小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

日本語を哲学する6

2013年11月11日 17時14分58秒 | 哲学

日本語を哲学する6


 第四に、言葉が虚構であるということの意味は、言葉の使用が、ものごとを固定化(画定)すると同時に、他方ではものごとを流動化(変革)する効果を持っているというところに現れる。
 この「固定化」と「流動化」のあい矛盾する効果は、論理的には矛盾しているように見えても、これまでの状態に変化をもたらすその対象や様態の水準が異なるために、ことの成り行きとしては、ひとつの統一的な運動とみなせるのかもしれない。この場合、前者によって後者の結果がもたらされるという成り行きが多いようである。
 たとえば、スーパーに買い物に来た夫婦のうち一人が「うわ、トマト高いね!」と言い、相手もそれに賛同して「ホントだね」と応じたとする。
 この場合、はじめの人の「トマトの値段が高い」という言明は、目の前にあるトマトの特性を、それがふたりの経済生活にとってどんな意味を持つのかという観点から「固定化」したのである。裕福な人なら、また呑気な人なら、多少値段が高くなろうとそんな言葉を吐かないかもしれない。品質のいいトマトであるほうに目が行き、「いいトマトね」と言うかもしれない。しかしこの夫婦の生活感覚にとって、トマトが高いか安いかは大きな問題であった。
 ところで、この短い会話によって、トマトを買おうと決めて売り場に近寄った夫婦の行動にはブレーキがかかり、「今日は買うのをやめておこう」というふうになる可能性が高い。つまり、最初の人が「トマトは高い」と断定的に言明したことによって、二人の予定されていた行動は「流動化」したことになる。これは、たとえ二人ともそのように思っていたとしても、互いにケチと思われたくないといった思惑がはたらいて、言葉に出さないかもしれないのだから、実際に言葉に出すという行為が、重要な意味を持つのである。
 別の例。

「あなたっていつもそうよ。自分勝手で私のことなんかちっとも考えていないんだから」

 この例で、発話者は相手の人格を「いつも自分勝手で相手のことを少しも考えていない人である」と決めつけた。だが、実際にはいつも自分勝手で相手のことを少しも考えていない人というのは、赤子や極端なエゴイストでもないかぎり、そうそういるものではない。つまり、発話者はここで相手の人格を誇張して「固定化」を行なったのである。ところがこの発言が発端となり、二人は後戻り不可能なケンカの泥沼に陥り、ついには別れ話に発展してしまうかもしれない。すなわち、「固定化」によって関係が「流動化」するわけである。
 固定化による流動化の効果は、当然発言者自身にも及ぶ。いま挙げたふたつの例でもそうだが、愛の告白や政治的発言の場合は、もっと端的である。
 これまで気持ちがもやもやしていて言い出す勇気がなかったのに、意を決して「君のこと、好きだ」と告白する(自分を固定化する)ことで、言葉に出したことそのものが自分に照り返してきて、いっそう相手のことを思う気持ちが高じてくる(流動化する)。もっともこれは相手の出方しだいだし、しょっちゅうこの種のことを口にしている軽いやつなら、あまり自分自身への効果はないのだが。
「税と社会保障の一体改革に自分の政治生命をかける」という言明は、政治的決断(自分を固定化する)行為だが、この固定化によって、無言でいれば負わなくてもよかったかもしれない責任を取らされることになるのだから、自分の運命を流動化させることになる。
 その他、さまざまな感情表現はいうに及ばず、依頼、命令、助言、誘いなど、他人の心を多少とも動かそうとする言語表現、挨拶、お礼、陳謝などの儀礼的言語表現、質問、呼びかけ、主張、宣言、抗議などの意思表示、説明、講義、演説などの公共的発言、これらのどんな言語表現にも、何か例を思い浮かべてみれば、そこに固定化と流動化の両側面が必ずつきまとっていることが見出せるはずである。
 こうして、発話がもっている、自分自身の去就をも含めたものごとの固定化と流動化という機能は、いままでの状況を多少とも動かす効果を示すのだから、現実を新たに「虚構」する意味をもっているのである。

 第五に、言葉は、実体的でないものごとをあたかも物理的な実体(モノ)であるかのように思わせてしまう機能を持っている。これを言葉の「実体化作用」と呼ぶことにしよう。
 見たり触ったりできない観念、概念、理念、表象、イメージなどは、言葉の文脈にいったん載せられると、この実体化作用を受けてしまうのを避けることができない。どんなに純粋論理めかした哲学的な記述においても、よく調べてみると、物理的世界、生活経験世界からの比喩・転用に満たされていることが判明する。
 早い話が、たったいま私は、「見たり触ったりできない観念、概念、理念、表象、イメージなどは、言葉の文脈にいったん載せられると、この実体化作用を受けてしまうのを避けることができない」と書いたのであるが、この一文で、「観念、概念、理念、表象、イメージ」といった抽象語は、すでにこの実体化作用を受けているのである。また、「載せられる」「作用を受ける」「避ける」などは、本来はみな物理的世界、生活経験世界での出来事である。
 超経験論的にものごとを考えようとした哲学者の典型であるカントから一例を引こう。以下は、カントの『純粋理性批判』の、「先験的感性論」の一節である。なかなか見事な論理展開だが、難解なので、中身は読み飛ばしてもらってかまわない。

  空間は、あらゆる外的直観の純粋形式であるから、先天的条件としては単に外的現象に制限される。これに反し、一切の表象は、それがいったい外界の物を対象として持つと否とにかかわらず、それ自身として心を規定するものであるから、内的状態に属するが、この内的状態は内部直観の形式的条件、したがって時間に属するものであるから、時間はあらゆる現象一般の先天的条件であり、しかも内的現象の(われわれの魂の)、そしてまさにそれによって、間接にはまた外的現象の直接的条件である。

