますが、いくら吸収力が優れていても多量の儒教文献がなくては学問を修めることはできますまい。
 彼は開塾した同じ年に、すでに門弟に口述させて、処女作『訳文荃蹄』の出版にこぎつけています。それだけの権威を勝ち得ていたのです。この書は漢文の同訓異義の文字についてのニュアンスを巧みに解説したもので、これによって徂徠の名声は一気に高まります。
 要するに、すでに学者として出来上がっていたわけで、謎の数年間は江戸との時折の交流をも肥やしとしつつ、学問に傾倒した時期であったと見るのが妥当でしょう。
 将軍・吉宗のブレーンを務めた記録『政談』のなかで、徂徠は、この数年間の田舎暮らしで民百姓の暮らしにじかに触れた具体的な経験について、たびたび語っています。民の生活と心を知らなければよい統治はできないという確信はこの数年の間に実感として培われたものでしょう。
 この確信は彼の儒教思想の根本理念の形成に与っていると同時に、理にばかり走る宋儒の空疎さや、ただだらだらと時流に流されて武家政治の確固たるポリシーを持たない官僚たちに対する厳しい批判となって表れてもいます。
 また『政談』や『答問書』には、当時としては、群を抜いて優れた考えが数々示されています。これらの多くは、少し変奏すれば、現代にも応用可能です。いわく――「人返し」によって武士を土着化させるべきである、経済に目を配ることが大切である、商業の肥大化による危険に対して警戒を怠るべきではない、身分に応じた生活の細かな点に至るまで制度をきちんと整える必要がある、下賤の者にも優れた人材はあるので、それを見破って抜擢することが重要だ、人の能力を見抜くには、時間をかけてその人に自由に何かやらせてみるのがよい、艱難辛苦によってこそ人材が磨かれるなどなど。
 これらは、みなこの数年間の経験を原点とするものと推察できます。

 つまり多感な時期の徂徠は、単に学問に専心していたわけではありません。その一方で、田舎の現実や時には江戸庶民の現実にじかに触れ、自らも苦労を重ねながら鋭い観察眼をはたらかせていました。それを通して、、「高尚な」学問と、一般人の現実生活がはらむ問題とを有機的に関連づける感覚を身につけたのだということができます。
 彼のいわゆる「学問」が、単なるスペシャリストのそれでも空理空論に走る形而上学でもなく、現実の政治実践に結びつく総合的かつ具体的な性格のものであったのも、この謎の数年間があったればこそでしょう。
 この時期に彼がどんな毎日を送り、何を考え、学問する自分と状況を生きる自分との間にどんな関連付けを施していたのか、博学の士にご教示いただきたいものです。ただ、私がいま試みたように、徂徠思想の独特な業績という結果から遡行して、その揺籃期を想像してみただけでも、そこに尽きない秘密が隠されていることが理解できると思います。

 さてでは、徂徠思想の独自性と画期性とは何か。彼の根本思想は次のようにまとめられます。

《古代の聖人たち、堯、舜、夏の禹王、殷の湯王、文王、周の武王、周公、および孔子らが、人間の「道」を制作した。道は老荘思想が言うように自然に存在したものではない。また宋儒が言うように、天地の理法のことでもない。このいったん作られた道は後世まで変わることなく人間生活を規定する。
 聖人はそれ以降現われたことがなく、後世の人々はこの事実をよく自覚して、聖人たちの敷いた道にはずれないように努めるべきである。その努めが「徳」である。
 一部の宋儒が説くように「聖人になる道」などというものはない。徳は道の一部であって、道が正しく行われるために身につけるべき方法である。
 徳のうち最も重要なものは「仁」である。仁とは、民を安らかにすることである。民を安らかにできるのは君子(選ばれた人)のみであり、小人(凡人)にはできない。孔子が仁を説いたのも君子に対してであって、小人に対してではない。
 この差別(区別)は侵しえない。しかし小人もまた聖人が示した仁の教えをよく理解して、これに従うことによって、国家全体の安寧に寄与することができる。
 人にはそれぞれ「性」(能力や個性)の違いがあり、これを変えることは決してできない。だから人はそれぞれの得意領域を活かして、農工商などの専門職につくことで、持ちつ持たれつの社会形成に参加すればよい。
 そしてこの社会連関の全体を統合するのが政治の役割であり、君子(指導者、統治者)に与えられた使命である。
 統治者は先王が示したように、「礼楽刑政」をもって民に当たるべきである。
 礼とは良きしきたりを守らせること、楽とは楽しい集い(古代的には音楽)を通して互いに調和して生きることの尊さを自然に悟らせること、「刑政」とは賞罰を含む法的な強制であるが、刑政だけでは仁政とはいえない。民が統治者を信頼し秩序と安寧を確保するためには必ず礼楽を尊重しなくてはならない。》


