『風立ちぬ』と『永遠の0(ゼロ)』について(その3)

4.『永遠の0(ゼロ)』
『永遠の0』は、百田尚樹(ひゃくた・なおき)さんのエンターテインメント小説です(2006年・太田出版刊。講談社文庫でも読めます)。のち漫画にもなり、今年(2013年)の12月には、映画が封切られるそうです。
司法試験に何度も落ちて働く気もなく浪人している弟が、ライターの姉から依頼を受けて、特攻隊で死んだ実の祖父(義理の祖父は別にいる)のことを二人で調べ始める。いまや80代前後になった生き残り兵士たちを苦労して探し当てて話を聞くうち、祖父の意外な側面がしだいに明らかになって行き、最後に劇的な落ちがついて終わります。読んでいない方のために、この落ちについては言わないことにしましょう。
あらかじめお断りしておきますが、私は、正直なところ、この作品の小説としての出来については、それほど高く評価していません。人間関係の作り方が少々おざなりだし、どんでん返しも、これはちょっとやりすぎという感じ。何よりも、狂言回し役の現代人姉弟が生き残り兵士たちの話を聞いていくうちに、彼らの生き方、考え方に大きな変化が生ずるという設定が、どうにも安っぽい。そんなことはたぶんあり得ませんよ。つまりこの非現実的な流れが、戦争から遠く離れた世代に対してクサイ教訓を垂れているような感じで、その無効性が露出してしまっているのがいただけない。こんな余計な設定をせずに、ただ一人の現代人の聞き書きというシンプルな形をとった方がよほど良かったと思います。もっとも、姉の恋人(?)であるジャーナリストの男のイメージは、いかにも朝日新聞的な「戦後民主主義」体質がカリカチュアライズされていて、なかなか痛快でしたけどね。
またこの作品は、詳しい資料的な記述に満ちており(たとえば坂井三郎の『大空のサムライ』。私は未読)、それらを借りてきて寄せ集めただけだというような批判があるようです。しかし、こういう批判については、逆に賛同しかねます。というのは、たとえ資料がいくらそろっていようと、それにいちいち当たって調べる人は、戦前・戦中史に特別の関心を持つごく少数に限られます。ですから、それらをきちんと参照したうえで、現代の多くの若者にも楽に読めるようなエンタメ物語に仕上げるというのは、並大抵の業ではありません。
前回、小林よしのり氏の漫画『戦争論』に対する林道義氏の批判について述べましたが、林氏も、この漫画が、膨大な資料を駆使して、現代の若者たちに「あの戦争とは何だったのか」という問いを広く喚起した点、戦争を少しでも肯定的に語ることに対するタブーを打ち破り、空想的な平和主義の欺瞞性を暴いて見せた点については、大いに評価していました。私も同意見で、特に南京虐殺問題や従軍慰安婦問題について、いかに中韓寄りの記録や写真が虚偽であるかをきちんと示して見せた功績はとても大きいと思います。
つまり、百田氏も小林氏も、大衆読者を相手にする小説家や漫画家が歴史問題を扱う時の役割とは何かということをよく自覚しているので、この、「編集し、発信し、広範な大衆に認知させる」という作業がいかにたいへんな力技を要するか、それはやってみない人にはわかりません。もちろん、この作業を通して、その作者なりの思想性(史観)がおのずと現れます。それを問題にすることは大いにやるべきですが、これこれの資料を引き写して継ぎ合せているから「パクリだ」などと軽々に非難してはいけないのです。
さて、私が『永遠の0』に惹きつけられた大きな理由は、まさにその思想性にあります。
主人公・宮部久蔵は次のように造型されています。
①海軍の一飛曹(下士官)。のちに少尉に昇進。これは飛行機乗りとして叩き上げられたことを意味する。
②すらりとした青年で、部下にも「ですます」調の丁寧な言葉を使い、優しく、面倒見がよい。棋士をめざそうかと思ったほど囲碁が強い。
