小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

「骨太の方針」をどう評価するか

2018年05月30日 11時16分07秒 | 経済


報道によりますと、
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO31045710Y8A520C1000000/
政府が6月中旬に閣議決定する「骨太の方針」の原案が5月28日、明らかになりました。
その要点をまとめます。

(1)消費税は、予定通り2019年10月に10%に値上げする
(2)19年度と20年度予算で、税率引き上げによる需要変動の平準化に万全を期す
(3)PB黒字化達成を25年度に先送りする
(4)21年度時点での中間検証では、いずれも対GDP比で、
  1.PB赤字を1.5%程度に抑える
  2.財政赤字を3%以下に抑える
  3.債務残高を180%台に抑える
(5)財政抑制策は盛り込まない

同記事には、「政府・与党内の積極財政派に配慮した成長重視の姿勢がうかがえる」とありますが、これはかなり当たっています。
というのは、(3)と(5)にその形跡が見られるからです。

しかしこれでは、デフレ脱却策として、不十分極まると言わざるを得ません。

第一に、消費税が10%になってしまうと、単に価格が上がるだけではなく、計算が簡単なため、消費を控える人がますます増え、その結果、需要が縮小し、投資もさらに冷え込んでしまうからです。

そのことを心配してか、政府(財務省)は、「税率引き上げによる需要変動の平準化に万全を期す」などと謳っていますが、これはつまり需要縮小をあらかじめ見込んで、それを恐れている証拠です。
それにしても「需要縮小」とはっきり言えばいいものを、「需要変動の平準化」とはお笑い種のレトリックもいいところですね。

何よりも、増税を絶対の前提として政策を打ち出しているところが完全に誤りです。
デフレ期に増税をする国など、日本以外どこにもありません。
「財政破綻の危機」という嘘八百をまき散らしてきた財務省の緊縮路線は、こうしてますます国民を貧困化に陥れようとしているのです。

財務省が恐れているのは、日本経済の悪化による国民生活の窮乏化などではさらさらありません。
ただ、もしかしたら税率の増加によってかえって税収が減ってしまうかもしれない、そうすると増税に関して財務省への批判が高まり、緊縮路線を貫きにくくなるということだけなのです。
国民の豊かさ実現のために最も力を注ぐべき省庁がこの視野狭窄の体たらくなのです。

(4)の各指標についてですが、2の「財政赤字を3%以下に抑える」というのは、別に何の根拠もなく、ずっと以前から決まっていて、EUの基準を模倣しただけのものです。

ちなみに財政収支とPB(基礎的財政収支)の違いについて。
財政収支とは、国の歳入と歳出の差のことで、歳入には、ふつう、税収およびその他の収入に加えて、国債発行収入が含まれます。また歳出には、政策支出のほかに、国債の償還費(元本+利子)が含まれます。
PBとは、歳入から国債発行収入を除いた額と、歳出から国債の償還費を除いた額との差を表します。後者が前者を上回る場合、PB赤字と呼ばれます。
しかし赤字であっても、さらに国債の発行によって赤字が増えたとしても、何ら財政破綻の危機などは意味しません
それなのに、財務省は、これを黒字化することが「財政健全化」だと思い込み、この路線達成に教条的に固執しているのです。

また毎日新聞の24日の記事によれば、
https://mainichi.jp/articles/20180525/k00/00m/020/153000c
「PB以外の2指標は、厳しい歳出改革をしなくても自然に達成できる見通しだ」とのことですから、制約指標が三つもある事実に対して、積極財政派に対する攻勢が厳しくなったとうろたえる必要はありません。
むしろ二つが自然に達成できるなら、デフレ脱却のために、大規模な財政出動を訴えていく余地が大いにできたと考えるべきです。

問題は、PB黒字化目標が残ってしまったという一点なのです。
前出の毎日の記事も、財務省緊縮路線の広報係よろしく、先の文言の後に、「このため財務省内から『歳出を増やしても構わないという誤ったメッセージになりかねない』(幹部)との懸念が出ている」と、わざわざ付け足しています。
御用メディアは困ったものです。

私たちが目指すべき標的ははっきりしています。
消費増税とPB黒字化に象徴される財務省の緊縮路線をいかに潰すかです。

付け加えますが、筆者が、安倍首相と財務省の間には、デフレ対策をめぐって「暗闘」があると書いてきたことに対し、ある媒体で、「どこにそんなものがあるのか証拠を示せ」といった意味のコメントがありました。
証拠は、すでに二つ示しています。

①安倍首相が消費増税を二度延期したこと。
②昨年の「骨太の方針」に政府債務の対GDP比という正しい財政健全化の指標を入れたこと。
https://38news.jp/politics/11893

PB黒字化目標に対抗してこの指標を入れた意味は次の通り。
PBでは、単なる収支上の数字を黒にするために、歳出の削減に走るか、税収を増やそうとして増税を強行するしか手がありません。
しかもこの手法は現に裏目に出ているのです。
じっさい、財務省はそれをやってきました。
しかし債務残高の対GDP比ならば、財政出動によって景気を刺激し、その結果、GDPが増えれば分母が大きくなるので、債務残高がそのままでも、財政健全化が実現するのです。
もっとも日本の財政が不健全だという認識自体、財務省が流し続けたデマに他ならないのですが。
財政不健全を言うなら、デフレ脱却のために必要十分な財政出動がなされないことこそが、まさしく不健全財政というべきです。

