小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源51

2014年10月30日 00時19分23秒 | 政治
倫理の起源51




 ここで、公共性と国家の関係について考えてみよう。
 そもそも国家とは何だろうか。
 よく知られているように、ベネディクト・アンダーソンはこれを「想像の共同体(Imagined Communities)」と呼んだ。わが国でも吉本隆明が、もっと早い時期に「共同幻想」という概念を作り、国家もその一つであると規定した。さらにさかのぼると、若きマルクスがほぼ似たような表現で国家とは何かについて言及している(『ドイツ・イデオロギー』)。
 これらは国家という共同性のある本質的特徴を言い当てていることは確かである。しかし「想像」とか「幻想」とかいう用語が意識的に採用されていることによって、そこにはあらかじめ国家を、「個人が自らのアイデンティティを託するには値しないもの」「土着的・生活的根拠の薄弱なもの」とみなす思想的バイアスがかけられていることが推察できる。
 もっともどの思想家もそんなに単純な把握で済ましているわけではないのだが、読者としてはどうしてもそのように受け取らざるを得ないところがある。ことに「幻想」という言葉は、本当は存在しないもの(つまり、目覚めさえすれば無くしてしまえるもの)というイメージを強く与える。
 国家が「幻想(まぼろし)」の共同体であるなら、その否定としての「現実」の共同性、「現実」の社会関係、「現実」の人間態とは何なのであろうか。経済交流が行われる市民社会だろうか、村落のような小さな地域共同体だろうか。権力を独占している統治組織だろうか、それとも家族共同体だろうか、あるいはいっそ個人と個人との身体関係だろうか。
 しかし少し考えてみればわかるように、その程度はさまざまであれ、およそ人間が作る共同性は、すべてある意味で「想像」によって成り立ち、「幻想」を媒介としたものであることを免れない。想像や幻想に対立するものとしての現実的な共同性などどこにも見当たらないことに気づくだろう。
 たとえば、もっとも単純な共同関係として、見知らぬ相手どうしの一回的な経済行為(売り買い)によって、売り手と買い手との「共同性」が成立した場合を考えてみよう。ここには、互いに相手を知っていることから生まれる前もっての情緒的な後景は一切排除されている。するとその場合、共同性を成り立たせている「信頼と合意」は何によって媒介されているだろうか。
 その答えはこうである。買い手が売り手に渡した貨幣がそれ自体は売り手にとって生活的価値(マルクスの言葉では使用価値)をもたないにもかかわらず、他の不特定多数の売り手をひきつけうるという共通了解が、売り手と買い手との間に存在していることである。したがってここには、ある貨幣という象徴的な存在に対する同一の「信」が宿っており、その「信」が共同性を形づくっている。だからこの経済行為も、一種の「幻想」がなければ成立しないのである。
 つまりある共同体の想像性、幻想性を指摘しただけでは、その根拠薄弱さを解き明かしたことにはならない。どの共同性もそれぞれに固有の「幻想」がリアルな幻想として承認されるだけの根拠を有するのであって、国家においてもそれは同様である。国家もまた、他の共同性と同じように、しかしそれらとは違った仕方で、実存のありかたを深く規定する力を持つのである。
 それでは、国家という「想像の共同体」は、何を根拠にしてその共同性を成り立たせているだろうか。
 古くは、言語、宗教、人種、民族、生活意識、共通の慣習、居住地域、地勢などの自生的な同一性がこれを保証すると考えられていた。しかしすでに古代中国、古代メソポタミア諸国家、古代ローマの昔から、その統合された版図の域内には、さまざまな言語や宗教や人種、民族が入り乱れて存在していたことが知られている。さらにグローバル化の進んだ今日では、中小国家の内部でさえ、多数の言語、宗教、民族、人種が混在していることは、誰の目にも明らかである。
 したがってこれらの要素を二つか三つ持ち出して、それをもって国家共同体の統一性の根拠とみなすことは到底できない。言語や人種や生活意識の同一性がもともと比較的高い日本などはむしろ例外なのである。
 そこで、近代国民国家の統一性を、上に挙げたような諸要素によって説明することは諦めて、次のように考えるべきである。
 近代国民国家とは、人々がさまざまな形で共有する土着的・伝統的な同一性、同質性を基礎にしながら、それらを一つの統治構造によってまとめ上げていこうとする虚構であり、運動なのである。
 言語、宗教……などのさまざまな同一性、同質性は、この虚構と運動にとって、有力な素材あるいは道具となりうるが、何か一つの土着的・伝統的な同一性だけをもってしては、近代国家としての統一性を実現させることは極めて困難であるか、不可能である。
 そもそも「国民国家(ネイション・ステート)」という言葉(概念)自体がそのすわりの悪さをあらわしている。国民(ネイション)という用語は、自然(ネイチュア)、土着(ネイティヴ)、民族などの用語との間に類縁関係をもつから、ただ国家と言わずに「国民」と付け足しておけば、そこになにがしかの自生的な歴史や伝統との連関がニュアンスとして呼び覚まされることになる。しかしこの言葉(「国民」)もまた、近代的な虚構性を含むことは疑いがない。
 言い換えると、「国民国家」とは、具体的な歴史や伝統の共有を背負う人々が、その事実を根拠として、「他者たち」との差異関係を自覚することによって、暗黙の同意のもとに創出した「共同観念」なのである。そうしてこの共同観念が生きるのは、まさに「我々は同じ何国人である」という「心情」を保持することができる人々が現に一定の範囲で存在する限りにおいてであって、そのもっと奥底に何か決定的・論理的な根拠があるわけではない
 しかし繰り返すが、だからといって、この観念がただの「幻想」とか「想像」の産物だ(したがってなくすことができる、なくすほうがよい)というように軽く見てはならない。よかれあしかれそういう共通の心情が存在すること自体が、一人一人の実存にとって重い意味をもつのである。現に私たちの一人一人は、同国人としての歴史を共通確認しつつ、生き生きと生活を続けることにおいて、この虚構の運動に不断に参加しているからである。
 国家のこの非明示的な側面を仮に「心情としての国家」と呼ぶことにすれば、心情としての国家こそが、具体的な国家機能としての法や政府や軍隊やその他さまざまな政治システム、社会システムの存在意義を支えているのである。これらの政治システム、社会システムを心情としての国家に対して「機構としての国家」と呼ぶことができるだろう。
 西欧の契約国家観との関連で言えば、「社会契約」という虚構は、この「機構としての国家」の側面をうまく説明している。「契約」という概念はもともと神と人との永遠の約束というユダヤ=キリスト教文化に発する淵源をもっているが、社会が近代化してゆく過程で、それが市民相互の契約による世俗的な権力の相互承認という水平的な観念に置き換えられたのである。
 社会契約という概念は、はじめから超越的な世俗権力としての近代政治システムの正当性を担保するために作られた概念だから、それはそもそも歴史的な由来を説明するものではない。したがって、原始契約なるものなど人類史の起源に存在しなかったと言ってこの国家観を非難するのは的を外している。この場合も私たちは、政治的言動・活動・かかわりを通して現にいま、「社会契約」という虚構を不断に実現しているのである。
 しかし社会契約という虚構が成り立ち、「機構としての国家」が文字どおり機構としてその役を果たすためには、「われわれは同じ何国人である」という心情的な同意がなければならない。即ち「心情としての国家」が「機構としての国家」に先立つのでなければならない。この心情の同意が容易には成り立たない事実は、現在の国際社会でもしばしば経験されるところであって、そのときには国家権力は崩壊するのである。なお以上のように、心情と機構との二重性として国家をとらえる私の国家観は、佐伯啓思著『国家についての考察』(飛鳥新社)に多くを負っている。