 ここでまず目を引くのは、道とは天道のように自然に定まったものではなく、古代の優れた人間が切り開いたものだという指摘です。
 次に、聖人の教えはけっして万人のためにあるのではなく(結果的にはそうなのですが)、国を統治する資格のある者のためだけにあるのだという厳しい規定です。
 第一の指摘は、「社会」は初めから存在するのではなく、我々と同じ人間が作ったものだという自己認識を与えます。この自己認識がないと、すべては天の定めによるもので、不幸や不運に対しては神仏に祈るしかすべがありません。
 これが、丸山眞男が『日本政治思想史研究』で説いた「自然」と「作為」の区別であって、日本における近代への内在的な一歩、つまり脱宗教、脱形而上学へと明確な一歩を踏み出したことを表しています。
 朱子学のようにすべては天の「理」と見なしてしまうと、解決可能なはずの問題、つまり政治的な問題がそうは見えなくなり、曖昧にぼかされてしまいます。

 西洋では、同じ人間による「作為」が「社会契約」というフィクションとして現れたのですが、徂徠のそれが社会契約と異なる点は、まさに二番目の指摘、即ち、「聖人の教えは国を統治する資格のある者だけのためにある」という規定にあります。
 徂徠は「聖人の教え」というフィクションを頑として守ることによって、西洋的な平等思想、人権思想とは相いれない人間観を提出しています。古臭い封建思想と切り捨てる向きもあるかもしれませんが、けっしてそうではありません。
 この違いは現代でも(むしろ現代でこそ)極めて重要な問題提起となっています。というのは、いま先進国の政治社会は、西洋的な人権思想と情報社会の影響とで大衆民主主義が極度に蔓延したために、賢いものも愚かなものも皆いっぱしの口をきくようになってしまいました。政治家たちはよく考えられてもいない感情的で愚かな意見にいちいち耳を傾けて、それに媚びなければ政策を打ち出せないようになっていますね。

 徂徠思想を現代風に解釈すれば一種のエリート主義ということになりますが、現在はびこっているようなエリート主義とは千里の径庭があります。
 現在のエリート官僚は、グローバリズムや新自由主義のような狭隘なイデオロギーに洗脳され、総合的な視野を喪失して、そのイデオロギーの許す範囲内の政策をそれぞれオタク的に追求しているだけだからです。単なる大学秀才でしかない彼らには、民のためというような目的意識の持ち合わせがなく、この政策を実行すればどういう結果をもたらすかといったことをきちんと考える頭の持ち合わせもありません。
 徂徠は、そういう視野狭窄を最も嫌ったのです。「仁とは民を安らかにすることである」という言葉に込めた彼の思いは、その目的をけっして忘れてはならないこと、および、目的に到達するための深謀遠慮をたえず怠らないことと不可分の関係に置かれていたのです。

 徂徠はまた、道徳だけでは国を治めるのに不十分であることをよく理解していました。それが前々回紹介した伊藤仁斎への批判となって表れたわけですが、政治という営みに重点を置いて考えるかぎり、時代が進んでいる分だけ徂徠のほうに一日の長があった(つまりより近代に近づいていた)と言うべきでしょう。
 ただ徂徠の仁斎批判には、自分がいったんは傾倒したからこそ、ひとたび自分との違いを感知すると今度は否定の情熱に憑かれてしまうといった感情的な面が見られます。それは宋儒への批判と同型をなしています。宋儒批判のあとにしつこく仁斎批判をもってきては、「仁斎の宋儒批判は、同じ枠の中の批判で五十歩百歩だ」とまで言い切っています(『弁道』、『弁名』)。
 しかし、これは後知恵ということになりますが、仁斎の場合は、朱子学の思弁の世界にいったん深く入り込み、それを引き受けて深刻に悩みつつ、その中から形而上学批判を引き出してきたというプロセスがあります。そのかぎりでは朱子学のスコラ性の土俵上での闘いでしたから、仕方のない面があるのです。
 これに対して、ポレミカルかつポリティカルな徂徠は、早くから宋儒に見切りをつけています。ですから、「聖人の立てた道の本質は、君子が仁政を敷くにはどうすればよいかという実践的な問題意識にこそあった」というテーゼを自ら立てた以上は、宋儒も仁斎も同じ穴の狢ということになってしまうのです。
 けれどもそのように宋儒と仁斎を同一視してしまうと、仁斎思想の特長、つまり普通の人々が日常的な交流を通して実践している「よきこと」のうちにこそ人倫の本質が宿っているという考え方に目がいかなくなってしまいます。仁斎はそういう仕方で朱子学の観念性を批判したのでした。
 両者の批判の仕方の違いには、仁斎が町人出身であり、徂徠が武家出身であったという出自の違いも反映しているでしょう。