 ここで使われている「外的現象」「外界の物」「内的・外的」「内部直観」「内的現象」などの用語法は、魂とそれ以外のものという区別に対応するものだが、カントはこの区別を自明の前提として論を立てている。しかし、「うちとそと」という区別は、もともと自然空間のありよう(たとえば箱の中身とその外側)からの転用である。
 また、「制限される」「対象として持つ」「内的状態に属する」「時間に属する」などの用語法も、私たちの身体行動や生活のなかで出会う自然現象、自然物の空間的あり方などの転用になっている。時間や空間を先験的な条件として厳密に規定しようとしながら、私たちの言葉は、その記述自身において、経験的事象や物理的実体の動きなどからの類推や転用に依存せざるを得ないのである。これは何もカントが悪いのではない。
 経験に先立つ真理の世界があるという前提で話を進めると、いつの間にかその論理の運びに目を奪われて、このことに気づかないのだが、哲学の論理も言葉の経験的な使用実態から抜け出すことはけっしてできない。真理の絶対的な存在という「信仰」を信じられなくなった私たちの時代では、「真理」とは、言葉で織られた綾の一様式であるということにいやおうなく気づかされざるを得ないのである。つまりそれは、「真理」という名の、よくできた(説得力のある)「虚構」なのである。
 ところで、なぜこんなことに注意を促すのかというと、言葉が本質的にもつこの実体化作用は、しばしば不毛な問いの立て方を許したり、論理的な混乱をもたらしたりする元凶となることが多いからである。
 たとえば「心」という言葉は、現代人にとって、その存在の実感が最も強い言葉の一つであるが、私たちはふだんこの言葉をまるでひとつの身体のなかに宿る「モノ」であるかのようにもてあそんでいる。「心と心が溶けあう」「心の奥底」「心が傷ついた」「彼の心がつかめない」「心をさらけ出す」「心が張り裂けそうだ」等々。
 こういう言語使用の習慣が定着すると、心という「モノ」の内部のからくりはどうなっているか、心という「モノ」と体という「モノ」との接合具合はどうなっているか、といった問いが必然的に呼び起こされる。
 前者の問いをそのまま受け取った試みとしては、フロイトの探求の仕方がその一典型を示している。彼が『続精神分析学入門』で提示した心のモデル図は、図であることによってある種のわかりやすさを提供してはいるが、見過ごすことのできないふたつの大きな疑問をはらんでいる。
 ひとつは、そもそも「心」という概念を、一人の個体のなかに閉ざされて存在し、完結したメカニズムをそなえた「モノ」のように記述してよいのか、という疑問である。もちろん、学者や思想家をしてそのような前提でものごとを考えさせるそのやり方には、ふだん私たちが「心」という概念をおおむねそのように使っているので、そうするより仕方がない部分があるということは認める。しかし、そういう把握の仕方だけにこの概念を限定してよいのかということに関しては、大いに疑問を感じざるを得ない。
 理由は単純で、「心」とは人と人との間にはたらくある独特な「作用」の様式を意味しており、それは、この概念を個体のうちに孤立したものとして扱う場合でも、一人で自然と向き合うときの構えを意味するような場合でも、原理的には変わらないのである(この点については、拙著『日本の七大思想家』第四章参照)。つまり、「心」は「モノ」ではなく「コト」に属する。それはどこかに定位される実体概念ではなく、いつもはたらきそのものとして捉えられるべき運動概念である。
 もうひとつは、「心」概念に対してフロイトのように実体的な捉え方をいったんしてしまうと、それを構成する「要素」を記述するという欲求がおのずと生じてきて、それらの要素が心という閉ざされた「容器」のなかで、これまた「モノ」のように衝突しあったり一方が他方を排斥したり飲み込んだりといった仕方で論理が運ばれることになる。
 事実フロイトは、例の図において、心を構成する要素として「自我、超自我、エス」などの概念を立て、それらの特徴を意識、前意識、無意識などの領域概念で形容している(この形容は、前三者の要素概念にそのまま対応するわけではない。興味のある方は原著作を参照していただきたい)。
 これらの方法が「心」という複雑な作用を平易に説明するための便宜にすぎないことをフロイト自身はじゅうぶん自覚していた。しかしその功罪はやはりあって、彼のあとに続いた弟子たち、反論者たちの一部には、心を「モノ」として捉える錯覚に毒された不毛な議論にはまり込む人たちが少なからずいた。
 また、後者の、心という「モノ」と体という「モノ」との接合具合はどうなっているか、といった問いに悩まされたのは、延長体(モノ)と思惟(心)とをまったく異なる本性をもつものとして峻別した(このこと自体は正しかった)当のデカルト自身である。彼は晩年の著作『情念論』で、エリーザベト王女に促されて「心の機能と肉体の機能とが出会う主座は、脳の松果腺である」とやってしまった。
 この説が現代の脳科学の水準から見て間違いである事実はさしたる問題ではない。両機能の出会う場所というような空間定位の発想そのものが、彼自身の物心峻別の論理を裏切っていることこそが問題なのだ。明らかなように、この発想では、「心」と「肉体」とは互いに同資格で出会うものとされている。本性のまったく異なるものが、空間の一領域で「出会う」はずがないにもかかわらずである。
この説の滑稽さをたとえるなら、車がその走行機能を発揮して走っているという「現象的事実」と、その車を運転しているあなたがどういう目的でいま車を走らせているかという「心的意味」とが、車のどこかの箇所で物理的に「出会っている」と考えるようなものである。
 ちなみにこの発想は、現代の脳科学者たちの一部が無反省に思いなしている「脳がわかれば心がわかる」という因果論的な発想に道を開くものであるが、そういうことはデカルトのはじめの峻別の論理にしたがうなら、原理的にありえないのである(前掲拙著参照)。なお機械論者・デカルトのこの説の難点は、すでにプラトンによって『パイドン』のなかで、ソクラテスにアナクサゴラス批判をさせている部分で指摘されている。
 なぜこのような論理的矛盾が犯されがちなのかといえば、それこそは、私たち自身が言葉の「実体化作用」に惑わされてしまうからである。「心」と命名されたある独特なはたらきの様態は確実に存在する。それが私たちの日常生活の感覚に適合することは否定すべくもないのだから、そういう様態が存在することを承認して一向にかまわない。
 しかし、いったん「心と肉体」とか、「心とモノ」というように対立する二元論的な項を言葉によって立てるやいなや、私たちは両者の根本的な違いを忘れ、あたかも「リンゴとミカン」のように、両者を対等に並立させてその関係を安易に論じることができるかのような錯角に陥るのである。デカルト自身が自分で立てたその言葉の狡知にはまってしまったのだ。
 言葉の「実体化作用」による二元論的な並立はまた、しばしばその両項のうちどちらかを選択すべきであるというような論理的・倫理的な誘惑をもたらす。
 たとえば、人間の性格を決定するのは遺伝か環境か、どちらがより有力かといった古くからある議論などはその好例である。この場合、はじめにある人間の性格的特徴の感知があり、そこから分析的にさかのぼって遺伝という要因と環境という要因を抽出する、というのが私たちの思考の経路なのだが、両者は本来選択可能な二項ではない。
 それは、液体と容器の関係のようなものである。容器に入った液体という全体のありようを決めているのは液体か容器かという問いは意味をなさない。なぜならば、まさに液体の液体という状態的特性がなければ容器の形に自分を従わせることはできず、容器の形がなければ液体の現にある様態は定まりようがないからである。これと同じように、環境なくして遺伝なく、遺伝なくして環境もない。両者は性格の特徴という全体を理解するのに不可欠な、互いにまったく質の異なる一対の概念にほかならない。
 もちろん、ある人の個性的言動が際立つ場合などに、それを他と比較し詳しく分析して、このケースでは生れてからの環境要因のほうが大きな影響を及ぼしているなどというように、相対的な優位性を強調することは可能だし、有意義でもある。しかし、どちらが決定的であるかを「二者択一する」というのは、論理的に不可能なことである。
 教育の世界で、知育が大切か徳育が大切かという二元的議論があるが、これもどちらかを選択するという問題ではない。何らの知ももたない子どもに徳を涵養できるはずもなく、徳(ルール感覚
やマナー感覚)を前提とせずにいかなる知の注入も不可能である(ある教育実態がどちらかに偏重していることを難ずるというなら、多少の現実的な意味はあるが)。
 以上のように、見たり触ったりできない観念や概念を言葉の文脈の中に取り込むときにあらわれるこの「実体化作用」は、よくも悪しくも、やはり世界を「虚構」する営みなのである。言葉を(で)生きるかぎり私たちはこの作用を逃れることができないが、それが引きずってくる思考の混乱の危険についてじゅうぶんに注意を払わなくてはならない。


