小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

江戸散歩その1

2015年08月26日 19時17分51秒 | エッセイ




 江戸時代に関心を持っています。数年前から落語にハマって月一くらいの割合で聴きに行っているのですが、このたび近松西鶴の作品に少しばかり触れる機会があり、これをきっかけとして、江戸時代とはどんな時代だったのか、自分なりのイメージをきちんと固めておきたいと思うようになりました。
 この私の関心には、この時期を単に前近代的な封建時代として明治以降の近代との間に区別の線を引くのではなく、資本主義の勃興期という意味も含めて、現代にいたるまでのいろいろな意味での歴史の連続性を確認したいという思惑もあります。もちろん、不連続を象徴する表通りの事件が山ほどあることは承知の上ですが。
 しかし一口に江戸時代といっても、何しろ二百七十年にわたっています。近松や西鶴は元禄文化の華とされていますが、それ以前の幕藩体制の確立期、元禄以降の享保期、田沼時代とその反動としての寛政期、文化文政時代の爛熟期、天保から幕末に至るまでの崩壊期など、その流れはじつに起伏に富んでいます。
 これらを歴史家のように、緻密にまんべんなく視野に収めることは私の手に余ります。そこでともかく連想の赴くままにあっちへ飛んだりこっちへ飛んだりして、文化面、政治面、経済面、生活風俗面など、いろいろな方面で観察できることをつまみ食いしながら、思うところを綴ってみたいと思います。この気まま勝手な旅にお付き合いいただければ幸いです。

 話の手始めに、比較文学者・小谷野敦氏の『江戸幻想批判――「江戸の性愛」礼讃論を撃つ』(1999年・新曜社)を取り上げてみたいと思います。
 この本は、主として、バブル期に盛り上がった江戸ブームの仕掛け人の役割を果たした佐伯順子氏や田中優子氏、また、フーコー的な文脈を援用して近代の抑圧性を強調するために、両者に便乗して「前近代」としての江戸期の性愛のあり方を礼讃したフェミニスト・上野千鶴子氏を鋭く批判した、たいへん興味深い本です。
 江戸期というと、この江戸ブーム以前は、幕藩体制と厳しい身分制度と苛酷な租税によって領民がひたすら苦しめられた時代という左翼的な史観が支配的でした。しかしバブル期の浮かれ気分にちょうどシンクロするように現れた佐伯氏や田中氏の著作は、イデオロギー的な意図とは無関係に、この左翼史観をひっくり返す効果をもちました。
 この効果は、結果的に保守層を喜ばせました。当時の江戸は人口百万人を誇る世界最大の都市であり、藩校や寺子屋が栄えて識字率もたいへん高く、民百姓も飢饉のとき以外はさほど不幸ではなく、藩政もうまく行っているところが多く、和算や測量術、職人技術の高さは世界的レベルに達していたといったことがしきりに喧伝されるようになりました。
 これらは間違いとは言えないものの、その部分ばかりを強調すると、背景に素朴なナショナリズム・イデオロギーが浮き立ってくることになります。そこには往々にして、あまりよくない意味での感情的な歴史修正主義が見られます。戦後の自虐史観に基礎づけられた左翼史観もよくないですが、その反動としての前近代礼讃もまた偏っているというべきでしょう。
 小谷野氏は左翼ではありませんから、彼の議論は、性愛という主題に添って、いわばこの行き過ぎを再修正した、たいへんバランスのあるものということができます。その趣旨がよくわかる部分を二、三引用してみましょう。

≪簡単にいうと、上野(千鶴子――引用者注)は、フーコー的な近代化論の方向から、日本文化に関して、近代が「性の抑圧」をもたらしたという説に傾いていき、結果としてあたかも近世に「性の自由」があったかのような語り方をするようになったのである。これは、階級的視点が欠けている点(中略)と、前近代における「性から(原文傍点)の自由」の欠落を見落としていたという点で、「江戸幻想」に結果として加担するものとなった。
 その結果、マスコミに出ることの多い上野、田中(優子――引用者注)、佐伯(順子――引用者注)らの文章や、これらに学んだ一知半解の「江戸論」が流布することによって、「近世は性の抑圧がなかった」というような俗説が広まったのである。それはあたかも、望みさえすれば好みの相手とセックスできたのが近世だったかのような、さらに歪んだ近世像へと変容していった。これが「江戸幻想」の行き着く果てである。≫

≪私の「江戸幻想批判」を一言でいうなら、「江戸幻想派」の言う「性の自由」とは、人身売買の末悲惨な短い生涯を終えた女郎たちや、セクハラの自由、強姦の自由、残酷な堕胎や里子制度などの子どもの人権の不在などに支えられているのだ、ということだ。≫


