小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

大岡 信 編訳『小倉百人一首』はすごい

2017年04月01日 00時58分55秒 | 文学

      





季節外れの話題で申し訳ありません。
詩人の大岡信さんが40年近くも前に編んだ『小倉百人一首』(1980年・世界文化社)が書棚にあったので、たまたま読んだのですが、これ、すごくいいですよ。さすがは一流の詩的センスと深い教養の持ち主と感心することしきりでした。
百人一首って、日本人ならかなり耳になじんでいますよね。でもその一つ一つの意味や歌心、背景などをしっかり考えてみた人はあまりいないんじゃないでしょうか。
実際、百人一首の歌は、すぐ意味の通ずる歌もあれば、こちらに教養がないせいか、ちょっと見には何を歌っているのかわからない歌などが混在しています。しかも、指示的な意味が通ずるからと言って、その奥に歌い手の複雑な心の屈折があるということにまではなかなか思い及びません。

ところが今度大岡さんの本を通読して、ああ、そういう歌心が隠されていたのか、とか、えっ、そうだったのかといった発見がいくつもあったのです。
この本を読むと、歌の意味を原典の「注釈」や「大意」に求めて辿るのとはずいぶん違った印象を受けます。詠んだ人の思い、趣向、機知、切実さ、場面、状況などにぐっと近づける感じがしてくるのですね。
これには編集上のちょっとした秘密があります。
1ページに一首を取り上げ、その下に大岡さん自らの手になる現代詩の形での訳。その左に短い解説と批評が載っています。そうして、ところどころに見開きで、小野小町、在原業平、紀貫之、和泉式部ら、有名歌人たちの評伝が綴られているのです。
大岡さん自身の述懐によれば、幼いころから親しんではいたものの、箱入り百人一首などに付属している釈文がみな「……であることよ」式の無味乾燥な散文であることにずっと不満を抱いていたそうです。なるほどそういう執着がこのユニークな試みに彼を誘ったのかと、深く納得するものがありました。

たくさん紹介したいのですが、紙数の都合もありますから、数首に限りましょう。

 わたの原八十島かけてこぎ出ぬと
       人には告げよ海人のつり舟

                     参議篁

(訳)大海原に横たわるあまたの島を経めぐって
   はてに配流の身を横たえるため
   この篁(たかむら)は舟に乗り揺られて去ったと
   告げてくれ海人のつり舟よ
   都に残るあの人にだけは

遣唐使拒否をめぐる争いに敗れて隠岐に配流される時の歌だそうです。
何となく読んでしまうと、旅の別れをさらりと歌っているように聞こえます。少なくとも私自身はそう思っていました。
が、じつは、「八十島」と「人」の二語に歌心の鍵があります。瀬戸内海のいくつもの島を経て、関門海峡を通り、山陰地方西部の沿岸を経てはるばる隠岐までたどり着かなくてはならない。地の果てに追いやられる思いだったことでしょう。いやがうえにも募る心細さを、せめて妻(おそらく)にだけはわかってほしい、この思いを伝えてくれと、途中まで篁を乗せてすぐ帰ってしまうつり舟に向かって、切々と呼びかけているわけです。
ちなみにこの時代、「人」とは、多くの場合特定の親しい人や愛する人、つまり「背」や「妹」と同じ意味を表していました。

 忘らるる身をば思はずちかひてし
       人の命のをしくもあるかな
                      右近


(訳)私はいいのです 忘れられてしまおうと
   わが身のことは いいのです
   でもあなた あれほどに変らぬ愛を
   お誓いになったあなたのおいのち それが
   ひとごとならず心にかかってなりません

この訳はちょっと演歌調で素直に受け取れるようですが、むしろ怨歌というべきかもしれません。きれいごとを並べて皮肉っているとも取れると大岡さんは解説しています。
しかもさらにその先があります。「ちかひてし」までの三句切れとすると、その場合は、「あんなに誓っておきながら破るなんてきっと天罰が下るでしょう、あなたが命を落としてしまわれるのが惜しまれますこと」という意味になるそうな。げに女心の複雑さ恐ろしさよ。

 有馬山猪名(いな)のささ原風吹けば
       いでそよ人を忘れやはする
                    大弐三位


(訳)私があなたに「否」などと申したでしょうか
   有馬山 猪名のささ原 風ふきわたれば
   ささ原はそよぎ それよそれよと頷きます
   そうでしょう この私が
   なんであなたを忘れたりするものでしょうか

作者は紫式部の娘だそうです。男が自分の無沙汰を棚に上げて、私をお忘れかと詠ったのに対して、やはり少しばかり皮肉を込めて、しかし先の歌よりはやんわりと繊細な調子で返した歌です。
「猪名」と「否」、風で笹が「そよ」とささやく音と「そうよ、そうよ、忘れるはずがないわよね」という作者への相槌とをかけたとても技巧的な歌です。けれども、そうした技巧の用い方そのものに、この女性の何とも優しい人柄が現われているように感じられます。これも、そんな複雑なからくりがあるのかと驚きました。返しを受け取った男はたまらなくなって会いに行った、と思いたい。

 夜もすがらもの思ふころは明けやらで
        閨(ねや)のひまさへつれなかりけり
                    俊恵法師


(訳)夜ごとわたしはまんじりともせず
   つれない人を待ちつづける
   物思いに更ける夜の なんという長さ
   早く白んでくれればいいのに
   ああ戸の隙間よ そなただけでも白んで…

この歌の「閨のひま」という言葉ですが、戸の隙間とは気づきませんでした。「がらんとした寝間の空間が寂しさをいっそうかき立てる」と、何となく解釈して済ませていたのです。
ところが、室内より早く明るくなるはずの「戸の隙間」さえ白んでくれようとしない、なんて恨めしい事態だと、その「わび」の心を強調しているのですね。細かい対象をわざわざ取り上げて歌いこむことによって、誰もが詠う「わびしさ」一般から抜きんでたユニークな味を出しているわけです。
作者は男性ですが、人を待っているのですから、女性の立場に立って詠んだ歌です。でも、主情を表出するのではなく、客観的なものにあえて目を馳せた男性的な技巧と言えるかもしれません。

 見せばやな雄島の海人の袖だにも
       濡れにぞ濡れし色はかはらず

                  殷富門院大輔


(訳)見せてあげたいこの袖を あの方に
   雄島の磯で濡れそぼっている漁夫の袖さえ
   どれほど濡れても色まで変りはしないのに
   わたしの袖は濡れに濡れて
   紅に変ってしまった 血の涙いろに

「色は変はらず」の部分、濡れつくして袖の色が褪せたのだと思っていたのですが、じつは逆で、血の涙で赤く染まってしまったのでした。ずいぶん激しい歌いっぷりです。
でも「血の涙」というのは当時の常套句だったそうなので、特にこの歌の独創というわけではありません。
大岡さんはむしろ誇張が目立つと評しています。つまり歌会などで、一つみんなをあっと言わせてやろうというけれんみが強い歌だということなのでしょうね。

 いかがですか。平安時代に作られた歌の多くは歌会の題詠でフィクションなのですが、いずれにしても歌は歌。そこに作者の真情が込められていないはずはありません。もやもやした思いに工夫と装いを凝らしてエイッと突き出す。ちょうど、シェフが腕によりをかけてこしらえた料理のようなものです。つくられて初めてその鮮やかさが目を射る。

古代人が歌文学にこめた深い魂のありかとその精力のすごさを手軽に味わうために、みなさんもぜひ大岡版百人一首を手に取ってみてください。

江戸散歩その3

2015年12月03日 18時07分04秒 | 文学




 今回は、近松の『冥途の飛脚』を取り上げます。
 この作品は、歌舞伎でも演じられ、忠兵衛封印切の段が特に有名ですね。飛脚というのは、今で言えば銀行業務と郵便事業と運送業とを兼ねたような商売です。大坂と江戸の間を頻繁に往来して多額の金銭や荷を運ぶこの仕事が、興隆してゆく初期商業資本主義の活気を表すと同時に、土地に根差さない浮ついた不安定さ、危なっかしさをも同時に象徴していたと言えるでしょう。この不安定さに目をつけて、叶わぬ恋にハマってしまった男女の生の危うさをそこに重ね合わせた近松の文学的センスはさすがです。今で言えば、国際経済の不安定という最前線の状況を一組の男女の恋愛関係の不安定さの暗喩として活用したようなもので、同時代の先端を走っていたというべきでしょう。

 ともあれ、まずはあらすじから。上、中、下の三巻仕立てですが、29の場面に分けることができます。
 忠兵衛は、4年前、大和の田舎から持参金付きで飛脚問屋・亀屋の世継ぎとして、寡婦・妙閑の元へ養子に入った24歳。有能に店をきりまわし、遊芸もたしなみ、達筆で酒もそこそこ、着こなしも垢ぬけたいい男である。色の道にも通じ、廓通いを重ねるうちに遊女・梅川と恋仲になる。
 留守中に侍が、江戸から届いているはずの三百両の催促に来ると、手代がまだ届いていない旨を丁寧に告げる。すぐそのあとに中の島の親友・丹波屋八右衛門の使いが五十両の為替銀が届いていないと催促に来るが、身分違いと見るや手代はすげなく追い返す。これを聴いていた妙閑、忠兵衛はとっくに届いているはずの五十両をなぜ渡さないのかと不審に思い、近頃の忠兵衛の浮ついた行状について愚痴を漏らす。
 忠兵衛がこっそり帰ってきたところを八右衛門自らやってきてつかまえ、きつく催促すると、養母に知られてはならじと、ついに実情を泣く泣く打ち明ける。それによると、惚れた梅川を身請けする田舎者があらわれ、金で張り合うこともできずに心中まで考えたが、そこに五十両が手に入ったので、悪いとは知りながら身請けの手付金として渡してしまった。二、三日うちに必ず始末をつけるのでどうか待ってほしいと。
 八右衛門は太っ腹なところを見せてこれを承諾する。ところが妙閑が八右衛門を見つけ、中に請じ入れて、忠兵衛に早く払えと迫る。八右衛門、気を効かせて帰ろうとするが、律儀な妙閑は言うことを聞かない。困った忠兵衛、とっさに納戸に入ってはみたものの、ないものはない。傍らの鬢水入れを紙で包んで金五十両と書き、八右衛門に差し出すと、妙閑は受け取り証文を要求する。文盲の妙閑をいいことに、八右衛門も戯れ言を書き散らして忠兵衛に渡す。
 やがて例の三百両が到着し、忠兵衛さっそく侍屋敷に届けようと家を出るが、いつもの癖で梅川のいる新町へと足が向いてしまう。ふと気づいて戻ろうとするが、三度思案の後、これも氏神の誘いとついに新町へ。三度の飛脚行きつ戻りつ合わせて六度、六道の冥途の飛脚であった。(以上、上之巻)

文楽「冥途の飛脚」より「封印切の段」(2/2) (本編)


 梅川は、島屋でまぬけな田舎者に攻め立てられてすっかり嫌気がさし、脱け出して忠兵衛と恋を語る定宿・越後屋にやってくる。二階で遊んでいる女郎たちの前で、手付金の期限も切れてしまった今、好きな人と一緒になれない自分の運命を嘆くと、他の仲間たちも身につまされ、涙を流して同情する。浄瑠璃「夕霧三世相」を切なく語って自分の思いを託す梅川。
 これを聴きつけた八右衛門登場。彼に会いたくない梅川は、ひとり二階に残る。八右衛門は、階下におりた女郎たちに、忠兵衛が梅川に入れ込んで窮しているのをまともな道に戻してやるのだと称して、忠兵衛をバカにしながら先の鬢水入れの一件を得意げにばらしてしまう。忠兵衛、越後屋にたどり着き、この話を立ち聞きして、恥をかかされたことの悔しさに懐の三百両から五十両引き抜いて八右衛門の顔にぶつけてやろうかと思うが、何とか思いとどまるうち、八右衛門はますます調子づいて、友達まで騙るような忠兵衛はろくな運命をたどらないだろうから、この話を世間に広めてここに寄せ付けず、梅川にも話して、自分から縁を切って島屋の客に身請けしてもらうようにさせてやってくれと、滔々と語る。二階では梅川、胸が張り裂けんばかりに忍び泣き。
 ついに逆上した忠兵衛は八右衛門の前に躍り出て、よくも男の一分を踏みにじったな、さては島屋の客から賄賂でも取ったか、いまここで五十両返すから証文をよこせと迫る。八右衛門、どうせそれはどこかに届けるべき支払金だろう、バカな真似をしないで早く届けろと説得する。言うことを聞かない忠兵衛。二人で五十両の投げ合いになる。
 梅川たまらず駆け下りてきて、金持ちでもここでお金に窮することはよくあることなのだからそんなことを恥と思う必要はない、人様の金に手を付けてお縄頂戴となったらその方がよっぽど恥だ。これもみんな私ゆえのこと、年季が明けるまであと二年なのだから、どんなに身を落としても男一人を養うくらい覚悟はできていますと泣いて忠兵衛を必死に諌める。
 忠兵衛は興奮していて心も上の空、ふと養子に来た時の持参金のことを思い出し、これはすべて自分の金だと称して内儀を呼び寄せ、梅川身請けの残金やらこれまでの掛け金やら礼金やら、締めて二百両余りをばらまいて、瞬時の「邯鄲の夢」を実現させる。八右衛門も半信半疑ながら先ほどの五十両を受け取って去っていく。身請けの手続きに主従が走っている間、梅川と二人だけになったところで忠兵衛は泣き崩れて真相を明かす。お互い死ぬ覚悟を固めながら、生きられるだけは生きようと決め、主従が戻ったところで、二人は挨拶もそこそこに大門を出て大和路への道行きに旅立つ。(以上中之巻)
 人目を忍ぶ道々、来し方を思い出すにつけても、束の間の睦まじい思いやりをかけあうにつけても、厳しい寒さの中で、これからの定めが身に沁みる二人である。路銀もほとんど使い果たし、十七の問屋仲間が組織した追っ手は綿密で、いろいろな職業に化けて、じわじわと二人の道を狭めてゆく。やがて死に場所を求めて忠兵衛のふるさと新口村にたどり着いた二人は、幼馴染の忠三郎の家にひとまず身を寄せる。
 忠三郎の妻から、すでにこの村でも大坂の傾城に入れ込んだ男の事件の噂でもちきりであることを知る。妻が忠三郎を探しに出かけた後、二人きりで外を覗いていると、お寺参りの見知った人々が通り過ぎる。そのうち、父の孫右衛門が通りかかるが、忠兵衛は会うこともならず、二人はこの世のお別れと手を合わせる。孫右衛門は鼻緒を切って泥田に転げ込んでしまう。梅川が思わず走り出て介抱する。
 梅川は孫右衛門に親切の理由を尋ねられて、自分の舅に似ているので、他人とは思えないと答える。孫右衛門、いささか心づくところがありながら、追及はせず、代わりに縁の切れた自分の倅が哀しい境遇に陥ったことを告白する。無言のうちに気持ちが通い合ったのである。孫右衛門は梅川に、自分の倅と一緒に逃げている傾城と間違えられては困るから早くここを出なさいと路銀を与えて、あなたの連れ合いにも会いたいが、養子先の母御に義理が立たぬと泣く泣く別れてゆく。
 忠三郎が帰ってきて、万事事情をわきまえ、二人を逃がしてくれるが、張り巡らされた包囲網のためにすぐにつかまってしまう。孫右衛門は引き連れられていく二人を見て気を失う。忠兵衛は大声で、刑死した時の親の嘆きを思い浮かべるに忍びない、お慈悲だからどうか自分の顔を包んでくださいと泣く。役人これを聴いて、腰の手ぬぐいで目隠しをしてやれば、梅川はただただ泣くばかり。(以上下之巻)

 だいぶ長くなってしまいました。しかしこれ以外にも注目すべき場面はいろいろあります。それはともかく、この作品は、構成としてたいへんすぐれていて、前回の『曽根崎心中』が、掛詞や地名を多用した一種の歌物語のような雰囲気によって観客を酔わせたのに対して、より散文的・小説的手法を用いて緻密な筋書きによる盛り上がりを作り、観客を「劇物語」の展開の方に誘い込む仕掛けになっています。まさに「序破急」ですね。
 上之巻、亀屋の場では、全体にユーモラスな雰囲気が漂い、侍と町人に対する手代の扱いの違い、妙閑の老婆らしい心配の仕方、こっそり帰ってきた忠兵衛が飯炊きのまんに見つかってしまい、口封じのために今夜お前の床を尋ねてやると口説くくだり、忠兵衛・八右衛門の悪友同士の共犯者感覚による丁々発止のやりとりなどにそれがよくあらわれています。ここではまだ悲劇への道はかすかに暗示されるにとどまっているわけです。
 中之巻、越後屋の場になると、遊女の中でも身分の低い「見世女」の梅川の辛い嘆きが同僚の共感とともに切々と語られ、間髪を入れず八右衛門の暴露が続き、これを悪意とのみ受け取った忠兵衛の逆上とやけくそによる封印切、ここで最高度に盛り上がった後、畳みかけるように一緒に奈落に落ちていこうとする梅川と忠兵衛の哀しい決意へとつながっていきます。
 下の巻、大和への道行きでは、道行きにふさわしい二人の心情の絡みが連綿とつづられます。そうして土壇場の、老いた孫右衛門との邂逅と交情の場面では、たとえいったんは縁を切った息子でも、また罪を犯した息子でも、それだからこそ親の愛情がいや増さる孫右衛門の痛切なさまが描かれます。それに応えることの出来ない忠兵衛が、せめて自分の廻向を願いながらあの世での再会を期するところで終わりを告げます。

 この作品からは、いろいろなことを読み取ることができ、またそこからこの時代の町人の生活感や廓の雰囲気、貨幣経済の有様などへと想像力を発展させることもできます。
 一つは、悪友・八右衛門のどちらとも取れるような心の動きです。彼は、本当に忠兵衛のためを思って越後屋での暴露に及んだのか、それとも何らかの悪意からそうしたのか。『曽根崎心中』の九平次の場合は、明らかに徳兵衛を陥れてやろうと仕組んだのですが、八右衛門は妙閑の前では共犯者を立派に演じてくれるし、また忠兵衛の投げつける五十両をけっして受け取ろうとはせず、まともな分別をもって忠兵衛を諭そうとしています。しかしそれにしては、遊女たちにばらすときには彼のことを悪しざまに侮蔑する口調を取っています。この両面性はいったい何なのか。作品の瑕疵とは思えません。近松は、意識的にこうしたキャラを造型したのでしょう。
 私の想像では、これがおそらく当時の町人社会のある部分に共通する一種「下品で軽薄で小心でおっちょこちょいな」人情のあり方そのものなのです。そうした雰囲気を近松は鋭く観察していて見逃さなかったのだと思われます。
 つまり、さすがに正直者の代弁者のような義母・妙閑の前では真相を暴露して忠兵衛を破滅させることは思いとどまるものの、離れてみると、恋にうつつを抜かす忠兵衛への嫉妬もあり、自分があいつを助けてやったという自慢もあり、「あいつはしょうがねえバカヤロウだ、俺のがまだマシだ」という優越感もあり、「王様の耳はロバの耳」と言ってみたくてしょうがなくなる、そんな気持ちが昂然と沸き起こってきたのではないでしょうか。しかし予期せぬ忠兵衛の逆上を見せつけられると、焦ってまた分別が戻り、残っていた友情も顔を出して、忠兵衛を本気で諌めようとする。簡単に裏切りもすれば、状況次第でよりを戻そうともする。互いに金をよりどころに悪さを重ねている「悪友」とはそんなものかもしれません。

 二つ目に、封印切の段での忠兵衛には、危うい浮草稼業で身を立てている人間に特有の激情性ときっぷのよさが感じられます。つまり意地を通すことを命よりも大切と考える一種のやくざ根性ですね。またここには百姓から婿入りして成り上がった者の被抑圧感と身分コンプレックスが作用しているかもしれません。
 いずれにしても、当時の飛脚問屋という商売、大金を次から次へと流しているので、いつの間にか感覚がマヒして、それが自分のものであるかのような錯覚に陥るという部分があったのでしょう。これは現代でもウォール街や兜町の住人に見られる傾向ですが、飛脚の場合、できるだけ速く自分の足で荷物や証文を運び、巨額の現金を身につけて動くという肉体的な実感が伴います。この実感は、独特のスピード感を伴って、自分こそは財や金銭の使徒であるという感覚につながるでしょう。それが己れの人生観全体にも広がります。要するに「生き急ぐ」のが当然ということになるのですね。そこに心中立てをした辛い境遇の女への共感が重なり、一気に「冥途」への飛脚となるわけです。

 三つ目。下之巻での道行きには、惚れてしまった犯罪者とどこまでも運命を共にしようとする梅川の女心がまことによく出ています。もともと忠兵衛は色男。それに加えて、自分のために悪を犯してくれたという事情があるので、添い遂げたいという気持ちはいやがうえにも高まります。悪とは、共同体の約束事に反抗することなので、悪を犯すことは大胆な勇気が必要とされ、人を孤独に追いやります。自ら孤独を選んだ男はそれだけでも個性が際立ち、カッコいいのですね。
 おまけに梅川は苦界にあって、このままでは嫌な田舎者に身請けされてしまう。将来には何の希望もありません。忠兵衛は、この幸薄き女を救うために敢然と身を張ってくれた。梅川の中では、自分の運命と「悪人」の魅力とのシンクロニシティが実現しており、死なばもろともの思いに何の迷いもないわけです。