自分で考えることの大切さ(SSKシリーズ12)

2014年10月24日 14時16分08秒 | エッセイ
自分で考えることの大切さ     



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

【2012年12月発表】
 学生に次のような質問用紙を配って3択で答えてもらった。わずか6名のゼミ生対象だが。

①殺人事件は増えているか。
②子ども・若者の交通事故死は増えているか。
③虐待による乳幼児の死亡率は増えているか。
④いま日本の失業率はどれくらいか。
⑤未婚率は増えているか。

 回答結果は次の通り。
①全員「増えている」
②「増えている」3名、「変わらない」3名
③「増えている」4名、「変わらない」2名
④10%3名、20%3名
⑤全員「増えている」

 統計データに従えば正解は――
①激減
②激減
③激減
④4~5%
⑤急増

 すると⑤だけが全員正解で、あとは全員間違えていることになる。
 なぜこんな試みをやったか。メディアの情報から受ける印象を鵜呑みにせず、自分で調べ自分で考えることの大切さを説くためだ。もちろん回答集計後にデータを配って真相を知ってもらった。
 ①②③を見ると日本の治安のよさにほとんど誰も気づいていないことが知られる。いつの時代にも人は老若を問わず、時代は悪い方に向かっていると考えてしまう習癖をもっている。そういう先入観をまず振り払うこと。それが大事である。
 しかし、こうした教育的意図とは別に、この回答結果からは興味深い点が二つ認められる。
 一つは④の失業率について、若者が実際の数字よりは過大に考えているという点。
 これは答えとしては誤りだが彼らの生活実感としては正しいのである。若年失業率は5%よりずっと高いし、それよりも重要なのは、数字に表れた失業率だけが景気の良し悪しを測る尺度ではないということ。今の不況下ではスキルの身につかない臨時雇用が圧倒的に多いし、正規雇用でも劣悪な雇用環境に甘んじている人たちがたくさんいる。私は学生たちの誤答を逆に評価しながら、実態を見ずに数字を盲信する危険についても説明しておいた。
 二つ目は、⑤の未婚率について全員が正解している点。
 国全体の治安が数字としてどうであろうと、よほどの混乱状態でもない限りいますぐ自分の生活が脅かされるわけではない。しかし結婚するかしないか、できるかできないかは、彼ら自身の近い将来像を決定づける切実な問題である。そういう「実存問題」に関しては、鋭敏な触角がはたらくわけだ。
 なぜ増えていると思うのかと女子学生に聞いてみた。「自由に生きたいと感じている若い人が多いから」。
 私の応答。「もちろんそれも大きい。しかし、できれば結婚したいと思っている人が大多数です。でも、したくても相手が見つからない、恋人はいても自立するより親元にいる方が経済的に有利だから結婚に踏み切れない、そういう人がたくさんいるんだよ」。
 余計なことも考えた。いま大学の知は専門的な客観知と即戦力を養うただの実用知とに二極分解しているのではないか。自分の例で口幅ったいが、④⑤的な実存問題から①②③的な客観問題へとうまく学生をいざなう橋渡し的な方法論が必要に思える。自力で考える力を養うために。

