アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

神社笠置0236 稲荷社  笠置寺内

2020年11月22日 19時43分50秒 | 神社

 

稲荷社 「その法を修するものには自由自在の力を与える」といわれる、茶枳尼(ダキニ)天を祭る。

荼枳尼天は、日本において稲荷の神格と同一であるとされ、稲荷大明神、飯縄大権現などと同等にされる。

笠置山の麓を流れる木津川は、古くより船による水運業が盛んで、笠置にも回船業が多く、鉄道が開通する以前、江戸時代~明治初期まで栄えていた。当社は大正時代に笠置町内の回船業者の発願で、愛知県 妙厳寺(豊川稲荷)より勧請したものである。

神社 前回の記事 ⇒ 神社左0235   大豊神社  (後)

   次回の記事 ⇒ 

 


ポスター0139 第4回 植物園の森と水 油彩展 

2020年11月22日 12時58分20秒 | 掲示ポスター

ポスター 前回の記事 ⇒ ポスター0138 仮面展  朏(みかづき)健之助氏のコレクション

     次回の記事 ⇒ ポスター0140  苔・こけ・コケ 展


時代祭行列 中世婦人列 阿仏尼 「十六夜日記」

2020年11月22日 07時48分13秒 | まち歩き

阿仏尼(あぶつに、阿佛尼, 貞応元年(1222年)? - 弘安6年4月8日(1283年5月6日))は鎌倉時代中期の女流歌人。女房名は安嘉門院四条(あんかもんいんのしじょう)または、右衛門佐(うえもんのすけ)。実父母は不明。奥山度繁(おくやまのりしげ)の養女となる(ただし奥山度繁の養女ではなく実の娘であるとする見解もある)。

桓武平氏大掾氏流の平維茂の長男である平繁貞の子孫である奥山度繁の娘(または養女)。 安嘉門院に仕え、出仕中10代で初恋の失恋の失意から出家を決意し尼となったが、その後も世俗との関わりを持ち続けた。30歳頃藤原為家の側室となり、冷泉為相らを産む。

 為家の没後、播磨国細川荘(現兵庫県三木市)の相続をめぐり、正妻の子二条為氏と争い、1279年(弘安2年)幕府に訴えるため鎌倉へ下った。このときの紀行と鎌倉滞在のことを記したのが『十六夜日記』である。訴訟の結果がわかる前に鎌倉で没したという説と、京都へ帰った後に没したとの説がある。「弘安百首」などに参加し、関東にある10社に勝訴を祈願して奉納した「安嘉門院四条五百首」や「安嘉門院四条百首」などもある。

 

歌論書に『夜の鶴』がある。また若い頃に書いた『うたたね』は失恋の顛末を記した日記である。『続古今和歌集』以下の勅撰和歌集に計48首入集しているものの、阿仏尼の孫である冷泉為秀が参画した『風雅和歌集』や阿仏尼と親しかった京極為兼が選者を務めた『玉葉和歌集』では入集数が多い一方で冷泉家と対立した二条家が選者を務めたとき入集数は極端に少なく、当時の歌壇の政治的対立状況を反映していると考えられる。

関連記事 ⇒ 阿仏尼の墓 寺院南0428 大通寺  

       阿仏屋敷にあった祠 神社東0072  ゑびす神社

       藤原為家の歌 広沢の池の畔に歌碑がありました

時代祭行列 前回の記事 ⇒ 時代祭行列 中世婦人列 淀君

      次回の記事 ⇒ 時代祭行列 中世婦人列  静御前  英雄との出会い悲劇の生涯