 四つ目。忠兵衛の父・孫右衛門と梅川との「知って知らぬふり」の短い交情には、日本的な人情の一つの典型が見られますね。孫右衛門が例の傾城と間違えられるから早くこの場を去ったほうがいいと梅川に告げながら、その口も乾かぬ間に、あんたの連れ合いに一目合うわけにはいかないかと涙ながらにもちかけるその裂かれた心の表現は、下之巻の大きな見せ場だと言ってよいでしょう。
 いまではもう少なくなりましたが、夫が癌になった時に、医者が妻にだけそのことを知らせ、本人には秘密にする。妻は夫が死ぬまで沈黙を守り通す。ところが夫の方でも事実に気づいていて、そのことを妻には語らないという、いわば互いを思いやっての化かし合いがよくありました。西欧的な観点からはたいへん不合理と映るこの無言の交感も、一概に否定すべきメンタリティとはいえず、ケースバイケースで許されていいことでしょう。上記の梅川と孫右衛門のやりとりには、まさしくこれに通ずるものがあります。
 こうした「阿吽の呼吸」は、日本的優しさの一表現形式であり、日本人の情緒がもつ同質性の高さを表してもいます。それがまた、はたで見守る観客にも大きな共感を呼ぶわけです。

 五つ目。この作品では、道行きの過程が都会から田舎への落ち延びのかたちをとっていますが、ここには当時の都市と農村との驚くほどの文化的格差が感じられます。大阪から大和までですから、二人は大した距離を旅したわけでもありません。それなのに二人は、まるで異国に入ったかのような扱いを受けています。それには、まずは「このへんではとんと見かけない」ような特殊な職業である遊女・梅川の風貌が与っているのでしょうが、忠兵衛の四年にわたる大坂暮らしによる垢ぬけた雰囲気も関係あるでしょう。
 加えて、都会で起きた一事件の情報が、たちまちのうちにセンセーショナルなかたちで伝わっている事実にも、この格差が示されています。というのは、傾城というのは実態としてはほとんどが辛い境遇にあったのでしょうが、田舎の方から見れば都市の繁栄を象徴する憧れの的だったに違いないのです。ちょうどいまで言えばテレビなどのメディアに登場するアイドルのようなものですね。
 この作品にも「島屋に通う田舎者」が梅川を金でものにしようとする嫌な奴として登場しますが、一般に、江戸期には、「田舎者」と銘打たれただけで、蔑視の代名詞のような役割を果たしていたと考えられます。これは、もちろん明治以降、高度成長期まで続くわけですが、幕末の遊郭を舞台とした映画『幕末太陽伝』や、円朝の長編落語『真景累が淵』にも、端的にこの大きな落差が表現されています。田舎の側から見れば、都会から流れてきた人は一種の「まれ人」であり、そのことは、言葉遣いの違いは言わずもがな、風貌をちょっと見ただけでそれと知れるのです。
 ちなみに、『幕末太陽伝』でも『真景累が淵』でも、田舎人のほうが純朴な善人、都会人の方が海千山千のずるがしこい悪人として描かれています。ですから、『冥途の飛脚』における「島屋に通う田舎者」も、本当は嫌な奴ではなかったのかもしれません。都会の色に染まった多くの男を相手にしてきた遊女のセンスからすれば、ただ金にものを言わせる田舎者というだけで生理感覚的に好きになれなかったのでしょう。時には文化的格差の方が、経済的格差よりも大きな意味を持つ一例として注目しておきましょう。

 そして最後に、梅川が三味線を取って語る浄瑠璃「夕霧三世相」に言及しようと思いますが、その前に、中之巻冒頭の一節を紹介しましょう。この部分は、廓の遊女、特に身分の低い見世女郎たちの哀れを象徴しています。梅川はもちろんこの仲間です。

 青編笠の。紅葉して。炭火ほのめく夕(ゆふべ)まで思ひ思ひの恋風や。恋と哀(あはれ)は種一つ。梅芳しく松高き。位は。よしや引締めて哀深きは見世女郎。更紗禿(さらさかぶろ)がしるべして。橋がかけたや佐渡屋町越後は女主人(あるじ)とて。立寄る妓(よね)も気兼ねせず底意残さぬ。恋の淵。

(諏訪春雄氏による現代語訳)青編み笠が紅葉のように赤く染まって見えるほど炭火がほのかに燃える夕方まで、それぞれが恋の風に吹かれて通ってくる。恋と哀れは同じ一つの種から生まれるもの。天神は芳しく、大夫は高い位の遊女。位はともかくひっくるめて情けの深いのは見世女郎、更紗の着物のかぶろに案内されて橋をかけてもらいたい佐渡と越後。佐渡屋町の越後屋は、女主人で、立ち寄る遊女も気兼ねせず心をうち明ける恋の場所。

 低い身分の遊女はそれだけ辛い思いをして将来の希望も薄いため、互いに嘆きを共有し合う連帯感が強いわけですね。果たして本当にそうであるかは別にして、このくだりからは、作者・近松の弱者への共感がよく伝わってきます。
 さて「夕霧三世相」ですが、この浄瑠璃はじつは近松の自作で、『冥途の飛脚』全体の通奏低音をなしています。

 傾城に誠なしと世の人の申せども。それは皆 僻事(ひがごと) 訳知らずの言葉ぞや。誠も嘘も本一つ。たとへば命なげうちいかに誠を尽くしても。男の方より便りなく遠ざかる其の時は心 弥猛(やたけ)に思ひても。かうした身なればまゝならず。自ら(おのずから)思はぬ花の根引きに逢ひ。かけし誓(ちかひ)も嘘となり。又はじめより偽(いつはり)の勤(つとめ)ばかりに逢ふ人も絶えず重ぬる色衣 終(つひ)の寄辺となるときは。はじめの嘘も皆誠。とかくたゞ恋路には偽もなく誠もなし。縁の有るのが誠ぞや。逢ふこと叶はぬ男をば思ひ思ひて思(おもひ)が積り。思ひざめにも醒むるもの。辛や所在と恨むらん。恨まば恨めいとしいといふ此の病。勤する身の持病か。

 近松作品には特に思想と呼べるようなものはないという人がいますが、これを読むと、けっしてそうではないことがわかります。
 男と女の関係は、誠が嘘になることもあれば嘘が誠になることもある。こちらがいかに誠意を尽くして愛しても、男の方で去ってしまうことがあり、いくら恋心を募らせても、身分などの障りがあれば思うにまかせない。また好きでもない人に身請けされてしまえば、かけた誓いも嘘になる。かたや、初めは仕事と割り切って義務感でつきあっていても、逢瀬を重ねるうちに思わぬ深い仲になってしまうこともあり、そういう時には嘘が誠に変わるのである。すべては縁があるかないかで決まる。会えない相手のことを思い続けているうちに、いつしかその思いも醒めてしまうこともある。辛い、切ないと恨んでみても、しょせん恋の病は遊女の身の上につきものの持病のようなものだ。
「傾城に誠なし」と言えば、すっぱり割り切って、男女双方、遊びやおつとめに徹することもできるかもしれないが、それは必ずしも当たっていず、たとえ金銭ずくの世界であろうと、生きた心を持った人間の交渉であるかぎり、すべてが嘘と言い切れるわけではない。人知を超えた「縁」が人の運命を決めていくとしか言いようがない。
 これは遊女という特殊な身分に託して語られていますが、恋の道一般、いや世の中のものごと一般に当てはまることですね。「わがこころのよくてころさぬにはあらず」と説いて、あらゆることは宿業によるのだと言い切った親鸞の思想にも通じますし、「不動心」などというものはなく、ときに応じてうれしかなしと揺れ動くのが人の心の本質なのだと説いた本居宣長の思想にも通じます。日本人の伝統的な世界観、人間観を、近松もまた深いところで分有しつつ、それを基礎にして世話物を書き続けたことがわかります。



 

江戸散歩その2

2015年10月06日 18時08分54秒 | 文学




 近松門左衛門(1653[承応2]年~1724[享保9]年)は、現代では、心中を扱った浄瑠璃作者として有名です。彼の作品は、時代物と世話物とに大きくわかれますが、当時は『国姓爺合戦』のような時代物の方が人気があり、『曽根崎心中』などの世話物は、同時代を過ぎてからは昭和になるまで上演されなかったと言われています。しかし一方、彼の作品や宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)の作品がもとで情死が流行したために、幕府は情死を厳しく取り締まると同時に上演を禁止したという話もよく知られていますね。ですから、やはり当時の町人社会のなかで、世話物、特に心中物が大きな人気を博したというのも否定できない事実なのでしょう。
 上演禁止が功を奏したためにそれ以降上演されなくなったのかどうかよくわかりませんが、いずれにしても、近松の心中物が、近代以降になって改めて大きく脚光を浴びるようになったといういきさつにはなかなか示唆に富むものがあり、これは文明史的な問題としてよく考えてみるに値することだと思います。後に取り上げましょう。

 さて近松の心中物の中で有名なのは、『曽根崎心中』、『心中天の網島』などで、ほかに心中はしませんが、ほとんど死の道行きに匹敵する逃亡を企てる『冥途の飛脚』があります。まずはこれらに一つひとつ、ささやかな批評の手を加えてみたいと思います。
『曽根崎心中』は、ストーリーだけ追いかけるかぎりは、他の作品に比べると、次のような比較的単純な話です。

 蜆川新地・天満屋の遊女お初は、田舎者の客に連れられて大阪三十三番観音廻りを終え、生玉神社境内の茶屋で休んでいると、久しく会っていなかった恋仲である醤油屋の手代・徳兵衛にばったり出会う。徳兵衛は、無沙汰の恨みを訴えるお初に迫られて、会えなかった事情を打ち明ける。
 それによれば、主人(実の叔父)から不本意な縁談をもちかけられたが断ると、郷里の継母がすでに内緒で持参金を受け取ってしまったのだという。怒った徳兵衛は叔父と争いになったあげく、叔父から持参金を取り返してくること、大阪から出て行くことを命じられる。郷里に帰って奔走し、やっとのことで持参金を取り返してきたところを、親友の油屋・九平次に出会い、どうしても用立てが必要な事情を打ち明けられ、大事な金を借用証書付きで貸してしまう。
 以上のいきさつをお初に話し終えたところに当の九平次が五人連れでやってくる。徳兵衛が九平次に借金返済を迫ると、九平次は、証書の筆が徳兵衛自身の手になることと、印鑑が何日も前に失くしたものであることを言い立てて、証書が偽物であると主張し逆に徳兵衛を訴えてやると脅す。自分の無実を証明することができないまま公にされては不利と踏んだ徳兵衛は、自ら取り戻そうと九平次に飛びかかり大喧嘩になる。お初が周囲に助けを求めるが、田舎者の客に籠に押し込まれて連れ去られてしまう。徳兵衛は多勢に無勢、さんざん叩きのめされて死にたいほど惨めな気持ちになる。
 徳兵衛についての悪い噂はさっと広まり、天満屋で悶々とするお初の耳にも聞こえてくる。そこへ忍んで訪れた徳兵衛を、お初は哀れさ恋しさのあまりひそかに連れ込んで縁の下に隠す。九平次がやってきて例の噂を吹聴する。お初はひとりごとのようにそれを否定しながら、徳兵衛との心中立ての話をして足で徳兵衛の意を探る。徳兵衛はお初の足を自分の喉に当てて同意を伝える。お初は九平次の誘いを振り切って、徳兵衛と一緒に死ぬと泣きながらささやいて足でつつくと、徳兵衛もその足に縋ってすすり泣く。この秘密のやりとりに九平次は気味悪がって帰って行き、天満屋は店を閉める。皆が寝静まってからお初は二階から吊り提灯の火を消そうとして失敗し梯子から落下し、その拍子に灯りが消えて、あたりは真っ暗。二人はそっと示し合わせて家を出る。
 道行の途中で自分たちの定めを占うかのようによその二階からは「心中は他人事と思っていたが明日は我が身」といった歌も聞こえてくるし、「去るなら私を殺してちょうだい」といった歌も聞こえてくる。どこで死のうかとさまよううち、二つ並んで飛ぶ人魂を見ては自分たちがあの世で一つの魂になることを願う。やがて松と棕櫚が一本の木から分かれているのを見つけて死に場所と定め、二人のからだを帯で木にしっかりと結び付ける。徳兵衛は震える手でお初の喉を突き、すぐさま剃刀で自分の喉を抉り、こうして二人は絶え果てる。


 このようにあらすじだけをたどると、何も心中しなくとも駆け落ちすればいいじゃないかとか、どうせ死ぬなら九平次を殺して逃げればいいじゃないかとか、徳兵衛がお初に必ず戻ってくると約束して一時逐電するやり方もあるだろうとか、いろいろ疑問が浮かんでくるかもしれません。
 たしかに筋立てという面だけから見れば、不自然な点がないわけではありません。たとえばいつも都合よく(悪く)九平次があらわれる偶然はおかしいとか、そんな大切な金をいくら親友に頼まれたからといって気軽に貸したりするものかとか、何も縁の下に隠れなくても空き部屋があるだろうとか、天満屋から忍び出るのに、みんなぐうぐう寝ているのだから、無理をして提灯の火を消そうとしなくてもいいだろうとか。
 しかしこの作品を鑑賞する場合には、次のようないくつかの点に留意する必要があります。これらのことを考えずに、筋の流れにだけ着目して文学作品としての適否や瑕疵を論じる鑑賞態度は、近代文学、特に小説を読みなれた人の先入観に災いされているのではないかと思います。

①この作品が人形芝居という見世物用の脚本であること
②浄瑠璃という「語り物」音曲の特性
③作品の生まれた時代背景
④心中立てという表現様式のもつ一種の宗教的意義


まず①と②についてですが、ご存じのとおり、人形浄瑠璃(文楽)は、傀儡子が黒子になってぎこちない動きしかできない人形を巧みに操る見世物です。それは小説のように自由に連続的かつ多面的な展開を描けるのとは違って、舞台の上で比較的短い象徴的な場面をいくつか組み合わせて構成しなくてはなりません。時間にも限りがあります。
 加えて、人形浄瑠璃は、能狂言を除けば、歌舞伎と並んで、大衆を相手とした舞台劇芸術というジャンルの鮮やかな登場といっても過言ではなく、これが近世初期に短期間に確立したという事情を考えれば、日本文化史上における画期的な事件だったと言っても過言ではありません。ここには大衆を相手とした我が国の舞台芸術の濫觴期における素朴なおおらかさをうかがい知ることができます。筋立てにおける多少の瑕疵など問題ではありません。
 たとえばこの『曽根崎心中』の場合、大きく分けて四場面の構成になっており、さらに十六場面に細かく分けることができます。そうしてそれぞれの場面で人形の所作に息を吹き込んで見せ場を作らなくてはならないわけです。虚構性がきわめて強く、そのためあちこちに現実生活からは乖離した不自然さが生じてくるのは当然ではないかと思います。いや、逆にそういう不自然さは、むしろ人形劇として観客をワクワクさせるための支えになっているとさえ考えられます。
 ことに、お初が九平次と話しながら縁の下の徳兵衛と足を通して言葉にならない情を交わす場面は、この作品の白眉の一つといってもよく、現実にはいやな奴とコミュニケーションしながら、心のうちでは徳兵衛のことしか考えていないお初の内面を、見事に現前化させているわけです。これを人形の動きで表現するのは、大きな見せ場であるに違いありません。
 また、お初が高いところから無理をして吊り提灯の火を消そうとする場面は、観客をハラハラドキドキさせたでしょう。お芝居の空間というものは、いかに非現実的であろうと、「あわや」的な盛り上がりをどうしても必要とするものです。さらに、二人の先を行く二つの人魂に来世で一つになる思いを託す場面は、ならぬ恋をあきらめることで当時の規範と慣習に馴致して人生を歩んでいた多くの観衆を、さぞかしロマンティックな哀れの想いのうちに誘いこんだのだろうと思います。

文楽「曽根崎心中」(3/4) 天満屋の段


 さてこの作品は、お初の三十三観音廻りという、一見主筋と関係のない場面からスタートします。この出だしはかなり長く、三十三観音の名前がすべて出てくるのと同時に、至る所に調子を取った掛詞が盛られていて、それが語りの「緒」のような役割を担って連綿と展開されるのですが、私たち現代人には、そこに掛詞があるということ自体、解説してもらわないとすぐには気づきません。しかしよく考えると、この長丁場には、当時の観客(特に大阪の観客)にとってかなり大切な意義が込められていたことがわかります。つまりこれは、観客に対するサービス精神が大いに発揮された重要な「枕」であり「序章」だったのです。全部辿っていたのでは切りがありませんので、二つ、三つだけ例を挙げてみましょう。まずは二番目の札所、長福寺。

 大坂順礼胸に木札の、ふだ落や、大江の岸に打つ波に、白む夜明けの、鳥も二番に長福寺。

「大坂」が昔から「あふさか」として行き交う人々(ことに男女)の出会いを含意しつつ歌に詠みこまれてきたことはよく知られていますね。お初の思いが込められているでしょう。「木札」と「ふだ落」とをかけていることは容易にわかりますが、「ふだ落」とは「補陀落」であり、インドの観音様の住所を表しています。角川ソフィア文庫版注釈によれば、西国巡礼歌の第一番に、「補陀落や岸打つ波は三熊野の那智の御山にひびく瀧津瀬」とあって、これを踏まえているそうです。那智の滝を、河と湾に縁の深い大坂の町に置き換えて「大江」とし、その白波と「白む」をかけながら、二番鳥が鳴くのは夜明けの知らせであるとつなぎ、さらに長福寺が二番目の巡礼場所であることをも表現したというわけです。ちなみに白む夜明けとは、心中が行われる最期の時を暗示していて不気味でもあります。
 もう一つ。十番目の玉造稲荷と十一番目の興徳寺。

 暑き日に、つらぬく汗の玉造稲荷の宮に迷ふとの、闇はことわり御仏も、衆生のための親なれば、是ぞをばせの興徳寺。

「汗の玉」が「玉造」にかかっていることはすぐ見抜けますが、「宮に迷ふとの」に「闇はことわり」が続くのは、現世の闇に迷って煩悩を脱しきれない衆生の定めを暗示しているに違いありません。そうしてそれを受けて「御仏」が私たちの「親」代わりとなって付き添い、一緒に迷ってくださるという意味が込められます。注釈によると、仏を衆生の親とすることは『法華経』に見え、また、後撰集に「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」という歌があるそうです。さらにその「親」からの縁語で「をば」(叔母)を引き出し、「をばせ=小橋」にある興徳寺につなげる、という具合です。

 ざっとこんなふうに、この三十三観音廻りのくだりは、言葉の運びが掛詞や縁語を軸としたたいへん緻密な仕掛けで出来上がっており、そこには観客の情緒を喚起するためのさまざまな工夫が凝らされています。その工夫とは、第一に掛詞や地口の連発をリズムに乗せて面白がらせること、第二に具体的な地名をたくさん出すことで大坂住民の親しみを誘い出すこと、第三に仏教に裏付けられた古代以来の日本人の「無常観」を強調することで当時の庶民の日常生活意識に寄り添うこと、そして第四に、短歌などのパロディで教養の蓄積を匂わせつつ古典からの文化的連続性を実現させていること。
 三味線の艶っぽい音曲に乗せられて、これらが語られるとき、薄暗い芝居小屋の中で、当時の観客はもうすでにうっとりとした気分に浸ったに違いありません。一般庶民のすべてがこの種の語りの複雑な仕組みを正確に理解したかどうかは疑わしいかもしれませんが、少なくとも大方の観客が何となく「気分」としてこの語りに強く引き込まれたことは間違いないと思われます。当時の人たちがこうした「気分」を身体で理解する生活意識の中で生きていたという事実は、私たち近代人にとって十分に驚くべきことではないでしょうか。
 筋立てだけに着目していたのでは、この大きな距離を乗り越えて江戸時代前期の人の心に迫ることは難しいと言えるでしょう。そのことは翻って、近代が得たものと同時に、失ったものの大きさについても自覚を新たにさせられることでもあります。しかしそれは、やはり同じ日本人ですから、文化的想像力のレベルでなら少しの努力を払えば回復することができるはず。さしあたり言葉の問題に限って言えば、当時の人たちは、観念的・抽象的な言葉ではなく、よく知られた地名などの具体的な言葉の姿に古くからの由来を重ね合わせて、そこのところにかぎりなく親しい魂のありかのようなものを見出していたのだ、と言っておきましょうか。

「②浄瑠璃という『語り物』音曲の特性」については、素人ながらにもう少し言ってみたいことがありますし、「③作品の生まれた時代背景」についてもきちんとした考察が必要に思われます。また、「④心中立てという表現様式のもつ一種の宗教的意義」は、私が近松の心中物について論じてみたいと思う一番重要な論点ですので、これは『心中天の網島』や『冥途の飛脚』について話すときまで取っておきましょう。今回はこの辺で。

なかなかやるやないか、又吉さん

2015年09月19日 18時58分46秒 | 文学




 今夏、芥川賞を受賞した又吉直樹さんについて、ちょっとミーハー的な自慢をさせてください。
 受賞作『火花』は受賞前の三月にすでに出版されてますが、私は新聞広告が出てすぐに買いました。何となくこれは面白そうだというカンがはたらいたんですね。もちろん、ピース又吉ってお笑い芸人のことなど何も知りませんでした。そしたら七月になって見事に受賞したじゃないですか。そうしてみるみるうちに二百万部突破。
 どうだ、俺って先見の明があるだろう、と、これだけの自慢で終われば、ほんとのミーハーですね。別に芥川賞もらったからとか、ミリオンセラーになったからとかで自慢してるわけじゃないんですよ。そんなこと、どうでもいいです。芥川賞って文藝春秋の賞で、この作品も文芸春秋刊。まあ、ほとんど初めから授賞は決まってたんでしょうな。
 それはともかく、じつは私、この作品、半年間「つんどく」にしてました。少し暇ができたので、どんなもんかいなと思って今度読んでみたんです。そうしたら、これ、なかなかの優れものですよ。どういうところが優れてるか、あとで言います。
 純文学系の小説作品をここ何年もほとんど読んでないので、全然大きなことは言えませんが、この作品は、近年の純文学界におけるかなりの収穫と言っていいんじゃないんでしょうか。とにかく、私のカンは間違ってなかったんです。買っておいて損しなかった(本体1200円)。
 ちょっと小声で悪口。以前、いまや純文学界の重鎮とも目されている赤坂真理さんの『東京プリズン』(河出書房新社)を読んだんですが、紫式部文学賞、毎日出版文化賞、司馬遼太郎賞と、三つも賞もらってながら、ひとりよがりそのもので、神がどうのこうのと観念があっちこっち勝手に飛んで、おまけに純文系作家がよせばいいのに、戦後日米関係の歴史認識を持ち出し、いまや誰でも知ってる東京裁判についての誤解なんかをもったいぶって講釈したりして、ちっとも面白くなかった。いまの純文学界の権威主義を象徴しています。読み終えるのがとにかく苦痛でした。これは損しました(本体1800円)。
 閑話休題。又吉作品についてもう一つ自慢。
 読み始めてじきに、これって太宰治に似とるなあ、そうとう太宰の影響受けとるんちゃうか(なぜか関西弁)と感じたんですよ。そうしたらあるロングインタビューで、彼は太宰に心酔してきた経験を語ってるんですね。これもアタリ!