最近の執筆活動

2014年10月22日 12時39分20秒 | お知らせ
このブログ以外での最近の執筆活動

●人気サイト「ASREAD」に、以下の3つを投稿しました。

①いま裁判員制度の是非を問う
http://asread.info/archives/1123

②恋をしない若者を論じ、少子化問題に及ぶ
http://asread.info/archives/1140

③英語、英語と騒ぐな文科省
http://asread.info/archives/1156

●西部邁氏主宰『表現者』57号 連載「誤解された思想家たち――チャールズ・ダーウィン」

●月刊誌『正論』12月号(11月1日発売予定) 朝日新聞批判「『弱者=正義』にすがる知性の貧困」

●佐伯啓思著『人間は進歩してきたのか』PHP文庫版解説

●月刊誌『Voice』11月号巻頭言 「朝日新聞攻撃のムラ社会的構造」 

倫理の起源50

2014年10月20日 21時55分27秒 | 哲学
倫理の起源50




 さて一般に、義に殉ずるといった態度は、褒め称えられることが多い。「何かしら自分を超越したものに価値を見出し、そのためには自己犠牲もいとわない」という心掛けや行動は、人々の尊敬を勝ち得て美徳とされる。それは、この種の心がけや行動が、自己利益を捨てて他者のためを考えている、つまり共同性への奉仕の精神を表現しているからである。 けれどもよく考えてみよう。人の背負う共同性も複雑である。この「何かしら」とは具体的に何を指すのか。それを言うのでなければ、先に述べた矛盾はそのまま持ちこされてしまう
 たとえば、自分の子どもの命を救うために身をもってかばうことは、非常に賞賛される。しかしでは、人道的な使命感から、病に苦しむ辺境の子どもを救うために現地に赴いた医師が、自分の子どもが本国で事故に遭い死に瀕していることを知ったとしよう。彼はどういう行動をとるのが賞賛に値することになるのだろうか。
 また、その「何かしら自分を超越したもの」が、そのときは崇高なイメージを与えていたが、時間の変化とともに、「過てるもの、それほど価値のないもの」としか感じられなくなったとしたら、はじめの思いはどのように救われるのか。
 たとえば国家のある強制が正当なものであるかどうかという判断を抜きにして、無条件に国家の命令に従って死ぬことが「崇高な」ことであるとしてしまったら、その国策が間違ったものであると認識されたとき、自分は無駄死にしたことになり、妻子も無意味な犠牲に供されたことになる。そういうことがあり得るという冷厳な事実を、「超越的なものに殉ずる心」を賛美する精神は隠蔽するのである。
「自分を超越したもの」というとき、この言葉のなかには、神、人類、国家、社会、企業、家族、幼子、友人、恋人などの観念がみな含まれるだろう。さらには、「正義」とか、「美」(ex.芥川龍之介の「地獄変」)とか、「真実」(ex.カントの「ウソ論文」)とか、「善」(ex.身を犠牲にして線路に落ちた人を救う)などのように、抽象観念もこの「超越的なもの」に属している。要するにそこには、自分を形成しているアイデンティティのあらゆる要素が含まれているのだ。だから、どういう状況下でどういう観念要素に殉ずることを意味しているのかが語られないかぎり、それはいつも現実性を欠いた抽象的な意志表現で終わってしまう。ある特定の観念要素に殉ずる態度だけを抽出して、その「崇高さ」や「美しさ」を称えていると、その態度を貫くことによって他の実在や観念を犠牲にせざるを得ない事実が忘れられるのである。
 たとえばずいぶん昔の話になるが、ある青年が、停戦間もないカンボジアの平和維持活動にボランティアとして参加し、ゲリラ兵に撃たれて死亡したことがあった。戦闘がくすぶっている地域での平和の確立という目的のために命を失ったのである。この時彼の父親が現地に赴き、息子の遺体を祖国に持ち帰らずに荼毘に付したのだが、父親は、その煙が立ち昇っていくのを見るうち、「息子はどこか浄化された崇高なところに昇っていったのだ」という深い感慨を漏らした。
 この感慨そのものは、子を失った親のやり切れない思いを、自ら鎮魂しようとする心情としてよく理解できる。そういう心境に達したことにウソ偽りはあるまい。しかし、事件の国際的な意味の大きさも手伝ってか、全国紙の多くが、これを「父親の美談」として盛んに書きたてた。折から戦後的父親の父性の欠如などが一部で嘆かれていた時期である。そのためこのお父さんは、父性の模範として一挙に有名人になってしまった。大多数の人々が、この父子の生き様を絶賛した。
 私は当時、この事件について依頼原稿を書いたのでよく覚えているのだが、はじめからマスコミのこの扱い方にはどこか胡散臭いものを感じていた。そのときの気持ちをここに再現する。
 第一に、こういう美談が表通りをまかり通ると、愛する息子を返してほしいという親の切なる自然の感情が抑圧される。何かそういうことを言ってはいけないような雰囲気が醸成されるのである。当時、このことをはっきり指摘したのは、私の知る限り、評論家の中野翠氏だけである。
 第二に、この息子さんは丸腰で危険地域に踏み込んでいた。彼は本来遭遇すべきでない理不尽な災難に遭ったのであって、特定の直接的な平和行動の結果として死んだわけではない。もし直接的な平和行動の結果として死んだのなら、世界平和のために身を犠牲にしたという大義名分は、より成立しやすいだろう。したがってその場合には、父親の深い感慨を「美談」として称える周囲の態度は、それなりに正当な根拠を持つことになろう。
 だが事実はそうではなかった。彼が命を落とした地域がかなりの危険地域であることはわかりきっていた。日本政府も百も承知であったはずである。するとここには、単に息子さんの行動目的が崇高であるから父親がその死を昇華されたものとして受け入れ、周囲がその父子関係のあり方に感動して賞賛するという物語によってはけっして完結しえない、もっと重要な問題がそっくりそのまま残されることになる。
 その問題とは、国家共同体がなぜそのメンバーの命を守ることができなかったのかという問題である。言い換えると、公共的な人倫のいかんを問う意識がこの一連の流れには抜け落ちているではないかということである。この人倫のあるべき姿は、単に心情論理によって完結しうるものではなく、現実的な法制度やその実効性ある運用を必然的に要求する。つまり、共同体がそのメンバーを守れないのは、国家としての制度が不備であるからなのである。公共性にかかわる倫理学は、こうして法や社会制度に直接接触し、しかもそれらの精神を包含できるのでなければならない。
 より具体的に言おう。
 国民の生命を守るのは、国家の最大の役割である。国防の意義はそこにこそあるのに、当時の自衛隊はPKO活動に縛りをかけられていて、危険地域で平和維持活動をする民間人を十分護衛することができなかった(いまでも十分にできない)。それは単に機械的な制度の不備を意味するのではなく、国家の人倫精神が欠落していることを意味する。私はこの不当な事態に対して、だれもがまず怒るべきではないかと思った。
 ちなみに言えば、この欠落は、何も戦後平和主義のイデオロギーにその究極の根拠を求めれば片づくわけではなく、戦前・戦中においても、日本人の国民性がはらむ問題点として指摘されるべきなのである。ところが、当時、戦後イデオロギーを批判し続けてきたはずの保守系の新聞でさえ(むしろ保守系が率先して)、自ら巻き起こした美談の大風に煽られて、まったくこの点を指摘しようとしなかった。
 この一件は、要するに、「男らしさ」とか「凛とした父性」といった美意識の弥漫によって、現実の死の不当性が合理的に検証されずに隠蔽されてしまった例である。少し角度を広げれば、これは、特攻隊精神なるものを過度に美化することによってあの戦争の失敗を糊塗しようとする心情にも通ずる。
 誤解を避けるために断わっておくが、私は、実際に死を目前にした個々の特攻隊員たちが、若くして死ななければならない事態を受け入れるために苦しみ悩んだ末にたどり着いた澄みきった心情や、その遺族が味わった深い悲しみを斟酌しなくてもよいと言っているのでは全くない。それは畢竟、実存の問題、もっと言えば文学の問題であり、そういう問題としていくらでも追究し、どこまでも掘り下げる意味がある。
 だが、もしそれが単に澄みきった心情や深い悲しみへの共感にのみ終わり、若者や遺族をそのような実存の状態に追い込んだものは何かという問いを忘れたり軽視したりするならば、それは国家という公共体が備えるべき人倫への問いを忘れることと同じなのである