③パイロットとしての腕は抜群だが、仲間内では「臆病者」とうわさされている。その理由は、機体の整備点検状態に異常なほど過敏に神経を使うこと、飛行中絶えず後ろを気遣うこと、帰ってきた時に、機体にほとんど傷跡が見られないので、本当に闘ったのか疑問の余地があること、など。
④「絶対に生き残らなくてはだめだ」とふだんから平気で口にしており、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」とは正反対の思想の持ち主である。ガダルカナル戦の無謀な作戦が上官から指示された時には、ひとり敢然と異議を唱え、こっぴどく殴られる。
⑤奥さんと生れたばかりの子どもの写真をいつも携行しており、一部の「猛者」連中からは軟弱者として軽蔑と失笑を買っている。
一度だけ宮部は部下を殴ったことがある。それは、撃墜された米パイロットの胸元から若い女性のヌード写真が出てきたときのこと。部下たちが興奮し、次々に手渡して弄んだ後、宮部がそれを米兵の胸元に戻すと、ひとりの兵が彼の制止も聞かずもう一度取り出そうとしたからである。その写真の裏には、「愛する夫へ」と書かれていた。「できたら、一緒に葬ってやりたい」と彼は言う。
⑥内地でパイロット養成の教官を務めている時期、厳しい実践教育をくぐり抜けた生徒に合格点を与えれば与えるほど、彼の苦悩と葛藤は深まる。戦局はもはや敗色濃厚で、優秀な人材を死地に送ることに仕事がら加担せざるを得ないことがわかっているからである。
⑦空中戦で彼が珍しく油断した時、腹心の一人が機銃の装備もないままに、捨て身で割って入り、敵の銃弾を受けて重傷を負う。宮部は命拾いをしたことに感謝しつつも、いっぽうではその部下の無謀さをなじる。
まだまだあるでしょうが、私の印象に残ったのはこんなところです。この作品は、なぜあれほど「生き残らなくてはならない」と主張していた宮部が、敗戦間際の特攻隊攻撃で敵艦に進んで突っ込んでいったのかという謎を最大の焦点として進むのですが、それがじつは⑦のエピソードと関係があります。これ以上は、読んでのお楽しみということにしましょう。
ところで、前回と前々回とを読んでくださった皆さんには、私がなぜこの宮部久蔵という人間像に強い関心を抱くのかが、ほぼおわかりだと思います。作者・百田氏は、日本にとってあの戦争のどこがまずかったのかという根本的な問題をよくよく考えたうえで、こういうスーパーヒーローを創造しているのですね。もちろんこんなスーパーマンがいるわけはありませんが、宮部の人となり、ふるまいを見ていると、こういうキャラが許容されるような軍であったなら、つまりそういう余裕のある雰囲気が重んじられていたなら、日本のあの戦争(和平・停戦への努力も含めて)はもっとましな結果になっていたに違いないという、作者の日本批判が強く込められていることを感じます。
実際、作者は、ひとりの語り手をして、机上で地図とコンパスだけを用いて作戦を立て、ゴロゴロ死んでいく兵隊たちを将棋盤上の歩兵のようにしか考えていない参謀本部(軍事官僚)のハートのなさを強く批判させています。この現場を知らない官僚体質が、民の苦しみなど想像もせずにTPP参加や消費増税などを平然と決めていく現在の官僚(およびその腰巾着になっているマスコミと一部の経済知識人たち、それに決然と抵抗もできない政権担当者たち)の体質とダブって見えるのは、私だけでしょうか。
ちなみに私は、「いのちのたいせつさ」といった戦後的な価値の抽象性をそのままでよしとするものではありません。この価値は、抽象的なぶんだけ人間には命をかけて闘わなければならない時がある、というもう一つの価値を忘れさせます。この戦後的価値が実際に作動するときには、超大国頼み、金頼み、無策を続けて状況まかせ、憤るべきときに憤らない優柔不断、何にも主張できない弱腰外交、周辺諸国になめられっぱなしといういくつもの情けない事態を招いてきました。それは、私たちがさんざん見せつけられてきた戦後政治史、外交史の現実です。「いのちのたいせつさ」と言っただけでは、何も言ったことにならないのです。