ゴロウ・デラックス 2015年8月13日 150813 芥川賞作家・又吉直樹SP!

(この動画は、一部音声が途切れます)

 ちなみに何を隠そう、批評家としての私の処女作は太宰治論なんです(『太宰治の場所』弓立社)。私はおくてなくせに生意気で、高校時代に太宰を読んでも感心しなかったんですが、大学出てから、あるきっかけで読み返して、これ読み過ごしてた俺は文学がわかっちゃいなかったぞって痛感したんですね。それで、よし、批評で挑戦してやろうと思って書いたんです。で、これはとても生硬で読みづらい文章ではあるんですが、上の動画で又吉さんが太宰について言ってることとけっこう重なり合うんですよ。
 この自慢もややミーハー的ですね。ここから先は自粛してもっぱら又吉さんを褒めることにします。

 彼は『人間失格』を100回くらい読んだそうですが、さすがにその甲斐あって、まことに的確なことを言ってます。大意は次の通り。

 この作品はふつう、こんなかわいそうな自分がこんなにつらい思いして生きてきたことが書かれていると受け取られるが、じつはそうではない。純粋で可愛くてまともな少女の歯痛ならだれもが同情するが、悪人の歯痛には自業自得だとして誰も同情しない。しかしその痛みそのものはどちらも同じだ。それと同じように、ある人が悩んでいると、多くの人は、世の中にはもっと苦しんでいて悩むことすらできないかわいそうな人がいるんだという比較を持ち出してきてその悩みを相手にしない。それは確かにその通りなんだけど、でもだからといってその人の悩みをないことにしなきゃいけないのか。そういうことが書かれている。

 これじつに、福田恒存の言う「一匹と九十九匹と」と同じです。
 私自身は、『人間失格』という作品はメッセージ性が強く出過ぎていて、太宰作品全体の中ではやや点数が低いと思ってるんですが、又吉さんの言ってることは、文学の本質を分かりやすい言葉で見事に突いていると思います。文学には文学固有の存在意義があって、それを道徳的価値や政治的価値で推し量ってはいけないということですね。
 また又吉さんは、太宰文学の魅力を問われて次のようなことも言ってます。


、深刻なものもあるけれど、面白いものもたくさんある。彼の作風はナルシスティックと言われるけれども、たとえば『富岳百景』の一節のようにナルシスティックなことを書いた後に必ず失敗したことなどを書いて、そのナルシシズムを見直す目を描き込んでいる。


 これも太宰批評としてとても的確で、太宰はいつも自己自身を戯画化することで、自分を見てる他者の目をきっちり取り込んでるんですね。この二重化された自意識のあり方が、まさに「面白いもの」を「たくさん」創作できる独特の構えにつながってると思うんです。例として挙げると、『春の盗賊』『お伽草子』『親友交歓』『男女同権』『トカトントン』『女神』『新郎』『十二月八日』など。
 なお最後の二作は、パッケージとして太宰の本領発揮です。余計な老婆心かもしれませんが、『新郎』だけ読んで、日米開戦の報に接して厳粛な思いに浸る男性主人公にクソまじめに同化してしまわないように。あれもホント、これもホント。

 さてここからようやく『火花』を批評してみたいと思うんですが、話は前段からつながってます。漫才や落語の話芸というのは、自己戯画化をどこまでできるかが勝負みたいなところがありますね。非常に知的センスが要求されると言ってもいい。ですから太宰文学と似てるんです。
 私は又吉さんがどういう縁からお笑い芸人の道を選んだのか、その個人的事情については知りませんが、少なくとも内面的には、彼のこれまでの職業と、こういう太宰的な作品を書くことになった事態との必然的な関係があるように思います。
 ちなみに彼の漫才、You Tubeで探しましたが、あまりいいのが見つかりませんでした。どなたか決定版でも教えてくれたら幸いです。初期のものは、ごくオーソドックスみたいだけど、相方が綾部に代わってからは、適応系と不適応系のコントラストでもたせてるようですね。これって、「地を演技へ向かって成熟させる」っていう彼の戦略なんでしょう。
 とにかく、彼がシャイで、言葉少なで、非モテ・コンプレックスいっぱいで、ゆっくり口調で(つまりたいへん内面的で)、それを意識的にボケの条件にしてることは確かなようです。顔だけ見てるとけっこうイケメンだけど、身長が相当低いようで、そのアンバランスも売りなのかな?
『火花』は、四つ年上の漫才師・神谷さんに天才性を感じた「僕」が師弟関係を交わしてから、どっちもほとんど売れない何年間かの交流を描いたもの。神谷さんは、酔っ払って自己流の笑いの哲学をさかんに「僕」に説いたり、日常行動でもちょっと常軌を逸した漫才的振る舞いをやったり、生活力全然なくて優しく鷹揚な女性に依存しきってたり、とまあ、ありていに言って破滅型というヤツですね。小池重明という天才的なアマチュア棋士の伝記を団鬼六が書いたのを読んだことがありましたが、あれを連想しました。
「僕」は時々、彼の漫才哲学に違和感を感じることもあって議論を吹っ掛けたりもするんですが、究極のところで、この人こそ笑いの何たるかを知ってると何度も再確認して、どうしてもその魅力から離れられない。と同時に、自分は神谷さんにはやはりなれないという自覚がしだいに深まっていって、少しずつ違う道を行くしかないなと思うようになります。長くなるけど、そのギャップを感じ始める発端あたりの部分を引用してみましょう。合コンみたいな不慣れなことをしたときに神谷さんから、女の子たちの面前で、こいつは「盗聴が趣味や」と言われて傷つき(といっても心底傷ついてるわけでもない)、帰りの電車の中で神谷さん相手にそのことを問題にした後――

 僕は周囲の人達から斜に構えていると捉えられることが多かった。緊張で顔が強張っているだけであっても、それは他者に興味を持っていないことの意思表示、もしくは好戦的な敵意と受け取られた。周りから「奴は朱に交わらず独自の道を進もうとしている」と半ば嘲りながら言われると、そんなことは露程も思っていなかったのに、いつの間にか自分でもそうしなければならないような気になり、少しずつ自分主義の言動が増えた。すると、その言動を証拠として周りがそれを信じ始める。ただし才能の部分は一切認めていないので残酷な評価になる。確固たる立脚点を持たぬまま芸人としての自分が形成されていく。そのように自分でも戸惑いつつも、あるいは、これこそが本当の自分なのではないかなどと右往左往するのである。つまり、僕は凄まじく面倒な奴だと認識されていた。
 僕のような退屈で面倒な男と遊ぶことによって、周囲から色眼鏡で見られ、偽善者と呼ばれる可能性があるということを、この時まで現実的に考えたことがなかった。僕は神谷さんを、どこかで人におもねることの出来ない、自分と同種の人間だと思っていたが、そうではなかった。僕は永遠に誰にもおもねることの出来ない人間で、神谷さんは、おもねる器量はあるが、それを選択しない人だったのだ。両者には絶対的な差があった。


 どうです。しっかり「純文学」してますね。前半の繊細な自己分析、これは自意識の強い不適応系の人が集団関係を生きなくてはならない場面に何度も直面してきた経験を踏まえて、そのときの自我の動きというものを緻密に追いかけてる部分です。そうして後半は、それを受けて、不器用どうしの「同病相憐れむ」感覚をよりどころにして神谷さんへの同化感情を自分に納得させていた今までのあり方にかすかに亀裂が入り始める描写です。
 で、これってじつは、自分はけっこうまともな部分も捨てられない人間で、神谷さんのように意志的に(あるいは天性として)人々から逸(はぐ)れることを徹底できる人間じゃないんだということを覚っていく場面でもあると思うんです。
 ここからは、又吉さんにこの作品を書かせた二つのモチーフが浮かんできます。一つは――こういう厄介な規定はあまりしたくないんですが、ほかに適切な言葉がないので――、彼はお笑い芸人としての経験を記述しつつ、その中に自分なりのビルドゥングス・ロマンの要素を込めようとしたのだということ、あの『魔の山』のハンス・カストルプのように。そしてもう一つは、神谷さんというキャラは、作者の投影としての「僕」にとって「笑い」の本質、つまり規範からの逸脱と超越を究めた理想像であって、そこには永遠にたどり着けない自分を知ったということ。
 まあ、二つは同じことで、つまりは青年らしい理想の挫折が、この作品のメインテーマだと言ってもよいでしょう。私は初め、神谷さんにはモデルがいるのかな、と思ってましたが、読み終えてから、いや、これは又吉さんの純粋な造形に違いないと信じるようになりました。イメージがあまりにくっきりし過ぎているからです。

 ちょっと結論を急ぎ過ぎました。
 神谷さんは同棲していた女性に恋人ができたため、すでにその男がいる彼女のアパートから荷物を引き払わなきゃならなくなります。神谷さんは、「僕」に同行を頼むんですが、それだけじゃなくて、別れ際に哀しくなったり惨めになったりするのがいやだからなんか笑う材料がほしい、だから「僕」に勃起してくれと頼みます。おまえの股間を見たら笑えるだろう、と。僕はいやいやながら、ともかくエロ動画を携帯に取り込んでおきます。さてその現場。

 真樹さん(神谷さんのこれまでの同居人――引用者注)は少し髪が伸びたように感じたが、下ろしているだけかもしれない。
 神谷さんの方を恐る恐る見た。神谷さんが、僕の股間を見ていた。この人は本当にあほんだらである(「あほんだら」は神谷さんのグループ名でもある――引用者注)。僕は携帯電話をポケットから取り出し、あらかじめ保存していた粗い裸の画像を選択し、精一杯興奮しようと試みた。だが、それは僕にとっては単なる匿名の裸に過ぎなかった。人間たちが交錯し各々の人生を燃焼する、この風景には到底及ばない。神谷さんは、まだ僕の股間を見ていた。あの男の覚悟を、真樹さんの想いを、神谷さんなりの下手糞な優しさを、この美しい世界を僕は台無しにしなければならない。どのような情熱からか微かに僕の股間は反応した。それを見た神谷さんが、思わず吹き出した。
「ほな行くわ」
 神谷さんは、そう言って立ったまま白のオールスターを履いた。「お邪魔しました」と言って僕が先にドアから出た。


 文中、「あの男」というのはもちろん真樹さんの新しい恋人ですが、この男は風俗で真樹さんを見染めてから通い詰め、ついに真樹さんを口説き落とした肉体労働者風の男です。モトカレが来るというので、手ぐすね引いて待っていたようです。「あの男の覚悟を、真樹さんの想いを、神谷さんなりの下手糞な優しさを、この美しい世界を僕は台無しにしなければならない。」――いい文章ですね。古典的です

 やがて「僕」は、自分なりのスタイルを見つけて、けっこう有名になります。テレビにもたびたび出るようになる。一方神谷さんは奈落へと突っ走り、借金がかさみ、姿を隠したりするんですが、一年ほどしてからまた出てきて、「僕」と旧交を温めます。私は、神谷さんは死ぬんじゃないかと思ってたんですが、そうじゃありませんでした。ネタバレするので結末は言いませんが、やっぱりありきたりの悲劇にしないで、最後までこういうふうに笑いのノリで「To be continued」の雰囲気を余韻として残したほうがいいのかな、と今では思います。
「笑い」は続くんですよね。日常が続くのだから、どんな哀しい時間帯でも、首を絞められている苦しさから首を斜め横にひねるように、それは続かなくてはならない。

 そう言えば、これを書いてる最中に、深夜テレビをつけてみたら、折よく、若いお笑い三人が以前書いた本(小説)を古参タレントの二人が取り上げて、いろんな賞を与えるという番組をやってました。もちろん又吉さんの受賞にあやかろうというギャグです。賞には五つあったんですけど、四つまでしか憶えてません。
①作中、自薦の一文を朗読して、名文に賞を与える――受賞したのは名文ではなく最もマンガ的な文章でした。
②ディスカウント賞――今、古本ネットで定価よりいくら下がっているか、一番差額が大きい人がもらえる。三人のうち二人までが1円でした。
③捨てるのもったいないで賞――自分の本を使って卓球の勝負をする――サイズの大きい本の勝ち、文庫本の負け。
④芥川賞――フラダンスのおばさん先生に読んでもらって真面目に判定してもらう。先生の名前は、芥川。
 けっこう笑えました。こうして、小説は形の上だけでは終わりますが、やっぱり現実世界は、ネタが新しいネタを生んで続いていくんですね。

 最後に、『火花』について、難点、というか気になるところを一つ。
 風景描写などで、少し凝った重々しい名文調を使いすぎるように思います。出だしの部分などは、横光利一ばりの文体なんですが、全体にそれが貫かれているわけではないし、特に会話の部分が大阪弁の軽いノリで進むので、そこにちぐはぐさを感じました。この不統一感は、彫琢不足のなせるわざか、意識的か。意識的なら逆効果なので、たぶん前者なんでしょう。というのも、軽く、優しく、滑るような語り口のうちに深い課題を提出して見せる、というのが文学としてほんとにかっこいいことだと思うからです。太宰作品がそうであるように。

この記事を読んだ読者のみなさんが、じゃあ『火花』を読んでみようかと思ってくださることを祈ります。そして何よりも、私の言葉が又吉さんご本人に届きますことを











日本語を哲学する25

2015年06月19日 22時11分04秒 | 文学




 以上、ささやかながら、日本の文学における「沈黙」の意義について述べてきた。このように書くと、とかく、それこそは日本の伝統的な美学だというように、限定的に受けとられがちである。しかし私自身が語学に堪能でないので、外国の例を的確に示すことができないが、この事情は、外国においても成り立つのではないかと思う。
 たとえば、シャンソン『枯葉』の作者として有名なジャック・プレヴェールの詩は簡潔をもって知られている。そこには、語られていない行間に多くの含蓄が込められているに違いない。ただそれは私には確信が持てない領域である。
 ここではその代わり、外国文学(小説)の例を一つだけ挙げておこう。

スタインベック『二十日鼠と人間』(大門一男訳、新潮文庫)より、結末直前の部分を引用する。
 この作品の舞台は一九三〇年代アメリカ南部。流れ者のコンビ、ジョージとレニーが臨時に雇われた農場で悲劇的な運命に見舞われる。レニーは大男でバカ力があるため、単純な肉体労働には役立つが、頭が弱いので相棒ジョージをいつも困らせる。またウサギやネズミのような小動物や柔らかい感触のものがことのほか好きで、そのために誤解されてトラブルを引き起こすので、二人は農場を転々とさせられる。しかしジョージは、この愛すべき「うすのろ」との友情をどうしても断ち切ることができない。
 引用箇所は、ある農場で、レニーが経営者のせがれの妻を誤って殺してしまったために、ジョージに言われた通りの場所、サリーナス川のほとりに逃げ隠れるのだが、せがれを先頭にした多数の追手がレニーを探し出してなぶり殺しにしようとする直前の場面である。ジョージは、もはや逃れられないと知って、他人に虐殺されるよりは、自分でレニーを殺すことを決意する。

 人声がしだいに近づいてきた。ジョージは、拳銃を挙げて、その声のほうに耳をすました。
 レニーは、彼にせがんだ。「すぐやろうよ。その土地を手にいれようよ」
「ああ、いますぐにな。おれはやらなきゃならねえんだ。おいらはやらなきゃならねえんだ。」
 ジョージは、拳銃をあげると、しっかりにぎり、銃口をレニーの頭の後ろに近づけた。手が激しく震えたが、顔つきがひきしまると、その手も震えなくなった。彼は引き金をひいた。銃声は山へはねあがって、また返ってきた。レニーはうめき声をあげ、それからゆっくりと前の砂にうつぶすと、身震いもせずに横たわった。


 レニーが「すぐやろうよ」と言っているのは、二人で金をもうけて農場の所有者になり、ウサギを飼おうという、これまで口癖のように繰り返されてきたアイデアのことである。彼は能天気なので、自分がしでかしたことの意味が分かっていない。一方ジョージがそれに応えて、「おれはやらなきゃならねえんだ」と言っているのは、「もうこうなったら、どうしても自分の手でお前を殺さなくてはならない」という意味である。ここに「やる」という言葉に対する二人の理解の齟齬を通じての「懸詞」の妙がある。
 文体を見てのとおり、これは贅肉ができるかぎりそぎ落とされたハードボイルドタッチの作品である。すなわちそこに、書き言葉としての「沈黙」の価値が見事に鳴り響いている。ここには「行為」と「事象」の描写だけがあり、心理や景物の描写はいっさい存在しない。だがまさにそのことによって、読者にこの成り行きの必然性とジョージの悲哀の深さとを遺憾なく伝え、感動を喚起させることに成功している。
 ジョージは、愛すべき厄介者のレニーに対して、たった二人だけのこれまでの長い交流の経験を一気に清算すべく、万感の思いを込めて引き金を引く。「山へはねあがって、また返ってきた」銃声の響きは、ジョージに、ひとつの関係の死のあとにやってくる、静寂と虚脱の感覚をもたらすだろう。彼だけによる一瞬の弔いがそこではもう成就されている。湿っぽい感傷は、彼の奥底にすでにしまい込まれているのである。

 先に呑み屋での客と大将とのやりとりの時にも述べたが、このような例を、たとえば文法的には言わずもがな、言語学的にも「省略」と呼ぶことはできない。「本来なら必要な部分を、あえて効果を生むために意識的に省略した」と呼ぶことさえ適切ではない。読者にとって、作者にそうした意図があったかどうかはどうでもよいことであって、作者はただひたすら良い作品の「よさ」を伝えようと思ってこうした文章を書いたに過ぎないからである。肝心なのは、テクストそれ自体に、「沈黙の言語的意味(価値)」が充満し、それが感動を生む秘密の一つになっているという「事実」なのだ。
「省略」とは、「正確で完全でていねいな表現」という理念をまず想定しており、その仮想された地点からの、ある発語に対するネガティヴな評価をあらかじめふくんでいる。しかし、それぞれの言語の独自の価値という視点からは、こういう理念型はそもそも余計なものである。そういう見方をするのではなく、発語と沈黙とのダイナミックなかかわりあいという観点をきちんと提示することで、ある発語の価値が、そこに表出されなかった言語、つまり「沈黙」によってこそ支えられるという事実が画然と姿を現すのだ。そうしてそれは、そのことを読み取り感じ取る読者の想像力と感性に協力を仰がなければ叶わないことである。文学の価値は、一般に作者と読者の活き活きとしたやり取りによって成立するのである。
 なおこうした書き言葉表現の例における沈黙の条件として重要な意義を担っているのは、「気分」としては相互の美学的なセンスの共鳴であり、「関係」としては両者に共有された言語的慣習のあり方であり、「話題」としては、書記言語活動それ自体の調子である。
 さらにくどいようだが、これらの言語的意義は、読者主体にとってのみ存在するのではなく、話し手(作者)→聞き手(読者)、聞き手(読者)→話し手(作者)という相互コミュニケーションの過程全体にとって存在するのである。言語の本質からして、読者は、別に作者に感想を送らなくても、ただ読んで理解したというそのことだけで、少なくとも観念的には作者に向かってなんらかの能動的なコミュニケーションを成立させているのである。「聞くことは話すこと」(発達心理学者・浜田寿美男氏)だからである。

日本語を哲学する24

2015年06月08日 13時08分03秒 | 文学
日本語を哲学する24




 四つのうち、まず又蔵の記憶の部分を引用する。

 虎松の眼が映したのは、ある時から虎松には理解し難い奇妙なものに囚えられ、いつか引き返すことの出来ない世界に、ひとり運ばれて行った孤独な男の姿だった。少なくとも、虎松の眼は万次郎が放蕩を楽しんで満ち足りているのを見なかったのである。それでもやはり、兄は斬られなければならなかったのだろうか。
 あれが罪とされ、非難されるものなのだろうか、と虎松は思う。それは虎松が十三か、四の頃であった。
 ………………
 ある日暮れ虎松は、万年橋に近い雑木林の端れに、思いがけなく兄の姿をみた。
 稽古が長びいて、いつもより遅くなっていた。日は落ちて、遠い砂丘の上に赤みが醒めかけた空が残っていたが、足もとには薄闇がまつわりはじめている。淡い光の中だったが、虎松にはそれが兄だとすぐに解った。長身の着流し姿で、形よく伸びた背筋、やや怒った肩が兄に紛れもなかった。
 万次郎の方は、立竦んだ虎松に気づいた様子はない。連れがいた。虎松からは白い横顔が見えているだけだったが、髪形と着ているものから町屋の妻女ふうに思える女が一緒だった。女は万次郎より年上のようだったが、美貌だった。
 女が何か言った。声は聞こえなかったが、いきなり手を挙げて万次郎が女の頬を打った音が小さく聞こえた。思わず虎松は息を詰めたが、次に起こったことが虎松の胸を息苦しいほどとどろかせた。
 女の躰が不意に力を失ったように万次郎の胸に倒れ込み、万次郎がその肩を抱くと、二人は縺れ合う足どりで林の奥に入って行ったのである。
 川が小さく流れの音をたて、新芽の匂いが溢れていた。その川沿いの小さな道を、虎松は足音を忍んで引返したのだった。
 ………………
 だが虎松が、川端で万次郎と女を見た頃には、万次郎はまだ颯爽とした面影があったのである。その表情が暗く荒み、身のこなしにもの憂い懈怠がみえるようになったのが、いつからだったか虎松には明瞭な記憶がない。気づいたときに、兄はそういうふうになっていたのである。万次郎の変貌はすみやかだった。