国家の役割を合理的に考えよう(SSKシリーズその11)

2014年10月15日 20時44分49秒 | エッセイ
国家の役割を合理的に考えよう(SSKシリーズその11)



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

【2012年5月発表】
 四十代のノンフィクション・ライターとの会話。彼はさまざまな中国人たちと会ってきたらしい。

「自国の本土に侵入されて地上戦を強いられたことの屈辱は私たちには想像できないと思うんです。今度の取材でそれをとても感じました」
「日本だってアメリカの大空襲で本土を滅茶苦茶にされたし原爆まで落とされたじゃないか」
「でも本土での地上戦はやってないでしょう」
「そんなに違いますかね。あなたは敗れた日本人の屈辱を十分に想像しましたか」
「それはしましたよ。でもその前に日本は中国に土足で踏み込んでるじゃないですか」
「私も中国に対しては明白な侵略行為だったと思っていますよ。でもとっくに国家賠償も済んでいるし、数え切れないくらい謝罪をしてきたよね。中国が反日意識を明確に示すようになったのは、東京裁判よりもずっと後のことで、国情が安定して国力が増大してきてからのことだよ」
「でもそれだけ水に流せない怨念の根拠があるということじゃないですか」
「私が言いたいのは、いつまで日本は謝らなきゃいけないんですかってことですよ」
「ずっと謝りつづけるべきだと思います」

 私はこれ以上議論しても無駄だと思って話題を変えた。
 この人は別に「左翼」ではない。また私自身も「保守論客」ではないし、この人個人を批判する気もない。
 それよりも現在この人が四十代であるということが妙に引っかかる。粗雑な世代論に還元しては他の四十代の人たちに失礼なので、四十代の一部、と言いなおしておこう。その一部の人たちが成人したころ、ちょうど中国や韓国は日本の繁栄何するものぞと猛追を仕掛けてきた。一連の反日攻勢はまさにその時期に始まる。
 この人(たち)が想像力を欠落させ視野狭窄に陥っている原因は、大雑把にいって三つある。
 一つはいま述べたように、中韓の反日攻勢は彼らの国情に見合った意図的なものだということ。北京やソウルは国益のために民心を巧みに利用してきたのである。同じ時代に青春期を送った善意の日本人は歴史を見る枠組みが固定化されて、その事実が見えなくなっているのではないか。
 二つに、この人(たち)は中国人の痛みに触れたという実体験だけを根拠に、複雑な歴史的経緯を単純化している。「経験主義」の弊害である。
 最後に、これが最も重要なのだが、この人(たち)は、国家と国家の関係を個人と個人の関係からのアナロジーで解釈している。人を傷つけたと自覚したとき、私たちはその疚しさをいつまでも引きずる。「ずっと謝りつづける」という態度が誠実さの証しとなるゆえんである。
 しかし国家が取る態度のいかんには、内部に抱える膨大な国民の利害に対する重い責任が付着している。自国民にとって不利益となる他国の攻勢に対しては、断固として自国民の利益を守る選択をすべきなのである。国家間の関係を個人の関係と同一視して過剰な誠実さを示すことは、情緒的・排他的なナショナリズムに身をゆだねるのとじつは心理構造として同じなのだ。国家理性とは何か。よくよく深慮してほしいものである。