さらに今回の方針原案では(3)PB黒字化達成を25年度まで先送りすることと、(5)財政抑制策は盛り込まないことが明記されました。
これは経済財政諮問会議における安倍首相の強い意向がなかったら、いったい誰が実現させたのでしょうか? これも財務省VS首相官邸の「暗闘」の事実を示していると言って差し支えないと思います。

何度でも断ります。
以上の指摘は、安倍政権の経済政策全般のひどさを免罪するものではありませんし、その責任者である安倍首相を擁護するものでもありません。

ただ言っておきたいのは、次のことです。
何でもかんでも財務省と安倍首相とを同一視し、政権内部の複雑な力関係を見ないようにするのは冷静さを欠いた感情的な反応です。
それは、反安倍をひたすら叫ぶ左翼や、個々の政策の良しあしも検討せずに安倍政権をとにかく支持するといった、心情保守派の態度と変わりません。
お互い、事の核心を見誤らないようにしましょう。

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「『非行』としての保守──西部邁氏追悼」
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「西部邁氏の自裁死は独善か」
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「ポピュリズムの再評価」(仮)の座談会に
出席しました。(8月15日発売予定)


自殺幇助はどこまで許されるか(その3)

2018年05月26日 23時40分59秒 | 思想


 明らかな犯罪行為と美しい幇助との間に無限のヴァリエーションがあると言いましたが、意図的な自殺とは別に、現代では、病院における末期患者の安楽死の問題が大きくクローズアップされています。
 苦痛の耐えがたい末期患者などに医師が毒物を注射して行う積極的安楽死は、本人の意思(または意思が確認できない場合は近親者の同意)にもとづくので、一種の自殺幇助です。もちろんそこには、厳しい条件が付けられます。
 これが合法化されている国はまだ少なく、スイス、ベネルクス三国、カナダ、アメリカの五州、オーストラリアの一州、韓国などです。しかし、無駄な延命措置の停止などの消極的安楽死(いわゆる尊厳死)は、日本でも、合法ではないものの、違法性が阻却されるのが普通です。
 実際に医療現場で終末期にある患者にどれくらいの割合で、延命措置の停止が行われているか、確実な資料はありません。数%に過ぎないという説もありますが、これはあてになりません。
 しかしいろいろな意識調査では、8割から9割以上が、尊厳死を望むという結果が得られています。これはほとんど全員と言っても過言ではありません。ただ、生前、意識が確かなうちに書面でリヴィング・ウィルをしたためておく人は、日本ではまだまだ少ないようです。
 筆者自身は、無駄な延命措置をしないようにとのリヴィング・ウィルを家族に表明しています。
また、もう三十年近く前になりますが、筆者は、死期の間近な縁戚者の人工呼吸器を、家族の同意を得て医師が外した現場に居合わせたことがあります。その縁戚者は、末期癌で抗癌剤を飲まされ、副作用でかなりつらい思いを味わい、結局最期もだいぶ苦しんだようです。病院側も家族の申し入れを割合素直に受け入れ、訴訟を恐れるという風はありませんでした。
 筆者の想像ですが、実態としては、末期患者で脳死状態に陥り、家族の求めがあった場合、こうした延命措置の停止は、かなり行われているのではないかと思います。表ざたになっていないだけではないのか、と。
 苦痛の緩和措置も普通に行われるようになり、終末期医療が発達している今日、8割から9割の人が無駄な延命措置をやめてほしいと望んでいるのですから、尊厳死はもっともっと公認されてよいでしょう。その方が医師も気が楽になります。
 これは価値観の問題なので強弁するつもりはありませんが、高齢者は残されることになる遺族のために、リヴィング・ウィルを積極的に書面で残しておくべきだと思います。

 また筆者は、安楽死さえ公認されてよいと考えています。
 オランダで安楽死が合法化されたのが二〇〇一年ですが、その時、実行を申し出た末期患者と医師とのやり取りをテレビで放映していました。淡々と事態は進んだのですが、仕事とはいえ、やはり医師の側にためらいと苦悩の表情がありありと見られました。死刑執行人のような気分なのでしょう。
 自殺を罪とするキリスト教国の伝統から無縁ではありえず、それはそうだろうなあと、見ていて思いましたが、反面、これは慣れの問題でもあります。法的な権威の下に命を委託され、責任を問われることもないのですから、医師も職業人としての使命を全うすべく、患者の希望には毅然として接するべきではないかと考えました。
 
 最後に、再び西部氏のことに話を戻しましょう。
 奥様を亡くされ、だいぶお体も悪くされていたようで、また、いくら言説を唱えても変わらぬ「この世」の姿にうんざりしていた様子も見られましたから、これらのことが自裁理由の大きな部分を占めていたのでしょう。
 しかし、もし日本で安楽死が合法化されていたなら、それを選ぶこともできたのではないでしょうか。入院し、事情をよく説明し、決然と意思を表明する。西部氏ならご家族を説得することも可能に思えます。そうすれば、自らの意思で死を選んだことになり、日頃の信念と合致させることもできたわけです。何よりも、人を巻き込む必要はなかった。
 彼は、現在の自然死は病院死と同じだと説いて、その事実を忌避していました。気持ちはよくわかります。入院した折に、ひそかに抜け出して、だれかと酒を飲みに行ったという話をどこかに書いていたように思います。いかにも「腕白坊主」のリーダーらしさが出ていて、僭越ながらとても微笑ましく感じたものです。もし安楽死が容認されていたら、彼のなかで「病院」のイメージも少しは違ったものとなっていたのではないでしょうか。
もうこのあたりのことについてお話を聞けないのがとても残念でなりません。