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2013/06/30 02:33
Commented by 美津島明 さん
興味深い論考です。「言葉で何かを考える」こと自体が本質的にその「何か」を虚構化することであり、それは、言葉の「実体化作用」によるとの論旨、そのとおりと思います。また、そういう言語の不可避性に無自覚に絡め取られてしまうと、間違った考え方に陥ることになるという指摘もすとんと腑に落ちます。
ということは、何かを主題化しようとする瞬間に、その何かはすでに虚構化されるプロセスに入りこんでいるということになりますね。ここでたとえば、「『あ、信号が赤に変わった』とドライバーが思った場合、それは虚構ではなく単なる事実ではないか」という反論がなされたとしたら、「それを、『止まれ』という命令としてドライバーが受けとめるという事実それ自体が、実はそのドライバーが共同性に染め上げられた虚構に参入していることを意味するのだ」と再反論することができるでしょう。「信号の青から赤への変化という現象」=「『止まれ』という命令」という共同幻想を受けいれることなしに、信号の色の変化の意味把握は不可能である、ということです。そういうふうな無数の共同幻想を受けいれることによって、私たちは、つつがなく毎日を過ごすことができていますね。
とするならば、世の中は、言葉の実体化作用によるものごとの虚構化という不可避性をその仕組みの根底に自覚的に織り込むことでおおむねうまく回っている、とは言えないでしょうか。その意味では、総体としての人間は、結構智慧があって、決して愚かではないといえるのではないか、と思った次第です。
また、「言葉の実体化作用が引きずる思考の混乱の危険」の例として、私は、原理主義的思考を思い浮かべました。例えば、新自由主義者は、「競争による社会の効率化こそが善である」という言語的虚構を固く信じて、教育やエネルギー政策や農業などという競争になじまない分野にまで強引に競争原理を持ち込もうとして、それらの分野に破壊的な作用を及ぼそうとします。彼らは、それを「痛みを伴う改革」などと美化して、一向にひるむところがありません。
西部邁氏の言い草ではありませんが、慣習と伝統に根ざした余裕のある精神的な構えをキープすることが、「言葉の実体化作用が引きずる思考の混乱の危険」から身をかわす王道なのかもしれませんね。


2013/06/30 15:44
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Commented by kohamaitsuo さん
美津島明さま
前回に引き続き、拙稿について深くご理解いただいたコメントありがとうございます。

>「信号の青から赤への変化という現象」=「『止まれ』という命令」という共同幻想を受けいれることなしに、信号の色の変化の意味把握は不可能である、ということです。

まったくその通りで、犬や猫は色の変化と移動は感知するかもしれませんが(犬は色盲だったか)、意味の変化とはけっして受け取りませんね。

>とするならば、世の中は、言葉の実体化作用によるものごとの虚構化という不可避性をその仕組みの根底に自覚的に織り込むことでおおむねうまく回っている、とは言えないでしょうか。その意味では、総体としての人間は、結構智慧があって、決して愚かではないといえるのではないか、と思った次第です。

このご指摘には、私自身、たいへん教えられました。おっしゃる通りで、私たちは生きるための「地」の部分がいかにうまく機能しているかに思い至らず、「図」の部分ばかりを問題にしているのですね。

>また、「言葉の実体化作用が引きずる思考の混乱の危険」の例として、私は、原理主義的思考を思い浮かべました。例えば、新自由主義者は、「競争による社会の効率化こそが善である」という言語的虚構を固く信じて……

じつは私も、原発問題で騒がれている「脱原発か再稼動か」というバカげた二元論についてここに例示しようかと思っていたのです。あまりに時局に直結するので避けたのですが(笑)。電力需給逼迫の現状からみて、安全確認がなされた原発から徐々に再稼働することで、まず産業の安定化を諮り、それを通して、再生可能エネルギーの実現可能性をも伸ばしていく、というのが賢い考え方ですね。
またご感想をお寄せください。