倫理の起源49

2014年10月11日 19時43分35秒 | 哲学
倫理の起源49



6. 公共性

 私たちは、公共性とか公共精神という概念をどのように理解しているだろうか。
 それは、ふつう、私的利害を超えて広く社会全体に共通する利害にかかわる物事や、その物事を第一に尊重する態度ということになるだろう。
 しかしこの概念は、本来いくつかのあいまいさを内に含んでいる。
 第一に、どこまでの広がりを「社会全体」と考えるかについて確定的な線引きが難しく、人によってその範囲に対する了解が食い違う。
 また第二に、ある具体的な物事が複数あってそれらが互いに両立しがたい場合、どれがより公共的かという議論が沸き起こり、容易に決着をつけられないことが非常に多い。
 そして第三に、「何々が公共的である」という点について、仮にある社会のメンバー全員の一致が見られたとしても、その物事を貫くために特定の生命や生活を犠牲にしなくてはならなかったり、膨大な時間やコストが見込まれるために実現が不可能だったり、その公共性の看板を隠れ蓑にして私的利益をむさぼる集団が出てきたりすることがいくらでもある。
 第一の論点については、たとえば次のような例が考えられる。
 幕藩体制の時代には、「くに」とは藩のことを意味していたので、藩主への忠誠が最も公共的とみなされていたが、近代以後は、国民国家の枠組みが最も公共的と考えられるようになった。この場合公共精神とは、「国家」という観念に奉仕する態度を意味することになる。さらに時代が進んで、現代では、国境を超えたヒト、モノ、カネ、情報の行き来が盛んにおこなわれているので、国家そのものを特殊な利害の体系とみて、地球規模の公共性を主張する人も多い(私自身は、この考え方が空想的であり、そのために無責任な言論態度を醸成しやすいので反対だが)。
 第二の論点については、次のような例が考えられる。
 たとえある国家の成員全員にとって、その国家こそが最高の公共体であるという点では一致が見られるとしても、その公共体をよりよく動かしていこうとする体制や政策や手段や優先順位に関して、意見・主張が入り乱れて一致が見られず、いつまでも小田原評定を繰り返すか、より強い勢力がより弱い勢力を、武力や多数決原理によって押し切るほかないといった事態である。
 このように歴史や地域や価値観によって、公共性の概念理解が異なるために、ある状況下でどういう行動をとれば公共精神にかなうのかという問題についての一般解を得ることはほとんど不可能である。こうして異なる大義名分の衝突が戦争などの激しい殺し合いに発展することもある。
 第三の例としては、たとえば、「環境にやさしい、地球にやさしい」という看板それ自体は、誰も否定しえないスローガンであるが、その抽象性をいいことに、まったく不確実な愚かな判断がなされたり、見通しも定かでない莫大な資金がつぎ込まれたりする。そうして国民の税金をかすめ取る環境ビジネスが平然と跋扈する、等々。
 このような事態は人類史上、じつに枚挙にいとまがない。
 しかしそれにもかかわらず、公共性という概念そのものは厳として存在する。それは、もともと私的であることと一対の関係にある概念だから、抽象的であることを免れないのである。つまり、この種の関係概念は、ある事態(たとえば家族生活)が他方の事態(たとえば国家活動)に比べてより私的かより公的かという相対的な位置関係で把握するほかない概念である。言い換えると、私的・公的という対概念は、互いに他方の「否定態」としてしか成立しない。
 和辻哲郎もこのことをよく理解していた。繰り返すが、和辻倫理学は、次元の異なる人倫的組織のそれぞれに固有の倫理性が存在することを指摘した。しかし、それらのどれかが他のどれかに対して、より「私的」であるかより「公的」であるかという尺度にこだわって、そこに価値審級による優劣を認めたわけではなかった。たとえば、家族の人倫性よりも国家の人倫性のほうが価値として高い水準にあると明示的に言及することを彼は周到に避けている。
 だがそれにもかかわらず彼は、無意識のうちに、より公的な共同性ほど、より私的な共同性の時間的・空間的な限界を克服した、より大きな、より広い境位にあるという、弁証法的な見解にとらわれていた。というよりも、あれほど私的世界(男女の性愛世界)における固有な人倫性の高い意義を強調した独創的な和辻すら、この西欧由来の弁証法の罠から免れることが至難の業だったというべきだろう。
 プラトンに代表されるように、ポリスの活動を最高のものと考えてオイコス(家族生活、経済活動)を軽蔑した古代ギリシアの価値観は言うに及ばず、カント、ヘーゲルなど、西洋の哲学、倫理学はこの「弁証法の罠」にいつもからめとられてきた。これはじつを言えば、身近なところから論じはじめて、しだいにより広い世界へ視線を伸ばしていくという私たちの言語意識の自然な法則に則っているにすぎないのである。だが、そうであるからといって、後のもののほうが前のものを包摂して、倫理的な意味でより高い水準に達しているなどとはけっして言えない。
 ところで東洋に目を転じて、儒教はどうかといえば、こちらはより広い範囲を包括する共同性のもつ人倫の原理がより狭い共同性のそれに比べて価値的にもより高いというような「弁証法的思考」にとらわれてはいない。再三述べたように、孔子は、公的な義務としての法に従って父を突き出すよりも、父をかくまう方が子どもとして「直(すなお)」なのだと言ってのけた。これはカントのような「義務のパリサイ人」に対しては、きわめて有力な逆説たりえている。そうしてそこには、生活庶民の自然な感情(人情)がきちんと掬い取られている。
 しかし他方では、儒教の倫理学的原理は、「五倫五常」の教えに象徴されているように、関係のモードにしたがって守るべき徳目を並列させているだけであって、そこには、人間生活でそれぞれの徳を守り抜こうとしても、互いに矛盾してしまって両立できないことがあるという問題意識が欠落している。平重盛が呟いたといわれる「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず。重盛の進退ここに窮まれり」という言葉は、この事情を示して余りある。
 じっさいに重盛がそう呟いたのかどうかは別として、こういう言葉が長く生き残るには、それなりの理由がある。それは平凡な私たちの生活のなかに、どちらを選んでよいかわからなくて困ってしまうこうした局面が繰り返し現れてくるからである。儒教はこの種の問題を解決しようとした形跡がなく、そこには明らかな思想的不徹底が見られる。それは「忠と孝」の二律背反のみならず、「忠」と「(朋友の)信」、「義」と「仁」などの関係についても言えることである。
  私が儒教倫理を批判するのは、それが古い封建社会の制度的な基盤をなしていたからというような理由からではない。じっさい、質の異なる人倫関係を統合させないままに、「人の道」とか「諸徳」といったかたちで分散させておき、そのうえで各身分(たとえば君主、家臣、武士、年少者、婦女子、下人など)にとって何を最も優先させるべきかを暗黙の裡に理解させておくことは、前近代的な統治にとって都合がよかっただろう。しかしここではそのことは問題ではない。
 問題は、「諸徳」を並列させてその関係を問わないあり方が、人生の複雑な現実といかようにも整合しない事態を見てみぬふりして放置する怠惰な姿勢をあらわしているという事実である。その点が倫理学として不十分なのである。
 このような怠惰さは、単に儒教倫理のみではなく、公共性の倫理を最優先させる態度一般においても現れている。