 以下は、佐伯順子氏の『遊女の文化史』(中公新書・1987年)に対する批判です。

≪たとえば佐伯は近世初期の『露殿物語』をもって遊女崇拝を証明しようとするが、これは中世的な恋物語の変形だし、「歌舞の菩薩」という言葉が近世の女郎に使われていたからといって、それが直ちに女郎が神聖なものであったことなど意味しはしない。(中略)
(『遊女の文化史』には――引用者注)「『色』が日本の男女関係を支配していた時代には、(中略)肉体的交わりを神聖な世界への入り口として、無邪気に信じることができた」などとあるが、近世の遊里で男女が「神聖」な行為だと思って性交していたなどということは全く論証されていないし、まず論証不可能である。(中略)どうも佐伯は明治期以前の日本文化が古代から連綿とそういう時代だったと考えているらしく、あまりに雑駁な歴史観といわざるを得ないのである。(中略)
佐伯が「色」と結び付けようとしているらしい「いき」という言葉に関して歴史的粗雑さはさらに顕著であって、安田武・多田道太郎の『『「いき」の構造』を読む』(朝日選書)では、「いき」という価値観は、文化文政期の深川藝者と客とのあいだに成立したものではないかと示唆されているのだが、そういう時代や土地の区分など佐伯の目には入らないのである。たとえば近松の心中浄瑠璃は、「いき」ではないはずだが、佐伯は膨大な量の情緒的な言葉を連ねていつしか近松を「色」の世界に組み込んでしまう。≫


 要するに小谷野氏の主張は、現代知識人の過剰にロマンティックな意識に基づく思い入れを避けて、なるべくその時代、その地域における現実を正確に見積もろうということだと思うのですが、私もこれに賛成です。同じ江戸時代でも前期、中期、後期では大きく変遷しているはずだという視点も大切ですね。
 彼はまたどこかで、「冬など四時を過ぎればもう真っ暗に近かったんですよー」と述べていましたが(記憶に頼っているので、正確ではありません)、たしかに、こうしたことを考えると、おおらかで自由な性などというイメージを江戸時代に当てはめるのは、どうも見当外れのようです。まして、江戸時代を一括して、素晴らしい時代だったなどとみなす向きに対しては、ちょっと待て、と言わなくてはならないでしょう。
 バブル期の江戸ブームは、戦後の自虐史観べったりに根本的な疑問をさしはさむことに対しては、期せずして大きく貢献したというべきでしょうが、一方では、「昔はよかった」の堕落史観を助長して、近代の肯定的な意義を見えなくしたという意味では、行き過ぎだったと言えます。どの時代にもいいところと悪いところがある。そう見なすのが健全な常識というものでしょう。
 時代、地域へのそういう想像力をなるべく大切にして、これから進みたいと思います。

「空気」の支配こそ全体主義への道(SSKシリーズ21)

2015年08月10日 18時04分33秒 | エッセイ



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

【2015年6月発表】
 かつて作家の石田衣良氏が、日本は政治もエンタメも右傾化して危険な世の中になっているとして「右傾エンタメ」というレッテルを貼りました。これに対して評論家の古谷経衡氏が、実例を詳しく挙げてそのレッテル貼りは当たらないとし、さらにずっと過去の「宇宙戦艦ヤマト」などの方が明らかに軍国主義的だが、そのような非難はされたことがないと指摘しています。

「要するに、アニメや漫画、映画やゲームといったカルチャー全般に疎い者が、このような雑然とした右傾エンタメ論を展開しているのがことの真相なのである。作品を観ない・触れないで、『なんとなく』のイメージのもとに語られるのが『右傾エンタメ』の真相だ。」(産経新聞6月5日付)

 私はアニメには詳しくありませんが、目からウロコの思いです。
 少し前に加藤典洋氏という文芸批評家が、百田尚樹氏の『永遠の0』を、彼が保守的発言をしているというだけの理由で、巧妙に仕組まれた右翼的作品と決めつけていました(『特攻体験と戦後』中公文庫解説。http://asread.info/archives/1423参照)。
 加藤氏の場合は、作品に触れた上で、小難しい理屈を作り上げてそうしているのだから、もっとタチが悪い。しかも彼は文芸批評の専門家のはずです。文学作品をその外側のイデオロギーによって裁断する。これは批評家がけっしてやってはいけないことです。
 石田氏にしろ加藤氏にしろ、文学畑の人は、えてしてこの種の軽はずみな政治的発言をするものですが(たとえば大江健三郎氏や村上春樹氏)、それは自分の本来の仕事に自信が持てなくなってきた証拠だと思います。
 また、古谷氏の指摘は、何もアニメやゲームに限ったことではありません。
 原発問題や集団的自衛権問題など、それらが国民生活にとって持つ総合的な意味をよく調べもせず考えもしないで、漠然とした印象だけで、ただ反対、反対と叫んでいる例があまりに多い。
 これらの「空気」による世論形成は昔からお馴染みですが、今日のような高度大衆社会になると、その傾向はますます助長されます。こうした「空気」の支配のほうが、いわゆる「右傾エンタメ」の流行などよりはるかに危険です。というのは、こうした怠惰な傾向が増していくと、いくら真実を訴えても聞く耳を持たない全体主義的な社会が生まれるからです。
 たとえば先ごろ橋下徹大阪市長が提唱した「大阪都構想」がそのよい例で、これに賛成した人たちは、その構想の意図や実態をよく調べもせずに、ただ地盤沈下に対する不満のはけ口を、何かやってくれそうな「改革」のイメージに求めただけなのです。これはたいへん危険な局面でした。
 また安保法制化の国会論戦での反対野党の態度は、この法案がどんな国際環境の変化に対応したものか、どういう具体的な局面での自衛隊の活動を規定したものかを丁寧に議論せず、ただ「戦争への道を許すな」という左翼的ムードを利用しただけの、お粗末でヒステリックなものでした。
 今日、必要な知識・情報はネットのおかげでいくらでも得られます。それは功罪相半ばなのですが、少なくとも何か発言する時には、観ない・触れない・調べないを決め込まずに、功の部分を大いに利用してからにしようではありませんか。