 読者の特権として想像を馳せれば、万次郎は道ならぬ恋に落ち込んでいた。彼の殴打はその恋の真剣ぶりを表していよう。年上の美貌の女は、万次郎の本心を試すような言葉をもてあそんだのかもしれない。女は彼の真剣さの手ごたえをいたく身に感じて、一瞬のうちに体をゆだねる気になった。そのときの万次郎は、ただの遊蕩ではなく、おそらく恋に向かってのひたむきさを匂わせるような霊気を発散していた。それが虎松の眼に「颯爽とした面影」として映ったのである。
 万次郎は、このまま義理の兄・才蔵の律儀と親切とを素直に聞き入れて、義理の姪である年衛を妻に迎えれば、土屋家の跡取りになりおおせるはずだった。しかし妾腹の子である彼には、そういう「恩恵」をそのまま引き受けることを肯じない意地と激しさのようなものがあったのだろう。道ならぬ恋にひたむきになるという成り行きには、あらかじめ定められた境遇に対する反逆の心が内に含まれている。それを逆説的な「武士の一分」と呼んでもあながち的外れではあるまい。
 そして当然のように、この道ならぬ恋は何かの理由で実を結ばなかった。反逆は当時の社会規範のもとにあえなく挫折したのである。その挫折の過程について藤沢は何も描いていず、ただ「沈黙」しているが、「もの憂い懈怠」を見せるようになった「すみやかな変貌」が何よりもその事実を雄弁に語っている。

 次に、万次郎の庄内への已みがたい思いについては、すでに引いたように、兄弟で出奔してから帰郷を提案したのがいつも彼であり、「なぜかは解らないが、万次郎の顔がいつも遥かな庄内領の方を向いているのを虎松は感じていた」とある。このふるさとへの思いにも複雑なものが織り込まれている。
 生を得た地を自ら捨てることがこの時代にどれほど重い意味を持ったかは想像するに余りある。しかし万次郎の場合は、一般的な出郷とはその意味が少し違っている。彼はじつは、観念の上ではとうに出郷してしまっていたのである。土地と有機的に結ばれている土着の慣習、身分の掟、宿命といったもののうちに従順に眠り込む安逸を意識的に拒否したのだから。
 だがそれは新しい生への道を開いてくれるような方向においてではなく、世間からは堕落としか考えられない下り坂の道だった。彼は自覚の年齢に達した時、あることに気づいてしまったのである。自分の一途な激しさと自分が生きている規範の世界とは、どのようにしても折り合いがつくものではないということに。だから下り坂を歩む以外の方法は許されていなかった。
 定めへの意識的な反逆による万次郎の観念上の出郷は、それが反逆性を帯びていればいるほど、その出てきたふるさとに対して、アンビヴァレントな執着を培う。未練とは違うし後悔でもない。彼は、もしかしたら自分はやり直せたかもしれないと考えて「いつも遥かな庄内領の方を向いてい」たのではない。この執着は、出自に対する呪いと表裏一体のものである。

 こう考えると、藤沢が、このあまり長くない作品に、なぜこれほど複雑な親族関係を設定したのかという理由が見えてくる。もちろん史実に忠実だったという可能性は考えられるが、史実がどうであろうとそれを取捨選択してそこに独特の濃度を込めるのは作者の創作意図である。
 もう一度その要点を整理すると、万次郎・又蔵兄弟は当主・久右衛門が隠居してからの妾腹の子であり、彼らの義理の兄である才蔵は、彼らの誕生以前に家を継ぐために外から請じ入れた養子である。才蔵夫婦には一人娘・年衛しかおらず、順当にいけば、万次郎、それが駄目なら(駄目だったのだが)、弟の又蔵にその娘をめあわせる手はずになっていた。ところが両方とも出奔してしまったので、致し方なく才蔵は、赤の他人である丑蔵を年衛の婿として請じ入れた。結果的に、「家」の形式を守り抜くために、土屋家には、二重に血のつながらない他人が入り込んだことになる。
 わが国では大正時代くらいまで、武家に限らず、ある程度格式のある家では、「家」の形式を守り抜くための養子縁組制度が盛んに行われた。こうした封建的な慣習が社会秩序の連続性を円滑に維持させてゆくはたらきをもった反面、個人の感情は重く押し潰されて、そこにいくつもの悲劇を生んだこともたしかである。藤沢の筆は、そうした社会的な不公正をそれとしてあからさまに訴えるのではなく、ただ制度上の処理がもたらす不可避的な複雑さを背景に置くことで、それが個人の心理に落とす影をさりげなく描出するのである。
 こうした意味での「沈黙」は、別に藤沢文学に限ったことではなく、むしろ文学一般の専売特許ともいうべき表現手法であると言ってよい。声高な社会的発言、雄弁な論理的発言とは違った、深い共感を呼び起こす独自の力がそこには伏在している。
 万次郎はもともと才も力もあり、ぐれ始めのころは仲間内ではリーダー格であった。要するに肩で風を切って歩くいなせなあんちゃん(今風に言えばカッコいい「不良」)だったのである。真面目な又蔵はそんな兄に、自分には真似のできない存在として、ひそかな憧れと尊敬の念を抱いていたにちがいない。すでに取り返しがつかない段階まで放蕩の淵に沈んでしまった万次郎を父の言いつけで呼び戻しに行く場面があるが、ここでの又蔵は、不本意な役目を押しつけられたといったふうで、諌める調子も口ごもりがちである。おそらく又蔵には、たとえ無意識にではあれ、兄がそのような境涯に落ちてゆくその必然が理解できたのである。

 そこで最後に挙げた、当時の中級下級の藩士の次男、三男が置かれた境遇についての説明が生きてくる。その部分を引いてみよう。

 剣の道場、手習い所には、藩士の次、三男が多く集まった。もちろん長男もいたが、稽古は次、三男の方がはるかに熱心にやった。藩では、みだりに分家することを許していない。長男は家を継ぐが、次、三男は、学問、武芸に精進して認められ、召し出されて新規に家名を立てるか、でなければどこかに婿養子に入るしか道がなかったためである。どちらにしても腕をみがいておく必要があった。
 しかし学問、武芸を認められて藩に取り立てられるというのは、ごく少数の例外で、それだけの器量もなく、婿入りの幸運にも恵まれない次、三男は、実家の部屋住みとして一生を送るしかない。そういう一群の日の当らない若者たちがいた。彼等は正式に妻帯することも認められず、百姓、町人の出である床上げと呼ぶ身分の低い女をあてがわれるが、生まれた子供は即座に間引かれた。
 長男に生まれるか、次男に生まれるかが、彼等の運命の岐れ道だった。長男と次、三男は食事のおかずまで厳しく差別され、兄弟喧嘩があれば、理由を問わずに弟が叱られた。
 稽古所に通い、年月を経る間に、彼らはそういう差別の不当さに気づいて行く。そういう境遇に反発し、離藩、脱藩して領外に新しい道を探ろうとする者もいたし、修業に打ち込むことで、次、三男の境遇から脱け出そうとする者もいた。だが、暗い部屋住み暮らしを予見しながら無気力に日を過ごす者、希望のあてのなさに苛立って、酒や女に走る者の方が遙かに多かったのである。


 万次郎はむろん、ここに例示された次、三男ではない。しかし彼は年老いた父の妾の子であって、そのポジションはさらに微妙である。形式上の嫡男として迎えられた養子の才蔵が、年の離れた義理の弟である万次郎に、いかに世継ぎの地位を譲る寛容さを示したとしても、いや、そうした人為的な寛容さを示されればされるほど、自分の屈折した心が、同じ稽古所に通う次、三男たちへの共感に傾斜していったとしても不思議ではあるまい。「希望のあてのなさに苛立って、酒や女に走る者」の気持ちが、万次郎にはしみじみと肌で理解できたのである。されば彼がその持ち前の才量を「遊蕩仲間」の中心人物となる方向に注いだのは、むしろ当然というべきだったろう。
 しかしそうした若者らしい人情の機微を、社会規範の遵守にとらわれた大人たちがわかろうはずがない。「後日才蔵が、万次郎には同門の稽古所の悪い仲間がいるようだ、と聞き込んできたが、そういう仲間に悪い遊びを吹き込まれたに違いない、と身贔屓な推測を語り合うしかなかった」のである。

 こうして藤沢はこの長くない作品で、幾重にも折り重なる条件をそこかしこにそれとなく提示しながら、万次郎が陥っていたやるせない心情と又蔵の暗い情念とを見事に一本の糸で結び合わせて見せたのである。又蔵の「火」を燃やしていた燠は、容易には言葉にならないものであり、またそこには単に主観的な心理の動きとして片づけることの出来ない不条理な生の条件がすべて凝縮していた。藤沢の筆は、それらを饒舌に「解説」するのではなく、まさに抑制の効いた鋭利な文体によって暗々裏に表現している。そこにこそ、文学における「沈黙」の価値が実現しているのだ。
 そうしてつけ加えるなら、他のいくつもの作品にも見られるこの藤沢文学のスタイルのうちには、不条理な生を強いられる人間の実存の姿に対する一貫した共感の視線が感じられる。そのことによって彼の文学は、時代や社会を超えた普遍性を獲得していると思える。又蔵の「火」――それはとりもなおさず藤沢自身の中に静かに燃えていた「火」なのである。

倫理の起源60

2015年01月12日 19時44分16秒 | 文学
倫理の起源60




 さて『永遠の0』に話を戻そう。
 すでに述べたように、この作品が提供している最も重要な思想的意味は、宮部久蔵という主人公の造型のうちに、大東亜戦争時における「お国のため」イデオロギーと、戦後における「平和主義」イデオロギーとの矛盾を止揚・克服しているところにある。
 とかく、特攻隊などをテーマとした作品・言論は、前途ある若者たちが「お国のために」死を引き受けていくその悲運に対する哀切な共感を核にしたものか、そうでなければ、ただ「間違った戦争」という戦後イデオロギーによる言いくくりで、ここにある大切な思想的問題に頬かむりを決め込んだものが大半である。両者は共にセンチメントを根拠にしているので、永遠に交わることがない。
 この稿を起こしている間に、私は原作・映画両作品に関するいくつかの感想、批評に触れたが、右翼的だ、左翼的だなどの政治的批判は問題外としても、残念ながら、この作品が戦中イデオロギーと戦後イデオロギーとの不幸な対立を克服するメッセージを発しているのだという最も重要な指摘に出会うことがなかった。
 宮部久蔵は戦争という状況の中にいるかぎりは勝たなければ意味がないという信念の持ち主である。だから不合理な作戦には上官に逆らってでも異を唱える。何のために? 「お国のために」というスローガンは、それだけでは、崇高に見えるぶんだけ超越度が高すぎる。しかし、「身近な愛する者たちのために」ならば時代を超えて、だれでもそのロジックに納得するだろう。そうしてこの場合重要なのは、何々のために「死ぬ」ではなく、何々のために「勝って生還する」という構えである。「お国のために」は、背後にこうした精神の裏付けがあってこそ意味をもつのだ。
 先に引いた与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』は、身近な愛する者に向かって、生きて還ってきてくれることを切に願う歌であり、それが「大みこゝろ」に必ずかなうはずだと訴えている「女歌」だった。宮部の言動は、男の側からそれに一心に応えようとした「男歌」だったのである。

 その心はまた、『伊勢物語』に収められている、業平が歌ったとされる次の歌ごころにまっすぐ通じている。

名にし負はば、いざ言問はん都鳥、わが思ふ人は、ありやなしやと

 この歌は、遠く都を離れた一行が心細い東路にあって、すみだ河の舟の上からカモメを見つけ、それが「都鳥」という名だと聞いて、たちまち京都に残してきた愛しい人のことを思い出し、彼女たちが息災でいるかどうかを切なく思いやった歌である。船上の男たちはこれを聴き「舟こぞりて泣きにけり」と皆大泣きした。「川を渡る」には、そもそも異界に旅立つという象徴的な意味合いが込められており、それは死を覚悟で戦場に赴くときの心情に見事に重なるだろう。
『伊勢物語』では、東下りの動機について、「その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ。あづまの方にすむべき国もとめにとてゆきけり」とだけ説明されているが、『伊勢物語』の説話は、歌にさまざまな伝承を後から付け加えたものだから、この動機を歌が本来示している情調に結びつけて解釈する必要はない。歌の主が本当に「身をえうなきものと思ひなし」たのかどうかはわからないし、「すむべき」を、この一行のみが自発的に「すむ」ことを目指したと考えなくともよい。要は、はからずも流離の身となった男がはるか遠国から恋する女のことに思いを馳せるという一般的なシチュエーションが歌心の核心であることが読み取れればよい。だからこの歌は、都の官吏が上からの指令によって(たとえば土地開拓や遠征の意図をもって)そこに派遣されざるを得なかった時に歌われたと考えてもよいし、急な左遷を強いられたと解釈することも可能である。さらに政争に敗れて追放の身になったのかもしれない。いずれにしてもこの歌は、戦場に赴くときの兵士たちの切ない心ときわめてよく通じ合うのである。

 宮部が、部下に家族の写真を見せて、辛い戦いにくじけそうになった時にこれを見ると勇気が湧いてくると答えたのも、彼がエロス的な絆を最も重んじている証拠である。束の間の休暇からの隊への帰還に当たって、背後からつと寄り添う妻に「私は必ず帰ってきます。手をなくしても足をなくしても……死んでも帰ってきます。」と彼は答える。このシーンがかぎりなく涙を誘うのも、守るべき価値がなんであるかについての彼の明晰な意識が読者・観客の胸に素直に伝わればこそである。この瞬間、その精神は、超越的・抽象的な「お国」の理念を突き抜けているのだ。
 しかしひとりのうつしみは、現実には国家的共同性(公)とエロス的共同性(私)の両方を背負わざるを得ない。そればかりではない。敗色濃厚な戦局のさなかにあって、宮部は、学徒特攻要員の育成という、前途ある有能な人材を次々に死地に追いやる職業的役割を果たさなければならなかった。ここで彼の苦悩はいよいよ深まる。教官としての職業倫理と、身近なものを救わなければならぬという個体生命倫理とがまず葛藤する。
 さらに教えた者たちのなかには、自分の命を捨て身で救ってくれた生徒(大石)もいる。その間に介在するのは、単に抽象的な個体生命倫理ではなく、かけがえのない友情というもう一つの具体的な人倫性であった。この人倫性もまた、職業倫理との間に葛藤を生み出さざるを得ず、こうしてこの段階で、宮部久蔵という一つの身体は、公共性と個体生命と友情という三重の人倫性を一気に背負うのである。それらのどれか一つを「選択」して貫くということが到底かなわない状況の下で。
 やがて宮部と大石を含む特攻隊要員はいのちの離陸地点である鹿屋基地に配属される。当座、宮部は特攻機の目的を遂げさせるために、飛行中に特攻機を敵機の攻撃から守る直掩機に搭乗する。しかし特攻機は、装備を格段に向上させた敵艦の迎撃に遭って、目的を達する前に次々に海中に墜落してゆく。宮部は自分の無力を日々痛感して、その形相は別人のように変わり果てている。ぎらついた目と無精ひげとひとり部屋の片隅に頑なにうずくまる姿。この鬼気迫る形相は、映画作品ではじつによく描かれている。
 こうして、迫りくる戦況の切迫情態と、すぐ目の前で日々命を落としてゆく若き「戦友たち」に何ら援助の手を差し伸べられない激しい無力感とによって、妻子の下に必ず生還するという彼の最大の価値感情は、無残にも押しつぶされてゆくのである。死んでゆく戦友たちをさしおいて自分の日ごろの信念を貫くことはもはや不可能だ――作品に直接描かれてはいないが、おそらくこの絶望が、彼をして特攻隊員への志願をぎりぎりのところで決断させたのである。しかし彼は信念を曲げたのではない。恩人であり戦友である大石隊員の命を救う試みと、妻子を助けてほしいというメモ書きによる大石への委託。これこそは、その信念を生かす道を最後まで捨てなかった証拠である。
 こう考えてくると、絶望的な思いを抱えながら遂に特攻隊志願の道を選んだ時点における宮部の身体は、単に国家的共同性(「お国のため」)とエロス的共同性(愛しい妻子のため)とのねじれに引き裂かれていただけではないことがわかる。彼は、若き同志たちを目の前で次々に失ってゆく残酷な光景、それでも(それだからこそ)自分の磨きぬいた技量を使い尽くして敵を倒さねばならぬという職業的使命、これらにもまた引き裂かれているのだ。言い換えると、公共性、個体生命、友情、職業、エロスと、それぞれ一筋に貫くことのかなわない五つの領域における人倫の命令が互いにもつれ合いながら、宮部の身体にいっせいに襲いかかっているのだ。
 それにもかかわらず、宮部はこの四分五裂した自らの身体から、命の瀬戸際で自らの信念(魂)を救い出す方法をかろうじて見つけ出した。身は公共性と職業が要求する人倫性のほうへ、そして魂は、友情とエロスが要求する人倫性のほうへ分割して奉納したのである。だから、彼の魂は、戦友・大石と妻・松乃の下へと帰ってきた。そうしておそらくは孫たちの下へも。
身を殺して魂を殺し得ぬ者どもを懼るな。身と魂とをゲヘナにて殺し得る者を懼れよ」(マタイ伝10章28節)という厳粛な言葉を思い浮かべるのは私だけだろうか。魂は殺されなかったのであり、それは、近代国家という公共体の下にではなく、友情とエロスという実存のふるさとのほうに帰還したのだ。

 ここで、映画作品での一連の印象的な展開について触れておきたい。宮部の命を救った大石が入院しているとき、宮部が見舞いに訪れ、妻が念入りに修理してくれた外套を大石にプレゼントする。大石は戦後もずっとその外套を着ている。新しい品を買う余裕がなかったのも理由かもしれないが、これはあの宮部さんの形見であるという気持ちが強かったのだろう。彼がようやく松乃の家を探し当てて戸口に立った時、松乃は男の影が差すのを見て警戒し、思わず箒に手を伸ばす。じつはこの箒に手を伸ばす場面は、宮部が不意の休暇で帰宅した時にも出てくる。両者は意識的にダブらせてあるのだ。そうして次の瞬間、戸が開くと、松乃はそこに宮部の姿を見る。だって自分が精魂込めて修理したあの外套を着ているではないか。すぐカットが変わり、立っているのは見知らぬ男・大石である。
 外套を小道具に使ったこの展開は見事であり、まさに宮部の魂が帰ってきたことが暗示されているのである(なお同じ展開は、作品構成上の制約はあるものの、原作でも伏線として記されている)。

倫理の起源59

2015年01月08日 15時56分44秒 | 文学
倫理の起源59




 さて三つ目に、島尾敏雄吉田満の対談『特攻体験と戦後』(2014年・中公文庫)から、二人の発言の一部を引いておきたい。
 島尾は、特攻隊長として南島に赴任し出撃直前に終戦を迎えて肩すかしを食った頃の内的な体験を、緻密な文体で『出孤島記』『出発は遂に訪れず』などの作品に結晶させた。また吉田は周知のように、『戦艦大和ノ最期』の著者である。この対談が行なわれたのは1977年という古い時期であり、本は1981年に中公文庫から出版されているが、2014年版は、いくつかの文献が増補されて「新編」として再出版されたものである。

 
島尾 ……特攻というのも、そのような戦争の中での一つのやり方だとは思うけれども、やはりぼくは、ちょっとルールがどこかはずれているような気がするね、人間世界では戦争は仮に致しかたないにしても、せいぜいスポーツみたいなところにとどめておくべきですね。特攻は、もうとにかく、最後のところまで、なんというかね……そうじゃなくもっと気楽に……戦争を気楽にするというのもおかしなもんだけども……。最後のものまで否定してしまわないで……。
吉田 死ぬ確率と生きる確率とのあいだには適正配分がありまして、戦争が人生の一場面としてあるとすれば、その適正配分の範囲内であるし、……特攻というのは、そういう原則を破るものですね。だから、みんなやむを得ず、無理をしてその中をくぐりぬけるわけでしょう。だから、あとにいろんな問題が残るわけでしょうけれども。
島尾 あれをくぐると歪んじゃうんですね。
吉田 歪まないとくぐれないようなところがありますね。
島尾 それはやっぱり歪んでいるという気がしますね。
(中略)
吉田 その通りだと思いますね。ただ、ぼくらの学徒出陣の時代は、たとえ歪んでいても、敗戦直前に戦場にかり出されて、なにかそういうものを自分たちに課せられたものとして受け入れて、その中からなにかを引き出すほかはないというような、そういう追い詰められた、受け身の感じがどうもあったと思うんです。そう感じた仲間が多かった。これは事実を言っているので、この事実をどう受け止めるか、われわれ自身がどう乗りこえるかは、別の問題で……。
島尾 その中からやはり水中花みたいな、非常にきれいな人間像が出てきたりなんかするんですね。冷たい美しさを持って死の断崖に剛毅にふん張った人たちなんか。しかし、それに惑わされないで……。だから、そういう一見美しく見えるものをつくるために、やはり歪みをくぐりぬけることが必要ということになると、ぼくはやはりどこか間違っているんじゃないか、という気がしますね。ほんとうはその中にいやなものが出てくるんだけれど、ああいう極限にはときには実にきれいなものも出てくるんですね。そこがちょっと怖いような気がしますね。