2013/07/02 01:22
Commented by kohamaitsuo さん
前回のコメントで、再生可能エネルギーに可能性があるかのように書きましたが、経済評論家・三橋貴明氏の「月刊三橋」6月号を聴き直したところ、どうも日本の国土では、再生可能エネルギー(太陽光、風力、地熱、中小水力など)は、あまり有望とは言えないだけではなく、新自由主義的なビジネスに蚕食される弊害が大きい(現にされている)ことを認識しました。日本の電力源を、多様なエネルギー・ミックスによって維持していかなくてはならないことは当然ですが、その中でも再生可能エネルギーの占め得るシェアは、きわめて小さい(小さく抑えておくべきである)と考えたほうが現実的なようです。抽象的なレベルでの言葉の問題として、二者択一の論理がおかしいということについては、自説を変更する必要を感じませんが、現実問題としては、再生可能エネルギーに期待を寄せるよりは、当分の間、石炭火力や、原発再稼働にシフトすべきであると考えます。以上、訂正させていただきます。それにしても、脱原発を叫んでいる連中の頭の悪さと怠惰さよ!


2013/07/02 16:58
Commented by tiger777 さん
 小浜さんの昨日のコメント「再生可能エネルギーの実現可能性をも伸ばしていくというのが賢い考え方ですね」はがっかりでしたが、今日のコメントでほっとしました。
 自然エネルギーは善きものという礼賛者が知識人を含め圧倒的に多いようです。「再生可能」とか「自然」ということばにイチコロなんですね。自然エネルギーの本質を捉える努力をしない。その本質とは何か、市井の研究者近藤邦明氏はこういいます。
「自然エネルギー発電とは、自然エネルギーを何らかの工業製品である発電装置によって捕捉して電気に変換する過程、つまり自然エネ自体はほとんど無尽蔵にある自由財であるから、自然エネ発電の本質とは発電装置の工業的な生産である。
 低密度で拡散したそのままでは工業的に価値のない自然エネルギーを工業的に利用できるほどに集約するためには、単位発電電力量当たりに必要な発電施設規模が必然的に非常に大きなものになる。自然エネ発電施設という巨大な工業製品を作る過程で莫大なエネルギーが消費されているのであり、自然エネ発電であるから無条件に工業的エネルギー≒石油消費量を減らすことが出来るという太陽崇拝あるいは自然エネルギー信仰によって思考停止状態にある」(「環境問題を考える」より)ということです。中沢新一氏が自然エネについて、「第八次エネルギー革命の主力をなすと考えられている太陽光発電の仕組は、殆んどこの植物がおこなっている光合成の仕組をイミテートしたもの」なんぞと幼稚なことをいっていますが、全く本質を捉えていません。
 従って、再生可能エネ批判を新自由主義から問題にするだけでは不十分で、自然エネ自体を素晴らしいものと多くの人が考えている限り、FIT(固定価格買取制度)は必要悪かせいぜい買取価格を下げよ程度に止まってしまうのではないでしょうか。FITをいくら否定しても再生可能エネ必要論が残れば、自然エネを拡大すべきとなり、結局は税金=国民が無意味な負担をすることになります。レントシーキングは防げても莫大な無駄をしていることに変わりはない。
 もっとドイツの自然エネルギーの惨憺たる現状を追及すべきです。この混乱を見れば諸悪の根源は地球温暖化CO2説であることがわかります。美津島明氏がエネルギーについて書き始めていますが、地球温暖化説批判に行き着くはずです。


2013/07/02 18:16
【返信する】
Commented by kohamaitsuo さん
tiger777さま
ご丁寧なご指摘、まことにありがとうございます。こういうご意見をいただけると、とても勉強になり、うれしく思います。
 たとえば武田邦彦氏は、いまや原発に関しては脱原発の教祖科学者みたいになってしまって全然ダメですが(なんでこうなってしまうのでしょうね)、かつて『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』を書いたころは、地球温暖化説のウソを暴いて痛快でした。貴コメント中にある近藤邦明氏の説くところも、これと共通するように思います。地球温暖化説に関しては、私も何段階もの疑わしい仮説が積み上げられたために、妥当性がほとんどないもの、と認識しており、学生にもそう教えています。
 また、新しいエネルギー生産装置を組み立て上げるために、いかに多くの資源、金、時間、政治的労力、禿鷹たちの参入、などを覚悟しなくてはならないか、そういうことにみんな(私も含めて)どうもしっかりと頭が回らないようです。いわゆる「知識人」にことにこの傾向が強い。困ったことです。
 ドイツの惨状についても、マスコミは語っていませんし、もっと正確な情報が必要ですね。あの国の自然エネルギーも、北から南への送電網の整備に莫大な費用が掛かり、結局は国民の負担を増やしているようです。しかも実際にはフランスの原発から大量に電気を買っていますね。日本は、国土的特性から、新発電システムからの送電網の整備は、もっと困難ですね。
 いまこれらについて詳説するだけの余裕と能力が不足していますので、取り急ぎ、日本のエネルギー政策について私自身がNGと考える方向を端的に表明しておきます。
 以下はすべてNG
 メガソーラー、電力自由化、発送電分離、脱原発、固定価格買取制度
 今後ともよろしく。


2013/07/03 14:31
Commented by tiger777 さん
拙いコメントにお答えいただき、ありがとうございました。

>ドイツの惨状についても、マスコミは語っていません

 ドイツの現状はいま悲劇を通り越して、喜劇です。再生可能エネルギーは誰も買わない、売る側はお金を払って引き取ってもらっているようです。
また、再生可能エネルギーの発電分のバックアップを火力発電で賄うそうです。なら、再生可能エネルギーは不要なんですが。既にヨーロッパでは風力発電に起因して大停電が起きました。もっと痛めつけられないと目がさめないでしょう。

>以下はすべてNG
 メガソーラー、電力自由化、発送電分離、脱原発、固定価格買取制度

 固定価格買取制度については、美津島さんが今後書かれると予告していましたので期待しています。これは三橋貴明さんもいうように、管元首相退陣を巡って唐突に出てきたもの。特にソフトバンクの孫正義が暗躍しました。この制度は国家的な詐欺のようなものです。被害が広がらない内に潰してほしいと思います。  

>それにしても、脱原発を叫んでいる連中の頭の悪さと怠惰さよ!