自殺幇助はどこまで許されるか(その2)

2018年05月24日 19時32分48秒 | 思想


 さて法と道徳とはもちろん同じではありません。
違法性を問われなくても、道徳的には許されないことはたくさんあります。法はそれを管理・運用する機関が取り上げた場合のみ有効性を発揮するので、法を取り締まる機関が見逃せば罪に問われることはありません。
道徳の方が生活の全局面にその力を及ぼすので、法よりもずっと広い範囲をフォローします。しかしその分だけ、何が道徳的で何が道徳に悖るのか、その境界があいまいです。それは、法が行為だけを問題にするのに対して、道徳が意思や感情などの内面を問題にすることにも関係があります。
 また反対に、道徳上ほとんど問題がないと思われる場合でも、違法性が問われる場合もあります。過失にかかわる罪や、法に対する無知、また正しいと信じて行った行為が現行法では違法だという場合などがこれに当たるでしょう。
 しかし法と道徳とは、全く無縁というわけではなく、相互に影響を及ぼし合う関係にあります。なぜこの法があるのかという根拠は、他人を侵害すべからずという一般道徳観念に求められるでしょうし、一共同体のなかである道徳が慣習として維持されているその力は、法の順守や法による懲罰の不断の積み重ねの歴史によってこそ支えられるでしょう。

 自殺幇助は、思わずという場合もあるでしょうが、多くは、右に述べた「正しいと信じて行った行為」に相当します。
 つまり、それが許されるかどうかは、もともと法がフォローできる範囲を超えた道徳上の問題であると考えるべきです。なぜなら、幇助を正しいと信じられるかどうかは、ただまったく個別の状況次第だからです。
 ここに二つの極を考えることができます。
 一つは、縁のない人間が自殺サイトなどで自殺願望を持つ人を招き寄せて、ヘンな信念や猟奇趣味で「殺してあげる」ような場合(そんな事件がありましたね)。これは明らかな犯罪であり論外というべきでしょう。
 もう一方の極に、森鴎外の『高瀬舟』があります。
 京都の罪人を遠島に送るために高瀬川を下る舟に、弟を殺した喜助という男が乗せられていました。護送役の同心・羽田庄兵衛は、喜助がいかにも晴れやかな顔をしているのを不審に思い、訳を尋ねます。
 親を失った兄弟は仲よく助け合って暮らしていました。弟が病で働けなくなり、兄の喜助のためを思って自害をはかりますが、死にきれずに苦しんでいます。喜助は医者を呼ぼうとしますが、弟が死なせてくれと頼むので、思わず刺さった刀を抜いてやると、そこに婆さんがあらわれて殺害現場として目撃されてしまいます。いわば冤罪で流刑に処せられるのですが、喜助は申し開きもせず、罪をそのまま引き受けたのです。
 この作品には、互いを心から思いやる兄弟愛が深く絡んでいます。喜助が晴れやかな顔をしているのは、弟が自分のことを思って自害をはかったことが明瞭だからです。その心意に対する謝恩の気持ちのようなものが彼の心を浄化して、素直に刑に従わせているのです。犠牲となった弟は、彼にとっていまは仏さまに似た位置にいます。
 この場合には、喜助のいる場所は一種の宗教的な境地であって、弟を救おうと思えば救えたはずだなどと言い立てることは、余計なお世話です。喜助は法のみならず、道徳をも超えた場所にいるのです。
 自殺幇助とひとくくりに言われる行為は、以上の両極の間に、無限のヴァリエーションをもって現れるに違いありません。そのヴァリエーションを規定する条件には、次のようなものが考えられます。

①当人と幇助者との関係の濃さ
②当人の年齢
③当人が自殺したいと思うに至った事情、心境
④その事情や心境を幇助者がどこまで理解し、同情し得ているか
⑤幇助者の生活についてのこれからの見通し
⑥自殺方法についての合意の有無

 このように考えてくると、自殺幇助が許されるか否かは一般的には決められず、人々がはまり込んだ個別の状況と、当人たちがそれをどう受け取るかにかかっていると言わざるを得ません。他人がそれを判断しなくてはならないときには、それぞれのケースの具体相をできるだけ細かく知る必要があります。

自殺幇助はどこまで許されるか(その1)