 さて徂徠は、百姓(民)というものは愚かであると口癖のように言っており、一方でその民に平安をもたらすことこそ「仁」なのだとも言っています。矛盾しているではないかと思われる人もいるでしょう。
 でもけっして矛盾ではありません。これは現在でも「知識人と大衆」とか「政治エリートと大衆」といったテーマとして、最大の思想的課題なのです。
 一人一人の庶民は、それぞれの持ち場(家庭や職場)を大切にして一生懸命生きている限り、少しも愚かではありません。むしろバカな知識人などよりよっぽど賢い。しかし彼らが衆として社会の表面に現れ、何かに煽られたり洗脳されたりして政治に対してことばを発し行動し始めるや否や、「愚民」と化すのです。
 私たちが住む民主主義社会こそまさにそうした現象を際立たせて見せる社会です。
 政治は「観念」ですから、観念がいくらかでもマシなものとなるためには、広い視野と考えぬくだけの能力と余裕が必要とされます。庶民にそれを要求することは無理な話で、それをやると、たいていは安易なイデオロギーの釣り針に引っかかって吊り上げられ、バカな知識人や政治家と同じことになります。
 徂徠はこのことを見抜いていたのでした。矛盾しているではないかと詰問されたら、彼はきっとこう答えたでしょう――「民に仁を施すは君子の使命なり。然るに我、民を君子にせんと試みたることひとたびもなし。けだし民は小人のままにてその本分を尽くしたるが故なり。」


才能を潰すのが得意な日本

2017年12月19日 19時41分17秒 | 思想




以前このブログに、「日本からはもうノーベル賞受賞者は出ない?」という稿を寄せました。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/603daae0577228b755eb3d939b65c499

ノーベル賞受賞者で京都大学iPS細胞研究所長の山中伸弥さんが「ご支援のお願い」として寄付を募っているのです。
驚くべきことに、そのなかで山中さんは、「弊所の教職員は9割以上が非正規雇用」と書いていました。研究所の財源のほとんどが期限付きだからです。
https://www.cira.kyoto-u.ac.jp/j/fund/

10年、20年という長期間を要する基礎研究に、政府や大学は十分な資金を与えず、しかも短期間に成果を出す研究のみを優遇する方向にシフトしています。

非正規雇用では給料が不十分なだけではなく、安心して研究に打ち込めません。それで、若い優秀な人たちが基礎研究を諦めてしまう傾向が増大しています。

12月13日18時ごろのNHKラジオ番組に、一昨年、ノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章さんが出演していました。
梶田さんは、ニュートリノが質量を持つことを示す「ニュートリノ振動」の発見という偉大な業績を成し遂げた方です。

この番組で、梶田さんは、自分が若い頃は、カミオカンデなどの巨大な装置による実験を長いこと繰り返し、結果を理論にまとめ上げることが可能だったが、最近は、基礎研究に取り組もうと思っても期限付きの研究費しか得られないので、若い人たちが自分の若い時のように、腰を据えて研究に集中することができないと、山中さんと同じことを話していました。

この問題は、自分たちがいくら頑張ってもどうすることもできない。できるだけ広くみなさんにこの事情を知ってもらうほかないと、切々と訴える梶田さんの声が、今も耳に残っています。

12月5日には、日本のスパコン開発の第一人者・齋藤元章さんが詐欺容疑で逮捕されました。

齋藤さんは天才です。
2014年に株式会社ExaScalerを立ち上げ、理化学研究所(RIKEN)および、高エネルギー加速器研究機構(KEK)と共同研究契約を結び、わずか七カ月で「Suiren」を開発します。これが、スパコンの省エネ性能を競うGreen500で2位にランクイン。
2015年には、同じくGreen500)で、RIKENの「Shoubu」、KEKの「Suiren Blue」および「Suiren」の3台が1位から3位までを独占します。

