アメリカを中心にポリコレがブームになっている。
つい先頃も、ロサンゼルスのコリアンタウンにあるサウナの女湯に、トランスジェンダー(と称する)男が堂々と入ってきて、6歳の少女を連れた母親がフロントに抗議したが、受け入れられなかった。
母親や他の客がインスタグラムに投稿したところ、全米に拡散した。
「トランスジェンダー連合」のCEOは、「われわれに対する無知と偏見から来る差別以外の何物でもない」と攻撃した。
事態はLGBTQ側と反LGBTQ側との暴力的な対決にまで発展した。
(「NEWSポストセブン」2021年7月9日)
日本の江戸時代には混浴文化というのがあって、当局は何度も取り締まったと歴史に書かれているし、幕末に西洋人が来日したときにも、カルチャーショックを感じたらしく、混浴の模様が有名な絵画として残されている。
だから、われわれ日本人がこういう話を聞いても、何も暴動まで起こさなくても、と思ってしまう。
それにサウナの光景を思い浮かべると、何となく滑稽に感じられる。
「俺も今度から銭湯では女湯に行こう」などというジョークも聞かれた。
しかし、アメリカ人のかなりの部分が、いまこのテーマで大真面目になっている。
ニューヨークでは公衆トイレの男女共用はふつうだし、トイレマークは男印・女印以外に「All Gender」と称して半分スカート、半分ズボンのマークがついたトイレがあちこちにあるという。
今回のオリンピックでも、ニュージーランドの重量挙げ選手がトランスで、女子グループに参加して話題を投げた。
中共などは自国の国威のためなら何でもやるから、むくつけき風体の「男」たちが、何人も女子選手として参加している。
IOCでも頭を悩ませているらしく、ホルモンの値など細かなガイドラインを決めているが、性転換手術までは条件に定めていないらしい。
こうした話が日本の庶民レベルでは、まだ野次馬的な話題として取り上げられる範囲に収まっているが、LGBTQ差別をなくせと大真面目に主張している稲田朋美のような国会議員もいるから、いずれ真剣な政治課題としてテーブルに上る日も近いだろう。
しかしこの種の「差別をなくせ」の声は、ある時期からはいつもそうだが、被差別者とされる該当者たちが、かつての宣言(1922年)のように本当に過酷な社会的差別を受けていて、内部から悲痛な声を発しているのかどうか、どれくらいの人がどういう具体的な差別を受けているのか、という肝心の問題がきちんと問われない。
「とにかく差別はけしからん」という観念が支配的なイデオロギーとしてまずあり、何を差別と呼ぶのかという理性的な議論もおこなわれないまま、声がデカいごく少数の人の、感覚に依拠した言い分がそのまま公式的に認められてしまう。
糾弾を受けそうなほうは、ビジネス上の便宜や責任逃れの意識から安易な自主規制に走ってしまうのである。
こうしてポリコレブームは、その勢いを増していく。
サウナの女湯にトランスの「男」が入ってきても、日本では下ネタ的な話題で笑いに解消できている部分があるが、次のような情報に接すると、ポリコレに血道を上げているアメリカという国の非常識ぶりを真剣に問題にしたくなってくる。
《医師と医学生の米国最大組織、米国医師会(AMA)は、出生証明書の性別表記を廃止するよう求め、物議を醸している。この案は、6月にAMAの評議員会で採択されたもので、公的書類である出生証明書に出生児の性別を記録することは、「差別の可能性」があるとしている。(中略)性別を記載することは、自身の性自認や自己表現が出生時に割り当てた性別と異なる人にとって、「混乱、差別、嫌がらせ、暴力を招く可能性がある」としている。(中略)米国務省は6月30日、LGBTなど性的マイノリティーの人たちの権利に配慮し、国民がパスポートを申請する際に医療証明書を提出せずに性別を選択できるようにすると発表した。AMAの提言はこれに続く形だ。今後、米国のパスポートの性別欄で「第3の性」を選択することができるようになる。》
