南北朝時代、細川氏は足利尊氏に従い北朝・室町幕府方として活躍し、畿内・四国を中心に一門で8か国の守護職を占める有力守護大名となる。細川頼之は管領として3代将軍・足利義満をよく補佐し、以後その嫡流である京兆家は、代々管領に任ぜられ、斯波氏・畠山氏とともに三管領(三管四職)の1つに数えられた。応仁の乱では細川勝元が東軍の総帥となる。戦国時代のはじめ、その子・細川政元は、将軍・足利義材を退けて幕府の実権を掌握し(明応の政変)、政敵も攻め滅ぼして細川氏の全盛期を築いた。
しかし政元には実子がなく、3人も養子を決めたことによって跡目争いを招き暗殺された。政元を暗殺した養子の一人である細川澄之は他の2人の連合軍に滅ぼされ、以後細川氏は残った養子である細川高国と細川澄元の2派に分かれ、それぞれに被官や畿内近国の諸勢力が結びついて20年余りも争った(両細川の乱)。また後年、澄元の実家阿波守護家の守護代三好氏が畿内に進出し、その勢力は主家を凌ぐようになってゆく。
高国は最終的には澄元の嫡男・細川晴元に破れ、晴元の血筋が京兆家家督となる。
しかし、家督を収めた晴元も家臣の三好長慶が率いる一族(三好氏)や松永久秀らの反乱によって細川氏が代々治める摂津・丹波・土佐などの領国から落ち延びることになり、管領職も含めかつての名門の影を徐々に失いながら京兆家は没落していった。
永禄の変で第13代将軍・足利義輝が三好三人衆らによって暗殺された後、美濃を掌握した織田信長が15代将軍・足利義昭を擁立し、畿内から三好氏の勢力を一掃すると、晴元の子細川昭元は信長に属しその妹婿となり丹波国において二郡を所領として与えられた(丹波は細川氏相伝の守護国)。しかし勢力の回復には至らず、管領や右京大夫にも任ぜられなかった。
一方、傍流の和泉上守護家出身の細川藤孝(幽斎)は、足利義昭の側近としてその将軍職就任に尽力した。しかし義昭と信長の対立以降は、長男の忠興(三斎)とともに信長に従い、山城国の長岡を賜り名字も長岡に改めて明智光秀の組下として活躍、丹後一国を領した。本能寺の変では光秀に味方せず、羽柴(豊臣)秀吉に服した。
秀吉の死後、忠興は徳川家康に属し、細川に復姓し関ヶ原の戦いの功により豊前国小倉藩39万9千石を領する。その子・忠利の代に肥後国熊本藩54万石の領主となり、明治維新に至り、明治時代には侯爵となる。子孫の細川護熙は、熊本県知事・内閣総理大臣を務めた。
細川氏は、多くの大名の中でも、鎌倉、室町から江戸、現代まで名門として続いている稀有な家である。
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