2017年1月には、科学技術振興機構(JST)が、未来創造ベンチャータイプの新規課題の緊急募集に、ExaScalerのスパコンが採択されたと発表。
開発期間2017年1月から12月まででしたが、齋藤さんは、その締め切り直前に逮捕されてしまいました。

逮捕容疑は、技術開発助成金を得るのに、報告書を他の研究目的に書き換えて四億円程度の水増し請求をしたというもの。
もちろん容疑が事実なら、いいとは言いませんが、まだ実際に四億円をもらったわけでもないし、他の研究者の言によれば、この程度のことは日常茶飯事だそうです。取り組んでいる仕事の重要性に鑑みれば、注意勧告して書き直させれば済む話でしょう。
齋藤さんは、天才肌にありがちな、アクの強い人ですから、誰かにねたまれてチクられたのかもしれません。

それにしても、なぜこういうことになるのか。
政府が先端技術研究のための資金を出し惜しみ、国家的プロジェクトに十分なお金をつぎ込まないからです。

齋藤さんは、雑誌『正論』2017年2月号で、次のように訴えています。

このままでは日本はスパコンで中国に負けてしまう。中国が一位になると、エネルギー、安全保障、食料、医療、自然災害対策など、すべての面で中国に支配されてしまいかねない。自分たちのプロジェクトのためにせめて三百億円の資金がほしい。

国家の命運がかかっている問題で、政府がちゃんと技術開発投資をしないから最高の頭脳を潰すことになるのです。これによる日本全体の損失は計り知れません。

三橋貴明さんの著書の題名ではありませんが、こうして財務省の緊縮路線が日本を滅ぼします

日本は江戸時代以来の倹約道徳教国家で、いつも小さなことを大げさに騒ぎ立てて、物事の優先順位を間違えます。

さらに想像をたくましくすれば、逮捕した東京地検特捜部にも反日勢力が入り込んでいるのではないか。
つい数日前も、リニア新幹線の工事をめぐって、大手ゼネコン四社が談合の疑いで特捜部の捜査を受けました。これでリニア新幹線工事はまた遅れるでしょう。
齋藤さん逮捕にしてもリニア新幹線にしても、某国の勢力が手をまわしているという陰謀論に与したくなります。

もしそうでないとすれば、東京地検特捜部や公取委は、大局を見失い、正義漢ぶって摘発教条主義に陥っているのです。
亡国を目指す官庁がまた増えました。

誤解された思想家たち・日本編シリーズ(11)――山本定朝(1659~1719)

2017年12月16日 13時22分28秒 | 思想



 山本定朝は、言わずと知れた『葉隠』の著者です。『葉隠』といえば条件反射のように「武士道といふは、死ぬことと見付けたり」という一句が思い浮かぶでしょう。この一句が独り歩きして、この書が、直面する死そのものに対する潔い心構えを説いているかのような理解がいまだにまかり通っているようです。
 しかしこの書の中身はそのようなものではなく、むしろ奉公人としての日常をいかに耐え、うまく生き抜いて人の上に出るかという処世哲学を説いたものです。厳しい制度や禁圧、武家社会のしきたりや組織内の内訌のただなかで、どうすれば立派な公務をまっとうできるかについて、繊細な配慮と知恵をめぐらせた書なのです。その意味では、「武士道といふは、生きることと見付けたり」とひっくり返して表現することさえできます。早い話が、問題の一句が登場する条を引用してみましょう。

《武士道といふは、死ぬことと見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬかたに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。二つ二つの場にて、図に当るやうにわかることは、及ばざることなり。我人、生きるほうがすきなり。多分すきの方に理が付くべし。若し図にはづれて生きたらば、腰抜けなり。この境危ふきなり。図にはづれて死にたらば、犬死気違いなり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕果すべきなり。》(聞書第一・二条)