2018年05月23日 23時21分18秒 | 思想


以下の文章は、「月刊Voice」2018年6月号に寄稿した記事を、タイトルを変えて転載したものです。3回に分けて掲載します。


 思想家・西部邁氏が二〇一八年一月二一日、東京都大田区の多摩川で自裁されました。発見当時、西部氏は土手の樹木にロープで体を結びつけていましたが、手が不自由で単独作業は不可能とみられていたことから、捜査関係者は、当初から事件性を疑っていました。
 四月五日、西部氏と親交があり深く彼の思想を信奉していた二人が、自殺幇助容疑で逮捕されました。本人たちは容疑を認めています。一人は昨年九月ころから道具を用意していたという報道もあります。西部氏はかなり前から周囲に自殺の意思を周囲に打ち明けていたので、二人とも十分覚悟した上でのふるまいだったのでしょう。
 幇助が報道されるまでは、おおむね、西部氏の自裁は日頃の死生観を言葉通りに実行し、思想家としての、また一人の実存者としての自己完結性を示したものという肯定的評価が多かったようです。しかし幇助が明らかになるに及んで、ずいぶんと議論が巻き起こりました。批判的なものだけを集めてみますと、「二人には妻子があるのだから、日頃、人に迷惑を及ぼさない死に方を提唱していたのと矛盾する」「最後の番組で、一人で生まれ、一人で生き、一人で死ぬと語っていたが、その言葉を裏切っている」「手が不自由でも一人で死ぬ方法はいくらでもある」「少し裏切られたような気分だ」等々。
 それほど深くはありませんが、近年浅からぬお付き合いをさせていただいていた筆者としても、他人事のように客観的な語り口に終始するのはフェアではありませんので、少しだけ感想を述べます。
 西部氏は、ずいぶん前から自死を選ぶことを語っていました。筆者は率直に言って、「そういうことはあまり公言すべきことではないのではないか」と感じていました。
 もちろん、彼の思想は、ただ「いのちの大切さ」や「人権尊重」ばかりを声高に主張し「よく生きること」を忘れた戦後社会のだらしないあり方に対する激しい否定性を秘めていましたから、その部分ではよくわかるところがあり、半ばは共感していました(あくまで「半ばは」です)。
 しかし、言論や思想としてそのことを訴え続けることと、自分の身の処し方をどうするかとは、別問題です。そこは切り離しておいた方がいいのでは、と思っていたのです。
 このたびの「事件報道」を知って、まず、西部さん、ダンディだったのに、ちょっとカッコ悪いな、という印象を抱きました。あの配慮の行き届いた西部さんが、手伝ってもらう二人に迷惑が及ぶことを考えなかったはずはないからです。
 でも、次に思ったのは、三人の間の具体的なやり取りを詳しく知らないこちらとしては、あまりそこに介入できないなということでした。二人のほうも、自分の家族に対してはアフターケアを十分に考えた上でのことだったかもしれませんし。
 結局、これはプライベートな成り行きであり、西部思想との関係をあまり大げさに論議するのもどうかと思います。言行不一致を道義的に問題にしてもあまり意味はない。小林秀雄ではないけれど、出来上がった思想は「言葉」としてすでに実生活からは自立しているのだから、後世の人に味わい尽くされることによって、残るものなら残るべくして残るだろう――こんなところに落ち着きました。

 ところで、ここからは、西部氏個人にまつわる問題とは少し離れて、自殺幇助(または安楽死)ということを、倫理的にどう考えたらよいのかという一般的問題を扱ってみたいと思います。
 法的な面を整理しておきます。
 自殺幇助罪は、刑法202条「自殺関与・同意殺人罪」のなかに含まれ、自殺教唆罪、嘱託殺人罪、承諾殺人罪と並んで、六か月以上七年以下の懲役または禁錮と決められています。
自殺について、違法か違法でないかの二つの考え方があり、幇助罪もこれに準じて考え方が異なります。自殺を違法とみる場合は、当人の「責任」が阻却される形で結果的に罪に問われないことになりますが、幇助はそのまま違法とされます。また違法ではないとする立場では、自殺自体は違法性が阻却されますが、幇助は他人の意思に影響を及ぼし生命を侵害する行為だから違法であるとされるわけです。
 この二つの考え方に従って、幇助の着手時期にも違いが出てきます。
前者では、実行開始時が着手時期とされますが、後者では、自殺関与自体が独立した犯罪ですから、幇助を始めた時期が着手時期となります。薬物や道具の準備などを始めれば、それが着手時期となるわけです。
 これは、準備期間中に当人が翻意した場合、前者の場合なら犯罪として成立しませんが、後者は未遂罪が成立するという違いとして現れます。
 判例をつまびらかにしないので正確にはわかりませんが、幇助では、現実的に後者の立場(自殺を違法でないとする立場)の方が厳しい形を取るのかもしれません。


「非行」としての保守――西部邁氏追悼

2018年05月19日 14時05分37秒 | 思想


以下の文章は、藤井聡氏が主宰する雑誌『表現者クライテリオン』(2018年5月号)の「西部邁 永訣の歌」に寄稿した文章に微細な修正を施した上で、転載したものです。ちなみに原稿執筆の時点では、西部氏の自裁を幇助した容疑で二名の人が逮捕された報道はなされていませんでしたが、報道事実の後でも、この文章には何ら変更の必要がないと考えていることをおことわりしておきます。


 思想というものを、一人の人間の血肉から引きはがしようのない言葉の塊ととらえるなら、西部邁氏が吐き続けた言葉の塊は別に「保守思想」ではない。
 いつの頃からか、かけがえのない言葉の塊を、それが政治に関わるからというだけの理由から、左翼、右翼、保守、リベラルなどという便宜的理解で片づける習慣が定着してしまった。しかし試みに、そういう分類用語を用いてわかった気になっている人々に、「あなたの言う保守とはいったい何ですか。定義してみてください」と意地悪な質問をしてみてはどうだろうか。大方は、政党名や政策の特徴などに結びつけたぼんやりした答えしか返ってこないに違いない。もう少しましな場合には、国家秩序の維持、歴史や文化伝統の尊重を信条とする思想傾向といった答えが返ってくるだろうか。
 西部氏自身、たしかに自ら「保守」を標榜されていた。その場合、国家秩序の維持や文化伝統の尊重を口にされることもしばしばだった。
しかし、「保守」という概念に関わって彼の言葉で最も頻繁に目にしたのは、「生の危機にたえず向き合いながらも、自由と秩序、平等と格差、博愛と競合、合理と感情などの対立項の一方に身を寄せずに、たえず平衡を保ち続けること」といった定義だろう。その平衡の保持から活力、公正、節度、良識といった価値が生じてくる。西部氏は、それを「保守」の理念とされていた。
 このような理念の表明の仕方自体がすでに十分個性的であって、普通の日本人がイメージする政治的な概念としての「保守」からはかなりかけ離れている。この理念は、政治的党派性を表すものと言うよりは、むしろ生き方の規範と言った方がよい。つまり西部氏の本当の思想的関心は、「我々一人一人がどのような規準によって生きるべきか」という実存的なところにあったように思えてならない。