しかし逆に、「命をかけて闘わなければならない時がある」という言い方も、それだけでは抽象的であり不十分です。問題は、どういう状況の下で、どういう具体的な対象に対してなら「命をかけるに値する」と言えるかなのです。
敗北必至であることが、少なくとも潜在的には感知されている状況の中で、いたずらに「命をかける」という価値を強調すれば、結果的に多くの「犬死」を生むことにしかならないでしょう。特攻隊がそのよい例です。美学や一時の昂揚感情が、軍事上最も必要とされる戦略的合理性を駆逐して多くの若者を犠牲にし、あとには、やるせない遺族の思いが残るだけ。こういうことをずるずるとやってしまうのが、情緒的な空気に流されやすい日本人の国民性(そしてそれに憑依する一部保守派)のダメなところです。
もう一度、宮部久蔵というキャラに象徴的に表れている「価値」に注目しましょう。彼は別に「お国のため」に命をかけているのではありません。生きなくてはならないという信条がそれをよく表しています。しかし逆に、彼は自分だけこすからく生き残ろうと、状況から逃避しているのでもありません。現実には隊長として部下の命をあずかりつつ、いかにして眼下の敵を撃墜して勝利するかという合理的な算段に心血を注いでいるのです。前線という制約下に置かれて、多少とも賢くかつ有能にふるまおうとすれば、だれでもそうするべきだし、またそうせざるを得ないでしょう。
彼がよりどころとしているのは、抽象的な「公」でもなければ、抽象的な「いのち」でもありません。彼がよりどころとしているのは、結婚して日の浅い妻と、いまだ会うことのかなわない子どもという具体的な存在なのです。私なりの言い方で言えば、エロスの関係こそが、自分の「いま」を支えているのです。私はこの宮部の在り方にとても共感を感じます。「公」も「いのち」も、一種のイデオロギーであり、実体の不確かな超越的な観念にほかなりません。どちらにも魅力はあり、それに引き寄せられていく心情は理解できます。乱暴な言い方をすれば、男は前者、女は後者を選びがちですね。しかし、抽象的な「公」理念にひたすら奉仕すれば、具体的な「いのち」を犠牲にしなければならず、抽象的な「いのち」理念にただ身をあずければ、公共精神を喪失しただらしない無策や無責任が露呈するだけです。
単純なイデオロギーにけっして籠絡されてはなりません。これらはもともと絶対の二者択一項というわけでもない。それが絶対の二者択一項に見えるとすれば、社会構造のどこかが切迫しすぎていて狂っているのです。図式的な言い方になりますが、大切なことは、エロス的関係をよく生きることが可能となるために、私たちはどのような社会構造(「公」)を必要とするのか、という問題について叡智を注ぐことなのです。
国家とは、共有できる情念を最大の幅のもとに束ね、そうしてその成員たちすべてに秩序と福利と安寧を保証することを理想とする共同性です。この共同性(共同観念)の現在における存在理由は、いくら視野や経済が地球規模に広がったとしても、それぞれの地域が背負ってきた具体的な歴史や文化の重みを無視することは到底無理だというところにあります。国家は、その内部の住民の実存を深く規定しているのです。
さて、そのことを踏まえたうえで、宮部久蔵が体現している思想的訴えを整理すると、次のようになるでしょう。
国家はそのメンバーの情緒的な信任と期待を基盤として成り立ちますが、その統治機構づくり(法づくりがその基礎となります)と運営とは、国民一人一人の好ましいエロス的関係を守るために、あくまで合理的になされなくてはなりません。ことに戦争のような国民の命にかかわる一大事業に取り組まなければならない時には、この合理性のいかんが一番問われます。