 意訳します。
「武士道というのは結局のところいつも死ぬ覚悟で事に臨むということだ。大事においてどちらか選ばなければならない時は、この覚悟にふさわしい方を選ぶにかぎる。別に深いわけはない。腹を決めて一気に進むだけのことだ。目的が達せられないまま死んだら犬死だなどというのは、上方風のうわずった武道であろう。大事においてどちらかを選ぶ場面で、目的が達せられるかどうかなどわからない。誰でも生きようとするから、理屈はそちらの方にいくらでもつけられるだろう。しかし初めから生き残ることを当て込んで目的を達せられなかったら、それはへっぴり腰だったということになる。だからこの構えではダメなのだ。逆に目的を達せずに死んだら犬死だの無謀だのと言われるかもしれないが、恥をかいたということにはならない。恥をかかないことこそが男の道だ。日が改まるごとに死んでは生まれ変わる気になって、いつも必死で事に臨む。これが真の武道の心得であって、そこから自由が生まれてくる。これをたえず続ければ一生誤ることなく、奉公の使命を果たせるのである。」
 最終部分でわかるように、これはどのような心構えで主君に仕えればよいかという基本原理を説いたもので、決して死それ自体を目指すことを良しとするのでもなければ、ましてや死の賛美などではありません。ひたすら命を捨てる覚悟で己れに与えられた職分を果たせと言っているのです。
 またこざかしい分別などは邪魔もので、こうと決めたらまっしぐらに進めと述べている条もありますが、一方では、川の深さを測りもしないで遮二無二わたってもダメで、主君の傾向や時の流れをよく見極める必要がある、無分別に奉公に乗り気になっても役に立たず身を滅ぼすだけだとも述べた条もあります。これなどは、明らかに、主君にうまく仕えて出世するための戦略を述べたものです。
 従来『葉隠』の記述には矛盾が多いと指摘されています。狂い死にや狂気を推奨したかと思えば、一方では、会議中のあくびを抑える方法や青白い顔を見せないための紅粉の具備の必要など、細かな「見栄」の重要性を強調していますし、組織の悶着や不当な圧力をいかに切り抜けるかを説いてもいます。
 また今の時代(元禄~享保年間)が平和が続いて堕落しているからといって時代を逆行できないのだから、「昔はよかった」などと嘆いてもはじまらない、今の若者だって何かことがあれば毅然と立つだろうと、至極もっともなことを唱えていますが、他方、服装だけでなく生理構造まで女性化した男、たるんだ精神、私利私欲ばかり求める今の風潮に対して、随所で苦言を呈しています。
 さらに一心不乱に勤めに精を出すことを勧める一方で、短い人生だから好きなことをして生きるのが一番で、自分は寝るのが好きだといった「享楽主義」のようなことを披露しているくだりもあります。
 これらの矛盾を問題視する人は、人生に矛盾はつきものだからそこにこそ人間的面白さを感じると言ってみたり、『葉隠』は、田代陣基(隠棲していた定朝のもとを訪れた二十歳年下の後輩)による七年間にわたる聞書きなのだから矛盾が出てくるのも当然だと解釈したりして、何とか辻褄合わせを試みます。
 しかしこの書の基本原理を右のように押さえておけば、さほど矛盾自体を問題視する必要がないことがわかるはずです。たとえば狂い死にの推奨は、初めのほうにしか出てきません。「死に物狂い」という言葉があるように、これはやはり先の引用部分と同じで、奉公において貫くべき内なる基本精神をレトリカルに述べたものでしょう。

 またこのこととつながるのですが、定朝が鍋島藩二藩主光茂に初めて仕えたのは、関ヶ原の戦いから七十年以上後のことでした。以来御側役として三十年間勤め上げ(途中少しの中断あり)、ちょうど関ヶ原以後百年経った時に光茂が死去します。定朝はかねてより追腹を切る覚悟でしたが、光茂自身が生前、全国に先駆けて追腹禁止令を出しており、やむなく剃髪して隠遁の道を選びます。『葉隠』の口述はそれから十年後に始まっています。
このように、定朝の生きた時代は戦乱が終わって平和が続き、都市が栄え華美な風俗が流行した時代です。戦国時代を懐古して戦闘を本領とする武士の現在の手持ち無沙汰をかこっても仕方がない。しかし柔弱に流れる今の風俗に武士がそのまま染まって基本精神を忘れてしまうのでは困る。平和の時代にはそれに合った緊張感の維持の仕方があるはずだ。統治を担う武士がそれをしっかり身につけずに一体誰が世を引き締められるか。型を守ること、下世話に言えば恰好をつけること、それがいまの武士道だ。だから紅粉も必要なのだ――これがおそらく定朝の本当に言いたかったことでしょう。
 さらに、最後の「享楽主義」的な表白には、若い者にはこれは秘密にしておくべき奥の手だが、という但し書きがついています。これもすでに年季を積んだ定朝にしてみれば、こせこせと小役人風に義務をこなして一生を終えるのではつまらない、どうせなら家老にまで出世して、主君に対してはばからず自由かつ適切に諌言できる地位を確保した上で、好きなことをできる境地を得たいものだという理想を語った言葉でしょう。
 「寝るのが好き」という言葉には、激しい行動への情熱を発揮することの叶わない時代に生まれてきてしまった自分へのアイロニーが込められており、事に臨んで豪傑の吐く「どれ、昼寝でもするか」という逆説的な言葉によく似ています。
 こうして『葉隠』は、命を顧みず主君のために闘うという武士本来の精神を、平和な時代にそのまま反映させるにはどうすべきかという屈折した心境がなさしめた作品です。それは言い換えれば、定朝が己れ自身を立たせ、後続の者をも立たせようとする曰く言い難い苦心の跡だとも言えましょう。そこに論理的矛盾などを見るのはつまらないことです。