 事実、西部氏は、集団的狂騒を嫌い、ルールやマナーを守って静かに会話を楽しむことをたいへん重要視された。たとえばそれは、ソクラテスやストア派やエピクロスら、古代ギリシャの哲人たちの高貴なたたずまいを理想としているようだった。
 もちろん静かな会話といっても、その具体的内容の多くは政治的なものであったし、その場合、よって立つポジションは、概ね世間が考える「保守」的なものであった。けれどももう少しよく詮索してみると、そこには、凡俗や衆愚を嫌悪する風が濃厚に漂っていたことがわかる。彼の批判対象が、マス社会、戦後平和主義、ヘドニズム、拝金主義、技術文明一辺倒、総合化を忘れた専門人、物質的快楽追求の象徴としてのアメリカといったものに向けられていたことによっても、そのことはうかがわれよう。
 それはあまりに鋭い否定の情熱に満ちていたので、なまなかの「保守」という器に収まりきるものではなかった。西部氏の政治言説の鋭さは、政治そのものの汚らしさ、欺瞞性を知り尽くしていた者のそれだった。現実政治に対して鋭い切り込みをするには、そういうことが必須条件となるからである。

 だが凡俗や衆愚への嫌悪という感性を芯のところに持ちながら、それでも西部氏は、あの人懐っこい頬笑みを絶やさず、政治論議という猥雑きわまる世界に可能な限り付きあった。そこには、ひとたび共感を抱いて接触をもった個々の人々に対して已みがたい親愛の情を惜しまないという、もう一つの感性が同時に働いていたからだろう。
 だから西部氏の周囲には、必ずしも信条を同じくしない多くの人々が集まった。といってもそれは、こうした独特の感性のあり方からして、多少とも社会の現状に満足しない少数派に限られるようだった。そのことに西部氏はとても自覚的だった。

 西部氏の反時代的、またあえて言えば反社会的といってもよい資質は、ずいぶん早い頃から身についていたようだ。終戦の年、六歳の早熟な子どもだった西部少年は、戦後の価値の大転換に対して、すでにして強烈な違和感を抱いたらしい。
 中学生の時、硫黄島決戦を描いたアメリカ映画を見せられ、星条旗が掲げられた時に他の生徒たちがいっせいに拍手するのに接して、一瞬何が起きたのかと思い、次にこいつらはみな莫迦で下劣だと感じたという。
 この体験は、反米思想やナショナリズムの目覚めというよりは、同胞の敗北に何の痛痒も覚えない烏合の衆の鈍感さに対する、多感な少年の激しい嫌悪と孤立感とを物語っていると言ってよいだろう。
 西部氏はまた、後に本物のやくざになる高校時代の親友のことをたびたび書かれている。両親はなくたった一人の姉はそれらしい職業についていた。しょっちゅう喧嘩で腫らした手で鉛筆を握り、猛烈に勉強していたその友人は、西部氏と最高位の成績を競い、彼の家にある世界文学全集を片っ端から借りていった。だが二年の冬にその友人は中退し、十五年後に再会した時には、重症の覚醒剤中毒でボロボロの体だったという。
 大学時代は安保闘争とその後始末で明け暮れた。ほとんど共産党に対する反逆としてだけ意味を持ったブント(共産主義者同盟)に迷わず属した西部氏は、二十五年後に、同志たちの群像について、『六〇年安保 センチメンタルジャーニー』という秀逸な一書をものする。中で彼は、ブント自体を非行者の群れと位置づけ、次のように書いている。

多数者のとは目立った形で異なる素行、それが非行なのだとすると、否応もなく非行者を模索するのが私の交際法である。私自身は目立つまいと努めるのだが、非行者との縁が私をひきつけて已まないのである。(中略)畢竟してみるに、ブント体験が私にもたらしてくれた最大のものは、非行者との縁を断つことの不可能を教えてくれた点にある。

 このアウトロー的感覚が、逆説的に西部氏の社交性に連続している。この書が書かれた直接のきっかけは、安保闘争のアンチヒーロー・唐牛健太郎の早すぎる死である。しかしその筆致の底にあるのは、かつての同志であった「非行青年たち」に対する西部氏特有の判官贔屓と呼んでもよい人情のあり方である。次の一節がそのことを証し立てている。

いったい私はスターリニストから被害を受けたのであるか。被害はほとんど零である。それなのにスターリニストに屈服できなかったのは、またしても私流の馬鹿気た動機からである。私は島成郎や唐牛健太郎や青木昌彦がスターリニストによって葬り去られるのを座視できなかった。彼らは私より年長で、さして親しい間柄というのではなかったが、いかんせん、彼らの話し方、笑い声、身振り手振りまで知ってしまったのである。》(太字は引用者)