 整理すれば、次の四つのことが言われている。

①特攻隊作戦のようなものは、通常の戦争なら必ず暗黙の了解としてあるような、人間の生についての基本的な規範感覚を逸脱している。
②その逸脱は、普通の人間の意識を歪んだものにする。
③しかし自分たちには、その逸脱と歪みから抜け出す道は許されていず、それを運命として引き受けたうえで、それぞれに自分を納得させるほかはなかった。
④その納得の仕方のうちには、美しい人間像が出てくることもあったが、歪みを肯定しなければその美しさを引き出すことができないと考えるとすれば、それはやはり間違っている。


 この対談では、こういう作戦を立て実行に移した軍上層部への批判とか恨みのようなものは一切語られていない。事後的な客観認識にもとづいて当時を振り返る試みは、この二人のたくまざる文学的な誠実さによって、無意識のうちに避けられているのだ。しかしそうであればあるほど一層、実存体験としての特攻体験がどのようなものであったかという実相が過不足なく描き出されていると言えよう。
 ことに、訥弁の島尾の最後の発言は、「いやなもの」と「美しいもの」との両面性を指摘していて、かぎりない重みが感じられる。私は、ここで言われている「いやなもの」という生理的な表現に、梅崎春生が目撃して感じた水上特攻隊員の「いやな」感触を重ね合わせる誘惑からの逃れ難さを感じる。
 傲慢に聞こえることを承知の上でつけ加えれば、特攻隊員たちの遺書などに限りなく「美しいもの」がみられるのは、むしろ当然と言ってもよい事態なのである。若い身空で死にゆく運命を意識的に引き受けた上での瀬戸際の言葉なのだから。
 私自身もそれらに触れて涙を誘われることを告白するにやぶさかではない。しかしそれらの言葉の美しさは、すぐれた文学作品とちょうど同じように、それ自体で完結してしまう。それは、そのような運命に多くの若者たちを追いやった大きな力の正体がなんであったかという疑問、そうして疑問がある程度答えを得た時に生じてくるその正体への憤りを育まない結果に終わりがちである。だが、疑問や憤りは、それがどの方向に向けられるかは措くとして、また明確な表現を獲得するかどうかは別として、生活者の心の奥深くにずっと現存し続けるのである。
 これはまた、『きけ わだつみのこえ』(光文社)に収録されたいくつかの文章などについても同じである。この本の初版に対してその編集方針に左翼的イデオロギーの匂いをいち早くかぎつけて、「遺書にイデオロギーなどを読んではいけないのである。……彼等(編集者達――引用者注)は、それと気付かず、文化の死んだ図式により、文化の生きた感覚を殺していたのである」(「政治と文学」)と鋭く指摘したのは、小林秀雄だった。
 小林は、最後まで「政治」や「社会」にかかわるテーマに言及することを嫌い、「文化」の息の長さの維持に己れの表現の生命を賭けた。そのかぎりで、彼もまたある組織化された明瞭な「憤り」のかたちに自分の言葉を収斂させはしなかった。彼の思想を理解する上での重要なキーワードは、憤りではなく、ある運命を味わった生活者たちへの「深い共感と哀しみ」である。だが、いっぽうで彼は、子どもを失った母親の哀しみのうちにこそ、客観的な事実の羅列ではない真の「歴史」が生まれる根拠があると主張し、そうした生活者の営みや感情自体に、歴史的必然という「大きな力」への「抵抗」を見出している。「僕等の望む自由や偶然が、打ち砕かれる処に、そこの処だけに、僕等は歴史の必然を経験するのである。僕等が抵抗するから、歴史の必然は現われる、僕等は抵抗を決して止めない」(「歴史と文学」)。つまり実存者の生活の持続のなかに孕まれる具体的な哀歓が、「歴史の生産」に論理的に先立つのである。
 もとより憤りや反省を構成することは、実存思想家・小林の役割ではなかったが、その彼もまた逆説的な仕方で、生きることそのものが運命に対する「抵抗」であることを認めていた。この彼の態度を、憤りを正当に構成するための心の土壌と考えるのは我田引水であろうか。

 以上三つの例によって、特攻隊精神なる純粋で美しいもの(だけ)がすべての特攻隊員の心を貫いていたという思い込みが少しは相対化されただろうか。何度も繰り返すが、そういう思い込みに耽ることの一番まずい点は、この自暴自棄的な作戦を考え出した軍上層部の非合理性と人命軽視という最大の問題が不問に付されてしまうところである。フィリピン戦における大西中将がこれを発案したとかしないとか諸説があるが、それはどちらでも構わない。それがだれだったにせよ、特攻隊などという「十死零生」の作戦を考えて死の美学に国民の運命をゆだね、どこまでもこの作戦に固執しようとした時点で日本の敗北は明らかだったのである。後から来た私たち、英霊たちの遺族でもない私たちにとっては、あの戦争にかかわるなにかを言論思想として語ろうとすれば、そのように語るほかにすべがない。

倫理の起源55

2014年12月13日 13時08分49秒 | 文学
倫理の起源55





 父性と母性について述べたことを蒸し返すが、平均的な女性性が持つ倫理的な意義を掬い取るために、次のように端的に女性性と男性性とを比較しておこう。
 すなわち、女性は一般に、日常性に対する細やかな配慮を持つが、反対に公共性にはあまり関心がない。彼女は具体的なエロスの対象(恋人、夫、子どもなど)とのかかわりに心を注ぐが、反対に、それ以外の一般的・社会的関係の動きにはあまり興味を示さない。したがってたとえば著名人の私生活的な動静には耳をそばだてるが、それらの人々が公的にどんな言動をしていてそれが社会のなかでどんな評価に値するのかについては、さほど研究熱心ではない。
 彼女たちの多くは、チェーホフの『可愛い女』に描かれたように、恋しく思う相手であればその人の仕事のすべてを肯定的にとらえる傾向を持つが、その裏返しとして、相手のことをいけ好かないといったん思ったら、その人がどんなに優れた仕事をしていようが、公平な評価などまったくしない。しかしでは、惚れた男性の仕事ぶりや人格の核心部分について誤解した判断をするのかといえば、けっしてそうではなく、彼女たちは直感によってそれを鋭くつかむのである。
 これは、彼女たちが、人間社会を扱うのに最も抽象度の高いターミノロジーを武器とする「哲学」や、多様な人々の欲望や意志をいかによくまとめるあげるかを目的とする「政治」に強い関心を持たない事実と通底している。
 ところで男性の場合はこの逆である。彼は一般社会の動きや政治に強い関心を示すが、反対に、観念談義に傾倒するあまり、日常性やエロス的な関係への配慮を忘れがちである。あなたは、男女がまじりあって宴を張っている折に、男が酔っ払って床屋政談にうつつを抜かしている一方で、女がその話題には入らずに、新しい化粧品の話や知人のうわさ話や子どもの教育の話に興じている光景にしばしば接しないだろうか。そうして帰りの時間や明日の予定を気にして元をきちっと締めるのはたいてい女性ではないだろうか。
 これらの一見他愛もない差異は、公共性の倫理、すなわち「義」を問題にするとき、明瞭な、そしてきわめて重要な価値観の違いとして現れてくる。
 男性は一般に女性を公共精神や公共的理性が不足した存在としてとらえ、その点だけを拡大解釈して人格的により劣った存在とみなしがちである。最近見られる過度なほどの女性尊重の風潮や女性の力の活用の動きなどは、一見すると、この男性の女性観が時代に応じて変化した結果であるかのようにみえるが、じつはこれは同じことの裏返しなのである。自分にとって重要な存在ではあるが、そのうまく理解できない部分に対しては棚上げするにしくはなしという心理の表れなのだ。男性の女性を見る目が根底から覆ったわけではない。
 多くの男性の本音あるいは潜在的な意識としては、公共的理性、義を尊重する精神において女性は男性よりも劣っている、あるいはあまり関心がないと感じている。このこと(公共的理性や義を尊重する精神において女性が男性よりも劣っている、あるいはあまりそれらに関心がないこと)自体は、かなり普遍妥当的な事実である。
 しかしこの事実は、単に人生のどの領分に価値を置くかという点での両性の違いをあらわしているだけであって、別に全人格において女性が男性よりも劣っているわけではない。男性はとかく公共精神や義に殉ずる精神、武士道、大和魂などを、最高の人倫性とみなす傾向が強いが、ここに自分をアイデンティファイしすぎてしまうと、他の人倫性もまた負けず劣らず意味を持っているということが見えなくなる。
 そこで、ただ私情を捨てて国家社会のために尽くすことを最優先に立て、そこに伴う犠牲をやむを得ないこととして受け入れる。しかし当然それは取り返しのつかない哀しみをともなうので、その感情の収拾のつかなさを、美学によって鎮撫せざるを得なくなるのである。いったん美学的な構造が心理的な破れを補綴するものとして成立すると、今度はそれをそれ自体として肯定する傾向が根付いてゆく。
 わが国の一部に特攻隊精神を称揚する向きなどがあるが、すでに述べたとおり、これははじめから死や滅びや散華などの非合理的な美学を織り込んだところに成り立つ人倫精神であって、したがってそれ自体としては、「勝つ」ことにとって役立たないし、女子どもを守ることにも役立たない。誰か、女性で特攻隊精神を心から応援している人を見たことがあるだろうか。「どうか私のために立派に死んできてちょうだい」などと本心から言う女性がいるだろうか。 女子どもや同志を守るために男は命をかけて闘わなくてはならないことがあるし、戦闘の現場からけっして逃げない態度はぜひ必要である。これらの共有こそが士気を盛り上げるのだし、戦いの勝利にも貢献する。また、死へと運命づけられた者の最後の言葉が文学として人々の心を強く打つことも事実である。歴史の中にこれらの言葉が残っていくことの意味を私はけっして否定しない。
 しかし「国家」という超越的・抽象的な観念に過度に自分を憑依させてしまうと、何のための闘いであったかが忘れられがちになり、いったん敗北局面に迷い込んだときに、合理的な戦略思考を欠いた無謀な作戦に頼らざるを得なくなる。加えて過度の憑依の感情がそれに肯定的な意味づけをさせることを強いる。そのために死の美学、滅びの美学が駆り出される。特攻隊作戦は、作戦としては、こうした本末転倒の典型である。そうしてこの過度の憑依の感情は、男性特有のバランス喪失(一種のホモセクシャルな酔い)に根差している。

「義に殉ずる精神」をテーマにした作品で、女性が主人公のものがないわけではない。
 たとえば伊達騒動に材を取った歌舞伎『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』の「御殿の場」では、若殿・鶴千代の乳母・政岡が、その子・千松にかねてより鶴千代の毒見役を果たすように教え込んでおく。千松は政敵より送られた毒入り菓子を、鶴千代が手を付ける前に手づかみで食べる。苦しむ千松を見て陰謀の発覚を恐れた政敵一味の八汐が千松を殺害するのを政岡はじっと耐えながら静観する。一味が去ったのちに、政岡は、千松の遺骸を抱きしめて激しく嗚咽しながら、「でかしゃった、でかしゃった」と、息子の「義」をほめたたえるのである。この作品の最大の見せ場とされている。
 ここでは人形浄瑠璃によってその一場面を味わっておこう。



 しかし、この場面で観客はどこにどのように共感しているのだろうか。政岡母子が立派に君主への「義」を貫いたことそのものに対して拍手を送っているのだろうか。そうではあるまい。愛するわが子を「義」のために犠牲として差し出さざるを得なかった、その母親の引き裂かれた悲痛な思いそのものに感動しているのである。殺されるわが子の姿を目の前にしながらその場では懸命に平静を装い、乳母としての職務をまっとうできたと知るや一転して母の真情を直接に表出する――観客は、政岡のこの際立った感情表現の落差のうちに、この世の習い(武家社会の掟)が強いてくる理不尽を一身に背負わざるを得なかったひとりの女の悲劇を見出してともに泣くのである。けっして「義」そのものが肯定されているわけではない。
 つまりここに提出されているのは、公共性と肉親の情愛という二つの人倫性の根本的な矛盾をひとつの身体が背負った時、その身体はどうすればよいのかという問題なのである。特にこの場合には幼子を思う母心という女性性が中核の主題とされているだけに、問題の思想的な意味は鮮明にあぶりだされている。こういう問題の提出のされ方は、はじめからエロスが排除された男性集団である軍隊などの内部で「義」のあるなしを探究している限り、浮かび上がることがない。そこでは公共精神を貫く(お国のために命を捧げる)ということだけが最高の人倫性とされてしまうからである。




 日露戦争に出陣してゆく弟の生還を願って謳われた与謝野晶子の、有名な「君死にたまふことなかれ」も、やはり同じ問題をストレートかつ大胆に提出している。ここにその全章を引用しよう。

  君死にたまふことなかれ   
    旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて
    
 あゝをとうとよ、君を泣く、
 君死にたまふことなかれ、
 末に生れし君なれば
 親のなさけはまさりしも、
 親は刃(やいば)をにぎらせて
 人を殺せとをしへしや、
 人を殺して死ねよとて
 二十四までをそだてしや。

 堺(さかひ)の街のあきびとの
 舊家(きうか)をほこるあるじにて
 親の名を繼ぐ君なれば、
 君死にたまふことなかれ、
 旅順の城はほろぶとも、
 ほろびずとても、何事ぞ、
 君は知らじな、あきびとの
 家のおきてに無かりけり。

 君死にたまふことなかれ、
 すめらみことは、戰ひに
 おほみづからは出でまさね、
 かたみに人の血を流し、
 獸(けもの)の道に死ねよとは、
 死ぬるを人のほまれとは、
 大みこゝろの深ければ
 もとよりいかで思(おぼ)されむ。

 あゝをとうとよ、戰ひに
 君死にたまふことなかれ、
 すぎにし秋を父ぎみに
 おくれたまへる母ぎみは、
 なげきの中に、いたましく
 わが子を召され、家を守(も)り、
 安(やす)しと聞ける大御代も
 母のしら髮はまさりぬる。

 暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
 あえかにわかき新妻(にひづま)を、
 君わするるや、思へるや、
 十月(とつき)も添はでわかれたる
 少女ごころを思ひみよ、
 この世ひとりの君ならで
 あゝまた誰をたのむべき、
 君死にたまふことなかれ。


 
 さてこの詩は、戦後、左翼イデオロギーの枠に取り込まれて、反戦思想詩という「名誉ある」地位を獲得することになり、教科書にも必ず取り入れられて今日に至っている。そういう扱いに対して、男性保守派の多くは、その左翼的な読みそのものにからめとられて反発し、あるいは文字通り公共精神を欠いた「女々しい泣き言、恨み言」として軽蔑しようとする。
 しかしこの詩は素直に読めば、別に反戦思想や平和思想を一般的に歌い上げているものではないことは一目瞭然である。また国運の行き先に最も威力を示す「すめらみこと」に対して「女々しい」泣き落としをかけようとしているのでもない。
 この詩を読み解くポイントはいくつかある。
 まず、可愛い末っ子に対する両親の切ない親心を代弁していること。
 次に、夫を失った老母の心細い心境に触れていること。
 次に、「とつき」も添えずに別離してしまった新妻の心境の辛さを思いやっていること。以上は、普通の人の人生にとって、身近で親しいエロス的な関係がいかに重い意味を持っているかを切実な調子で解き明かしたものである。これは公的な大義名分が人の実存や運命を変えようとするときに、どんな人々の間にも沸き起こってくる、しかしあからさまには口に出せない抵抗の感情である。特に子を産み育てる性である女性にとっては、当然の感情であると言ってよいだろう。
 さらに重要なのは、商家に生まれ、その跡継ぎを担わなくてはいけない長子にとって、人を殺すような行為は、その「あきびと」として生きてゆくのに必要な規範からは無縁であると指摘している点である。これは、公共的な人倫の命令するところが、特定の職能や職業倫理とは合致しないことを端的に語っている。
 突き詰めていえばこれは、戦争処理は政治の専門家(政治家、外交家)や戦争の専門家(軍人、兵士)に任せておくべきではないかと言っているに等しい。たしかに「獣の道に死ねよとは」といった言葉遣いに、男たちの殺し合いに対する女性特有の忌避感覚は出ているが、しかし別に戦争そのものを頭から否定しているわけではない。だから見方によっては、これは、ホッブズがその理論的基礎を敷いた、市民相互の武装解除によって成り立つ契約国家観によくかなうものであるとも言える。いかにも自由商業都市・堺の菓子問屋の娘にふさわしい感性である。
 晶子は、天皇陛下はよもやご自分が陣頭指揮もせずに他の人をむざむざ死地に追いやるようなことはしないでしょうねと、辛辣な調子で訴えているが、これは最高指揮官たる者のノブレス・オブリージュを喚起していて、古代の勇猛な天皇一族のことを考えれば、当然の指摘である。しかもこの詩が詠まれた当時の天皇(明治天皇)は、まさか前線にのこのこ出ていきはしないものの(そんなことをするのは指揮官として失格である)、勇猛果敢な英雄精神の持ち主だった。立憲君主としての拘束さえなければ、率先して剣を抜いて陣頭に立ったかもしれない。率直な抒情の表出を好む晶子がもしそれを見たら、「すめらみこと」の男らしさを褒め称える詩や短歌のひとつも書いたのではないかと思う。
 最後に、「死ぬるを人のほまれとは、/ 大みこゝろの深ければ / もとよりいかで思(おぼ)されむ。」という部分に注意しよう。これこそは、死ぬこと、滅びることそれ自体を「ほまれ」として肯定するような特攻隊的美学精神の否定である。勝って帰らなくて何のための戦争だろうか。
 じっさい、晶子がここで「すめらみこと」に託しているように、「大みこゝろ」は、伝統的に民の平安な生活を祈ることを本質としているので、ぎりぎりの必要悪としてしか犠牲死を認めない。昭和天皇は、二、二六の青年将校のような血気にはやった秩序攪乱の試みを非常に嫌ったし、先の大戦で国民が次々に死んでゆく事態に心を痛め続けた末に、ついにたまりかねて終戦の「ご聖断」を下したのだった。
 こうして、「君死にたまふことなかれ」一篇は、エロスの関係を最も大切と考える心の表現であり、女性が持つ人倫精神の典型なのである。これを「公共心を理解しない女々しさ」などと軽蔑し去って平然としている男性がいるとしたら、その人は、人間という動物が人倫精神の深刻な分裂をはじめから内在させているということに対する想像力を欠落させているのである。