 本当にそう思います。といっても私も(将来というかいつの日かに)脱原発をです。再生可能エネルギーでなく、火力発電で全ては解決すると思っているからです。
 私の関心は、定説を安易に認めてしまう、いわゆる知識人を如何に目覚めさせるか、にあります。それを果敢に行っている小浜先生に大いに期待しています。



こんな無意味・有害なことやめろ(その4)

2013年11月11日 17時04分04秒 | 社会評論

こんな無意味・有害なことやめろ(その4)


Ⅰ.個人情報保護法

 元CIA職員・スノーデン容疑者が米国家安全保障局にスパイ容疑で訴追され、アメリカは身元の引き渡しを香港行政府に要求しましたが、香港はこれに応じませんでした。北京政府との摩擦を避けたのかな? 
 この事件をきっかけに、いまこうした漏洩行為およびそれを摘発する行為の是非について、世界中に議論が波及しています。先のG8でも相当問題になりました。スノーデン容疑者は香港からロシア経由で亡命したようですが、これで一件落着というわけにはいきませんね。
 国家の機密暴露は、その国の政府にとってはもちろん困ったことですが、機密を得たほうの国の政府にとっては、その事実がばれさえしなければ「してやったり」ものです。しかしばれた場合には、表面上の友好関係を損なう恐れがあるので、とてもまずいことでしょう。
 また、漏洩情報はたまたま明るみに出た氷山の一角で、政府が握っている情報には、必要情報とは直接関係のない個人情報がたくさん含まれている可能性がありますから、プライバシー保護の観点からは、そういうことが許されてよいのかという批判意見もあるようです。しかし一国の安全保障の徹底を図るためには、政府の情報機関が広く情報を把握しておくことがどうしても必要とされることもたしかです。
 この問題はとても複雑ですね。私には、いまここでこの問題に口を出すだけの資格も力量もありません。
 ところで、この問題からの連想で、前から疑問に思っていたことが浮かび上がってきたので、それについて書きます。我が国の個人情報保護法(2003年5月成立・施行)というのは、いったい何の役に立っているのか、弊害の方が大きいのではないか、という疑問です。
 みなさんは、文書やネットに個人データ(氏名、電話番号、メールアドレスなど)を登録する必要がある時に、当の個人情報取扱業者の書類に「この情報は、この目的以外には使用しません。第三者に無断で流用しません」という意味の断り書きがあるのにしばしば触れたことがあると思います。この断り書きは、個人情報保護法の規定にのっとっているのですね。
 しかし、そう書いてあるからと言って「ホントに守るのかね」と疑えばきりがありません。いちいち疑っていたらやりたいこと、必要なことができませんから、「ハイハイ」と受け流しているのが通常でしょう。
 この法律には、明白な違反が認められた場合にはごく軽微な罰則規定があるものの、事実上は、ほとんど拘束力などないと言ってよいでしょう。利用規約に違反しているかいないか個人が追尋しようがないし、違反していることがわかった時に、その訂正や削除を実現させるためには、時間とお金がすごくかかります。
 しかも、ネットの場合、本人が自分の情報の流用の事実を他のサイトで容易に確かめられさえすれば、流用者は、その事実を本人に知らせた上で、「ほら、ちゃんと正直に公開してるでしょ、だからいいじゃない」と言い逃れることができます(23条2項)。でも、じっさいには、これで、個人情報がどんどん広まってしまっているわけですね。
 またこの法律には除外規定があって、たとえば、当の事業者と実質的に同じとみなされる事業者が共同で利用する場合、本人がその事実を容易に知ることができるなら、本人の同意を得る必要がありません(23条4項の3)。
 さらに、マスコミ、著述業関係、大学等、宗教団体や政治団体などは、「個人情報取扱事業者」の義務の適用を受けません(50条1項)。これらの例外団体に少しでもかかわっているという体裁が取れる事業者なら、だれでも個人データを利用できるわけです。
 いかに、この法律が何の意味もないザル法であるかがお分かりいただけたかと思います。 ちなみに公明党は、この法律の成立に反対していましたが、除外規定に宗教団体が入れられるやいなや、掌を返したように賛成に回ったそうです。
 ところで、このように条文に現われた骨抜き具合を検討してみなくても、いまの時代、普通の人の個人データなど、FBなどを見てもわかるように、ネットや交渉を通してじゃんじゃん流用されていることは周知の事実ですね。
 論理的に考えても、A社の保存している個人データを大事な取引先のB社に対してすべて秘密になどすれば、B社の仕事は成り立たなくなり、それは跳ね返ってA社のビジネスをも停滞させてしまいます。営業マンが名刺を配らなくては交渉もできませんし、自分の抱えている顧客データをあるところまで知らせなくては、仕事になりませんね。
 こういうたぐいのことを法律で縛れると思う方がどうかしているので(ただのアリバイ作りですね)、これは知らせたほうがいい、これは知らせない方が得策、という各企業の判断に任せるほかはないのです。その場合、判断の根拠は、自社の利益と社会良識です。両者は矛盾しません。企業が一定の社会良識を持っていれば、長期的にはそれこそが自社の利益につながります。本当に着実な利潤を確保しようと思ったら、社会良識をきちんと維持することが不可欠です。「情けは人のためならず」。
 もっともこの法律の趣旨は本来、「個人情報取扱事業者」に対する主務官庁の監督を義務づけるところにあって、一般国民に対する直接の規制があるわけではありません。つまりこの法律は、一種の拡大解釈によって過剰反応を生み出してしまったのであり、その弊害は、いまも尾を引いているようです。
 例えば医療や教育の領域では、関係者が個人データを相当深いところまで知る必要がある場合があります。
 精神医療は、しばしばクライアントの長きにわたる成育歴・生活歴を医師がつかむことによって、適正な診断・治療を果たすことができます。しかし、他の医療機関から移転してきたクライアントの情報をできるだけ詳しく得ようと思って、その医療機関に問い合わせたとき、「個人情報保護法」をタテにとって、「それはできません」と拒否されたらどうでしょうか。いい治療はできませんね。
 また、高等学校では、選抜や入学後の指導に当たって中学校までの生徒の活動の記録を重要視します。しかし総じて、この種の書き物には、おざなりの「いいこと」しか書いてなくて、その子がどういう子なのかというイメージをきちんとつかむことができません。もう少し「この子」の情報がほしいと思って、中学校側に問い合わせたとき、「それはプライバシーにかかわるのでできません」と断られたらどうでしょうか。聞くところによると、教育界の一部では、5年以前の子どもの記録はすべて破棄してしまうそうです。これでいい教育ができるでしょうか。
 犯罪捜査もそうですね。ストーカー被害の訴えがあった時に、警察官が加害者の疑いのある人の周辺をより正確に調べようと思っても、関係者が「個人情報保護法」をタテに情報提供を拒否したら、取り返しのつかない結果を招くかもしれません。この種の事件はすでに過去にもいくつか報じられていますが、マスコミが叩くように、一概に警察の手落ちと決めつけられないと思います。むしろ、限られた数の捜査官がぶつかっている「たしかな情報の得にくさ」という苦しい壁に想像力を馳せることが大事ではないでしょうか。
 以上のように、「個人情報保護法」は、何でも機械的な文字情報として書き込んで、それに依存しないとやっていけないという強迫観念に彩られた、このマニュアル社会(マクドナルドやファミレスの店員ことば!)の通弊を象徴しているような気がしてなりません。法律として成文化されたものは、やたら精細になり、そのためかえって本来の趣旨を裏切っている。そうして、じっさいにはちっとも効力を持っていず、肌合いと呼吸と日々のやり取りで生きている私たちの現実の人間関係から乖離するばかりです。
 もっとも、こんなことは昔から言われていたことです。しかし、当ブログの「私の憲法草案(その1)」にも書いたことですが、どうも近頃、過度にそういうものに頼ろうとする不安神経症的な傾向が増しているのではないか。これも素朴でシンプルな原理によって生きることができなくなってしまった私たちの時代の哀しさなのでしょうか。