 この書が出版されてから二年後に西部氏は東大を辞職されている。それ以前からやめたいやめたいと周囲に漏らしてもいた。教授陣の何割かは精神疾患にかかっているという意味の言葉もあった。しょせんは自分を容れる器ではないと見限られたのだろう。遅まきながら「非行」を復活させ、さらに『発言者』『表現者』と思想表現の場を自前で作り上げ、そこでようやく「非行」を存分に発揮することができたのだと思う。

 西部氏は道徳や規範や憲法についても多くを語られた。そこにはもちろん、アメリカに魂を奪われ、自主独立の気概をなくしただらしない戦後社会への憤りが込められていただろう。
 しかしデラシネとして自らを規定され、道徳を語るときには、自分にはその資格がないと含羞の言葉を枕に置くことをいつも忘れなかったところを見ると、西部氏のなかには、秩序に対する強い渇望のようなものが潜んでいたのかもしれない。それはしばしば、「保守」という言葉が醸すイメージとは程遠いラディカリズムを含んで現われた。
 前掲書には「保守のかかえる逆説とは、熱狂を避けることにおいて、いいかえれば中庸・節度を守ることにおいて、熱狂的でなければならないということである」という言葉も見える。
 この荒ぶる魂は、現世でついに安らぎの場を得られなかったようである。その魂を受け継ぐと安直に言うまい。ただご冥福をお祈りするばかりである。

高度大衆社会における統治の理想

2018年05月15日 23時31分50秒 | 政治


前回このブログに、「誰が実権を握り、日本を亡国に導いているか」という記事を投稿し、多くの方の支持をいただきました。
またこれとほぼ同じ記事を三橋貴明氏主宰の「新」経世済民新聞にも投稿し、ここでもかなり好評でした。
これらの支持をお寄せくださった方に感謝いたします。
しかし中には、「右顧左眄していて、何を言いたいのかよくわからない」といった意味のコメントもありました。
こうしたコメントを寄せる人々には、失礼ながら、もう少し正確な読み取り能力を養っていただきたいと思います。
もちろん、これ以外にも見当はずれなコメントは多々あります。

再読していただければわかりますが、筆者の言いたいことは明瞭です。
要するに、いまの日本の政治で実権を握って日本を動かしているのは、必ずしも安倍首相ではなく、まして与党の有力国会議員でもなく、国民の前に姿を見せない財務官僚たちと、内閣直属の各種会議の「民間議員」と称するグローバリスト委員たちなのです。
国民は、空しい議論に明け暮れる国会の動きや政局の今後などより、まず何よりも、そのことにもっと気づくべきだというのが、その趣旨です。
ちなみに筆者の論考は、何ら安倍首相や安倍政権を擁護するものではありません。
もとよりこの政権の経済政策が、日本を一歩一歩後進国化へと導いていることは確実ですし、国政の最高責任者が安倍総理大臣である以上、その最終責任が安倍氏その人にあることは論を俟ちません。

ところで、昨年七月、このブログに、「劉暁波氏の死去に際して、自由について考える」と題して書いたのですが、
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/7696149109a06090abb7709bc9827b41
日本の言論状況は、なまじ「言論の自由」が形の上で保障されているために、諸説乱立のまま放置されています。
政府関係者も、野党も、マスメディアも、学者も、ネット言論も、みんな勝手なことを唱えて、ほとんどだれも責任を取ろうとしません。
まともな議論がいまの日本には成立していないのです。
いくら正しいと思えることを、論理と証拠を挙げて論じても、声のデカい勢力の洗脳にたぶらかされ、聞く耳を持たなくなった人たちが圧倒的多数を占めていて、「暖簾に腕押し」の状態です。

もちろん、中には少数ながら、こうした状況にもめげず、繰り返し正論を唱え、それに見合った実践をしぶとく行っている人々もいますから、絶望してはなりません。
じっさい、この人たちの努力が少しずつ浸透している兆候はあります。
たとえば、自民党の三回生議員が中心となって作られた「日本の未来を考える勉強会」(代表・安藤裕衆院議員)が、このたび消費増税凍結やPB黒字化目標の撤回を求める提言を発表し、安倍首相に、6月に予定された「骨太の方針」に反映するよう要求することを決定しました。
これなどは、そのよき兆候を明確に示しています。
この会は、30人ほどによって構成されています。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO30361800R10C18A5EA3000/
筆者は、この会を心から応援するとともに、ますます勢力を伸ばすよう祈りたいと思います。

ただ、「言論の自由」なるものがいまの日本の大勢のような状況を呈していると、こうした兆候だけではまだまだ足りず、言論人の端くれとしては、この「暖簾に腕押し」状態をどのように打開したらいいのか、と頭を悩ませざるを得ません。
社会批判、政権批判の有効性について考えるとき、やはり念頭に置かなくてはならないのは、高度大衆社会という苛立たしい現実です。
高度大衆社会とは、先進民主主義社会の必然的な帰着点と言ってもいいものです。
その条件は以下のとおり。

(1)経済的な豊かさがそこそこいきわたっている。
(2)高等教育がそこそこいきわたっている。
(3)誰にも言論の自由があることが法的には保証されている。
(4)誰にも政治参加の機会が一応は与えられている。
(5)マスジャーナリズムが不必要なほど肥大している。
(6)情報技術が高度に発達している。
(7)主権者であるはずの国民が中央政治やマクロ経済に真剣な関心を示さず、簡単に割り切る習慣を身につけている。
(8)世論なるものが、マスジャーナリズムの印象操作によって形成される。
(9)災害時の風評被害の例のように、情報伝達のスピードと不正確さが背中合わせになっている。
(10)豊かさに陰りが見え、格差が開くと、ルサンチマンが強い力を持つ。