 改めてこの大著の全貌を概観してみると、全体は「漫草」という陣基の短いはしがきのあと「夜陰の閑談」という序説、以下、十一の「聞書」よりなっています。聞書の第一第二は定朝自身の教訓と箴言、第三から第五までは藩祖・直茂、第一代藩主・勝茂、第二代藩主・光茂、第三代藩主・綱茂の言行録その他、第六から第九までは鍋島藩士の逸話、第十第十一は他藩の武士の情報や逸話です。
 従来、第一と第二に関心が集められてきましたが、この部分は、量的には全体の約五分の一を占めるにすぎません。もちろんここに鋭い言葉が多く集められているのは当然ですが、他にも注目すべき断章があるので、そちらにも少し目を配ってみましょう。
 「夜陰の閑談」にはこの著作の基本モチーフがすべて出ていますが、その中に、初代藩主・勝茂公が家の存続のために並々ならぬ苦労をされたことを縷々述べた後、次のようなくだりが出てきます。なお文中、「御上」は綱茂の跡を継いだ四代目当主・吉茂のことを指します。

《されば、憚りながら御上にも、(中略)せめて御譲りの御書き物なりとも御熟覧候て、御落ち着き遊ばされたき事に候。御出生候へば、若殿若殿とひやうすかし立て候に付いて御苦労なさる事これ無く、国学御存じなく、我儘のすきの事ばかりにて、御家職方大方に候故、近年新儀多く、手薄く相成り申す事に候。斯様の時節に小利口なる者共が、何の味も知らず、知恵自慢をして新儀を工み出し、殿の御気に入り、出頭して悉く仕くさらかし申し候。》