Ⅱ.ネット会員加入のための「同意する」

 それで思い出したのですが、ネットを通してちょっとした何かの会員になろうとするときに、細かい字でぎっしり長々と書き込まれた契約文が必ず出てきて、それに「同意する」か「同意しない」かという選択を迫られますね。あの契約文、みなさん読んでますか? 私は一度も読んだことがありません。おそらくほとんどの人が読まないままに、「同意する」を選んでいるのでは?
 あの法律用語の悪文で書かれた条項をいちいち吟味して、これはこういう意味だろうかとか、こういうことがあったらどうするのだろう、とか、そんなことをやっていたら小半日かかってしまいますね。しかもそれだけ時間と労力を費やしても、契約文全体の言わんとするところを正しく理解するなんて、とても望めないでしょう。
 だいたい、これは面白そうだな、必要だなと思って会員になることを決めてアクセスするんだから、「同意する」しかないじゃないですか。もし「同意しない」を選んだら、その時点でアウトですよね。
 もともとネットで会員登録するのって、店先で商品を物色して、これなかなかよさそうだなと思って、「じゃ、これ買います」って店員さんに言うのと同じですね。そのときに店員さんに、「じつは、これを買うためには、これこれこれこれの規則があり、その規則をすべて理解していただいた上で」なんて延々とやられたら、買う気なくしませんか。こちらは、その商品のホントの価値は、使ってみなくちゃわからないけど、まあ、大した金額じゃなし、だいたい見て間違いなさそうだから、買ってみよう、失敗したらしょうがないや、くらいに思ってお金を出すんですね。八分の信用と二分の不信です。それでだいたいの小さな取引って成り立っていくものでしょう。
 高い買い物、たとえば不動産などは、売買当事者に不動産屋が立ち会って、かなり時間をかけて契約書や重要事項説明書の読み合わせをやりますが、それでも、ネットの契約書ほど細かくないし、わかりにくくないでしょう。ネットの契約書は、おそらく、企業同士でビッグ・ビジネスをやるときのモデルをそのまま引っ張ってきてるのですね。あんなこと無料会員(少額の有料会員も)にとって意味がないですから、やめてほしいです。
 もちろん、サービスの提供側には、それなりの理由があるでしょう。まさかのトラブルがあった時のための自己防衛策であり、自分たちは法治社会でこのように公正な手続きを取っていますという証拠提出なのですね。それがどうしても必要なのだというロジックはわかります。こちらも、そりゃ、きちんとしてくれるのならそれに越したことはないと、一応は納得します。
 しかし、あれを提示する側の人たち自身も、ほとんどのユーザーはこんなものまじめに読みはしないということを知っているのではありませんか。もしそうだとすると、逆に、読みっこないからこういう条項をひそかに入れといてやろうというように悪用される可能性があります(たとえば不当な金銭要求)。「契約を結ぶ」ということの重要な意味を逆手に取るわけですね。現にネット詐欺の恰好の手段になっているのではありませんか。
 無料会員登録のような気やすい取引に、そんな契約条項など付帯させる必要などありません。有料ならはじめから金額を大きく謳っておけばいいし、疑問がある人のためには、たいていQ&Aコーナーが設けてありますよね。疑問がある人は、同意する前にそれを読むはずです。
 またユーザーが不満を持った時には「解消」を申し出ればそれで済む話です。その手続きが簡単にできるようになっていることが大事です。また、サーバーがサービスできなくなったのなら、謝ったうえで「やめます」と言えば済む話です。だれも100円ショップがつぶれたのを見て、恨みなんか抱きませんよ。
「でも、世の中いろいろで、うるさいこと言ってくる人がいるんですよ」とおっしゃるかもしれません。それは事実でしょうね。でもそれだったら、なぜ「同意する」か「同意しない」かの二者択一にしておくんですか。
 だいたい、「うるさいこと言う人」って、加入する気はあるけど、契約条項にこだわる人でしょう。その人が契約条項に対する疑問を拭えなかったら、「同意しない」を押すしかないじゃないですか。それで取引決裂ですね。
 もしネットサービス提供者が、そういう人もきちんと取り込みたいと思うのなら、「この契約には疑問がある」→「第〇〇条のこの部分」という選択肢を設けておいて、ユーザーの発信を受けてからきちんと返答する労を取るべきですね。それでこそ質の高いサービスというものです。