こうした状態が長く続くと(続いているのですが)、実権を握る者たちの大衆操作がしやすくなる反面、民衆が、それとは必ずしも連続しない感情的な世論に迎合しやすくなります。
また情報発信が誰にでもできるので、深い考えもない人々が一丁前に意見を言うことで、「自己実現」を果たした気になります。
それらの多くは、大局を見逃した些末な問題に偏りがちになります。
つまり政治の表面にあからさまな権力者(皇帝など)が君臨していなくても、国家や国民生活の命運を左右する重大事が、慎重な議論もされないままに、いつの間にか空気や時々の勢いによって、決定されて行ってしまうのです。
かくして、高度大衆社会こそ、全体主義の生みの親です。
全体主義というと、だれもがヒトラー・ナチス・ドイツや、ソ連のスターリニズムを思い浮かべますが、現代の全体主義は、一人あるいは少数の権力者によって作り出されるのではありません。
民衆の一見不統一な集合のうねりそれ自体が、すでに全体主義なのです。
形式的な権力者は、高度大衆社会では、民衆に迎合せざるを得ず、その点でむしろ無力です。

こうした状況に対処するには、次の方法しかありません。
よく考えることにおいて卓越した能力を持ち、公共精神あふれる者たち(真のエリート)が、権力者に実際に働きかけ、適切な政策提言をし、時には政権に一定のポストを占めることです。
以前、このブログで、「新」国家改造法案として提案したことがあるのですが、
これを少しでも実現するためには、まず上のような人たちによる、「スーパー・シンクタンク」のようなものを作る必要があります。
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/fee57cf113cc09fe54fde5299f6fb1b0
こういう人たちが少なくとも10人集まって、定期的に会議を開き、これからの日本の進むべき方向を決めていくのです。
これは、政権が代わっても存続する必要があります。
それだけの権威を維持するのに何が必要か、どうやって権力に食い込むのか、それを考えるのがさしあたっての課題です。
この発想は、プラトンの「哲人国家」論に近いものがあります。
筆者は、プラトン思想に必ずしも共鳴するものではありませんが、彼がペリクレス時代の民主政治にたいへん批判的だった点には、共感できるところがあります。
プラトンは、衆愚政治が師のソクラテスを殺したと考えていました。
真のエリートを活かすことができない現代でも、基本的な問題点は変わっていないのではないでしょうか。


お知らせ一部修正とお詫び

2018年05月08日 12時52分59秒 | 思想


前回のお知らせで、拙著『福沢諭吉 しなやかな日本精神』の発売を予告いたしましたが、
内容の一部に変更が生じましたので、改めてお知らせいたします。

定価が864円+税となっておりますが、これは、アマゾンに掲載されている価格です。
現時点(2018年5月8日)では、アマゾンに予約お申し込みをしていただければ、この価格で購入できます。

しかし、正式な価格は960円+税です。
この食い違いは、版元とアマゾンとの間での手違いによるものです。

近々、アマゾンでの表示も960円+税に書き換えられることが予想されますので、
購入ご希望の方には、お早めにご予約いただくことをお勧めいたします。

修正してお詫び申し上げます。


お知らせ

2018年05月02日 22時42分02秒 | 思想


5月17日(木)
拙著『福沢諭吉 しなやかな日本精神』(PHP新書)
が発売になります。
日本の独立のために何をなすべきか。攘夷思想とも欧米崇拝とも一線を画した福沢の「しなやかで強靭な日本精神」に肉迫する刮目の書。
定価864円+税
アマゾンで予約受付中!
https://www.amazon.co.jp/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89-%E3%81%97%E3%81%AA%E3%82%84%E3%81%8B%E3%81%AA%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B2%BE%E7%A5%9E-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B0%8F%E6%B5%9C-%E9%80%B8%E9%83%8E/dp/4569840507/ref=sr_1_fkmr1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1525269838&sr=1-1-fkmr1&keywords=%E7%A6%8F%E6%B2%A2%E8%AB%AD%E5%90%89%E3%80%80%E3%81%97%E3%81%AA%E3%82%84%E3%81%8B%E3%81%AA%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B2%BE%E7%A5%9E

誰が実権を握り、日本を亡国に導いているか

2018年05月02日 00時42分54秒 | 政治


GWたけなわですが、やはり大切なので、堅苦しい話題を。

財務省の不祥事が続く中、与党の中からは解散総選挙の声も出ています。
森山国対委員長が4月25日、「内閣不信任決議案が出されれば、衆院解散も一つの選択肢」と述べましたが、二階幹事長はこれを否定しました。
これはたぶん合意の上の役割分担でしょう。
解散されては困る野党へのちょっとした脅し。

万一総選挙ともなれば、国民の政治参加の機会というわけで、マスメディアはこぞって大騒ぎし、国民もつられて、その経緯をめぐって否応なく興奮します(筆者も少しは興奮しますが)。
しかし、以前にも書きましたが、国会議員の勢力分布がどうなるかに関心を集中させることが、本当にいまの政治の動きを理解したことになるのか。
答えはNOです。

なぜならまず第一に、いくら野党が安倍政権打倒を叫ぼうと、力関係が違いすぎます。
政権支持率が下がっても、選挙結果は大勢に変わりないでしょう。
解散をチラつかせられた野党の焦りがそれをよく示しています。