https://www.epochtimes.jp/p/2021/08/76893.html?utm_source=newsletter&utm_medium=email&utm_campaign=647&fbclid=IwAR3sMuecgjVTXBnPNu97J632jV8Sqa-sJOo1TzMxEI4FlKmDp07j3MdxJlw
こうした決定の根底にあるのは、性差がそのまま差別につながるから、性差を否定した方がよいという粗雑な思想である。
トランスジェンダーにかかわる差別では、ノーマルな性との差異が問題にされているのだから、それとは異質に思えるかも知れない。「わたしは、体は男だが女だというはっきりした性自認がある」と。
しかし、トランスジェンダーのこの性自認という言葉がそれほど明瞭なのか、私は怪しいと思っている。
何しろ証拠がないのである。
幼いころから男だと規定されてそのことに違和感を抱き、自意識を悩ませ続けてきた人が、周りを見回すと、ジェンダーの二分法しか存在していない。
そのため彼は、「自分はきっと女なのだ」というアイデンティティを選ぶことに、自意識の悩みを緩和させる安らぎの場所を見いだしてきたにすぎないのではないか。観念を自由に浮遊させるのが人間だからだ。しかしいつしかその心の傾きは固定することになった・・・・・・。
そうした発達途上での心理的な過程をよく調べずに、体は男でも心は女(また、その逆)という性自認の絶対性を容認して、それを「選択可能」な制度としてしまうことは、究極的には、性別という、個人的にも社会的にも、また歴史的にも深い意義をもった人間の条件を無意味化してしまうことにつながる。
それは結局、性差それ自体を解消して、この世界を抽象的な人間と見立ててしまうことだ。
もちろん、現実的にも大きな不都合が生じるだろう。
性別を勝手に選択できるのなら、犯罪は容易になる。詐欺、詐称も自由である。父親認知も免れる、本人確認も困難になる、逃亡も楽々出来る。
しかしここでは、それとは別に、もう少し哲学的な角度からこれを取り上げたい。
性差を社会的に問題にしなくなるとは、自由平等という理念を無限定に絶対化してしまうことである。抽象的な自由平等というものが実体として存在するかのような錯覚に陥ることである。
どんな差別も許さないというポリコレのもくろみはまさにそこにある。だが私たちはそんな社会を望むだろうか。
そもそも人間は頭で思い描くほど自由でも平等でもなく、定められた宿命やさまざまな困難を背負いつつ、その中で許された自由や平等の獲得を求めていくことが出来るだけである。
男または女として生れる、階級社会に生れる、文明度の低い、貧しい国に生れる、低い身分に生れる、貧困な家に生れる、病弱な身体として生れる、醜い容貌を持って生れる、障害を持って生れる、低い知能を持って生れる等々。
私たちは、それぞれがそれぞれの宿命を背負って生きるほかないのである。
トランスジェンダーに話を戻せば、「体は男、心は女」というようなあり方は、性の宿命を甘受できない心を育ててしまったという、これまた精神的な宿命の所産である。
だが彼らのすべてが、自分の宿命からの解放を、「差別の撤廃」という政治的な方向に求めているかどうか、それは疑わしい。LGBTQ全体ということになれば、なおさらそうである。
彼らが個人としてより生きやすい道を見つけること、そのような方途を社会が提供する便宜を図ることを私も願う。
しかし、ことをすべて政治的な解決に求めようとするのは、過剰な自由平等を期待することであって、好ましくない。政治的に解決すべき問題は、大多数の人たちの生活のなかに、見えにくい形で、しかし普遍的な形で、時にはもっとずっと深刻な形で満載しているからである。
先の記事には、テッド・クルーズ上院議員(テキサス州選出)の国家安全保障顧問オムリ・セレン氏が「過激で進歩的な幻想主義に代わって、科学がほぼ全面的に政治化された。実に速いペースだ」と述べたと書かれている。
この言葉には、おそらく全体主義化の流れのなかで作り上げられている、コロナ問題、気候問題、食料問題などのテーマも含意されているのだろう。
同感である。
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