教師不満足(SSKシリーズその10)

2014年10月06日 19時36分50秒 | エッセイ
『教師不満足』(SSKシリーズその10)



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

【2010年11月発表】         
 いささか旧聞に属するので気が引けるが、ぜひここで書いておきたい。ある局のニュース特番で、「特集・小学校現場からの報告」とあるので興味を引かれてさっそく視聴してみた。日ごろ教育問題にかかわっている関係上、「現場」に接する機会はたいへん貴重である。
 ところがこの特集の実情は、まったく「現場からの報告」などではなく、あの乙武洋匡クンが3年契約で小学校の教師に勤務し、契約期間が満了したのでそこでの経験談を語るというわずか十分程度のキワモノにすぎなかった。しかも全体としてこの「特集」なるものは、私の憤激を買うに余りある内容であった。
 第一。乙武クンが小学校教師になったというのは知っていたが、3年契約というのは初耳だった。このこと自体、ふざけた話である。普通の教師は生涯の職業としての使命感を持って教職に就くのであり、いったん就いたらどんなにつらいことがあっても簡単に辞めるわけにはいかないのだ。3年契約などという勝手なことが許されるのは、乙武洋匡という「特権」を利用しているのであり、それは有名人の潜入ルポと同じである。
 大体たかが3年勤めただけで、現在の教育現場が抱えた途方もない困難の何がわかるというのか。
 私は『五体不満足』の長所と欠点について論じたことがあり、さらに後に文庫版として出された「完全版」を大学のテキストとして用いている。
「完全版」には第四部が増補されており、これには、有名になってしまったことから生じた苦い思いがつづられている。スポーツライターになろうとしても、本当にライターとしての腕で勝負させてもらえず、周りが乙武の名前で執筆を許してしまう。その現実への苛立ちと反省が真摯に表現されていて、好感が持てる部分である。だが、その苛立ちと反省は「3年契約の教師」という特権的な肩書きではどこへ消し飛んでしまったのか。
 第二。乙武センセイ、教え子の中の「困ったチャン」に手を焼いていろいろやってみたが、なかなか信頼関係を結べたと確信できるところまでいけず悩んでいたところ、辞職することを告げたら、その子が初めて親しみを見せて自分の愛用の「練りケシ」を餞別にくれたそうである。よくあるつまらぬ美談にすぎない。
 ところがインタビューしていた五十がらみのいい年をしたメインキャスターが、それを聞いてなんと目に涙をいっぱいためているのだ。
 バカじゃないか、こいつは、と私は一瞬思った。名うてのキャスターが美談にもならない美談にころりとだまされて、これで「教師一般」と「子ども一般」との間に心の絆とやらが生まれたと思い込み、「学校現場」の問題はやはり「愛」が解決するとでも錯覚しているのだ。何にもわかっちゃいないのである。
 今に始まったことではないが、私は、教育現場をレポートするといったたぐいの番組でテレビメディアが垂れ流す、その無知ぶりと欺瞞性とに深く絶望する。ちょいと3年ばかり「現場」を覗いてきた有名人をさっそく使って視聴率を稼ぎ、緻密な取材も何もせずに済ませてしまう。ああ、世も末とはこのことである。