倫理の起源54

2014年12月05日 14時42分13秒 | 文学
倫理の起源54





 以上、「愛国心」なる概念を前面に押し立てて、その是非を論じることそのものの無効性について説いてきた。その連続線上で、次のような重要な問題を考えてみなくてはならない。
 国家なるものが公共性をその人倫精神の根幹として持つ共同性であることには疑いを入れないが、そもそも、公共的な人倫精神は無条件で正しいと言えるのかどうか。先に予告したように、他の人倫性との間で解決不能な軋みを生じさせることはないのかどうか。
 そもそもある公共性(たとえばある方向に進みつつある国家のあり方)に「義」が具わっているかどうかという問題は、歴史の審判を待たなくてはならないので、結論を出すことがたいへん難しい。歴史の審判と呼ばれるものすら、何をもってその正当性を主張できるのかについて明確な基準があるわけではない。それはしばしば後世の力関係やイデオロギーによっていくらでも歪曲されるからである(例:東京裁判)。日本は「義」のない戦争をしたと左派によってしばしば指摘されてきたが、物事はそう簡単ではない。
 ここでは、こうした歴史問題に踏み込むことはせずに、より一般的に「公的な義に殉ずることの是非」について論じたい。
 結論から先に言うと、いわゆる武士道に代表されるような「義に殉ずる」精神は、美学的・文学的なテーマにはなりえても、それだけとしてはじゅうぶんな倫理学とはなり得ない。なぜならば、これはある厳しい条件下における個人の内面や特定の同志たちの間に湧き起こる精神の昂揚状態と、その昂揚状態の中で取るべき態度とを表わしているだけであって、日常の人倫を支える原理ではないからである。
 この精神は、ふつう崇高なものとして称えられるが、先にカンボジアのPKOに参加した青年とその父の例で示唆しておいたように、それははじめから死や滅びや敗北を覚悟し、あらかじめその運命を受容したところに成り立つ美学である。それはもともと「何かに向かって命を捧げること」そのものを高潔な振る舞いとして称える態度なので、その「何か」がどんな質のものであるのか、命を捧げるに値するものであるのかどうかが不問に付され、隠されてしまう。「死を賭すほどの厳しさ」という条件が前提されているから、その厳しい条件なるものが何であり、それをいかに克服することが適切な闘い方なのかという合理的な問いがしばしば封印されてしまうのである。
 この抽象的な美学は、主として男性特有の美学であるという点に注意しよう。こうした態度は、「命も顧みずに困難に立ち向かう」「男らしい」「勇敢な」態度として無条件で賞賛されることが多い。しかし、先にニーチェが称揚する貴族道徳(男性道徳)について、和辻哲郎を援用しながら批判したように、「死も辞さないほど勇敢であること」一般がそれ自体で徳としての価値を有するのではない。その勇敢さが彼の属する共同性からの確実な信頼と承認を得ているという背景があって初めて徳としての価値を獲得するのである。そうでなければ、勇敢さは、ただの蛮勇にも無謀にも若気の至りにもなりうる。
 私はこれを書きながら、児島襄の『太平洋戦争』(中公新書)描くところの、旧日本帝国軍隊上層部の一部に見られた無謀・無思慮な作戦の継続とその無残な失敗(特にガダルカナル作戦やインパール作戦やサイパン島玉砕)を思い浮かべている。ここには、「あくまでもしぶとく生き残って敵を倒す」「無辜の一般国民を犠牲にしない」という目的合理的な見通しがまったく欠落している。そうしてこの合理的な見通しの欠落は、「潔く死ぬ」悲壮な美学と表裏一体なのである。これでは敗北が初めから約束されているようなものである。
 平時には、この種の無残さはその露骨な姿を現すことは少ない。私たちは幸いにも、身近な者たちへの愛や自分の生命と、国家への忠誠などの公共精神とを、うまく使い分けていられるのである。そもそも一般の人々にとって、自分の身や身内を犠牲にしても公共精神を貫くべきであるというような鋭い局面に立たされることはそうそうあるものではない。それはそれで悪いことではない。しかし、使い分けていられることは、その根本的な矛盾が解決されていることをなんら意味しない。戦争のような切迫した事態になれば、この根本的な矛盾は、たちまちその裸形をさらすのである。
 根本的な矛盾とは何か。ひとことで整理すれば、エロス的な絆と国家的な公共性との矛盾であり、吉本隆明の言葉を使えば、対幻想と共同幻想との逆立である。もっと下世話に、高倉健歌うところの「義理と人情を秤にかけりゃ」の問題であると言ってもいい。
 私は、「公的な義に殉ずる」美学が男性特有だと書いた。この不動の意志と操は、一見男性の強さをあらわしているように思える。緊迫した闘いの局面においては確かにそのとおりである。しかし日常的な生においては、この強さは意外に脆く、女性のしなやかな勁さにかなわないことが多いのである。よく例に出される嵐に対する大木と竹のようなものだ。
 エロス的な絆と国家的な公共性との矛盾の問題を、女性の生き方と男性の生き方とになぞらえて表現したので、ここで、これまでの哲学や倫理学では正当な地位を与えられてこなかった女性の生き方に光を当ててみよう。
 一般に女性は、身近な関係をいかに大切にするかに最大の価値を置いている。象徴的に言えば、彼女は、自分の身体を中心として半径数十メートルくらいのところに関心を集中させている。このことが人倫にとって持つ重要な意味を軽視してはならない。
 良き慣習としての日常的な人倫を支えるものの中には、こうした常識的な女性の生の感覚が重要な要因として含まれるのである。たしかに女性の感覚の中には、「自分や自分の子どもや自分の好きな人だけが可愛い」という価値意識が大きな部分を占めているが、これを単に倫理と関係のない、あるいは倫理と対立する「エゴイズム」として切り捨てることはできない。なぜならば、この価値意識があればこそ、私たちの通常の健全な社会感覚もまたそれぞれに力を与えられるからである。
 しかし多くの哲学者や思想家たちは、男性とは違った女性のこのメンタリティの独得の重要さを見抜くことができず(あるいはわかってはいても言語化することができず)、それを考察の埒外に置くか、そうでなければショーペンハウアーやニーチェのように、女性を知能の劣った近視眼の生物としてあからさまに軽蔑することになる。
 けれども滑稽なことに、彼らは自分の人生のなかでは、何度か特定の女性に夢中になり、彼女たちの愛の手向けを受けたかと思えば、時には手痛い目に遭っている。そうした惑溺や傷心の経験は、じつは彼らの哲学の生成にとって深い意味をもっていたはずである。しかしそれらの意味をどう総括すれば、彼らが下したような、「女性」なる存在一般への客観的な(哲学的な)低評価と結びつくのか、私にはよくわからない。女性は男性にとって手を焼く怖い存在でもあり、同時に限りなく可愛い存在でもあるので、自然物や人工物のように突き放した評価の画定を許さないところがあるからだ。
 そもそも哲学的な思考様式というものが男性特有の観念的なあり方を象徴しているので、例外はあるものの、女哲学者というのはほとんどいない。この観念的なあり方をそのまま日常生活に持ち込めば通用しないのは明らかであって、食卓でカントを話題にしても女房に嫌がられるだけだし、プラトンを使って女を口説こうとしてもふられるだけだろう。男性の観念的なあり方は、ほとんどいつも女性に足をすくわれるのである。
 それは哲学的な思考様式が、抽象的な概念の駆使によって、ある事柄の不動の「真理」(真実ではない)を究めようとするからである。この思考様式を持続させるためには、ふだん漬かっている日常世界からいったん離れて、身を神の立場、公共性の立場に仮想的に置かなくてはならない。そのことによって問題とされる事柄(この場合は女性なるもの)は、客観的な「対象」として固定化される。だがその代わりに、自分自身が巻き込まれていたところの異性関係という独特なモードそれ自体、あるいは女性に向き合う男性の関係意識それ自体は、視野からこぼれ落ちるのである。哲学男性は惚れている女性への自分の気持ちそれ自体を、「客観的に対象化」できないのだ。そこに哲学者が女性をとらえようとする試みの原理的な限界があらわれている。
 だがわが国では、不動の真理を探究する壮大な哲学体系は生まれなかった代わりに、伝統的に、私生活や恋愛の定めなき流れを叙する女性文学が栄えたり、本居宣長が説いたように、不動心などというものはあり得ず、時に感じてうれし哀しと揺れ動くさまこそが心の真のあり方であるといった「こころ」観が、普通に親しいものとして受け継がれてきた。一口に言えば、たおやめぶり、優男ぶりであるが、これらは「哲学」という形を取らないものの、人間の生の、特に日常性における本質的な一面をあらわしていることは確かである。そうしてこの一面は、明らかに女性のメンタリティに重なり合う。日本文化はもともと女性的であると言えるだろう。
 宣長は、その秀逸な文学論(歌論)『排蘆小舟(あしわけおぶね)』のなかで、歌は哀れ深き情の切ないさまをありのままに表したもので、善悪正邪の道を教えるものではないと繰り返し説いた後に、次のようなことを述べている。
 人情というものは女子どもの専売特許のように見えるけれども、女子どもは心を制する意志がつたないので、その本心が出てしまうだけであって、別に男に人情が欠けているわけではない。ただ男は外聞をおもんばかって心を制し、形を繕おうとするために本当の心を隠さざるを得ないのだ……。
 少し原文を引こう。

  国のため君のために、いさぎよく死するは、男らしくきつとして、誰もみなねがひうらやむこと也。又親を思ひ妻子をかなしみ、哀をもよほすは、つたなくひけふにて、女児のわざなれど、又これを一向なにとも思はぬものは、木石禽獣にはをとるべし。死する今はのときにたれかかなしからざらん。あくまで心にあはれはいだけども、これを色にあらはさず、死後の名を思ひ、君のため家のために、大切なる命をばすて侍る也。
  (中略)
 (慈しんでいた子どもが死んだ時に――引用者注)母は本情を制しあへず、ありのまゝにあらはし侍る也。父はさすがに人目をはばかり、みれんにや人の思ふらんと、心を制しおさへて、一滴の泪をおとさず、むねにあまるかなしさも、面にあらはさずして、いさぎよく思ひあきらめたるてい也。これをみるに、母のありさまは、とりみだしげにもしどけなく、あられぬさま也。されどもこれが情のありのまゝなる所也。父のさまは誠に男らしくきつとして、さすがにとりみださぬところはいみじけれど、本情にはあらざる也。
  (中略)」
  されば人の情のありていは、すべてはかなくしどけなくをろかなるもの也としるべし。


 宣長の筆は、明らかに「これを一向なにとも思はぬものは、木石禽獣にはをとるべし」や「されどもこれが情のありのまゝなる所也」を強調する所に軸足を置いている。
 こうして宣長は、歌はその心の奥深くにある人情をこそ表すものだというかたちで、徹底的な文学肯定論を張るのだが、これをそのまま受け取る限りでは、文学の道と倫理道徳の道とはもともとまったく本質を異にするものだという論理が導かれるかもしれない。だが私はここで、宣長の本意を少し変奏して、女性性が「はかなくしどけなくをろか」に表す人情のさまそのもののうちから、男性的な倫理とは異なる倫理的な意義を掬い取ってみたいと思う。

自然の喪失は文学も壊す(SSKシリーズその1)

2014年05月31日 02時31分19秒 | 文学
自然の喪失は文学も壊す(SSKシリーズその1) 




 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきたいと思います

(その1:2011年6月発表)
 次は、一人の友人から来たメールの要約。

《ある有名紙に「アマルフィーの月」というエッセイが載っていた。作者は山田登世子。バルザックの研究やパリの風俗に関する文章で知られる。そのエッセイの最後に「とっぷりと日が暮れて、海も空も夜につつまれた。と、わたしの正面に三日月が銀の光を放ってきらめいていた。(中略)見る間に月は中天にかかり、冴え冴えと白く輝きわたった。」とある。 アマルフィ―ではとっぷりと日が暮れてから三日月がきらめき、 さらにそれが中天にかかるのだろうか。 私にはどうしてもその位置関係が理解できないのだが……》

 私はこのメールを一読、山田登世子という人はとんでもないデタラメを書く人だと思った。アマルフィーは、ナポリの南、地中海に臨む風光明媚なリゾート地である。ところで三日月はこれから太っていく月で、太陽のすぐ後を追いかけるコースを取るから、空が暮れてくるにしたがい西の空に現れ、日没からしばらくたって西の地平線に沈んでしまう。だから中天にかかることはありえない。すべての月は東から西へと運行するのだ。
 以上のことは、地球の自転と月の公転との関係を原理としているので、経度の違いとは関係ない。日本と南イタリアは緯度がほぼ同じなので、三日月の見え方はほとんど同じで、西の空に出て西の地平線に沈むのである。
 おまけに「見る間に月は中天にかかり」とは何ごとか。動きが逆であるばかりか、「見る間に」動くはずがない。月は普通に見ていれば止まっており、「正面に」見えてから「中天にかか」るまでに、少なくとも4~5時間は必要である。その間、山田女史は、飯も食わずにあんぐりと口をあけて月を見続けていたのか。それとも月がホラーのようにびゅーんと上っていったのか。
 以上、山田女史はウソツキである。自然観察と離れてしまった現代だからこそ、プロがこういうデタラメを書いても通用してしまう。

①菜の花や 月は東に日は西に

②ひむかしの野にかぎろひの立つ見えて かへりみすれば月かたぶきぬ

③熟田津(にぎたづ)に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

 すべて満月かそれに近い月である。いずれにしても昔の人は自然と自分を一体化させていて、情趣豊かなだけでなく合理的でもあった。現代人の日本語感覚の頽廃を際立たせるために以上の三つを挙げたが、③の額田王の歌は、戦いのために愛媛の港から出港していこうとしている船隊の一群を前にして、壮行の思いを雄大な情景に託して力強く歌っている。私のことに好きな歌である。しかも月が出てきてからしばらくして「潮もかなひぬ」というのは、物理学的に見てもたいへん的確な描写といえる。というのは、満月の頃は反対側の太陽との相乗効果で大潮の時期にあたっているからだ。
 現代では、安っぽい「おイタリアかぶれ」はだませるだろうが、文学のほんとうの価値を知るものの眼はだませないのである。自然と一体化して交流する感性の喪失が、せめてこのたびの震災を契機に少しでも繕われることを願う。

『風立ちぬ』と『永遠の0』について(その3)

2013年11月14日 16時57分01秒 | 文学

『風立ちぬ』と『永遠の0(ゼロ)』について(その3)




4.『永遠の0(ゼロ)』

『永遠の0』は、百田尚樹(ひゃくた・なおき)さんのエンターテインメント小説です(2006年・太田出版刊。講談社文庫でも読めます)。のち漫画にもなり、今年(2013年)の12月には、映画が封切られるそうです。
 司法試験に何度も落ちて働く気もなく浪人している弟が、ライターの姉から依頼を受けて、特攻隊で死んだ実の祖父(義理の祖父は別にいる)のことを二人で調べ始める。いまや80代前後になった生き残り兵士たちを苦労して探し当てて話を聞くうち、祖父の意外な側面がしだいに明らかになって行き、最後に劇的な落ちがついて終わります。読んでいない方のために、この落ちについては言わないことにしましょう。
 あらかじめお断りしておきますが、私は、正直なところ、この作品の小説としての出来については、それほど高く評価していません。人間関係の作り方が少々おざなりだし、どんでん返しも、これはちょっとやりすぎという感じ。何よりも、狂言回し役の現代人姉弟が生き残り兵士たちの話を聞いていくうちに、彼らの生き方、考え方に大きな変化が生ずるという設定が、どうにも安っぽい。そんなことはたぶんあり得ませんよ。つまりこの非現実的な流れが、戦争から遠く離れた世代に対してクサイ教訓を垂れているような感じで、その無効性が露出してしまっているのがいただけない。こんな余計な設定をせずに、ただ一人の現代人の聞き書きというシンプルな形をとった方がよほど良かったと思います。もっとも、姉の恋人(?)であるジャーナリストの男のイメージは、いかにも朝日新聞的な「戦後民主主義」体質がカリカチュアライズされていて、なかなか痛快でしたけどね。
 またこの作品は、詳しい資料的な記述に満ちており(たとえば坂井三郎の『大空のサムライ』。私は未読)、それらを借りてきて寄せ集めただけだというような批判があるようです。しかし、こういう批判については、逆に賛同しかねます。というのは、たとえ資料がいくらそろっていようと、それにいちいち当たって調べる人は、戦前・戦中史に特別の関心を持つごく少数に限られます。ですから、それらをきちんと参照したうえで、現代の多くの若者にも楽に読めるようなエンタメ物語に仕上げるというのは、並大抵の業ではありません。
 前回、小林よしのり氏の漫画『戦争論』に対する林道義氏の批判について述べましたが、林氏も、この漫画が、膨大な資料を駆使して、現代の若者たちに「あの戦争とは何だったのか」という問いを広く喚起した点、戦争を少しでも肯定的に語ることに対するタブーを打ち破り、空想的な平和主義の欺瞞性を暴いて見せた点については、大いに評価していました。私も同意見で、特に南京虐殺問題や従軍慰安婦問題について、いかに中韓寄りの記録や写真が虚偽であるかをきちんと示して見せた功績はとても大きいと思います。
 つまり、百田氏も小林氏も、大衆読者を相手にする小説家や漫画家が歴史問題を扱う時の役割とは何かということをよく自覚しているので、この、「編集し、発信し、広範な大衆に認知させる」という作業がいかにたいへんな力技を要するか、それはやってみない人にはわかりません。もちろん、この作業を通して、その作者なりの思想性(史観)がおのずと現れます。それを問題にすることは大いにやるべきですが、これこれの資料を引き写して継ぎ合せているから「パクリだ」などと軽々に非難してはいけないのです。
 
 さて、私が『永遠の0』に惹きつけられた大きな理由は、まさにその思想性にあります。
 主人公・宮部久蔵は次のように造型されています。

①海軍の一飛曹(下士官)。のちに少尉に昇進。これは飛行機乗りとして叩き上げられたことを意味する。
②すらりとした青年で、部下にも「ですます」調の丁寧な言葉を使い、優しく、面倒見がよい。棋士をめざそうかと思ったほど囲碁が強い。
③パイロットとしての腕は抜群だが、仲間内では「臆病者」とうわさされている。その理由は、機体の整備点検状態に異常なほど過敏に神経を使うこと、飛行中絶えず後ろを気遣うこと、帰ってきた時に、機体にほとんど傷跡が見られないので、本当に闘ったのか疑問の余地があること、など。
④「絶対に生き残らなくてはだめだ」とふだんから平気で口にしており、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」とは正反対の思想の持ち主である。ガダルカナル戦の無謀な作戦が上官から指示された時には、ひとり敢然と異議を唱え、こっぴどく殴られる。
⑤奥さんと生れたばかりの子どもの写真をいつも携行しており、一部の「猛者」連中からは軟弱者として軽蔑と失笑を買っている。
 一度だけ宮部は部下を殴ったことがある。それは、撃墜された米パイロットの胸元から若い女性のヌード写真が出てきたときのこと。部下たちが興奮し、次々に手渡して弄んだ後、宮部がそれを米兵の胸元に戻すと、ひとりの兵が彼の制止も聞かずもう一度取り出そうとしたからである。その写真の裏には、「愛する夫へ」と書かれていた。「できたら、一緒に葬ってやりたい」と彼は言う。
⑥内地でパイロット養成の教官を務めている時期、厳しい実践教育をくぐり抜けた生徒に合格点を与えれば与えるほど、彼の苦悩と葛藤は深まる。戦局はもはや敗色濃厚で、優秀な人材を死地に送ることに仕事がら加担せざるを得ないことがわかっているからである。
⑦空中戦で彼が珍しく油断した時、腹心の一人が機銃の装備もないままに、捨て身で割って入り、敵の銃弾を受けて重傷を負う。宮部は命拾いをしたことに感謝しつつも、いっぽうではその部下の無謀さをなじる。

 まだまだあるでしょうが、私の印象に残ったのはこんなところです。この作品は、なぜあれほど「生き残らなくてはならない」と主張していた宮部が、敗戦間際の特攻隊攻撃で敵艦に進んで突っ込んでいったのかという謎を最大の焦点として進むのですが、それがじつは⑦のエピソードと関係があります。これ以上は、読んでのお楽しみということにしましょう。
 ところで、前回と前々回とを読んでくださった皆さんには、私がなぜこの宮部久蔵という人間像に強い関心を抱くのかが、ほぼおわかりだと思います。作者・百田氏は、日本にとってあの戦争のどこがまずかったのかという根本的な問題をよくよく考えたうえで、こういうスーパーヒーローを創造しているのですね。もちろんこんなスーパーマンがいるわけはありませんが、宮部の人となり、ふるまいを見ていると、こういうキャラが許容されるような軍であったなら、つまりそういう余裕のある雰囲気が重んじられていたなら、日本のあの戦争(和平・停戦への努力も含めて)はもっとましな結果になっていたに違いないという、作者の日本批判が強く込められていることを感じます。
 実際、作者は、ひとりの語り手をして、机上で地図とコンパスだけを用いて作戦を立て、ゴロゴロ死んでいく兵隊たちを将棋盤上の歩兵のようにしか考えていない参謀本部(軍事官僚)のハートのなさを強く批判させています。この現場を知らない官僚体質が、民の苦しみなど想像もせずにTPP参加や消費増税などを平然と決めていく現在の官僚(およびその腰巾着になっているマスコミと一部の経済知識人たち、それに決然と抵抗もできない政権担当者たち)の体質とダブって見えるのは、私だけでしょうか。
 ちなみに私は、「いのちのたいせつさ」といった戦後的な価値の抽象性をそのままでよしとするものではありません。この価値は、抽象的なぶんだけ人間には命をかけて闘わなければならない時がある、というもう一つの価値を忘れさせます。この戦後的価値が実際に作動するときには、超大国頼み、金頼み、無策を続けて状況まかせ、憤るべきときに憤らない優柔不断、何にも主張できない弱腰外交、周辺諸国になめられっぱなしといういくつもの情けない事態を招いてきました。それは、私たちがさんざん見せつけられてきた戦後政治史、外交史の現実です。「いのちのたいせつさ」と言っただけでは、何も言ったことにならないのです。
 しかし逆に、「命をかけて闘わなければならない時がある」という言い方も、それだけでは抽象的であり不十分です。問題は、どういう状況の下で、どういう具体的な対象に対してなら「命をかけるに値する」と言えるかなのです。
 敗北必至であることが、少なくとも潜在的には感知されている状況の中で、いたずらに「命をかける」という価値を強調すれば、結果的に多くの「犬死」を生むことにしかならないでしょう。特攻隊がそのよい例です。美学や一時の昂揚感情が、軍事上最も必要とされる戦略的合理性を駆逐して多くの若者を犠牲にし、あとには、やるせない遺族の思いが残るだけ。こういうことをずるずるとやってしまうのが、情緒的な空気に流されやすい日本人の国民性(そしてそれに憑依する一部保守派)のダメなところです。
 もう一度、宮部久蔵というキャラに象徴的に表れている「価値」に注目しましょう。彼は別に「お国のため」に命をかけているのではありません。生きなくてはならないという信条がそれをよく表しています。しかし逆に、彼は自分だけこすからく生き残ろうと、状況から逃避しているのでもありません。現実には隊長として部下の命をあずかりつつ、いかにして眼下の敵を撃墜して勝利するかという合理的な算段に心血を注いでいるのです。前線という制約下に置かれて、多少とも賢くかつ有能にふるまおうとすれば、だれでもそうするべきだし、またそうせざるを得ないでしょう。
 彼がよりどころとしているのは、抽象的な「公」でもなければ、抽象的な「いのち」でもありません。彼がよりどころとしているのは、結婚して日の浅い妻と、いまだ会うことのかなわない子どもという具体的な存在なのです。私なりの言い方で言えば、エロスの関係こそが、自分の「いま」を支えているのです。私はこの宮部の在り方にとても共感を感じます。「公」も「いのち」も、一種のイデオロギーであり、実体の不確かな超越的な観念にほかなりません。どちらにも魅力はあり、それに引き寄せられていく心情は理解できます。乱暴な言い方をすれば、男は前者、女は後者を選びがちですね。しかし、抽象的な「公」理念にひたすら奉仕すれば、具体的な「いのち」を犠牲にしなければならず、抽象的な「いのち」理念にただ身をあずければ、公共精神を喪失しただらしない無策や無責任が露呈するだけです。
 単純なイデオロギーにけっして籠絡されてはなりません。これらはもともと絶対の二者択一項というわけでもない。それが絶対の二者択一項に見えるとすれば、社会構造のどこかが切迫しすぎていて狂っているのです。図式的な言い方になりますが、大切なことは、エロス的関係をよく生きることが可能となるために、私たちはどのような社会構造(「公」)を必要とするのか、という問題について叡智を注ぐことなのです。
 国家とは、共有できる情念を最大の幅のもとに束ね、そうしてその成員たちすべてに秩序と福利と安寧を保証することを理想とする共同性です。この共同性(共同観念)の現在における存在理由は、いくら視野や経済が地球規模に広がったとしても、それぞれの地域が背負ってきた具体的な歴史や文化の重みを無視することは到底無理だというところにあります。国家は、その内部の住民の実存を深く規定しているのです。
 さて、そのことを踏まえたうえで、宮部久蔵が体現している思想的訴えを整理すると、次のようになるでしょう。
 国家はそのメンバーの情緒的な信任と期待を基盤として成り立ちますが、その統治機構づくり(法づくりがその基礎となります)と運営とは、国民一人一人の好ましいエロス的関係を守るために、あくまで合理的になされなくてはなりません。ことに戦争のような国民の命にかかわる一大事業に取り組まなければならない時には、この合理性のいかんが一番問われます。
 大量の殺し合いが双方にとって良くないことは当たり前なので、戦争は最後の最後の手段であり、まずいかにしてそれを避けるかにこの合理的な努力を最大限注がなくてはなりません。外交のみならず、国防の必要も、実はここにあります。潜在的な武力の表現を背景に持たない外交は、無力です。両者はパッケージとして意味をもつのです。
 しかしもしどうしても避けられずに戦争に突入してしまったら、いかに勝つかということ、犠牲者をできるだけ少なくするために、いかに早く決着をつけるかということ、時には狡猾に立ち回っていかにうまく負けるかということに向けて、合理的精神を存分に発揮しなくてはなりません。緻密な戦力分析、状況分析によって負けることがほぼ確実となった場合には、戦いは一刻も早くやめること、投了によるしばしの屈辱に耐える勇気を持つこと。ヘンな精神主義や美意識で「どうにかなる」などと考えて蛮勇をふるうのは最悪です。そういう方向に国民や部下を強制しないことが、統治者や軍事リーダーの責任として要求されるのです。
 ところで、対米戦争こそ、初戦勝利に舞い上がってあの強大な敵を見くびり、この合理主義を忘れてしまったいい見本です。特攻隊などというものを考え付いた時点でもう勝敗は決しています。あの戦争では、「大和魂」とやら(この種の士気昂揚精神は、別に日本特有ではなく、どこの国にもあります)によって、いかれやすい若者を煽り立て、国民全員に必要情報も知らせず「お国のため」という威圧的な決まり文句によって次々に国民を死地に追いやるほかなくなりました。戦う以上、士気はもちろん必要ですが、合理的な計算能力を失っていながらその代りに士気さえあれば何とかなると考えるのは、ただの破れかぶれです。ちなみに大東亜戦争時の日本のGDPは、アメリカのわずか8.5%です。
 私の言っていることは、しょせん事後的な反省だという反論があるかもしれません。ごもっともです。しかし、事後的というなら、特攻隊のような「玉砕」作戦を何十年もたってから美化するような傾向こそ、その実態を忘れた事後的な陶酔というべきでしょう。
 緊迫した非常時こそ、「お国のため」というスローガンと、自分には親しい家族や恋人や友人がいるという「実存的な事実」とが、矛盾・分裂しやすいのです。両者は順接ではつながりません。国運が急を告げれば告げるほど、国民の私的関係は軽んじられやすくなりますから、それだけ悲運に巻き込まれる質量は増大します。宮部久蔵は、そのことがよくわかっていたからこそ、戦場のさなかで「必ず生き残らなくてはならない」という信念を維持し続けたのでしょう。
 ところが、えてして国家や戦争を論じる言論は、その概念上の枠組みにとらわれて、このことを忘れがちです。前回登場していただいた林道義氏も、銃後の女子どものことを考えない戦争論はだめだとしきりに強調されていました。おそらく百田氏はこの作品で――ついでに、宮崎駿氏の『風立ちぬ』も、と言いたいところです――、若者たちが政治や軍事を論じるときには、つねに「銃後の女子ども」との関係に思いを馳せよ、と訴えたかったのではないでしょうか。
 敗者の哀しみという感情にただ溺れたり、形式的な平和への祈りの繰り返しに終始したり、進んで命を捨てた者たちの崇高さを称揚したりするだけでは、どんな「闘い」にも勝てないでしょう。大切なことは、こうした情緒的な反応をさらに突き抜け、理不尽を強いてくる「何か」に対する正当な憤りを組織すること、そうしてその「何か」がいったい何であり、どういう仕組みによってそのような理不尽が発生するのかを見抜き、どうすればその理不尽を克服できるのかを、理性の限りを尽くして考え抜くことです。