第二に、これが重要なのですが、いまの日本の政治を現実に動かしているのがどういう勢力かということを、多くの国民はあまり認識していません。
総選挙などがあると、何党が何人当選したかがいかにも日本の政治の焦点であるかのように見えます。

日本の政治を現実に動かしているのは、第一に財務省と総理官邸とのせめぎ合い、第二に内閣府の下にある経済財政諮問会議、規制改革推進会議、また経済財政諮問会議と連携している日本経済再生本部傘下の産業競争力会議(2016年9月より「未来投資に向けた官民対話」と統合され「未来投資会議」と改称)などの政府諮問機関の動向です。
やたら何とか会議という漢字が並び、名前を聞いただけでも引いてしまいますね。
ちなみに安倍首相は、規制改革推進会議以外の二つの議長を務めています。
でも議長職ってそんなに実権を握っていませんよね。
つまり、国民の見えないところで財務官僚やこれらの諮問機関の委員たちが大きな力を振るっているのです。

さて第一のせめぎ合いは、消費増税やPB黒字化の達成を目指す財務省と、これを本音では拒否したい安倍首相との、長きにわたる暗闘を意味します。
この暗闘の事実を打ち消して、安倍政権を全否定する向きもあります。
筆者はけっして安倍首相の肩を持つわけではありません。
ダメなところが山ほどあります。
しかし不正確な認識にもとづいて、財務省も安倍も一蓮托生としてとらえてしまうと、
何と戦うべきかが見えなくなります

事実、安倍首相は2014年の増税に懲りて、10%への増税を二回延期しました。
また、2017年の閣議決定(骨太の方針)では、それまで書かれていた「10%への増税」の言葉が消えるとともに、新たに「財政健全化」の方向性として「債務残高対GDP比」という正しい概念が書き加えられました。
残念ながらPB黒字化の方も残ってしまったのですが。
これは両論併記ということになるので、一体どちらが本筋なのかわかりませんね。

有力自民党議員のほとんどは、財務省に洗脳され、増税やPB黒字化が正しいことだと信じてしまっています。
安倍首相はこの面では孤独なのです。
財務省の度重なる不祥事が財務省を委縮させ、今年6月の骨太の方針でPB黒字化を抹消せざるを得なくなるという好影響を及ぼすといいのですが。

さて第二の各種諮問機関の動向ですが、ここには「民間議員」と称する輩が幅を利かせています。
未来投資会議(旧産業競争力会議)の首魁は、何といっても、あの竹中平蔵です。
他に経団連会長・榊原定征、東大総長・五神真、日立製作所会長・中西宏明といったお歴々がそろっています。
この人たちは、空港や水道などインフラの運営権売却の前倒しを提言しました。
つまりグローバリズムの申し子たちなのです。
またいわゆる「働き方改革」の内実である残業代ゼロ制度を推進しています。
この会議の前メンバーだった経済同友会代表幹事・長谷川閑史は、「ブラック企業に悪用されることはない」と発言しました。
安倍首相もこの動向には逆らえない様子がうかがえます。
というか、彼自身もグローバリストで規制緩和論者ですから、彼らの提言を積極的に支持しているというべきでしょう。

また、最も政権中枢に近い(中枢そのものと言ってもよい)経済財政諮問会議のメンバーには、「民間議員」として、榊原定征が二股をかけて名を連ねています。
他に財務省の御用学者・伊藤元重、日本総合研究所理事長・高橋進、サントリーホールディングス社長・新浪剛史といった「錚々たる」顔ぶれです。
すでに三橋貴明氏が4月27日のブログで暴いていますが、
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/day-20180427.html
以上四人は、4月24日の会議で、「地方行財政改革の推進に向けて」と称して、そのタイトルに背反するとんでもない亡国資料を提出しています。
それによると、
一般財政の総額に目安を設ける
つまり歳出を制限するということですね。

PB黒字化に向けては、税収増を地方歳出の増加に充てるのではなく、債務残高の引き下げに充てる
つまり「政府支出」ではなく、すべて「借金返済」に充てるというのです。
これでは、GDPになんら寄与しないことになります。
いや、その分だけGDPが減ることになります。
税収増は支出として市場に還元されず、返す必要のない「返済先」、つまり日銀当座預金残高のなかに消えます。

歳出についても不断の見直しを行っていく
つまりデフレ期に、なんと節約を奨励しているのです。

ちなみに「税収増」と言っていますが、消費増税によって税収増が見込まれることを自明の前提にしている点もおかしい。
増税で消費も投資も一層冷え込んで、その結果税収も減ってしまう可能性がきわめて大きいのに。
これは97年の橋本内閣の時に3%から5%への増税で実際に起きたことです。

こんなに政治も経済もわかっていない愚かな連中が、実際に日本を動かしているのです。
もりかけやセクハラなどをめぐる国会での与野党の、ほとんど意味のない攻防だけが報道されていますが、あんなものは時間と金の空費だけで、日本の政治を動かす何のきっかけにもなりません。
せいぜい財務省のデカい面を少しはげんなりさせるくらいでしょうか。

国民は、マスメディアの垂れ流す情報に惑わされず、国家の実権をだれが握り、どんなひどい方向に持っていこうとしているか、そのことに視線を集中させるべきなのです。
財界のボスや御用学者や無能なエコノミストによって構成される「民間議員」をまず追放せよ