倫理の起源48

2014年10月03日 12時42分10秒 | 哲学
倫理の起源48



 さらに次のようなことが言える。
 個体生命尊重の倫理は、ただそれ自身のうちに本質的な限界があるのみではなく、他の人倫関係、他の倫理との間に齟齬をきたすことが多いのである。それは、この倫理がまさに「個体生命」というだれにとっても共通な人間把握概念を核として打ち立てられているために最も抽象度が高いからである。それゆえ、個々の具体的な生(実存)が呼び起こす課題に克服の答えを提供することができない。
 このことは、これまで述べてきた人倫精神の四種の基本原理(性愛、友情、家族、職業)との関係をいろいろと思い浮かべてみれば、すぐに納得がいくだろう。
 たとえば幸いなことに先進国では最近あまりこういうことは言われなくなったが、妻が難産で苦しみ、死産の可能性があり、母体も危険であると指摘されたとする。医師は、母体を救いたいならば死産を覚悟すべきであり、逆に健康な赤ちゃんを得ようとすれば母体を犠牲にする確率が高いと言う。夫はどういう選択をすべきだろうか。
 どのような選択をしようが、それは当事者の心情にゆだねるほかはないので、そのこと自体は倫理学的にはさして問題ではない(私自身は妻の生命を第一にすべきだと思うが)。だがこういう場合に、個体生命尊重の倫理が無力さを露呈せざるを得ない(選択を指示できない)のは明瞭である。
 またたとえば、森鴎外の『高瀬舟』について考えてみよう。
 流刑に処された罪人を大阪へ送る高瀬舟に、ある時、弟殺しの罪を着た喜助という男が乗せられた。他の罪人と異なり、晴れやかな顔をしているので、付き添いの同心が訳を尋ねる。親を失った兄弟は仲よく助け合って暮らしていた。弟が病で働けなくなり、兄の喜助のためを思って自害をはかるが、死にきれずに苦しんでいる。喜助は医者を呼ぼうとするが、弟が死なせてくれと頼むので、思わず刺さった刀を抜いてやると、そこに婆さんがあらわれて殺害現場として目撃されてしまう。
 この話は現在、安楽死の是非問題として扱われているようだが、そういう社会倫理的な捉え方はこの話の文学性、言い換えれば、登場人物たちの特殊な「情」の展開に込められたものが読めていない。現代の安楽死は、医師の医療行為としての倫理性が問われるが、医師が安楽死を決行した場合には、たとえ法的な罪に問われなくとも、晴れやかな顔をするはずがないからだ。
 この作品には、互いを心から思いやる兄弟愛(一種の友情)が深く絡んでいる。喜助が晴れやかな顔をしているのは、罪の意識がないからではない。一種の近親殺行為であることは十分自覚されているのである。だから彼は、余計な申し開きをせずに縄にかかったにちがいない。喜助にとっては、弟が自分のことを思って自害をはかったことが明瞭なので、その心意に対する謝恩の気持ちのようなものが彼の心を浄化して、素直に刑に従わせているのである。罪の自覚はあるが、後悔の念はすでに洗い流されている。犠牲となった弟は、彼にとっていまは仏さまに似た位置にいる。弟の行為そのものを通して、彼は仏さまに出会ったのである。
 さてこういう場合に、個体生命尊重の倫理を押し出すことに何か意味があるだろうか。喜助のいる場所は一種の宗教的な境地であって、弟を救おうとすれば救えたはずだなどと言い立てることは、余計なお世話なのである。

 個体生命倫理の限界について以上のように考えてきて、やはりここでも、他の倫理との根本的な矛盾を指摘しておく必要を感じる。
 性愛倫理や友情倫理や家族倫理が、その対象を厳しく選択し、部外者を排除するものであることは、論を俟たないだろう。
 なるほどこれらが自らのなかに個体生命倫理を含んでいることは確かである。それは、すでに述べたように、もともと個体生命倫理というものがだれにでも当てはまる最も抽象性の高いレベルにあるからである。たとえて言えば、イワシもアジもサバもサンマも「魚」というより抽象的な概念に包まれ、それぞれの種は「魚」という共通の特性を併せ持つようなものである。
 しかし、イワシは魚であることをやめることはないが、人事社会にかかわるものごとはそう簡単ではない。性愛や友情において、その特定の相手の生命を大切に思うことは、同時に自分にとってどうでもよい他人の生命を軽んじることにつながりうるし、むしろその心情倫理の実現を通して、特定の他人の人格や生命を傷つけることさえある。家族の一員を守るために、誰かを殺さなくてはならない場合もある。
 そればかりではない。職業倫理も、この個体生命倫理と矛盾することがある。職種によっては他者の生命を犠牲にすることを使命とするからである。もっとも典型的な例は、命令に従順で有能な兵士。さらに、忠実に法に従って死刑を宣告する裁判官、死刑執行人、やや間接的だが、武器や兵器の熱心な研究者・製造者・販売人など。
 ノーベル賞の創設者アルフレッド・ノーベルは、兄の死の際に自分の死と間違われて報道され、その際自分が爆薬の発明者として新聞で「死の商人」呼ばわりされたことを気にして、ノーベル賞の一部門に平和賞を設置することを決めたと言われている。もしそうだとすれば、彼はこの賞の創設に、個体生命倫理からくる贖罪意識を込めたのだろう。
 また個体生命倫理は、公共性の倫理とも矛盾することが多い。もし公共体としての国家が、外敵から己れを守るために個人の命を捨てることを要求する場合には、進んでそれに従わなければならない。たとえば、共和国の思想を練り上げたジャン・ジャック・ルソーの祖国スイスの憲法には、はっきりとそういう意味のことが書かれている。
 そうして、こういう事態はどの国でも戦争時には起こりうることであって、しかも祖国のために命を犠牲にした者は、称えられたり祀られたりするものである。共同体全体によるこの称賛や鎮魂の営みには、残された生者によってはけっして矛盾か解決できないことへの遺恨の念と死者に申し訳なかったという思いとが忍び込んでいるだろう。