倫理の起源3

2013年11月11日 16時59分27秒 | 哲学

当方の手違いにより、「倫理の起源3」が画面から抜け落ちていました。順序が前後しますが、みなさまにお詫びいたしますとともにここに改めて掲載します。



倫理の起源3





 このように考えると、とりあえず「悪」を次のように定義できる。
 すなわち「悪」とは、彼が自分の存在の根拠を置いているところの共同性に反する意志や行為のことである(この意志や行為には、むろん「過誤」や「無作為」としての悪も含まれる)。言い換えれば、ある共同社会にとって、個々の成員の生を保つのに必要な規範や秩序を無に帰するような個別的な意志や行為のことを「悪」と呼ぶ。
 逆に言うなら、良心とは、自分の意志や行為がおのれの属している共同性からの孤立を招くことがないという確信のことである。私たちは、「良心」という言葉に、これ以上の積極的な意義や価値を背負わせるべきではない。良心は、常に心の中にあって作用しているのではなく、自分の意志や行為が自分の依拠する共同性からの離反を招く可能性があるとき、初めてそれ自身の「疚しさ」としてあらわれるのである。
 なお、和辻哲郎は大著『倫理学』(岩波書店)のなかで、「悪」について卓抜な定義をしている。それによれば全体性の否定契機としての「個」それ自体が「悪」なのではなく、否定の否定という次の運動を生まないような個への「停滞」が「悪」であるというのである。私のここでの定義とは一見ずれるようだが、これは思考のはいり口が異なるためで、最終的には同じところに帰着すると私は考えている。和辻は彼一流の人間哲学にもとづいてこのような定義をしているので、それについては、後に詳しく論じたいと思う。
 ところで、ここでの「悪」の定義についてありうべき誤解をまず解いておきたい。
 自分の存在の根拠を置いているところの共同性に反する意志や行為のことを「悪」と呼ぶからといって、このことは、自分の属する特定の共同体に対して反抗する意志や行為をただちに「悪」とみなすことを意味しない。「共同性」と「共同体」とは概念が異なる。
 後にもう一度触れるが、共同性とは、個人が一個の人格の持ち主(「私」という人間)として生きるためになくてはならない本質的条件のことであり、共同体とは、特定の個人群が集まって作る具体的な社会秩序のシステムのことである。
 したがって、ある個人が自分の属する特定の共同体に対して、「個人の自由」を訴えたとしても、それは必ずしも「共同性」一般に背反したことにはならず、むしろ「個人の自由」がより多く認められるような「共同性」のあり方を求めただけという場合もあり得る。
 もちろん彼がどういう意志や行為において個人の自由を主張したかによって、それが「悪」となることもあり得る。たとえば、平和な秩序が保たれている共同体の内部において、「人を殺すのは個人の自由だ」と主張すれば、それは、その共同体の一員である自分が殺されることも認めたことを意味するから、その場合には、共同性そのものに反する言明を行ったことになり、先の「悪」の定義に当てはまることになる。