 これは要するに現政権への激しい批判です。発覚したらまず命はなかったでしょう。定朝は自ら期するところを秘中の秘として陣基に口伝し、自分の死後は焼き捨てよと命じています。諌言することこそ家臣の務めだと説いているのも気にかかります。それは命懸けだそ、という含みが感じられます。『葉隠』という題名には、権力批判・体制改革を若年者に託すという意図も込められていたでしょう。
 さて聞書の内容ですが、初めにも述べたように、これはうまく出世するための巧妙な知恵を細部にわたって説いたものです。それも利権目的ではなく、あくまでも主君のお側で真の奉公を果たすための出世の勧めです。
 周りに群がる愚物どもからいかに抜きんでて主君の心を有効に動かすか。そのための命懸けであり、死に狂いでした。権力を取らなければ主君を動かせないからです。これがおそらく定朝の一番の狙いだったでしょう。そこには観念的な哲学や倫理学はみじんもなく、きわめてプラクティカルな行動指針しかありはしません。
 必要なとき以外は余計なことを言わないこと。むやみに事を荒立てないように仲裁に意を尽くすこと。談合の重要な意義。争議に勝つには下の身分の者にも自分の意見を述べ、独善に陥らないようにすること。口論では、まずは相手に折れてみせて存分にしゃべらせ、ぼろを出したところを狙って思いの丈を語ること。その道に長けた者がこだわりなく周りの素人に自分の仕事の評価を求める謙虚な態度の推奨。律儀・正直ばかり考えたのでは心が縮こまるから時にはほらを吹いて気張った構えを示すことが武士には必要だ等々。
 総じてこの書は、相手の心を読む心理学や、寛容の精神の大切さ、人間関係を円滑に運ぶためのデリカシーや思いやり、日ごろの処世の心得などについての記述に満ち溢れています。「情けは人の為ならず」を地で行くような書です。
 たとえば、相手の欠点を直すには直接指摘せず、自分にはこういう欠点があってどうにもうまく直せない、どうしたらよいかと相談する。すると相手も、自分にも同じ欠点があると応じるから、それではお互い気をつけて一緒に直して行こうと持ちかければ、うまく行くだろう、と。
 また諌言は自分がその地位に適さない時は控えて、上司にやらせるよう日ごろから人間関係に気を配っておくべきだ、と。さらに武士の不祥事には切腹の措置をすぐに決めずに、慎重にも慎重を期し、四段構えで行くべきだと自ら進言した話もあります。
 また紹介されている逸話の中にいくつも寛容や思いやりを尊ぶ話が出てきます。
 たとえば助右衛門という侍が、刃傷沙汰を起こして逃げてきた縁者をかくまった時、差し出せとの命令に応じず、武士の一分に関わるとしてどこまでも守り、死罪になどしないということを重々確認してから差し出したという話。
 またある賢君が、武士の拷問をやめさせるために一計を案じて愛鳥をわざと逃がし、家老たちに鳥の世話役を拷問にかけよと命じて嘘の白状を引き出し、その後真相を暴露して、武士は拷問にかけられること自体を恥として嘘もつくのだから、恥をかかせてはいけないと諭した話。
 その他、「諌言意見は和の道。熟談にてなければ用に立たず」とか、忠節にあまりに熱心になると反対給付を求めるようになり、それが得られないと反逆心が生じるから、それくらいなら忠節などないほうがましだとか、奉公はどんなに辛くても今日一日すると思えばこらえられるとか、身分不相応な贅沢は慎むべきだが倹約は義理を欠くから若者に勧めるべきではないとか、若いうちの出世は長持ちしないので、ゆっくり進んで五十歳くらいに完成するのがよいなど、じつに含蓄の深い処世訓がちりばめられています。
 これらの言葉は、ほとんどが、長く生き抜くことにとってのバランスを重んじたものであり、情熱を暴発させるのとはまったく反対といっていいでしょう。時間に耐え、関係に耐え、しぶとくじっくりと真の奉公人としての自己完成を目指すこと、それが定朝の時代の「武士道」だったのです。
 盛徳院死去の折、光茂公から追腹禁止の使令が出されましたが、追腹を決めていた人たちは誰もが禁止令に従うのに躊躇していました。その時、末座から石丸采女という若侍が一人敢然とこう言ったということです――《若輩者の推参に候へども、御意の趣ごもつともに仕り候。私儀山城殿の座を直し候者に候へば、一途に追腹と存じはまり候へども、殿様御意を承り、その理に詰り候上は、面々はともかくも、某に於ては追腹存じ留り、世継に奉公仕るべく候》。
 これを陣基に書き留めさせた定朝は、世の移り行きをかみしめつつ、何とも複雑な思いに浸ったに違いありません。若侍・采女の勇気ある態度に感銘を受けながら、ああ、時代は変わったのだ、これからはいかに平和をしぶとく賢く生き抜くかに武士としての本分を尽していくべきなのだなあ、という感慨に身を浸したことでしょう。


歴史用語削減に断固反対する

2017年12月01日 21時48分52秒 | 思想



 高校の日本史、世界史で学ぶ用語を現在の半分弱の1600語程度に減らすべきだとする提言案を高大連携歴史教育研究会(高大研)がまとめました。人物では上記の通り、坂本龍馬や上杉謙信、武田信玄、ドストエフスキーらが外されるだけでなく、ガリレオ・ガリレイやマリー・アントワネットなども削減対象とされています。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO23658500Y7A111C1CC1000/

 高大研の言い分によると、「用語が多すぎて、授業でとても教えきれない。暗記を嫌う生徒にも歴史科目が敬遠される」そうです。
 一方、歴史の流れの理解に必要として「共同体」「官僚制」など社会制度上の概念を示す用語や、「気候変動」「グローバル化」など現代社会の課題につながる用語(概念語)を追加するとか。
 これには、文科省の息もかかっています。中教審が2016年12月の答申で、歴史や生物の教科書について「重要用語を中心に整理し、考察・構想させる教材にすべきだ」と指摘したのです。同省は今回の用語案を「思考力や表現力を重視する国の方向性と同じ」と評価しています。