  ファイト! 闘う君の唄を

  闘わない奴等が笑うだろう

  ファイト! 冷たい水の中を

  ふるえながらのぼってゆけ

            ( 中島みゆき 「ファイト!」 )



  明らかにわたしの寂寥はわたしの魂のかかはらない場所に

  移動しようとしてゐた わたしははげしく愼らねばならない理

  由を寂寥の形態で感じてゐた

            ( 吉本隆明 「固有時との対話」 )


『風立ちぬ』と『永遠の0』について(その2)

2013年11月14日 16時36分07秒 | 文学
『風立ちぬ』と『永遠の0(ゼロ)』について(その2)



     高村光太郎

2.高村光太郎のことなど

 前回、『風立ちぬ』は、女性版出征兵士の物語ではないかといういささか奇矯な説を述べました。その心は、大災害や不治の病のような自然事象にしろ、戦争のような巨大な社会事象にしろ、個々の生を生きている私たちは、それらに「理念の正しさ」のようなものを対置すればたやすく打ち勝つことができるのかと言えば、そんなことはなく、みなそれぞれのポジションでとりあえず迫る状況の中を生き抜けるほかはないのだ、ということです。
 これは別に諦念やあきらめや自己放棄の勧めではありません。現実の生においては、制約の中でできることをやる、怒るべきことに怒る、闘うべきときに闘うということが求められます。また過去を振り返り、あれは失敗だったと感じるなら、その失敗の事実と意味を曇りなく見つめ、未来の生に少しでも役立てることも必要です。けれどこうした人間のポジティブな志向は、いわゆる進歩主義的な「反省」のようなものによって簡単に支えられるわけではありません。事情はもっともっと複雑です。それにはおそらく人間存在の本質に根差す二つの理由があります。
 一つは、人間が、過去の経験事実から自由に現在や未来を構成することができず、必ず過去を呼び起こしつつ現在の意識を形作り、そうして未来への立ち向かい方を定めていく生き物だということです。過去がたとえ間違っていたからと言って、では明日からそれと無縁に生きていくというわけにはいかないのです。人間は、あってしまった過去をそうやすやすと清算できません。
 もう一つは、人間が、いつも感情と理性のアマルガムで出来上がっていて、理性的な正しい判断だと思っていることがじつは特定の感情の虜になっているにすぎない状態だったり、逆に怒りや悲しみなどの単純な感情の発露の中に、深い理性的な知恵の光を垣間見ることがありうるということです。
 こんな哲学めいた抽象的な言い方では、私が何を言いたいのかよくわからないかもしれません。この稿の流れに沿って一つの例を挙げるなら、特攻隊で死んでいった青年の遺族の思いの複雑さの中に何を見るべきかということになるでしょうか。
 敗戦によってそれまでの日本の針路が誤りであったことが誰の目にも明らかとなった。では「誤り」と言われたのちに、その「誤り」を正しいこととして自他に懸命に言い聞かせて命を投げ出していった若者を悲痛な思いで送り出した家族たちは、どのように現在を構成しなおせばよいのでしょうか。やるかたない感情を理性によってどのように整理すればよいのでしょうか。
 犬死をさせた国家に対する怒り? ああいう時代だったのだから仕方がなかったのだという鎮撫? お国のために命を捨てた息子に対する崇敬の念? 彼らの死によってこそ現在の私たちが生かされているという贖罪論的なロジックによる納得? ――どれもそれぞれ理が通っているところはあるものの、他方でそれら一つだけに収束させたのでは、いずれも生き残った人々や遺族の複雑な感情からは乖離してしまうような気がしてなりません。だれでも過去に生きた自分を「新時代に向けて」とか、「過去をきちんと反省し」とか、「彼らは私たちを越えた崇高なところに行った」などというすっきりした言葉によってもみ消すことはできませんよね。
 たとえば高村光太郎という詩人を、思想的な意味で、私はあまり信用していないのです。智恵子が狂気に至るたいへんな内外の事情にしっかりと目をすえた形跡がなく、「余計なものを脱ぎ捨てるとだんだんきれいなる」などと歌い、ことが済んでから「レモン哀歌」のような自己浄化の心情を何のこだわりもなく歌う(「レモン哀歌」はいい詩ですけどね)。戦中には「堅氷いたる」のような荘重な迎合詩をたくさん書き、敗戦に至るや、「一億号泣す」と、あたかもすべての国民感情を代表しているかのような詩を書く(けっして代表などしていません)。かと思えば『暗愚小伝』のなかで、「わたくしの暗愚は計り知れず」などと懺悔のポーズをとってみせる。男性的、近代知識人的な剛腕を振るっているように見えますが、要するに状況にそのつど流されて単純な感傷に浸っているだけではありませんか。
 ここに見られるのは、じつは、島崎藤村などにも共通する、身勝手な男性庶民の夜郎自大な思想感覚であって、時代を貫く詩魂(士魂)の筋金といったものが感じられないのです。近代詩というものがもしこういうものならば、古い生活からの思想的自立を目指したはずの日本の近代詩の精神そのものを疑わざるを得ません(もちろん、光太郎だけが日本の近代詩人ではないですが)。
 一つに整理しきれない複雑な思いの姿を損なわないままに、なお言葉によって掬い取ろうと試みること、それが私たち言語を駆使する者に課された使命なのではないでしょうか。
『永遠の0(ゼロ)』は、その文学としての評価はともかく、この難しい課題に挑戦した作品であることは確かです。しかしこれに踏み込む前に、そもそも「特攻隊」という問題(3000人の乗組員を乗せて片道燃料だけで最後に出航した戦艦大和の問題もこれに近いでしょう)について、私が長年印象に残っていたことを、この機会に整理しておきたいと思います。これは、あの戦争をどう見るかというより巨視的な視点にもつながるものです。

3.梅崎春生『桜島』および、心理学者・林道義氏との出会い


    梅崎春生

 梅崎春生の『桜島』は、敗戦の翌年にいち早く発表された戦後文学の傑作として名高い作品です。「死ぬならば美しく死にたい」という知的な青年(通信兵)の純な観念が、敗戦直前わずか一か月間の鹿児島県でのいくつかの体験によって徐々に相対化されてゆき、やがてこの観念をシニカルに否定する考え方をも乗り越えて、静かに死を受け入れようとする境地に落ち着く。そうした一種の弁証法的な心理の流れがハードボイルドタッチの文体を通して緻密に描かれています。屈指の名作と言ってよいでしょう。
 いまそのことはさておき、この作品の前半、まだ「私」の気持ちが整理できないうちに、たまたま水上特攻隊のグループに出会って一種の違和感を抱く場面が出てきます。少し長くなりますが、そのくだりをここに引きます。

――先刻、夕焼けの小径を降りて来る時、静かな鹿児 島湾の上空を、古ぼけた練習機が飛んでいた。風に逆らっているせいか、双翼をぶるぶるふるわせながら、極度にのろい速力で、丁度空を這っているように見えた。 特攻隊にこの練習機を使用していることを、二三日前私は聞いた。それから目を閉じたいような気持で居りながら、目を外らせなかったのだ。その機に搭乗している若い飛行士のことを想像していた。
 私は眼を開いた。坊津の基地にいた時、水上特攻隊員を見たことがある。基地隊を遠く離れた国民学校の校舎を借りて、彼らは生活していた。私は一度そこを通ったことがある。国民学校の前に茶店風の家があって、その前に縁台を置き、二三人の特攻隊員が腰かけ、酒をのんでいた。二十歳前後の若者である。白い絹のマフラーが、変に野暮ったく見えた。皆、皮膚のざらざらした、そして荒んだ表情をしていた。その中の一人は、何か猥雑な調子で流行歌を甲高い声で歌っていた。何か言っては笑い合うその声に、何とも言えないいやな響きがあった。
(これが特攻隊員か)
 丁度、色気付いた田舎の青年の感じであった。わざと帽子を阿弥陀にかぶったり、白いマフラーを伊達者らしく纏えば纏うほど、泥臭く野暮に見えた。遠くから見ている私の方をむいて、
「何を見ているんだ、此の野郎」
 目を険しくして叫んだ。私を設営隊の新兵とでも思ったのだろう。  私の胸に湧き上がって来たのは、悲しみとも憤りともつかぬ感情であった。此の気持だけは、どうにも整理がつきかねた。この感じだけは、今なお、いやな後味を引いて私の胸に残っている。欣然と死に赴くということが、必ずしも透明な心情や環境で行われることでないことは想像は出来たが、しかし眼のあたりに見たこの風景は、何か嫌悪すべき体臭に満ちていた。基地隊の方に向って、うなだれて私は帰りながら、美しく生きよう、死ぬ時は悔ない死に方をしよう、その事のみを思いつめていた。――


 このくだりを読んで、一部の人は、このようなことを書く梅崎春生自身に「知的な戦後文学者」特有の反戦平和思想(あるいはサヨク思想)を見出して、逆に嫌悪感を抱くかもしれません。しかしことはそう言いくくれるほど簡単ではありません。戦後文学といっても、この作品はまだそういう概括ができるには至っていない戦争直後に書かれています。もともと梅崎という人は、それほど知識人(文化人)的な作家ではありませんし、彼自身もおそらく見たまま感じたままをルポルタージュのように書いているのでしょう。
 ところで私は、『桜島』を初めて読んだ若い時から、このシーンがずっと気にかかって仕方がありませんでした。
 梅崎自身の実体験とそのときの実感を表現したと思えるこのシーンには、政治思想的な整理では片づけることのできない生々しいリアリティがあります。英雄視されてマフラー付きの「雄々しい」イメージの制服を着せられてはいるものの、じつはその内側から、若い身空で「どうせ間もなく死ぬ」ことを決定づけられたことによるある種のすさんだ自暴自棄の気分がどうしようもなく露出してしまう。「伊達者らしく纏えば纏うほど、泥臭く野暮」に見え、やくざっぽく食ってかかってくる隊員の態度に、それを受ける側は「何か嫌悪すべき体臭」を感じてしまう。そういう心理表出過程が特攻隊員たちの一部に確実に存在しただろうことを私は疑いません。
 特攻隊員を志願兵と考えて、その散華していく姿を美談として語る言説は数多くありますが、こういうシーンを作品に定着させた例はあまり見当たりません。その意味で、死の直前の特攻隊員たちの一コマをスナップ・ショットのように切り取って見せた文学者・梅崎のカメラ・アイはたいへん貴重なものです。美しく悲しい「遺書」だけが特攻隊員たちの「遺品」ではないのです。『はだしのゲン』のような露悪的・作為的なサヨク漫画(この漫画はだいたい絵が下手で汚いですね)とはちがって、「国に殉ずる」という事態の中には、こういう側面もあったのだという「証言」の重みをきちんと受け止めることは、私たちにとって大切なことだと思います。



 特攻隊員が志願兵だったということを信じている若い人たちがいるかもしれません。これがとても志願兵などと言える代物ではなかったという事実は、『永遠の0(ゼロ)』にも詳しく書かれていますが、これに関連してもう一つ、私自身の体験を書き留めておこうと思います。
 1999年に、ユング派の心理学者・林道義氏(ベスト・セラー『父性の復権』の著者)との対談集を出しました(『間違えるな日本人!』徳間書店)。このなかに、漫画家・小林よしのり氏の『戦争論』(1998年・幻冬舎)をかなり長く批評した部分があります。当然特攻隊の問題にも言及したので、その箇所における林氏の発言を一部引用しておきましょう。

 もう一つは、(小林氏の『戦争論』の中に――引用者注)特攻隊を美化する表現がありますが、特攻隊の人たちは、国のためを思って自発的に参加したわけではない。志願したというけれども、自発的な志願ではありません。ここの部隊では何人の特攻隊員を出せというようにノルマとして上から来ている。そして説得があって、最終的には志願という形になりますが、本当の純粋な志願などではない。
 私の親戚に特攻隊員が何人かいましたが、一九四五年の正月に妻のいとこが特攻に出撃する前に、暗黙のうちに家族に別れを告げに帰ってきた。そのときの話を聞いてみると、それはかわいそうです。自分は本当は行きたくない。けれども、国のために行かなければいけないという感じで、無口で暗い沈んだ感じだったそうです。かっこいい白いマフラーを巻いてさっそうとした姿ではあったが、何か淋しげだったそうです。
 妻の兄が軍国少年で、特攻隊に志願したいというのに対して、そんなことはやめろと言う。「親を泣かせてはいけない」「戦争に行ってはいけない」と言ったそうです。そして、妻に凧を買ってくれて、二人で丘の上へ行って凧を揚げていると、飛行機が飛んでいくのが見えた。「お兄さんもああいうふうにして飛んで行くのね」というと、何にも言わず、ただ空を見ていたそうです。そしてしばらくして戦死してしまった。本当に優秀で男らしくて立派な若者だったそうです。もっと早く戦争を終わらせていれば死ななくてすんだという家族の思いは、『戦争論』の中には出てきませんね。
 ですから美学などというものではありません。志願もしていないし、公のために死のうとか、そんなことは全然ない。なかには本当に信じ込んでいた人もないとは言いませんが、多くの人は半ば強制されていた。公共のために死ぬんだなんて、それ自体が美しいかどうかは別として、実態はそういうものではないんですね。


  林氏は、もちろんサヨクではありません。はっきりと保守派を自称している論客です。その人が特攻隊を美化するような小林氏の『戦争論』に対して、当時の体験的事実に即しつつ、小林氏は戦争を知らないのだと、静かな憤りをあらわに示しているのです。
 このくだりは、こうして対談後に整理された冷静な文章でさえ、読んでいて涙を禁じえません。しかしこの部分を取り上げたのは、ここでの林氏のお話そのものが私を感動させたから、というだけではないのです。
 私はまさに対談者として林氏の眼前にいました。このくだりを語るとき、彼は、思わずこみあげてくる嗚咽をこらえるのに懸命でした。「私は、親類で特攻隊で死んだ人を知っていますが……志願なんて……そんな、そんなものじゃないんです」と喉を詰まらせながら。そのつらそうな何とも言えない表情を、私はけっして忘れることができません。そのことをここにぜひ書き留めておきたかったのです。
 戦争末期における田舎の国民学校生徒の一年を扱った映画『少年時代』(篠田正浩監督)のなかに、出征してゆく青年と恋愛関係にある娘が、列車のホームで日章旗を振って歓送する周りの人たちの間を縫って、「行っちゃ、いやだあ!」と叫びながら飛び出し、デッキで敬礼している青年にすがろうとする場面があります。この娘は抑えられてヒステリーを起こし、戸板で家まで運ばれるのですが、それ以前から父親は、この娘の恋愛に対して家長として禁圧的な態度をとっています。しかし、この父親がただ一方的にかつ忠実に共同体の要請を履行しているだけなのかと言えば、必ずしもそうではないでしょう。父親には父親なりの葛藤があるのだと思います。ここには、エロス(私的な関係様式)と社会(公共的な関係様式)との永遠のねじれが象徴されています。これを思想家・吉本隆明に倣って、「対幻想と共同幻想の逆立」と呼んでもよいでしょう。
 人々の実存に侵入し、そこに亀裂を入れる理不尽な物事に対して、私たちはとりあえずはそれをそういうものとして受け入れるほかない。たとえそれが死ぬ運命に確実に導かれるのだとしても。しかし、その事態を、ただ受容して美談や美学という精神衛生学に昇華してすましてはなりません。なぜなら、哀しみはずっと私たちの中に処理不能な感情として残り続け、この哀しみこそが、国家や社会や歴史へのまなざしの在り方を不可避的に培っていくからです。 
 私はここで「実存」という何やら小難しい言葉を使っていますが、それは、身近な関係のみをよりどころとしつつ、普通に、平穏に暮らしている人々の生活実態のことと言い換えてもよい。では、そうした平穏さを引き裂き、戦争を引き起こす「国家」なるものこそ悪である、と言えばよいのか。残念ながら、ことはそう単純ではありません。
 なぜなら、私たちはふだんあまり意識しませんが、そのような平穏さを保証してくれるものもまた、「国家」だからです。国家の存在イコール悪と考える思想は、私たちの日常生活を保証する秩序の維持が、国家という最高統治形態によってこそなされているのだという事実を忘れているのです。国家がまともに機能しなくなった時、私たちの生活がどれほど脅かされるか、それはそうなってみなくては実感できないでしょう。これについては、いま理論的なことや細かいことを指摘しません。
 結論を急ぎますまい。ここではひとまず、私たちの実存にもたらされる亀裂や悲痛な哀しみをただ自家処理して済ませるのではなく、その亀裂や哀しみを生む「何か」に対する「正当な憤り」の形式を、あくまでも理性的な思想として鍛え上げてゆく必要がある、とだけ言っておきましょう。



『風立ちぬ』と『永遠の0』について(その1)

2013年11月14日 16時09分26秒 | 文学

『風立ちぬ』と『永遠の0(ゼロ)』について(その1)





