守脩親王・淑子内親王・朝彦親王 墓
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天明5(1785)年9月,伏見の町人文殊九助と丸屋九兵衛が寺社奉行へ出訴した。これは伏見奉行小堀政方が町人に対し不法な御用金を課したことなどを訴えたものである。その後京都町奉行所や評定所で審理が行われ,天明8年5月に小堀は改易,出訴当事者として調べられた町人7名は御構いなしという判決が出された。しかし7人ともすでに病死や牢死で判決時に在世したものはいなかった。焼塩屋権兵衛は7人の一人で,この碑は権兵衛を顕彰するものである。なお建碑発起人の西村伊三郎は伏見(深草?)の人。砂子川のしこ名で相撲をとり,また相撲の興行にも携わった
義民焼塩屋権兵衛君碑【題額】
文部大臣正四位勲二等中橋徳五郎題額
義民焼塩屋権兵衛君本姓平田氏深草邑に生る性任侠に富み真摯熱誠最も力を公共の事に致し天明年間町年寄に挙けらる是より先安永八年伏見奉行小堀政方の任に就くや驕奢に長し度支足らす遂に用金十万両を治下に課す当時伏見は今の深草堀内向島の諸邑を併せ水陸の要区として殷賑を極めしが茲に至りて居民虐政に窘しみ離散流亡相踵ぐ君其凶状を坐視するに忍びず家事を男惣吉に委ね身を挺して吏奸を除き民怨を伸べむと欲し文殊九助等と相謀り窃に同志と深草真宗院或は瓦町善福寺の後堂に会し議熟するや九助等は江戸に赴きて之を幕府に訴へ君は郷里に止りて之に策応し備に難苦を嘗めき既にして小堀氏職を罷められ素志纔に達し居民始めて堵に安ずるを得たりと雖とも義挙に余るもの皆獄に投ぜられ君亦天明七年十一月四日獄中に死す嗚呼是れ所謂身を殺して仁を成すものにして百載の下其風を開くもの誰か感奮せざらむ君の如きは洵に郷土の精華国士の典型として長へに欽瞻するに足るべし乃ち其功績の梗概を述べ乃を碑に勒し以て後代に伝ふと云ふ大正九年三月 前衆議院議員奥野市次郎撰
出雲路通次郎書
【以下碑文匡郭外】 砂子川事
発起人 西村伊三郎 平安芳村茂右衛門刻
石碑
義民焼塩屋権兵衛之碑
焼塩屋権兵衛(姓は平田)は深草村に生れました。とても人情に厚く多くの人々に慕われ町の年寄(役人)に選ばれました。時に安永8年(1779)伏見奉行(役所)に小堀政方が着任しその後地位を利用して暴政を振る舞うように至り、そのために伏見の人々を窮地の底に陥れる結果となりました。こうした人々の苦難を救おうと焼塩屋権兵衛は他の年寄文殊九助ら総勢7名と共に立ち上がり、江戸幕府に命がけの直訴に及びついに奉行を罷免させる本懐を遂げたのであります。しかし、焼塩屋権兵衛は、再吟味による尋問に遭い、天明7年(1788)獄中で病臥し非業の最後を遂げました。深草そして伏見の地が栄えて来たのもひとえに焼塩屋権兵衛ら義民の犠牲の賜物です。
蒙古塚
大正8年6月5日 建立
『拾遺都名所図会』巻五によれば,天応元(781)年に「異国の蒙古」が日本へ攻め寄せ,早良親王率いる軍勢がこれを退けた。その時の蒙古軍の大将の首を藤森神社に埋めた塚が蒙古塚と呼ばれて残っていると記す。鎌倉時代の蒙古襲来(文永・弘安の役)のことが,武功祈願の神社である藤森神社の祭神早良親王の事蹟として伝えられたものかもしれない。この石標は蒙古塚を示すものである。なお寄附者西村伊三郎は伏見(深草?)の人。砂子川のしこ名で相撲をとり,また相撲の興行にも携わった。
蒙古塚
砂子川事
寄附者 西村伊三郎
大正八年六月五日建之
昔は七つの塚が有り七つ塚とも云われていました。蒙古の将兵と戦利の兵器を納めた所です。 社務所
藤森神社 ➡ 神社伏0096 藤森神社 南参道 1
神社 前回の記事 ➡ 神社伏0097 五社の滝神社
五七五
長生きをした事がなくて不安です /とみえ
ことわざ
衣鉢を継ぐ(いはつをつぐ)
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