前回お話しした繞鉢(にょうばち)ですが、
その筋の方(笑)から早速指摘がありまして、
「繞鈸と表記しなはれ」と。
大変失礼しました。確かに「繞鈸」が正しくございます。
謹んでお礼を申し上げ、ここに訂正を致します。
高野山上のコウヤマキ。
杉か桧と間違えるほどの大木です。
ところで、その繞鈸に彫られていた
実相院・実法院・大円坊・密蔵院・明福院・大楽院の名ですが、
これらは、山岳宗教を基本にした修験道者、山伏のお坊さん方です。
潮音院を中心に北に「密蔵院・明福院・大楽院」。
南に「実相院・実法院・大円坊」。
地域に密着した自然環境を重んじる宗教で、
神仏習合の形態を今に残すお坊さんです。
一年を通して季節ごとに、さまざまなお祀りやご祈祷を執行していく仕事です。
屋祓い、荒神まつり、水神、金、各種山さま、お稲荷さん、金比羅さん、祇園祭
道祖神、・・・・う~ん、まだまだありそうですが思いつきません。
これらはすべてが、地域の人々の暮らしに密着したものばかり。
近代化がなされるまでは、無くてはならない不可欠なお祀りでした。
残念ながら、現在も活動されているのは、大楽院と明福院のみ。
他はみな、明治の神仏分離令による混乱や、
押し寄せる近代化の波に飲み込まれ、還俗されています。
しかし、今も厳然として御子孫はご健在で、
遠いご先祖の生き様を誇らしく思って生きておられます。
さて、この山伏の方々は、院や坊の付く名前です。
これは、江戸時代までに体系化された修験道の
いずれかの系譜にあるお坊さん、ということができます。
きちんとした修行をして、系譜にある師匠から免許皆伝なされなければ、
院号や坊号は名乗れません。
されば、鹿町に存在したこの6つの山伏さんは、
どこの修験道から、この西端の地に定住するようになったのか?
今となっては、なんの資料もなく、推測憶測でしか語ることができませんが、
逆に、全国各地の山々(英彦山、羽黒山、大峰山など)に残る山伏の系譜をたどってみれば、
おぼろげにでも、姿が見えてくるような、そんな気がします。
全国津々浦々まで、この山伏さんが点在するのには、
それなりの背景があるようです。
誤解を恐れず端的に言えば、
時々の権力者が、目の上のたんこぶである体育会系宗教実践者、
山伏や山法師と呼ばれる聖者たちを、
中央から遠く離れた里に配置することで、
彼らの権力に対する自衛権を剥奪し、
仏教集団としての権力への抵抗力を弱体化させること。
であったとおもわれます。
武蔵坊弁慶の姿でもおなじみですが、
彼らの武装勢力は、時々の支配者にとって、
そりゃもう、脅威中の脅威だったはずです。
鉄砲隊なんか組織されてたくらいですもんね。
そんな脅威に対して、歴史上幾多の寺院焼き討ちがおこなわれたか。
白川上皇の「天下三不如意」( てんかさんふにょい)ってのがよく物語っています。
源平衰盛記で白川上皇が語ったとされる語で、
「鴨川の水、双六のさい、山法師、これぞ朕の心にかなわぬもの。」。
(これって、山法師の所をいろいろ差し替えると面白そう)
歴史の教科書では、権勢が強かった上皇でも寺院勢力には頭を悩ました、
という趣旨で書かれてます。
比叡山などは僧兵を使い、都まで出向き、強制的直訴を繰り返していたとか。
純粋に修行に打ち込む僧侶や修験道に専念する山伏たちもたくさん居たんでしょうが、
自活のために荘園をもち、集団としての運営がすすめば、
その既得権を護る必要が出て、自然と肥大化していったんでしょうね。
宗教教団の肥大化は、方向性を見誤ります!の良い例ですね。
で、歴史上この構図は何度も繰り返されていきます。
近畿地方だけでなく、大なり小なり津々浦々で激突があったと思われます。
そんな中、多くの山伏たちは、各地へ散らばり定住をしていったと。
こんな風に、イメージをしています。 合掌
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