 こうした根本的な矛盾に、何とか倫理学的な言葉を与えようとすれば、次のように考えるほかはない。
 すなわち、個体生命倫理には、それを受容できる条件あるいは制約というものがおのずからあって、この条件あるいは制約から独立に、それ自体として存立させることはできない。またそうすべきではない。その条件あるいは制約とは――

この倫理が必ず何よりも優先するというのではなく、いつも特定の具体的状況との絡みでその優先性が問われなくてはならない。「ひとりの命は地球よりも重い」はしょせん言葉であって、犠牲やむなしとして決断と行動に踏み切らなくてはならないこともある。
 刑法で違法性を阻却される正当防衛や緊急避難による殺人はこの最もわかりやすい例である。また国家の行動としての戦争は、それが正しいか間違っているか、賢い判断であるか愚かな判断であるかにかかわりなく、犠牲者を生む。世界平和は人類の願いだが、願いの実現を待つわけにもいかないのが世の習いであれば、私たちはこの犠牲の発生を覚悟しておかなくてはならない。

この倫理は、常に当事者(命を奪われるかもしれない者)にとってのありうべき未来との関係において考えられなくてはならない。この関係では、当事者が今後生きていても、他者を害さないかどうか、また当人が充実した生を送りうる可能性がいかほどのものかという判断が必ず関与してくる。
 たとえば矯正の見込みがないと考えられた凶悪犯罪者への死刑執行、脳死状態の患者からの臓器摘出、末期患者の延命措置中止などは、この判断がネガティヴにはたらいた例である。これらの殺人行為は、たとえ本人の事前の同意があった場合でも、他者からの強制性が大なり小なり作用することを避けられない。また、子どもや若者、女性の生命を優先させる例などは、同じ判断がポジティヴにはたらいた例である。

 
それぞれの個人が互いに他者の生命を尊重しうる範囲と限界がおのずから存在する。どんな有力者も、「他者」一般の生命をおしなべて尊重することはできないという事実を認識しなくてはならない。
「他者」という概念は、自己とか個人とかいった概念の対立項として便利に用いられるが、実際の生においては、その中にいくつかの次元の違いがあるということを常に見つめながら用いる必要がある。この次元の違いは大ざっぱに言って三つある。すなわち一つは、夫婦親子兄弟、親戚、友人、恋人、頻繁に出会う知人、隣人などの「身近な他者」であり、もう一つは、行路で出会って別れてしまう「見知らぬ他者」であり、最後に法的な人格というレベルで取り上げられる「一般的な他者」である。
 人は日常的人倫において、はっきりとは語られないこの次元の違いを理解し、その理解に応じてそこに軽重の差別を施しつつ道徳的な行動をとっているのである。先に引いたヒュームの言葉も、この避けがたい事実を指摘したものと考えられる。

  
人はそれぞれの生を歩み、いずれははかなく別離してゆく存在であるという人間の深い自覚が、この倫理に影響を与えている。個体生命倫理そのものはなるべく貫かれるべきであるし、個々の個体生命の限界を超えて維持されるべきであるが、しかし絶対的ではない。いずれ誰もが死ぬということは、すべての人がよく知っているので、だからこそ、①~③で述べたように、この倫理をただ何よりも優先されるべきものとして前面に押し出せば済むのではなく、あるケースによっては死んでも仕方がないという諦念をいつも傍らに引き寄せておく必要がある。そのことによって、かえってこの倫理にそのつど具体的で適切な位置を与えることができるのである

特別シンポジウム 「2015年の安倍政権を占う」 の主宰者からの正式の告知です

2014年10月02日 12時27分27秒 | お知らせ
 『Voice』特別シンポジウム「2015年の安倍政権を占う」 
小浜逸郎氏、藤井聡氏、三橋貴明氏、柴山桂太氏が安倍政権の経済政策を斬る!

先の政府発表によると、4―6月期の実質GDPが年率換算で6.8%減となり、その他の指標も軒並み景気の悪化を示しています。それにもかかわらず、今年末には、安倍総理は消費税10%への増税を決定しそうな気配濃厚です。
その他の政策の実現具合を見ていても、安倍政権の経済政策がデフレ脱却には程遠い状態にあると感じざるを得ません。それどころか、デフレの悪循環はさらに深まりそうな勢いです。
日本が経済危機、インフラ崩壊の危機、エネルギー危機に差し掛かっている事実を忘れてはなりません。国民の生活に直結するこれらの問題がいかに政権の帰趨を左右するかはもとより明らかなことです。
しかし野党の体たらくを見る限り、倒閣を喜ぶわけにはまいりません。
本シンポジウムでは、このような問題意識に基づき、小浜逸郎氏(批評家)、藤井聡氏(京都大学教授)、三橋貴明氏(経済評論家)、柴山桂太氏(滋賀大学准教授)に、安倍政権の経済政策についてご議論いただきます。

【日時】
2014年11月4日(火) 19:30~21:30 (19:00開場)
〈タイムスケジュール〉
19:30~21:00 小浜氏、藤井氏、三橋氏、柴山氏によるパネルディスカッション
21:00~21:30 質疑応答

【場所】
PHP研究所 2階ホール
 住所:東京都千代田区一番町21東急一番町ビル
 地下鉄半蔵門線「半蔵門駅」5番出口すぐ上
http://www.php.co.jp/company/map.php

【参加費】無料

【定員】先着100名 ※席に限りがございますので、お早めにお申し込みください。
http://voice.peatix.com/