 ところで「悪」をこのように定義づけると、いくつかの反論が予想される。
 まず、第一に、個体における良心の疚しさの感情がどこから生まれるかを個体の発達心理から語ることによって「悪」を定義づけることができたとしても、それは、ある特定の意志や行為に踏み込むにあたって、私たちが主観的にどういう心理状態におかれるかを語ったにすぎず、その特定の意志や行為がなぜ客観的に「悪」と見なされるのかを語ったことにならないという反論である。
 この反論に対しては次のように答えられる。
 なるほど言われていることは一見正論に思える。しかし特定の意志や行為を客観的に「悪」と見なせるような基準を私たち人類が普遍的に手にしているならば、ちょうどそれと逆に、「善」についての客観的な基準ももっているはずである。というのも、もし私たちが、何が「善」であるかについて普遍的な了解をもっており、したがってまた特定の意志や行為が「善」に叶うかどうかについての客観的な尺度を手にしており、それに対していかなる懐疑や不安や疑問も抱かないだけの自信を持っているのであれば、その「善」と照らし合わせることによって、「悪」についての客観的な基準をもたちどころに指し示せるはずだからである。
 しかしじっさいの意志や行為にあたっての私たちの判断は、そういうものではない。私たちは、まだなされていない自分一個の意志に関しても、それが「悪」にあたらないかどうかを慎重に吟味するのがふつうであるし、またなされてしまった他者の行為に関しても、複雑細密に仕上げられた法のどれかを選択して運用し、なされた行為の「悪」の質や程度がいかなる制裁や報いに値するか(罪名や量刑)について長々と詮議するのを常とする。
 このことは、「善」という観念が、漠然と私たちの心の中に場所を占めているにもかかわらず、それが確乎たる輪郭をもった原器のようなものではないことを示している。善の原器が定まっていない以上、ある特定の意志や行為を、客観的に「悪」と見なせる保証を私たちは得ていないわけである。
 この事情をいいかえれば次のようになる。
 すなわち私たちはたしかに、共同的な心性のうちに、何らかの「善」の観念を共有しているのであるが、この観念は、日常生活においては、それ自体として積極的・具体的にその様相をさらすことがなく、何かそれに悖るかもしれないと感じられる意志や行為に接触するかぎりで、初めてその姿をあらわすのである。哲学風に言えば、それは否定性としてしか現前しない。
 もちろん、たとえば「他人のためになることをせよ」というのは、道徳教育が説いてやまない「奉仕」の精神である。車内で老人に座席を譲ったり、命の危険に出会っている人を救い出したりすることは、積極的な「善行」としてにぎやかに称揚され、推奨されはする。救出活動で本人が命を落としたりすれば、たちまちにして美談が作り上げられる。
 しかし、こういうことをしなかったからといって、その人は格別非難されるわけではないし(非難する道徳主義者も時にはいるが)、「善人」としての資格が剥奪されるわけでもない。消防士が火事場に駆けつけながらその職務を果たさずに拱手傍観していれば、職務怠慢として非難されるだろうが、たまたま近くに住んでいた住民が、火事場で野次馬を決め込んでいたからといって、大多数の人びとが同じことをしているのであれば、彼のことを卑劣漢と呼ぶ人はだれもいまい。彼は「善人」としての人格要素を動揺させられないで済むはずである。
 いわゆる「善行」や「奉仕」が人びとの称賛を浴びるのは、それらが多少とも周囲からは突出した行為だからであり、突出した行為にそういう称賛や推奨を絶えずしていないと、共同性の精神が枯れてしまうかもしれないと、人びとが危惧しているからである。しかし称賛や推奨がなされるにしても、「だれもがそうしなくてはならない」という強制がなされるわけではないし、またなされるべきでもない。
 共同性の精神が枯れるとは、まさに「悪」がはびこることであって、人びとはそれを過剰に恐れるゆえに、突出した「善行」をことさら誉め讃えようとする。だが突出した「善行」がたとえ行われなくても、自分の依拠する共同性からの背反、すなわち「悪」が頻繁に行われないならば、ただそのことによって、「善」は保たれるのである。
「善」なる観念は、ふつう生活意識の深層にあって、私たち自身の安定したさまざまな生活実践そのもののなかに身を隠している。むしろそれは特定の「観念」ではなく、私たち自身に生活の安寧をもたらしているところの、実践的な関係行為の連鎖それ自体である。それは、災厄や犯罪のように何かこの関係行為の連鎖の秩序をかき乱すようなことが起きると、そのかぎりで呼び出されて、それらとの関係において「観念」としての露頭をあらわすのである。
 では、なぜある意志や行為が「善」に悖るかもしれないという感覚を私たちは抱くのだろうか。しかもそれはどうして「かもしれない」というあいまいなかたちをとってあらわれざるを得ないのだろうか。
 この、「かもしれない」というあいまいさの存在は、じつは、私たち一人ひとりが属している共同社会そのものが単純ではなく、多様性をそなえたまま互いに絡まり合っている事情と対応しているのである。私たちがかたちづくっている共同社会は、家族にせよ、村落にせよ、経済的な組織にせよ、宗教結社にせよ、国家にせよ、それらをそれぞれに形成している中心的な「精神」をもってはいるものの、時間的にも空間的にも、互いに画然とした輪郭をそなえて住み分けているわけではない。
 ある人が共同存在であるというとき、彼は原理の異なる複数の共同性を背負っている。彼はだれかの息子であり、だれかの夫であり、だれかの父であり、だれかの友人であり、ある地域の住民であり、特定の経済組織のメンバーであり、市場に参加する一市民でもあり、一国の国民でもあり、人類の一員でもある。こうした複数の重畳した帰属関係を背負う個人にあっては、その内部でさまざまな価値観が混在・並立しうるから、ある意志や行為が「善」に悖るかどうかは、あいまいにならざるを得ない。なぜなら、それらが「善」に悖るかどうかを照らし合わせるべき尺度は、どの共同性が提供するものであるかによって、それぞれ異なってくるからである。
 たとえば他との交通関係がなく、閉鎖的で小人数な村落共同体とか、きわめて戒律の厳しい宗教結社などをひとつの理念型として想定してみよう。
 そこでは結束がすなわち善であるから、「悪」イコール共同体からの追放なのである。そこではあいまいなものはそれだけ少なく、異端か正統かをめぐる議論の余地はないし、個人の情状が詳しく酌量されるということもない。
 いいかえれば、個と共同性とが単純な関係におかれているこのような状況下では、悪をなすとは、共同体がいただく「神」の愛を喪失することとほぼ同じである。ある村落共同体にとっては、「失火」はそれだけで村八分の対象とされたし、ある戦闘集団にとっては、生命を賭す心がけのない「臆病」は、最も排斥されるべき悪であった。主君に対して謀反の念を抱くことは、それだけで最大の罪に値した。
 これに対して近代社会では、個人の帰属先が多様で複雑にわたっているため、その個人がどの共同態により強くみずからのアイデンティティを託しているかによって、ある意志や行為が悪と感じられる度合いや質も異なってくる。それぞれの集団のアイデンティティはそれぞれその結束の原理を異にしており、しかも一個人のうちにおいて互いに絡み合っている。
 したがってあるひとつの共同性における「善」を満たそうとすれば、他の共同性における「善」と抵触せざるを得ない。たとえば国に命を捧げることは、子どもの養育という親の義務を放棄することになりうるし、会社への忠誠は、しばしばその組織よりも広い公共的市民道徳の非難の的になる。ある正しさの信念(たとえば「嘘をついてはならない」)を貫くことが、「友情」という徳に悖ることになるかもしれない。
 このように、個人の帰属先が多様にわたっているということは、個人の内面において、その帰属先である特定の共同性の輪郭があいまいなものとして看取されていることと同じである。ちなみに、後に詳しく批判するが、カントの倫理学は、こうした共同性そのものの複雑な事情、またその結果としての個人のアイデンティティの多重性を顧慮しない「お坊ちゃん倫理学」である。
 いずれにせよ、個人の属する共同性が、多元的であるかぎりで、一つ一つの共同性の輪郭は彼のなかであいまいなものとなり、彼の意志や行為がどれほど「悪」であるかもまた、その多元性やあいまい性との相対的関係のもとに規定されてくるのである。
 反論者のいうように、「悪」を客観的にとらえないから、「悪」が主観心理的なものとしてしか浮かび上がらないのではない。ある意志や行為に当人が良心の疚しさを抱くその質や程度は、平均化してみれば、彼の属する共同性のエートスの複雑さを裏側から照らし出すのである。