 さてみなさんはこれについてどう思いますか。
 まず「高大研」という組織がどれほど影響力を持つのか、また政治的性格を持つのか今のところ詳らかにしません。しかしサイトを調べてみると、会のテーマや報告課題の中に、「21世紀アジアとの共生」とか、「ジェンダー視点のある歴史教育とは何か」などのタイトルが並んでいますから、この組織がサヨク性を持つのはほぼ間違いないだろうと思います。
http://www.kodairen.u-ryukyu.ac.jp/
そして目下、今回の提言案に関して広くアンケートを実行し、歴史教育での用語減らしに大きなエネルギーを注いでいるというわけです。
 この種の組織が活動を続けるのは自由ですが、二つ問題点があります。
 一つは、この組織が文科省と浅からぬつながりを持っていて、同省の方針と合致している点です。
 この組織が力を持てば持つほど、高校の歴史教育に影響力を及ぼすことになり、現実に教科書の用語削減、入試問題作成や授業での制約、これまで共有されてきた歴史の常識の空洞化につながります。
 さらに言えば、こんな提言が実際に通用すると、ただでさえ歴史戦で中韓に負けている日本はますます劣勢になります。つまりは、意識的と無意識的とにかかわらず、この「愚民化路線」はやはり反日勢力を喜ばせることになるのです。

 第二に、そもそも用語減らしという方針が「思考力や表現力の重視」につながるとする考え方そのものが、高大研のみならず、文科省も含めて、根本的に倒錯しています。豊富な語彙を身につけてこそ、思考力や表現力は始動するのです。
 教える語彙を減らしてどうやって思考したり表現したりできるのか。暗記を減らしてその隙間に思考力や表現力を注入するつもりらしいですが、それはたとえて言えば、不足した食材で美味しいレシピを考えろというのと同じです。引き算だけやって空いた部分にどんな足し算をするのか、そのアイデアが何もないのです。

 また「概念語」は抽象度がそれだけ高いのですが、その抽象性に生き生きとした具体的なイメージを与えるのは、個々の語彙とその連関です。豊富な語彙がなければ、概念語の正確な理解が進むはずがないのです。高大研の言う「歴史の流れの理解」のためには、まず、いつどこで、誰々が、何々をしたという具体的な事件、事象、物語が必要です。そのための「用語」なのです。
 たとえば、高大研は、新たに付加する「概念語」の例として、「共同体」を挙げていますが、上記の表に見られるように、「アンシャンレジーム」や「ロベスピエール」を外してしまうと、ヨーロッパ前近代において、絶対王政がその最後の砦であった古き「共同体」的な秩序がどのように崩壊していったのかを、現実に即してうまく説明できなくなります。具体的な用語の出てこない「概念語」だけの歴史など、面白くもなんともないはずです。
 高大研とやらは、歴史の専門家を集めているはずなのに、こんな基本的なことがわかっていないのです。

 暗記がたいへん、などというのは理由になりません。なぜなら、四割が大学進学する現在、一流大学を目指す進学校と三流大学に入れればよしとする「凡庸校」では、通ってくる生徒の暗記力に雲泥の差があり、大学側もそういう事実を承知の上でそれぞれのレベルに合った入試問題しか作らないからです。
 暗記事項のスタンダードなど作っても意味がありません。優秀な生徒はもともと大量の暗記に堪える学力を持っていますし、そうでない生徒はスタンダードのあるなしにかかわらず、初めから暗記の意欲に欠けているからです。
 また、優秀な生徒は、暗記力旺盛なこの時期に、たくさんの用語(と用語の間の関連)を頭に入れることによって、個々の歴史事象の流れをつかみ、やがて歴史を学ぶことの本当の意義を体得するでしょう。思考力が未熟な生徒や、やる気のない生徒は、具体的な語彙を減らした上に概念語を増やしたりすれば、ますます歴史への関心を失い、成績も伸びないでしょう。
 教育現場では、生徒のレベルと授業時間の限界に合わせて、先生方が取捨選択すればよいのです。大事なポイントは、用語の多寡ではなく、歴史がもともと持っている「物語性」を、いかに巧みに生徒に印象づけるかという、教育法にこそあります

 以前、このブログでも取り上げましたが、こうした用語削減の試みは、文科省が以前からやってきました。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/8e17f3f4f59bd46be5b8e02a72b39434
聖徳太子」や「士農工商」や「鎖国」を歴史用語から抹殺しようとしてきたのです。ちなみに「士農工商」はすでに高校までの歴史教育では抹殺されています。「聖徳太子」や「鎖国」抹殺案は、幸いにして、アンケートで猛反対に会い、とりあえず引っ込めたようです。しかしまたぞろ高大研のような勢力が、「用語が多すぎる」といった屁理屈をつけて、愚民化に拍車をかけようとしています。危険と言わなくてはなりません。
 文科省はゆとり教育の失敗にまだ懲りないようです。愚かなインテリどもはロクなことをしません。