大量の殺し合いが双方にとって良くないことは当たり前なので、戦争は最後の最後の手段であり、まずいかにしてそれを避けるかにこの合理的な努力を最大限注がなくてはなりません。外交のみならず、国防の必要も、実はここにあります。潜在的な武力の表現を背景に持たない外交は、無力です。両者はパッケージとして意味をもつのです。
しかしもしどうしても避けられずに戦争に突入してしまったら、いかに勝つかということ、犠牲者をできるだけ少なくするために、いかに早く決着をつけるかということ、時には狡猾に立ち回っていかにうまく負けるかということに向けて、合理的精神を存分に発揮しなくてはなりません。緻密な戦力分析、状況分析によって負けることがほぼ確実となった場合には、戦いは一刻も早くやめること、投了によるしばしの屈辱に耐える勇気を持つこと。ヘンな精神主義や美意識で「どうにかなる」などと考えて蛮勇をふるうのは最悪です。そういう方向に国民や部下を強制しないことが、統治者や軍事リーダーの責任として要求されるのです。
ところで、対米戦争こそ、初戦勝利に舞い上がってあの強大な敵を見くびり、この合理主義を忘れてしまったいい見本です。特攻隊などというものを考え付いた時点でもう勝敗は決しています。あの戦争では、「大和魂」とやら(この種の士気昂揚精神は、別に日本特有ではなく、どこの国にもあります)によって、いかれやすい若者を煽り立て、国民全員に必要情報も知らせず「お国のため」という威圧的な決まり文句によって次々に国民を死地に追いやるほかなくなりました。戦う以上、士気はもちろん必要ですが、合理的な計算能力を失っていながらその代りに士気さえあれば何とかなると考えるのは、ただの破れかぶれです。ちなみに大東亜戦争時の日本のGDPは、アメリカのわずか8.5%です。
私の言っていることは、しょせん事後的な反省だという反論があるかもしれません。ごもっともです。しかし、事後的というなら、特攻隊のような「玉砕」作戦を何十年もたってから美化するような傾向こそ、その実態を忘れた事後的な陶酔というべきでしょう。
緊迫した非常時こそ、「お国のため」というスローガンと、自分には親しい家族や恋人や友人がいるという「実存的な事実」とが、矛盾・分裂しやすいのです。両者は順接ではつながりません。国運が急を告げれば告げるほど、国民の私的関係は軽んじられやすくなりますから、それだけ悲運に巻き込まれる質量は増大します。宮部久蔵は、そのことがよくわかっていたからこそ、戦場のさなかで「必ず生き残らなくてはならない」という信念を維持し続けたのでしょう。
ところが、えてして国家や戦争を論じる言論は、その概念上の枠組みにとらわれて、このことを忘れがちです。前回登場していただいた林道義氏も、銃後の女子どものことを考えない戦争論はだめだとしきりに強調されていました。おそらく百田氏はこの作品で――ついでに、宮崎駿氏の『風立ちぬ』も、と言いたいところです――、若者たちが政治や軍事を論じるときには、つねに「銃後の女子ども」との関係に思いを馳せよ、と訴えたかったのではないでしょうか。
敗者の哀しみという感情にただ溺れたり、形式的な平和への祈りの繰り返しに終始したり、進んで命を捨てた者たちの崇高さを称揚したりするだけでは、どんな「闘い」にも勝てないでしょう。大切なことは、こうした情緒的な反応をさらに突き抜け、理不尽を強いてくる「何か」に対する正当な憤りを組織すること、そうしてその「何か」がいったい何であり、どういう仕組みによってそのような理不尽が発生するのかを見抜き、どうすればその理不尽を克服できるのかを、理性の限りを尽くして考え抜くことです。
ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ
( 中島みゆき 「ファイト!」 )
明らかにわたしの寂寥はわたしの魂のかかはらない場所に
移動しようとしてゐた わたしははげしく愼らねばならない理
由を寂寥の形態で感じてゐた
( 吉本隆明 「固有時との対話」 )