二の丸跡
太平記には 笠置の城は山高くして・・・と書かれているが 後醍醐天皇の仮皇居であり正式な築城はされなかった。しかし室町時代以降 山頂行在所跡を本丸とみたてたのか一段下の子の広場を二の丸跡と呼ぶようになった。
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二の丸跡
太平記には 笠置の城は山高くして・・・と書かれているが 後醍醐天皇の仮皇居であり正式な築城はされなかった。しかし室町時代以降 山頂行在所跡を本丸とみたてたのか一段下の子の広場を二の丸跡と呼ぶようになった。
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滝川一益 (1525~86)
織田信長に仕え、のち豊臣秀吉につく。小牧・長久手に敗れ、秀吉の怒りを受け、出家して妙心寺に入る。
一益が建てた信長・信忠と武田一族の墓標が大雲院の消滅と共に明治以降玉鳳院に移された。
京にある信長の墓、5ケ所の内の1つ。豊臣秀次に討たれる。
天正10年3月、甲斐に武田勝頼、信勝父子を滅ぼした功により上野一国を領し、関東管領職に任じられ、東国鎮撫に任じ、さらに5月末には三国峠に出兵し越後勢と戦っていた。
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