 この夏、宮崎駿監督のアニメ『風立ちぬ』が評判になりました。また百田尚樹作『永遠の0(ゼロ)』が売上二百五十万部を突破し、この冬には映画が封切られることになっています。戦後七十年近くたち、日本をめぐる国際環境は大きく変化しました。そうしていま、あの戦争の意味、戦後社会の意味が改めて問い直されつつあります。まさにそうした時期にこの二作が大きな話題となることに深い因縁を感じるのは私だけでしょうか。
 両作は、どちらもゼロ戦(ゼロ式戦闘機)を中心にしているという点では共通しています。前者はゼロ戦の設計に心血を注いだ優秀な技術者・堀越二郎が主人公、後者は、ゼロ戦の超有能なパイロット・宮部久蔵が主人公です。
 しかし、この二作には、そういう見かけ上の共通点とは別に、もっと深いところで響きあうものがあるように感じられます。それは言ってみれば、愛する人と別離することが確実であることを自覚した時、人はどのように生きればよいのかという永遠の文学的テーマです。

1.『風立ちぬ(記憶が頼りなので、セリフなど、細かい点で誤認しているかもしれません。ご指摘いただければ幸いです)

 アニメ『風立ちぬ』は、もちろん堀辰雄の『風立ちぬ』から枠組みの一部を借りてきていますが、それはあくまで一部であり、全体は完全に宮崎さんの自立した作品に仕上がっています。それに、堀作品は、語り手の「私」が、婚約者・節子と結核療養所で共に過ごしたかけがえのない時期を追憶しつつ、いまは亡き節子に呼びかける形をとっています。その文体の流れは、「死」を共有した二人の短かった時間の固有の意味を少しでも壊さないように反芻していくという、内向的で繊細きわまる独特の調子で満たされており、いわば独白体の散文詩のようなものです。ストーリー展開らしきものはほとんどありません。そこにラディゲやプルーストなどのフランス心理小説的な気障と臭みを感じる人も多いと思われますが、いずれにしても、この調子は言葉でしか表現できず、それが宮崎作品の映像に「翻訳」されているかというと、そんなことはまったくないと言ってもよいでしょう。
 宮崎作品が堀作品から借りているのは、二郎が菜穂子(この名前は堀辰雄の別の作品『菜穂子』からとったもの。ちなみに『菜穂子』は失敗作です)と軽井沢で恋愛関係になって婚約し、その後、菜穂子が病状悪化のために八ヶ岳の結核療養所で冬ごもりするという部分だけです。堀作品では「私」はずっと節子に付き添うのですが、宮崎作品の二郎は、仕事が忙しいので名古屋の会社と下宿にこもりっきり。
 以下に、宮崎作品で、一見、堀作品に関係がありそうに見える印象的なシーンを書き出してみます。
 軽井沢のホテルでの紙飛行機飛ばしのシーン、ホテルでの婚約シーン、菜穂子の喀血を知り二郎が多忙を振り切って東京の菜穂子宅に駆けつけて庭から侵入するシーン、菜穂子が療養所を抜け出して二郎のところに駆けつけるシーン、二郎の上司・黒川夫妻の媒酌の下、たった四人で結婚式を挙げるシーン、初夜のシーン、臥床にある菜穂子と計算に忙しい二郎とが二人で手を握り合い、「片手で計算尺を操るコンクールがあったら僕は優勝するな」と二郎が冗談を言うシーン、そして死の運命を予感していた菜穂子が、仕事に没頭している二郎の妨げになるまいと決意して一人黙って療養所に帰っていくシーン……。
 ところがこれらはすべて堀作品とは何の関係もない宮崎さんのオリジナルなのです。
 こうしていくつかのシーンを書き並べていると、このアニメの一番の見どころはこの二人の短い交流場面にこそある、と言いたい気持ちになってきます。事実私は、この一連の流れに接するうち、涙が止まらなくなってしまいました。結婚式の衣装を着た菜穂子のなんと美しいことか! そしてそれが束の間のものであると既に知っている私たちにとって、なんと哀しい絶対性として映ることか! 私は年甲斐もなく、たとえ別離が予定されていてもいい、こんな女性に巡り合うような生涯が送れたら、などとバカなことを考えたものです。
 もちろん、二郎が少年時代からの夢を実現すべく、美しい航空機の設計に全情熱を傾けていくシーンも感動的です。男が技術の完成に魂を込める姿は、いまこの国のあちこちでも現に見られるのであって、それは、時局がどうであるか、何のための技術であるかという政治問題とは一応別です。
 私は少し前に、運転停止中の浜岡原発を見学する機会に恵まれましたが、そこの人たちが、イデオロギー的な反原発浮かれ騒ぎなどとは関係なく、福島事故の教訓にしっかりと学びつつ、職業倫理を懸けて、そして静かに、高度な安全技術の実現に向かって日々の努力を重ねている姿に心を打たれました。技術者は、むろん時の政治の要請に従う運命から免れがたいものですが、その制約された範囲内で自分の果たさなければならない責務に心血を注がざるを得ないのです。これはあらゆる職業人にも当てはまることです。
 宮崎さんも、あえて時代を戦争期に設定し、そういう緊張のなかでも懸命に日常を生きた人たちの像を描き出したかったのだと思います。彼がサヨクだからどうのこうのなどということをことさら問題にする人が後を絶ちませんが、そんなことは作品そのものの芸術的価値と何のかかわりもない、どうでもいいことです。
 ところで、『風立ちぬ』をご覧になった方は、気づかれたかどうかわかりませんが、ようやく完成したゼロ戦がテスト飛行に見事に成功した時、周りの人たちの喜びに反して、二郎だけがなんとなく浮かない顔をしており、すぐそのあと不吉な感じの雲が地を這うように流れるシーンがあります。これはもちろん、戦争協力をしてしまったことへの自己懐疑がきざした、などということを意味していません。一心に情熱を傾けた仕事が達成されて一段落したとたん、急に菜穂子の身の上が気がかりになり、ふと悪い予感がしたのです。そういう心憎い仕掛けを宮崎さんはさりげなく置いておくのですね。
 このアニメは、いったいに、説明的な要素を極力省き、騒がしい饒舌をなるべく抑え、沈黙によって余韻を響かせるという方法論に貫かれているように思います。
 たとえば、二郎が特高に狙われるのは、軽井沢で知り合ったドイツ人がスパイ容疑をかけられていたからでしょうが、そのことはほんの少ししかほのめかされていません。
 二郎の妹や黒川夫人も名脇役ですが、セリフの量はすごく制限されているのに、かえってそのことでキャラが際立っています。
 また、菜穂子が一人名古屋を去ってから、彼女はほどなく死んだのだと思われますが、死に近づいていく場面や臨終の愁嘆場は一切描かれません。
 さらに、なんといってもこれが重要ですが、肝心のゼロ戦の戦闘場面、戦争の成り行きなどが少しも出てこず、すべてが終わってからゼロ戦の残骸だけが映し出されます。そうして天国の野原にあの憧れのイタリア人飛行機設計家があらわれ、二郎を菜穂子に一瞬出会わせます。そのあと、「生きていかなきゃな、でもちょっとその前に家に寄らんか。うまいワインがあるんだ」と呼びかけて、作品は終わります。変に通俗的な情緒で観客を引っ張らずに、何とも後味のさわやかな、余韻にあふれた幕切れですね。
 宮崎さんは、「ナウシカ」にせよ、「ラピュタ」にせよ、「魔女宅」にせよ、その登場人物や背景などを見ると、ヨーロッパ趣味が強い人だな、と感じさせます。今度の作品などもまさにそうですね。でもこうした「沈黙の大切さ」をよくわきまえているという点では、やっぱり日本人的な美意識の持ち主と言えるかもしれません。
 宮崎さんは、なぜ戦闘シーンや、戦争の成り行きを一つも描かなかったのでしょうか。人によっては、それを描くと宮崎さん自身が戦争に対する政治思想的な姿勢を示さなければならず、それが誤解のもとになるから避けたのだと考えるかもしれません。しかし私はまったくそう思いません。
 彼は戦争シーンをそうした猥雑な配慮によって「避けた」のではなく、初めから意識的にそれを描くことを拒否したのです。なぜ? 作品の核心的なメッセージを印象づけるために、そういうものは、ただただ邪魔者以外の何物でもないと彼の芸術家魂がささやいたからです。
 では、その核心的なメッセージとは何でしょうか。それはすでに述べましたが、だれもが先の見えない時代的な制約の中で、それぞれに固有な生を背負って、不条理な死と向き合いつつ生きなくてはならないということです。「風」がどんな方向、どんな勢いであろうととにかく吹いているかぎりは。
 イタリア人設計家が「日本の少年」に向かって何度も問いかけますね、「風は吹いているか?」と。これは、「君は生きているか」という問いかけと同じです。この作品には、人間の「実存」の普遍性が徹底的に描かれているのです。だからこそ、時代を超えて私たちの胸に響くのです。
 ふつう、この時期を私たちが思いやるとき、一国が大戦争をやっているのだから、さぞかしどんな日常もその巨大な社会事象に隅々まで彩られていたに違いないととらえがちです。それはそれで間違いとは言えませんが、そうではない瞬間、そうではない生活感覚というものもたくさんあります。たとえば戦艦大和は、フィリピンに停泊していた当時、何も実戦に挑む機会がなかったので、乗組員たちは毎日楽しくだらけて過ごし、前線で戦っている人たちから「大和ホテル」と揶揄・軽蔑されました。
 さて、私はこの『風立ちぬ』という作品について、次のようなことを考えます。
 菜穂子はもうすぐそこに迫った死が予定されている存在。そのことを本人のみならず、二郎もよく知っている。それは二人にとってのっぴきならない事態ですが、だからこそ、愛も深まり、一日一日を大切に生きようとする。そうしてささやかな華燭をともし、契りの永遠を誓い合う。やがて凝縮された短い幸福の時ののちに別離してゆく。
 これ、何かに似ていませんか。
 そう、あの時代に、このような事態が現れるのは、主として戦場に出征してゆく若い夫とそれを見送る若い妻という構図ですね。出征を控えた若い兵士たちに、両親がその悲運を予感して、せめて妻を娶らせてやろうと切に願う。菜穂子の「お父様」も、病の癒えていない娘に婿なんて、と最初はためらうふうでしたが、本人たちの強い決意とドイツ人の励ましでついにそれを許します。
 ですから宮崎さんは、この作品で、死地に赴く夫とそれを見送る妻という、ややもすれば月並みになりがちな構図を鮮やかにひっくり返して見せたのです。菜穂子は、「女性版出征兵士」と言えるでしょう。宮崎さんは、このような逆転劇をあえて演出することで、こういう哀しく美しい関係の在り方というものは、死んでゆくのが女の場合だって同じなんだよ、と言いたかったのではないでしょうか。


コメント(2)
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2013/09/28 23:36
Commented by 美津島明 さん

興味深く拝見しました。特に最終段落の、宮崎監督が「この作品で、死地に赴く夫とそれを見送る妻という、ややもすれば月並みになりがちな構図を鮮やかにひっくり返して見せた」というご指摘には感心しました。
そのご指摘を踏まえたうえで、ちょっとだけその先を考えてみました。
この映画を観る者は、宮崎監督の、菜穂子への深い鎮魂の念を印象づけられます。エンディング曲の『ひこうき雲』がそれを決定づけているのでしょう。そうしてその鎮魂の念は、菜穂子を「裏返された特攻隊員」とするならば、彼らにこそ向けられたものなのではないかということです。
つまり宮崎監督は、若き特攻隊員たちへの鎮魂の念を隠し絵として当作品に織り込んだのではないでしょうか。
とするならば、堀越二郎のゼロ戦への愛と菜穂子への愛と菜穂子の死への哀悼の念とが、宮崎監督の、ゼロ戦に搭乗し若くして散華した特攻隊員たちへの鎮魂の念において重なり合うことになるのではないでしょうか。
宮崎監督は、なにゆえそういう形で特攻隊員たちへのレクイエムを歌ったのか。それは、その歌が政治的な色彩を帯びて受けとめられることを、一流の作家としての想像力が本能的に忌避したからではないでしょうか。
その本能的な忌避によって、当作品は、人間があくまでも人間らしくありたいと願うことから生まれる上質な抵抗芸術たりえているのではないかと思いました。言いかえれば、監督は、鎮魂という人間的なあまりに人間的な営みを、政治という粗野なるものの容喙から能う限り守りきったのではないでしょうか。
当作品に感動したところを、自分なりの言葉にする大きなきっかけを与えていただいたことを感謝します。


2013/09/29 02:31
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Commented by kohamaitsuo さん
To 美津島明さん

いつもながら、拙稿に真剣に付き合っていただいて、ありがとうございます。特に以下の部分、とても心に残りました。まったく異議ありません。

>その本能的な忌避によって、当作品は、人間があくまでも人間らしくありたいと願うことから生まれる上質な抵抗芸術たりえているのではないかと思いました。言いかえれば、監督は、鎮魂という人間的なあまりに人間的な営みを、政治という粗野なるものの容喙から能う限り守りきったのではないでしょうか。
>
しかし、いま続きを書いているのですが、この問題を的確な言葉にするのはとても難しく、想念が乱れ飛んで、書きあぐねている状態です。
貴兄が「究極の言葉」として特攻隊員の遺書をいくつか挙げられているのを同時進行で読み、それはそれで深く共感したのですが、じつのところ、それを提示しただけでは思想言語として何かが足りない、とかすかに感じていたのも事実なのです。もっと言えば、鎮魂の心情や文学的な感動(美意識の打ち震え)そのものを再び「政治という粗野なるもの」のために利用しようとする傾向に対して、どう抵抗すればよいのか。「特攻隊員」というイメージは、純粋な美談として語られがちなために、かえって利用されやすい。私が、「特攻隊員」と書かずにあえて「出征兵士」と書いたのには、その思いがあったからなのです。両者は必ずしも同一視できません。さらに、「特攻隊員」という「像」そのものも、遺書に体現された「最後の言葉」の象徴的な力だけに収束され尽くすものなのか……まあ、そういうひねくれたことをいろいろと考えています。それで、次回は、『永遠の0(ゼロ)』に行く前に、梅崎春生の『桜島』と、私が心理学者・林道義氏と対談した折に、彼が小林よしのり批判として見せた何とも言えない印象的な表情について書こうと思っています。違和感を感じられたら、遠慮なくコメントしてください。


村上春樹さんのこと

2013年11月10日 02時38分48秒 | 文学

村上春樹さんのこと


 村上春樹さんの新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が、18日、累計100万部突破、文芸作品では最速だそうです。村上さん、まことに慶賀の至りです。
 しかしここでは、この作品についてあれこれ言おうというのではありません。第一、私はこの新作を読んでおりませんし、当面、ほかのことに関心が行っているので、おそらくこれからも読まないだろうと思います。
 村上さんの本は『海辺のカフカ』まではわりとていねいに追いかけていました。しかしこれを読んだとき、なんだかヤングアダルトの感性に無理に媚びた作品のように感じたのと、ゲームやマンガなどのポップカルチャーから「物語の型」をパクってきただけのように思われて少々うんざりし、それ以来、彼のものを読むのをやめました。印象批評ですみません。
 じつは上のニュースを知るとほとんど同時に、私のもとに、来年度から高校で使用される国語教科書『現代文B』(桐原書店)の見本が届けられました。拙文が評論コーナーに収められているからです。ありがたいことです。
 それはともかく、この教科書の巻頭に村上さんのエッセイが載っているのですね。一読してなかなかいい文章だと思いました。タイトルは、「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」。2011年刊『村上春樹雑文集』から採録されているそうです。
 このエッセイは、私なりの理解によれば、小説の世界が私たちの中で生き生きと動いていくためには、発信者側の構えと受信者側(読者)の構えとの間にどのような運動がはたらくからなのかというテーマを追いかけたものです。自分が研いだ鑿の切れ味を繊細な手つきで何度も確かめているような言葉の選び方をしており、さすがに一級の小説職人にふさわしい出来栄えです。
 彼はまず言います、「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間です」と。
 なぜわずかしか判断を下さないのかと言えば、判断は一定の結論を導きやすいが、小説は結論を述べるものではなく、仮説を丹念に積み重ねて読者に提示するものだから、というのですね。私などは、小説家の作業を「仮説」という言い方で括ることにさえ少々引っ掛かりを感じるのですが、それはまあ論理的な作業に託した一種の比喩と考えられますからいいでしょう。
 さて読者は、その「仮説の積み上げ」を、自分なりのオーダーにしたがって並べなおし、精神の組成パターンを組み替えるサンプリング作業を行います。この作業を通じて人生のダイナミズムをわがことのようにリアルに「体験」することになる、というわけです。
「仮説の行方を決めるのは読者であり、作者ではない。物語とは風なのだ。揺らされるものがあって、初めて風は目に見えるものになる。」
 この「作者―読者」論がたいへん優れていると私が感じるゆえんは、もともと言葉というものが、それを受け取った側の再構成の過程を経て初めてその運動を完結させるという、言語一般の本質に的中していると思うからです。ですから、ことは小説家とその読者の関係の問題にだけ限定されません。何気ない身振り・表情から論理的に明快な文章までも含めて、あらゆるコミュニケーションが、村上さんの指摘するような「風と風に揺らされるもの」という関係におかれている、と私は思います。
 さらに面白いのは、ある読者から、「就職試験を受けたら原稿用紙四枚以内で自分自身について説明しろという問題が出たけれど、ぼくにはそんなこととてもできない。村上さんだったらどうしますか」という質問を受けたときの村上さんの回答です。以下、一部を引用してみましょう。

 こんにちは。原稿用紙四枚以内で自分自身を説明するのはほとんど不可能に近いですね。おっしゃるとおりです。それはどちらかというと意味のない設問のようにぼくには思えます。ただ自分自身について書くのは不可能であっても、たとえば牡蠣フライについて原稿用紙四枚以内で書くことは可能ですよね。だったら牡蠣フライについて書かれてみてはいかがでしょう。あなたが牡蠣フライについて書くことで、そこにはあなたと牡蠣フライとの間の相関関係や距離感が、自動的に表現されることになります。それはすなわち、突き詰めていけば、あなた自身について書くことでもあります。(中略)もちろん、牡蠣フライじゃなくてもいいんです。メンチカツでも、海老コロッケでもかまいません。青山通りでもレオナルド・ディカブリオでも、何でもいいんです。とりあえず、僕が牡蠣フライが好きなので、そうしただけです。健闘を祈ります。 

これはじつにうまい答え方ですね。自分自身について書くのではなく、自分が関心を持っているなにかについて書いてみる。そうすると、その書かれたもののうちに、おのずと自分自身があらわれる。「文は人なり」というやつですね。
 私は教育にかかわった経験があり、現在も少しばかりかかわっていますので、この考え方をついつい作文教育などに応用したくなります。
 しかしよく考えてみると、村上さんのようにうまくはありませんが、私もまた、これまで若い人たちに同じような接触の仕方をしてきたことに気づきます。大学のゼミで映画を見せたり本を読ませたりして何度も感想文を書かせるのですが、ときどき、映画を見なかったのに感想文を書く時間に出席してくる学生がいます。そういう時、どうすればいいかと学生が聴くので、「君がいま一番気になっていること、関心を持っていることについて書きなさい」と指示します。
 この問題も、単に「書くこと」のみにかかわっているのではなく、「生き方」一般にかかわっているといえます。自分が本当は何がしたいのか、自分はどう生きていけばいいのか、など、若い人たちは堂々巡りの問いに悩まされることが多いと思いますが、こういう問いに答えが出なくても、牡蠣フライを食べてみること、牡蠣フライを作ってみること、だれかと一緒にいろんな店の牡蠣フライについて批評し合うことは可能ですね。そういう「モノ」や「他者」への具体的なはたらきかけを続けているうちに、おのずと自分はどういう存在なのかということが見えてくるはずです。
 なんだか説教臭くなりましたが、私自身も、自分がいま関心を持っていることについて、できるだけ具体的に書いていこうと思っています。それで、牡蠣フライにもメンチカツにも海老コロッケにもあまり関心はありませんが、いくつかの関心のうち、今日は村上春樹さんに対する自分のちょっとした関心を書いてみました。
 数か月前にも村上さんに関心を持ちました。それは、尖閣問題で北京政府が反日をいちばん煽っていたころ、彼が、中国の書店から自分の本が消えたことに関して、中国の一部に見られた「焚書坑儒」的ふるまいを何ら批判することなく、逆に日本の読者に向かって「復讐心を燃やしてはいけない」などという見当違いの自虐的なメッセージを発したからです。それで、それについて友人の運営するブログに投稿いたしました。
 なお、このことに関心をお持ちの方は、以下のURLにアクセスしてみてください。
「美津島明さんのページ」
mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/2914454/ 
mdsdc568.iza.ne.jp/blog/entry/2914455/ 

 また、月刊誌『正論』2013年1月号に、上の論稿を圧縮改稿された記事が掲載されています。

 閑話休題。村上さんは、牡蠣フライについてはいくらでも素敵な文章が書けるのでしょう。それはとてもすばらしいことです。しかし尖閣問題については、全然勉強もしていないバカな文章しか書けないようです。いくら多少の関心を持ったとしても、よく知らないことを「村上春樹」の世界ブランドでまき散らされては困りますね。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の100万人の読者のみなさん、ぜひ、そこのところをはき違えず、これからも吹いてくるかもしれないヘンな風にたやすく靡かないように、私からお願いしておきます。
 なお蛇足ですが、今日のこの文章は、かつて村上さんを厳しく批判したので、やりすぎを反省してバランスを取ったものではまったくありません。牡蠣フライや恋の悩みについて書かれたすばらしい小説を褒めたたえることと、同じ書き手が尖閣問題や北京独裁政府についてバカなことを書いたのを批判することとは、けっして矛盾しません。有名な文学者がいると、彼に群がるメディアは、立派な文学者だからその政治的・社会的発言もさぞ立派だろうと勘違いするのか、あるいはこれはビジネスになると踏むのか、とにかく、こういう間違った風潮から早く脱却しようではありませんか。